2017年7月30日日曜日

『牙を研げ』

佐藤優氏の著作。
サラリーマン向けの朝活講演会をまとめたもののような内容で、テーマは多岐にわたる。

<中間管理職の独断専行>

戦前・戦中は、旧陸軍の中堅将校養成のためのマニュアルに『作戦要務令』というものがあった。
『作戦要務令』は、「うまくやれ」という独断専行の発想に基づいている。
指揮官はきちんとした命令を明確適切に出さなくてはならない。しかし、命令を受けた人間が、状況の変化に対応して何かを行うときは、命令に拘束されることなく、独断で決めていい場合がある。独断専行して構わないということ。 要するに日本の『作戦要務令』の特徴は、「うまくやれ」ということにある。

実行するまでに情勢が変化するので予測できない。そのようなときはガイドラインだけを示しておく、あとはうまくやれということ。
他の項目では、命令を出しても組織の末端に行くまでに時間がかかった場合のことが挙げられているが、これも同じ。

この独断専行のやり方は、攻めにはとても強い論理だけれども、守りの態勢になった時においては責任所在が極めて不明確になってしまう。
「うまくやれ」といった組織文化が、近代以降これだけ高度に発達した資本主義において残っているというのは、面白い。このことは意外と日本にとって有利な点かもしれないが、問題は、コンプライアンスといった発想とはなじまないこと。

独断と服従は相反するものではない。上司の命令に従っている範囲での独断は、良い独断で、命令違反ではないということ。

独断専行をうまくやり抜く一つの方法は、組織の幹部の後ろ盾を持つこと。
独断専行をやる人というのは、突出して異常な人ではなく、人誑し型。必ず、上、外に有力者の味方を持っている。
独断専行というのは結局のところ、何かをバイパスするということ。方向性において企業なり国家なりが狙っていることと違う方向だったら、独断専行はできない。言い換えるとショートカットの力。

ヒエラルヒーを維持しながら、能力のあるものを実質的に登用するというのは、日本のメカニズム。だから、『作戦要務令』においても、独断専行を奨励する形になっている。それによって、事実上年次主義を乗り越えているわけ。


<宗教関連>

キリスト教は、イエス・キリストが作った宗教ではなくて、イエス・キリストと会ったこともないパウロという人が作った宗教。
プロテスタンティズム、なかんずくカルバン派は、人は生まれる前から、救われる人は選ばれていて、天国のノートに名前が載っていると考える。同時に、生まれる前から、滅びに至る人も天国のノートに記されている。しかし、そのことを我々は知ることができない。 現実の生活において様々な試練がある。しかし、自分は選ばれている人間だという確信を持っているから、どんな試練でも乗り切ることができ、最終的には「ああ、これで良かったんだ」という人生を歩むことができると考える。
ちなみにドナルド・トランプは長老派(カルバン派)。

キリスト教の罪は祓うことができない。理不尽なことを強いる、論理を超えた、自己責任を超えた責任を負わせるのがキリスト教。絶対に誰も守ることができない倫理を強要して、全員を罪人に陥れていくという傾向がある。
日本の神道はそういう理不尽なことはしない。基本的には、禊や祓いによって人間の汚れはきれいになるという考え方。

日本では、生まれた時にはお宮参り、七五三で神社に行って、結婚式はキリスト教でやって、お葬式は仏教という形で、宗教を変えていくことができる。
こういう様々な宗教を受けれ入れるのを宗教混合(シンクレチズム)という。
シンクレチズム的な土壌があると、外国の文物を受け入れるのは非常に楽。八百万の神様がいる時に、キリスト教の神がくれば800万1番目に入れればいい。ダーウィニズムがくれば800万2番目に入れればいい。そうやって、ありとあらゆるものを包摂することができた。
しかし、そうすることによって、何が絶対に正しいのか、あるいは私はこの信念によって動くという意識は希薄になって、長いものには巻かれろという感じになってくる。それが日本人の宗教観の特徴。

なぜユダヤ教やキリスト教の世界で、特にユダヤ教の世界で論理が発達するのか。
それは、預言者は神様に呼ばれてつねに議論をしないといけないから。
人間側と神様側の過去の対戦成績は、人間側が常に全勝。神様が1度でも勝っていたら我々はここにいないはず。様々な問題があっても、神様が最後に翻意して、やはり人間を生き残らせようかという決断をする。そういう物語の構成になっているから、論理というのは死活的に重要。神様は、黙って心を察してくれるということはない。必ず口に出して説明しないと、言うことを聞いてくれないと言うのが、ユダヤ教とキリスト教の神様。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教 いずれも一神教。しかし、罪に対する感覚はだいぶ違う。
イスラムの罪は、洗い流せばすぐに落ちる程度の汚れで、罪の感覚は非常に薄い。(自分の罪に対しても「アッラーを恨むな」)
ユダヤ教の主流派では、原罪の概念はないにしても、罪の概念はある。しかも、それが人間にかなり初期の段階から備わっていると言う認識はあるから、論理構成を見るならば、限りなく原罪に近い罪の概念がユダヤ教にはある。
罪の概念があると、自分は罪を持っているから、自分のやっていることは間違っているかもしれないと言う意識が常にある。
ユダヤ教、キリスト教的発想では、私は絶対に正しいと思うけれども、絶対に正しいと考えている自分が間違っている可能性があることになる。
それに対して、イスラム的な発想だと、私は絶対に正しい、お前は絶対に間違っているとなる。
だから、同じ「絶対に正しい」と考える人たちであっても、自分が間違っている可能性があると言うことが原理的に埋め込まれているかどうかが、イスラムと、ユダヤ教・キリスト教の大きな違いになる。

一神教というのは基本的には自分と神様との関係が重要なので、その意味では、自分以外には無関心、それゆえに寛容。
だから、キリスト教、一神教が非寛容で、多神教が寛容であるというのは、一神教の歴史からしても、論理からしても成り立たない。
一神教が非寛容になっていくのは、大航海時代以降、帝国主義の流れが出てきてから。特定の文明を拡大していこうという中において、キリスト教徒文明が同一視されたことによって起きてくる現象。だから、むしろ帝国主義の文脈の中で考えた方がいい。

ロシアは東ローマ帝国の末裔だが、ユダヤ、キリスト教の一神教の伝統を持っている。ギリシャ古典哲学の伝統を持っている。しかし、ローマ法が非常に希薄。ロシア人は法律の論理が嫌い。人間は神秘的な力によって、特に精霊の力によって救済されるとロシア正教は考える。

キリスト教の議論に三一論(父、子、精霊の三位一体論)というのがある。
それがフィリオクェと言われる非常に難しい神学的な議論に続いている。
「フィリオ」というのは「息子」、「クェ」というのは「アンド」で、「子からも」という議論。かいつまんでいうと、キリスト教というのは、精霊は父、子(キリスト)から発出するという議論。
父、子、精霊がどういう関係にあるということは過去1700年ぐらい議論して、暫定的な結論は出ているけれども、最終的な結論は出ていない。
正統派のキリスト教というのは、元々は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条カルケドン信条というキリスト教の基本文書を共有していることが条件。
ニカイア・コンスタンティノポリス信条には「精霊は父より発出する」と書いてある。父より発出するとなれば、父からどこにでも行くことになる。そうすると精霊の力というのはダイレクトに人々(つまりキリスト教徒以外の人にも)に働くことになる。
それに対して、カトリック教会は、父だけでなく子からも精霊が発出するという立場。子といのはイエス・キリストのこと。 死んだイエス・キリスト(子)はどこに行っているのか。教会はキリストの花嫁と言われているように、キリストは教会にいる。だから教会に集まってくる人にしか精霊は適用されない。
我々は、”父”について直接知ることはできない。”子”を通じてしか父について知ることができない。キリスト教徒が「この一言の感謝と祈りを、尊き我らが主イエスキリストの御名を通して御前にお捧げします」というのは、ストレートに神様にお捧げすることができないから。
カトリックでは教会を経由する形で精霊は動く。教会に精霊は限定される。そうしたら、「教会のみ御救いをなし」で、組織重視になる。
正教会は、神が人になるということは、人が神になることだと考える。だから、正教会では、修道の力によって、禁欲生活を続けることによって神に近づくことが可能。
これを世俗化してみると、「我々は精霊を持っているから、我々の力で完全に理想的な社会や国家を作ることが可能になる。人が神になって行くことが可能だから。」
こういう形でロシア革命のような壮大な実験が行われた。


<地政学>
地政学というと、ハルフォード・マッキンダーが地政学の祖とされているが、彼の著作には「地政学」という言葉は出てこない。マッキンダーの著作に影響を受けたカール・ハウスホーファートいうナチス・ドイツの理論家が「マッキンダーの地政学は」となんども繰り返したので、マッキンダーが地政学というワードを使っているように皆が勘違いした。

ヘーゲルの「海と川は人々を近づけ、山は人々を遠ざける」という言葉がある。
これは文明がある程度発展しているという前提が必要になる。航海技術が進んでいなければ、海も人を隔てるものとなる。

日本では基本的に海の地政学が重んじられて来た。 アルフレッド・マハンの「海洋戦略論」の影響が強いからである。

「イスラム国」が支配している地域は全部砂漠と平地の地域で、山岳に入り込めていない。特に重要なのはシリアの北西部で、ここはアラウィー派、アサド大統領の拠点。
「イスラム国」が消滅したらここの人員は、主に中央アジアに向かうと言われている。 中央アジアのタジキスタンとキルギスは破綻国家になっているから。 更に、この二つの国と国境を接するウズベキスタン東部のフェルガナ盆地も、ウズベキスタンの中央政府の統治が及んでいない無法地帯となっている。 いずれも2000mを超えるような山岳地帯中にあるので、掃討は簡単ではない。

山に注目した地政学が見直されているというのは、それが現実において障害になっているから。こうした国際関係の変化があって、山などの地理条件に重きを置く地政学がますます注目されている。



その他にも色々なテーマが語られているが、やはり神学を学んでいる佐藤氏は宗教系の話が面白い。
マルクス系理論の話として
「労働力商品は需要が増えても増やせない。そうしたら何が起こるか。賃金の高騰。それである程度賃金が高騰すると、いくら投資しても利潤がなくなる。そこで起きるのは恐慌である。だから資本主義の恐慌が起きる原因も労働力商品にネックがあると言える。」
というような記述もあって、
マルクスの時代にはそうだったかもしれないが、人間に替わるAIやロボットの存在が言われ始めている現代では”?”と思ったりもする。
”古典”は非常に重要だが、それを運用するには時代ごとの背景が必要。
それは各々で判断するということなのか。

2017年7月23日日曜日

LEGO SERIOUS PLAY

立教大学 中西先生による つなぐLab Vol.0011で小笠原裕司先生によるLEGO SERIOUS PLAY を体験。

・手で考えて
・出きた作品に意味を与えて
・思考を整理するメソッド
ということで、MITのシーモア・パパート教授のコンストラクショニズムの考え方がベースになっているらしい。




○曖昧模糊とした質問(お題)に対し、考えてから作る(デザインする)のではなく、まず作る(作りながら考える)ことを指示される。これにより、全員参加が必須となる。さらに言うと手を前に出す必要があるので、全員、「前のめり」の会議になる。
○自分のプレゼン時に、レゴ作品を指差してプレゼンすることを指示される。これにより、プレゼンの敷居が下がる(説明相手の視線が自分に刺さらない)効果とともに、ヴィジュアル(3Dのレゴ作品)とともに説明ができる(「目で聴かせる」)ので、相手の記憶に残りやすい。
○プレゼン者に対しては「作品」に対して質問することを指示されるので、相手の人格と相手の意見を分けて捉えやすくなる。(とはいえ、「作品」はややもすると自分の分身となるので、相手の作品に勝手に触らないよう、との指示もあり)
○作品を中心に質問が進むので、言葉だけで対話するのに比べ、質問(テーマ)が取っ散らかることが少ない。
○特に価値観が大きく異なる、多様な文化を背景にもつメンバーが参加する場合に効果的である反面、レゴとはいえスキルにより表現に差が出る部分もあるので、多少の練習時間が必須。


<所感・気づき>
○たった52個のパーツだが、「高い塔を作る」と言う”目的性”を持ったお題ですら、人それぞれの作品となる面白さがあった。(そしてこの52個のパーツは色も形も相当考えられてこの組み合わせとなっているらしい)
○作って、語って、振り返る(気づきを得る)と言う一連の流れが、上田信行先生の講義を思い出した。
○「目」のブロックは得てして「他人」を意味することで使う人が多く、「目」と言うのは人間にとって「他者」の重要な象徴なのだと改めて思った。
○「気持ちの準備が整った方から発言をよろしくお願いします」と言う表現を使うと、参加者を焦らすことなく、発言を促すことができる。



人は「作話する動物」であるという認識でいるので、このメソッドで何を作るか(どんな形を作るか)には、実は全く意味がないのだと思っている。
自分の作ったものに対してどう意味・解釈を与え発信するのか、と言うことが重要なわけだが、最初の段階ではその意味づけも荒削りで場当たりなものとならざるを得ない。(なぜなら最初に形を作ってしまうわけだから)
それでも議論が活性化するのは、そもそもレゴが抽象性を持っているからなのだろう。
時間の都合で割愛されたのだが、自分の作品について、「コアな部分」だけを取り出す行為(おそらく本当に自分が言いたい部分を抽出する行為)を行うことで、より自らの考えについて深め、気づくことができるのではないかと感じた。

このLEGO SERIOUS PLAY 、ファシリテーターをやるにはLEGOから認定される必要があるらしいが、その認定研修は来年秋ごろまで予約がいっぱいなんだとか。
LEGOのビジネス上の凄みも感じた1日だった。