2009年12月31日木曜日

2009年振り返り

2009年の振り返りです。
今年のはじめの大テーマは間違いなく妻との闘病生活でした。
御蔭さまで、大きな副作用もなく、抗がん剤期間6ヶ月を過ごすことができたのは、本当に感謝です。
「一寸先は闇」ではありませんが、数年後どうなっているかわからない状況下で、『妻と一緒にいられる”今”に感謝する』という心境を得られたのは非常に大きな内面的進歩でした。
そういう意味では年初に挙げた抱負のひとつ、『ワーク・ワイフ・バランス』をとるについては達成したと考えたいと思います。

2番目に挙げた『仏教の三毒』(妬む・怒る・愚痴る)追放。
もともと人を妬んだりする方ではないし、愚痴(自分を恥じるも含め)も少ない方だと思うのですが、”怒る”(不平を言う。すなわち他人のせいにする)については、全く追放できていませんでした。
特に年後半、仕事関係で思うようにプロジェクトが進められない時には、怒るわ、不満をぶちまけるわで反省の極みです。
裏テーマの”アサーティブ”については、意識的に行ってできるようになってきてはいますが、怒りを追放できるほどには至っていません。
引き続き努力が必要ということでしょうか。

3番目の抱負、”英語を勉強する”については具体的な数値目標を伴った抱負でした。
しかしながら、本日現在で58まで。対目標比で72%に留まってしまいました。
でも、本格的に始めたのが9月頃からなので、追い込みはすごかったです。(年末に仕事が忙しくなりまた、できなくなってしまいました)
英語については引き続き勉強を続けて、来年は英語で会話できる機会を持てたらと思います。

今年は年の後半に、仕事関係で葛藤を含んだ忙しい日々が続きました。
でも、プライベートでは、妻がとても元気になって前よりも前向きな考え方をするようになってきていて本当にありがたいと思います。
去年の大晦日のミスチルの”GIFT”を考えると感慨深いです。

来年もいい年でありますように。

2009年12月28日月曜日

新ワークショップ方式?

先日ワークショップ終了後、飲みに行った時の話。
戯れに、ワークショップで利用していたポストイットに飲み会で出てきた単語を書いてペタペタと壁に貼ってみた。
飲み会なので、当然脈絡もない話の連続なのだが、最後に”振り返り”と称して眺めてみると、それはそれで結構な振り返りとなって非常に面白かった。

それを受けて、後日関西出張でヒアリングを行った際に、4人で喫茶店で振り返りを行った。
幸か不幸か他に客がいなかったので、ワイワイガヤガヤやらせてもらうことができた。
やり方は以下の通り。
①今日のヒアリングを受けて思ったことを各々手元のポストイットに書いて壁(その喫茶店ではなんと外に面した窓ガラス!)に貼る。
②ブレスト的に、どんどん皆で意見を出して、ペタペタ貼っていく。
③最後に同行していた新人が最後にそれらを自分流に貼り直して、まとめの説明を行う。

たったこれだけなのだが、短時間で非常に内容も濃く、全員の納得感、腑に落ち感が高かった気がする。


プラス・サーキュレーション・ジャパンの中西紹一氏によると、認知的徒弟制の流れとして
①モデリング
②コーチング
③スキャフォールディング/フィーディング
④アーティキュレーション
⑤リフレクション
⑥エクスプローリング
というのが中西流の基本フォーマットとしてあり、氏の素晴らしいワークショップは全てこれを踏襲しているのだそうだ。

それを受けてみると、上記方式も
1.新人以外の先輩からも、キーワードとコンテキストを出し、壁に貼っていく(①②③)
2.それを新人に貼り直させて、新人の言葉で説明させる(③④⑤)
となっていて、後は会社に戻って⑥で実践すれば基本を踏襲していることになる。

とっても手軽で充実度の高いやりかたなので是非またどこかで行いたい。

『つながる脳』

今、流行の「脳科学」について、実際の状況や課題をわかりやすく述べた本。
ちょっと一般向けには、”脳科学というもの”に関しての記述が多すぎるきらいがあったが、他のサルの社会的適応に関する実験およびその考察は非常に面白い。
(個人的にはここをもっとメインで書いてほしかったくらいだ)

サルを二頭向かい合わせに座らせると、どちらのサルも相手のことを見ようとせず、完全に無視し合っている。
面白いことに、無視し合っているのに、相手の顔のあたりにはほとんど視線を向けない。つまり、相手の存在をわかったうえで、相手が何をしようが気に留めないという態度。右から左に頭を振る時にも、途中に相手の顔があるとU字型の軌跡をたどってそれを避け、まるで相手の顔のあたりの空間が存在しないように振る舞う。
両者が初めて会った時には、どちらのサルも自らが上位のサルとして振る舞う。
ただし、サル間の礼儀(!?)として、理由なく積極的に相手の顔(目)をみるということはしないということだ。
リンゴを与え始めると、リンゴを巡る確執が起こり、相手に威嚇の表情を見せる。
2〜3日で二頭間の上下関係は確定し、通常よほどのことがない限り長期間続く。

上記の観察から著者は「抑制こそ社会性の根本ではないか」という仮説をたてている。
サル達のデフォルトモードは”強いサル”であり、デフォルトの社会性フリーの”強いサル”状態から、社会性を持った弱いサルに自分を変える時に新しい機能「行動の抑制」が必要とされ、逆に自分が”強いサル”に戻った時にはその機能を解除する。
すなわち『Homo Confuto(我慢するサル)』なのではないかと。

また、道具利用時の「所有」の概念に関する観察も面白い。
通常、道具を持っていない状態の生身の下位サルは、上位のサルのもっているエサや、空間には手を出さない。つまり、非常に強い社会的行動抑制が起きている。
しかし、道具に関してはルール違反が頻発する。
道具はそれを使っているサル自身からすると自分の体の一部であるが、下位のサルからは上位のサルが使っている道具は別物と認識している。
つまり、上位サルの脳内部に起きている身体イメージの拡張を、それを見ている下位サルが共有できていない。
さらに、下位サルは、上位のサルが道具を使って自分に引き寄せている途中のエサにも平気で手を伸ばす。

サルにおいては、この「所有」の認識に関するズレを整合させることは困難らしい。
ヒトの世界でも、他の子供のもっているおもちゃを突然取り上げて遊び始める子供と、取り上げられて泣きわめく子供という構図は世界中のいたるところで見る光景である。
ヒトの場合には、親から「それはよくないことだ」と言われて、「所有」に関する知識を学習している。

また、この”抑制”を基本としたサルの社会性は、眼力の効く二者間にのみ存在し、一対多という構造はできないらしい。
上位のサルにハーフミラーのついたゴーグルをかけさせて、外からは上位のサルの目を隠すと、下位のサルが見せていた社会的な抑制が外れた。
我々が大人数の前で話す時にあがって緊張するのも、一対多を行おうとすることで脳がスタックしている状態なのかもしれない。

最後に著者は、リスペクト(社会的報酬=”ホメ”)をモチベーションのベースとした世界感を提案している。
これは、脳科学的に、金銭課題で反応を見せる基底核の一部である線条体という部位が、社会的報酬課題でも活動していることからヒントを得ている。
カネ主体の社会以前から、ヒトに対し何らかの動機づけ要素は必要だったはずで、その動機付けを行う要素が社会的欲求だったのではないか。
その欲求内容はひとつではなく、他者との関係を継続すること、他者から社会的に認められること、社会に奉仕すること、そういうことがヒトを動かす原動力になっていたのではないか、というのが著者の仮説である。

他者に対するリスペクトには、多少の積極的なエネルギーが必要となるが、「独裁者のゲーム」の結果(人は何のオブリゲーションを負わない状況でも2割程度は他人に成果を分配する)からみると、我々は自分の取り分の2割程度はそのために使うことができる。
リスペクトが循環する社会は、ヒトとヒトとの関係を安定したものにしてくれるであろう。
ただし、著者は動機付けとしてのカネはなくなることはないと考えていて、カネとリスペクトの2つを軸とした社会でなければならないとしている。
脳科学の話から、ポスト金融資本主義のヒントが出てきているようで、素晴らしい話である。

サルの話も、我らヒトの社会の中で行われているのと余り変わらない気がして、面白いやら悲しいやらちょっと複雑な心境となった。






2009年12月23日水曜日

『アインシュタインファクター』

”イメージストリーミング”という脳を活性化する手法について書かれた本。
ちょっと一般には理解されにくい(信じてもらいにくい)内容なので、その信憑性を増すためにか、脳科学系、認知心理学系の話がたくさん出てくるので、むしろそちらの方が面白い。

・のだめカンタービレで有名になったモーツァルトの『二台のピアノのためのソナタ ニ長調』を10分聴くだけで、知能指数は8から9ポイントあがる(但し15分程度で元に戻る)
・人間の脳は一秒につき約126ビットの情報に対してしか集中できない。他人の話を聞いたりするだけでも40ビットしか処理できなくなる。
・私たちは一日のうち50%の時間を空想につかい、8%の時間は眠りの中で夢をみている。つまり、私たちは人生のうち58%を無意識の中ですごしている。
・潜水は脳を刺激するのに効果的。血液中の二酸化炭素が増加すると、私たちの体はそれを酸素の在庫が減ってきていると解釈する。そして、頸動脈が大きく開いてより多くの血液を脳に運ぶ。それによって、酸素を含んだ血液が通常以上に脳に行き渡る。
などの小ネタ系の話や

<ロシア人のヴィゴツキーが行った、幼い子供達に蝶の羽を描かせた実験>
芽生えた単語力に加えて、”点””三角形””スラッシュ”など基本の形を表す言葉を覚えていた子供達は、記憶だけでも蝶の羽を上手に描くことができた。
一方、そうした言葉をしらなかった子供達は写真を模写させても、まともな羽の絵を描くことができなかった。
その後、描くことができなかった子供のうち半分にその大切な言葉を教え、残りの半分は教えないままにして再び実験したところ、
言葉を教えられた子供達は、最初から言葉を知っていて羽を描くことができた子供達と同じくらい上手に絵を描けるようになった。

という”言葉”がいかに大切かという認知心理学的話もふんだんに盛り込まれている。

”meme"とは進化生物学者のリチャード・ドーキンスが発案した造語で、文化を人の脳から脳へと伝達される自己複製子(情報)であると見なしたときに、伝達される情報の最小単位のことである。
複製、伝達、変異という三つの条件を満たしていれば遺伝子以外の何かであっても同様に「進化」するはずであるとされている。
この本では”genious meme” (天才のミーム)は存在し、天才が天才を生むのは歴史を見ても明らかという考えられている。
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歴史家達によると、天才は一人だけでは現れず、天才は一気に出現することが多々ある。
紀元前5世紀、ギリシャのアテネで、プラトンやソクラテスの哲学、フェイディアスの彫刻、ペリクルスの政治(治国策)、ソフォクレスやエウリピデスの詩、アリストテレスの科学が生まれた。
そして2000年後にも、フローレンスという都市国家で、ミケランジェロやダ・ヴィンチ、ボッティチェリ、ミランドラ、フラ・フィリッポ・リッピらのような巨匠が誕生し、ルネッサンスが起きていた。
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そしてこの”genious meme"を伝播させる手法として”イメージストリーミング”という手法を提案しているのである。

日本の歴史を見ても、戦国時代や明治維新の頃には”人物”がキラ星のごとく出現している。
統計学的には、どの時代であっても優秀な人間は同じ割合で出現するはずなので、この現象は優秀な人物を輩出しやすい”場”がある時代かどうかという違いということで考えていたが、伝搬される”meme"により”大人物”(本文中では”天才”)が多く生まれるという説は面白いと感じた。

”イメージストリーミング”自体はちょっと読んだだけではピンとこない部分もあるが、『全脳思考』で神田昌典氏も同様に”Creative Problem Solving Method”という手法を提言している。
いずれもイメージから入ってそれを言語化するという手法だ。
マインドマップ、ワークショップに引き続き、創造的会議の手法となっていくのかも知れない。

2009年12月20日日曜日

『会社のデスノート』

所得弾力性、価格弾力性という切り口をテーマに経済を述べた本。
今回のトヨタショックについても説明している。
自動車に関しては短期所得弾力性は5.5と高いが、長期所得弾力性については1.1と低い。
米GDP▲6%を受けて短期的には北米売り上げが3割近くダウンしたが、長期的には米GDPが回復するのと合わせ急激に回復する可能性が高いという説だ。
ゆえに北米の売り上げ激減を受けて急激に雇用調整に入ったりしたのは得策ではなく、急激回復したアメリカの自動車需要を受け止めきれない(機会損失)恐れがあるとしている。


価格弾力性の観点でみると、価格弾力性が1.0よりも小さい商材は価格を上げる方向に努力をすることで市場を広げることができる可能性がある。
それを実現したのがセブンイレブンのコンビニエンス定価販売手法である。
長時間(24時間)営業、そして他社もコンビニエンス業界に参入してくることで顧客の利便性をアップさせることで、スーパーよりも高い定価販売で売り上げを伸ばすことができた。

ポール・クルーグマン教授は「経済成長」「分配」「失業」の3つを管理すれば国の経済は大丈夫と言ったとか。
その「経済成長」を継続するためには日本は重サービス業(重工業と同じく、人件費以外の資本投下が必要で、ノウハウ的な部分での参入障壁が大きいサービス業のこと)をビジネスモデルとして確立し、海外へ輸出することが必要だ、というのが著者の鈴木貴博氏の主張だ。

鈴木貴博氏は『逆転戦略』という、ウィルコムの参入した次世代PHSの将来性を熱く語った本を以前出していて、勉強したことがある。結構説得力を持って感心した記憶がある。
しかしながら、ウィルコムは今年の9月に事業再生ADRの手続きに入ってしまった。
2〜3年早く投資をしすぎてしまった企業がお金をどぶに捨てるような結果になる一方で、出遅れたはずの企業が先行する企業の研究成果を横取りして成功してしまう現象を、鈴木氏は”狼はまだ来ない現象”と呼んでいる。
が、『デスノート』は”いつ”かが明確であるから意味があるので、”○○はいつか死ぬ”であったらそれは確実にあたる予言となってノートの意義は全くなくなる。
今回も短期と長期の違いは?という疑念に関しては自ら「根拠は述べないが1年未満か1年超か」ということで述べている。
仮に所得弾力性に基づく需要理論が正しいとしても、長期と短期の違いが1年なのか5年なのかによって、トヨタのとるべき戦略も変わってくる気がするが果たしてどうか。
ここについては、根拠を上げつつ説明して欲しかった。



2009年12月13日日曜日

『逝きし世の面影』

はこだて未来大学の美馬のゆり先生からお勧めいただいた本。
イヴァン・イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』の訳者である渡辺京二氏の著作である。

「文化は滅びないし、ある民族の特性も滅びはしない。それはただ変容するだけだ。滅びるのは文明である。つまり歴史的個性としての生活総体のありようである。」
ということで、明治から大正にかけての今は失われてしまった日本の文明に焦点を当てたものである。

ある文明の特質はそれを異文化として経験するものにしか見えてこないという文化人類学的方法の要諦により、当時の日本を見た外国人の証言から当時の日本の文明を浮き彫りにしたものである。
読み進めると、海外の証言者があたかも対談をしているかのような錯覚に陥るのが面白い。

証言者には色々な意見があるが、当時の日本について、質素な暮らしではあるが庶民がみな幸福感あふれて見えるというのは共通の見解のようだ。

・貧富の差が少ない。(というより富貴の人々もさほど奢侈贅沢に暮らしていない)
・住居に家財がない。
・公然と混浴や水浴びを行う。
・売春が公制度化されている。
と言った点が当時海外から来た証言者の目で見て特異に映ったようだ。
おそらく現代日本人が当時へタイムトリップしたとすると同様に感じると思えることからして、既に現代日本は西欧文化を取り入れ、当時の文明とは異質なものになっていると考えざるを得ない。
昭和7年の白木屋火災での女性達の行動に鑑みるに、その頃既に人前で裸になることは羞恥すべき行動と考えられていたことから、半世紀ほどもあれば文明は変わってしまうものなのかも知れない。

他にも証言者達に特異に映った事項として、『子供を大事に育てる』(親は子供をひどく可愛がり甘やかす。同時に子供に対して決して手綱を放さない。)というのもあった。
これはコーカソイドからみたモンゴロイドの子育てに対する所感ではないだろうか。
逆に、今でさえ欧米の子育ては日本の子育てに比べ子供の自立を促すのが早く、また実際に早く自立するのは、論をまたない。

古き日本を実見した欧米人の数ある驚きの中で、最大のそれは、日本人民衆が生活にすっかり満足しているという事実の発見だった。
オリファントは
「日本を支配している異常な制度について調査すればするほど、全体の組織を支えている大原則は、個人の自由の完全な廃止であるということが、いっそう明白になってくる」
といいながら、他方では
「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているようにみえることは、驚くべき事実である」と述べている。
20世紀の最大の社会実験として、”社会主義国家”というものの可否があったとすると、当時の日本はある意味、社会主義国家の成功像を既に体現していたのかも知れない。

「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。これがおそらく人民の本当の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。」
と当時ハリスが述べたように、我々は良かれ悪しかれ西洋文化の影響を受けて、現代日本文明を作り上げている。

「衆目が認めた日本人の表情に浮かぶ幸福感は、当時の日本が自然環境との交わり、人々相互の交わりという点で自由と自立を保証する社会だったことに由来する。浜辺は彼ら自身の浜辺であり、海のもたらす恵みは寡婦も老人も含めて彼ら共同のものであった。イヴァン・イリイチのいう社会的な「共有地(コモンズ)」、すなわち人々が自立した生を共に生きるための交わりの空間は、貧しいものを含めて、地域すべての人々に開かれていたのである。」
とあるように、”日本人”という観点でみると、我々は当時に比べ得たものもあれば、失ったものもあるということだろう。
作者が『逝きし世』と名付けたのもうなづける気がした。

2009年12月12日土曜日

エコプロダクツ2009




東京ビッグサイトで行われたエコプロダクツ2009に行ってきました。
3日間で約18万人来場するイベントで、ここ数年1.5万人位ずつ来場者が増加しているそうです。

いろんな企業・学校・団体が出ています(700団体超?)。
エコプロダクツという名前にある通り”エコ”関連商品なのですが、”サービス”も”プロダクツ”に含むという整理のようで、一見あまりエコとは関係のなさそうな企業もなんらかのエコ切り口で出展していました。
なので必ずしもecologyの環境ではなく、environmentの環境に近いエコという感じを受けました。
あまりに皆エコを主張するのをみると「一体どんな業種が一番エコとかけ離れた業種なんだろう」とか考えちゃいました。

出展内容は大別すると
①自社商品紹介型
②自社商品販売型(食品、小物系が多かったです)
③啓蒙型(展示、デモ、セミナー)
もしくはその組み合わせというのが大半でした。

やはり大企業は大きなスペースで大掛かりな展示を行っているのですが、面白いのは規模的には大企業でもひっそりと小さなブースでやっているところもあったりしたことです。
協賛するお金がなかったのか、自社のエコ取り組みに関して自信がなかったのか、対費用的にみて効果薄と判断したのか。。
”環境”に対する会社の意識の現れがでているのだとすると、今後それがどう現れていくのか楽しみです。

イブニング・ダイアローグ@代官山

去る12月4日に産業能率大学@代官山で行われた、長岡健先生がモデレーターとして主催しているサロンの第3回目に出席してきた。
テーマは「ポスト成果主義時代の若手育成」について、問題意識を共有する人材育成マネジャーが集い、ダイアローグを通じて本質理解を深めるというもので、同志社女子大学の上田信行先生がゲスト参加されるということで出席してみた。

6人チームでレゴをつかっての”いかに高く積めるかワークショップ”。
別に勝ち負けを強調するわけではないが、見れば結果が一目瞭然なので、知らず知らずに熱中してしまう仕掛け。
同じことを2度繰り返すことで、最初は気がつかなかったことの反省を活かして2度目はさらに熱中。
知らないもの同士がチームなので、1回目はチームワークとはほど遠いバラバラ作業だったのが、2回目は誰が指示するでもなく何となく分業体制が確立されるのもやってみて面白かった。
この“高く積む”というのはレゴを使ったワークショップの中でもシンプルで奥が深いのだそうだ。

次にはレゴを使って机の上に、自分の名刺づくり。
これも各人色々と個性がでていて楽しめた。

終わりは神戸芸術大学の曽和先生によるドキュメンテーション披露。
あっと言う間の2時間30分。

このサロン、人材育成マネジャーが集うといいながら、どんな人達が来ているのか興味があったのだが、半数はやはり人事関係の人だったようだ。その他は教育関係者、デザイナーなど。
正統な人事関係者だと、ちょっと最初は理解できないセッションだったような気もする。
そういった人達が、今回のサロンをどう思ったのか聞いてみたいと思った。

上田先生が最後に話をした”Follow your muse!"という言葉が印象的だった。

2009年12月10日木曜日

『全脳思考』

神田昌典氏の本。神田氏は売れっ子になる前から、面白い視点の人だと思って注目していた。
氏の『成功者の告白』にもある、チーム・ダイナミクスにおける「桃太郎理論」という面白い視点の考え方はこの本でも紹介されている。

物語シナリオによるプロセス管理システム論は非常に秀逸。
「何故ウルトラマンは最初からスペシウム光線を使わないか。」「何故水戸黄門は最初から印籠をださないのか。」
その答えは、我々が無意識レベルではむしろ葛藤を望んでいるから、という仮説には脱帽である。
6人による100までの数字寸劇を行うと、盛り上がる箇所は4カ所あって、平均すると33近辺、50近辺、66近辺、85〜90近辺となるらしい。
これも、我々が物語を通してみた時に山場(葛藤)を望んでいる証左であるのかもしれない。

あるサッカーの名将の
「ゲームの途中で、観客は絶望的になってブーイングを始めるのですが、私は全く気にしません。ネガティブな出来事が起こっても『あれ、どうしてかな?』と思うだけです。『勝つことは決まっているのだから、シナリオを読み違えたかな』と考えて、勝つまでのシナリオを調整するのですね」
という考え方は是非見習いたい。

この本の中核理論として『U理論』『Creative Problem Solving Method』というのが出てくる。
個人的には何となく肌感覚としてわかるのだが、わからない人も多いだろうし、わからない人には理解できないであろうこともよくわかる。
実践によって同様のことを経験していないと腑に落ちないのではないか。

人間版100匹目のサルみたいなことを信じられるかどうかという気がする。