2014年10月26日日曜日

つなぐLab Vol.006

立教大学大学院 特任准教授 中西紹一先生によるワークショップ第6弾。
今回のテーマは『時間のデザインを考える』。

5つのテーブルに分かれて、そもそも「時間のデザイン」と言われて何を思い浮かべるか、という質問から議論開始。
時間の「量」(例:タイムマネジメント系)と「質」(例:日常と非日常の時間)といった議論が各テーブルで出る。

ここで中西先生の「時間のデザイン」に関する定義を共有。
「(空間と同じで)区切りをつけながら、そこに意味を与えるもの」
ちょっと座学も入り、エドマンド・リーチの儀礼論、エドワード・ホールの多元的時間観念の話などの解説がある。

でも「そんな抽象的な解説じゃ分からん」とばかり、各テーブル議論内容はバラバラ。
各テーブルで出た議論を膨らませて、 各テーブルごとにテーマを決めて更に議論を深めていく。

私がいたテーブルでは、
「『ブルーマンデー』を乗り切るための時間デザイン」
ということがテーマとなった。
学生でも社会人でもあることだが、何故週末月曜日が近づいてくると憂鬱になるのか。
人は大人になるにつれて色々な”世界”を持つようになる。
そしてその”世界”は大抵の場合、バラバラであり、人はその”世界”ごとに自分の役割を演じるようになる。(「大人になる」ということは”秘密”を持つようになるということ)
ブルーマンデーという現象(心理状態)は、この”世界”を移動するために何らかのエネルギーが必要となるから発生するのではないか、という仮説に基づき議論が進んでいった。

では、その位置エネルギーを要する”世界”の移動時に憂鬱にならないようにするためにはどうしたらよいのか、一つの解答が
「バラバラの”世界”を統一化すれば良い」
というもの。
まるで現実社会で起きているグローバル化のようなアイデアだが、”世界”が一つになってしまえば、役割を演じる必要もなく、「肩書き」ごとに時間の位置づけを変える必要もなくなるというわけだ。
(他の比喩では「兼業農家的に考える」「公私混同する」などと表現されていた)

以前佐藤尚之さんと話をした時に、佐藤さんが「自分の生活全てをFacebookにあげている」という話をしていたのに対し、
「人は皆、会社人としての自分、親としての自分、夫としての自分、地域の中での自分など違う”世界”があるのに、Facebookはどの”世界”の人にも同じ情報を発信することになるので情報が最大公約数的に、誰に対してであってもいい情報(「幸せ劇場」)しか流せなくならないか」
という質問をしたことがある。
佐藤さんの解答は
「いや〜、僕の場合、会社でも取引先でも家族の前でも、同じ人格で通してます。だからFacebookでもありのまま全てを発信しちゃってます。そうなってくると無理矢理何かを演じなくてよくなるのでとても楽ですよ。」
ということを言っていたのを思い出した。
そうか、グローバル化(”世界”の統一化)に対応できるとすごい楽なのか。
”世界”ならぬ”国”ごとに対応を変えなければならないとすると、そこには関税等の障壁が発生し、それを越えるにはエネルギーが必要で、その必要エネルギーがブルーマンデー症候群を生んでいるのかもしれない。
未だ”世界”(”国”)ごとに役割を演じる鎖国対応でしかいられない自分はオールドファッションということだ。


他のテーブルでも色々面白そうなテーマが話されていて、
◯「待ち時間」のデザイン
一般的に「待ち時間」は嫌なもの。携帯電話の世界でも「待ち時間」の苦痛を如何に和らげるかというのは喫緊の課題とのこと。
その解決方法として、逆転の発想として、「待つ」のは実はリッチな時間であると整理するというもの。
人が何故「待つ」時間が苦手なのかというと、「待つ」時間はコントロールできないから。
「コントロールできないもの」に馴れることで、人は更にステージをあげて人生を楽しむことができるのではないか。(携帯電話の圏外の世界に行くのは恐怖ではなく、実はリッチな時間を過ごせるということ)

◯家事など、一般的に嫌なことを楽しい時間に変えるデザイン
人が集まることで、嫌なことをやる時間が楽しい時間に変えられる。
例えば朝家事会ということで、みんなで同じ時間に家事をやり、それをSNSで共有することで家事が楽しいものになっていくのではないか。
☞これは中西先生から「場(空間)は共有しないけれど、時間を共有することで嫌なことをやる時間を楽しい時間に変えるという点が面白いという評価をもらっていた。

などの話が発表されて非常に興味深く拝聴した。

各テーブル、テーマはバラバラ、そしてレベル感も非常に具体的な アイデアから抽象的なアイデアまでチャンク感バラバラということだが、どのテーブルの議論も発表を聞いていて楽しめた。


「時間」ということについて一つ気づきがあった。
人間は5万年(?)前類人猿から分岐して、現在に至っているが科学技術や文明の発達に脳がついていっていない。だから食糧がなかった頃に刻み込まれたDNAがまだ機能していて肥満や成人病を生んでいる。
昔は「食糧の確保」というのは生存において最優先事項であり、それに勝る優先事項があったとすれば外敵から身を守ることくらいだった。
食糧を確保する、外的から身を守る、ということから開放された現代社会(先進国)において、大切なものは何だろうか。
個人的には「時間」だと思っている。
「時間」は身分に関わらず、貧富にも関わらず、能力にも関わらず皆一様に平等である。
もちろん早く亡くなったり、長寿の人がいたりはするが、基本的には誰しも1日24時間しかないということに変わりはない。
これは不老不死が実現しない限り変わることはない。
ちょっと前までは、世の中を豊かにするために「何をするのか」が重要だったが、現代の先進国は既に物質的には十二分に豊かである。
そうなると次に貴重になってくるのは「時間」ということで、この貴重な「時間」を誰と共有するかが非常に重要な「時間のデザイン」となってくるのだと思う。
近年、重要なのが「何をやるか」から「誰とやるか」に移行していると言われているのもそういうことを反映してのことなのだろう。

物質的な豊かさのため「何をやるか」(物質・空間の共有)
        ↓
精神的な豊かさのため「誰とやるか」(時間の共有)

というのが世の流れなのだと気がついた。

そして一人では心理的ハードルが高くて実践困難なことも、皆で「共有」することで乗り越えていけるという仮説を、どうデザインして実践していくかが今後の人類の課題なのかもしれないと思った。

そうは言っても、個人的にはやはり”世界”ごとに役割を演じるのはやめられそうにない。
”世界”を統一するグローバル化方式とは違ったやり方で進化していくこととしよう。

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