2014年7月27日日曜日

『先を読む頭脳』

羽生名人と、人工知能の研究者 伊藤毅志、認知科学の研究者 松原仁の二人の著作。
羽生さんのトークに対して、二人の研究者が解説をするという形で書かれている。
この本もE社齋藤社長のお勧め本第2弾。

羽生さんの世界観は昔から好きで、今回もいくつか「だよね〜」と思った点があるのでピックアップする。

<プロとして大成するための素養>
プロになるためには、もちろん持って生まれた先天的なセンスや能力が大事だと思いますが、それ以上に必要なものがあると私は思っています。
それは例えば、非常に難しくてどう指せばいいのかわからないような場面に直面したとき、何時間も考え続けることができる力。
そして、その努力を何年もの間、続けていくことができる力です。
一言でいえば、継続できる力ということでしょうか。
プロになる上では、先天的な頭脳の冴えといようなことよりも、その「継続力」が大事な要素になってくると思います。
指している将棋を一目みれば、その人にセンスがあるかどうかというのは確かに分かります。しかし、それではセンスのある子がプロになって大成するかどうかと聞かれたら、すぐには分からないというのが正直なところです。
それは、この「継続力」まではなかなか見抜くことができないからではないかと考えています。

小頭がいい、というのと自ら切り拓いていける能力は違うということ。
以前、羽生さんの著作で、
「最近はコンピュータの発達により過去の棋譜を簡単に調べられるなったため、高速道路が敷かれているのと同じで、あるところまでは非常に速いスピードで到達することができるようになった。
だが、過去の事例がなくなる高速道路の端部では渋滞が起こっており、そこからは、今までの過去の事例を身につけるという能力よりも、自ら新たな道を切り拓いていく能力が必要となってくる」
と述べていた。
センスのいい悪いは直に見分けがついて、プロとして一定のところまでいけるかどうかを見分けるのは出来るが、そこから先、プロとして一流になるべく、自ら新たな道を切り拓いていく能力があるかどうかを見極めることは簡単ではない。
羽生さんは、その「自ら新たな道を切り拓いていく能力」を「ずっと考え続けることができる継続力」と述べているように思う。



<手を使うこと>
私は研究する際には、必ず実際の将棋盤と駒を使っています。パソコンも使っていますが、それは主に棋譜を検索するために利用しています。
私は、パソコンの画面でマウスをクリックして動かすのと、実際の盤上で駒を動かすのとでは、蓄積される記憶の質が違うように感じています。 一言でいうと、パソコンの画面上での研究は、「目で見ている」という感覚になってしまいます。それに比べて盤上で駒を動かしていると、「手で覚える」という感じがします。
両者を比較した場合、やはり手で駒を握るという感覚がとても大事なのだと思います。
待ち時間が切れて秒読みになったときに、最後に頼りになるのは、経験に基づいた”勘”ということになります。
将棋の世界では「指運」という言葉を使うことがあります。
どうにも分からない局面で、時間に追われ、指の赴くままに手を選んで勝敗が決するような状況、このような状況の時には、最後は勝負勘の鋭い方が勝ちます。

これは言い訳なのだが、昔から書類に目を通す時には印刷物に線を引かないと頭に入らない。
最近はペーパーレスというのうのが流行で、極力画面で確認して印刷しないことを励行されているのだが、どうもこれだと頭に入らなくて困っている。
勢いついつい、印刷して、それに線を引っ張って机の片隅に積んでおいてしまう。
机が汚いと言われる要因でもあるのだが、上記の羽生さんの話しを聞いて、
「そうそう、俺も手で覚えているんだよ」
といういい言い訳を教えていただいた感じだ。


<読み〜経験に基づくフォーカス>
私の場合、ある局面に向き合ったら、まず読み始めの段階で「指すとすれば多分この二つか三つの手だろう」というように、候補手を数手に限定します。カメラに喩えるなら、フォーカスを絞っていく感じです。
また、私は序盤戦においては、自分が何をやりたいかというよりも、できるだけたくさんの可能性を残しておくこと、そして相手がどのようにやってきても対応できるような手を指すことに重点を置いています。そのために、序盤では自分が何かを主張するよりも、いかに相手にうまく手番を渡すかということに非常に苦心をしているのです。
もう一つ、将棋の指し手を考える上で重要だと思うのは、一つの局面である手を指すことは、自分にとってマイナスになる可能性が高いということです。
つまり、将棋というゲームはお互いが一手ずつ指すことで進行していく訳ですが、私の考えでは一手指すことがプラスに働くことはむしろ非常に少ないのです。
このように言うと驚かれるかもしれませんが、指さないで済むならば指さない方がよかったというマイナスの手の方が実際には圧倒的に多いのです。
だからこそ、将棋では形勢逆転が頻繁に起こるのだということもいえると思います。 将棋の思考法として、「この手を指すくらいだったら、むしろ指さない方がいい」という手を見極めることがとても大切なのです。
それを理解するだけでも、かなり多くの選択肢を消去することができると思います。 自分は選択の幅をたくさん残しながら、相手の手は限定されるように指していって、ゲームが進むにつれて、最終的に相手には戦略的に有効な手がないという場面をつくり出すのが、理想的な指し方になるのです。
私の場合、形勢はある一つの局面だけで評価するのではなく、それまでの指し手の流れの中で判断するようにしています。それまでの手順で積み重ねてきた一手一手の方針や方向性に、現在の局面が合致しているかどうかということを考えるのです。


初級者よりも中級者の方が次の手を決めるための平均回答時間が長いが、上級者→プロ棋士となると回答時間は短く、読みの速さは上級になるに従って速くなるが、読みの量(手数)は、プロ棋士や名人はむしろ少ないのだそうだ。
プロになると、大局観という「経験」により指し手を絞ることが可能で、フォーカスして絞った指し手を深読みするようになるということだ。
また、面白い話しだと思ったことは、将棋においても「動かない」ことが最上の指し手となることがあり(むしろ多く)、それを見極めることが非常に大切であると羽生名人が言っていることである。
ただ、2人だけでやっている競技でなければ、この「相手にうまく手番を渡す」という戦略は難しく、多数のプレイヤーが存在する競技(この世のビジネスはほとんどそうだが)においては「できるだけ(自分に)たくさんの可能性を残しておく」ことが大切になるであろう。
そうした基本戦略においても羽生名人は「それまでの指し手の流れの中で判断する」らしい。この辺りが後で出てくるコンピュータとの違いであろう。


<好不調について>
どんな勝負事でも同じだと思いますが、一年を通して常に好調を持続するのは困難なことです。自分自身で不調を意識することも、年に何回かあります。
ある意味ではそれはバイオリズムのようなものだと考えています。ですから意識して修正しようとしても難しく、ダメな時はダメで仕方ないと思っているところもあります。
好不調はバイオリズムのようなものと言いましたが、調子が悪くなるというのは風邪をひくのと似ていると思っています。
多くの人は、一年に何回かは風邪をひくのではないでしょうか。風邪というのは、一度かかるとすぐに治るものではなく、またいつ治ったのか明確に分からない病気です。大事に過ごしているうちに、いつのまにか治っているということが多いと思います。

羽生名人は「内面のメンタルな部分」についてはいかんともし難い、と言っているのに対し、将棋界全体の戦型の流行という「外的な要因」についてはある程度調整が可能で、自身も不調の際にはまずその部分をどうするかを考えることが多いという。

「体調管理もプロの手腕の一つ」とよく言われるので、「風邪引いて調子が悪い」というのは言い訳にならない気もするが、メンタルの不調というのは「風邪と一緒でかかるのはやむを得ないし、かかっても時間が解決するしかない」という考え方だから泰然自若でいられるのかもしれない。さすがスーパー名人は普通のプロとは発想そのものが違う。


<言語化について>
感想戦において言語化して相手に伝え、相手からも受け取るというやり取りは、時として1+1=2以上の効果を生むことがあると思っています。つまり、感想戦とは一種の学習する場であり、そこでの蓄積が後で実を結ぶことがあるのです。
私はマスコミの方の取材を受ける機会がよくありますが、そこで自分の考えをまとめて話しすることも、実は将棋にとってプラスになることがあると思っています。
自分の考えを時折、言語化してみることの意味は大きいと考えています。

ワークショップにおいても、「体験」を振り返り言語化することによって「経験」とすることが出来る、というフレームワークがあるが、将棋においても一局を最大限自分の血肉とするには、感想戦において言語化することが大切だということだ。
さらに言うと、感想戦以外でも自らの考え方を言語化して発信することは非常にプラスになると気付いているという点が、羽生名人のただならぬところであろう。


<コンピューター将棋>
現在のコンピュータ将棋は、相手が想定外の一手を指すと、一手前に考えいたことをリセットして、またそこから考え始めます。ですので、数手前に指した手とは全く連関のない、あるいはそこまでの流れを無視した、人間から見るととてもチグハグした手を指すことがあります。コンピューターには「流れ」がないのです。
プロの棋士はよく「棋理に合った手」問い言葉を使いますが、それは要するに手の流れや局面のバランスから考えて理にかなった手ということ。その感覚で見ていくと、コンピュータの指す手はとんでもなく支離滅裂に見えることがあります。
ただ逆に、指し手の連関性や整合性を考えないからこそ、コンピュータが今まで人間が思いつかなかったような新手を発見する可能性もあるといえます。
手の流れを考えてそれに沿うように指す人間は、固定観念に縛られているとも言えます。
そこから全く離れて考えた時に、常識を覆す手を発見することは十分あり得えます。

実は羽生名人は、他のプロ棋士がびっくりする様な新手を打つことで局面を打開し、それが「羽生マジック」と呼ばれている。
解説者からすると、流れとちょっと違う新手を打つということに関して羽生名人は一番コンピュータに近いのではないか、とのことだ。
経験に基づいた「流れ」と全くそれを無視した「手」。1/fゆらぎではないが、その間にこそ、今まで考えもしなかった「妙手」が存在するのではないか。


<将棋の駒の使い方について>
将棋には王将、金将、銀将、飛車、角行、桂馬、香車、歩兵という8種類の駒があります。
それぞれの駒に関する私のイメージを言うと、金は守りの駒ですが、終盤で持ち駒に金が入るとおおよそ一手稼ぐことが出来るのです。
金一枚で、「とりあえずこれで勘弁して下さい」という感じで、一手引き延ばして凌いだ経験が何度もあります。
桂馬は二枚のうち一枚は使う駒で、一枚は取られる駒だと感じています。だから両方使えることは滅多になく、使えた場合はほとんど局面が有利に進んでいます。
香車は全く役に立たないことも結構多いのですが、相手の香車を取る展開なったときは、攻防の一手として使えることがよくあります。ですから、自陣にいる時は「スズメ刺し」など特殊な先方以外は活躍しませんが、取ったり取られたりした後で重要になってくる駒だと思います。
よく言われることですが、歩は一番使い方の幅が広い駒です。歩の使い方で勝負が決まることが多いのは間違いありません。
角は局面によって価値が非常に大きく変わる駒です。ポイントの高い時と余り必要でない時の落差が大きいのです。
飛車は大きな要の駒であり、活動性を重視しなくてはならない駒です。逆に言うと、飛車の位置が決まると他の駒の位置も決まることになります。だから飛車をどこに置くか、どこに動かすかは非常に重要で、後の駒組は自然に決まっていくことになります。
王は、それ自身が強い駒だと感じています。 守る時に、王様自身で守れるケースは予想外に多いのです。大駒以外は接近してくるどの駒より王様の方が強いわけですから、その強さを意識して指すことは重要なことだと思います。 駒に関してプロの棋士に共通して言えるのは「馬」と「と金」を作ることを好むということです。つまり、その二つの駒がとても価値の高いと思っている人が多いということです。
特に、「と金」ができると長期戦に勝ちやすくなることは確かです。「と金」ができたことによって、それだけで相手にプレッシャーがかかることがよくあるのです。 逆に「と金」を作られると、すぐに勝負に行かないといけなくなる場合が多いのです。 従って、プロ同士の勝負では、お互い簡単には「と金」を作らせないよう腐心することになります。
プロ棋士でも8種類の駒の中で、どの駒を使うことが多いかは人によって異なります。そこにその人なりの「棋風」があらわれてくるとも言えるでしょう。
ちなみに私の場合、ある人が統計を取ったところ、全ての駒の中で銀を良く使っているそうです。 囲いを作り攻めの形を作って展開していくときに、銀という駒はつなぎの糊のような働きをします。糊をたくさん使わないと、中々駒がつながらないのです。
私は駒組のとき、駒のつながりということを強く意識しているので、必然的に銀を良く使っているような気がします。

羽生名人の「駒」観。
組織でも人ごとに実は働きが違う。これを見極めて戦局にあてはめることが出来るかどうかで結果が変わってくる。
飛車はその位置で全体の配置が変わってくる駒であるとか、角は落差の大きい駒であるとか、「と金」は長期戦に強い駒であるとか、王はやっぱり強い駒であるとか。
なるほど、というような「駒」観があったので、今回の最後に記載させてもらった。


羽生名人、強いだけでなく、人としても一流だな、と思うことが度々ある。
一度会って話してみたいものだ。





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