ワコールアートセンター スパイラルのMさんからお勧めいただいた本。
著者がAV監督二村ヒトシ、そして『すべてはモテるためである』というタイトルと相まって、女性の気を惹くための小技ノウハウ本と思いきや、実は深〜いコミュニケーション哲学の本であった。
そもそもこの本、ベースとなる部分(第1章〜第4章)の初版は1998年に発行されている。
その後著者が「モテて」みた後に考えた考察が第5章として追加され、この度の発刊となっているのだが、この第5章と、そして第5章を踏まえての哲学者の國分功一郎氏との対談が追記されることでこの本の深みをより一層増している。
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あなたが彼女にモテないのは、あなたが「彼女にとってキモチワルい人」だからである。
なぜ「あなたが彼女にキモチワルがられるのか」というと、
ひとつは「あなたが彼女に対して自意識過剰の状態におちいっている」ため。
もうひとつは「あなたが、あなたと彼女の関係について考えるべきことを、ちゃんと自分の頭で考えていないから」
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ということで、著者は読者にまず「どういう風にモテたいのか?」、「なぜモテたいのか?」を考えさせる。
しかも最初なので(いきなり本を放り出されないように)事例まで細かく提示して、上手な巻き込み手法を用いている。
「モテる」ためのやり方は、人によって違うといいながら、ざっくり書くと
○自意識過剰をやめる。
○【対話】を通じて相手と同じ土俵に乗る。
○自分の【居場所】をつくって「適度に」自信を持つ。(でもエラソーにしない。謙虚であれ)。
さらりと書いたが、結構【 】の内容は深い。
まず【対話】。
【対話】とは、相手の言っていることばを「まずは、聴く。けれど【判断】しない、決めつけない」こと。
「対話できる」ということが、「相手と同じ土俵に乗れる」ということ。
「聞く」は単純に耳に入ってくる、「訊く」は質問するといういみだが、「聴く」とは意志をもって聞く、あなたの脳や心で、ことばや音や音楽をとらえていく、という意味。
さらに大切なのは、「意志をもって聴く」といっても【上から目線で聴いているのではダメ】だということ。
相手を、あなたの心の中で「決めつけて」はいけない。
たとえば彼女の話から「彼女が何かに悩んでいる」ことがわかったとして、その状況を分析してみたり、それに対するアドバイスをしたりしても、最初は感謝されるかもしれないが、やがて確実に嫌われる。
それはコミュニケーションではなく「相手をコントロールしようとしていること」だから。
上から目線ではなく相手の話を聴く。
つまり「相手と同じ土俵に乗る」というのは、「あなた自身が(相手の話を聴いたことによって)変わる」つもりがあって話を聴いているかどうか、あなたの側に【変化する気が】あるか、ということでもある。
次に【居場所】。
【居場所】というのは、チンケな同類がうじゃうじゃ群れているところじゃなくて、【一人っきりでいても淋しくない場所】っていうこと。
モテるためには必要な【他者とのコミュニケーション】において臆病になりすぎないために『オレは、オレの好きなことにハマっている』『オレには居場所がある』という自信と誇りを持つ。しかも、そのことでけしてエラソーにはなるな、謙虚であれ、というのが教え。
あイタタ、どちらも結構読んでて痛い部分があるぞ。
理論が分かったら、エッチな場所で実践し練習を重ねよ、というのが著者の次の教え。
本番編では『スーパー戦隊論』が出てくる。
簡単に言うと、自分の中の色々なキャラを彼女の前でどんどん登場させていこう、という話なのだが、それにひもづいて『あなたの中の【女】、モモレンジャー』理論というのがあり、これが斬新で舌を巻いた。
非常に面白いので著者の文章をなるべくそのまま引用する。
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あなたはオナニーをすることがあると思いますが、そのときにAVもエロ本も過去の出来事の思い出も使わないとしたら、頭の中には誰が登場しますか?
それがあなたの中の【女】です。好きな女性タレントとか、つきあい始めたけどまだセックスしていない現実の彼女とかの姿で登場してくるんだとしても、その女性は、あなたとまだセックスしてないんでしょ?オナニー中、あなたの頭の中の彼女は、よがったり、あなたを愛撫してくれたり、いろいろミダラなことをしてくれると思うんですが、そのミダラっぷりは「あなたが頭の中で作ったミダラさ」じゃないですか。てことは、あなたの中の【女】のキャラ、戦隊の女性メンバー、ゴレンジャーでいえばモモレンジャーが、その彼女の役を演じているんです。
そして、このモモレンジャーが、あなたの中の戦隊の、陰の、真のリーダーであるべきなんです。たとえば好きになった彼女を攻略するために「次に誰を出すか。熱血でいくか、クールでいくか」というメンバーのローテーションは、この【女性メンバー】に考えてもらうべきなんです。
あなたが、ある女性を好きになったとしたら、その「彼女」と「あなたの中の【女】」は、似ているところがあるはずなんです。
相手の女性がいま何を考えているか、何を感じているかは、自分の中の【女】に探らせ、判断させ、作戦を練らせるのがいいのです。
女心は女にしか、わからないんだし、そもそも「二人は似ている」のですから。
人の心というのは不思議というか厄介もので「あなたがどんなに彼女を好きでも【あなたの中の女】は彼女のことを憎んでしまう」ということがあります。
あまのじゃくな【女】とか、すごいバカな【女】とかに住みつかれている男性は、恋愛関係で苦労がたえません。
あなたの中の【女】というのは、あなたと一緒に生まれて、あなたとともに育ってきたわけですが、あなたの中の【女】は必ずあなたのお母さん(もしくはあなたを育ててくれた女性)の影響を受けます。
これで【お母さん】と【自分の中の女】がそっくりな男は、マザコンと呼ばれるわけですね。
「恋愛をする」ということは、「彼女と【あなたの中の女】との関係」だけの問題ではありません。「あなたと【彼女の中の男】との関係」の問題でもあります。
「自分の中の【女】が、どんな女なのか」を理解してあげましょう。
【自分の中の女】がキモチワルい女だった場合でも、あなたが治すことができるはずです。
どうやって治せばいいのか。
生きている「いろんな人」とたくさん関わって、たくさん【対話】をして、なるべく人に優しくすることです。
【自分の中の女】が「素直な性格」になってくると、現実女性の「いいところ」が、顔やスタイルだけじゃなくて、たくさん見えるようになってきます。
厳密な意味で完全に「相手の気持ちになる」ことは人間には不可能だと僕は思います。
ただ「相手の身になって考える」ということなら、ありえます。
彼女が、あなたが見たことない服を着ていたら、新しい髪型をしてたら、褒める。青レンジャーが寝てたらモモレンジャーが蹴っ飛ばして起こして、とにかく褒めさせる。
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この『スーパー戦隊 モモレンジャー理論』はすっごく気に入った理論になったのだが、ひとつ追加であるとすると、【自分の中の女】であるモモレンジャーも男性メンバー同様、決して一人ではないような気がする。
個人(男)の中の理想の女性像は、その全てを一人の人格に昇華できるものなのだろうか。著者も言っているが、最近の「戦隊もの」ではタイプの違う女性が2人(お姉さんタイプとボーイッシュちゃきちゃき娘系など)出てくるようになっている。
タイプの違う【モモレンジャー】が二人いたりするのは浮気性ということなのだろうか?
第4章までが1998年に出した本で、上野千鶴子さんによる解説とか、さらには文庫版のあとがきまで書かれた後に、第5章「モテてみた後で考えたこと。」が始まる。
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モテるようになって、いっとき人生の調子が非常に良くなった(ように本人は感じた)のだが、しばらくすると【モテているのに、心が苦しい】という状態になった。
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つまり、15年前のノウハウを実践したところ、正直「苦しさ」を感じるようになったという告白だ。
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「モテる」ということは、つまり他人の【心にあいた穴】を刺激できる人間になる、ということだ。
女性の側からすると、モテる男というのは「心の欠けた部分を埋めてくれるような気がする、つきあうことで完璧な自分になれそうな気がする男」なのだそうだ。
彼女達が言っていることは本質的には共通していて、要するに「私を抱きしめて。支配して。でも同時に、私を自由にして。私をコントロールしないで」と言っている。
難しい。ていうか矛盾している。
もうちょっとおだやかに表現すると、彼女達は「あなたが私を愛して。でも、あなたが愛してくれる愛し方は、私がされたい愛し方ではない」と言っているのだ。
だが、われわれ【モテて、女性から恋された男】も、女の人にむかって「恋してくれたんだから、お前をオレのものにするよ。だが同時にオレは、お前を突き放すよ」とつねに言っている。矛盾している。「オレはお前を愛したいのだが、お前が愛されたいように愛することは、しないよ」と後だしジャンケンのように宣言しているのだ。なんでそんなダブルバインドをかけるのか。
ヤリチンつまり複数恋愛を指向する男であればこれに「いやだったら勝手にしなよ」が加わるし、これが一対一恋愛の場合は「オレはちゃんと愛してるじゃないか。何が不満なの」「オレも仕事で疲れてるんだよ・・・」が加わる。
どちらにせよ、男が女を支配しようとする限り(女も「支配されよう」とするかぎり)かならず男はダブルバインドをかける。
奇妙なことに「男は女を支配しようとして、けしからん」と怒る女の人も、【被害者意識】を持つ限り同じダブルバインドをかけられる。
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そこで著者は、新たな気づきを得る。
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「モテたい」=「キモチワルくないと保証されたい」というのは、「恋されたい」ではなくて、本当は「愛されたい」ということだったんじゃないだろうか。
【愛されたい】というのが「自分を肯定して欲しい」という欲求だとしたら。
(ちなみに【恋する】とは「相手を求めること、自分のものにしたがること」)
【モテたい】は「キモチワルくないと保証されたい」ことなんだから、実は【モテたい】人は愛されていれば充分であって「恋されて、相手を支配する」必要はないんじゃないんだろうか。
モテた者も、モテを目指す者も、ただ「自分は愛されたいんだ」と認めればいいんじゃないだろうか。
さっき書いた【モテるようになった男が恋する女に「愛するけれど、お前が愛されたいように愛してあげることは、しないよ」とダブルバインドをかける】のは、つまり【自分のほうは変わる気がない】ということだ。それだと相手だけじゃなく、何より自分が苦しくなるのだ。
ある人間が「心の底から願っていること」「本当に欲しいと思っていること」は、実は「その人が他人に対して【与える】能力をもっていること」なのだ。
「モテたい」が「恋されたい」じゃなくて「愛されたい」だと気がついた人は、実は「ちゃんと他人を愛する能力」を有するのだ。
それを認めて「愛することによって自分が変わるのを、恐れない」のが、つまり「大人になる」ということじゃないだろうか。
子どもであることのほうが変化の余地があって、大人になっちゃうと人間が硬直するんじゃないかと考えがちだが、そんなことはない。
子どもであり続けることのほうが「がんこ」で「自分を守っている」のである。
大人だということは、「もう長い時間は残っていないんだから、なるべく他人を幸せにしよう」と考えることだ。
さまざまな「モテるために変わる」方法を考えてきたが、最終的には「大人になることでモテる」のが、一番威力があります。相手も自分も苦しまないし。
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結局人間は「愛されたい」を目指すべきだし、そういう人は実は「他人を愛する能力」を有している、というのはグルッと1回転して元のところに戻って来たようで、実はもとの場所より1段高みにいる結論のような気がする。
人間って元の位置を一度離れないと、その場所の高みには登れない生き物なのかもしれない。
哲学者の國分氏との対談も面白い。
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人間の心には先天的に穴があいているわけではない。しかし、誰かに育てられる中で、必ずいくつもの傷を負い、その傷が集まって「心の穴」を形成する。それが人間の性格であったり、好みであったりする。で、その「心の穴」が似ていたりすると、その人たちが惹かれあう。
「心の穴」が愛や恋の根源にあるとすれば、愛したり恋したりという感情は、先天的なものではないが、しかしほぼ必然的に後天的に獲得されるものだ、と考えることができる。
人間は「その人の心の穴から湧いてくるものが、他人の心の穴を刺激する」からモテてるんだと思う。
恋愛感情というのが、自分の「心の穴」から出て来ているもので、しかも「心の穴」が主として親にあけられたものだとすると、恋愛は親子関係をやり直していることになる。なのに、なかなかそれが学べないし、認めたくないもんだから、ごまかして自分の穴を見逃してしまう。
どんな人でも、小さい頃に親の影響を受けていて、何かを押し付けられて生きてきている。(アリス・ミラーという精神分析家はそれを「闇教育」と呼んだ。)
そもそもフロイトが「性格は断念によって形成される」と言っていたように、人の心について考えるなら絶対に「心の穴」を避けるわけにはいかない。
「モテるやつというのは、敷居が低い人間である」。他人から見て「簡単に近づきやすい人」であるとモテるわけです。つまり、「モテる」ということは、その人自身の魅力というものとはちょっと違う。
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もともと、「女性にモテるには」という軽いテーマから、コミュニケーション論になっていたのだが、國分氏との対談はそれが哲学としてもイケてることを再認識させる。
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「感情は、考えないで感じきる」
自分の感情を感じきることで、気持ちを曖昧にしなくてすむ。
「非モテ」「非リア」とか言った言葉はそういう感情をストップさせてしまう言葉で、感情を停止してしまうがゆえに自分のなかの「モテない」という恨みを熟成させる装置になってしまっている。
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二村氏は、最初読者に「考えろ」と言い続けてきたので、ここで「考えるな。感じろ」と言うと混乱するのではないか、と心配しているが、「堂々巡って元に戻るがされど元の場所にあらず」、ということは往々にして存在する。
それが日本古来の「守破離」であり、ヘーゲルの言う「アウフヘーベン」なのではなかろうか。
テーマが身近で入りやすく、そして深い、という学びとしても非常に適したテーマを見つけて、AV監督が書いてしまうところが面白い。
現時点にしても著者としては”仮説”の段階であるようなので、また10年くらいしたら実践の結果を受けて、再度第6章が追加になって更なる自己形成小説として改訂(発行)されるのかも知れない。
それもまた楽しみ。
著者がAV監督二村ヒトシ、そして『すべてはモテるためである』というタイトルと相まって、女性の気を惹くための小技ノウハウ本と思いきや、実は深〜いコミュニケーション哲学の本であった。
そもそもこの本、ベースとなる部分(第1章〜第4章)の初版は1998年に発行されている。
その後著者が「モテて」みた後に考えた考察が第5章として追加され、この度の発刊となっているのだが、この第5章と、そして第5章を踏まえての哲学者の國分功一郎氏との対談が追記されることでこの本の深みをより一層増している。
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あなたが彼女にモテないのは、あなたが「彼女にとってキモチワルい人」だからである。
なぜ「あなたが彼女にキモチワルがられるのか」というと、
ひとつは「あなたが彼女に対して自意識過剰の状態におちいっている」ため。
もうひとつは「あなたが、あなたと彼女の関係について考えるべきことを、ちゃんと自分の頭で考えていないから」
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ということで、著者は読者にまず「どういう風にモテたいのか?」、「なぜモテたいのか?」を考えさせる。
しかも最初なので(いきなり本を放り出されないように)事例まで細かく提示して、上手な巻き込み手法を用いている。
「モテる」ためのやり方は、人によって違うといいながら、ざっくり書くと
○自意識過剰をやめる。
○【対話】を通じて相手と同じ土俵に乗る。
○自分の【居場所】をつくって「適度に」自信を持つ。(でもエラソーにしない。謙虚であれ)。
さらりと書いたが、結構【 】の内容は深い。
まず【対話】。
【対話】とは、相手の言っていることばを「まずは、聴く。けれど【判断】しない、決めつけない」こと。
「対話できる」ということが、「相手と同じ土俵に乗れる」ということ。
「聞く」は単純に耳に入ってくる、「訊く」は質問するといういみだが、「聴く」とは意志をもって聞く、あなたの脳や心で、ことばや音や音楽をとらえていく、という意味。
さらに大切なのは、「意志をもって聴く」といっても【上から目線で聴いているのではダメ】だということ。
相手を、あなたの心の中で「決めつけて」はいけない。
たとえば彼女の話から「彼女が何かに悩んでいる」ことがわかったとして、その状況を分析してみたり、それに対するアドバイスをしたりしても、最初は感謝されるかもしれないが、やがて確実に嫌われる。
それはコミュニケーションではなく「相手をコントロールしようとしていること」だから。
上から目線ではなく相手の話を聴く。
つまり「相手と同じ土俵に乗る」というのは、「あなた自身が(相手の話を聴いたことによって)変わる」つもりがあって話を聴いているかどうか、あなたの側に【変化する気が】あるか、ということでもある。
次に【居場所】。
【居場所】というのは、チンケな同類がうじゃうじゃ群れているところじゃなくて、【一人っきりでいても淋しくない場所】っていうこと。
モテるためには必要な【他者とのコミュニケーション】において臆病になりすぎないために『オレは、オレの好きなことにハマっている』『オレには居場所がある』という自信と誇りを持つ。しかも、そのことでけしてエラソーにはなるな、謙虚であれ、というのが教え。
あイタタ、どちらも結構読んでて痛い部分があるぞ。
理論が分かったら、エッチな場所で実践し練習を重ねよ、というのが著者の次の教え。
本番編では『スーパー戦隊論』が出てくる。
簡単に言うと、自分の中の色々なキャラを彼女の前でどんどん登場させていこう、という話なのだが、それにひもづいて『あなたの中の【女】、モモレンジャー』理論というのがあり、これが斬新で舌を巻いた。
非常に面白いので著者の文章をなるべくそのまま引用する。
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あなたはオナニーをすることがあると思いますが、そのときにAVもエロ本も過去の出来事の思い出も使わないとしたら、頭の中には誰が登場しますか?
それがあなたの中の【女】です。好きな女性タレントとか、つきあい始めたけどまだセックスしていない現実の彼女とかの姿で登場してくるんだとしても、その女性は、あなたとまだセックスしてないんでしょ?オナニー中、あなたの頭の中の彼女は、よがったり、あなたを愛撫してくれたり、いろいろミダラなことをしてくれると思うんですが、そのミダラっぷりは「あなたが頭の中で作ったミダラさ」じゃないですか。てことは、あなたの中の【女】のキャラ、戦隊の女性メンバー、ゴレンジャーでいえばモモレンジャーが、その彼女の役を演じているんです。
そして、このモモレンジャーが、あなたの中の戦隊の、陰の、真のリーダーであるべきなんです。たとえば好きになった彼女を攻略するために「次に誰を出すか。熱血でいくか、クールでいくか」というメンバーのローテーションは、この【女性メンバー】に考えてもらうべきなんです。
あなたが、ある女性を好きになったとしたら、その「彼女」と「あなたの中の【女】」は、似ているところがあるはずなんです。
相手の女性がいま何を考えているか、何を感じているかは、自分の中の【女】に探らせ、判断させ、作戦を練らせるのがいいのです。
女心は女にしか、わからないんだし、そもそも「二人は似ている」のですから。
人の心というのは不思議というか厄介もので「あなたがどんなに彼女を好きでも【あなたの中の女】は彼女のことを憎んでしまう」ということがあります。
あまのじゃくな【女】とか、すごいバカな【女】とかに住みつかれている男性は、恋愛関係で苦労がたえません。
あなたの中の【女】というのは、あなたと一緒に生まれて、あなたとともに育ってきたわけですが、あなたの中の【女】は必ずあなたのお母さん(もしくはあなたを育ててくれた女性)の影響を受けます。
これで【お母さん】と【自分の中の女】がそっくりな男は、マザコンと呼ばれるわけですね。
「恋愛をする」ということは、「彼女と【あなたの中の女】との関係」だけの問題ではありません。「あなたと【彼女の中の男】との関係」の問題でもあります。
「自分の中の【女】が、どんな女なのか」を理解してあげましょう。
【自分の中の女】がキモチワルい女だった場合でも、あなたが治すことができるはずです。
どうやって治せばいいのか。
生きている「いろんな人」とたくさん関わって、たくさん【対話】をして、なるべく人に優しくすることです。
【自分の中の女】が「素直な性格」になってくると、現実女性の「いいところ」が、顔やスタイルだけじゃなくて、たくさん見えるようになってきます。
厳密な意味で完全に「相手の気持ちになる」ことは人間には不可能だと僕は思います。
ただ「相手の身になって考える」ということなら、ありえます。
彼女が、あなたが見たことない服を着ていたら、新しい髪型をしてたら、褒める。青レンジャーが寝てたらモモレンジャーが蹴っ飛ばして起こして、とにかく褒めさせる。
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この『スーパー戦隊 モモレンジャー理論』はすっごく気に入った理論になったのだが、ひとつ追加であるとすると、【自分の中の女】であるモモレンジャーも男性メンバー同様、決して一人ではないような気がする。
個人(男)の中の理想の女性像は、その全てを一人の人格に昇華できるものなのだろうか。著者も言っているが、最近の「戦隊もの」ではタイプの違う女性が2人(お姉さんタイプとボーイッシュちゃきちゃき娘系など)出てくるようになっている。
タイプの違う【モモレンジャー】が二人いたりするのは浮気性ということなのだろうか?
第4章までが1998年に出した本で、上野千鶴子さんによる解説とか、さらには文庫版のあとがきまで書かれた後に、第5章「モテてみた後で考えたこと。」が始まる。
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モテるようになって、いっとき人生の調子が非常に良くなった(ように本人は感じた)のだが、しばらくすると【モテているのに、心が苦しい】という状態になった。
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つまり、15年前のノウハウを実践したところ、正直「苦しさ」を感じるようになったという告白だ。
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「モテる」ということは、つまり他人の【心にあいた穴】を刺激できる人間になる、ということだ。
女性の側からすると、モテる男というのは「心の欠けた部分を埋めてくれるような気がする、つきあうことで完璧な自分になれそうな気がする男」なのだそうだ。
彼女達が言っていることは本質的には共通していて、要するに「私を抱きしめて。支配して。でも同時に、私を自由にして。私をコントロールしないで」と言っている。
難しい。ていうか矛盾している。
もうちょっとおだやかに表現すると、彼女達は「あなたが私を愛して。でも、あなたが愛してくれる愛し方は、私がされたい愛し方ではない」と言っているのだ。
だが、われわれ【モテて、女性から恋された男】も、女の人にむかって「恋してくれたんだから、お前をオレのものにするよ。だが同時にオレは、お前を突き放すよ」とつねに言っている。矛盾している。「オレはお前を愛したいのだが、お前が愛されたいように愛することは、しないよ」と後だしジャンケンのように宣言しているのだ。なんでそんなダブルバインドをかけるのか。
ヤリチンつまり複数恋愛を指向する男であればこれに「いやだったら勝手にしなよ」が加わるし、これが一対一恋愛の場合は「オレはちゃんと愛してるじゃないか。何が不満なの」「オレも仕事で疲れてるんだよ・・・」が加わる。
どちらにせよ、男が女を支配しようとする限り(女も「支配されよう」とするかぎり)かならず男はダブルバインドをかける。
奇妙なことに「男は女を支配しようとして、けしからん」と怒る女の人も、【被害者意識】を持つ限り同じダブルバインドをかけられる。
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そこで著者は、新たな気づきを得る。
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「モテたい」=「キモチワルくないと保証されたい」というのは、「恋されたい」ではなくて、本当は「愛されたい」ということだったんじゃないだろうか。
【愛されたい】というのが「自分を肯定して欲しい」という欲求だとしたら。
(ちなみに【恋する】とは「相手を求めること、自分のものにしたがること」)
【モテたい】は「キモチワルくないと保証されたい」ことなんだから、実は【モテたい】人は愛されていれば充分であって「恋されて、相手を支配する」必要はないんじゃないんだろうか。
モテた者も、モテを目指す者も、ただ「自分は愛されたいんだ」と認めればいいんじゃないだろうか。
さっき書いた【モテるようになった男が恋する女に「愛するけれど、お前が愛されたいように愛してあげることは、しないよ」とダブルバインドをかける】のは、つまり【自分のほうは変わる気がない】ということだ。それだと相手だけじゃなく、何より自分が苦しくなるのだ。
ある人間が「心の底から願っていること」「本当に欲しいと思っていること」は、実は「その人が他人に対して【与える】能力をもっていること」なのだ。
「モテたい」が「恋されたい」じゃなくて「愛されたい」だと気がついた人は、実は「ちゃんと他人を愛する能力」を有するのだ。
それを認めて「愛することによって自分が変わるのを、恐れない」のが、つまり「大人になる」ということじゃないだろうか。
子どもであることのほうが変化の余地があって、大人になっちゃうと人間が硬直するんじゃないかと考えがちだが、そんなことはない。
子どもであり続けることのほうが「がんこ」で「自分を守っている」のである。
大人だということは、「もう長い時間は残っていないんだから、なるべく他人を幸せにしよう」と考えることだ。
さまざまな「モテるために変わる」方法を考えてきたが、最終的には「大人になることでモテる」のが、一番威力があります。相手も自分も苦しまないし。
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結局人間は「愛されたい」を目指すべきだし、そういう人は実は「他人を愛する能力」を有している、というのはグルッと1回転して元のところに戻って来たようで、実はもとの場所より1段高みにいる結論のような気がする。
人間って元の位置を一度離れないと、その場所の高みには登れない生き物なのかもしれない。
哲学者の國分氏との対談も面白い。
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人間の心には先天的に穴があいているわけではない。しかし、誰かに育てられる中で、必ずいくつもの傷を負い、その傷が集まって「心の穴」を形成する。それが人間の性格であったり、好みであったりする。で、その「心の穴」が似ていたりすると、その人たちが惹かれあう。
「心の穴」が愛や恋の根源にあるとすれば、愛したり恋したりという感情は、先天的なものではないが、しかしほぼ必然的に後天的に獲得されるものだ、と考えることができる。
人間は「その人の心の穴から湧いてくるものが、他人の心の穴を刺激する」からモテてるんだと思う。
恋愛感情というのが、自分の「心の穴」から出て来ているもので、しかも「心の穴」が主として親にあけられたものだとすると、恋愛は親子関係をやり直していることになる。なのに、なかなかそれが学べないし、認めたくないもんだから、ごまかして自分の穴を見逃してしまう。
どんな人でも、小さい頃に親の影響を受けていて、何かを押し付けられて生きてきている。(アリス・ミラーという精神分析家はそれを「闇教育」と呼んだ。)
そもそもフロイトが「性格は断念によって形成される」と言っていたように、人の心について考えるなら絶対に「心の穴」を避けるわけにはいかない。
「モテるやつというのは、敷居が低い人間である」。他人から見て「簡単に近づきやすい人」であるとモテるわけです。つまり、「モテる」ということは、その人自身の魅力というものとはちょっと違う。
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もともと、「女性にモテるには」という軽いテーマから、コミュニケーション論になっていたのだが、國分氏との対談はそれが哲学としてもイケてることを再認識させる。
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「感情は、考えないで感じきる」
自分の感情を感じきることで、気持ちを曖昧にしなくてすむ。
「非モテ」「非リア」とか言った言葉はそういう感情をストップさせてしまう言葉で、感情を停止してしまうがゆえに自分のなかの「モテない」という恨みを熟成させる装置になってしまっている。
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二村氏は、最初読者に「考えろ」と言い続けてきたので、ここで「考えるな。感じろ」と言うと混乱するのではないか、と心配しているが、「堂々巡って元に戻るがされど元の場所にあらず」、ということは往々にして存在する。
それが日本古来の「守破離」であり、ヘーゲルの言う「アウフヘーベン」なのではなかろうか。
テーマが身近で入りやすく、そして深い、という学びとしても非常に適したテーマを見つけて、AV監督が書いてしまうところが面白い。
現時点にしても著者としては”仮説”の段階であるようなので、また10年くらいしたら実践の結果を受けて、再度第6章が追加になって更なる自己形成小説として改訂(発行)されるのかも知れない。
それもまた楽しみ。
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