2015年5月17日日曜日

『リーダーは最後に食べなさい!』 

歴史を振り返っても、危機を脱した組織には、例外なく、先頭に立つリーダーがいた。
だが、こんにちの教育機関や研修プログラムの多くは、卓越したリーダーではなく、効率よく働くマネジャーの育成を重視している。

目先の利益が成功の指標と見做され、組織の長期的な成長や生存能力は、ただの建前にすぎなくなっている。
短期的にはうまくやっていたのに、ほどなく失敗してしまう組織がある真の理由。
そうした組織におけるリーダーシップは、組織のメンバーがもっとも大切な存在であるという環境をつくるのに失敗したのだ。
人々が価値観を共有し、尊重されている組織こそが、長期的に見れば成長する。


そういう概念的には理解できる内容を、我々の脳内物質と関係させて述べたサイモン・シネック氏の著作。
「脳」×「組織論」となれば読まない手はない。

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人類の体内システムは、食糧を見つけ、生き延び、種を繁殖させることを目的に進化を遂げてきた。
しかし、世界の多くの国々—特に先進国—では、食糧を見つけ危険を回避する行為に、日常生活で時間を割くことはない。我々はもはや穴居人のように狩猟採集生活を送ってはいない。現代社会では、出世し、幸福な生活を送り、充足感を得ることが成功の定義となっている。
ところが我々の行動と決断を左右する体内のシステムは、いまだに数万年前と同じように機能している。我々の原始的な頭脳はいまでも、脅威を察知し、安全に過ごせる機会をうかがっている。
ゆえに、こうした体内のシステムの働きを理解すれば、我々は目標を達成しやすくなる。と同時に、我々が所属しているグループもいっそう成功し、繁栄できるようになるはずだ。
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昨今の文明はすごい速さで進化・発達している。
その速さに我々ヒトの脳はついていけていない。
では、我々の脳はどういうシステムで機能しているのか、脳内物質と関連してみたのがこ以下の拠述。

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我々の体内でポジティブな感情を生じさせる作用を持つ脳内物質は主に4種類ある。
エンドルフィン、ドーパミン、セロトニン、オキシトシンだ。
「利己的(セルフィッシュ)な脳内物質」、エンドルフィンとドーパミンは、個人として行動を起こす時に力を貸す。
「無私の(セルフレス)脳内物質」、セロトニンとオキシトシンは、我々が協力して働き、信頼や忠誠心という感情を発達させるために存在する。

エンドルフィンは、たった一つの目的のために機能する。「肉体の痛みをまぎらわす」ためだ。我々の身体に備わっている鎮静剤と考えればいい。
我々がストレスや恐怖を感じると、それに反応して分泌され、気分がいいという快感で肉体的な痛みを緩和する。
「ランナーズハイ」など、激しい運動の最中や運動後に多くのスポーツ選手が多幸感を味わうのは、血流にエンドルフィンが放出されるからだ。 エンドルフィンは、人類に持久力というとてつもない能力を授けたのだ。

ドーパミンは、探しているものを見つけたときや、用事を済ませたときに、我々をいい気分にさせる脳内物質だ。
自分が前進したときや、何かを達成したときに味わう気分のよさは、主にドーパミンが要因となっている。
母なる自然は、目の前の任務に集中させようと、非常に賢い方策を編み出した。食べ物を口にするとドーパミンが放出されるのは、食べるという行為を我々が好む理由のひとつだ。その結果、我々は食糧を獲得する行為を繰り返す気になる。
しかし、ドーパミンは非常に中毒性が強い。コカイン、ニコチン、アルコールを摂取したり、ギャンブルに興じたりすると、ドーパミンが放出される。そして、その感覚に我々は夢中になる。
脳内のドーパミン報酬系をハイジャックするものとして近年SNSが登場している。

セロトニンは誇りを感じさせる。それは、人から好かれている、尊敬されていると認識した時に得られる感覚だ。
社会的動物である我々は、同じ部族の人間から称賛されたいと思うし、称賛を必要としている。それは実に重い意味を持っている。我々はみな同じグループの人間やグループ全体のために尽力することに意味があると思いたいからだ。

オキシトシンは、友情、愛情、深い信頼といった感情を生み出す。
オキシトシンがなければ、我々は寛容な行動をとることも、共感をもつこともなく、強い絆や友情を育むこともできないだろう。
オキシトシンは我々を社交的にする。また、オキシトシンは、相手を全面的に信頼してもいいのか、あるいは距離を置くべきなのかの指針となる。いわば社会的なコンパスといえるだろう。
即時の満足感をもたらすドーパミンと異なり、オキシトシンはもっと長く継続する満足感をもたらす。
相手を信頼するようになり、相手からも信頼されるようになると、血中をオキシトシンがいっそう流れるようになる。時には魔法にかかったように、自分と相手の強い絆を実感できることもある。
ドーパミンによって生じた熱狂、興奮、自発性などが消えたあとも、オキシトシンによって生じた、もっと安定した、もっとリラックスした、もっと長期にわたる人間関係が続くのだ。
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陽あれば陰あり。ネガティブ感情を生じさせる脳内物質、それがコルチゾール。

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コルチゾール
安定した生活が脅かされているように感じると分泌されるもの、それがコルチゾールだ。
だが、コルチゾールが我々を不安にさせるのは、ただ本来の務めを果たしているに過ぎない。コルチゾールは脅威を察知し、それに備えさせようとしている。闘うか、逃げ出すか、隠れるかを判断させるのだ。

コルチゾールは我々のシステムに長居はしない。脅威を察知すると分泌され、その脅威が過ぎたあとには消えてしまうようにできている。ストレスが我々の身体に及ぼす影響は深刻であるため、恐怖や不安を絶え間なく感じていると、常に悪影響が及ぶことになるからだ。
コルチゾールが絶えず流れている状態は、健康に深刻な被害を及ぼす。
他の利己的な脳内物質と同様、コルチゾールはヒトの生存に力を貸すが、本来は四六時中我々のシステムに存在するはずのものではない。
コルチゾールは、ブドウ糖の代謝に破壊的な被害を及ぼすし、血圧を上げ、炎症反応を起こし、認知能力を低下させるおそれもあるからだ。
コルチゾールが大量に放出されると、攻撃性が強くなり、性衝動が抑圧され、全般的にストレスで疲れきったように感じる。
コルチゾールは、状況に応じて闘争もしくは逃走できるよう、身体が瞬時に反応する準備を整える。これには多くのエネルギーを必要とするため、脅威を感じると、身体は不必要な機能〜消化や成長など〜のスイッチをオフにする。一旦ストレスが通り過ぎれば、こうしたシステムにまたスイッチが入る。
ところが残念なことに、免疫系は身体が不必要と見なす機能の一つであるため、コルチゾールが大量に放出されると免疫系はオフになる。
また、コルチゾールはオキシトシンの分泌を抑制する。
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そこで著者の提案は、組織に「安心感の砦」(サークル・オブ・セーフティ)を築きなさい、ということだ。
安心感の砦により、組織に守られている感覚をメンバーがもつことで、対外的な折衝に注力できるという考え方だ。

「安心感の砦」(サークル・オブ・セーフティ)

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会社の強さと耐久力は、社員がどの程度一丸となって協力しているかにかかっている。だからこそ、グループの一人一人が<サークル・オブ・セーフティ>を維持すべく、自分の役割を果たさなければならない。
そして、社員がそうできるよう確実を期すのが、リーダーの役割だ。<サークル・オブ・セーフティ>の内側にいる部下たちを見守るのが、リーダーの第一の役割である。

また、門番として<サークル・オブ・セーフティ>への入場を認める者と認めない者、つまり帰属する者としない者を判別するのもリーダーの役割だ。

そして、リーダーは<サークル・オブ・セーフティ>をどの範囲まで広げていくかを決める責任を負っている。
当然のことながら、組織が小さいほど、外部からの危険に敏感になる。<サークル・オブ・セーフティ>を管理し易いという利点もある。
組織が大きくなり、官僚制度を持ち込み、人々が保身を最優先にするようになると、組織は発展しなくなり、組織全体が外部の脅威や圧力に影響を受け易くなる。
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著者の言うリーダーの役割は、安心感の砦を作り、それを管理・運営することだと言う。

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どんな組織のどんなリーダーであれ、その目標は「バランスをとる」ことにある。
ドーパミンが主要な原動力になれば多くのことを達成できるかもしれないが、ドーパミンは永続するものを築こうとするときに力を貸さない。
一方、ヒッピーのコミューンに暮らしていれば、オキシトシンが大量に放出されるかもしれないが、明確な目標や野心をもたずに過ごしていると、達成感を味わう機会がなくなる。
目標は「バランスをとる」ことにある。
脳内物質が放出されるシステムのバランスがとれていれば、我々には超自然的な能力が生じるようだ。勇気を奮う、霊感や先見の明に恵まれる、創造力を発揮する。
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「バランスを取る」。これは言うは易し、行うは難しで、実行が一番難しいこと。
スキーのモーグル選手が巧みにコブ山を降りてくるのと同様、才能と鍛錬が必要だ。



この本の中でいい意味で引っかかった言葉が『長期的な強欲』

「長期的な強欲」

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ゴールドマン・サックス シニア・パートナーのグスタフ・”ガス”・レヴィが同社の方針を説明する際によく使った言葉。
時に短期的なヒットを飛ばし、顧客の力になることで、顧客とのあいだに忠誠心のある信頼関係を少しずつ築いていき、そうした信頼関係の基盤から、長期的に見ればいずれ大きな見返りを得ることができるという意味だ。
1970年当時、ゴールドマン・サックスは「紳士の組織」であり、協力関係を大切にし、顧客と企業に最善の方策を実施する組織と考えられていた。
近年の評判を考えれば信じられないが、当時の社員は、顧客のためにつねに正しいことをしようという意欲にあふれているように見えたため、「億万長者のボーイスカウト」とも呼ばれていた。
どれだけ華やかな経歴や学歴があろうと、ゴールドマン・サックスには中々就職ができない時代があった。まず、社風にうまく適応できる人材であることが求められた。自分個人より会社の要求を優先することを求められた。
経営陣は、カネを儲ける力があるかどうかではなく信頼をおけるかどうかで志願者を見極めようとした。そして、最後に「長期的な強欲」という価値観の意味を良く理解しているかどうかを判断した。
このように、人材に高い基準が求められていたからこそ、ゴールドマン・サックスは不景気の時期でももちこたえることができた。
しかし、1990年代初頭にレイオフを実施。1999年に株式を公開したあとに文化崩壊が加速した。攻撃的で押しの強い新種のブローカー達が入社してきて、銀行はふたつの陣営、「旧ゴールドマン」と「新ゴールドマン」に分かれた。
一つの文化は忠誠心と「長期的な強欲」を基盤に築かれており、もう一つの文化は数字と短期的目標の上に築かれていた
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利益を短期でみるか、長期でみるかによって、とるべき判断は変わってくる。
囲碁において厚みをとるか実利をとるかの違いのようなものだ。どちらも勝つためにやっていることだが、このバランスは難しい。
その際に、一見顧客志向過ぎて損をしているように見えても、実は長期的には「強欲」と言ってもいいほど利益を志向している、というのは非常に面白い。

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文化の基準が、品格、価値観、信条といったものから、業績や数字など、ドーパミンに駆り立てられた非人間的な測定値へと移行すると、我々の行動を刺激する脳内物質がバランスを崩し、信頼や協力への意欲が弱まる
コップに入った牛乳に水を足すように、文化が水で薄められ、ついには牛乳の味がぼんやりと感じられるだけになり、栄養分も失われてしまう。
すなわち、歴史観、過去への責任、共有する伝統への責任といったものまで失われてしまうのだ。
そして、自分がどこに帰属しているかという問題をますます考えなくなる。
こうした弱い文化の中に身を置いていると、「自分にとって正しいこと」をしたがるようになり、「正しいこと」をする道からどんどん外れていく。
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グローバリゼーションが進んで行くと、得てしてグローバル基準である数字に重きが置かれるようになる。
(余談だが、個人的には世界共通言語の一番は英語ではなくて数字だと思っている)
グローバリゼーションが進めば進むほど、自分の帰属先、帰属する規範、価値観といったものを確立していく必要があるということだ。
そうしないと、そっくり丸ごとコルチゾール漬けの世界が出来上がるということだ。


『業績依存症』

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アルコール、ニコチン、食べ物から得られる快楽は、全てドーパミンに由来する。ドーパミンは、目標を達成した時や、探していたものを見つけた時に分泌される脳内物質だ。すなわち、ドーパミンは、生存や繁栄の役に立つ行動をとるよう、ヒトに発破をかけるのだ。
ドーパミンは、簡単に食糧を入手できない時代のためにつくられた。我々の身体は、食べたいときにいつでも食糧が手に入る世界で生きるようにはできていない。過食、ギャンブル、飲酒、喫煙はどれも、あきらかにドーパミン依存症だ。
同様のことが、まさに現代の企業文化で起きている。企業文化が奨励するプログラムが、新たなドーパミン依存症をつくり出しているのだ。「業績依存症」という病を。
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ベビーブーマーが「もっとたくさん」「もっと大きな」といった目標を達成することで、ドーパミンを得ていたのだとすれば、ジェネレーションY(1980年〜1995年頃に生まれた世代)は「もっと速く」「いますぐ」満足することで、ドーパミンを得ているといえる。
タバコが時代遅れとなったいま、彼らに断つことの出来ないのはソーシャルメディアだ。
ソーシャルメディアは、いわば21世紀のドラッグである。
アルコール依存症や薬物依存症と同様、この新たな病は、我々の最も若い世代を短気にさせており、最悪の場合、その前の世代より孤立させ、孤独感を味合わせている。成人後、アルコール依存症となる可能性の高いティーンエイジャーが精神的な苦悩や問題に対処しようとするとき、我々に辛いことがあると信頼する人間関係に頼るのではなくアルコールに依存するのと同様、彼らは辛いことがあるとソーシャルメディアや仮想世界の人間関係に頼ろうとする。
彼らは、短期間であればエネルギーを爆発させたり、努力したりするのは構わない。だが、一つのことに責任をもって関わり、気概をもって最後までやり抜くのは苦手だ。
集中して取り組み、自己を捧げるのではなく、多くのことに少しずつ自己を分散することに彼らは、すっかり慣れてしまっている。
その結果、「関心を持ってもらう」という大量の時間やエネルギーを割くことのないうわべだけの行為を本物の関わり合いと混同し、満足している。
いくら関心を高めても、結局生身の人間が、自分の時間を割き、エネルギーを注入するからこそ問題が解決するという点が見過ごされている。
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ここでもリアル回帰の必要性が述べられている気がする。
自分を振り返ってみても、ソーシャルメディア対応に使っている時間は馬鹿にはならない。
まだ文明の発展についていけていない我々の脳をどのように折り合いをつけていくのか。
テクノロジーは悪用も出来ることを考え、前に進むための技術をさらに発展させることが必要なのではないかと思う。


その他、面白かった点を羅列。
◯トップの経営陣は、絶え間ない緊張で疲弊しているように見えるが、実際は、彼らの下働いている事務員やマネジャーよりも長生きし、健康的な生活を送っている。
自分の仕事に関して、すなわち人生において、自分に権限があると感じられるかどうかが、ストレスや健康を左右する大きな鍵を握っている。
◯ボストンカレッジ大学院のソーシャルワーク学科の研究者によれば、「自分は幸福に暮らしている」という子供の安心感は、親の勤務時間の長さではなく、親が帰宅したときの機嫌の良さで変わってくる。
人間は、笑うことと怖れることを、同時にはできない。
◯ヒトは、視覚思考の動物である。他の感覚よりも、目で見たものを信頼する傾向にある。目標を立てたら、その目標を文字で記せと言われるのも同じ理由からだ。
企業が掲げる経営理念(ビジョン)もまた心の目で見えるものでなければならない。経営理念は目で確認する必要があるからこそ「ビジョン」と呼ばれているのだ。
◯カネは、具体的な資源や人間の努力を抽象化したものだ。それは、未来の商品やサービスに対する約束手形とも言える。
だが、人々が何らかの行動に費やす時間と努力とは異なり、カネはそうした行動の価値を表しているに過ぎない。
カネは抽象概念に過ぎないため、我々の原始的な脳にとって、真の意味で価値がない。
我々は生来、自分に時間とエネルギーを費やしてくれた人を特に高く評価する傾向がある。
カネには相対的な価値がある(大学生にとって100ドルは大金だが、億万長者にとっては端金だ)が、時間と努力には絶対的な価値がある。
我々がどんなに貧しかろうと、裕福であろうと、どこでいつ生まれようと、1日は24時間、1年は365日だ。



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