2016年4月22日金曜日

『「読まなくてもいい本」の読書案内』

橘玲氏の著作。タイトルは過激というか、いい加減という感じだが、内容は極めて真面目で非常な名著である。
「パラダイムシフト前の小難しい本は、よほどの専門領域で勉強しているのでもない限り読む必要はない」という、時間の少ないサラリーマンにはありがたい趣旨の本。

20世紀半ばからの半世紀で起こった”知のビッグバン”の原動力になっているのが、複雑系、ゲーム理論、脳科学等の爆発的進歩だ。
この”知のパラダイム転換”がなんと進化論をベースとしているというのが面白い。
この本を読んだ人は皆、進化論信者になること請け合い(笑)

<進化論>

進化論とは
「遺伝的変異と自然選択で繁殖度(包括血縁度)を上げることによって、生物が環境に適応するよう多様化する過程」
のこと。

進化論を否定する「三つのジコチュー」がある(いる)。
①進化の長いタイムスケールを理解できない
②個体のタイムスケールの違いを錯覚している
③ヒトを進化の頂点だと考える。

何故、こういったジコチューが起こるのか。
①生命はおよそ40億年前に誕生した。ヒトの祖先がチンパンジー、ボノボ、オランウータン、ゴリラなどの類人猿から分岐したのが約600万年前、現生人類であるホモ・サピエンスがアフリカで誕生したのが約10万年前と考えられている。農耕の開始は一万年前。
人は1年と10年の違いを直観的に把握することはできるけれど、1万年が40億年の40万分の1であることを上手く理解できない。これは我々の時間感覚が自分の寿命を基本にしているからだ。ほとんどのひとが100年先のことに興味を持たないのは、どうせその頃には死んでいるからだ。これは過去についても同じで、100年以上前の出来事はすべて「昔話」だ。

地球の誕生(46億年前)を1月1日とすると、生命が誕生した(40億年前)のが4月8日、それから11月1日(8億年前)までは単細胞生物しかおらず、最初の魚類が出現したのが11月26日の午後。
恐竜の時代は12月9日から26日あたりまでで、最初のサルが出現したのが12月25日、人類の祖先が現れたのが12月31日の午後8時10分だ。エジプトやメソポタミアに最初の文明が誕生してからは、わずか30秒しか経っていない。
あるいは、子供達に両腕を広げさせ、右手の指の先を地球の始まりとし、左手の指先を現在とする。そうすると、右手首から始まってだいたい左手の手首までは色々なバクテリアが生息していた時代、恐竜はだいたい左手の掌あたりで登場し、ヒトは左手の爪先位になる。人類の文明は爪先をやすりでひとこすりして、爪から落ちた粉の分しかない。
わずか数千年の人類の文明史から進化を理解できないのは、30秒の出来事で一年を語ったり、爪の先の粉から両腕の長さを計れないのと同じことだ。ましてや自分の数十年の経験から、直観的に進化のタイムスケールが把握できるはずはない。だが世の中には自信過剰なひとがものすごくたくさんいて、彼らは科学的な事実と直感が対立した場合、無条件に自分の直感が正しいと信じるのだ。

②現代人は動物の中でも極端に長い寿命を持っていて、それを無意識の基準にしているけれど、ほとんどの生き物は生まれてすぐに死んでいく。すなわち、世代交代の間隔が短く進化のスピードが速い。
イヌの寿命は15歳前後で、ヒトがせっせと交配という”遺伝子組み換え”をやった結果、わずか数百年でセントバーナードからチワワまで多様に進化した。(オオカミの一種が家畜化されたのは1万5千年ほど前とされているが、品種改良が進んだのは18世紀以降だ)
ネズミのような小型の哺乳類でも生き物の中では大きい方で、ほとんどの昆虫は寿命が1年以内で、数ヶ月で世代交代していく。彼らの”進化時間”はヒトよりずっと速いから、我々にとっての40億年は虫達にとっては100兆年くらいに相当する。

③自然(生態系)はヒトを頂点とする一本の棒ではなく、峠がたくさんある、ゴツゴツとした岩山のようなものだ。
進化の基準を知性(意識の複雑さ)に置くなら、ヒトが最も優れているのは疑いない。だが子供の数や繁殖度で進化の効率を測るのなら(学問的にはこちらが主流)、最も成功した生き物はアリやハチなどの社会性昆虫になるだろう。
「進化論的に優れた生き物」を議論するよりも、すべての生き物がそれぞれの進化の頂点にいると考えた方がすっきりする。


<進化生物学>

1976年、”進化の伝道師”リチャード・ドーキンス 『利己的な遺伝子』 進化の主役を個体ではなく、遺伝子にしてしまった。すべての生き物は遺伝子を後世に引き継がせるための「ヴィークル(乗り物)」なのだ。 進化における個体から遺伝子はの視点の転換は、天動説から地動説へのコペルニクス的転換に匹敵する衝撃だった。

女王を中心に大きな集団(コロニー)をつくるハチやアリは、半倍数性という特殊な生殖をする。
半倍数性の昆虫は、メスが2組のDNAを持つ「二倍体」なのに対し、オスは未受精卵から育つためDNAが一組しかない。これが「半倍数隊」で、二倍体のメスと半倍数隊のオスが両性生殖するのが「半倍数性」だ。
まず妻は、夫とセックスしなくても息子を産むことができる。息子は半数体で、母親の二組の遺伝情報から一組を受け継ぐのだから、その血縁度は1/2。だが夫から見れば、自分とは何の関係も成しに妻が勝手に男の子を産むのだからその血縁度はゼロになる。半倍数性の家族では、父親と息子は常に他人なのだ。
妻が娘を産もうとすれば、二本のDNAが必要になるから夫とセックスしなくてはならない。こうして産まれた娘の血縁度は、母親から見れば、二組の遺伝情報から一組を受け継いでいるのだからやはり1/2。一方、夫からすれば、娘は自分の一組の遺伝情報をまるごと受け継いでいるのだから血縁度は1になる。
息子にとっての兄弟姉妹は血縁度が1/2。だが、娘からみた兄弟姉妹の血縁度は異なる。
娘にとって兄や弟は、父親の遺伝子を持たず、母親から1/2の遺伝子を受けついているのだから、血縁度は1/4。それに対して、(娘にとって)姉や妹は、父親の遺伝子全てと母親の遺伝子の1/2を共有しているのだから、その血縁度は3/4になるのだ。
このように半倍数性の生き物では、メスにとって自分の子供(息子や娘)の血縁度が1/2なのに対し、姉妹の血縁度は3/4になる。
生き物が血縁度を最大化するように進化するとしたら、メスは子供をつくるよりも姉妹をできるだけ増やそうとするに違いない。そしてそれこそまさに、アリやミツバチなど半倍数性の生き物がやっていることなのだ。
社会性昆虫のコロニーでは、一匹の女王がたくさんのメスとごく少数のオスを産む。メスは生殖も産卵もしないワーカーとなって、女王が卵を産むのをひたすら手助けする。オスは女王と結婚して、自分と遺伝子を共有する娘をできるだけ多く産ませようとする。そう考えれば、社会性昆虫の「女王」は利己的なメスのワーカーと利己的なオスによってつくられた産卵マシンなのだ。
こうして、進化論における”知のビッグバン”、社会生物学(進化生物学)が誕生した。

ジョン・メイナード=スミスは、生き物を「遺伝子のコピーの最大化」というゲームを行うプログラムと考えた。
この時にスミスが使ったのが、フォン・ノイマンが編み出したゲーム理論だ。
ゲーム理論は血も涙もない「合理的人間」を前提としていたが、現実的には人間は完全に合理的に行動する訳ではない。
ところが、メイナード=スミスは、昆虫には「血も涙もない」のだから、彼らこそがゲーム理論通り合理的に行動するはずだと考えた。
「合理的経済人」はいないかもしれないが、「合理的経済虫」はいたるところに存在する。なぜなら進化は、遺伝子の複製を最大化する「合理的な戦略」だけを選択していくのだから。
メイナード=スミスはこれを「進化的に安定な戦略(ESS/Evolutionarily Stable Strategy)」と名付けた。これは、生物学を根底から変えてしまうスゴい発見だった。

①生き物はできるだけ多くの子供をつくるのではなく、できるだけ血縁を増やすように進化していく。
②これは、より多くの複製を残す遺伝子が受け継がれていくということでもある。このように考えれば、全ての生き物は「利己的な遺伝子」の乗り物に過ぎない。
③生き物は、「遺伝子の複製の最大化」というプログラムを搭載した”機械”であり、他の生き物と対立や協調のゲームをしている。その行動はゲーム理論で数学的に記述できる。
④生き物の戦略は「遺伝子という効能」の最大化でもある。だとすれば、動物や植物の生態系は投資や市場取引として経済学的に説明できる。

<進化生物学その2>

進化生物学者ロバート・トリヴァースの「親の投資理論」
トリヴァースは、生き物はそれぞれ子供をつくる(遺伝子を複製する)のに異なるコストを払っていると考えた。
例えば魚や昆虫のメスは一度に大量の卵を産むから、大きな投資は必要ない。こうしたローコストの繁殖戦略では、卵の一部が孵化すればいいだけだから、一所懸命子育てしようとは思わないだろう。
一方、哺乳類のメスは、妊娠から出産までの期間が長いし、一度に産める子供の数も限られている。これはハイコストの繁殖戦略で、せっかく生まれた子供は大事に世話して大人にしなければならない。これが哺乳類が「子育て」をするようになった理由だ。

男と女でも進化論的にはとるべき戦略が異なる。
男と女では生殖機能が違う。男の場合は、精子の放出にほとんど労力(コスト)がかからないが、女性は、受精から出産までに9ヶ月もかかり、無事に子供が生まれたとしても更に長い授乳期間が必要になる。子供をつくるときの”投資金額”がオスとメスでかけ離れているとき、進化論は最適な生殖戦略が性によって異なるはずだと予想する。
ローコストの男がより多くの子孫を残そうとすれば、できるだけ多くの女性とセックスすればいい。すなわち、乱交が進化の最適戦略だ。それに対してハイコストの女性は、セックスの相手を慎重に選び、子育て期間も含めて男性と長期的な関係をつくるのが進化の最適戦略になる。セックスだけして捨てられたのでは、子供と一緒にのたれ死にしてしうのだ。
男性はセックスすればするほど子孫を残す可能性が大きくなるのだから、その欲望に限界はない。一方、女性は生涯に限られた数の子供しか産めないのだからセックスを「貴重品」としてできるだけ有効に使おうとする。

これまで人類は、文学や音楽、映画などで男と女の「愛の不毛」を繰り返し描いてきた。しかし進化心理学は、恋人同士が分かり合えない理由をたった一行で説明してしまう。すなわち、「異なる生殖戦略を持つ男女は、”利害関係”が一致しない」のだ。
ゲイは、バーなどのハッテン場でパートナーを探し、サウナでの乱交を好む。エイズが流行する前にサンフランシスコで行われた調査では、100人以上のセックスパートナーを経験したとこたえたゲイは全体の75%で、そのうち1000人以上との回答が4割近くあった。彼らは特定の相手との長期の関係を維持せず、子供を育てることにもほとんど関心を持たない。
それに対してレズビアンのカップルは、パートナーとの関係を大切にし、養子や人工授精で子供を得て家庭を営むことも多い。レズビアンの家庭は、両親がともに女性だということを除けば(異性愛者の)一般家庭と変わらず、子供達はごく普通に育っていく(母子家庭の子供よりも社会的に成功する比率が高い)。一方、高齢のゲイ同士のカップルというのはほとんどなく、養子をとることもないので、人生の最後は孤独に苛まれるのだと言う。
ゲイの乱交とレズビアンの一婦一婦制は、男性と女性の進化論的な戦略の違いが純化した結果なのだ。


<進化心理学>

ヒトのからだが進化によってつくられたのと同じように、我々のこころや感情も進化によって生まれた。
進化心理学は、ヒトは「進化適応環境(EEA/Environmental of Evolutionary Adaptedness )に最適化されていると考える。
石器時代のプログラムを起動させることで、「裏切り者」をたちまちのうちに探し出すことが出来る。

進化適応環境(EEA)である石器時代には、そもそも「負債」などという概念はなかった。原始人が知っていたのは、獲得する(利益を得る)か、奪われる(損をする)かの二者択一だ。その上原始時代には、富を蓄える手段がほとんどなかった。獲得するものの多くは生の食料で、たくさんあっても腐らせるだけでほとんど役にたたなかった。大事なのは大量に獲得することではなく、確実に獲得することなのだ。
それに対して、損をする=獲物を奪われることは直ちに死を意味した。絶対に損をしないことが生存の条件で、万が一損をしたら直ちに取り返さなければならない。そう考えれば「生きる望み」のある選択肢(損失確定ではなく、損失のない可能性がある選択肢)が選好されるのは当然だ。
「プロスペクト理論」は、ひとは得をするときと損をするときで「プロスペクト(見通し)」が大きく異なることを示した。このような「非合理性」が生じるのは、進化の過程のなかで、(確定)利益を好み(確定)損を嫌うプログラムが強化されてきたからだ。


<正義とは>

「正義とは何か」という原理的な問いを考えてみよう。
現代の脳科学はここでもたった一行で正義を定義する。
「正義は娯楽(エンタテインメント)である」 正義の特徴は、強い感情を伴うことだ。進化論的に言えば、特定の状況に置かれたヒトが泣いたり笑ったりするのは、脳にあらかじめ組み込まれたプログラムによるものだ。
お笑い番組で号泣したり、恋人が不治の病で死んでいく場面で腹を抱えて笑うようなひとは、相当な変わり者だから皆に相手にされず、うまく子孫を残すことができない。
哲学や倫理学の小難しい理屈で説明される道徳や正義は、すべて「正義感覚」という感情を基礎としているのだ。
ひとは、気持ちのいいのは正しいことで、不快なのは悪いことだと無意識のうちに判断している。セックスが快楽なのは子孫を残す行為だからで、腐ったものが不味いのは食べたら病気になるからだ。長い進化の歴史の中で、我々は「気持ちいい」ことだけしちれば大抵うまくいくよう「設計」されている。 復讐はもっとも純粋な正義の行使で、仇討ちの物語があらゆる社会で古来語り伝えられてきたように、それは人間の本質(ヒューマン・ユニヴァーサルズ)だ。 そればかりか、「目には目を」というハンムラビ法典の掟はチンパンジーの社会にする存在する。
ひとは何故これほど正義に夢中になるのか。その秘密は、現代の脳科学によって解き明かされた。脳の画像を撮影すると、復讐や報復を考えるときに活性化する部位は、快楽を感じる部位と極めて近いのだ。
復讐がなぜセックスと同じ快楽になるのか。その理由は簡単で、折角手に入れた獲物を仲間に奪われて反撃しないようなお人好しは、とうの昔に淘汰され消滅してしまったからだ。生き残ったのは「復讐せざるもの死すべし」という遺伝子なのだ。
こうして、ヒトやチンパンジーのような社会的生き物は、「正義」の行使(裏切り者を罰すること)を娯楽=快楽と感じるように進化してきた。
ハリウッド映画から時代劇まで、「悪が破壊した秩序を正義が回復する」という勧善懲悪の陳腐な物語がひたすら繰り返されるのも無理はない。


<マーケットデザイン>

社会をよりよいものに設計しようとすることを「マーケットデザイン」というが、そこで大事なのが「パレート効率」という考え方。「誰かの効用を犠牲にしなければ他の誰かの効用を高めることができない状態」と定義されるが、逆に言うと「誰の不利益にもならずにいまより幸福になれるなら、それはみんなにとってもいいことだ」ということになる。
パレート効率性と並んでマーケットデザインで重要になるのが、「個人合理性」で、”抜け駆け”ができないという基準だ。
分配がパレート効率的でも、個人合理性の基準を満たしていないと、せっかくの約束事が無駄になってしまうのだ。

マーケットデザインでは、パレート効率性と個人合理性の両方の基準をクリアした分配方法を「コア」という。
コア(パレート効率性+個人合理性)に加えて、「耐戦略性」という基準も大切だ。 耐戦略性というのは、虚偽の申告をするなどの戦略的操作が可能でない、正直であることがもっともいい結果を生むような分配方法になっていることだ。
マーケットデザインとは、「市場の機能が使えない時に、ゲームを上手にデザインすることで、市場と同じようなコアの分配を成立させる」技術のことなのだ。

実は、市場メカニズムを含むどのような分配方法でも、耐戦略性を満たしたコア(パレート効率性+個人合理性)を実現することはできないということが、これも数学的に証明されている。これが社会選択理論における「不可能性定理」で、全ての望みを満たす理想の世界はあり得ないということだ。
最適な分配を考える時には、パレート効率性、個人合理性、耐戦略性のどれかひとつをあきらめなくてはならない。
これは典型的なトレードオフで、市場取引は、コアではあっても戦略的操作に対しては脆弱性がある。しかしそれでも、自分の選好を偽ることで市場全体の配分を変えるのは非常に難しいから(株式市場において嘘の情報を流す風説の流布は、仮に成功しても犯罪になる)、市場の仕組みはやはりダントツによくできているのだ。

マーケットデザインを使えば、市場でうまく扱えないものでも、市場取引と同様の効率的な分配ができる。この仕組みはコンピュータのアルゴリズムと同じだから、条件さえきちんと整えれば、いつでもどこでも最適の結果が実現する。
アルゴリズムというのは、要するにルールのことだ。そうなるとマーケットデザインで法律をつくればいいではないか、と考える人も出てくる。
法律の中でも、民放や商法、会社法、税法などは市場のルールを決めるものだ。その目的は市場の機能を最大限活かすことだけど、法律家の常識(というか思い込み)と市場の現実がどんどん乖離して、色んなところでうまくいかなくなっている。
その責任の大半は有権者という名の既得権益層に振り回されて合理性を無視する政治にあるのだけど、これまでの法学が唯我独尊で、直感的(進化論的)な正義感覚だけで市場のルールをつくろうとしてきたことも否定できない。
だったら、市場のルールは株式取引などやったことのない法学者ではなく、経済学(ゲーム理論)を活用してつくった方がいいと考える人が多くなるのは当然で、経済学的に合理的な法律をつくろうという「法と経済学」がいまでは世界の主流になっている。


<進化論による説明>

「人はなぜ老いるのか?(思春期に生殖能力を最大化するため)」
「病気はなぜあるのか?(ウィルスと免疫との”軍拡競争”)」
「神はなぜいるのか?(脳のシミュレーション機能の自然への拡張)」

チンパンジーは相手のこころを映す鏡を持っているかもしれないが、シミュレーション能力は極めて限られている。
それに対してヒトは、未来をシミュレーションすることで、社会集団の中でより有利な地位を獲得し、生殖の機会を増やしていった。これは極めて強力な武器なので、自然選択(性淘汰)によっていずれは群れの全員がシミュレーション装置を持ち、相手の出方を読み合うようになるだろう。この複雑な相互作用(フィードバック)から自分や相手の「内面」が実体化したものを、僕たちは「こころ」と呼ぶようになったのだ。
ひとは物心ついた時から死ぬ瞬間まで、意識がある限り「if…then…」の思考をひたすら繰り返している。仏陀はこの終わりのないシミュレーションを「煩悩」と呼び、修行によって「if…then…」の回路を遮断し、とらわれのない心の静けさに至ることを目指した。悟りの境地は「涅槃(ニルヴァーナ)」で、それは「寂静(じゃくじょう)」とも言われるが、これは意識の機能を停止した状態が死の世界であることをよく示している。
すなわち、死ななければ悟りは得られないのだ。


途中以前の橘玲氏の著作で紹介した、進化論的に正しいとされる「正義」からくる3つの政治的主義(「自由主義、」「平等主義」「共同体主義」)の話し(および進化論的から派生していない功利主義)は割愛したが、非常に体系的に知的興奮を味わえる良書。

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