2015年2月1日日曜日

『村上式 シンプル仕事術』

グーグル日本法人の社長を務めた村上憲郎氏の本。
実は相当前(4年位前?)に購入して面白いのでまとめようと思ってとっておいた本。
村上氏の『村上式シンプル英語勉強法』も読んで感化され、英語の勉強に踏ん張った時期は既に5年近く前だ。

この本は実は仕事術のことはあまり書いていない(最初の2割位)。
むしろ、グローバル社会で西欧の人間とコミュニケーションを取るにあたり理解しておくべきキリスト教から仏教のこと、哲学のことが書かれている。
これが良くまとまっていて面白い。


<キリスト教について>

アメリカ人は自分の年俸や年収を堂々と包み隠さずに話す。
彼らの価値観では「背が高い」「学歴が高い」「年収が高い(多い)」ということは第一義的な価値ではないからだ。
彼らの価値の基準は「神様と直面した時にどうなるのか、どうするのか」にある。
キリスト教は形而上学だ。形而上学とは、我々の経験では確かめようのない言説のこと。確かめようがないから「信じるしかない」。
形而上学としてのキリスト教の本質を、手っ取り早く理解するには、旧約聖書と新約聖書を手元に置くこと。

まとめると、キリスト教における神とは、「唯一の時間的・空間的に無限の意識存在であり創造主」である。
「神による創造」について概要を述べる。
キリスト教の空間概念や宇宙観の底辺には、まず無限界がある。
「天」は「天国」ともいわれ、無限界の中に神が創った有限の時空間で、選ばれた存在だけが住むことの出来る神の国のこと。
「宇宙」は「世」ともいわれ、「天」の中に神が創った「天」とは違う、もうひとつの有限の時空間のこと。
「地」は「地球」のことで「世」の中に存在する、としている。

無限の過去(永遠の昔)から、すでに神だけの無限界があった。

1.神が、天(神の国=天国)を創った。

2.天(神の国=天国)が聖霊(神の霊)で満たされた。

3.天(神の国=天国)に、神の名が置かれた。

4.神が天使を創って、神の名を礼拝させた。

5.天使の一部が、悪魔に変容した

6.悪魔の仕業を打ち壊すため、無限界に神の子『イエス』が出現した。

7.イエスが天(神の国=天国)に入って世(宇宙)を創造し、そこに悪魔を落とし込んだ。

8.6日間で人間を含む創造がなされ、7日目が安息日となった。

9.アダムとイブが創られ、「いのちの息」を吹き込まれた。

10.アダムとイブは、エデンの園で、「いのちの息」によって、神との協和の中に生きていた。ところが悪魔(蛇)の誘惑によって、神から禁じられていた「善悪の木の実」を食べたことで自分で善悪の判断を始め、「いのちの息」が部分的に損なわれ、神との協和が崩れてしまった。それにより、アダムとイブは(神の国=天国)の雛形であったエデンの園から追放された。

11.神の子イエスは処女マリアの無原罪のお宿り(処女懐妊)を経て、ヒトの形となって地(地球)に現れ、言葉で「善悪の木の実」で損なわれている「いのちの補充」を施した。
さらにイエスは、十字架上の死によって、自分を信ずる者に無限の「いのち」を分け与えて「いのちの補充」(=救い)を行い、天(神の国=天国)に住まわせようとしているという福音が伝えられる。
<<この段階が時間的には「今現在」>>

ちなみに、神の名は唱えることができないとされており、ヘブライ文字の子音4文字で「YHWH」と表記された。しかしユダヤ教徒が、どうしても神の名を読む必要に迫られたときは「わが主」という意味の「adnay(アドナイ)」と読んだ。 それをキリスト教徒が間違えて、「adnay」の母音だけを「YHWH」と組み合わせ「YaHoWaH(エホバ)」と読んだと言われている。

『創世記』で注意すべきは、人間が2回にわたって創られているということ。「アダムとイブ」は最初の人間ではなく、実は2回目に創られた人間。
聖書考古学的に言うと『創世記』では、第2章4節を境に、その前までは「司祭文書」と呼ばれ、それ以降は「ヤハウェ文書」と呼ばれている。
1回目に創られた人間と、2回目に創られたアダムとイブには違いがある。それは、アダムとイブには「いのちの息」(=理性)が吹き込まれているという点。その「いのちの息」によってアダムとイブは神との協和の中に生きることができたのだ。
後にノアの洪水が起こり、アダムとイブの子孫であるノアの家族だけが生き延びることになる。つまり『創世記』第1章で最初に創られたほうの人間の子孫は、全く生き延びることが出来ず、今生きている人間はすべて、アダムとイブの子孫ということになる。
神によってアダムとイブには「いのちの息」(=理性)が吹き込まれ、後に「善悪の木の実」によって部分的に損なわれることになる。

さて、「神による創造」の続き。これからは未来編。

12.この先の将来、あるとき地(地球)にイエスが再臨し、天使に命じて悪魔を封じ込め、1000年にわたって地(地球)を支配する(千年王国)。
その後に悪魔を開放して、世(宇宙)を焼き尽くす。そして、これまでのアダムとイブの子孫がすべて新しい体を持って復活し、天に受け入れられる者と地獄行きの者とに分ける「最後の審判」を受ける。

13.イエスはすべての仕事を終え、無限界に帰る。

というわけで、キリスト教徒にとって、「3高」のような「この世」のことは些細なことで、彼らの最大の関心事は、「最後の審判で救われる側に選んでもらえるかどうか」なのだ。


グローバリズムにのってマネー資本主義を主張するウォール街に代表されるような西欧人にとって、本当に現世の収入など些細なことで、「最後の審判」でどちらに回るかが最大の関心事なのかどうかははななだ疑問だが、そういうことが一般の敬虔なキリスト教徒の思想の根源にあるということは押さえておくべきだろう。


<仏教について>

仏教とはブッダが悟ったこと、またその教えで、それは「原始仏教」のこと。
原始仏教は、極論すれば哲学としってもいいもので、キリスト教のような形而上学的な思考法は慎重に避けられている。
葬式などで遭遇する日本の仏教は、いわゆる「大乗仏教」で、これはブッダの説いた教えではない。「仏教=ブッダの教え」とするならば、大乗仏教は仏教ではない。
大乗仏教の経典にある教えは、原始仏教の哲学に迫るような内容ではなく、他の宗教が大衆の信仰を獲得し始めることに対抗して「信じれば救われる」という形而上学的要素を大幅に取り入れて大衆化された、ある意味での「新興仏教」といえる。

ブッダの教え
教え①四苦八苦—「人生は苦である」
1.生まれる、つまり、苦である人生をもう一度始めなければならないという苦しみと、もっと端的には、産道を通る苦しみ(生)
2.老いる苦しみ(老)
3.病気になる苦しみ(病)
4.死ぬ苦しみ(死)

次に怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、愛別離苦(あいべつりく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)
1.嫌な人に会う苦しみ(怨憎会苦)
2.求めるものが得られない苦しみ(求不得苦)
3.好きな人と別れる苦しみ(愛別離苦)
4.五蘊(身体と、知覚・識別・想起・判断といった心の働き)は苦(五蘊盛苦)

お釈迦様曰く、
「楽しいこと」は長続きしません。「楽しいこと」を得ようとしたり、持続させようとすることは苦ですよ。
「楽しいこと」を得ようとして得られない、持続できずに失うことは苦ですよ。
だから「楽しいこと」も結局は苦ですよ。
って、お釈迦様って相当な悲観論じゃだったのね。

教え②四諦(四聖諦)ー「人生が苦なのは執着があるから」
1.苦諦(くたい)ー「生きることは苦である」と思い知る
2.集諦(じったい)ー「生きることが苦なのは、執着があるから」と思い知る
生きることが苦であるのには原因がある。それは、根本的には生存し続けたいという『執着』である、と。
3.滅諦(めったい)ー「この執着がなくなれば苦はなくなる」と思い知る
4.道諦(どうたい)ー「この執着をなくす八正道(八聖道)という道がある」と思い知る

教え③八聖道(はっしょうどう)ー「どうすれば執着を克服できるか」
お釈迦様は、そのためには、次の8つのこと(八正道)を行えば良い、とした。
1.正しいものの見方をする。
2.正しい思考をする。
3.正しい言葉使いをする。
4.正しい行いをする。
5.正しい生活をする。
6.正しい努力をする。
7.正しい教えをしっかり記憶にとどめる。
8.正しい思考の瞑想をする。

教え④五蘊非我(ごうんひが)ー正しい思考=五蘊非我を瞑想する」
五蘊(身体と、知覚・識別・想起・判断といった心の働き)は「我」ではない。体や心の働きが「我」のもののように思えるのは錯覚に過ぎないことを瞑想せよ、とした。
よく瞑想というと無念無想の境地とされるが、ここでいう「瞑想」はそうではない。
中国生まれの禅宗における坐禅と呼ばれる瞑想は「徹底思考」ではなく「無念無想を目指す」瞑想。
原始仏教でも、この無念無想を目指す瞑想を否定しているわけではなく、心を落ち着ける方法として推奨もしている。しかし「この瞑想では悟れない」と明確に述べている。
この無相無念を目指す瞑想の最高の境地は、「非想非非想処(ひそうひひそうしょ)」と言われている。分かりやすく言うと「思考も感情も停止した境地」。
お釈迦様は出家してすぐにこの境地に達してしまうが、この境地から戻ると元の木阿弥で、悟る(生存したいという執着を克服する)ことができない。
「この瞑想では悟れない」と気づいたお釈迦様は、最終的には徹底思考の瞑想によって、ようやく悟る。
これは現代風に言うと「徹底的に考え抜いてメタ認知せよ」ということか。

五蘊非我は実は五蘊無我ではないか、という説があり、仏教哲学における最大の問題として今も研究がなされている。
「五蘊非我」は、五蘊は「我」ではないが、「我」というものは存在するという考え方。対して「五蘊無我」は、五蘊は「我」ではないとするだけではなく、「我」自体存在しないという考え方。
村上氏は「五蘊無我」と考えているとのこと。
攻殻機動隊でもあるように、「一体何が自分なのか」という問いにつながる哲学的な話だ。

というわけで、「信じる者は救われる」とするキリスト教に対して「信じる必要はない。考えて納得すればよい。納得できなければ、さらに考えればよい」というのが原始仏教の姿勢。これがキリスト教と異なるというのが村上氏の分析だ。


<西洋哲学について>

「西洋哲学」とは古代ギリシャのプラトンに始まる哲学。プラトン以降の西洋哲学は、実はすべてプラトン哲学の脚注に過ぎないという見方で構わない。
西洋哲学=プラトンの哲学の解釈。
プラトンの哲学とは、つまるところ『イデア論』。
イデア論とは、簡単に言うと、「一方にイデアという完璧なものがあり、もう一方に不完全なものがある」という二項対立の発想のモデル。

例えば「紙に書いた三角形は、どんなに正確に書いても厳密な三角形ではない。それが三角形として認識されるのは、どこかに三角形というイデアがあるから」という考え方がイデア論であり、プラトニズム(プラトン主義)。
完璧な三角形というコンセプトが存在するのは、イデア界という完璧な世界であり、我々はその対岸にある現実界に生きている。これがイデア論=二項対立の発想であり、プラトニズムと呼ばれる考え方。
プラトンはこれを「形相(けいそう)と質量」とも言った。

プラトン以後、
・アリストテレスの「可能態と現実態」(可能態がイデアで現実態が不完全なもの)
・キリスト教神学(スコラ哲学)の「天と地」
・デカルトの「思いと我」
・カントの「物自体と現象」(あるいは「物自体と純粋理性」)
・ヘーゲルの「絶対精神と現実」
というように変遷するが、その根本はプラトニズム、つまり二項対立と同じ考え方にある。
その後、ニーチェやハイデガー、そして彼らの影響下にある最近のポストモダン派が、「プラトンに始まる二項対立的発想は間違いで、西洋文明の行き詰まりの原因だ」として、その発想の克服を目指しているが、いずれも二項対立そのものを否定しているではない。
そういう意味で、「西洋哲学とは、完全なものと不完全なものとの二項対立という考え方を本質に持つプラトン哲学の変奏曲」という解釈で何ら問題はない。



村上氏は、理系になるなら「量子力学」をやれ、経済学やるならマンキューを学べ、ということでこれらについても紙幅を割いている。

村上氏は原理論者である。
様々なテーマに原理原則を見つけて(定めて)、それを実践することで成果を出すタイプの経営者のようだ。
本のタイトルともなっている仕事術についても「仕事における7つの原理原則」というのを書いている。

原理その1 会社の仕組みを知る
原理その2 財務・簿記の基本知識を身につける
原理その3 疑問はその日に解決する
原理その4 仕事の目的は顧客満足にある
原理その5 仕事のプライオリティ(優先度)をつける
原理その6 アイデアは頭で考えない
原理その7 デール・カーネギーに学ぶ

この原理原則、ちゃんとMECEになっているのかとか色々考えたりしてしまうが、思い込みであれ何であれ、自分の仕事のやり方の原理原則はこれだ!と言い切れるというのはスゴいことだ。
振り返って、自分の仕事のやり方の原理原則を挙げられるかどうか。
そろそろ自分の原理原則を整理してもいいのかもしれない。

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