『ストーリーとしての競争戦略』で有名な楠木建氏による、企業経営者との対話集。
トップ経営者も十人十色だということが分かる。
でもやはり面白いのが、今回ファシリテーター(インタビュアー)も務める著者の考え方。
エネルギー保存の法則に見立てた「状態のリーダー」と「行動のリーダー」の違いはサラリーマンとしてトップを見た時に非常に分かる気がする。
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経営者は組織の頂点に位置する。「代表取締役社長」とか「CEO」のポジションそれ自体が、経営者に位置エネルギーをもたらす。たとえば、予算や人事の権限、社内外での権威などである。組織が大きいほど、経営者の位置エネルギーもまた大きくなる。
組織の階層を1つひとつ上っていくのには多大なエネルギーを要する。組織の頂点に立ち、大きな力を手に入れる。これは人間の本能の一つである。社長になりたい人はたくさんいる。ポジションはひとつしかない。必然的に厳しい競争を勝ち抜かなければならない。経営者の位置エネルギーは、そのポジションに到達するまでにその人が費やした、ありとあらゆる運動エネルギーが転化したものなのかもしれない。
さて、ここからが問題である。ポジションやタイトルを獲得したとたん、「エネルギー保存の法則」にはまってしまう経営者が少なからずいる。位置エネルギーたっぷりの一方で、運動エネルギーがまるでない。「こういう商売をしたい!」「これで稼いでいくぞ!」というダイナミズムがない。せっかく経営資源を動員する力を手に入れたのに、宝の持ち腐れである。
こういう人は「状態のリーダー」といってもよい。経営という仕事にとって、ポジションや権限の位置エネルギーは手段にすぎない。位置エネルギーを使って何をするのかが問われる。「状態のリーダー」は手段の目的化の産物である。「経営者」「社長」のポジションにあるという状態それ自体が仕事の一義的な目的になっている。だから、現在の位置エネルギーを維持するのに汲々とする。こうなってしまっては。もはや本当の意味での経営者ではない。
経営者は「行動のリーダー」でなければならない。現実に商売を創り、戦略ストーリーを構想し、ストーリーを動かし、稼ぐ。こうした本来の経営という仕事は、いずれも「何をするのか」「何をしたいのか」という経営者の行動を問うものであり、運動エネルギーにかかっている。経営者の運動エネルギーはビジネスの成果を最も大きく左右する要因の一つだ。
位置エネルギーを獲得するに従って運動エネルギーを喪失する「状態のリーダー」は、経営という仕事の誘因(インセンティブ)と動因(ドライバー)を混同している。誘因と動因のすり替えといってもいい。
誘因と動因は異なる。誘因とは、文字通りその人の行動や意思決定をある方向へと「誘うもの」であり、当事者を取り巻く外的な環境や条件にある。給料やボーナスといった金銭的なインセンティブはもちろん、昇進や出世も誘因である。目の前にそうした誘因を提示すれば、人はそれに誘われてある種の行動をとる。
それに対して動因はその人の内部から自然とわき上がってくるものだ。内発的なモチベーションといってもよい。自分の中に強い動因があれば、外的な誘因がなくとも、場合によっては負の誘因(ディスインセンティブ)があっとしても、人は動く。
誘因に反応するだけでは優れた経営者になれない。その手の人は誘因を与えられなければ経営者になろうとはしない。エネルギー保存の法則他適用される「状態のリーダー」はその典型だ。昇進し大きな権限を手に入れる。昇進するにつれて金銭的な報酬も増大する。これが協力な誘因となり、その人を動かす。しかし、いったん経営者のポジションまで上り詰めてしまえば、誘因の効き目は低減する。残された誘因は獲得した状態を保持することぐらいしかない。「これをやろう」という経営の動因がない。だから、経営者になっても今度は部下を動かすためのインセンティブの設計など、内向きの管理の仕事に明け暮れる。これではただの「管理者」だ。外に向かって価値をつくっていく本来の意味での経営者ではない。「行動のリーダー」の拠り所は、その人を内部から突き動かす動因である。
動因こそが運動エネルギーの源泉だ。
経営者の動因を形成するのは何か。それは、つまるところその人の「好き嫌い」であるように思う。「良し悪し」ではない。
話していて「好き嫌い」が分かる人と分からない人がいる。これは割とはっきりした違いである。この違いは「行動のリーダー」と「状態のリーダー」の違いと大きく重なるというのが著者の実感である。
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著者の「良い悪い」「好き嫌い」と文明・文化論も非常に面白い。
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「文明」をローカルな方へと寄せていくと「文化」になる。文化というのは基本的に好き嫌いだと僕は捉えています。
司馬遼太郎がうまいことを言っていて
「文化というのは一定範囲の人々の間で受け入れられているもので、範囲がある。その範囲の中では良し悪しなのだが、境界を越えて外に出てしまうと良し悪しとしては通用しない。
良し悪しは文明、好き嫌いは文化。
好き嫌いと良し悪しが価値の普遍性という1つの軸の両極にあるのと同じように、市場と組織も、取引のガバナンスに注目すれば、1つの軸の両極にある。
「ガバナンス」という言葉は、最近では企業統治の文脈で使われることが多いが、ここでいっているのはもっと広い意味で、組織の中だろうと市場での取引だろうと、経済的な取引を統御する仕組みを指している。
その意味での取引ガバナンスに注目すると、
メンバーシップ原理と
決定原理の2つについて組織内部での取引と市場での取引は軸の両極にある。
市場取引の典型的な例は株式市場。ここでのメンバーシップ原理は参入退室自由。取引をしなくてもいい。ごく短期的で即時的な取引関係。決定原理についていえば、市場取引は「価格」という単一の情報に基づいている。(株式市場では、参加者が価格だけを見て買ったり売ったりしている)
一方、組織内部の取引では、いずれの原理も市場と対照的。メンバーシップ原理は長期固定的。企業に入社するのも辞めるのも個人の自由だが、初めから辞めるつもりで入社する人間は少ない。株式市場と比べてずっと長期固定的な関係になる。組織内部の取引の決定原理は、多様な情報を斟酌した上での、組織的な権限に基づく指令になる。
最近では「市場ガバナンスを組織に持ち込め」という意見もある。たとえば、日本の労働市場はもう少し流動的でもいいのではないかという意見。
自前主義に凝り固まると
「組織の失敗」になる。人と組織の関係をあまりに長期に固定しない、もっとフラットでシンプルな市場取引的なメカニズムを取り入れるべきだという話しになる。
一方で、市場取引の有効性にも限界がある。たとえば、ほとんどの国では小学校などの初等教育は公教育が主体となっている。これは小学校教育を完全に市場取引のメカニズムに委ねると良くないことが色々と起こるから。これが
「市場の失敗」。
市場と組織の対比については、伊丹敬之教授(東京理科大大学院教授)が絶妙なたとえをしている。
組織つまり会社は、市場という海に浮かぶ島みたいなものだと。
市場というのは出入り自由で、何もかも価格メカニズムで物事が決まって行く世界。
昨今は市場の力がどんどん強まっている。海がどんどん大きくなっている。グローバル化とIT化で七つの海がつながっていく。
では組織内部での取引が市場へ外部化されるのが時代の流れかというと、そう単純な話しでもない。
海という市場はみんなが行き交うことができるし、効率的でとても良いのだが、リーマンショックのような大嵐が来た時にはとんでもないことになる。
とかく暴走しがちな資本主義の世の中では、海は波が高過ぎて大荒れになるリスクがつきまとう。組織という島がなければ、結局のところ世の中は回っていかない。
ただし、かつては組織内部で行われていた取引が市場取引に代替されているのは事実なので、裏を返せば「組織の存在理由は何か。会社はなんのためにあるのか」という問いはかつてないほどに重要になっている。
直感的に「海に浮かぶ島がないと、いずれは皆溺れてしまう」といことは分かるのだが、島の存在理由が具体的にはっきりしていないと、もはや会社が組織である意味を喪失してしまうのもまた事実。これを僕は「組織の失敗」ではなく
「組織の心配」と呼んでいる。
この問いに正面から答えるための切り口が「好き嫌い」だというのが僕の見解。
市場は価格メカニズムにコントロールされた良し悪しだけの世界。好き嫌いのような多元的な情報は扱いにくい。
組織が組織である理由。組織にあって市場にないものは、そうした複雑な情報を共有しやり取りしなければできないような仕事。それを可能にするのが、先ほどから言っているように良し悪しを局所化することによって現れる文化。
逆にいえば、価値観なり、文化を共有できていない組織なら、いっそ解体して市場でやった方がずっと効率がいいという話しになる。
以上の話しをひっくるめて言うと、海に浮かぶ島の存在理由のど真ん中にあるのが「好き嫌い」だということ。
島の中心部に好き嫌いの旗が立っていてこその組織。企業経営を考える時、もっと好き嫌いの問題に対して意識的になった方がいいというのが僕の主張。
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「好き嫌い」の復権が本書のメッセージ、という著者のテーマがあって、その上でトップ経営者との対談となっていることで著作全体に奥行きを出している。
14人との対談が記載されているが、「好き嫌い」は十人十色。読んでいる限りでは、成功のための「好き嫌い」に共通点は感じられない。
「失敗にはなんらか理由があるが、成功には理由がない」と言われるのと何か通じている気がする。
14人のトップ経営者の話しを読んで、その「好き嫌い」に共通点はないと思われたが、その「好き嫌い」にかける情熱という点では皆一流であるような気がした。
要は情熱(著者の比喩で言うところの「運動エネルギー」)であり、その情熱が向かう対象は経営者ごとに人それぞれ、ということか。
これからも「運動エネルギー」を失わないよう頑張っていこう。