2014年7月27日日曜日

『先を読む頭脳』

羽生名人と、人工知能の研究者 伊藤毅志、認知科学の研究者 松原仁の二人の著作。
羽生さんのトークに対して、二人の研究者が解説をするという形で書かれている。
この本もE社齋藤社長のお勧め本第2弾。

羽生さんの世界観は昔から好きで、今回もいくつか「だよね〜」と思った点があるのでピックアップする。

<プロとして大成するための素養>
プロになるためには、もちろん持って生まれた先天的なセンスや能力が大事だと思いますが、それ以上に必要なものがあると私は思っています。
それは例えば、非常に難しくてどう指せばいいのかわからないような場面に直面したとき、何時間も考え続けることができる力。
そして、その努力を何年もの間、続けていくことができる力です。
一言でいえば、継続できる力ということでしょうか。
プロになる上では、先天的な頭脳の冴えといようなことよりも、その「継続力」が大事な要素になってくると思います。
指している将棋を一目みれば、その人にセンスがあるかどうかというのは確かに分かります。しかし、それではセンスのある子がプロになって大成するかどうかと聞かれたら、すぐには分からないというのが正直なところです。
それは、この「継続力」まではなかなか見抜くことができないからではないかと考えています。

小頭がいい、というのと自ら切り拓いていける能力は違うということ。
以前、羽生さんの著作で、
「最近はコンピュータの発達により過去の棋譜を簡単に調べられるなったため、高速道路が敷かれているのと同じで、あるところまでは非常に速いスピードで到達することができるようになった。
だが、過去の事例がなくなる高速道路の端部では渋滞が起こっており、そこからは、今までの過去の事例を身につけるという能力よりも、自ら新たな道を切り拓いていく能力が必要となってくる」
と述べていた。
センスのいい悪いは直に見分けがついて、プロとして一定のところまでいけるかどうかを見分けるのは出来るが、そこから先、プロとして一流になるべく、自ら新たな道を切り拓いていく能力があるかどうかを見極めることは簡単ではない。
羽生さんは、その「自ら新たな道を切り拓いていく能力」を「ずっと考え続けることができる継続力」と述べているように思う。



<手を使うこと>
私は研究する際には、必ず実際の将棋盤と駒を使っています。パソコンも使っていますが、それは主に棋譜を検索するために利用しています。
私は、パソコンの画面でマウスをクリックして動かすのと、実際の盤上で駒を動かすのとでは、蓄積される記憶の質が違うように感じています。 一言でいうと、パソコンの画面上での研究は、「目で見ている」という感覚になってしまいます。それに比べて盤上で駒を動かしていると、「手で覚える」という感じがします。
両者を比較した場合、やはり手で駒を握るという感覚がとても大事なのだと思います。
待ち時間が切れて秒読みになったときに、最後に頼りになるのは、経験に基づいた”勘”ということになります。
将棋の世界では「指運」という言葉を使うことがあります。
どうにも分からない局面で、時間に追われ、指の赴くままに手を選んで勝敗が決するような状況、このような状況の時には、最後は勝負勘の鋭い方が勝ちます。

これは言い訳なのだが、昔から書類に目を通す時には印刷物に線を引かないと頭に入らない。
最近はペーパーレスというのうのが流行で、極力画面で確認して印刷しないことを励行されているのだが、どうもこれだと頭に入らなくて困っている。
勢いついつい、印刷して、それに線を引っ張って机の片隅に積んでおいてしまう。
机が汚いと言われる要因でもあるのだが、上記の羽生さんの話しを聞いて、
「そうそう、俺も手で覚えているんだよ」
といういい言い訳を教えていただいた感じだ。


<読み〜経験に基づくフォーカス>
私の場合、ある局面に向き合ったら、まず読み始めの段階で「指すとすれば多分この二つか三つの手だろう」というように、候補手を数手に限定します。カメラに喩えるなら、フォーカスを絞っていく感じです。
また、私は序盤戦においては、自分が何をやりたいかというよりも、できるだけたくさんの可能性を残しておくこと、そして相手がどのようにやってきても対応できるような手を指すことに重点を置いています。そのために、序盤では自分が何かを主張するよりも、いかに相手にうまく手番を渡すかということに非常に苦心をしているのです。
もう一つ、将棋の指し手を考える上で重要だと思うのは、一つの局面である手を指すことは、自分にとってマイナスになる可能性が高いということです。
つまり、将棋というゲームはお互いが一手ずつ指すことで進行していく訳ですが、私の考えでは一手指すことがプラスに働くことはむしろ非常に少ないのです。
このように言うと驚かれるかもしれませんが、指さないで済むならば指さない方がよかったというマイナスの手の方が実際には圧倒的に多いのです。
だからこそ、将棋では形勢逆転が頻繁に起こるのだということもいえると思います。 将棋の思考法として、「この手を指すくらいだったら、むしろ指さない方がいい」という手を見極めることがとても大切なのです。
それを理解するだけでも、かなり多くの選択肢を消去することができると思います。 自分は選択の幅をたくさん残しながら、相手の手は限定されるように指していって、ゲームが進むにつれて、最終的に相手には戦略的に有効な手がないという場面をつくり出すのが、理想的な指し方になるのです。
私の場合、形勢はある一つの局面だけで評価するのではなく、それまでの指し手の流れの中で判断するようにしています。それまでの手順で積み重ねてきた一手一手の方針や方向性に、現在の局面が合致しているかどうかということを考えるのです。


初級者よりも中級者の方が次の手を決めるための平均回答時間が長いが、上級者→プロ棋士となると回答時間は短く、読みの速さは上級になるに従って速くなるが、読みの量(手数)は、プロ棋士や名人はむしろ少ないのだそうだ。
プロになると、大局観という「経験」により指し手を絞ることが可能で、フォーカスして絞った指し手を深読みするようになるということだ。
また、面白い話しだと思ったことは、将棋においても「動かない」ことが最上の指し手となることがあり(むしろ多く)、それを見極めることが非常に大切であると羽生名人が言っていることである。
ただ、2人だけでやっている競技でなければ、この「相手にうまく手番を渡す」という戦略は難しく、多数のプレイヤーが存在する競技(この世のビジネスはほとんどそうだが)においては「できるだけ(自分に)たくさんの可能性を残しておく」ことが大切になるであろう。
そうした基本戦略においても羽生名人は「それまでの指し手の流れの中で判断する」らしい。この辺りが後で出てくるコンピュータとの違いであろう。


<好不調について>
どんな勝負事でも同じだと思いますが、一年を通して常に好調を持続するのは困難なことです。自分自身で不調を意識することも、年に何回かあります。
ある意味ではそれはバイオリズムのようなものだと考えています。ですから意識して修正しようとしても難しく、ダメな時はダメで仕方ないと思っているところもあります。
好不調はバイオリズムのようなものと言いましたが、調子が悪くなるというのは風邪をひくのと似ていると思っています。
多くの人は、一年に何回かは風邪をひくのではないでしょうか。風邪というのは、一度かかるとすぐに治るものではなく、またいつ治ったのか明確に分からない病気です。大事に過ごしているうちに、いつのまにか治っているということが多いと思います。

羽生名人は「内面のメンタルな部分」についてはいかんともし難い、と言っているのに対し、将棋界全体の戦型の流行という「外的な要因」についてはある程度調整が可能で、自身も不調の際にはまずその部分をどうするかを考えることが多いという。

「体調管理もプロの手腕の一つ」とよく言われるので、「風邪引いて調子が悪い」というのは言い訳にならない気もするが、メンタルの不調というのは「風邪と一緒でかかるのはやむを得ないし、かかっても時間が解決するしかない」という考え方だから泰然自若でいられるのかもしれない。さすがスーパー名人は普通のプロとは発想そのものが違う。


<言語化について>
感想戦において言語化して相手に伝え、相手からも受け取るというやり取りは、時として1+1=2以上の効果を生むことがあると思っています。つまり、感想戦とは一種の学習する場であり、そこでの蓄積が後で実を結ぶことがあるのです。
私はマスコミの方の取材を受ける機会がよくありますが、そこで自分の考えをまとめて話しすることも、実は将棋にとってプラスになることがあると思っています。
自分の考えを時折、言語化してみることの意味は大きいと考えています。

ワークショップにおいても、「体験」を振り返り言語化することによって「経験」とすることが出来る、というフレームワークがあるが、将棋においても一局を最大限自分の血肉とするには、感想戦において言語化することが大切だということだ。
さらに言うと、感想戦以外でも自らの考え方を言語化して発信することは非常にプラスになると気付いているという点が、羽生名人のただならぬところであろう。


<コンピューター将棋>
現在のコンピュータ将棋は、相手が想定外の一手を指すと、一手前に考えいたことをリセットして、またそこから考え始めます。ですので、数手前に指した手とは全く連関のない、あるいはそこまでの流れを無視した、人間から見るととてもチグハグした手を指すことがあります。コンピューターには「流れ」がないのです。
プロの棋士はよく「棋理に合った手」問い言葉を使いますが、それは要するに手の流れや局面のバランスから考えて理にかなった手ということ。その感覚で見ていくと、コンピュータの指す手はとんでもなく支離滅裂に見えることがあります。
ただ逆に、指し手の連関性や整合性を考えないからこそ、コンピュータが今まで人間が思いつかなかったような新手を発見する可能性もあるといえます。
手の流れを考えてそれに沿うように指す人間は、固定観念に縛られているとも言えます。
そこから全く離れて考えた時に、常識を覆す手を発見することは十分あり得えます。

実は羽生名人は、他のプロ棋士がびっくりする様な新手を打つことで局面を打開し、それが「羽生マジック」と呼ばれている。
解説者からすると、流れとちょっと違う新手を打つということに関して羽生名人は一番コンピュータに近いのではないか、とのことだ。
経験に基づいた「流れ」と全くそれを無視した「手」。1/fゆらぎではないが、その間にこそ、今まで考えもしなかった「妙手」が存在するのではないか。


<将棋の駒の使い方について>
将棋には王将、金将、銀将、飛車、角行、桂馬、香車、歩兵という8種類の駒があります。
それぞれの駒に関する私のイメージを言うと、金は守りの駒ですが、終盤で持ち駒に金が入るとおおよそ一手稼ぐことが出来るのです。
金一枚で、「とりあえずこれで勘弁して下さい」という感じで、一手引き延ばして凌いだ経験が何度もあります。
桂馬は二枚のうち一枚は使う駒で、一枚は取られる駒だと感じています。だから両方使えることは滅多になく、使えた場合はほとんど局面が有利に進んでいます。
香車は全く役に立たないことも結構多いのですが、相手の香車を取る展開なったときは、攻防の一手として使えることがよくあります。ですから、自陣にいる時は「スズメ刺し」など特殊な先方以外は活躍しませんが、取ったり取られたりした後で重要になってくる駒だと思います。
よく言われることですが、歩は一番使い方の幅が広い駒です。歩の使い方で勝負が決まることが多いのは間違いありません。
角は局面によって価値が非常に大きく変わる駒です。ポイントの高い時と余り必要でない時の落差が大きいのです。
飛車は大きな要の駒であり、活動性を重視しなくてはならない駒です。逆に言うと、飛車の位置が決まると他の駒の位置も決まることになります。だから飛車をどこに置くか、どこに動かすかは非常に重要で、後の駒組は自然に決まっていくことになります。
王は、それ自身が強い駒だと感じています。 守る時に、王様自身で守れるケースは予想外に多いのです。大駒以外は接近してくるどの駒より王様の方が強いわけですから、その強さを意識して指すことは重要なことだと思います。 駒に関してプロの棋士に共通して言えるのは「馬」と「と金」を作ることを好むということです。つまり、その二つの駒がとても価値の高いと思っている人が多いということです。
特に、「と金」ができると長期戦に勝ちやすくなることは確かです。「と金」ができたことによって、それだけで相手にプレッシャーがかかることがよくあるのです。 逆に「と金」を作られると、すぐに勝負に行かないといけなくなる場合が多いのです。 従って、プロ同士の勝負では、お互い簡単には「と金」を作らせないよう腐心することになります。
プロ棋士でも8種類の駒の中で、どの駒を使うことが多いかは人によって異なります。そこにその人なりの「棋風」があらわれてくるとも言えるでしょう。
ちなみに私の場合、ある人が統計を取ったところ、全ての駒の中で銀を良く使っているそうです。 囲いを作り攻めの形を作って展開していくときに、銀という駒はつなぎの糊のような働きをします。糊をたくさん使わないと、中々駒がつながらないのです。
私は駒組のとき、駒のつながりということを強く意識しているので、必然的に銀を良く使っているような気がします。

羽生名人の「駒」観。
組織でも人ごとに実は働きが違う。これを見極めて戦局にあてはめることが出来るかどうかで結果が変わってくる。
飛車はその位置で全体の配置が変わってくる駒であるとか、角は落差の大きい駒であるとか、「と金」は長期戦に強い駒であるとか、王はやっぱり強い駒であるとか。
なるほど、というような「駒」観があったので、今回の最後に記載させてもらった。


羽生名人、強いだけでなく、人としても一流だな、と思うことが度々ある。
一度会って話してみたいものだ。





2014年7月21日月曜日

富士登山

兄から富士登山に誘われた。
いつのまにやら既に10回も登っている「富士登山通」になっているらしい。
というわけで、うちの次男坊を連れて3人で富士登山に挑戦することとした。

行く前は「初めての富士登山、楽しみだね〜」などと気軽に考えていたのだが、これがまさか身の危険を感じるような事態につながるとは、つゆ思うこともなく富士登山は始まっていった。

初めての場合、須走口か富士宮口がいいということで、須走口を選定。
登山は10時半から。
最初は意気揚々と登っていったのだが、7合目を過ぎた当たりで豪雨が。
(後で知ったが、この日は関東圏でも豪雨だったらしい。。天気予報ではちょい雨くらいのイメージだったんだけどね)

【一つ目の想定外『豪雨』】
・ジップロックに入れたはずの携帯電話類が浸水。結局いまだiPhoneの画面が立ち直らず。
・次男坊が、雨が降り出した当初レインスーツの下を着けずに「平気だ」とのたまうのでそのままにさせたところ、高度が上がり気温が下がることでずぶ濡れ状態に耐えられず。(当たり前だ!)
・ザックの中のものは全てビニール袋等でカバーしておけ、という教えを次男坊が守っておらず、用意した着替え一式がずぶ濡れ。
・とはいうこちらも豪雨にも関わらず、ちゃんとレインスーツの手首足首をしばらなかったので後で山小屋で気がついたら結構雨が侵入。
・同様にザックのレインカバーもきっちり絞りきれておらず、出し入れしやすいよう下部にいれておいた軍手はあっという間に使用不能に。
・ゴアテックスの靴も豪雨には耐えきれず浸水。途中からアンクルウェイトを着けながら登山しているような状況に。
・登山道も途中で豪雨のため、水道(みずみち)ができて流れていた。あたかも白神ラインでみたような感じの水道の縮小版。
ちょっと遠くを見回すと、50mほど向こうでスゴい鉄砲水。それはそれは恐ろしい勢いで、きっとあれはそういうことが登山道で起きないように敢えて(鉄砲)水道をつくっているのだと思い込む。(とてもじゃないが映像を撮る余裕なし)

【二つ目の想定外『高山病』】
・8合目を過ぎたあたりでも素手だったこともあり(持っていった軍手は既に濡れ濡れで使用不能)、手が真っ白くなり、寒さのためか手がかじかむ感じで感覚が無くなり、栄養補給のため持っていった塩キャラメルの袋が開けられず。

今思えば高山病のためか、最後は牛歩のような足並みでなんとか登頂。
そう、山小屋に辿り着けば、濡れたギアは乾かせて、温かい場所で寝ることができる、体力回復ができるはずだという望みだけを胸に、雨と寒さの中で登頂を果たした。
が、それは甘い希望であった。。
(でも何度も富士登山をしている兄は知っていたはずだったのだが)


結局16時半頃、山小屋 山口屋に到着。
【三つ目の想定外『山小屋』】
・濡れたギアと寒さによる疲労を回復する期待をしていた山小屋だったが、到着直後に「濡れたものはそのままビニール袋に入れて枕元において下さい」との指示。その瞬間、明日も濡れたギアでの出発が確定。希望が打ち砕かれる。
・寝る場所を案内されるとなんと、幅40cm程度で枕が敷き詰められている場所で、「荷物は自分の頭の上の部分において下さい。あ、濡れたものはここで御願いします」と頭の上に置かされる。濡れた次男の着替えで埋もれたザックの下部に入った諸々(一応寝酒でウィスキー持ってきたんだけど・・)は出すことすら能わず。
寝る部屋はこんな感じ。
分かりづらいけど、白い枕の部分が一人分の幅。
その頭の上部と棚の上が荷物置き場でそれで全て。

2階の寝室。
この日はキャンセルが多かったみたいで、向こうはガラガラだった。
・着替え部屋に案内されて、「ここで着替えをして下さい」。その際、次男坊が着替えるはずの服は全て豪雨によりびしょ濡れ。本来自分が着るはずだったフリースとUNIQLOのヒートテックを貸与。自分は長袖シャツ1枚のみという体たらく。。
さすがにズボンの替えがないと言ったら山小屋の人が、ズボンを貸してくれた。
(でもなんか布団を濡らされないようにするため感が強く、あまり感謝の念が湧いてこなかった。感謝せないかんね。)
・山小屋で唯一の補給食であるカレーを食べている隣で、20代と思われる若者二人が話している。一方は今回の富士登山を誘った側、もう一人は誘われた側らしい。
「俺、、本当申し訳ないけどさぁ、次富士山誘われてもこんなんじゃぁ、行くとは言えないわ。次はないわ」
とか言っている。全く同じ気分でいたけど、ここで言ってても始まらないと思いながら苦笑い。
・18時頃カレーを食べて、そのまま就寝。 とは言っても、狭いこともありぐっすり眠れずに1時間毎に目が覚めるのを繰り返す。
・夜は、うめき声を上げる人とか、隣の兄の寝息が「クプッ」という音になってビビったりとかを繰り返す。隣の人間の動きが(寝返りなんかはできない)幸か不幸か分かるのでゆっくり眠ったりはできない。

夜中は身動きできない状態で、高山病と思われる頭痛がしてくるし、
「本当に自分はこのまま高熱を発して無事の帰還はできず、体調を壊してブルドーザーとかに乗せられて下山するのではないか」
などという恐怖の妄想が襲ってくる。

「水の値段とか考えると、下界の3〜4倍位。一泊一食付き7,000円という値段も同じ比率だとすると下界の2,000円位のイメージ。だとすると山谷のような寝床(泊まったことないけど)でも妥当なのかも。基本的に、山の人が自分でテントの中でビバークする代わりに、温かい寝床と(美味しいかどうかは別として)温かい食事を出してくれる、と考えればありがたい存在なのかも」
などという前向きな発想は全て下山してから。
その時には「あかん、これは無事では帰れない。このまま凍え死ぬのではないか」という妄想が頭をよぎる。
でも、最初もぐりこんだ布団が人肌で温かくなってたりとか、保温という意味では確保できていたし、頭痛も薬を飲んだら良くなった。
3時頃には体調も大分復活した感じがあって、外を見に行く余裕も出た。

御来光を見るために夜中に登山してきた人たち。

夜中に登山してきた人たちへの食事。
朝の3時半の様子です。


朝は4時半に下山開始。なんと体調は復活。
御来光も雲海も見れて、それはもう最高!!

御来光。

下山する人々。雲海が美しい。

雲の合間から光がさす、天使の降臨。


昨日の疲れも吹っ飛び、気分も高らかに下山。

下りは登りの半分の3時間程度で、7時半には5合目のバス停までおりる。

御胎内温泉に浸かって、それから近くの有名店「魚啓」へ。11時前には行列。 特上海鮮丼@2,160円也を3人で注文。かき揚げについてはおばちゃんから「座布団の大きさが2枚でますよ」を言われて怯む。そんなん誰が食べるんじゃ。

魚啓の特上海鮮丼。酢飯と普通のご飯と選べる。


12時過ぎに魚啓を後にし、帰途へ。
次男坊は「また来たい。富士山の4登山道を全て制覇したい。エベレストにも登りたい」など宣っていた。
まずはちゃんと言われたことやらんかい!



2014年7月13日日曜日

『経営戦略全史』

色々とポイントポイントでは知っている経営戦略だったり、フレームワーク。
それを経営戦略史としてまとめた大作。
この本を読み解くのにここ2ヶ月近く要したので、他の本が全く手付かずになったという個人的にもガッツリ取り組んだ本である。

まとめてしまうと著者が本の前段と後段でまとめているのがあるので、それを読むのが分かりやすいのだが、何せ20世紀初頭から100年を概観し、延べ人数132名の経営戦略論を歴史的な流れとともに書いているので、何ともボリューミー。
内容もこれでもか、という位分かりやすく書かれているのだが、それでもボリューミー。
という訳で今回の投稿はボリューミーである。


この数十年間の経営戦略史をもっとも簡潔に語れば、 「60年代に始まったポジショニング派が80年代までは圧倒的で、それ以降はケイパビリティ(組織・人・プロセスなど)派が優勢」 となる。
ポジショニング派(マイケル・ポーターなど)は「外部環境が大事。儲かる市場で儲かる立場を占めれば勝てる」と断じ、ケイパビリティ派(ジェイ・バーニーら)は「内部環境が大事。自社の強みがあるところで戦えば勝てる」と論じた。
この二者の戦いは、別の側面を持っていた。大テイラー主義とも言われる「定量分析」と、大メイヨー主義と仮に名付ける「人間的議論」の戦いでもあった。 フレデリック・テイラーらを祖とする、定量的分析や定型的計画プロセスを信奉していた大企業群が、1973年のオイルショック前後の大不況に沈む。
一方、人間関係論の始祖ジョージ・エルトン・メイヨーの流れをくむケイパビリティ派(の半分ほど)は「企業活動は人間的側面が重く、定性的議論しか馴染まない」と考える。
でも、ポーターはつぶやく。 「戦略の開発には、何らかの分析技法が望ましい」 分析できないものを、大企業内でどう納得を得よというのか。逆説的だが、人間関係論による経営戦略は、独裁者によってのみ可能なのかもしれない。
スーパージェネラリストのヘンリー・ミンツバーグは唱える。「全ては状況次第。外部環境が大事な時にはポジショニング派的に。内部環境が大事な時にはケイパビリティ派的にやればよい」
21世紀に入って、経済・経営環境の変化、技術進化のスピードは劇的に上がり、今までのポジショニングもケイパビリティも、あっという間に陳腐化する時代になった。 そこで出てきたのが、アダプティブ戦略。「やってみなくちゃわからない。どんなポジショニングでどのケイパビリティで戦うべきなのか、ちゃっちゃと試行錯誤して決めよう」というやり方。


さぁ、これだけで「フムフムなるほどね」という人はもうこの本を読む必要はないのだが、大抵の人は何を言っているのか分からないだろう。
でも多くの人が知っているSWOT分析とか、PPM(プロダクト・ポートフォリオ・マネジメント)とか、バリューチェーンとか、CRMとかブルーオーシャン戦略とか。
どんな歴史の流れの中で生まれてきたのか、そして今はどのようなものが最先端の経営戦略となっているのか、みたいなものが概観できるのがこの本のスゴいところ。
もうちょっと詳しく見てみよう。(これも著者が後段でまとめているのをほぼそのまま)


【経営戦略まとめ】
[経営という山をつくった人々]
・「経営」を工場や現場の科学的管理だとして、その生産性向上とともに作業者の働きがいアップを図ったのがフレデリック・テイラーだった。「科学的管理」という名の現代的経営論の源流。
・そこにホーソン工場実験で有名なエルトン・メイヨーが「人の生産性は労働条件やプロセス改善だけでは決まらない」として「人間関係論」を打ち立てた。賃金や労働条件だけではないソフトな「やる気」が大切だと。
・「経営」とはもっと広く、企業活動の統制(administration)が中核だと、その諸活動の定義とともに明らかにしたのがフランス人経営者のアンリ・フェイヨルだった。20世紀初頭の話しである。
・しばらく下って1929年、アメリカに端を発した世界恐慌が企業に「経営」の大切さを痛感させる。「豊かな大衆」による市場の拡大に頼った、成り行き任せの経営ではまずいと悟ったのだ。経営という名の山は、高く険しいのだとチェスター・バーナードは経営者たちに語りかけた。
・そしてピーター・ドラッカーはその山を「マネジメント」と呼び、その山の未来について数々の予言を残した。

[「登りやすい道を探せ」とポジショニング派は言った]
・まず「経営戦略はアートだ」としながらも一定の分析方法や構築手法を示したのがイゴール・アンゾフ(「アンゾフ・マトリクス」で成長ベクトルを示した)やアルフレッド・チャンドラー(「組織は戦略に従う」)、ケネス・アンドルーズ(「SWOT分析」を広めた)達だった。
・その後1960年代になって経営戦略に特化したコンサルティング会社BCGが生まれ、戦略オタク、ブルース・ヘンダーソンのもと、「経験曲線」や「成長・シェアマトリクス(PPM)」、「持続可能な成長の方程式」などの経営・事業分析・管理ツールを生み出した。数字や事実に基づいた極めて分析的な手法で、後のその姿勢は「大テイラー主義」とも呼ばれた。
・その「事業環境分析」部分を「5力分析」で強化し、企業活動を「バリューチェーン」で再定義したのが、HBSのチャンピオン、マイケル・ポーターだった。経済学の手法を(かなり無理矢理)、経営学に取り入れたことが勝因だった。1980年代のことである。
・経営戦略とは「儲かりうる市場」を選んで、そこで「儲かる位置取り」をすること(ポジショニング)で、組織や人はそれに合わせて強化すべき、とするポジショニング派がここまで優勢だった。経営という山を登るには、適度な山を選び、登りやすい道を探すのが一番だと。

[「登りやすい方法で登れ」とケイパビリティ派は言った]
・そうやってつくった経営戦略による「優位性」が、すぐ消えてしまうことに皆気がつき始めた。ホンダ、トヨタ、キャノンといった日本企業のせいだ。みな、難攻不落のはずの城壁を越え、アメリカ企業(ゼロックス、GMなど)の牙城を浸食し始めた。 そこでできてきたのが、経営戦略を「自分の企業能力上の強み」に立脚してつくろうというケイパビリティ派の面々だった。
・ケイパビリティ(企業能力)と言っても色々。それを表現したのがマッキンゼーの「7S」だったが、その考えを基にトム・ピーターズらが『エクセレント・カンパニー』を書き、競争力の源泉がポジショニングだけでないと、皆が認識した。
・ゲイリー・ハメルらによる『コア・コンピタンス経営』(1994)は、さらに様々なケイパビリティ派が咲き誇る1990年代の先駆けだった。
・「破壊せよ」と叫んだマイケル・ハマーの『リエンジニアリング革命』も、BCGの生産オタク、ジョージ・ストークらによる『タイムベース競争戦略』も測定可能なケイパビリティ戦略だった。
・90年は野中郁次郎の『知識創造の経営』がでた年でもあった。『学習する組織』のピーター・センゲとともに、組織と人の学習、「ラーニング」の価値や仕組みを広めた。
・学問上、これらをまとめたのがRBV(Resource Based View:資源ベース戦略)という考え方で、その中心はジェイ・バーニーだった。
・ポジショニング派とケイパビリティ派は、お互いの考え方を譲らず、「ポジショニングが先」「ケイパビリティが先」という論争が続いた。

[「手を携えて一緒にやれば」とコンフィギュレーション]
・論争を続けながらもお互い高め合い、山の中腹を過ぎた頃、やはりどちらも必要だということになった。コンフィギュレーションという考え方である。カナダのマギル大、ヘンリー・ミンツバーグの主張である。状況に合わせて戦略論を組み合わせていけばいい。いや、組み合わせなければダメだというのが『戦略サファリ』の主張。
・初の欧州発大ヒット戦略論となったチャン・キムとレネ・モボルニュによる『ブルー・オーシャン戦略』もその1種。
・それをその22年前に極めて体系的に整理していたのが、経営戦略の父イゴール・アンゾフだった。オイルショックに揺れた1970年代に書かれた『戦略経営論』(1979)は、外部環境の変化レベル(乱気流度合い)によって、ポジショニングのあり方も、ケイパビリティのあり方も変わる、と看破していた。
・ヘンリー・ミンツバーグはしかし、もっと過激に言った。経営戦略とは芸術であり、手芸品(クラフト)である。計画的につくれるものではなく、創発的にしか、価値ある戦略は築き得ない!と。

[そんなことよりイノベーション]
・90年代も後半になると、ポジショニングとケイパビリティのどちらが先かとか、計画の立て方は、などというそんな悠長なこと自体が言っていられなくなった。イノベーション時代の到来である。
・古くは大経済学者のヨーゼフ・シュンペーターが20世紀初頭に「イノベーションこそが経済発展の原動力だ」「その中心となるのは資本家でも労働者でもなく企業家なのだ」と主張していた。経済学上は異端(数式化できなかったから)だったこの考えを経営学に取り入れ広めたのはかのピーター・ドラッカーであり、マッキンゼーのリチャード・フォスターだった。1970〜1980年代のこと。
・そしてITやハイテクの加速的進歩が、イノベーションの重要性を急速に引き上げていった。クレイトン・クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』(1997)に始まる大イノベーション時代がやってきた。
・21世紀は新興国を舞台とするグローバル化の時代でもある。そこでも新興国を起点にした『リバースイノベーション』がビジャイ・ゴビンダラジャン(VG)によって唱えられ、社会的イノベーションの重要性が示された。
・ラーニングやリーダーシップ、組織の各階でもイノベーションがテーマとなった。
・経営戦略という登山は、最後、同じ頂上(イノベーション)に辿り着いた。やってみなくちゃ、わからない。「試行錯誤型」経営が最後の答え
・どう上手く素早く「やってみるか」、そしてそこから素早く「学んで修正して方向転換するか」という力こそが全てだ、ということになった。高速試行錯誤の力である。


ちょっと気になったのが、既に山に登りきっちゃったという著者の姿勢で、まだまだ経営戦略についても伸びしろがあるのではないかという気がしている。
音楽でも「ベートーベン以降は全て既存の音楽のマイナーチェンジでしかない」という議論もあるけれど、時代時代に合わせて音楽も進化してきている(ベートーベン時代では初音ミクは考えられなかったはず)ことを考えると、出きったと思える経営戦略についてもまだまだ新しい展開があるように思う。

とは言いながら、著者は自身の提唱するB3Cフレームワークというのを最後に提案していて、自らもまだまだ発展させようという気概は持ち続けているようだ。

新規事業を担当したため読むこととなった『アントレプレナーの教科書』『リーン・スタートアップ』が実は一般的にも最新の経営戦略の一つであることを知ってちょっとビックリした。

この本、経営戦略史から脱線する「恐竜は何故滅びたか」「『失敗の本質』など日本軍、アメリカ軍の失敗の歴史」などのコラムの内容も非常に面白い。
コンサル会社勤務でなくても、企業において戦略立案を担当するようになったら一読をお勧めする良書である。

それにして、すごく平易に書かれているのに、飲み込むのに非常に時間がかかった。
取っ付き易いんだけど、奥が深い。
良書というものはそういうものかもしれない。