MITメディアラボ所長の伊藤穰一さんの著作。
未来のテクノロジーについての著者の考え方が記載されている。
単に自分の意見を述べるだけでなく、諸々の問いを読者に投げかける。
論理が明確で非常にわかりやすい。
○「シンギュラリティ教」の信者にとっては、テクノロジー イズ エブリシング。「科学信奉」に近いものがある。
「科学的に証明されている」というのは、一見すると真っ当に見えるのだが、アカデミック分野においてあまりに強い「仮説」が認められてしまうと、それを信じ込んでしまい、社会で単純に応用してしまうことが往々にしてある。
事例とすると、心理学者のB・F・スキナーの「強化理論」という有名な学説がある。
この強化理論は、いわゆる「アメと鞭」による条件付けで、学習効果が上がることを証明するものだった。
ところが最近では、学習効果を行うためにはクリエイティブシンキングやパッションが重要だという意見が優勢になっている。「アメと鞭」のようにシンプル化したメソッドはダメだとわかってきたのだ。
テクノロジーへの安易な期待は、「アメと鞭」に似た、社会の過剰なシンプル化につながる。
「きっとテクノロジーが全てを解決するはずだ」という発想になりやすく、シリコンバレーの人たちは、自分の目の前にある政治や教育など社会の課題に対して、真剣に向き合う機会が少ないように思える。
○社会の問題に対して、あまり深く考えず「アルゴリズムさえ良くなれば、コンピューターが全部やってくれるだろう」というのは、とても危険な考えではないかと感じる。
なぜなら、こうしたシンギュラリティ信仰に基づく「テクノロイジー・イズ・エブリシング」の考え方が、資本主義的な「スケール・イズ・エブリシング」の考え方につながり、本来は社会を良くするためにある「情報技術の発展」は「規模の拡大」が自己目的化して、様々な場所で軋轢や弊害を生み出しているように思えるからだ。決してアルゴリズムが社会をよくするわけではない。
よく人に「AIに人間の仕事が奪われたら、どうすれば良いでしょうか?」と聞かれるが、それは大きな誤り。人間はお金のためだけに<働く>わけではないから。
こうした勘違いが生まれやすい背景には、人間が<働く>ことを全てお金の価値に還元して、例えばGDPのように、経済の指標として国家の運営に役立てようという発想があるように思う。
○産業革命以降の経済発展には役立ってきたと思うが、情報技術などあらゆるテクノロジーが社会を根本的に変えつつある現在、どこまでそうした指標が重要かについては議論が必要だろう。さもなければ、お金に換算できないボランティアや遊び、家事や子育てといった活動が軽視されやすい社会になってしまう。
○UBI(ユニバーサル・ベーシック・インカム)は一つの考え方だが、<働く>ことの意味を大きく変えるような動きはこれからも加速していくだろう。
そうすれば、お金のような経済的な価値のためだけに<働く>ことに疑問を持つ人はこれからも増えることになる。
つまり、お金のためだけに<働く>のではない、「ミーニング・オブ・ライフ(人生の意味)」が重要になって来るのだ。
○「経済的価値を重視して生きることが幸せである」という従来型の資本主義に対して、「自分の生き方の価値を高めるにはどう働けばいいのか」という新しい<センシビリティ>(Sensibility)を考えるにはとても面白い時期である。
○2013年のキプロス金融危機で、キプロスをタックスヘイブン(租税回避地)として利用したロシアマネーが、大量にビットコインに変換された。さらに同年、人民元に不安を感じた中国人富裕層がビットコインへ一斉に換金を始め、中国政府が金融機関によるビットコインの取り扱いを一切禁止した。
ビットコインは、国家から資産を逃避させる手段として買われたところからスタートしている。その意味において、仮想通貨が「国家」と切っても切り離せない関係であることがよくわかる。
○ ICO 真面目にやろうとしている人達がいる一方、インチキ連中が投資家からお金をだまし取ろうと暗躍しているのも事実。ところが、ICOをめぐる問題について、これまで正面から批判する人はなかなか出てこなかった。
むしろ、シリコンバレーのベンチャーキャピタルだけではなく、ウォール街の金融機関もここぞとばかりにICOの輪に加わっているように見える。「シェイク・ザ・ツリー(お金が落ちるまで木を揺らせ)」がウォール街の美学であり、彼らもICOを焚きつける側に回っている。
シンガポールのあるカンファレンスで、ある金融業界の人が「マーケットには安定性は必要ない。ボラティリティが大切だ」と発言していた。彼らにとってみれば、仮想通貨やICOで発行されるトークンのボラティリティは格好の標的なのかもしれない。
結局、今の所のICOは最後に被害者が出る仕組みの上に成り立っている。
○情報を持つコンピュータが一箇所に集中せず、複数のコンピュータにより共有されるの「P2P」(ピア・トゥー・ピア)であるため、セキュリティを確保することができ、かつ低コストでの運用が可能。また記録のトレーサビリティが確保されており透明性が高く、暗号化による匿名性が担保されるため、所有権を明確にする必要がある「証券」や「通貨」など金融分野での活用が見込まれる新たなテクノロジーである。
ブロックチェーンを使って「デジタル・アセット(電子的な資産)」の管理ができるようになると、貸付や債券に留まっていた資金の流動性が上がり、お金がもっと投資に向かうだろう。ただし、今のところは仮想通貨やICOが最も早くブロックチェーンを活用しており、そこに資金が流れている。
○ブロックチェーンという新たなテクノロジーを考える上で、一番大切なのは、効率化によりコストが安くなるということではなく、インターネットのように「ディストラリゼーション」に向かうこと。
○プロの投資家が投資をして、銀行が企業にお金を貸し付けるといったように、今までの金融の中心は幅を利かせる「仲介業者」のためにあった。しかし、ブロックチェーンの活用により、企業は投資家から直にお金を集められるようになるため、金融や経済がもっとP2Pになっていく可能性がある。
○トークン(コイン)は誰から「発行したい」と考え、購入者がいれば増え続ける。
世の中にたくさんの通貨やトークンがある方が、国の通貨だけが流通するよりも、世界が変わる可能性があると思う。1つに集中させるのではなく、たくさんに分散させた方が「レジリエンス(回復力、しなやかさ)」が高いということと共通。人間の社会は「スケール・イズ・エブリシング」ではない。
自然界を見渡してみてほしい。酸素や糖分を使う生き物もいれば、酸素や糖分を廃棄物として出す植物もある。もし地球上に酸素がなくなれば、酸素を使わない生き物が出てくるだろうし、メタンがなくなれば、それに代わるものが出てくる。自然界では何らかの違う形で補うバックアップ機能が働き、地球は「レジリエンス」を持って対応するのだ。
一方で、お金は持っていないけど、ある特定の価値観やコミュニティを持っている人については、どんな価値をお金に交換して生活していくかを真剣に検討しなければならない。
○ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者のダニエル・カーネマンは、 「お金によって得られる幸せは年収7万5000ドル(日本円で約850万円)程度までである」と述べている。
○第2次世界大戦後の日本やヨーロッパは、とにかく戦争により資源が枯渇しており、食べ物も着るものも不足していた。故に「とにかく経済を立て直して生産性を上げるために突き進む」という、誰にとってもわかりやすい「ミーニング・オブ・ライフ」が国家や社会全体として与えられていた。それに比べれば、今の世界はとても複雑になっている。北朝鮮やイスラム過激派組織ISなど、今世界に横たわる多くの問題が、お金で解決できるものではない。これからの社会で必要とされるのは、お金を稼ぐのが上手な人ではなく、国際関係や環境を安定させることが上手い人たちなのだ。
○人間関係はお金に変えない方が良い。 本来、人と人との間に、見返りを求めない行動が生まれるのが良い人間関係。
「見返りを求めない関係」から1段レベルを落とすと、「いつか返してくれるから投資しよう」というギブ・アンド・テイクの関係になる。もう1段落とすと「してあげたのだから、すぐに返して欲しい」になる。一番低いのが「持っていくだけ持っていく」ただのテイク。
あらゆることが「価値」を持つ世界で、これからは正当にその「価値」を測ることが必要になるのではないか。
○パラリンピックが「障害者」の競技から、「拡張者」の競技に変わった時、必ず起こるだろうことは「拡張することの倫理的な是非」。新しい倫理や美学を探っていくことが必要であり、議論が求められる。バイオテクノロジー、人工知能、ゲノム編集・・人間が拡張する延長線には新しいテクノロジーが全て繋がっていくだろう。
オリンピックにおいてドーピングは何故いけないのか。病気を治す薬と何が違うのか。新しいテクノロジーが次々と登場してくる中で、何をしてよくて、何をしてはいけないのか、ということを決めていくことは非常に難しいはずだ。
○実験ではすでに、最近や古細菌がウィルス感染を防御するために発達させた免疫防御システム「クリスパー(CRISPER)」を使って、ゲノム編集や遺伝子治療をすることが進んでいる。脳をいかに拡張させるかの研究や、さらには脳とコンピュータを直接つなげる研究も始まっている。
新たなテクノロジーの登場により、これからはそうした「何故?」が世の中に溢れることになるだろう。
例えば、遺伝子工学を用いて人間のクローンを100人作っていいのか?クローンとして生まれた人の権利はどうなるのか? 相続税はかかるのか。クローンに対して自分が遺した遺言は有効なのか。
本当に遺伝子編集を用いていいのか?それは誰の責任により行われるのか?自分の身体ならば勝手に拡張して良いものなのか?身体を拡張して良いのならば、自然界や環境も拡張していいのではないか?
このように答えのない「問い」が社会に遍在するようになる。何ができて、誰が行い、どう行ったら良いのか。全てはこれからの課題。考え出せばキリのないほど議論すべき点があるのだ。
○アメリカでは宗教的な背景もあり、「堕胎してはいけない」という意見を持つ人が多くいる。それが妊娠中絶薬での堕胎ならいいのかなどは、国や文化や宗教の違いによっていろんな意見を持つ人がいる。最近の話で言えばLGBT同士の結婚。お互いが持つバックグラウンドやコンテクストを理解しない限りは、議論が先に進むことはない。
○このように考えていくと、新たなテクノロジーが生む数え切れないほどの「問い」に対して、お互いが「そもそも論」を語るべきタイミングが今だと言える。
僕は新たに生まれた「問い」に対して、皆で議論を深めていくような<ムーブメント>の機運を高めたいと常々考えている。
○テクノロジーがあらゆる人間の拡張を可能にする中で、注目を集めるようになったのが「トランスヒューマニズム(Transhumanism)」。これは科学技術を使って人間の身体や認知能力を進化させ、人間を前例のない状態まで向上させようという思想。
トランスヒューマニズムを信じる人たち(トランスヒューマニスト)は、「人間は人間以上の存在になるために科学技術を使用すべきだ」と考える。こうした考え方は「シンギュラリティ」の思想に近いと自分は感じる。
○トランスヒューマニズムの考え方を先に進めていくと、必ず「人間と人間でないものを分ける一線は何か?」という問いが生まれてくることになる。人間とトランスヒューマンがどのように共生するのか、宗教や文化の違いを認め合うことができるのかといったことも課題となりそうである。
僕はトランスヒューマニストではないので、わからないが、自然界や環境との共生はどう考えているのか、人間の身体拡張と自然との調和はありうるのかなど、疑問を抱く部分がある。
人工知能やバイオテクノロジーなどの科学技術により、人間が触媒になってなんでも生み出せるようになるのかもしれない。しかし、そもそも「進化」という視点で見れば、これまでの進化は良いものと悪いものが分かれていない。どのような進化がふさわしいのかは、自然や環境によって決定してきたものだ。トランスヒューマンネスにはこうした進化の文脈が欠けており、シンギュラリティと同様に、やはり極端な部分があるのではないか、というのが率直な感想。
ところが、都市はそうした自然資源から遠い場所に位置している。都市は遠くにある湖の水を引っ張ってくるような乱暴なことをする。
大都市であればあるほど、食料やエネルギーをどのように周辺の地域から持ってくるか、それについてどうやって責任を取るのかを深く考えなければならない。物理的に見て、地球にとってどれくらいマイナスなのかの計算がなくてはならないのだ。
○都市のサスティナビリティを考える上で、僕は「グローバリズム」と「ローカリティ(地域性)」という視点が大切だと考えている。
僕が注目しているのは、「インディジネス・ピープル(先住民)」から自然とどう暮らして行くかを学ぶムーブメントだ。これは「ローカル・リテラシー」と呼ばれることもあるが、彼らの知恵をどのように都市へ還元していくかを考えていく動きだ。
MITメディアラボが参加している自然保護のイベントには、住民だけでなく、その地域とつながっている人たちをきちんとサポートするやり方が妥当だという考え方を基に進めている。インディジネス・ピープルもそうだが、その地元に何らかのつながりがあり、しっかり土地と結びついた人の視点やコンテクストで、都市や環境を考えることが大切だ。
○今までの「国際貢献」は、先進国などお金を出す側が「文化的に遅れている地域」という認識で、「その地域に住む人たちを助ける」という意味合いが強かったように思う。今は、彼らからローカル・リテラシーを学び、彼らが持っている知恵をいただくために活動しているのだ。
彼らインディジネス・ピープルの<センシビリティ>を、つまり「考え方」や「美学」を先進国に移転しながら、これからも積極的にシェアしたいと考えている。
アンスクーラーになる家族には色々な理由があるが、共通するのは大人が子供の教育をしないという点。
子供達自身が興味を持ったことを探求するため、大人が手助けをするのがアンスクーリング。子供達はそのアンスクーラーのコミュニティで暮らすのだ。
○アンスクーリングには「セルフディレクテッド・ラーニング(自発的な学習)」という哲学がある。その哲学のもと、子供何を学びたいかを全て自分で決めて、どのように学ぶかも決める。全て自分で決めるというアイデアだ。
アンスクーラーは決して「答え」を教えない。子供達には高い自主性が求められている。
アンスクーリングでは、何を大人に手伝って欲しいのか、子供達から自分で言わせることが大切と考えている。評価のない自由の中で、子供が自分の行動を通して成長するスタイルだ。
「教育」そのものの枠組みから完全に飛び出して、「生きる」と「学ぶ」の2つが同じものであるという解釈の上で、子供自身に「自分の生きがい」を定義させるのがアンスクーリングなのだ。
○アンスクーリングでは、自分一人で全てを学ぶことが重要なのではない。テストで良い点を取って「コンペティション(競争)」に勝つことは必要ないのだ。
人とテクノロジーのネットワークを使って、どうやって「コラボレーション(共同作業)」しながら知識が得られるかがポイントだ。
アンスクーリングの場では、子供自身が持つ疑問やアイデアについて、「それを解決するには、知識が必要だ」と感じることからスタートする。どうやって解決すればいいのか、チャレンジを求められるのだ。
したがって、アンスクーリングにおいて、最も重視されるのが社会とのつながりだ。家族や同じ学年同士のつながりだけでなく、社会全体にふれあい、学ぶというのがとても大切だ。
○実際には、アメリカでもアンスクーリングは賛否両論だ。保守的な価値観を持つ人の中には、あまりにも子供が自由な様子を見て、強い拒否反応を示す人もいる。
○ほとんどの親が「子供達の今していることは、将来に向けての準備じゃないと意味がない」と考えているようだ。親は子供のどんな「遊び」でも「勉強」に結びつけてしまうのだ。「将来お金がたくさんもらえるように」「将来好きなことができるように」と、「いま」ではなく「未来」を生きることが求められるのだ。
しかし、アンスクーリングは全く逆だ。アンスクーリングは、子供が経済を支える人間になるよりも、自分の中に幸せを見つける、ということが基本的なアイデアだ。自分の人生における「生きがい」を考えることが、本来のアンスクーリングの哲学に近いと思う。
○「フューチャリスト(未来志向者)ではなくナウイスト(現在志向者)になろう」。
イノベーションは、今身の回りで起きていることに心を開き注意を払うことから始まるのだから、フューチャリストであってはいけない。今の出来事に集中するナウイストになるべきなのだ。
ところが、一度普通のサラリーマンに目を移すと、途端に「こだわり」が薄れる。日本は経済的にも豊かな国であるはずなのに、普通の会社員になると、「こだわり」を感じることができなくなる。 社会のある一部のカテゴリーお人はこだわりを持って生活をしているが、普通の人が生活の中で「イノベーションをしよう」「変えていこう」と意欲を持たないのは残念である。
○教育システムを変えるのではなく、価値観からかえるべき。生活の中で皆が強い「こだわり」を持つことが一番大切だと考えている。
教育も社会も硬直化したシステムで運営されているため、そう簡単には壊れない。今必要なのは生活への強い「こだわり」だ。
○<センシビリティ>が必要だと訴えたが、これは日本語では「肌感覚」とい言葉に近いものだ。AIやロボットが登場するポスト資本主義の時代には、日常の生活から得る「肌感覚」がとても大事になってくる。
○日本人と会食をしていると、雑談の9割が組織内の話だ。日本は全体的なシステムとして見ても、内部のプロセスに時間がかかりすぎ。ある日本の大企業の知り合いは、スケジュールは全て定例会で埋まっており、他のスケジュールは全く入れられないそうだ。色々なプロセスにエネルギーを吸い取られてしまう虚しさは筆舌に尽きない。日本の中でしか意味のないことにエネルギーの大半を使っている。
日本人は、イノベーションよりもプロセスを大事にしている。日本人が心のレジリエンスを持っていることはよくわかるが、社会のシステムにはレジリエンスやフレキシビリティがあまりないような気がしている。
○どうやって社会のシステムを変えれば良いのか。僕らは「文化」や「ムーブメント」だと考えているが、日本人が何かの行動を起こすきっかけとして大事なのは「空気」だとい人がいた。
だとしたら、コミュニティはどういう「空気」で動いているのか、どうやったら「空気」を変えることができるのか、とても面白いテーマだ。
○ムーブメントは「波」が大切。「波」は人と人が意見をぶつけたり、つながったり、メッセージを出していくことで変わっていくものだ。色々な「波」が集まって、初めて「ムーブメント」が生まれる。
○ムーブメントを起こすための候補を考えるのに、僕は「時間軸」を問うようにしている。 例えば、ネイティブ・アメリカンは7世代単位で物事を考えるそうだ。江戸っ子になるには3代必要らしい。文化やムーブメントを考えるということはそれくらいの時間軸で考えるものだ。
○東京大学の暦本純一先生は、人間拡張の話をする際に『サイボーグ009』の例を出していた。そもそも日本人は身体を拡張するのが好きなのではないかと思う。そもそもテクノロジーを楽しんでしまうところがあるのが日本人なのだ。
一方で、アメリカは身体を拡張するというよりも、不滅の肉体を持ちたい、という方向に向いているのではないかと感じる。
日本がファンタジー寄りならば、アメリカやシリコンバレーはシリアス寄りだ。
単に自分が神様になりたがっているのかもしれない。真面目に身体拡張を追求しているように見える。
○身体拡張から、さらにロボットにおける日米比較のとても面白いものがある。
ある日本人に言わせると、日本に八百万の神が存在するように、日本人はもともとロボットというテクノロジーに対する違和感がない。あちこちに神がいる世界に生きていることが前提である。
一方で、キリスト教は唯一神であり、神が万物の創造主という教えだから、人間が作った「生き物」であるロボットは、本来相入れないもの。いわば人間が神様になってはいけないという思想だ。
○日本人はロボットと友達になることはあっても、ロボットの奴隷になるストーリーをあまりイメージしない。
西洋の歴史は、奴隷の存在なしでは語れない部分がある。人種差別はそもそも奴隷から派生している問題とも言える。
ある意味で、白人は奴隷となったロボットたちが「革命」を起こすのではないかという恐怖をどこかで持っているのかもしれない。
○「シンギュラリティ」の話ともつながってくるが、コンピュータが人間をはるかに超えて無限に賢くなったとき、人間がロボットやAIの奴隷にされる可能性もある。
万能のAIを搭載したロボットができたとき、人間が果たして必要なのか。
キリスト教のアメリカ人からすれば、それはつまり新たな神様が誕生することに近い。
ポスト西洋的な流れではあるが、万能のAIロボットを「最後の審判」だとして不幸になると思っている人と、それを歓迎して「世界が天国になる」と思っている人と、両方の意見がある。
日本には「人対神」という視点もないし、「誰がAIやロボットを支配するのか?」という倫理が欠けている。
日本がこうしたテクノロジーの流れに対して、どのように関わっていくことができるのかが、今問われている。
さすが、世界の知能という観点も多い。
「21世紀は”人間の再定義の時代”である」と言ったアルビン・トフラー氏の予言がいよいよ喫緊の課題になり始めている。
世界の賢者には「すでに資本主義は次に向かうべき考え方である」という考え方を持つ人が多いが、その「次」を中々明確に示せていない。
「多様化」「脱中央集権化」というイメージしづらいものをいかにイメージさせて確立するのか、それが”ムーブメント”だとすると、そのムーブメントをどのように作り上げていくのか。
世界の智者にとっても難題だということだ。
著者の
「シンギュラリティが起こって人工知能が万能になっても、我々が現在抱える問題を解決するのは難しい。」
というのは重たい言葉だ。
未来のテクノロジーについての著者の考え方が記載されている。
単に自分の意見を述べるだけでなく、諸々の問いを読者に投げかける。
論理が明確で非常にわかりやすい。
<シンギュラリティについて>
○Singularity(技術的特異点)とは、未来学者レイ・カールワイツが提唱した概念。シリコンバレーの独特な考え方。○「シンギュラリティ教」の信者にとっては、テクノロジー イズ エブリシング。「科学信奉」に近いものがある。
「科学的に証明されている」というのは、一見すると真っ当に見えるのだが、アカデミック分野においてあまりに強い「仮説」が認められてしまうと、それを信じ込んでしまい、社会で単純に応用してしまうことが往々にしてある。
事例とすると、心理学者のB・F・スキナーの「強化理論」という有名な学説がある。
この強化理論は、いわゆる「アメと鞭」による条件付けで、学習効果が上がることを証明するものだった。
ところが最近では、学習効果を行うためにはクリエイティブシンキングやパッションが重要だという意見が優勢になっている。「アメと鞭」のようにシンプル化したメソッドはダメだとわかってきたのだ。
テクノロジーへの安易な期待は、「アメと鞭」に似た、社会の過剰なシンプル化につながる。
「きっとテクノロジーが全てを解決するはずだ」という発想になりやすく、シリコンバレーの人たちは、自分の目の前にある政治や教育など社会の課題に対して、真剣に向き合う機会が少ないように思える。
○社会の問題に対して、あまり深く考えず「アルゴリズムさえ良くなれば、コンピューターが全部やってくれるだろう」というのは、とても危険な考えではないかと感じる。
なぜなら、こうしたシンギュラリティ信仰に基づく「テクノロイジー・イズ・エブリシング」の考え方が、資本主義的な「スケール・イズ・エブリシング」の考え方につながり、本来は社会を良くするためにある「情報技術の発展」は「規模の拡大」が自己目的化して、様々な場所で軋轢や弊害を生み出しているように思えるからだ。決してアルゴリズムが社会をよくするわけではない。
<”働く”ことの意味について>
○AIが人間の仕事を奪ったとしても、人間が<働く>ことがなくなるわけではない。よく人に「AIに人間の仕事が奪われたら、どうすれば良いでしょうか?」と聞かれるが、それは大きな誤り。人間はお金のためだけに<働く>わけではないから。
こうした勘違いが生まれやすい背景には、人間が<働く>ことを全てお金の価値に還元して、例えばGDPのように、経済の指標として国家の運営に役立てようという発想があるように思う。
○産業革命以降の経済発展には役立ってきたと思うが、情報技術などあらゆるテクノロジーが社会を根本的に変えつつある現在、どこまでそうした指標が重要かについては議論が必要だろう。さもなければ、お金に換算できないボランティアや遊び、家事や子育てといった活動が軽視されやすい社会になってしまう。
○UBI(ユニバーサル・ベーシック・インカム)は一つの考え方だが、<働く>ことの意味を大きく変えるような動きはこれからも加速していくだろう。
そうすれば、お金のような経済的な価値のためだけに<働く>ことに疑問を持つ人はこれからも増えることになる。
つまり、お金のためだけに<働く>のではない、「ミーニング・オブ・ライフ(人生の意味)」が重要になって来るのだ。
○「経済的価値を重視して生きることが幸せである」という従来型の資本主義に対して、「自分の生き方の価値を高めるにはどう働けばいいのか」という新しい<センシビリティ>(Sensibility)を考えるにはとても面白い時期である。
<仮想通貨について>
○2000年代の仮想通貨は「新しいサイバーな国には、新しい通貨が必要だ」という「理念」ありきだったのが、 今回の仮想通貨ブームは「利益」ありきの投機的な動きとなっている。○2013年のキプロス金融危機で、キプロスをタックスヘイブン(租税回避地)として利用したロシアマネーが、大量にビットコインに変換された。さらに同年、人民元に不安を感じた中国人富裕層がビットコインへ一斉に換金を始め、中国政府が金融機関によるビットコインの取り扱いを一切禁止した。
ビットコインは、国家から資産を逃避させる手段として買われたところからスタートしている。その意味において、仮想通貨が「国家」と切っても切り離せない関係であることがよくわかる。
○ ICO 真面目にやろうとしている人達がいる一方、インチキ連中が投資家からお金をだまし取ろうと暗躍しているのも事実。ところが、ICOをめぐる問題について、これまで正面から批判する人はなかなか出てこなかった。
むしろ、シリコンバレーのベンチャーキャピタルだけではなく、ウォール街の金融機関もここぞとばかりにICOの輪に加わっているように見える。「シェイク・ザ・ツリー(お金が落ちるまで木を揺らせ)」がウォール街の美学であり、彼らもICOを焚きつける側に回っている。
シンガポールのあるカンファレンスで、ある金融業界の人が「マーケットには安定性は必要ない。ボラティリティが大切だ」と発言していた。彼らにとってみれば、仮想通貨やICOで発行されるトークンのボラティリティは格好の標的なのかもしれない。
結局、今の所のICOは最後に被害者が出る仕組みの上に成り立っている。
<ブロックチェーンについて>
○ブロックチェーンは仮想通貨の取引データを暗号化して、1つのブロックとして記録、管理する技術。取引データがネットワークに参加するコンピューター上で分散的に管理されるため、インターネットの性質に似ている。日本語では「分散化」と表現されているが、英語では”decentoralization”であり、語義からすると「非中央集権化」「脱中心」といった意味になる。○情報を持つコンピュータが一箇所に集中せず、複数のコンピュータにより共有されるの「P2P」(ピア・トゥー・ピア)であるため、セキュリティを確保することができ、かつ低コストでの運用が可能。また記録のトレーサビリティが確保されており透明性が高く、暗号化による匿名性が担保されるため、所有権を明確にする必要がある「証券」や「通貨」など金融分野での活用が見込まれる新たなテクノロジーである。
ブロックチェーンを使って「デジタル・アセット(電子的な資産)」の管理ができるようになると、貸付や債券に留まっていた資金の流動性が上がり、お金がもっと投資に向かうだろう。ただし、今のところは仮想通貨やICOが最も早くブロックチェーンを活用しており、そこに資金が流れている。
○ブロックチェーンという新たなテクノロジーを考える上で、一番大切なのは、効率化によりコストが安くなるということではなく、インターネットのように「ディストラリゼーション」に向かうこと。
○プロの投資家が投資をして、銀行が企業にお金を貸し付けるといったように、今までの金融の中心は幅を利かせる「仲介業者」のためにあった。しかし、ブロックチェーンの活用により、企業は投資家から直にお金を集められるようになるため、金融や経済がもっとP2Pになっていく可能性がある。
○トークン(コイン)は誰から「発行したい」と考え、購入者がいれば増え続ける。
世の中にたくさんの通貨やトークンがある方が、国の通貨だけが流通するよりも、世界が変わる可能性があると思う。1つに集中させるのではなく、たくさんに分散させた方が「レジリエンス(回復力、しなやかさ)」が高いということと共通。人間の社会は「スケール・イズ・エブリシング」ではない。
自然界を見渡してみてほしい。酸素や糖分を使う生き物もいれば、酸素や糖分を廃棄物として出す植物もある。もし地球上に酸素がなくなれば、酸素を使わない生き物が出てくるだろうし、メタンがなくなれば、それに代わるものが出てくる。自然界では何らかの違う形で補うバックアップ機能が働き、地球は「レジリエンス」を持って対応するのだ。
<meaning of life>
○すでにお金を持っている人たちについては、お金では買うことができない「ミーニング・オブ・ライフ(人生の意味)」を今以上に考える必要が出てきた。一方で、お金は持っていないけど、ある特定の価値観やコミュニティを持っている人については、どんな価値をお金に交換して生活していくかを真剣に検討しなければならない。
○ノーベル経済学賞を受賞した行動経済学者のダニエル・カーネマンは、 「お金によって得られる幸せは年収7万5000ドル(日本円で約850万円)程度までである」と述べている。
○第2次世界大戦後の日本やヨーロッパは、とにかく戦争により資源が枯渇しており、食べ物も着るものも不足していた。故に「とにかく経済を立て直して生産性を上げるために突き進む」という、誰にとってもわかりやすい「ミーニング・オブ・ライフ」が国家や社会全体として与えられていた。それに比べれば、今の世界はとても複雑になっている。北朝鮮やイスラム過激派組織ISなど、今世界に横たわる多くの問題が、お金で解決できるものではない。これからの社会で必要とされるのは、お金を稼ぐのが上手な人ではなく、国際関係や環境を安定させることが上手い人たちなのだ。
○人間関係はお金に変えない方が良い。 本来、人と人との間に、見返りを求めない行動が生まれるのが良い人間関係。
「見返りを求めない関係」から1段レベルを落とすと、「いつか返してくれるから投資しよう」というギブ・アンド・テイクの関係になる。もう1段落とすと「してあげたのだから、すぐに返して欲しい」になる。一番低いのが「持っていくだけ持っていく」ただのテイク。
あらゆることが「価値」を持つ世界で、これからは正当にその「価値」を測ることが必要になるのではないか。
<「そもそも人間とは何か?」>
○最近になり我々は「そもそも人間とは何か?」という疑問を突きつけられている。新たなテクノロジーの登場により、今まではSFでしかなかったことがだんだんと現実味を帯びてきて、今までになかった概念が生まれた。 テクノロジーによる「人間拡張(Human Augmentation)」であり、また「人間と機械の拡張」だ。○パラリンピックが「障害者」の競技から、「拡張者」の競技に変わった時、必ず起こるだろうことは「拡張することの倫理的な是非」。新しい倫理や美学を探っていくことが必要であり、議論が求められる。バイオテクノロジー、人工知能、ゲノム編集・・人間が拡張する延長線には新しいテクノロジーが全て繋がっていくだろう。
オリンピックにおいてドーピングは何故いけないのか。病気を治す薬と何が違うのか。新しいテクノロジーが次々と登場してくる中で、何をしてよくて、何をしてはいけないのか、ということを決めていくことは非常に難しいはずだ。
○実験ではすでに、最近や古細菌がウィルス感染を防御するために発達させた免疫防御システム「クリスパー(CRISPER)」を使って、ゲノム編集や遺伝子治療をすることが進んでいる。脳をいかに拡張させるかの研究や、さらには脳とコンピュータを直接つなげる研究も始まっている。
新たなテクノロジーの登場により、これからはそうした「何故?」が世の中に溢れることになるだろう。
例えば、遺伝子工学を用いて人間のクローンを100人作っていいのか?クローンとして生まれた人の権利はどうなるのか? 相続税はかかるのか。クローンに対して自分が遺した遺言は有効なのか。
本当に遺伝子編集を用いていいのか?それは誰の責任により行われるのか?自分の身体ならば勝手に拡張して良いものなのか?身体を拡張して良いのならば、自然界や環境も拡張していいのではないか?
このように答えのない「問い」が社会に遍在するようになる。何ができて、誰が行い、どう行ったら良いのか。全てはこれからの課題。考え出せばキリのないほど議論すべき点があるのだ。
○アメリカでは宗教的な背景もあり、「堕胎してはいけない」という意見を持つ人が多くいる。それが妊娠中絶薬での堕胎ならいいのかなどは、国や文化や宗教の違いによっていろんな意見を持つ人がいる。最近の話で言えばLGBT同士の結婚。お互いが持つバックグラウンドやコンテクストを理解しない限りは、議論が先に進むことはない。
○このように考えていくと、新たなテクノロジーが生む数え切れないほどの「問い」に対して、お互いが「そもそも論」を語るべきタイミングが今だと言える。
僕は新たに生まれた「問い」に対して、皆で議論を深めていくような<ムーブメント>の機運を高めたいと常々考えている。
○テクノロジーがあらゆる人間の拡張を可能にする中で、注目を集めるようになったのが「トランスヒューマニズム(Transhumanism)」。これは科学技術を使って人間の身体や認知能力を進化させ、人間を前例のない状態まで向上させようという思想。
トランスヒューマニズムを信じる人たち(トランスヒューマニスト)は、「人間は人間以上の存在になるために科学技術を使用すべきだ」と考える。こうした考え方は「シンギュラリティ」の思想に近いと自分は感じる。
○トランスヒューマニズムの考え方を先に進めていくと、必ず「人間と人間でないものを分ける一線は何か?」という問いが生まれてくることになる。人間とトランスヒューマンがどのように共生するのか、宗教や文化の違いを認め合うことができるのかといったことも課題となりそうである。
僕はトランスヒューマニストではないので、わからないが、自然界や環境との共生はどう考えているのか、人間の身体拡張と自然との調和はありうるのかなど、疑問を抱く部分がある。
人工知能やバイオテクノロジーなどの科学技術により、人間が触媒になってなんでも生み出せるようになるのかもしれない。しかし、そもそも「進化」という視点で見れば、これまでの進化は良いものと悪いものが分かれていない。どのような進化がふさわしいのかは、自然や環境によって決定してきたものだ。トランスヒューマンネスにはこうした進化の文脈が欠けており、シンギュラリティと同様に、やはり極端な部分があるのではないか、というのが率直な感想。
<都市のサスティナビリティ>
○都市のサスティナビリティはとても難しい問題。本来ならば、水資源はその土地の近くに住む人たちのものだから、彼らが有効活用するのが大切なはず。ところが、都市はそうした自然資源から遠い場所に位置している。都市は遠くにある湖の水を引っ張ってくるような乱暴なことをする。
大都市であればあるほど、食料やエネルギーをどのように周辺の地域から持ってくるか、それについてどうやって責任を取るのかを深く考えなければならない。物理的に見て、地球にとってどれくらいマイナスなのかの計算がなくてはならないのだ。
○都市のサスティナビリティを考える上で、僕は「グローバリズム」と「ローカリティ(地域性)」という視点が大切だと考えている。
僕が注目しているのは、「インディジネス・ピープル(先住民)」から自然とどう暮らして行くかを学ぶムーブメントだ。これは「ローカル・リテラシー」と呼ばれることもあるが、彼らの知恵をどのように都市へ還元していくかを考えていく動きだ。
MITメディアラボが参加している自然保護のイベントには、住民だけでなく、その地域とつながっている人たちをきちんとサポートするやり方が妥当だという考え方を基に進めている。インディジネス・ピープルもそうだが、その地元に何らかのつながりがあり、しっかり土地と結びついた人の視点やコンテクストで、都市や環境を考えることが大切だ。
○今までの「国際貢献」は、先進国などお金を出す側が「文化的に遅れている地域」という認識で、「その地域に住む人たちを助ける」という意味合いが強かったように思う。今は、彼らからローカル・リテラシーを学び、彼らが持っている知恵をいただくために活動しているのだ。
彼らインディジネス・ピープルの<センシビリティ>を、つまり「考え方」や「美学」を先進国に移転しながら、これからも積極的にシェアしたいと考えている。
<アンスクーリング>
○学校教育に頼らず、学校そのものが一切存在しないかのように子供を育てるのが「アンスクーラー(Unschooler)」と呼ばれるコミュニティだ。アンスクーラーになる家族には色々な理由があるが、共通するのは大人が子供の教育をしないという点。
子供達自身が興味を持ったことを探求するため、大人が手助けをするのがアンスクーリング。子供達はそのアンスクーラーのコミュニティで暮らすのだ。
○アンスクーリングには「セルフディレクテッド・ラーニング(自発的な学習)」という哲学がある。その哲学のもと、子供何を学びたいかを全て自分で決めて、どのように学ぶかも決める。全て自分で決めるというアイデアだ。
アンスクーラーは決して「答え」を教えない。子供達には高い自主性が求められている。
アンスクーリングでは、何を大人に手伝って欲しいのか、子供達から自分で言わせることが大切と考えている。評価のない自由の中で、子供が自分の行動を通して成長するスタイルだ。
「教育」そのものの枠組みから完全に飛び出して、「生きる」と「学ぶ」の2つが同じものであるという解釈の上で、子供自身に「自分の生きがい」を定義させるのがアンスクーリングなのだ。
○アンスクーリングでは、自分一人で全てを学ぶことが重要なのではない。テストで良い点を取って「コンペティション(競争)」に勝つことは必要ないのだ。
人とテクノロジーのネットワークを使って、どうやって「コラボレーション(共同作業)」しながら知識が得られるかがポイントだ。
アンスクーリングの場では、子供自身が持つ疑問やアイデアについて、「それを解決するには、知識が必要だ」と感じることからスタートする。どうやって解決すればいいのか、チャレンジを求められるのだ。
したがって、アンスクーリングにおいて、最も重視されるのが社会とのつながりだ。家族や同じ学年同士のつながりだけでなく、社会全体にふれあい、学ぶというのがとても大切だ。
○実際には、アメリカでもアンスクーリングは賛否両論だ。保守的な価値観を持つ人の中には、あまりにも子供が自由な様子を見て、強い拒否反応を示す人もいる。
○ほとんどの親が「子供達の今していることは、将来に向けての準備じゃないと意味がない」と考えているようだ。親は子供のどんな「遊び」でも「勉強」に結びつけてしまうのだ。「将来お金がたくさんもらえるように」「将来好きなことができるように」と、「いま」ではなく「未来」を生きることが求められるのだ。
しかし、アンスクーリングは全く逆だ。アンスクーリングは、子供が経済を支える人間になるよりも、自分の中に幸せを見つける、ということが基本的なアイデアだ。自分の人生における「生きがい」を考えることが、本来のアンスクーリングの哲学に近いと思う。
○「フューチャリスト(未来志向者)ではなくナウイスト(現在志向者)になろう」。
イノベーションは、今身の回りで起きていることに心を開き注意を払うことから始まるのだから、フューチャリストであってはいけない。今の出来事に集中するナウイストになるべきなのだ。
<日本人について>
○京都の旅館の女将や星付きレストランの料理人のように、日本にはどこか非経済的な「こだわり」を持っている国民性があり、そうした文化を伝統的に持ってきた国だと思う。ところが、一度普通のサラリーマンに目を移すと、途端に「こだわり」が薄れる。日本は経済的にも豊かな国であるはずなのに、普通の会社員になると、「こだわり」を感じることができなくなる。 社会のある一部のカテゴリーお人はこだわりを持って生活をしているが、普通の人が生活の中で「イノベーションをしよう」「変えていこう」と意欲を持たないのは残念である。
○教育システムを変えるのではなく、価値観からかえるべき。生活の中で皆が強い「こだわり」を持つことが一番大切だと考えている。
教育も社会も硬直化したシステムで運営されているため、そう簡単には壊れない。今必要なのは生活への強い「こだわり」だ。
○<センシビリティ>が必要だと訴えたが、これは日本語では「肌感覚」とい言葉に近いものだ。AIやロボットが登場するポスト資本主義の時代には、日常の生活から得る「肌感覚」がとても大事になってくる。
○日本人と会食をしていると、雑談の9割が組織内の話だ。日本は全体的なシステムとして見ても、内部のプロセスに時間がかかりすぎ。ある日本の大企業の知り合いは、スケジュールは全て定例会で埋まっており、他のスケジュールは全く入れられないそうだ。色々なプロセスにエネルギーを吸い取られてしまう虚しさは筆舌に尽きない。日本の中でしか意味のないことにエネルギーの大半を使っている。
日本人は、イノベーションよりもプロセスを大事にしている。日本人が心のレジリエンスを持っていることはよくわかるが、社会のシステムにはレジリエンスやフレキシビリティがあまりないような気がしている。
○どうやって社会のシステムを変えれば良いのか。僕らは「文化」や「ムーブメント」だと考えているが、日本人が何かの行動を起こすきっかけとして大事なのは「空気」だとい人がいた。
だとしたら、コミュニティはどういう「空気」で動いているのか、どうやったら「空気」を変えることができるのか、とても面白いテーマだ。
○ムーブメントは「波」が大切。「波」は人と人が意見をぶつけたり、つながったり、メッセージを出していくことで変わっていくものだ。色々な「波」が集まって、初めて「ムーブメント」が生まれる。
○ムーブメントを起こすための候補を考えるのに、僕は「時間軸」を問うようにしている。 例えば、ネイティブ・アメリカンは7世代単位で物事を考えるそうだ。江戸っ子になるには3代必要らしい。文化やムーブメントを考えるということはそれくらいの時間軸で考えるものだ。
○東京大学の暦本純一先生は、人間拡張の話をする際に『サイボーグ009』の例を出していた。そもそも日本人は身体を拡張するのが好きなのではないかと思う。そもそもテクノロジーを楽しんでしまうところがあるのが日本人なのだ。
一方で、アメリカは身体を拡張するというよりも、不滅の肉体を持ちたい、という方向に向いているのではないかと感じる。
日本がファンタジー寄りならば、アメリカやシリコンバレーはシリアス寄りだ。
単に自分が神様になりたがっているのかもしれない。真面目に身体拡張を追求しているように見える。
○身体拡張から、さらにロボットにおける日米比較のとても面白いものがある。
ある日本人に言わせると、日本に八百万の神が存在するように、日本人はもともとロボットというテクノロジーに対する違和感がない。あちこちに神がいる世界に生きていることが前提である。
一方で、キリスト教は唯一神であり、神が万物の創造主という教えだから、人間が作った「生き物」であるロボットは、本来相入れないもの。いわば人間が神様になってはいけないという思想だ。
○日本人はロボットと友達になることはあっても、ロボットの奴隷になるストーリーをあまりイメージしない。
西洋の歴史は、奴隷の存在なしでは語れない部分がある。人種差別はそもそも奴隷から派生している問題とも言える。
ある意味で、白人は奴隷となったロボットたちが「革命」を起こすのではないかという恐怖をどこかで持っているのかもしれない。
○「シンギュラリティ」の話ともつながってくるが、コンピュータが人間をはるかに超えて無限に賢くなったとき、人間がロボットやAIの奴隷にされる可能性もある。
万能のAIを搭載したロボットができたとき、人間が果たして必要なのか。
キリスト教のアメリカ人からすれば、それはつまり新たな神様が誕生することに近い。
ポスト西洋的な流れではあるが、万能のAIロボットを「最後の審判」だとして不幸になると思っている人と、それを歓迎して「世界が天国になる」と思っている人と、両方の意見がある。
日本には「人対神」という視点もないし、「誰がAIやロボットを支配するのか?」という倫理が欠けている。
日本がこうしたテクノロジーの流れに対して、どのように関わっていくことができるのかが、今問われている。
さすが、世界の知能という観点も多い。
「21世紀は”人間の再定義の時代”である」と言ったアルビン・トフラー氏の予言がいよいよ喫緊の課題になり始めている。
世界の賢者には「すでに資本主義は次に向かうべき考え方である」という考え方を持つ人が多いが、その「次」を中々明確に示せていない。
「多様化」「脱中央集権化」というイメージしづらいものをいかにイメージさせて確立するのか、それが”ムーブメント”だとすると、そのムーブメントをどのように作り上げていくのか。
世界の智者にとっても難題だということだ。
著者の
「シンギュラリティが起こって人工知能が万能になっても、我々が現在抱える問題を解決するのは難しい。」
というのは重たい言葉だ。