ベンチャー・キャピタリスト古我知史氏の著作。
最近の本のタイトルはキャッチーである必要性からか、必ずしも内容と合致していないことも多い。
この本も、「終わっている会社」について述べている訳ではなく、それをどう変えていくべきかについてが主題として書かれている。
結論から書くと
「選択と集中の戦略」「中期経営計画の信奉」「顧客至上主義」
の3つをやめよう、というのが著者の提言。
過激な提言で「え〜ッ」という感じだが、読み解いていくと、いずれも「偏重せずにポイントを見誤らないように」ということであるのが分かる。
そして、全篇会社の将来を担う新規事業の芽をつぶさないためにどうすべきか、という視点が貫かれている。
金融資本主義という強欲思想を基礎的に支える三つの原理
1.IT革命による標準経営(ITを使ってどこの会社も同じような効率的な事業運営をしようということ)
2.規制撤廃による市場原理主義(市場に会社の行動の良し悪しや会社の価値を自由に決めてもらおうということ)
3.ファイナンス偏重の利益最大化主義(会社や事業の定量的な評価を、たたき出す利益の額や伸長率で測り、その額や伸び率がさらに高くなるように事業だけではなく財務技術も総動員して必死で生み出そうということ)
いずれも今や経営常識となっている内容なのだが、そもそも振り返ればアングロサクソン的な経営常識という知的財産そのものが、欧米のアングロサクソン諸国の資本主義の構造に組み込むべく黙々と組み立てられた、会社経営という名の大量生産型の単一規格製品だったと著者は喝破する。
<選択と集中の戦略からの脱却について>
今は本業回帰という戦略が真っ盛りだが、著者の言う「選択と集中をやめよう」というのは、選択と集中は将来のコア事業になりうる可能性のあるものに集中して注力すべき、ということであって、一切合切選択&集中をやめよということではない。
著者が主張は、
これまでの日本企業の成長への挑戦の失敗は、とどのつまり、選択と集中という戦略的呪文のもとで、大いなる潜在的価値のある無駄(らしきいかがわしいもの)を、全て切り捨ててしまったからではないか。
だいたい、現在のコア事業が未来永劫コア事業であり続けることが、本当に企業の成長を約束するという考え自体が大いなるバクチではないか、ということ。
<中期経営計画からの脱却について>
中計を作り始めると、そのための”人材”が必要となる。
参謀もどき人材、参謀らしき人材は、表面的にはお利口さんであるが、この人材が存在すること、しかもやたら多く存在した日には会社存亡の危機となる。典型的な弊害とは、悪しき官僚主義に陥ることだ
悪しき官僚主義の兆候は、官僚主義の三種の神器が見いだされる時に始まる。
三種の神器とは、予算、手続き、縄張りである。
参謀は一人でも充分。出来れば経営トップ自身が自身に参謀の能力を備えれば、それもまた一つの理想。
といいながら、著者がいいたいのは中計を止めることではなく、会社としての哲学、行動指針をつくり、長期視点のゴールを描くべしということだ。
会社経営という航海は、途中どこの港に寄港するかは、なんとも予測不可能だが、最終的に目指す到達地はわかっている(既に知っている場所という意味ではない)。
運命を勝ち取るためには、航海の羅針盤が必要だ。会社で言えば、遵守すべき哲学や思想、絶対外れてはならない大きな規範や綱領にあたるものである。
現状とゴールには大いなる断層があっていい。
会社と経営者が、最終的な目的地、とどのつまりはどういう会社になりたいかにこだわらなければ嘘だ。
本当に恐怖しなければならないのは確率論のリスクではなく、不確実性のリスクである。
確率論のリスクに全て蓋をしてしまえば、そのリスクの反対にあるリターンを掴むことは永遠にできない。
不確実性のリスクがあるということは、不確実性の機会がある。そのことに着眼すべきである。
<顧客至上主義からの脱却について>
著者が言いたいのは顧客の声を聞くな、ということではなく、顧客の声を聴きすぎるな、ということである。
顧客が本当に欲しいものは顧客にも分かっていない。にもかかわらず企業は現状の延長として顧客の声を聞きたがる。顧客の声の中にはイノベーションは存在しない。
どうやら成功している人気のあるどこの会社にも、勝手気ままな社内のお客様社員や経営者の「独断」か、お客様と現場社員の「ワクワク感の相乗」か、はたまた永遠に答えが出ない現場での「いけるはずだ!の仮説実験」かのいずれかがあるようだ。
乱暴だが、これらをまとめて、顧客志向改め、自己チュー戦略と呼ぶ。
顧客志向が行き過ぎると会社の売上も競争力も必ず弱まる。
理由は簡単だ。すべての優秀な企業がみんな顧客志向を忠実に実行しようとすれば、商品やサービスは必ず同質化する。似てくるからである。
顧客と素直に対話しすぎると、会社の軸は狂ってくる。
という訳で、直接明記されている訳ではないが、この本の内容は「イノベーションを起こしたい企業は」というのが隠れ与件となっている。
「改革は辺境から」ということで、
中央に組み込まず、持ってこず、管理させずの三原則で、周辺組織を解放するのが大切。そして、放任主義で、しつこくやれ。
とのこと。激しく同意である。
最後に、著者は現場から得た肌感覚で学んだことを述べている。
皮膚感覚で理解してきた主観的事実は、ふたつある。
ひとつは、理論と現場は常に相克するということ。
理論は間違っていない。現場も間違っていない。間違っているのはその解釈をし、手を加える人間の考え方と行動である。
理論先行を嫌がる人がいるが、現実はカチッとした理論や後講釈でも合理性を欲している。
現場先行を嫌がる人がいるが、理論は往々にして現実の実践進捗を阻害し、成功機会を台無しにする。
結論は、どちらも同時的に必要であり、それらが矛盾対立の関係にあっても同時必然ならしめるのはほかならぬ我々自身と、その状況にある生身の当事者なのである。
もうひとつは、伝統と個性は常に相克するということ。
伝統は、従えばほぼ間違いの少ない安定した秩序であり規範である。一方、強い個性は秩序に波紋を及ぼし、規範をかく乱する力を持つ。
個性が伝統に巻き込まれれば埋没し、伝統に革新を与えることはできない。
個性を際立たせ、自由に振る舞わせてしまえば、伝統を揺るがせ、伝統を毀損し歴史を断絶する危険性を持つのだ。
未来に開かれた伝統は、そのまま引き継ぐという意味ではなく、発展的に引き継ぐという意味ではないか。つまり、個性のある主体が精神のこもった革新を加えながら伝統を引き継ぐというのが正解だと考える。
このアナロジー(類推)で言えば、現場にあって理論を検証し強めながら、ときには理論を破壊しながら、仮説をもって当事者は行動し、次の理論を構築して伝承するのである。
このようにして、合理的知識を創造的知恵に昇華する永劫のチャレンジが欠かせない。
結局、著者は、イノベーションを起こすにしても、理論と現場、伝統と個性はバランスが大切だと述べている。
アングロサクソン的な経営常識が蔓延している前提なので、バランスをとるためにあえて非常識な提言を行い、バランスをとらせようということだと思う。
このような内容は「肌感覚」としては理解できるものの、著者も認識しているように(だから「皮膚感覚」という表現にならざるを得ない)、実例・具体例を多く提示できないことが悩みの種か。
「肌感覚」では理解できるが、他者を説得できない内容となると、現実の世界においては、ひっそり管理されないように進めることが肝心か。
最近の本のタイトルはキャッチーである必要性からか、必ずしも内容と合致していないことも多い。
この本も、「終わっている会社」について述べている訳ではなく、それをどう変えていくべきかについてが主題として書かれている。
結論から書くと
「選択と集中の戦略」「中期経営計画の信奉」「顧客至上主義」
の3つをやめよう、というのが著者の提言。
過激な提言で「え〜ッ」という感じだが、読み解いていくと、いずれも「偏重せずにポイントを見誤らないように」ということであるのが分かる。
そして、全篇会社の将来を担う新規事業の芽をつぶさないためにどうすべきか、という視点が貫かれている。
金融資本主義という強欲思想を基礎的に支える三つの原理
1.IT革命による標準経営(ITを使ってどこの会社も同じような効率的な事業運営をしようということ)
2.規制撤廃による市場原理主義(市場に会社の行動の良し悪しや会社の価値を自由に決めてもらおうということ)
3.ファイナンス偏重の利益最大化主義(会社や事業の定量的な評価を、たたき出す利益の額や伸長率で測り、その額や伸び率がさらに高くなるように事業だけではなく財務技術も総動員して必死で生み出そうということ)
いずれも今や経営常識となっている内容なのだが、そもそも振り返ればアングロサクソン的な経営常識という知的財産そのものが、欧米のアングロサクソン諸国の資本主義の構造に組み込むべく黙々と組み立てられた、会社経営という名の大量生産型の単一規格製品だったと著者は喝破する。
<選択と集中の戦略からの脱却について>
今は本業回帰という戦略が真っ盛りだが、著者の言う「選択と集中をやめよう」というのは、選択と集中は将来のコア事業になりうる可能性のあるものに集中して注力すべき、ということであって、一切合切選択&集中をやめよということではない。
著者が主張は、
これまでの日本企業の成長への挑戦の失敗は、とどのつまり、選択と集中という戦略的呪文のもとで、大いなる潜在的価値のある無駄(らしきいかがわしいもの)を、全て切り捨ててしまったからではないか。
だいたい、現在のコア事業が未来永劫コア事業であり続けることが、本当に企業の成長を約束するという考え自体が大いなるバクチではないか、ということ。
<中期経営計画からの脱却について>
中計を作り始めると、そのための”人材”が必要となる。
参謀もどき人材、参謀らしき人材は、表面的にはお利口さんであるが、この人材が存在すること、しかもやたら多く存在した日には会社存亡の危機となる。典型的な弊害とは、悪しき官僚主義に陥ることだ
悪しき官僚主義の兆候は、官僚主義の三種の神器が見いだされる時に始まる。
三種の神器とは、予算、手続き、縄張りである。
参謀は一人でも充分。出来れば経営トップ自身が自身に参謀の能力を備えれば、それもまた一つの理想。
といいながら、著者がいいたいのは中計を止めることではなく、会社としての哲学、行動指針をつくり、長期視点のゴールを描くべしということだ。
会社経営という航海は、途中どこの港に寄港するかは、なんとも予測不可能だが、最終的に目指す到達地はわかっている(既に知っている場所という意味ではない)。
運命を勝ち取るためには、航海の羅針盤が必要だ。会社で言えば、遵守すべき哲学や思想、絶対外れてはならない大きな規範や綱領にあたるものである。
現状とゴールには大いなる断層があっていい。
会社と経営者が、最終的な目的地、とどのつまりはどういう会社になりたいかにこだわらなければ嘘だ。
本当に恐怖しなければならないのは確率論のリスクではなく、不確実性のリスクである。
確率論のリスクに全て蓋をしてしまえば、そのリスクの反対にあるリターンを掴むことは永遠にできない。
不確実性のリスクがあるということは、不確実性の機会がある。そのことに着眼すべきである。
<顧客至上主義からの脱却について>
著者が言いたいのは顧客の声を聞くな、ということではなく、顧客の声を聴きすぎるな、ということである。
顧客が本当に欲しいものは顧客にも分かっていない。にもかかわらず企業は現状の延長として顧客の声を聞きたがる。顧客の声の中にはイノベーションは存在しない。
どうやら成功している人気のあるどこの会社にも、勝手気ままな社内のお客様社員や経営者の「独断」か、お客様と現場社員の「ワクワク感の相乗」か、はたまた永遠に答えが出ない現場での「いけるはずだ!の仮説実験」かのいずれかがあるようだ。
乱暴だが、これらをまとめて、顧客志向改め、自己チュー戦略と呼ぶ。
顧客志向が行き過ぎると会社の売上も競争力も必ず弱まる。
理由は簡単だ。すべての優秀な企業がみんな顧客志向を忠実に実行しようとすれば、商品やサービスは必ず同質化する。似てくるからである。
顧客と素直に対話しすぎると、会社の軸は狂ってくる。
という訳で、直接明記されている訳ではないが、この本の内容は「イノベーションを起こしたい企業は」というのが隠れ与件となっている。
「改革は辺境から」ということで、
中央に組み込まず、持ってこず、管理させずの三原則で、周辺組織を解放するのが大切。そして、放任主義で、しつこくやれ。
とのこと。激しく同意である。
最後に、著者は現場から得た肌感覚で学んだことを述べている。
皮膚感覚で理解してきた主観的事実は、ふたつある。
ひとつは、理論と現場は常に相克するということ。
理論は間違っていない。現場も間違っていない。間違っているのはその解釈をし、手を加える人間の考え方と行動である。
理論先行を嫌がる人がいるが、現実はカチッとした理論や後講釈でも合理性を欲している。
現場先行を嫌がる人がいるが、理論は往々にして現実の実践進捗を阻害し、成功機会を台無しにする。
結論は、どちらも同時的に必要であり、それらが矛盾対立の関係にあっても同時必然ならしめるのはほかならぬ我々自身と、その状況にある生身の当事者なのである。
もうひとつは、伝統と個性は常に相克するということ。
伝統は、従えばほぼ間違いの少ない安定した秩序であり規範である。一方、強い個性は秩序に波紋を及ぼし、規範をかく乱する力を持つ。
個性が伝統に巻き込まれれば埋没し、伝統に革新を与えることはできない。
個性を際立たせ、自由に振る舞わせてしまえば、伝統を揺るがせ、伝統を毀損し歴史を断絶する危険性を持つのだ。
未来に開かれた伝統は、そのまま引き継ぐという意味ではなく、発展的に引き継ぐという意味ではないか。つまり、個性のある主体が精神のこもった革新を加えながら伝統を引き継ぐというのが正解だと考える。
このアナロジー(類推)で言えば、現場にあって理論を検証し強めながら、ときには理論を破壊しながら、仮説をもって当事者は行動し、次の理論を構築して伝承するのである。
このようにして、合理的知識を創造的知恵に昇華する永劫のチャレンジが欠かせない。
結局、著者は、イノベーションを起こすにしても、理論と現場、伝統と個性はバランスが大切だと述べている。
アングロサクソン的な経営常識が蔓延している前提なので、バランスをとるためにあえて非常識な提言を行い、バランスをとらせようということだと思う。
このような内容は「肌感覚」としては理解できるものの、著者も認識しているように(だから「皮膚感覚」という表現にならざるを得ない)、実例・具体例を多く提示できないことが悩みの種か。
「肌感覚」では理解できるが、他者を説得できない内容となると、現実の世界においては、ひっそり管理されないように進めることが肝心か。
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