2015年4月29日水曜日

『お金はサルを進化させたか』

野口真人氏の経済行動学入門のような本。
知っているようで結構しらないことも多く、楽しみながら読むことができた。

サルから進化してきた我々人類の歴史はざっと20万年、これに比べるとお金の歴史は3000年足らずである。
歴史を紐解くと、不確実性が確率論という学問として取り上げられたのは中世、1600年代からだという。それ以前は、すべての出来事は神が決定したものであり、不確実性や偶然性を人が心配しなくてもよかったのだろう。
人と不確実性の関わりは不可避であり、人生を左右する大きな要素であるが、それを意識してからわずか400年しか経っていない。
人が「お金の使い方」に習熟しないのは、価値の尺度と貯蓄手段としてのお金にまだ慣れていないからだと考えたい。
一つには合理的に金銭的価値を測る術を知らない。もう一つには将来の不確実性への正しい対処方法がまだ確立していない。この二つが要因と言える。

「お金」というのも昨今のテクノロジーと同じく、人間の脳にとっては最近でてきたニューテクノロジーで、それ故理論と感覚がずれるということだ。

では、脳の感覚と理論がずれるケースをみていこう。

◯行動経済学者 リチャード・セイラー
「明日のリンゴ2個よりも今日のリンゴ1個を選ぶ人が、1年後のリンゴ1個よりも1年と1日後のリンゴ2個を選ぶ」
一般的に人は現在を過剰に重視する傾向があり、近い将来に発生するキャッシュフローの効用を大きく下げてしまう。
人は、将来の効用には低い割引率を適用する。

◯確率論は「神の視点」の学問と言える。神からみた一人一人は多くの標本の一つに過ぎない。 ところが、自分にとって自分を標本として客観的に見ることは至難の業になる。

◯モンティ・ホール・ジレンマ
あなたはテレビのクイズ番組に出て見事に優勝した。100万円の賞金は、あなたの前に並べられた三つの金庫A,B,Cのどれかに入っている。
その三つのうちどれかを選ぶかと聞かれ、あなたはAの金庫を選んだ。
司会者はあなたの顔をじっとみつめ、「まずBの金庫を開けてみましょう」とBを開錠した。 Bの中には何も入っておらず、あなたはひとまず安堵のため息をついた。
すると司会者があなたに質問した。「本当にAでよいですか?Cに換えることもできますが…」 司会者の提案にのるべきか、のらないべきか。 直感では、AとCどちらかの金庫に100万円入っているのだから、換えても換えなくても期待値は変わらないと判断しがち。
だが、実際にはCに換えた方が、Aのまま変更しないよりも、100万円を手に入れる確率は2倍になる。
Aの金庫に入っている確率は、Bを開ける前でも開けた後でも1/3。期待値は33万円。
一方、BかCどちらかに入っている確率は2/3。Bの金庫が空であることが判明した瞬間に、Cに入っている確率は2/3になり、Cを選んだときの期待値は66万円となる。

◯宝くじの錯覚
当たり確率1%のくじを100回引いたら 当たりの確率が50%のくじを2回引いたからといって、当たる確率が100%になるわけではない。
この場合、当たる確率は75%。2回引いて両方とも外れる確率は50%×50%の25%。これを100%から引いた75%が、2回引いて1回でも当たる確率になる。
当たる確率XのくじをX回引いて、1回でも当たる確率を計算式で表すと
1−(1−1/X)のX乗。
これでXを大きくしていくと確率は約63.2%に収束していく。
1000万分の1の宝くじを1000万回買ったとしても、1等が当たる確率は63.2%までしか高まらない。

◯「ほとんどゼロ」はゼロではないし、反対に「ほとんど確実」は確実ではない。
行動経済学の祖、ダニエル・カーネマンの提唱した理論の中に 「人は低い確率を過大評価し、高い確率を過小評価する」 という考え方がある。

◯カーネマンは、人間が感じる確率と数学的に求められる理論値とは別だと主張した。人間が感じる主観的確率と理論値との差は、その事象が起こった時の影響の大きさに関係するという。宝くじの1等賞金が10万円だったとしたら、人は冷静にその当選確率を判断できるが、3億円になると主観的確率が歪むのである。

◯カーネマンと彼の朋友トヴェルスキーは、理論的な確率から主観的確率を計算する式を、様々な実験を通じて作り上げた。 その式によると、理論的確率が35%以上になると、理論的確率より主観的確率の方が小さくなるという。これを確率加重変数と呼ぶ。

◯カーネマンは「感応度逓減の法則」を唱えた。
我々が感じる好ましさの変化量は、利得や損失が増加するにつれて逓減していくという。
人が利得を得たり損失を被ったりしたときに実際に感じる「満足度」を価値関数としてグラフで表すと、利得の場合も損失の場合も、左右両端に近づくにつれてグラフの傾きが小さくなっている。
何かの賭けをして1万円もらえる時と10万円もらえる時では、嬉しさは10倍違うかもしれないが、100万円もらえる時と110万円もらえる時ではそれほどの差はなくなる。
一方、同じ額であっても、利得が増加する満足度より、損失が増える「不満足度」の方が大きくなる。この現象は「損失回避」と呼ばれ、我々が損失に対して過剰に反応し、損失を回避したがる傾向にあることを示している。

◯人間の癖のひとつとして、「お金の量ではなく、お金の量の変化によって満足度は左右される」ということがある。
Aさんはピーク時に2000万円の資産を持っていたが、現在は1000万円に減ってしまった。一方のBさんは資産を500万円から1000万円にまで増やした。
AさんもBさんも1000万円の資産をもっているわけだが、1000万円を失ったAさんより、500万円を増やしたBさんの方が満足を感じているはずだ。
これはカーネマンが指摘した「参照点依存症」という「人の癖」である。
人間はお金についても変化に敏感である。その場合、どの状態から変化したかによって反応が異なってくる。反応の強弱の度合いは、変化を参照する地点ないし時点に依存するのである。


知らなかったのがファイナンスの世界における「リスク」という言葉の意味。
◯ファイナンス理論で用いられる「リスク」とは不確実性を指す。
不確実性とは「予想していた事象が起こる不確からしさ」を意味する。つまり「危険なことを好まざることが起こる可能性の高さ」というわけではない。
これを統計学で表現すると「標準偏差」ということになる。
◯リスク、ばらつき、ボラティリティ(予想変動率)の大きさとは、出発地点から到達地点までどれほど寄り道して動いたかを意味する。
出発地点から到達地点まで最短距離(つまり直線)で動いた株式のリスクはゼロである。
その株式の価格がどれほど動いたかどうかとリスクは関係がない。リスクは結果ではなく、それまでのプロセスを重視する。
◯モダンポートフォリオ理論
1990年にノーベル経済学賞を受賞した米国のハリー・マーコヴィッツ氏が1952年に発表した「ポートフォリオ選択論」から端を発する。
ばらつきを打ち消し合ってくれる投資を組み合わせることでリスクを低減できる。
将棋のプロ棋士二人と闘うゲームも「どちらかに勝てば必ずどちらかには負ける」というポートフォリオの状態を作ることで、「両方に勝つ」(ほとんどありえない)や「両方に負ける」(一番可能性が高い)というばらつきを回避できたのだ。

将棋のプロ棋士二人と闘うゲームは、シドニー・シェルダンの『ゲームの達人』にヒントを得たとの話だが、非常に面白い仕掛けなので、興味のある方は本を読まれたし。

◯ポートフォリオ以外のリスク回避手法としてはオプション取引がある。
オプション取引をすることによって、将来のキャッシュフローのばらつきを無くす(=リスク回避)ことができる。
オプション取引のリスクを回避するために株式を売買することを「デルタヘッジ」と呼ぶ。
◯ストック・オプションの価値は株価のばらつき(予想変動率)からくるので、その会社の株価上昇の見込みとは関係がない。

人間の感覚(脳の感じ方)と実際の理論値との違いという前段も面白いが、後段のファイナンスの世界における「リスク」(=不確実性、ばらつき)という考え方も非常に面白かった。


<面白小ネタ>
◯現存する最古の鋳造貨幣は紀元前7世紀にリディア王国で作られたエレクトロン貨と言われている。
◯日本における最大のギャンブルはパチンコで1995年には年間30兆円もの売上があったが、2011年には19兆円(▲37%)になった。
競馬は1997年に4兆円を売り上げたものの、2012年には2.3兆円(▲42%)まで落ち込んでいる。
ところが宝くじは2005年に1.1兆円の売上を記録してから2010年に0.91兆円まで落ち込んだものの落ち込み率は▲17%と、パチンコや競馬の半分程度に留まっている。
宝くじの払い戻し率は法律によって50%を超えてはならないとされている。
これに対し、公営ギャンブル(地方競馬、競艇、競輪、オートレース)の払い戻し率は74.8%になっており、宝くじより良心的である。
◯有史以来、人類が発掘した金の総量はざっと15万5000トンに過ぎない。これはオリンピックの公式プール約3杯分という。
◯ダイヤモンドの価格は、デ・ビアス社によってコントロールされている。
◯一都三県の築浅マンション(築10年以内)であれば次の簡単な計算式で、ほぼ適正な価値を出せる。
マンションの価値=毎月の家賃×200倍(割引率6%)
東京都、しかも港区や千代田区など都心部にある築浅マンション(築10年以内)であれば
マンションの価値=毎月の家賃×240倍(割引率5%)

実は最後のマンション価値のところが実際の業務では役に立つ部分かもしれない(笑)。

2015年4月26日日曜日

つなぐLab vol.007

 立教大学 異文化コミュニケーション研究科 特任准教授中西紹一先生による第7回「つなぐLab」。
今回のテーマは「アートでつながる瞬間」。

昨年度の六本木アートナイトで作品を出展した西尾美也氏のアート作品(アートプロジェクト)について、その製作参加者の意見も聞きながら洞察を深めるというものだった。

今回テーマとなった西尾氏のアート作品は、人間の家[スカート]、花柄/花、ボタン/雨と3つあるのだが、いずれも2800着の古着を集めて、総勢50名のボランティアスタッフによる約3ヶ月弱の製作期間を経た作品だ。
https://www.youtube.com/watch?v=oKAbZKcvzOU

西尾美也氏本人によるアートの意図の概要説明があった。
「服」というものは実は初見の先入観につながったりするので、深いところで実は分断する要素になっている。 その「服」という要素を使って「つながり」を表現したかったとのこと。

最初にボランティアの人たちから、アートプロジェクトに参加して何が変わったかを各々聞いた。
・今回参加の3/8の人が離職してしまった。(覚悟を持てて、仕事を辞めることができた)
・他のアート作品に対する見方が変わった。(アート作品そのものだけでなく、作品が作られた背景やプロセスなども気になるようになった)
・自分で購入する服が変わった。
・コミュニケーション能力がUPした(それまで、自分は「モノづくりの人」でコミュニケーションは正直苦手だった)

その後何組かに分かれて、参加していたボランティアの話を聞いたのだが、その気づきが面白い。
・途中からでも、すっと入れる雰囲気があった。
・ディレクターからのディレクションに「入りやすさ」の要素が埋め込まれていた。
(「自分がやっても良い」という安心感がある)
・しばらくすると作品作りではなく、人との対話、自分との対話になっていった。
・いつ来てもいいというゆるさもあるが、ボランティアをやめてしまった人はいない。
・ある瞬間から自分事化した(ダイブの瞬間)。
(でもこの「瞬間」は人によって異なる)
・実はこのチームの人間関係のつながりも西尾作品の一部と聞いてハッとした。

話を聞いていて、最初は入り易く、どこかで自分事化する瞬間がある(「ダイブする瞬間」という表現だったが)というのは正統的周辺参加のデザインと似ているのではないかと勝手に感じた。


たまたま法政大学社会学部 土橋先生と同じ組になれたので、このアートプロジェクトに対する土橋先生の見方を知ることができた。
曰く、
最もプライバシー性の高い私的所有物である「服」にハサミを入れ「解体」することで、私的所有を放棄しそれを公共空間に放り込む。
それがまた多くの人(ボランティア)の手によってアート作品となり、再び公共空間へ戻る。
プライベートで参加したボランティアが、「アトリエ」という場所に集うことでアトリエがパブリックな空間になっていくことと二重にシンクロしているアートプロジェクトである、とのこと。
社会学の先生の抽象化のスゴさにちょっとビックリした。

「まず切らないとつなげられない」ということを表現しているとの話もあった。

最後に、中西先生より、今回のテーマをアルフレッド・ジェルのアートネクサス論的に解説してもらったのだが、今ひとつ理解できずにモヤモヤ感が残る。
このモヤモヤ感こそがワークショップの醍醐味だったりもするのだが、このモヤモヤ感がスッキリ腑落ちするようまた精進せねば。

2015年4月12日日曜日

『アブダクション 仮説と発見の論理』

PSJ 中西紹一先生による『イノベーション道場』という講座が社内であり、そこで紹介された本。
米盛裕二氏の著作で、記号論理学の創設者チャールズ・S・パースによる「アブダクション(もしくはリトロダクション)」と呼ばれる推論手法について書かれたものである。

中西先生の講義はその「アブダクション」について、より実践的、実務的に説明されたものであった。

では本書で説明されている、ちょっと学問的な「アブダクション」の概略について書こう。

<そもそもアブダクションとは>
パースによるアブダクションの推論の形式を書くと

驚くべき事実Cが観察される、
しかももしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
よって、Hが真であると考えるべき理由がある。

驚くべき事実C:我々の疑念と探究を引き起こすある意外な事実または変則性のこと
H:「驚くべき事実C」を説明するために与えられた「説明仮説」

これを難しい記号で書くと
C,H⊃C/∴H
となるらしい。(正直訳が分からん)

具体事例で述べると、
「陸地のずっと内側で魚の化石のようなものが見つかった」(←驚くべき事実C)
しかし、もしこの「この一帯の陸地はかつては海であった」と考えれば当然の事柄であろう。
よって「この一帯の陸地はかつては海であった」と考えるべき理由がある。
と考える推論の仕方だ。

この手法で推論され、当時見つかってなかった海王星が実際に発見されている。


<推論3種>
パースによると推論は3種類に分類される。

推論(inference)— 分析的推論(analytic or explicative inference)—演繹(deduction)   
          — 拡張的推論(ampliative inference)— 帰納(induction)
                            — アブダクション(abduction)

分析的推論と拡張的推論の違い
(1)分析的推論は推論の内部における前提と結論の論理的な含意関係の分析にのみかかわるのであり、外的な経験的事実の世界には関わらない。なので分析的推論は経験的事実による反証にさらされることがなく、いわば経験から独立に成り立つ推論。一方拡張的推論は経験に基づく推論であり、経験的事実の成果に関する知識や情報を拡張するために用いられる推論。
(2)分析的推論では、前提から結論に至る過程において前提の内容を超える知識の拡張はない。一方、拡張的推論の結論は、前提以上のことを主張する、つまり前提の内容を超えて、前提に含まれていない新しい知識や情報を与える。
(3)分析的推論の場合は、前提の内容の中に結論が含意されているので、前提が真であれば結論も真でなくてはならないという必然性の関係が成立する。一方拡張的推論は、その本性上、蓋然的な推論である。つまり拡張的推論の場合は、前提が真であっても結論は偽であるということがあり得る。


では次に、拡張的推論が帰納とアブダクションに別れるその2つの違い。
パースによると、帰納は観察データに基づいて一般化を行う推論であり、これに対し、アブダクションは観察データを説明するための仮説を形成する推論。
「帰納と仮説の大きな違い(the great deference between induction and hypothesis)は、前者の場合は我々が事例の中に観察したものと類似の現象の存在を推論するのに対し、仮説は我々が直接観察したものとは違う種類のなにものか、そして我々にとってしばしば直接には観察不可能な何ものかを仮定する、という点にある。」

帰納的飛躍(inductive leap)…我々が事例の中に観察した着目現象はそれらの事例と同種の事象のクラス全体においても存在するという風に、既知の部分からその部分が属する未知のクラスへの飛躍であり、それはつまり同種の観察可能な事業のクラス内における一般化の飛躍。
仮説的飛躍(abductive leap)…我々が直接観察したものとは違う種類の何ものか、そして我々にとってしばしば直接には観察不可能な何ものかを仮定する、いわば創造的想像力による推測の飛躍。
従って、帰納とアブダクション(仮説)の推論の可謬性には明白な違いがある。アブダクションは帰納よりもいっそう過謬的な弱い種類の推論である。

説明されてもちょっと分かりづらい。
これはこれでおいておいて、使われ方の面から説明を受けた方が違いが分かりやすい。

パースによると、科学的探究の過程は三種類の推論(演繹、帰納、アブダクション)から成り立っており、これら三種類の推論は科学的探究の過程における三つの段階を形成している。
その第一段階はアブダクションであり、第二段階は演繹であり、第三段階が帰納。
アブダクションで仮説を考えだし、演繹で(その仮説から必然的かつ確率的に導かれる)諸帰結を追求し、帰納で仮説をテストする。
だから、帰納とアブダクションは探究の過程においてそれらが占める位置も、それらが果たす機能も違う。
アブダクションは探究の最初の段階(発見の文脈)において仮説を形成する推論であり、 帰納は探究の最後の段階(正当化の文脈)において仮説がどれだけ経験的事実と一致するかを確かめ、仮説を確証ないし反証する操作である。
アブダクションは理論を求める。帰納は事実を追求する。
アブダクションが取り扱う事実は、説明を要する事実。だからアブダクションが行う観察「アブダクティブな観察(abductive observation)」は仮説や理論を発案する、いわば着想のための観察。
これに対し、「帰納は事実を追求する」。
帰納の役割はアブダクションによって提案された仮説や理論を実験的にテストするのに必要な実証的諸事実を追求し、それらの事実を出来るだけ多く集めることである。つまり帰納が行う観察「帰納的観察(inductive observation)」は仮説や理論の確証ないし反証を行うための実験的実証的観察なのである。

要するに、仮説を立てるために使われる推論の手法がアブダクションで、それを実証するために使われる推論が帰納。どっちも演繹とことなって論理に跳躍(leap)があるんだけど、その確からしさは異なる(アブダクションは帰納より可謬的)ということだ。

著者によると、帰納主義者のフランシス・ベーコンや、ジョン・スチュアート・ミルらは、仮説がある前提での帰納がベースとなっており、仮説がどのように導かれたかについての考察はない。
二人とも仮説の提案が必要であり、帰納的探究は仮説によって導かれるという仮説の概念認識が欠如していた。


確かに、会社でも常に「仮説と検証を」「PDCAを回せ」と言われ続けているが、仮説やPLANをたてる方法論というものについては特になく、「現場百回」とか「観察して洞察せよ」とか概念的なものだけで、後は「ひらめき」のようなものに期待するということしかなかった。
「イノベーション」という、「改善」とは異なり、不連続を期待されるものをどのようにして発想して仮説をたてるのかということについての方法論は論じられてなかったし、まさにひらめきに期待する以外の方法論をもっていなかった。
それを今回中西先生の「イノベーション道場」ではパースのアブダクションをベースとした方法論を教示いただいた次第である。

科学的探究の過程になぞらえて、企業における業務推進の過程を考えてみると
アブダクション(マーケット・ターゲットの仮説の策定)→演繹(実践し、その実績をベースとしたルール化・必勝法の確立)→帰納(必勝法に基づいた実践、横展開)
という感じになろうか。
そう考えると、帰納<演繹<アブダクションという順に難易度が高く高次な業務ということになるのではないか。
よく社内で「ルール通りに仕事をするだけ(帰納)ならアルバイトで足りる。ルールを変えるの(演繹)が社員の仕事」と言われる。
さらに上をいくスーパー社員を目指すには「仮説の策定(アブダクション)」というところまで要求されるということか。
その仮説の立て方を「ひらめき」のようなものに依存するのではなく、一定の手法として論法化しているところが中西先生の実践的でスゴいところだと感服した。

理屈は教わったので、後は実践あるのみ。