2010年11月28日日曜日

『デフレの正体』

現在「デフレ」と言われているものは、景気の波ではなく、生産年齢人口の減少という根源的なことが原因である、ということを分かりやすく、一般に入手できる数字にて説明している本。

国際収支でいうと、日本はこの不況下においても貿易黒字を出しており、輸出が減れば原料の輸入も減るという形で大半は変動費であるため、今後も大幅な貿易赤字になる可能性は低い。

国際収支的にいうと、中国の台頭は消費マーケットの拡大につながるので中国(香港含む)への貿易黒字2.6兆円(08年)が拡大する方向であり、中国が繁栄すればするほど日本製品が売れて貿易黒字額は大きくなる。
仮に中国がうまく発展できれば、先に産業を発展させてきた韓国や台湾の状況(いずれも日本は3兆円前後の貿易黒字)に近づいていく。そのおかげで日本は益々儲かる。

何が起きても儲けの減らない世界の工業国兼金貸し”日本”から黒字を稼いでいる国はどこか。
資源国、中東産油国やインドネシア、オーストラリアなどは別とすると、フランス、イタリア、スイスが近年一貫して対日貿易黒字となっている。「自国製」の「高級ブランド品」である。ハイテク製品ではなく、食品、繊維、皮革工芸品、家具などの「軽工業」製品が日本で売れている。
今の不景気を克服してもう一度アジアが伸びて来た時、今の日本人並みに豊かな階層が大量に出現して来た時に、彼らがフランス、イタリア、スイスの製品を買うのか、日本製品を買うのか、日本のおかれている国際競争とはそういう競争である。
故に、工業製品を人件費を下げて効率的につくることよりも、各種日本製品のブランド化が大切である。

生産年齢人口は即ち消費者人口であり、生産年齢へ回ったお金は消費に向けられるが、高齢者に回ったお金は貯蓄に回るだけで消費には回らない。
高齢者の貯蓄の多くはマクロ経済学上の貯蓄とは言えず、「将来の医療福祉関連支出(医療福祉サービス)の先買い」、すなわちコールオプション(デリバティブの一種)の購入なのである。
先買い支出であるから、通常の貯金と違って流動性はなし。他の消費には回らない。

今の日本で起こっていることは、生産年齢人口=消費者人口の減少→供給能力過剰→在庫積み上がりと価格競争激化→在庫の時価の低下(在庫が腐る)である。
この結果発生した消費者余剰は、高齢者が老後に備えて確保する極めて固定性の高い貯蓄という形で「埋蔵金」化して、経済社会に循環していない。

こうした原因が見えてくると、今の日本が目指すべきは生産性の向上ではなく、
①生産年齢人口が減るペースを少しでも弱める。
②生産年齢人口に該当する世代の個人所得の総額を維持し増やす。
③(生産年齢人口+高齢者による)個人消費の総額を維持し増やす。
ということである。
「戦後最長の好景気」の下で、輸出の活況で数字上の「経済成長」と個人所得総額の増加(高齢富裕層への金利配当所得の還元)は起きたが、①の生産年齢人口減少は全く止まらず、②の生産年齢人口に該当する世代の所得増加は生じず、③の個人消費総額も(高齢富裕層が金融投資に傾斜したためと推測されるが)実際には増えなかった。

「モノづくりの技術革新」は重要ではあるが、今日本が患っている病の薬ではない。
モノづくりの技術は、資源のない日本が外貨を獲得して生き残っていくための必要条件であるが、今の日本の問題は、獲得した外貨を国内で回すことである。
日本は、技術開発と内需振興とを同時に行わなければならない。

そのための必要な対策は
第1:高齢富裕層から若い世代への所得移転の促進
第2:女性就労の促進と女性経営者の増加
第3:訪日外国人観光客・短期定住客の増加
の3つである。

実は、共働きの多い都道府県の方が子供の数が多い、であるとか意表をつく内容が多く、数字も分かりやすく記載されていて大変勉強になった。

『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』

自己啓発のイデオロギーへの違和感から生まれた、という橘玲氏の本。

高度化した資本主義社会では、論理・数学的知能や言語的知能など特殊な能力が発達したひとだけが成功できる。
こうした知能は遺伝的で、意識的に”開発”することはできない。
ひとが幸福を感じるのは、愛情空間や友情空間でみんなに認知されたときだけだ。
都市化と産業化によって、伝統的な愛情空間や友情空間(政治空間)は貨幣空間に浸食されて来た。
でもその代わり、情報テクノロジーの発達によって、貨幣空間が”友情化”してきた。フリーで効率的な情報社会の到来は、すべてのひとに自分の得意な分野で評判を獲得する可能性を開いた。
だったら、幸福への近道は、金銭的な報酬の多寡は気にせず好きなことをやってみんなから評価してもらうことだ。
能力があろうがなかろうが、誰でも好きなことで評判を獲得することはできる。
必要なのは、その評判を収入につなげるちょっとした工夫だ。
ロングテールもフラクタル(全体と部分が自己相似になっている図形)の一種だ。

だから
「伽藍を捨ててバザールに向かえ。恐竜の尻尾のなかに頭を探せ。」
というのがまとめ。

○ハワード・ガードナーによる「多重知能(MI=Multipule Intelligences)の理論」
○心理学研究者 ジュディス・リッチ・ハリスの「集団社会化論」
○社会学者 ロバート・D・チャルディーニ の『影響力の武器』
○リーナス・トーバルズ の「リーナスの法則」
など、興味深い理論や実験を紹介しながらの論理展開は、さすが橘玲氏である。

まとめに至るまでに色々な理論や実験が紹介されていてスゴく面白いのだが、(著者も認識はしているようだが)無理に「自己啓発が無意味である」ということをベースにしなくても良かったし、しない方が納得感があったのではないか。

最後に、
『「好き」を仕事にしたいのなら、ビジネスモデル(収益化の仕組み)を自分で設計しなくてはならない。』
とあるのだが、この”設計”をするためには能力が必要であり、そのためには自己啓発が必要だったりするのではないか?などと考えてしまうのは、ひねくれ者の発想であろうか。

2010年11月23日火曜日

筑波山

家族で筑波山に登ってきた。
筑波山とは標高877mの山。「登る」といってもケーブルカーやロープウェイで頂上近くまで行けてしまうので、なめてかかっていたが、登ってみると中々どうして結構な山であった。
登りは「白雲橋コース」距離約2.8km、標高差約610m、所要時間約110分、下りは「御幸ヶ原コース」距離約2.0km、標高差約610m、所要時間約70分というルートをいった。

山では色んな人とすれ違う。
「ママが『ハイキング』っていうからこんな靴にしちゃったけど、これじゃ『登山』じゃないのよ!」と孫に愚痴ってるおばあちゃん。
どういう経緯なのか、きっちりスーツに身を包んで鞄も持っているサラリーマン(DR.アテンドのMAさん?)。
暑くなって服を脱いで、白い爺シャツ一丁のお父さん。
がっちり山登り系からカラフル森ガールまで。
「なめてかかる」人が多いからか、これほど多様な格好の人がいる山も少ないのではないか。

面白いのが、トレッキング系の人達がEPIガスなんかでお湯を沸かして色んなものを食べたり飲んだりしているのだが、何故だか自然も少なく面白みもないケーブルカーの筑波山頂駅の周辺に場所を構えている人が多かったことだ。
せっかくアウトドアの準備をして来たのだから、お店がすぐ近くにあるような場所ではなくて、もっと自然を感じられるところでやればいいのに、と思ったが自らの身に置き換えててみて気がついた。
理由は「トイレ」であろう。
『大震災で生き延びるには「排泄」をしっかりすること。食事は食べなくても水さえ飲んでいれば1週間程度で餓死することはない』という話を聞いたことがあるが、こういう所でも人は「排泄」を意識しながら行動しているということだ。

山での挨拶は「こんにちわ」である。
朝早くても「おはようございます」にはならないようだ。
テレビ局だと真夜中でも挨拶は「おはようございます」だという話は有名だが、山においては活動できる時間帯は常に「こんにちわ」になるようだ。
比較的朝は、通の方(主に高年齢)が多く、昼を過ぎてくると若い人や小さな子供を連れたファミリーが多くなる。

途中「男女川(みなのがわ)の源流」という水が飲める湧水があって、百人一首で陽成天皇の歌「筑波嶺(つくばね)の 峰より落つる みなのがわ 恋ぞつもりて 淵となりぬる」で歌われている「みなのがわ」が本当にあるのを知ってびっくりした。
(調べると男女川と呼ばれるものは北側斜面にももう一つあるらしい。いずれも最後は霞ヶ浦へ流れ込むらしい)

下山途中、これから登っていく人達とすれ違うのであるが、こちらはこれから彼らにどのような行程が待っているのか知っているので、話を聞いていると突っ込みたくなる場合が多い。
「あともう少しで山頂だから、頑張れ!」と子供を励ましている親御さん(実はまだ最後に修羅場が待ってるんだよね〜)とか、「思ってたより楽チ〜ン」とのたまっている合ハイ集団(まだ下の方なんだから、まだまだこれからよ〜ん)とか。

下山後は、筑波山神社の脇の江戸屋で足湯を堪能。足湯だけだと一人200円、飲み物付きでも一人500円。本当は足だけと言わず全身浴でいきたい所だが、目の前に紅葉を見ながらの足湯も乙であった。

2010年11月10日水曜日

TEP(TXアントレプレナーパートナーズ)

柏の葉キャンパス駅すぐのAGORAというカフェを拠点としてTEP(TXアントレプレナーパートナーズ)という組織がある。
多くの先端技術や先進的研究が集まるTX(つくばエクスプレス)沿線には、アントレプレナースピリットに燃える起業家も多く、彼らを支えるインキュベーション施設も整っているということで、この最先端技術の集積地であるつくばエクスプレス(TX)沿線を中心に、アントレプレナースピリットを醸成し、より多くの起業家、ベンチャー企業を育成、支援する目的で設立されたのがTEPである。

TEPには、企業家であるアントレプレナー会員の他、投資家であるエンジェル会員がいる。
毎月『エンジェル例会』というものがあり、アントレプレナー会員がエンジェル会員の前で自分の事業をプレゼンし、その場でエンジェル会員から興味が有る無しを判断され、うまくいけば投資してもらえるし、ダメなら諸々ダメだしをされるという、さながら『マネーの虎』のような世界が繰り広げられている。

自らの事業をプレゼンするにあたっては以下のことは必須である。
①基本的には投資家は当該事業に詳しくないので、分かりやすく自分の事業の業界について語れなければならない。
②自分の事業をどうしていきたいのか、というヴィジョンが明確でなければならない。
③どこで儲けるのか、ビジネスモデルが確立されていなければならない。
④その中で、「自社の強みが何か」「他社との差別化は何か」ということを打ち出せなければならない。

プレゼンが終了すると、エンジェル会員から忌憚の無い意見と様々な質問が飛ぶ。
「マーケットはどうなっていくという認識か。定量的に説明して欲しい。」
「××のリスクについてはどう考えるか。」
「その技術はどこが世界に通用するポイントなのか。」
などなど。

食事&お酒を飲みながらではあるが、白熱した議論が交わされる。
結構飲んでいるエンジェル会員も多い割には、議論は的を得ていて、聞いていてとんでもない方向に話がずれるようなことはない。
アントレプレナー会員からは、資金提供の支援依頼の他、人脈紹介の依頼であったり、自分の考えにおける忌憚の無い意見などがエンジェル会員に求められている。
エンジェル会員からは厳しい意見も飛ぶが、基本的には企業家を支援する目的で集まっている人達ばかりなので、その意見は前向きで根底には温かいものが感じられる。

基本的には、会員にならないと参加できないのであるが、こういったフランクな議論が駅前カフェで自然と行われるようになると、柏の葉という街はすごい魅力ある街になっていくと思う。

代表の村井勝氏が、「海外の施設入居のクライテリアは何か?」と問われたのに対して、
「日本人はつい長々と説明するが、エレベーターの中でポイントだけを説明して興味をもたせるエレベーター・ブリーフィングができないとダメ」と話していたのが印象的であった。

2010年11月7日日曜日

『和の思想』

アトリエ和尚の渥美利幸先生からお勧めをいただいた本。
長谷川櫂さんは俳人なのだが、「和」の考え方について共感されたということでお勧めなのだと思う。

この国の「和」とは何か。
日本人が培ってきた「和」とは、異質のもの、相容れないもの同士が引き立て合いながら共存することだった。
そして、さらに一歩進んで、このような和を積極的に生み出すことを「取り合わせ」と呼んできたという。

また、この「和」が誕生するためになくてはならない土台が「間」である。「和」はこの「間」があってはじめて成り立つ。
日本人は生活や文化のあらゆる分野で「間」を使いこなしながら暮らしている。
間の使い方はこの国のもっとも基本的な掟であって、日本文化はまさに間の文化といえるだろう。

日本人の生活や文化の中で、なぜ「間」が大事にされるのか。
この蒸し暑い島国では何であれ、「夏をむね」とし、十分に間を取り、涼しげでなければ、たちまち住むのが「堪え難きこと」になってしまうからだと著者はいう。

この国では何事もこだわるより、なりゆきに任せることが重んじられる。周到に準備されたもの、完璧に整えられたものは、たしかに感心させるに違いないが、決して感動されることはない。なぜなら、周到に準備したり、完璧に整えたりすること自体がわずらわしく暑苦しい思いをさせるからである。

芭蕉の句「古池や 蛙飛こむ水のおと」の解釈や、谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』の解釈から兼好法師の『徒然草』まで、総動員しての「和」の解釈は非常に面白い。
夏を旨とする、涼しげな作法こそが日本人のベースとなっているという考え方は斬新である。

著者は俳人なのであるが、建築家に関しても述べている部分がある。
「安藤忠雄は大地の根底からデザインし、掘り起こし、がっしりと建物を造り上げる。それを象徴する素材がコンクリートであり、コンクリート打ち放しという工法であった。
この安藤の建築と対比すると、隈の建築は表層的である。
仮に凸凹の土地に家を建てるとすれば、安藤はまず凸凹を平らにして建てるが、隈は凸凹のまま、というより、逆に凸凹を活かして建てようとする。
安藤を筋肉的な建築家と呼ぶなら、隈は皮膚的な建築家といえる。」
明確な記載はないが、どちらかというと隈の”皮膚的な建築”(よく言われる『負ける建築』
)こそが日本的な「和」であるという考え方のようである。

「空っぽであることは大いに誇るべきことである。日本という国は大昔から次々に海を渡ってくる様々な文化をこの空っぽの山河の中に受け入れて、それを湿潤な蒸し暑い国にふさわしいものに作り替えてきたからである。
それこそ「和」の力であり、この「和」の力こそ日本独自ということのできる唯一のものである。その力によって生み出されたものが和服であり、和食であり、和室だった。」

対立するものがある場合、第三の道への昇華が「和」の力だとすると先人の培ってくれた「和」の力を最大限に活かしていきたい。
そのために必要なのが「間」だとする考え方は、通常”遊び”と捨て置かれる一見無駄なことに対する寛容性にもつながる考え方ではなかろうか。
”涼しげ”に「結果」も出していきたいものである。

大巻伸嗣氏 ホールド型取りワークショップ@UDCK

柏の葉の新UDCKでアーティスト大巻伸嗣氏による「ホールド型取りワークショップ」が開かれて子供と参加してきた。
この”ホールド”とは、現在建設中のマンション「パークシティ柏の葉キャンパス 二番街」の中に設置されるアート「トラバーシングウォール」と「タイムウォール」に設置されるホールド(つかみ手部分)である。
ワークショップ参加者が各自思い出の品を持ち寄り、それを型取ることで”ホールド”をつくり、過去と現在と未来を、また、居住者同士をアートで結ぼうという素敵な企画である。

そんな高尚なテーマとは関係なく、この”型取り”の活動は面白かった。
作業とすると、①外枠となる箱を用意し、②「コピック」と呼ばれる型取り材をボウルに水でといて、③取りたい型と共に箱の中に注ぎ込む。④固まったら型の部分を取り去って、⑤水で溶いた石膏を注入し、⑥石膏が固まったら、箱を取り外して、コピックから石膏をとり出す。
という順番である。

書くと身もふたもないが、色んな所にコツやらポイントがあって、結構大人もはまる。
○コピックは早く混ぜないと固まってしまう(特に大量の時には相当量を手分けしてでも一気に作る必要がある)。水だと固まるのが遅いので早めたい時にはお湯を使う。
○コピックを箱の中に注ぎ込む時にはトンカチ等で叩きながら入れて、空気を抜く。
○気を抜くと、中に入れたはずのものやら手やらが浮かんでくる(コピックは比重が重い?)
○石膏は水と1:1の比率で混ぜる。この時もお湯を使ったり、塩を入れると早く固まる。

芸大の学生さんも手伝いに来ていて話をしたのだが、この「型取り」は芸大では基本の基の字で入学すると最初にやるのだそうだ。
結構「型取り」というのは奥が深くて、色んな対象を色んなやり方で学ぶらしい。

一時期化石を掘り出すのが流行ったが、石膏が固まった後、トピックの中から作品を掘り出す作業は化石を掘るのと似た興奮がある。
また、出て来たものを整える作業も、昔やった型取り(難易度により金額が違うが、成功すると賞金がもらえるやつ)の面白さに似ており、これは主に大人が集中しながら行っていた。

一回できてしまうと、もっと色んなものにチャレンジしたくなり、もっと大きな対象であるとか、もっと難しい素材であるとかにチャレンジし始める。
最初は子供が喜んでやっていたが、子供が飽き始めた頃に見渡してみると、新しい作品をやっていたのは付き添いだった大人達だったりして面白かった。

大巻伸嗣さん、実は日本でも有数のアーティストだったりするのだが、ワークショップにおける仕切りにおいても非常に秀逸だった。
片付けの時に子供達をうまいこと”のせて”雑巾がけレースを行い、子供達は喜々として雑巾をかけていた。
最後はまるでトム・ソーヤの壁のペンキ塗りみたいな状態になっていて、競争で1等になり商品(ワークショップ始める時に参考に見せるための試作品など)をもらった子供は大喜びであった。
その他にも、「モップ隊」を編成し「モップ隊長、ここよろしく頼むね〜」という感じで誘導し、子供達が楽しみながら掃除を行っていた。

この型取り、夏休みの宿題なんかで常に上位にあがるのだが、家で後片付けなんかのことを考えるとついつい敬遠してしまったりする内容である。
この体験が無料でさせてもらえるワークショップなんて最高である。

参加者が、終了後皆「ありがとうございました」と言って帰っていくのが印象的であった。

最後に気づいた点をひとつ。
大巻さんが、次回の日程の件をスタッフと話をしている時に
「いついつまでは、全く動けない」
という話をしていたのが印象的であった。
我々サラリービジネスマンだと、色んなことを並行して進めるために「いついつまで全くダメ」という仕事の仕方はしない。
しかしながら、『FISH!哲学』にも「Be there」としてあったように、その場で全力投球をすることが集中力を高め、疲れない方法なのかもしれない。
全く異質の仕事をするアーティストの仕事っぷりからもまだまだ色々学ぶことができそうだ。

ディズニーランド

久しぶりにディズニーランドに行ってきた。
以前は家族で年末に必ず毎年行っていたのだが、妻の病気以来初めて、久しぶりのディズニーランドである。

思えばディズニーランドも1983年4月15日開園とのことで、既に27年が経過している。
最初はA券〜E券のチケット制で現在のようなパスポート制ではなく、当然ファストパスのような制度はなかった。
今回久しぶりに行ってみて気がついた点を列記してみたい。

①カリブの海賊で、ジャック・スパロウ船長他、新キャラクターが盛り込まれていること。
(27年前からある人形と最近入ったジョニー・デップとは人形の精度が全く違うのはご愛嬌)
②キャプテンEO復活。
"This is It"を見てしまうと、昔の感動は無いのだが(特にウェイティングで観させられるメイキングビデオは落差大)、そもそも年齢の高い層(40代超)ターゲットという割り切りでマイケル・ジャクソンを復活させちゃうチャレンジ精神は見習う所大。
③キャラクターグッズは、相変わらず新しいものを次々と作っている。(ポップコーンの容れ物一つとっても、定番って何?というくらい着々と進化し続けている)

細かいところを含めて必ず進化させる(ある意味キャプテンEOの復帰もチャレンジという意味では進化と思う)ということが徹底されているのが見て取れる。
キャストのにこやかなサービスも最初は感動したが、「それがディズニー当たり前」と思われると当初の感動を与えることは難しくなってきている。
それでも、感動を与えようとソフトの質を維持しつつ、ハードでも進化を目指す姿勢には頭が下がるばかりである。

ディズニーの映画づくりは、興行だけでなく、キャラクタービジネスの意味合いも強くもっている気がする。
ディズニーのものづくりには必ず表に出さない”バックグラウンドストーリー”が存在する。
どのアトラクションもホテルも、細部にいたるまでこのバックグラウンドストーリーに基づいて決定される。
ディズニーの映画はこのバックグラウンドストーリーをつくりながら、それを表に出してお披露目する(そしてあわよくば儲ける!)という目的も持っているのではないか。
だから必ずしも映画の興行で設ける必要がなく、映画の興行はトントンでもその後映画内のキャラクター達が色々なところ(グッズやらアトラクション)で活躍(貢献)してくれれば元もとれるという考え方なのではないか。
(だからこそ、ディズニー映画は記憶に残る=感動する映画を常に心がけているのではなかろうか。ストーリーの意外性という意味では、ディズニー映画は常にハッピーエンドなので結論は常に読み易い。)

先日の新聞記事によると、
「東京ディズニーリゾートを運営するオリエンタルランド(浦安市舞浜)は4日、2010年度上半期(4〜9月)の連結決算を発表した。それによると、例年より雨の日が少なかったため、テーマパーク事業が好調で、営業利益、税引き後利益ともに過去最高(開園25周年の08年度)を更新した。
 営業利益は前年同期比74・6%増の277億2200万円、税引き後利益は同68・0%増の160億6900万円といずれも大幅に伸びた。売上高は同2・9%増の1797億200万円。期間中の入園者数は1295万人で、08年度に次いで2番目に多かった。」
とのことで、OLC社の業績も好調である。

10年位前のOLC社内では、
「ディズニーとケチャップの世代による嗜好は同じ傾向を示し、40歳を過ぎると好きだった層も好きでなくなる。これから日本では40歳代未満の年代が減少するなかで、新たな軸となる新規事業を創り出さねば、いずれ我が社は日の目をみなくなる」
ということで、非常に危機感が高まっていて、その危機感がシルクドゥソレイユ常設劇場の増設などにつながった。
今回の過去最高益は、この不況下でしかもテーマパーク事業という本業で達成しているということは驚くべきことである。
危機感から生み出された新規事業は成功ばかりではないだろうが、今回の決算は基幹事業で日々たゆまざる進化を遂げていないと達成できることではない。
実際に現場を見ても実感できるスゴさがある。

OLC社の人と付き合うと、全ての人が明るく前向きである。
その分、ちょっと緩い点もあるのだろうが、その寛容性がOLC社の魅力であり、高収益の秘密の一つなのではなかろうか。

2010年11月3日水曜日

『日本人へ リーダー篇』

『ローマ人の物語』で有名な塩野七生女史が、文藝春秋で連載していたコラムをまとめて新書化した本。
通常、コラムのまとめを新書化しても新鮮味を失って面白くないのであるが、さすがローマ帝国で歴史から骨太の原理原則を引き出している塩野女史、コラムのネタ自体は古いのであるが、そのネタに付随する原理原則がしっかりしているので、読んでいて面白い。
『ローマ人の物語』も途中読みかけとなっているが、コラム化した方が、紙面の都合上、本当に大事な事だけをポイントとして書く必要があるので、単純化されていて分かりやすい気がする。(その分、理解が浅くなるということなのだろうが)

日本の与党が民主党であるべきか自民党であるべきかの議論については、3世紀のローマの事例から、「やらなければならないことはわかっているのだから、当事者が誰になろうと「やり続ける」しかない。」と喝破。
ローマ帝国では3世紀に入ると課題が山積となって、皇帝がコロコロ変わり、それに伴い政策もコロコロ変わった。その結果、ローマ帝国衰亡の原因をつくったのだそうだ。
誰がやるにせよ、「正しい政策をやり続ける」ということが将来の日本をつくるという考え方だ。

また、歴史を紐解いて得た原理原則として、
「興隆・安定期と衰退期を分けるのは、大同小異という人間の健全な知恵を、取り戻せるか取り戻せないかにかかっている。つまり、問題の本質は何か、に関心を戻すことなのだ。言い換えれば問題の単純化である。」
と述べている。
これは、エリヤフ・ゴールドラット博士の制約理論の対立解消術にも通じる。
対立している場合でもお互いに真の目的をつきつめていくと、わかりあえる所まで戻ることができる。それが真の目的であり、それを認識することで問題の本質が見えてくる。


「敗者同化路線」こそ、ローマ人の考えていた他民族国家の運営哲学であった。
知力ではギリシア民族に劣り、体力ではケルト(ローマ人の呼称ではガリア)やゲルマンの民族に劣り、技術力ではエトルリア民族に劣ると,自らが認めていたローマ人が、何故あれだけの大を成す事ができたのか。一大文明圏を築き上げ、長期にわたって維持する事ができたのか。
それは「もてる能力の徹底した活用」なのだそうだ。
どの会社組織においても、また国家にとっても非常に重要な原理原則のような気がする。


グローバル社会が進むにあたって、西欧の人とも宗教について話をする機会が増えることが想定される。
その際、ちょっと批判的な意味合いで「日本人はどうして、神を信じないのか?」「日本人はどうして宗教を持たないのか?」と言った質問がでてくる。
「日本では仏教がベースとなっていて宗教がないわけではないが、八百万の神を信じることを基本とする神社(神道)も生活のうちに深く浸透している。」というような苦しい感じの回答となるケースが多い。
この件について責められた時の模範解答も、塩野女史は教えてくれている。
「一神教と多神教の最も本質的な違いは、一神教に他の神々を受け容れる余地はないが、多神教にはある、というところにある。要するに、他者の信じる神を認めないのが一神教で、認めるのが多神教なのだから。
他者の信じる神の存在を許容するという考え方は、他者の存在も許容するという考えと表裏関係にある。これを、多神教時代のローマ人は「寛容」(クレメンティア)と呼んだ。
宗教を持たないと言って非難してくるキリスト教徒やイスラム教徒に対しては、多神教故の「寛容」を旗印に掲げることに尽きる。あなた方こそ非寛容だとする論法くらい、一神教にとってのアキレス腱はないのだから。」

この回答ができるくらいに、まずは海外の人とのコンタクトの機会を増やさなければ。