2009年12月28日月曜日

『つながる脳』

今、流行の「脳科学」について、実際の状況や課題をわかりやすく述べた本。
ちょっと一般向けには、”脳科学というもの”に関しての記述が多すぎるきらいがあったが、他のサルの社会的適応に関する実験およびその考察は非常に面白い。
(個人的にはここをもっとメインで書いてほしかったくらいだ)

サルを二頭向かい合わせに座らせると、どちらのサルも相手のことを見ようとせず、完全に無視し合っている。
面白いことに、無視し合っているのに、相手の顔のあたりにはほとんど視線を向けない。つまり、相手の存在をわかったうえで、相手が何をしようが気に留めないという態度。右から左に頭を振る時にも、途中に相手の顔があるとU字型の軌跡をたどってそれを避け、まるで相手の顔のあたりの空間が存在しないように振る舞う。
両者が初めて会った時には、どちらのサルも自らが上位のサルとして振る舞う。
ただし、サル間の礼儀(!?)として、理由なく積極的に相手の顔(目)をみるということはしないということだ。
リンゴを与え始めると、リンゴを巡る確執が起こり、相手に威嚇の表情を見せる。
2〜3日で二頭間の上下関係は確定し、通常よほどのことがない限り長期間続く。

上記の観察から著者は「抑制こそ社会性の根本ではないか」という仮説をたてている。
サル達のデフォルトモードは”強いサル”であり、デフォルトの社会性フリーの”強いサル”状態から、社会性を持った弱いサルに自分を変える時に新しい機能「行動の抑制」が必要とされ、逆に自分が”強いサル”に戻った時にはその機能を解除する。
すなわち『Homo Confuto(我慢するサル)』なのではないかと。

また、道具利用時の「所有」の概念に関する観察も面白い。
通常、道具を持っていない状態の生身の下位サルは、上位のサルのもっているエサや、空間には手を出さない。つまり、非常に強い社会的行動抑制が起きている。
しかし、道具に関してはルール違反が頻発する。
道具はそれを使っているサル自身からすると自分の体の一部であるが、下位のサルからは上位のサルが使っている道具は別物と認識している。
つまり、上位サルの脳内部に起きている身体イメージの拡張を、それを見ている下位サルが共有できていない。
さらに、下位サルは、上位のサルが道具を使って自分に引き寄せている途中のエサにも平気で手を伸ばす。

サルにおいては、この「所有」の認識に関するズレを整合させることは困難らしい。
ヒトの世界でも、他の子供のもっているおもちゃを突然取り上げて遊び始める子供と、取り上げられて泣きわめく子供という構図は世界中のいたるところで見る光景である。
ヒトの場合には、親から「それはよくないことだ」と言われて、「所有」に関する知識を学習している。

また、この”抑制”を基本としたサルの社会性は、眼力の効く二者間にのみ存在し、一対多という構造はできないらしい。
上位のサルにハーフミラーのついたゴーグルをかけさせて、外からは上位のサルの目を隠すと、下位のサルが見せていた社会的な抑制が外れた。
我々が大人数の前で話す時にあがって緊張するのも、一対多を行おうとすることで脳がスタックしている状態なのかもしれない。

最後に著者は、リスペクト(社会的報酬=”ホメ”)をモチベーションのベースとした世界感を提案している。
これは、脳科学的に、金銭課題で反応を見せる基底核の一部である線条体という部位が、社会的報酬課題でも活動していることからヒントを得ている。
カネ主体の社会以前から、ヒトに対し何らかの動機づけ要素は必要だったはずで、その動機付けを行う要素が社会的欲求だったのではないか。
その欲求内容はひとつではなく、他者との関係を継続すること、他者から社会的に認められること、社会に奉仕すること、そういうことがヒトを動かす原動力になっていたのではないか、というのが著者の仮説である。

他者に対するリスペクトには、多少の積極的なエネルギーが必要となるが、「独裁者のゲーム」の結果(人は何のオブリゲーションを負わない状況でも2割程度は他人に成果を分配する)からみると、我々は自分の取り分の2割程度はそのために使うことができる。
リスペクトが循環する社会は、ヒトとヒトとの関係を安定したものにしてくれるであろう。
ただし、著者は動機付けとしてのカネはなくなることはないと考えていて、カネとリスペクトの2つを軸とした社会でなければならないとしている。
脳科学の話から、ポスト金融資本主義のヒントが出てきているようで、素晴らしい話である。

サルの話も、我らヒトの社会の中で行われているのと余り変わらない気がして、面白いやら悲しいやらちょっと複雑な心境となった。






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