2009年12月13日日曜日

『逝きし世の面影』

はこだて未来大学の美馬のゆり先生からお勧めいただいた本。
イヴァン・イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』の訳者である渡辺京二氏の著作である。

「文化は滅びないし、ある民族の特性も滅びはしない。それはただ変容するだけだ。滅びるのは文明である。つまり歴史的個性としての生活総体のありようである。」
ということで、明治から大正にかけての今は失われてしまった日本の文明に焦点を当てたものである。

ある文明の特質はそれを異文化として経験するものにしか見えてこないという文化人類学的方法の要諦により、当時の日本を見た外国人の証言から当時の日本の文明を浮き彫りにしたものである。
読み進めると、海外の証言者があたかも対談をしているかのような錯覚に陥るのが面白い。

証言者には色々な意見があるが、当時の日本について、質素な暮らしではあるが庶民がみな幸福感あふれて見えるというのは共通の見解のようだ。

・貧富の差が少ない。(というより富貴の人々もさほど奢侈贅沢に暮らしていない)
・住居に家財がない。
・公然と混浴や水浴びを行う。
・売春が公制度化されている。
と言った点が当時海外から来た証言者の目で見て特異に映ったようだ。
おそらく現代日本人が当時へタイムトリップしたとすると同様に感じると思えることからして、既に現代日本は西欧文化を取り入れ、当時の文明とは異質なものになっていると考えざるを得ない。
昭和7年の白木屋火災での女性達の行動に鑑みるに、その頃既に人前で裸になることは羞恥すべき行動と考えられていたことから、半世紀ほどもあれば文明は変わってしまうものなのかも知れない。

他にも証言者達に特異に映った事項として、『子供を大事に育てる』(親は子供をひどく可愛がり甘やかす。同時に子供に対して決して手綱を放さない。)というのもあった。
これはコーカソイドからみたモンゴロイドの子育てに対する所感ではないだろうか。
逆に、今でさえ欧米の子育ては日本の子育てに比べ子供の自立を促すのが早く、また実際に早く自立するのは、論をまたない。

古き日本を実見した欧米人の数ある驚きの中で、最大のそれは、日本人民衆が生活にすっかり満足しているという事実の発見だった。
オリファントは
「日本を支配している異常な制度について調査すればするほど、全体の組織を支えている大原則は、個人の自由の完全な廃止であるということが、いっそう明白になってくる」
といいながら、他方では
「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているようにみえることは、驚くべき事実である」と述べている。
20世紀の最大の社会実験として、”社会主義国家”というものの可否があったとすると、当時の日本はある意味、社会主義国家の成功像を既に体現していたのかも知れない。

「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。これがおそらく人民の本当の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる。」
と当時ハリスが述べたように、我々は良かれ悪しかれ西洋文化の影響を受けて、現代日本文明を作り上げている。

「衆目が認めた日本人の表情に浮かぶ幸福感は、当時の日本が自然環境との交わり、人々相互の交わりという点で自由と自立を保証する社会だったことに由来する。浜辺は彼ら自身の浜辺であり、海のもたらす恵みは寡婦も老人も含めて彼ら共同のものであった。イヴァン・イリイチのいう社会的な「共有地(コモンズ)」、すなわち人々が自立した生を共に生きるための交わりの空間は、貧しいものを含めて、地域すべての人々に開かれていたのである。」
とあるように、”日本人”という観点でみると、我々は当時に比べ得たものもあれば、失ったものもあるということだろう。
作者が『逝きし世』と名付けたのもうなづける気がした。

0 件のコメント: