2015年12月28日月曜日

『フューチャー・オブ・マインド』 その2

脳と意識と不確定性原理の続き。

<不確定性原理>
・懐中電灯を月に向けると、光は月に届くだろうか。
答えはイエス。大気に元の光線の90%以上は吸収されるが、一部は月に届く。
だが、真の問題は、懐中電灯が最終的に月面を照らす範囲は、直径何キロメートルにもなるということだ。
これは不確定性原理のためであり、直進性の高いレーザー光線でも必ず徐徐に発散する。レーザー光線の正確な位置を知ることはできないので、量子物理学の法則によって、光線は必ず時間とともに徐々に広がることになるのだ。
・19世紀のアメリカ西部で郵便配達をしていたポニー・エクスプレス(リレー方式の早馬便)を考えてみよう。馬はそれぞれの中継駅の間を全速力で走る。だが障害となったのは、郵便物や馬野乗手を交換する際に各中継駅で生じる遅延要素だった。このせいで、郵便配達の平均速度はかなり落ちた。
光は、原子間の真空では秒速約29万9792kmという高速cで進むが、原子にあたると遅くなる。光は、つかの間原子に吸収され、瞬時に追い出されて再び放射される。このわずかな遅延こそ、光線がガラスや水に入ると概して遅くなるように見える原因だ。
ハーバード大学の科学者はこの現象を利用し、ガスの入った容器を用意して絶対零度近くまで慎重に冷やしていった。こうした極低温では、ガスの原子は光線をかなり長い時間吸収してから再び放射するようになる。このように、遅延要素を増大させることによって、光線を減速させ、遂には停止させたのである。光線は、ガスの原子と原子の間は変わらず光速で進むのだが、原子に吸収される時間が増えていく。
これにより、意識のある存在が、サロゲートを操るのではなく、エネルギーそのものの形のまま、ほとんど幽霊のように漂うほうを好む可能性も出てくる。
すると、将来我々のコネクトームをのせたレーザー光線は、恒星に送られると、ガスの分子の雲に移されて、ビンに詰められることになるかもしれない。
この「光のビン」は量子コンピュータによく似ている。どちらも同期して振動している原子の集まりであり、その中では原子の位相が揃っている。そしてどちらも、通常のコンピュータの能力を遥かに超える複雑な計算ができる。
だから、量子コンピュータの問題が解決できれば、我々はこの「光のビン」も扱えるようになるかもしれない。
・アインシュタインは1915年に発表した一般相対性理論で、重力が時空の歪みによって生じることを明らかにした。
重力は、ニュートンがかつて考えたような、謎めいた見えない「引く力」ではなく、実は、空間そのものが物体の周りで曲がることによって生じる「押す力」なのである。これで、星の光が別の星のそばを通過する時に曲がることや、宇宙が膨張することを見事に説明できただけでなく、時空の生地が伸びていくとやがて破れるという可能性もあきらかになった。


<シュレーディンガーの猫>
電子は点状粒子だが、それが見つかる確率は波で与えられる。そしてこの波はシュレーディンガー方程式に従い、不確定性原理をもたらす。
シュレーディンガーの猫のパラドックスをどう解決するか?

第1の手だては、ボーアとハイゼンベルクによって提唱されたコペンハーゲン解釈。
この解釈によると、猫の状態を決定するためには、箱を開けて観測しなければならない。観測すると、猫の波(死んでいる猫と生きている猫の重ね合わせ)が一つの波に「収縮」するので、猫が生きている(または死んでいる)ことが分かる。
このように、観測が猫の存在と状況を決定する。観測行為によって、二つの波が魔法のように解けて一つの波になるのである。
アインシュタインはこの解釈を嫌った。これに対抗する「客観的実在」の理論を推進した。この理論では単に、宇宙はいかなる人間の観測とも無関係に、ただ一つの明確な状態で存在するとされる。(これはほとんどの人が持つ常識的な見方だ)
客観的実在は、惑星や恒星や銀がの運動を表すことに見事に成功した。相対性理論を用いれば、この考えでブラックホールや膨張する宇宙も表せる。
ところがまるで通用しない場所がひとつある。原子の中だ。 量子力学は、新たな形の独我論を物理学へ連れ戻した。
この見方によると、観測されるまでは、木はあらゆる全ての状態で存在する(苗木、焼けた木、おがくず、つまようじ、朽ちた木など)。ところがあなたが見た途端、波が収縮してただの木に見える。かつての独我論者は、木が倒れているかいないかという話しをしていたが、新しい量子の独我論者は、木のあり得る全ての状態を取り入れているのである。
アインシュタインは、量子の微小な世界(猫が死んでいながら生きてもいるような世界)と、我々周囲の常識的な世界とには「壁」があると考えた。

第2の手だては、1967年ユージーン・ウィグナーによって考案された。
ウィグナー曰く、意識を持つ人間だけが、観測をして波動関数を収縮させることが出来るとした。
しかし、その人間が存在すると誰が言えるのか?観測する人と観測される人は切り離せないので、その人間も死んでいると同時に生きているかもしれない。観測者が生きていることを確かめるには、その観測者を見る第二の観測者が要る。
この第二の観測者は「ウィグナーの友人」と呼ばれる。第二の観測者が生きていることを確かめるには、さらに別の友人が必要となる。
このように、前の波動関数を収縮させて「友人達」が生きていることを確かめるには、無限に友人が要るので、なんらかの形で「宇宙の意識」や神が必要になってしまう。
ウィグナーは「(量子論の)法則を全く矛盾のない形で定式化することは、意識を考慮せずには不可能だった」と結論づけた。
このアプローチでは、神または何らかの不朽の意識が我々全てを見て、我々の波動関数を収縮させるので、我々は生きているのだと言える。
この解釈はコペンハーゲン解釈と物理的に同じ結果をもたらすので反証のしようがない。だが、これの意味するところは、意識は宇宙の根本をなす存在であり、原子よりも根本的だということである。物質世界は移り変わっても、意識はずっと決定的な要素のままでいる。すると、ある意味で、意識が現実を作り出していることになる。身の回りにある原子の存在そのものが、それを見たり触ったりできる我々の能力に基づいているのだ。

第3の手だては、1957年にヒュー・エヴェレットが提唱したエヴェレット解釈(多世界解釈)だ。
この解釈によると、宇宙は絶えず分岐して多宇宙となっている。ある宇宙では猫は死んでいるが、別の宇宙では生きている。
このアプローチは、次のように要約できる。波動関数は収縮せず、ただ分岐する。
エヴェレットの多世界理論がコペンハーゲン解釈と唯一異なるのは、波動の収縮という決定的な仮定(量子力学の最も単純な定式化であり、最も気味の悪いもの)を取り下げた点だ。
この第三のアプローチは甚大な影響を及ぼす。つまり、あらゆる宇宙が存在でき、奇想天外で一見ありえないような宇宙さえ存在し得るのだ(ただし、奇想天外な宇宙ほど、存在する確率は低くなる)
だが、波動関数が絶えず分岐していて、その際に全く新しい宇宙を作り出しているとしたら、なぜ我々はそこへ行けないのだろう? ノーベル賞受賞者のスティーブン・ワインバーグはこれを、部屋でラジオを聴くことなぞらえている。
部屋には方々から届く何百もの電波が満ち満ちているが、ラジオのダイヤルは一つの周波数にだけ合わされている。言い方を変えれば、ラジオは他の全ての局とは「干渉性を失って」いることになる。(干渉性とは、レーザー光線のように、全ての波が完全に同期して振動している状況を指す。干渉性の消失は、こうした波の位相がずれだして、振動が同期しなくなっている状況である)


<自由意志>
ベンジャミン・リベット博士が1985年に行った実験は、自由意志の存在そのものに疑問を投げかけている。
脳波スキャンによって、脳が実際に決断を下すのは、人が自覚するおよそ300ミリ秒前である。すると、ある意味で自由意志は偽りだということになる。決断は意識のインプットのないまま脳が先に下しており、あとから脳は(いつもやるとおり)これをごまかそうとして、意識が決断したことにするのだ。
マイケル・スウィーニー博士はこう結論している。
「リベットの発見が示しているのは、人が決断を下す前に、脳はその人がどんな決断をするかを知っているということだ。運動が随意と不随意に分けられるという概念だけでなく、自由意志という概念自体も見直さなければならない」
これはすべて、社会の礎となる自由意志がフィクション〜左脳が作り出す錯覚〜であることを示しているように思える。ならば、我々は、自分の運命の支配者なのか、それとも脳がずっと続けるイカサマの駒でしかないのか。

自由意志は、決定論という理念と対立する。決定論では単に、あらゆる未来の事象は物理法則によって決まるとされる。ニュートンによれば、宇宙はある種の時計であり、全ての始まりから時を刻み、運動の法則に従っているという。するとあらゆる事象は予測可能なのである。
ここで疑問が生じる。我々はこの時計の一部なのか?我々の行動も全て決定済みなのか?
この疑問は、哲学的・神学的な示唆を含んでいる。
たとえば、大半の宗教は、なんらかの形の決定論や予定説を支持している。神は全知全能で、偏在する。神は未来を知っているので、未来は前もって決定されている。神は、人が天国に行くか地獄に落ちるかを、その人が生まれる前から知っている、といったように。 カトリック教会は、まさにこの問題において、宗教改革で真っ二つに分かれた。当時のカトリックの教義では、たいてい教会に気前よく献金をすれば、その人の最終的な運命を変えるとされていた。つまり、決定論は財布の中身次第で変わり得るというのである。
そこで、マルティン・ルターは贖宥状(献金などによって発行された、罪の償いを軽減する証明書)を巡る教会の腐敗を特に槍玉にあげ、1517年に「95か条の論題」を教会の扉に貼り出し、宗教改革を引き起こした。これこそ教会が真っ二つに分かれた主な理由のひとつであり、その結果、100万人単位の犠牲者が出て、ヨーロッパ全域が荒廃した。
しかし1925年以降、量子力学によって不確定性が物理学に導入された。いきなり何もかもが不確かになり、計算できるのは確率だけになった。
この意味では、自由意志はきちんと存在し、量子力学が顕現したものなのかもしれない。そのため、量子論が自由意志の概念を復興したと主張する者もいる。ところが決定論者はこれに反撃し、量子論的効果は極めて小さい(原子レベルで働く)ので、小さ過ぎて、大きな人間の自由意志を説明することはできないと主張した。

今日の状況は、実のところかなり混乱している。もしかすると「自由意志は存在するのか?」という疑問は「生命とは何か?」という疑問に似ているのかもしれない。
今では、この疑問に多くの階層と複雑さがあると分かっているのだ。同じことが自由意志にも当てはまり、自由意志にも多くの種類があるのかもしれない。
もしそうなら「自由意志」の定義そのものが曖昧になってくる。

この議論は、脳のリバースエンジニアリングにも影響を及ぼす。もしもリバースエンジニアリングによってトランジスタでできた脳を作ることに成功したら、できあがった脳は決定論的で予測可能なものということになる。どんな質問であれ、その脳は、同じ質問には毎度全く同じ答えを返す。コンピュータはそのように毎度同じ答えを出すから、やはり決定論的である。
一方では、量子力学とカオス理論から、宇宙は予測可能ではなく、それゆえ自由意志は存在すると考えられる。他方、リバースエンジニアリングによってトランジスタでできた脳は、当然予測可能になる。
リバースエンジニアリングで再現された脳は、理論上は生体の脳とそっくり同じなので、人間の脳も決定論的で、自由意志は存在しないことになる。明らかにこの二つの議論は矛盾する。 リバースエンジニアリングで再現された脳は、いかに複雑でも、やはりトランジスタと導線の集まりだ。こうした決定論的な系では、運動の法則がよく分かっているので、未来の振る舞いを正確に予測できる。ところが量子論的な系では、系は本質的に予測できない。不確定性原理のために、計算できるのは、あることが起きる確率だけになる。


なんと我々の自由意志とは脳の認知(錯誤)したまやかしだったのか!?
悪いことしても「妖怪のせいなのね」というのは案外間違いじゃなかったということか。(そんな訳はない、というが世間の常識)


他にも、他の星の知的生命体、人口知能の話し、幽体離脱、マインドコントロール、精神疾患などなど、興味の尽きないネタ満載の本。
面白かった〜





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