2013年2月24日日曜日

『とにかくすぐに「稼げて・動けて・考えられる」社員のつくり方』

リクルートに長年勤めて独立した小倉広氏の著作。

儲かる仕組み×稼げる社員をつくる6つの仕掛け⇒稼げる社員
ということで、この本においては「稼げる社員をつくる6つの仕掛け」について記載されている。

①稼げる社員が「やり切る」仕掛け
②稼げる社員の「役割」の仕掛け
③稼げる社員の「処遇」の仕掛け
④稼げる社員を「育てる」仕掛け
⑤稼げる社員の「やる気」の仕掛け
⑥稼げる社員の「採用と解雇」の仕掛け


ちゃんと6つの仕掛けについて順番に述べられているのだが、「なるほど!」と思った点をバラバラに記載してみる。

「分身」が育ち「組織文化」ができるまで、人を増やすのはひたすら我慢する。それが大切。
「役割分担」は仕事の要。実力のない選手にシュートを打たせてはいけない。
管理職が圧倒的に不足するので、ついつい専任職を管理職としてしまうが、それは管理職を兼務で対応すればよい。
「稼げる社員」がたくさんいる会社は、いつでも機動的に適材適所を実現できるよう、頻繁な人事異動、転勤、職種変更を組織文化として根付かせている。最適な適材適所を実現し、稼げる会社と「稼げる社員」を作り出す。そこにタブーがあってはいけない。パンドラの箱はあけるべし。流れる水は腐らない。淀んだ水は必ず腐る。
人材育成で有効なのは、「一に人事異動、二に採用、三に研修」
評価で大切なのは正確性より納得性。納得性をあげるには最初が肝心。
PDCA。上司はDoは御法度。PCAを回すべし。名プレー集を100回見てもうまくならない。自分の足でボールを蹴り、試合を通じて厳しいプレッシャーを体験しないことには、絶対にうまくならない。Doは部下一人でやらせる。その分、部下との面談でPDCに時間を割く。
教育研修が効果が3日間と言われるのは、習慣化を受講生の意思と努力に委ねてしまうから。だから続かない。「習慣化」に焦点をあててマネジメントをする。
「仕事の報酬は仕事だ。それがいちばん嬉しい」by 井深大
組織とはワガママを力に変える装置。
「見える化」=「全自動厳しい装置」
「採用とは営業活動である」。「評価」をせずに「口説く」。そのためには採用担当は自社のトップ営業マンを充てるくらいの覚悟が必要。決して営業が苦手な事務屋に採用をやらせてはいけない。「採用担当者レベル以上の人材は採用できない」


結構、目から鱗だけどその通りだと思うことが満載。
その中でも二つ、特に感銘を受けた点を以下に記載する。


「ベーコンエッグをつくるには、ニワトリは参加(卵を提供)すればいいが、豚は献身(自らの体を提供)しなければならない」
上司は往々にして「献身」をせずに、「参加」してしまう。誰からも攻撃されない安全地帯に身を置きながら、部下の問題点を指摘するだけの評論家になりがち。
では、投げ出すべき大切なものとは何か。それは上司にとって最も大切な自分の時間であったり、価値観であったり、プライドのようなものかもしれない。
上司はそれらを投げ出した時に初めて参加ではなく献身したことになる。そして、その時初めて評価制度を通じて部下が育ち始める。



ハイアリング(雇用)よりファイアリング(解雇)?
「腐ったみかん」は伝染する。大企業よりも、中小企業もしくはベンチャー企業において語られることが多い。
しかし、無理にかさぶたをはがす=問題社員を解雇する、ことは、組織を多いに傷つける。
かさぶたは放っておくとポロリととれる
かさぶたを無理に剥がす前に、新しい皮膚が成長して盛り上がっているから。かさぶたを剥がすより先に次の皮膚が育ってれば、かさぶたはポロリと自分から落ちていく。
新しい皮膚=若手社員が成長しさえすれば、問題社員は自分から会社を辞めていく。
だからこそ、経営者、リーダーは、かさぶた=問題社員に集中するのではなく、むしろ次世代の若手社員を育てることに集中すべき。そして彼らを組織の主流派にしていくことに集中すべき。




創刊男の異名をとった倉田学氏もそうだったが、リクルートというのは本当に人材輩出会社だと思う。
この本も、実践経験に裏打ちされた非常に良書だった。
でもタイトルにある「とにかくすぐに」は若干誇大広告で、人材育成はやっぱり腰を据えて企業が時間をかけて行わなければならないこと。
「稼げる社員をつくる仕掛け」については理論を学んだので、後は「儲かる仕組み」をイノベーションすればいいのだが、こちらはこちらで相当大変。
まだまだ試行錯誤は必要なようだ。



2013年2月17日日曜日

『もう終わっている会社』

ベンチャー・キャピタリスト古我知史氏の著作。
最近の本のタイトルはキャッチーである必要性からか、必ずしも内容と合致していないことも多い。
この本も、「終わっている会社」について述べている訳ではなく、それをどう変えていくべきかについてが主題として書かれている。

結論から書くと
「選択と集中の戦略」「中期経営計画の信奉」「顧客至上主義」
の3つをやめよう、というのが著者の提言。

過激な提言で「え〜ッ」という感じだが、読み解いていくと、いずれも「偏重せずにポイントを見誤らないように」ということであるのが分かる。
そして、全篇会社の将来を担う新規事業の芽をつぶさないためにどうすべきか、という視点が貫かれている。


金融資本主義という強欲思想を基礎的に支える三つの原理
1.IT革命による標準経営(ITを使ってどこの会社も同じような効率的な事業運営をしようということ)
2.規制撤廃による市場原理主義(市場に会社の行動の良し悪しや会社の価値を自由に決めてもらおうということ)
3.ファイナンス偏重の利益最大化主義(会社や事業の定量的な評価を、たたき出す利益の額や伸長率で測り、その額や伸び率がさらに高くなるように事業だけではなく財務技術も総動員して必死で生み出そうということ)


いずれも今や経営常識となっている内容なのだが、そもそも振り返ればアングロサクソン的な経営常識という知的財産そのものが、欧米のアングロサクソン諸国の資本主義の構造に組み込むべく黙々と組み立てられた、会社経営という名の大量生産型の単一規格製品だったと著者は喝破する。


<選択と集中の戦略からの脱却について>
今は本業回帰という戦略が真っ盛りだが、著者の言う「選択と集中をやめよう」というのは、選択と集中は将来のコア事業になりうる可能性のあるものに集中して注力すべき、ということであって、一切合切選択&集中をやめよということではない。
著者が主張は、
これまでの日本企業の成長への挑戦の失敗は、とどのつまり、選択と集中という戦略的呪文のもとで、大いなる潜在的価値のある無駄(らしきいかがわしいもの)を、全て切り捨ててしまったからではないか。
だいたい、現在のコア事業が未来永劫コア事業であり続けることが、本当に企業の成長を約束するという考え自体が大いなるバクチではないか、ということ。


<中期経営計画からの脱却について>
中計を作り始めると、そのための”人材”が必要となる。
参謀もどき人材、参謀らしき人材は、表面的にはお利口さんであるが、この人材が存在すること、しかもやたら多く存在した日には会社存亡の危機となる。典型的な弊害とは、悪しき官僚主義に陥ることだ
悪しき官僚主義の兆候は、官僚主義の三種の神器が見いだされる時に始まる。
三種の神器とは、予算、手続き、縄張りである。

参謀は一人でも充分。出来れば経営トップ自身が自身に参謀の能力を備えれば、それもまた一つの理想。

といいながら、著者がいいたいのは中計を止めることではなく、会社としての哲学、行動指針をつくり、長期視点のゴールを描くべしということだ。
会社経営という航海は、途中どこの港に寄港するかは、なんとも予測不可能だが、最終的に目指す到達地はわかっている(既に知っている場所という意味ではない)。
運命を勝ち取るためには、航海の羅針盤が必要だ。会社で言えば、遵守すべき哲学や思想、絶対外れてはならない大きな規範や綱領にあたるものである。

現状とゴールには大いなる断層があっていい。
会社と経営者が、最終的な目的地、とどのつまりはどういう会社になりたいかにこだわらなければ嘘だ。

本当に恐怖しなければならないのは確率論のリスクではなく、不確実性のリスクである。
確率論のリスクに全て蓋をしてしまえば、そのリスクの反対にあるリターンを掴むことは永遠にできない。
不確実性のリスクがあるということは、不確実性の機会がある。そのことに着眼すべきである。



<顧客至上主義からの脱却について>
著者が言いたいのは顧客の声を聞くな、ということではなく、顧客の声を聴きすぎるな、ということである。
顧客が本当に欲しいものは顧客にも分かっていない。にもかかわらず企業は現状の延長として顧客の声を聞きたがる。顧客の声の中にはイノベーションは存在しない。

どうやら成功している人気のあるどこの会社にも、勝手気ままな社内のお客様社員や経営者の「独断」か、お客様と現場社員の「ワクワク感の相乗」か、はたまた永遠に答えが出ない現場での「いけるはずだ!の仮説実験」かのいずれかがあるようだ。
乱暴だが、これらをまとめて、顧客志向改め、自己チュー戦略と呼ぶ。

顧客志向が行き過ぎると会社の売上も競争力も必ず弱まる。
理由は簡単だ。すべての優秀な企業がみんな顧客志向を忠実に実行しようとすれば、商品やサービスは必ず同質化する。似てくるからである。
顧客と素直に対話しすぎると、会社の軸は狂ってくる。




という訳で、直接明記されている訳ではないが、この本の内容は「イノベーションを起こしたい企業は」というのが隠れ与件となっている。
「改革は辺境から」ということで、
中央に組み込まず、持ってこず、管理させずの三原則で、周辺組織を解放するのが大切。そして、放任主義で、しつこくやれ。
とのこと。激しく同意である。


最後に、著者は現場から得た肌感覚で学んだことを述べている。
皮膚感覚で理解してきた主観的事実は、ふたつある。
ひとつは、理論と現場は常に相克するということ。
理論は間違っていない。現場も間違っていない。間違っているのはその解釈をし、手を加える人間の考え方と行動である。
理論先行を嫌がる人がいるが、現実はカチッとした理論や後講釈でも合理性を欲している。
現場先行を嫌がる人がいるが、理論は往々にして現実の実践進捗を阻害し、成功機会を台無しにする。
結論は、どちらも同時的に必要であり、それらが矛盾対立の関係にあっても同時必然ならしめるのはほかならぬ我々自身と、その状況にある生身の当事者なのである。

もうひとつは、伝統と個性は常に相克するということ。
伝統は、従えばほぼ間違いの少ない安定した秩序であり規範である。一方、強い個性は秩序に波紋を及ぼし、規範をかく乱する力を持つ。
個性が伝統に巻き込まれれば埋没し、伝統に革新を与えることはできない。
個性を際立たせ、自由に振る舞わせてしまえば、伝統を揺るがせ、伝統を毀損し歴史を断絶する危険性を持つのだ。
未来に開かれた伝統は、そのまま引き継ぐという意味ではなく、発展的に引き継ぐという意味ではないか。つまり、個性のある主体が精神のこもった革新を加えながら伝統を引き継ぐというのが正解だと考える。
このアナロジー(類推)で言えば、現場にあって理論を検証し強めながら、ときには理論を破壊しながら、仮説をもって当事者は行動し、次の理論を構築して伝承するのである。
このようにして、合理的知識を創造的知恵に昇華する永劫のチャレンジが欠かせない。


結局、著者は、イノベーションを起こすにしても、理論と現場、伝統と個性はバランスが大切だと述べている。
アングロサクソン的な経営常識が蔓延している前提なので、バランスをとるためにあえて非常識な提言を行い、バランスをとらせようということだと思う。

このような内容は「肌感覚」としては理解できるものの、著者も認識しているように(だから「皮膚感覚」という表現にならざるを得ない)、実例・具体例を多く提示できないことが悩みの種か。
「肌感覚」では理解できるが、他者を説得できない内容となると、現実の世界においては、ひっそり管理されないように進めることが肝心か。


2013年2月11日月曜日

『すべてはモテるためである』

ワコールアートセンター スパイラルのMさんからお勧めいただいた本。
著者がAV監督二村ヒトシ、そして『すべてはモテるためである』というタイトルと相まって、女性の気を惹くための小技ノウハウ本と思いきや、実は深〜いコミュニケーション哲学の本であった。
そもそもこの本、ベースとなる部分(第1章〜第4章)の初版は1998年に発行されている。
その後著者が「モテて」みた後に考えた考察が第5章として追加され、この度の発刊となっているのだが、この第5章と、そして第5章を踏まえての哲学者の國分功一郎氏との対談が追記されることでこの本の深みをより一層増している。


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あなたが彼女にモテないのは、あなたが「彼女にとってキモチワルい人」だからである。
なぜ「あなたが彼女にキモチワルがられるのか」というと、
ひとつは「あなたが彼女に対して自意識過剰の状態におちいっている」ため。
もうひとつは「あなたが、あなたと彼女の関係について考えるべきことを、ちゃんと自分の頭で考えていないから」

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ということで、著者は読者にまず「どういう風にモテたいのか?」、「なぜモテたいのか?」を考えさせる。
しかも最初なので(いきなり本を放り出されないように)事例まで細かく提示して、上手な巻き込み手法を用いている。

「モテる」ためのやり方は、人によって違うといいながら、ざっくり書くと
○自意識過剰をやめる。
○【対話】を通じて相手と同じ土俵に乗る。
○自分の【居場所】をつくって「適度に」自信を持つ。(でもエラソーにしない。謙虚であれ)。

さらりと書いたが、結構【 】の内容は深い。

まず【対話】。
【対話】とは、相手の言っていることばを「まずは、聴く。けれど【判断】しない、決めつけない」こと。
「対話できる」ということが、「相手と同じ土俵に乗れる」ということ。

「聞く」は単純に耳に入ってくる、「訊く」は質問するといういみだが、「聴く」とは意志をもって聞く、あなたの脳や心で、ことばや音や音楽をとらえていく、という意味。
さらに大切なのは、「意志をもって聴く」といっても【上から目線で聴いているのではダメ】だということ。
相手を、あなたの心の中で「決めつけて」はいけない。
たとえば彼女の話から「彼女が何かに悩んでいる」ことがわかったとして、その状況を分析してみたり、それに対するアドバイスをしたりしても、最初は感謝されるかもしれないが、やがて確実に嫌われる。
それはコミュニケーションではなく「相手をコントロールしようとしていること」だから。
上から目線ではなく相手の話を聴く。

つまり「相手と同じ土俵に乗る」というのは、「あなた自身が(相手の話を聴いたことによって)変わる」つもりがあって話を聴いているかどうか、あなたの側に【変化する気が】あるか、ということでもある。

次に【居場所】。

【居場所】というのは、チンケな同類がうじゃうじゃ群れているところじゃなくて、【一人っきりでいても淋しくない場所】っていうこと。
モテるためには必要な【他者とのコミュニケーション】において臆病になりすぎないために『オレは、オレの好きなことにハマっている』『オレには居場所がある』という自信と誇りを持つ。しかも、そのことでけしてエラソーにはなるな、謙虚であれ、というのが教え。


あイタタ、どちらも結構読んでて痛い部分があるぞ。

理論が分かったら、エッチな場所で実践し練習を重ねよ、というのが著者の次の教え。

本番編では『スーパー戦隊論』が出てくる。
簡単に言うと、自分の中の色々なキャラを彼女の前でどんどん登場させていこう、という話なのだが、それにひもづいて『あなたの中の【女】、モモレンジャー』理論というのがあり、これが斬新で舌を巻いた。
非常に面白いので著者の文章をなるべくそのまま引用する。

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あなたはオナニーをすることがあると思いますが、そのときにAVもエロ本も過去の出来事の思い出も使わないとしたら、頭の中には誰が登場しますか?
それがあなたの中の【女】です。好きな女性タレントとか、つきあい始めたけどまだセックスしていない現実の彼女とかの姿で登場してくるんだとしても、その女性は、あなたとまだセックスしてないんでしょ?オナニー中、あなたの頭の中の彼女は、よがったり、あなたを愛撫してくれたり、いろいろミダラなことをしてくれると思うんですが、そのミダラっぷりは「あなたが頭の中で作ったミダラさ」じゃないですか。てことは、あなたの中の【女】のキャラ、戦隊の女性メンバー、ゴレンジャーでいえばモモレンジャーが、その彼女の役を演じているんです。
そして、このモモレンジャーが、あなたの中の戦隊の、陰の、真のリーダーであるべきなんです。たとえば好きになった彼女を攻略するために「次に誰を出すか。熱血でいくか、クールでいくか」というメンバーのローテーションは、この【女性メンバー】に考えてもらうべきなんです。

あなたが、ある女性を好きになったとしたら、その「彼女」と「あなたの中の【女】」は、似ているところがあるはずなんです。
相手の女性がいま何を考えているか、何を感じているかは、自分の中の【女】に探らせ、判断させ、作戦を練らせるのがいいのです。
女心は女にしか、わからないんだし、そもそも「二人は似ている」のですから。

人の心というのは不思議というか厄介もので「あなたがどんなに彼女を好きでも【あなたの中の女】は彼女のことを憎んでしまう」ということがあります。
あまのじゃくな【女】とか、すごいバカな【女】とかに住みつかれている男性は、恋愛関係で苦労がたえません。

あなたの中の【女】というのは、あなたと一緒に生まれて、あなたとともに育ってきたわけですが、あなたの中の【女】は必ずあなたのお母さん(もしくはあなたを育ててくれた女性)の影響を受けます。
これで【お母さん】と【自分の中の女】がそっくりな男は、マザコンと呼ばれるわけですね。

「恋愛をする」ということは、「彼女と【あなたの中の女】との関係」だけの問題ではありません。「あなたと【彼女の中の男】との関係」の問題でもあります。
「自分の中の【女】が、どんな女なのか」を理解してあげましょう。
【自分の中の女】がキモチワルい女だった場合でも、あなたが治すことができるはずです。
どうやって治せばいいのか。
生きている「いろんな人」とたくさん関わって、たくさん【対話】をして、なるべく人に優しくすることです。
【自分の中の女】が「素直な性格」になってくると、現実女性の「いいところ」が、顔やスタイルだけじゃなくて、たくさん見えるようになってきます。


厳密な意味で完全に「相手の気持ちになる」ことは人間には不可能だと僕は思います。
ただ「相手の身になって考える」ということなら、ありえます。

彼女が、あなたが見たことない服を着ていたら、新しい髪型をしてたら、褒める。青レンジャーが寝てたらモモレンジャーが蹴っ飛ばして起こして、とにかく褒めさせる。

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この『スーパー戦隊 モモレンジャー理論』はすっごく気に入った理論になったのだが、ひとつ追加であるとすると、【自分の中の女】であるモモレンジャーも男性メンバー同様、決して一人ではないような気がする。
個人(男)の中の理想の女性像は、その全てを一人の人格に昇華できるものなのだろうか。著者も言っているが、最近の「戦隊もの」ではタイプの違う女性が2人(お姉さんタイプとボーイッシュちゃきちゃき娘系など)出てくるようになっている。
タイプの違う【モモレンジャー】が二人いたりするのは浮気性ということなのだろうか?



第4章までが1998年に出した本で、上野千鶴子さんによる解説とか、さらには文庫版のあとがきまで書かれた後に、第5章「モテてみた後で考えたこと。」が始まる。

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モテるようになって、いっとき人生の調子が非常に良くなった(ように本人は感じた)のだが、しばらくすると【モテているのに、心が苦しい】という状態になった。
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つまり、15年前のノウハウを実践したところ、正直「苦しさ」を感じるようになったという告白だ。

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「モテる」ということは、つまり他人の【心にあいた穴】を刺激できる人間になる、ということだ。
女性の側からすると、モテる男というのは「心の欠けた部分を埋めてくれるような気がする、つきあうことで完璧な自分になれそうな気がする男」なのだそうだ。

彼女達が言っていることは本質的には共通していて、要するに「私を抱きしめて。支配して。でも同時に、私を自由にして。私をコントロールしないで」と言っている。
難しい。ていうか矛盾している。
もうちょっとおだやかに表現すると、彼女達は「あなたが私を愛して。でも、あなたが愛してくれる愛し方は、私がされたい愛し方ではない」と言っているのだ。

だが、われわれ【モテて、女性から恋された男】も、女の人にむかって「恋してくれたんだから、お前をオレのものにするよ。だが同時にオレは、お前を突き放すよ」とつねに言っている。矛盾している。「オレはお前を愛したいのだが、お前が愛されたいように愛することは、しないよ」と後だしジャンケンのように宣言しているのだ。なんでそんなダブルバインドをかけるのか。
ヤリチンつまり複数恋愛を指向する男であればこれに「いやだったら勝手にしなよ」が加わるし、これが一対一恋愛の場合は「オレはちゃんと愛してるじゃないか。何が不満なの」「オレも仕事で疲れてるんだよ・・・」が加わる。
どちらにせよ、男が女を支配しようとする限り(女も「支配されよう」とするかぎり)かならず男はダブルバインドをかける。
奇妙なことに「男は女を支配しようとして、けしからん」と怒る女の人も、【被害者意識】を持つ限り同じダブルバインドをかけられる。

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そこで著者は、新たな気づきを得る。

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「モテたい」=「キモチワルくないと保証されたい」というのは、「恋されたい」ではなくて、本当は「愛されたい」ということだったんじゃないだろうか。

【愛されたい】というのが「自分を肯定して欲しい」という欲求だとしたら。
(ちなみに【恋する】とは「相手を求めること、自分のものにしたがること」)
【モテたい】は「キモチワルくないと保証されたい」ことなんだから、実は【モテたい】人は愛されていれば充分であって「恋されて、相手を支配する」必要はないんじゃないんだろうか。
モテた者も、モテを目指す者も、ただ「自分は愛されたいんだ」と認めればいいんじゃないだろうか。

さっき書いた【モテるようになった男が恋する女に「愛するけれど、お前が愛されたいように愛してあげることは、しないよ」とダブルバインドをかける】のは、つまり【自分のほうは変わる気がない】ということだ。それだと相手だけじゃなく、何より自分が苦しくなるのだ。

ある人間が「心の底から願っていること」「本当に欲しいと思っていること」は、実は「その人が他人に対して【与える】能力をもっていること」なのだ。
「モテたい」が「恋されたい」じゃなくて「愛されたい」だと気がついた人は、実は「ちゃんと他人を愛する能力」を有するのだ。
それを認めて「愛することによって自分が変わるのを、恐れない」のが、つまり「大人になる」ということじゃないだろうか。

子どもであることのほうが変化の余地があって、大人になっちゃうと人間が硬直するんじゃないかと考えがちだが、そんなことはない。
子どもであり続けることのほうが「がんこ」で「自分を守っている」のである。
大人だということは、「もう長い時間は残っていないんだから、なるべく他人を幸せにしよう」と考えることだ。
さまざまな「モテるために変わる」方法を考えてきたが、最終的には「大人になることでモテる」のが、一番威力があります。相手も自分も苦しまないし。

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結局人間は「愛されたい」を目指すべきだし、そういう人は実は「他人を愛する能力」を有している、というのはグルッと1回転して元のところに戻って来たようで、実はもとの場所より1段高みにいる結論のような気がする。
人間って元の位置を一度離れないと、その場所の高みには登れない生き物なのかもしれない。

哲学者の國分氏との対談も面白い。

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人間の心には先天的に穴があいているわけではない。しかし、誰かに育てられる中で、必ずいくつもの傷を負い、その傷が集まって「心の穴」を形成する。それが人間の性格であったり、好みであったりする。で、その「心の穴」が似ていたりすると、その人たちが惹かれあう。
「心の穴」が愛や恋の根源にあるとすれば、愛したり恋したりという感情は、先天的なものではないが、しかしほぼ必然的に後天的に獲得されるものだ、と考えることができる。

人間は「その人の心の穴から湧いてくるものが、他人の心の穴を刺激する」からモテてるんだと思う。

恋愛感情というのが、自分の「心の穴」から出て来ているもので、しかも「心の穴」が主として親にあけられたものだとすると、恋愛は親子関係をやり直していることになる。なのに、なかなかそれが学べないし、認めたくないもんだから、ごまかして自分の穴を見逃してしまう。

どんな人でも、小さい頃に親の影響を受けていて、何かを押し付けられて生きてきている。(アリス・ミラーという精神分析家はそれを「闇教育」と呼んだ。)
そもそもフロイトが「性格は断念によって形成される」と言っていたように、人の心について考えるなら絶対に「心の穴」を避けるわけにはいかない。

「モテるやつというのは、敷居が低い人間である」。他人から見て「簡単に近づきやすい人」であるとモテるわけです。つまり、「モテる」ということは、その人自身の魅力というものとはちょっと違う。

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もともと、「女性にモテるには」という軽いテーマから、コミュニケーション論になっていたのだが、國分氏との対談はそれが哲学としてもイケてることを再認識させる。

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「感情は、考えないで感じきる」
自分の感情を感じきることで、気持ちを曖昧にしなくてすむ。

「非モテ」「非リア」とか言った言葉はそういう感情をストップさせてしまう言葉で、感情を停止してしまうがゆえに自分のなかの「モテない」という恨みを熟成させる装置になってしまっている。
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二村氏は、最初読者に「考えろ」と言い続けてきたので、ここで「考えるな。感じろ」と言うと混乱するのではないか、と心配しているが、「堂々巡って元に戻るがされど元の場所にあらず」、ということは往々にして存在する。
それが日本古来の「守破離」であり、ヘーゲルの言う「アウフヘーベン」なのではなかろうか。

テーマが身近で入りやすく、そして深い、という学びとしても非常に適したテーマを見つけて、AV監督が書いてしまうところが面白い。

現時点にしても著者としては”仮説”の段階であるようなので、また10年くらいしたら実践の結果を受けて、再度第6章が追加になって更なる自己形成小説として改訂(発行)されるのかも知れない。
それもまた楽しみ。






2013年2月10日日曜日

JR最近の危機対応について思うこと

先日、通勤時に常磐線に乗っていたら、山手線上野駅で人身事故があったとのことで、その際のアナウンスの対応が非常に良かったので気づいた点を書く。

①まず第一報でつかんでいる事実を正確に伝える。分からないことは分からないと言う。
「山手線上野駅で人身事故が発生いたしました。現在負傷者を救出中です。運転開始の見込みが立っておりません。可能な方は振替輸送をご利用ください。」
そして情報に変化がなくても定期的に発信する(追加の情報なしでもOK)というのはあさま山荘事件を取り仕切った佐々淳行氏のリスク管理の本にも鉄則として出ていた。

②具体的な数字を用いて説明する。
「この列車には現在4,500名(おそらく300名×15両?)の方が乗っておられますが、日暮里、上野駅に皆様が集中して降りられますと、ホーム混雑の影響で常磐線がストップする可能性がございます。振替乗車が可能な方は筑波エクスプレスなど振替乗車をお願いいたします」
今まで振替乗車を依頼するのに、この列車に乗っている人数をイメージさせるため人数を言っているのを聞いたことが無かった。
JRのマニュアル変更なのか、この車掌さんの機転なのかは分からないが、4,500人がホームに集中するというのは具体的で非常にイメージしやすく、結果北千住で3〜4割の人が乗り換えて行った。

③見込みであっても立ったら発信する。
しばらくして「山手線復旧見込みは8時10分頃を予定しております」
というアナウンス。
実はこの後、復旧見込みが7時50分に早まるのだが、この際にも
「負傷者救出が早期に完了したため、復旧見込みが早まりました」
ということで理由を述べることを徹底していた。
緊急時に、「確定情報でないと流さない」となると情報発信が遅れる傾向にある。
ある程度の情報がとれれば後で(理由があれば)変更するのは構わない。
その情報を受けて乗客は自分がどうするのかを判断するので、早期の情報発信は非常に重要である。


ということで「JRやるなり」とベタぼめしようと思っていたら、逆に先日の大雪警報の日の対応は今ひとつだった。

大雪のため首都圏JR各線を7割程度で運行するというものだが、当日の朝いきなりこれを知った。
予報に基づき7割運行するのであれば、それを事前に乗客に周知しないと、単に約1.5倍の混雑が確定されるだけになる。
事前に乗客に周知し、時間をずらしたり不必要な移動をなくさせることで7割運行の意味が出てくるのではないか。
結局雪は予想ほどには降らず、結局乗客は1.5倍の混雑を甘受しただけで、
「7割にしなくても良かったのでは??」
という疑念を持ちながら痛勤ラッシュに身を委ねることとなった。
(「そもそも7割にすることで雪対策になっているのか?乗らなくなった乗務員の給与はどうなるの?」とか余計なことを考えてしまった)


交通機関というのは安全に最大限の気を使っていても色々な突発事項が起きる。
そして、それに対する情報発信の仕方にはノウハウがあると思う。

人身事故時のアナウンスは非常に理にかなったものであった。
乗客に判断させるための材料である情報をどのタイミングでどう発信していくかは、行政や企業のリスク管理にもつながると感じた。


2013年2月3日日曜日

バーバリー

部屋を片付けていたら、2年近く前に頂いたワイシャツ押し立て券が出てきて、今更のようだがワイシャツを作りに日本橋の三越に行った。(よく考えると頂いた時は、震災&自らの異動でワイシャツどころではなかった。そのまま眠っていたという訳。。)

どこで対応しているのか分からなかったので、総合受付で
「バーバリーのワイシャツ押し立て券なんですけど、バーバリーに行けばいいんですか?」
と問い合わせ。
電話で調べてくれたが、
「バーバリーは既にライセンス契約が切れていて対応できないそうです。」

えぇ〜っ。確かに期限が昨年の一昨年の10月位までになっていたけど。前に仕立券の期限切れていてもちゃんと対応してくれたのに。。
有料であっても仕立ててもらわないと、布だけもっていても何の役にも立たない。
「どこに相談したらいいですか?」
と粘ると、
「紳士服の仕立てを承るところで相談下さい」
とのこと。

紳士服仕立てコーナーで相談すると、
「もちろん無料でお仕立てをさせていただくのですが、申し訳ございませんがバーバリーとのライセンス契約が切れておりまして、胸につくバーバリーのロゴをおつけすることが出来ません。」
とのこと。
こちらはワイシャツを作ってもらえればいいので、二つ返事でもちろんOK。

サイズを測りながり担当の人が色々教えてくれた。

バーバリーは日本でライセンス事業撤退。だから今後は今の契約が切れた以降は全てインポート品になる。
ライセンス事業撤退の理由は、
①自社ブランドをヴィトンのように高めたい(英国では紳士服ではDAKSがNO1ブランドであり、バーバリーブランドは日本程ではない)
②ライセンスフィーが6%としても、原価にかかるので、1万円の売上、原価率4割とすると240円にしかならない。(儲からない)
ではないかとのこと。
経営者に直接聞いた訳じゃないですけどね。と言って担当の人は笑っていた。

帰って来て調べてみると、
2009年にインポート商品を取り扱う輸入総代理店として、バーバリー英国本社・三陽商会・三井物産の共同出資によりバーバリー・インターナショナルが設立された。「インターナショナル」設立後、2010年6月にてバッグ・革小物・スカーフなどはライセンス製造を中止しインポート物に一本化され、ラグジュアリーブランドとして本国商品の展開を本格化することとなった。
(by Wikipedia)
とある。

なるほど、バーバリーはライセンス事業を中止するということだ。

帰って来て妻にこの話をすると
「でも、胸にロゴがなかったら、バーバリーと同じ品質っていっても結局見た目バッタもの以下なんじゃない?」・・

無料で仕立ててもらってホッとしているようじゃ甘かったかも。。