2015年9月13日日曜日

『世界のトップを10秒で納得させる資料の法則』

ソフトバンク社長室で孫正義さんの薫陶を受けた著者の資料作りの法則。
「今更資料の作り方など…」と思いつつも、孫正義クラスの人がどういう視点で仕事をしているかが多少でも推し量れればということで読んでみた。

10種類の資料について、ポイントを述べる形の流れとなっている。

①業務処理報告書
・「群管理」を行う。
・累積棒グラフでは本質がつかめない(累積は問題を内包する)。
・「群」の内数を時系列変化でみることで、ボトルネックを発見する。

②売上報告書
・売上を継続性(一時的な売上か、継続的な売上か)の観点で分けて認識する。

③要因分析レポート
・積み上げ面グラフで要因を探る。

④プロジェクトマネジメント型会議議事録
・議事録は読まれてなんぼ。
・A4サイズにフォーマット化
・議題をテーマごとに構造化して、縦線を揃える。
・報告事項なのか、決議事項なのかをはっきりと区別。
・責任者、納期、アウトプットを明確に決める(良い会議議事録は逃げ道を断つ)。

⑤プロジェクトマネジメントシート
・アウトプット(資料をつくるというだけでなく、了承を取るというところまで)を明確にして定義する。
・担当者は一人に絞り必ず明記する。

⑥パレート図

⑦回帰分析
ソフトバンクは2001年から孫社長が「これから回帰分析をしないヤツの話しは一切聞かない」と言い出した。「最終的にはフォースで分かるようになれ!」と(笑)
・R−2乗値…決定係数。決定係数が1に近いほど実際の分布に当てはまっている。0.5以上であれば精度は高い。0.5以下の場合には、他の要素が関係している可能性がある。

⑧プロセス分析シート
フローの段階移行時の歩留まりを確認する。

⑨プレゼンテーション
・プレゼンテーション資料と企画書は違う。不特定多数を前に行うプレゼンテーションの主役はあくまで話し手。企画書の主役は企画書そのもの。一人歩きをすることを前提としてつくられている。
企画書とプレゼンテーションのスライドでは、見る人との距離も違う。企画書は読む人との距離が近い。文字が沢山出ているモノは手元に置いて読むのが一般的だ。積極的に情報をつかもう、把握しようという姿勢で企画書は読まれる。
パワーポイントでつくったスライドはそうではない。距離をおいて見るように設計されている。映し出された内容を聴衆が離れた位置でみることを前提としている。だから情報を詰め過ぎると見ている方はついていけない。
・ワンスライド・ワンメッセージ・ワンイメージが原則。
・スライドに書くも字数も、20文字前後がマックス。努力せずに、ぱっと見て頭にすんなり入ってくる文字数としては「20前後」が限界。
・メッセージで大切なのは「解釈」。ただ事実をありのままに述べるのではなく、その事実にどういう価値があるのか、数字を入れて翻訳する。この行為がプレゼンテーションの価値を高める。
・ページ番号の表示を忘れない。時間の調整を図れる。
・概ね1枚の資料につき3分の時間。(著者の場合)
・1つのスライドにつき、話す内容を3つ程度決めておく。

⑩企画書
・企画書は「つかみ」で勝敗が決まる。
・数字の表現は1桁でシンプルに。言いたいことは何かを明確にして絞る。
・クオリティの高いイメージ画像を貼る。
・箇条書きはせいぜい5つまで。


面白かったのが、プレゼンテーション資料と企画書の違いのところで述べられていた、テレビとインターネットに関する考察。
「企画書とプレゼンテーションのスライドでは、見る人との距離も違う」とあったが、これと似ているのがテレビとインターネットの関係だというもの。
テレビをインターネットに接続し、双方向で利用してもらおうと、これまで業界では様々なキャンペーンが実施され、それが可能な製品も発売されてきたが、全く普及していない。
これは「距離」が影響しているのではないかという仮説。
デバイスによって、使用するときの体の姿勢や距離は異なる。
「距離」と言っても物理的な距離とは限らないので、心理的距離と言ってよかろう。
「ながらテレビ」はあっても「ながらインターネット」がないのと同じ理由か。
これが「インターネットは入力作業があるから」という理由だけだとすると、声入力が一般的になってくれば課題は解消される理屈となる。
声入力が一般的となった時に、テレビとインターネットは融合できるのか、はたまた我々の脳が両者(手元にあるネットと離れているテレビ)を違うものとして認識し二つの用途は分かれたままなのか、今後の行方を見守りたい。



「定義付けは大切」ということで「蝶と蛾」のエピソードが述べられていた。
日本では、蝶と蛾は別々の昆虫だと見做している。しかし、蝶と蛾の区別なく、両者を一括して「蝶」としている国がある。フランスだ。
フランスでは蝶も蛾も「パピヨン」と呼ぶ。蝶と蛾に異なった定義がないということは、蝶と蛾の区別がつかないということだ。
日本人は、昼間に活動し、羽根を立てて止まり、幼虫が青虫である昆虫を「蝶」とみなし、それ以外は「蛾」だと考えているが、実は、この2つに生態上のはっきりとした区別がある訳ではない。両者はどちらも同じ「鱗翅目」であり、はっきりと区別が出来ないものなのだ。
これは、フランス、日本どちらが正しいという話しではなく、いったん物事をはっきり定義しておけば、その定義で我々は認識し、行動するようになるということだ。

日本では「雨」についても色々な表現がある。
「小雨」「春雨」「秋雨」「時雨」「氷雨」「五月雨」など。これは明確な定義ではなかったりもするが「言葉」をつくることで細やかな雨の状態を認識しようという日本人の叙情力が表出した一例だろう。
企業でも、違いを認識をさせたければ、新たな言葉をつくって「定義」すべきであるというのは全くその通りだと思う。


一通り読んで、復習的な内容も多かったが、
「数字に対する評価がない資料は資料と言えない。」
というのは大切なリマインドとなった。
また明日からの業務に活かしていきたい。


2015年9月5日土曜日

『国家の盛衰』

渡部昇一、本村凌二、両先生による対談形式の覇権国家の入れ替わりの歴史を繙く本。
世界史をいい加減にしか学んでいないので、知らないことも多かったりして勉強になる。

ローマ→スペイン→イギリス→アメリカ→中国
そして振り返って今後という流れで両先生の対談は進んでいく。

かいつまんで書く。

<ローマ>

ローマが長期的に繁栄(1200年にわたり帝国を維持)した背景には、 ローマ人の敬虔さとまじめさ、分割して統治せよという統治術、父祖の遺風、寛容の精神などいくつもの要素があるが、法の前の平等こそ、特に重要。

何故繁栄を誇ったローマが衰退したのか。その理由はローマ軍が弱くなったからという一言に尽きる。
主力が傭兵化し、ゲルマン人などの傭兵がローマ軍に組み込まれ、将校クラスにもゲルマン人が増加した結果、軍隊の質が低下した。
また、ローマ人は当初、それほど違和感を持たずに傭兵を受け入れていたが、三世紀後半から四世紀あたりになると、「お前達は本物のローマ人ではない」と言った差別意識が出てきた。
ローマ人は元来、人種差別は少なく、異民族にも寛容だった。
エイミー・チュアは『最強国の条件』の中で、世界帝国と言われる国家が長期的かつ安定的に繁栄する時、寛容の精神があり、それは洋の東西を問わず共通している、と記している。
中央の軍事統率力が衰えて、属州に散らばるレックス(軍団長)に権力が移っていった。 さらにウィルトゥースも軍隊の中で薄れ、ローマの美徳を持った兵士がいなくなっていった。

ローマ帝国滅亡の外的要因はゲルマン民族の南下の影響。(エドワード・ギボン『ローマ帝国衰亡史』)
ではローマ帝国滅亡の内的要因とは何か。その一つはキリスト教の拡大・台頭。
それまでなら、ローマ帝国の中枢に行くべき連中が、教会に行ったことがローマの衰退のひとつの原因だ」(イタリアの歴史学者アルナルド・モミリアーノ)
また、唯一絶対神を信じるキリスト教徒の増加により、ローマ皇帝の相対的な地位が下がったり、軍人皇帝時代の混乱を経て、皇帝への求心力が失われたりしたことも内的要因の一つと言えるだろう。
ローマ人の子孫が堕落したから、インフラが老朽化したから、気候変動をいう学者もいれば、出生率の低下を挙げる学者もいる。 ローマ帝国衰亡論を数えると210ほどあり、滅亡の原因は学者の数ほどあると言われる。

ローマ文明は衰退したのではなく、キリスト教文明に変質した。 つまり、ギリシアから受けついだ多神教思想に基づく、ローマのクラシカルな文明が、一神教の文明に徐々に取り込まれていった。


<スペイン>

スペインが海に乗り出したのは、国民の自信が芽生え、意気が高揚していたから。
そのきっかけのひとつになったのがレコンキスタ(国土回復運動、異教徒の国外排斥)に成功したこと。
同時にスペインは、ナスル朝の首都グラナダを二年間の戦闘で陥落させたり(1492年)、その後のオスマン帝国とのレパントの海戦(1571年)にも勝利を収めたりするなど華々しい成果を挙げていく。 そしてたまたま造船技術が高くなったので、大海に乗り出して行った。
海外に広大な植民地を経営したスペインだが、貿易では決して成功していない。
スペインには産業を興し、植民地と貿易して利益を上げるという発想も力もなかった。自ら貿易の形式を創造していく力があったオランダやイギリスに比べると、スペインは相対的に低下していかざるを得なかった。

大帝国と言われたスペインも、実質的に繁栄したのはイサベルとフェルナンドが王位に就いた十五世紀半ばから、フェリペ二世の統治までの約150年間。
スペイン衰退の理由は、国家機構の弱体化、産業の後進性、巨額の対外債務、慢性的な財政危機、人口の減少、根強い封建的伝統などさまざまな要因が指摘されているが、真犯人は1480年から始まった宗教政策。
スペインは自らの国名を「カトリック王国」とし、レコンキスタでイスラム教徒を追い出し、様々な技術や資産を持つユダヤ教徒を迫害し、民衆に王室と同じ信仰を強制しようとしたことが大きな禍根を残した。


<イギリス>

大航海時代に乗り遅れた十六世紀のイギリスは、ヨーロッパの後進国に甘んじていた。
女王のエリザベス一世(在位1558年〜1603年)は、「私掠免許(民間の船が他国船を攻撃したり、拿捕したりすることを認める)」を海賊たちに与える。そして、海賊達はスペイン船やオランダ船に略奪行為を働き、奪った金品が国家財政を支えた。
英蘭戦争はいわば海賊同士の戦いだが、海賊的な戦法をとったイギリスの前にオランダは屈する。オランダは数度の激戦の末、英仏海峡の制海権を失い、18世紀末期には、オランダの国力が疲弊すると共に海上貿易における優位性も完全に手放すこととなった。

イギリスの隆盛は、スペインとのアマルダの海戦に勝利を収めるところから始まった。 それまでは、イギリスから海賊船が出撃し、大西洋などでスペイン船を襲っていたが、業を煮やしたスペインが本気になってイギリスを潰そうとしたら返り討ちにあってしまった。
この時、ガレオン船という大型帆船を主軸としたスペイン海軍に対し、イギリス海軍は小型帆船を中心に戦った。
「無敵艦隊」と世界中から畏怖されていたスペイン海軍を破ったことは、ヨーロッパ中にイギリス海軍の勇名を轟かせ、国内的には「イギリスは世界の一流国だ」という自信を国民に植え付けた。
その後イギリスは、第一次世界大戦に連合国側として参戦し勝利する。同大戦最大の海戦であり、水上艦どうしの海戦としては史上最大の海戦であるユトランド沖海戦(1916年)でイギリスはドイツに勝利を収める。実は損害はイギリスの方が大きかったのだが、制海権を渡さず、ドイツはこの後潜水艦に頼らざるを得なくなる。

アマルダの海戦から第一次世界大戦終結までの330年間、イギリスはなぜ世界に覇権を唱えることができたのか。 それは、産業革命を成功させ、国内の工業が隆盛し、海外に植民地を建設するというイギリス人の野望が結実したからに他ならないが、その背景にはエネルギーの心配をする必要がなかったことが大きい。
イギリス本土には石炭が豊富にある上に、イギリス人は初めて効率的な石炭の使い方を世界に普及させた。18世紀にコークス(石炭から生産される固形燃料)を改良し、より効率的なエネルギー源としたのだ。
コークスは石炭の直焚きや木炭よりも高い温度で燃焼するため、鉄を大量に精製できる。ここに着目したニューコメンは蒸気ポンプを製作(1712年)、それがワットによる蒸気機関の開発(1769年)につながり、産業革命を推進した。
軍艦も帆船から蒸気機関に急激にシフトしていく。石炭はイギリスの覇権を支え、経済を発展させる”黒いダイヤモンド”だったのだ。
ではなぜ蒸気機関をはじめとする多くの機械がイギリスで実用化されたのか。それはイギリスが地政学的に他の国々よりも有利だったからではないか。
大陸の国々は、隣国と戦争を行う危険性を絶えず内包している。そのため、陸軍の充実は不可欠で、莫大な軍事費が必要となる。
イギリスは島国で、沿岸防備のための海軍があればいい。海軍は陸軍に比べてその人員は圧倒的に少なくて済む。
イギリスは「島国の帝国」と呼ばれた。イギリスに限らず、スペインやオランダなどの国々は、ローマ時代に比べ格段に進歩した造船技術と航海術により、自国の周囲に植民地を持つ必要がなかった。

歴史を眺めると、どの覇権国家も一番繁栄している時期にその衰退の兆しが見えてくる。イギリスも例外ではなく、最盛期であるヴィクトリア朝末期の19世紀末に既に凋落の兆候が現れ衰退の足音は聞こえていた。
二度にわたるボーア戦争(1880年〜1881年、1899年〜1902年)では、第一次が敗北、第二次は長期化のうえ、最終的に勝利したものの多大な戦費と威信を失った。
これによりイギリス自体が植民地支配の難しさを痛切に感じた。
イギリス衰退のもうひとつの大きな理由がエネルギーのパラダイムシフト。石炭から石油への移行。産業の基幹エネルギーが石油に代わり、内燃機関や電気動力になると、蒸気機関で産業革命を興して世界をリードしたイギリスの優位性は基本から崩れていった。


<アメリカ>

アメリカは歴史上初めて出現した「実験国家」。「大陸国家にして海洋国家」「陸軍国であり海軍国」。
「アメリカには中世がない」by 20世紀初頭のイギリス人ジャーナリスト セシル・チェスタトン
アメリカは元来、中世を軽蔑する人々が建設した国家。イギリスからメイフラワー号に乗って移民してきたピルグリム・ファーザーズはプロテスタントのピューリタンで、最も過激な反カトリックのカルバン派。

世界史的に見て、奴隷制が存在したのは、古代のギリシア・ローマと近代のアメリカだけ。それ以外では小規模で存在していても大規模に発展したことはない。

現代の覇権国家アメリカは戦争をきっかけに隆盛した。
第二次世界大戦は実はアメリカの一人勝ちであり、世界唯一の超大国としての地位をアメリカにもたらした。
戦前のアメリカは最大の産油国であり(戦後は輸入国)、戦争中は重工業をはじめとする製造業の無限の需要に沸き返った。これが現在まで続く「パクス・アメリカーナ」の礎となったことは間違いない。

アメリカの覇権を支える源泉が突出した軍事力にあることは間違いがない。
世界の軍事費支出の40%以上をアメリカ一国が占め、核兵器はもちろん、ハイテク兵器、宇宙開発技術を背景にした陸海空三軍と海兵隊の戦力は他国の追随を許さない。

オバマ大統領は、初代大統領ジョージ・ワシントン(在位1789〜1797年)の大統領就任からちょうど220年後に大統領に就任した。ローマに、アフリカ属州出身で異民族の皇帝セプティミウス・セウェルス(在位193年〜211年)が登場するのも、初代皇帝アウグストゥスから数えて丁度220年後。人間の意識として、異民族がトップに立つことに対する違和感が減少するまで、ローマ人もアメリカ人も同じ年数が必要だったと言えるのではないか。


<その他>

歴史的に見ると、ユダヤ人を抱き込んだ国のほとんどは強国になり、ユダヤ人を追放した国は衰退している。
当時の国境を越えるインテリジェンスはローマ教皇庁とユダヤ人社会しかなかった。ローマ教皇庁にインテリジェンス(情報)はあってもミッション(使命)を送るぐらいで、領土拡大や貿易には結びつかなかったが、ユダヤ人は経済力と結びついた情報網を世界中に広げていた。


海戦で負けた国が発展することは歴史上ない。海外への進出が国力拡大に不可欠だった時代にあって、海上覇権を敵国に握られて貿易が封鎖されれば経済的にも行き詰まるし、国民の士気は下がり、国際間で侮られる。
軍事力は国を隆盛させるためにも覇権を支えるためにも絶対不可欠。マハンが述べた海上覇権の重要性は正しい。


世界史には「辺境革命論」という理論がある。
覇権を唱える国があると、周囲の国々はその国にしばらく従っているが、そのうち力を蓄えて台頭あるいは反抗するということ。
オリエントの辺境ギリシアが発展すると、その周辺にあるローマが台頭・発展し、さらに地中海の周辺に位置するスペインやフランスなどのヨーロッパ勢がその後の主導権を握り、その後、ヨーロッパの中でも辺境にあったイギリスが近代になると主導権を握った、という流れ。
さらに、イギリスが主導権を握れば、その周囲のドイツやヨーロッパ大陸の周辺にあたるアメリカが国力を伸長させる。
また、戦後の日本の繁栄が終わると、その周囲の中国やインドが台頭するといった図式。


国が繁栄すると人口は都市に集中し、中流階級(中間層)が増える。しかし、貴族と庶民がはっきり分かれていた時代と違って、中間層が増える時代を経験した国は、最終的に活力をなくしていく。




まとめ系の話しでは渡部先生はちょっと右利きっぽいのでそこはさっ引いて考える必要があるが、両先生とも
「武装中立」ならまだしも、「非武装中立」は21世紀の現段階では困難で、平和を担保するだけの軍事力は必要、という考え方は共通。

こうやって覇権国家の歴史を俯瞰すると、エネルギーをいかに確保するのかは国家の最重要戦略ファクターであり、そのためには海上覇権を握った国が覇権国として君臨するのが歴史のようだ。
いままではエネルギーは海上輸送だったのでエネルギー流通路である海上の覇権が必要であったが、もし宇宙で太陽光発電したものを地上に伝送できるようになると海上覇権ではなく、宇宙覇権を握ることが肝要となろう。