麗沢大学大学院の髙嚴先生が、女子高生との対話形式で(実際に対話して)稲盛について語っている本。
橘玲氏の本で正義論について学んだので、別の切り口から稲盛さんがどのように考えているのかを知りたくて読んだ。
稲盛氏の「人生・仕事の結果に関する方程式」
人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力
「方程式の中で最も重要なものが『考え方』である」
稲盛哲学は、アリストテレスの哲学に近いものとして整理されていて、橘玲氏の言うところの「共同体主義」に近い考え方である。
結論から言うと身も蓋もない感じだが、他に「自由至上主義」と「社会自由主義」と「功利主義」を挙げている。
自由至上主義は、政府が余計なことをしなければ、一人ひとりはその努力に応じて評価されるので、結果として『正しい配分』が実現するとした(『配分的正義』)。
本来、自由至上主義の方程式は「社会のあるべき論」として提唱されたものであるが、ひとたび、仕事の結果が「熱意×能力」の積で決まるとなれば、優位にある者は「現在、劣位にある者は、皆能力や熱意が足りなかった」と主張し始めるかもしれない。
社会や人生には多くの偶然がある。不幸な人に対しそれは自業自得だ、と指摘しあう社会は住みにくい。
相反する二つの哲学だが、どちらも「『良き考え方』など、他人に押し付けてはならない」「よいか悪いかは各自が自由に決めること」という前提から出発している。
社会自由主義は、各自の持っている才能や資質も、結局「偶然の産物」として捉える。
そもそも、才能や資質を偶然の産物として捉えるからこそ、才能・資質の結果として生まれる所得や富を格差原理に基づいて共有することを求めるのである。当然、市場は、格差原理に従った共有等促すことはできない。それは政府にしかできない調整である。
社会自由主義の発想は、行き過ぎれば日常生活に不満を持つ人々が暴走することを許してしまう。
また、権限をもった政府、政治家、官僚の権限が大きくなればなるほど、権限者を腐らせていく。より大きな政府を求める社会自由主義は、常に腐敗問題に悩まされるのだ。
功利主義については、他の二つの伝統的社会哲学とは一線を画すものとして整理されている。
幸福を大きくし、不幸を小さくすること、幸福の中身は各自が決めて良い、これが一人ひとりの生き方として、また社会のあり方として「倫理的に正しい」とした。
ジェレミ・ベンサムの「最大多数の最大幸福」という考え方。
功利主義は、「多数派の満足度が増すのであれば、少数派が不利益を被っても構わない」との冷たい論理を内有している。
加えて言うならば、全体の幸福(社会の厚生)を増やすことだけに重きを置き、「社会の中で、どのように幸福を配分するか」について何も語っていない。
1.社会を構成する単位をバラバラの独立した個人としていること。
2.ある特定の『考え方』をよいものとして推奨するのを避けていること。
3.各自の努力を数年間など比較的短い期間の中で清算・調整されるものと捉えていること。
伝統的社会哲学は、社会を構成するものが、様々な人間関係を捨象してしまった後に残る「抽象的な個人」「バラバラな独立自由な個人」であると解する。
西洋由来の社会哲学では、扱うべき社会は、そのままでは説明のつかない対象であった。そこで、観察対象の社会を細かく分割(divide)していった。これをとことん進めていった結果、これ以上は分けられない(in-divide)単位に行き着いた。それが「個人」(in-dividual)という最小単位だったわけだ。
これに対し、稲盛哲学では、人をバラバラな個として扱うことはない。誰にも影響をうけなく、独立自由な個体に還元してしまえば、人が負うべき責任や担うべき役割までが見えなくなってしまうからである。どうしても社会を分けて整理したいというのであれば(あっても)、その最小単位は「個人」ではなく、「関係の中にある人」あるいは「人と人の関係」でなければならない。
英語で言えば「individual」ではなく、他の人との関係の中にある「person」(人)でなければならない。もともと「person」という言葉には、様々な「顔」の集合、多様な「役割」の集合という意味が込められているからである。
伝統的社会主義では、個々人に還元可能な所得や富が重要なものとして取り上げられる。 しかし、「人と人の関係」を想定した場合、個人のレベルに還元されるものに加え、関係のレベルに還元されるものも重要となってくる。 関係レベルに還元されるものの中には「共同で所有する共有地」といった財産も含まれようが、中心はやはり人々の間で培われるもの(「関係財」)となる。 具体的には、相互間の信頼、賞賛、尊敬、さらには、それを背景として社会全体あるいはコミュニティ全体に生まれる治安の良さ、生活の充実感、人々の絆などである。
ドイツのイマヌエル・カントは、本当の自由とは欲望のままに生きることではない、とした。
本当の自由は、物理法則や欲望の鎖から、理性の力をもって自らを開放し、自身のやるべきことを自律的に決定し、行動することだとした。
稲盛氏がいう『自由』とは、まさにこのカント流の自由である。
稲盛氏の「自由」とは、物理的・生理的な法則に縛られないこと、身体に埋め込まれた欲求や本能に振り回されないこと、人間だけが持っている「理性」の力を発揮し、進むべき方向を自らの意思と責任で決めていくこと、である。これこそ本当の意味での自由であるとした。
自己利益に縛られ、本能のままに行動するようになれば、人は信頼関係作りを避けてしまう。信頼関係作りには必ずどこかの段階で自己犠牲が求められるからである。
原理・原則を導きだそうとするひとのことを『構想者』という。その「構想者」が事前に持っている知識が「事前知識」。
稲盛哲学における構想者は「生活の糧は多いほど良いかもしれないが、他人との関係も考慮し、その取得・活用を考えるのが合理的である」といった「事前知識」を持つ。
これが、「自分の所得や富は多ければ多いほどよい、自分の権限は大きければ大きいほどよい」とするロールズの事前知識と異なる。
大雑把ではあるが、「人と人の関係」「関係の中にある人」などを重視するものが正義を模索すれば、ここに行き着く。
(1)積極的行為に関する原理
(a)社会の上にいる人ほど、あるいは恩恵に浴している人ほど、社会に役立つ積極的行為に努めるべき
(b)結果の社会還元、取り分の自制等の積極的行為は、基本的に受益者側が権利として要求することではない
(2)消極的行為に関する原理
(a)社会の上にいる人ほど、あるいは利益を上げている企業ほど、違法・脱法などに走らぬよう、一層の注意を払うべき
(b)違法・脱法行為には、誰もが関与してはならない
現代社会の問題として、①所得の格差、②治安の悪化と地域社会の荒廃、③濫訴社会、という三つの問題に触れたが、関係重視の二つの原理が解決に資するとすれば、それは、少なくとも「配分的正義の問題」に関し、伝統的社会哲学を補うものとなり得るはずだ。
逆の危険性もあり、皆が「人生・仕事の結果に関する方程式」を妄信的に支持すれば、その場合も社会は豊かさを失う可能性を持っている。(偶然の撹乱により、不運に見舞われた時、誰もが「それは、あなたの考え方が悪いから」「自業自得」というような社会ではない)
自由至上主義が劣位にある者に対し冷たい社会をつくる可能性があると指摘したが、稲盛哲学の方程式も、使うものが使い方を誤ると、同じ過ちを犯してしまう。
稲盛哲学の方程式は、あくまでも、自らにあてはめ、将来に向かって進もうとする人が、自身の生き方を考えるために用いるもの。それが稲盛哲学の狙いとするところであり、人間として正しい『方程式』の使い方。
稲盛氏は、偶然による撹乱と方程式に従った実践、この二つの関係を「運命」と「因果応報の法則」という言葉を使って説明している。
「『運命』というものは決まっています。我々が望んで動かせるものではありません。一方、『運命』と同時並行で流れる『因果応報の法則』はそうではありません。この法則を使えば、決まっているはずの『運命』すらも変えられるのです。このことを『立命』といいます」
稲盛哲学。
単なる哲学的な思考を問うだけでなく、実業家として京セラ・KDDI設立、JAL再建を成し遂げた実績があり、非常に説得力をもって迫ってくる。
女子高生とのやりとりがあるのも、具体的な話しが入って分かりやすくさせている。
橘玲氏の本で正義論について学んだので、別の切り口から稲盛さんがどのように考えているのかを知りたくて読んだ。
稲盛氏の「人生・仕事の結果に関する方程式」
人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力
「方程式の中で最も重要なものが『考え方』である」
稲盛哲学は、アリストテレスの哲学に近いものとして整理されていて、橘玲氏の言うところの「共同体主義」に近い考え方である。
結論から言うと身も蓋もない感じだが、他に「自由至上主義」と「社会自由主義」と「功利主義」を挙げている。
<自由至上主義>
自由至上主義とは「市場に任せておけば、各人の努力は報われる」とする哲学。自由至上主義は、政府が余計なことをしなければ、一人ひとりはその努力に応じて評価されるので、結果として『正しい配分』が実現するとした(『配分的正義』)。
本来、自由至上主義の方程式は「社会のあるべき論」として提唱されたものであるが、ひとたび、仕事の結果が「熱意×能力」の積で決まるとなれば、優位にある者は「現在、劣位にある者は、皆能力や熱意が足りなかった」と主張し始めるかもしれない。
社会や人生には多くの偶然がある。不幸な人に対しそれは自業自得だ、と指摘しあう社会は住みにくい。
<社会自由主義>
社会自由主義とは、「市場に任せるだけでは、正義は実現しない」と主張。相反する二つの哲学だが、どちらも「『良き考え方』など、他人に押し付けてはならない」「よいか悪いかは各自が自由に決めること」という前提から出発している。
社会自由主義は、各自の持っている才能や資質も、結局「偶然の産物」として捉える。
そもそも、才能や資質を偶然の産物として捉えるからこそ、才能・資質の結果として生まれる所得や富を格差原理に基づいて共有することを求めるのである。当然、市場は、格差原理に従った共有等促すことはできない。それは政府にしかできない調整である。
社会自由主義の発想は、行き過ぎれば日常生活に不満を持つ人々が暴走することを許してしまう。
また、権限をもった政府、政治家、官僚の権限が大きくなればなるほど、権限者を腐らせていく。より大きな政府を求める社会自由主義は、常に腐敗問題に悩まされるのだ。
功利主義については、他の二つの伝統的社会哲学とは一線を画すものとして整理されている。
<功利主義>
功利主義は、近代を特徴付ける有力な社会哲学となった。幸福を大きくし、不幸を小さくすること、幸福の中身は各自が決めて良い、これが一人ひとりの生き方として、また社会のあり方として「倫理的に正しい」とした。
ジェレミ・ベンサムの「最大多数の最大幸福」という考え方。
功利主義は、「多数派の満足度が増すのであれば、少数派が不利益を被っても構わない」との冷たい論理を内有している。
加えて言うならば、全体の幸福(社会の厚生)を増やすことだけに重きを置き、「社会の中で、どのように幸福を配分するか」について何も語っていない。
<自由至上主義と社会自由主義(伝統的社会哲学)の共通点>
(理論的前提)1.社会を構成する単位をバラバラの独立した個人としていること。
2.ある特定の『考え方』をよいものとして推奨するのを避けていること。
3.各自の努力を数年間など比較的短い期間の中で清算・調整されるものと捉えていること。
伝統的社会哲学は、社会を構成するものが、様々な人間関係を捨象してしまった後に残る「抽象的な個人」「バラバラな独立自由な個人」であると解する。
西洋由来の社会哲学では、扱うべき社会は、そのままでは説明のつかない対象であった。そこで、観察対象の社会を細かく分割(divide)していった。これをとことん進めていった結果、これ以上は分けられない(in-divide)単位に行き着いた。それが「個人」(in-dividual)という最小単位だったわけだ。
これに対し、稲盛哲学では、人をバラバラな個として扱うことはない。誰にも影響をうけなく、独立自由な個体に還元してしまえば、人が負うべき責任や担うべき役割までが見えなくなってしまうからである。どうしても社会を分けて整理したいというのであれば(あっても)、その最小単位は「個人」ではなく、「関係の中にある人」あるいは「人と人の関係」でなければならない。
英語で言えば「individual」ではなく、他の人との関係の中にある「person」(人)でなければならない。もともと「person」という言葉には、様々な「顔」の集合、多様な「役割」の集合という意味が込められているからである。
伝統的社会主義では、個々人に還元可能な所得や富が重要なものとして取り上げられる。 しかし、「人と人の関係」を想定した場合、個人のレベルに還元されるものに加え、関係のレベルに還元されるものも重要となってくる。 関係レベルに還元されるものの中には「共同で所有する共有地」といった財産も含まれようが、中心はやはり人々の間で培われるもの(「関係財」)となる。 具体的には、相互間の信頼、賞賛、尊敬、さらには、それを背景として社会全体あるいはコミュニティ全体に生まれる治安の良さ、生活の充実感、人々の絆などである。
<稲盛哲学における「自由」>
中世という時代は、人々の関係、特に支配と服従の関係が各自の自由を束縛する時代だった。 この時代と訣別するため、伝統的社会哲学は様々なしがらみに縛られない独立自由な個人を想定した。なので『よき考え方をもって行動せよ』と唱える哲学はすぐに中世思想への回帰あるいは意志の自由な発露を否定するものとして警戒された。ドイツのイマヌエル・カントは、本当の自由とは欲望のままに生きることではない、とした。
本当の自由は、物理法則や欲望の鎖から、理性の力をもって自らを開放し、自身のやるべきことを自律的に決定し、行動することだとした。
稲盛氏がいう『自由』とは、まさにこのカント流の自由である。
稲盛氏の「自由」とは、物理的・生理的な法則に縛られないこと、身体に埋め込まれた欲求や本能に振り回されないこと、人間だけが持っている「理性」の力を発揮し、進むべき方向を自らの意思と責任で決めていくこと、である。これこそ本当の意味での自由であるとした。
自己利益に縛られ、本能のままに行動するようになれば、人は信頼関係作りを避けてしまう。信頼関係作りには必ずどこかの段階で自己犠牲が求められるからである。
<稲盛哲学とロールズの正義論の違い>
最大の違いは、正義の原理・原則を導きだそうとする人の『事前知識』の中にある。原理・原則を導きだそうとするひとのことを『構想者』という。その「構想者」が事前に持っている知識が「事前知識」。
稲盛哲学における構想者は「生活の糧は多いほど良いかもしれないが、他人との関係も考慮し、その取得・活用を考えるのが合理的である」といった「事前知識」を持つ。
これが、「自分の所得や富は多ければ多いほどよい、自分の権限は大きければ大きいほどよい」とするロールズの事前知識と異なる。
<稲盛哲学における「正義の原理」>
稲盛哲学における「正義の原理」は、おおよそ次の二つにまとめられる。大雑把ではあるが、「人と人の関係」「関係の中にある人」などを重視するものが正義を模索すれば、ここに行き着く。
(1)積極的行為に関する原理
(a)社会の上にいる人ほど、あるいは恩恵に浴している人ほど、社会に役立つ積極的行為に努めるべき
(b)結果の社会還元、取り分の自制等の積極的行為は、基本的に受益者側が権利として要求することではない
(2)消極的行為に関する原理
(a)社会の上にいる人ほど、あるいは利益を上げている企業ほど、違法・脱法などに走らぬよう、一層の注意を払うべき
(b)違法・脱法行為には、誰もが関与してはならない
現代社会の問題として、①所得の格差、②治安の悪化と地域社会の荒廃、③濫訴社会、という三つの問題に触れたが、関係重視の二つの原理が解決に資するとすれば、それは、少なくとも「配分的正義の問題」に関し、伝統的社会哲学を補うものとなり得るはずだ。
<偶然による撹乱>
偶然による撹乱で、『人生・仕事の結果に関する方程式』など成り立たない、と皆が考えるようになってしまう可能性がある。逆の危険性もあり、皆が「人生・仕事の結果に関する方程式」を妄信的に支持すれば、その場合も社会は豊かさを失う可能性を持っている。(偶然の撹乱により、不運に見舞われた時、誰もが「それは、あなたの考え方が悪いから」「自業自得」というような社会ではない)
自由至上主義が劣位にある者に対し冷たい社会をつくる可能性があると指摘したが、稲盛哲学の方程式も、使うものが使い方を誤ると、同じ過ちを犯してしまう。
稲盛哲学の方程式は、あくまでも、自らにあてはめ、将来に向かって進もうとする人が、自身の生き方を考えるために用いるもの。それが稲盛哲学の狙いとするところであり、人間として正しい『方程式』の使い方。
稲盛氏は、偶然による撹乱と方程式に従った実践、この二つの関係を「運命」と「因果応報の法則」という言葉を使って説明している。
「『運命』というものは決まっています。我々が望んで動かせるものではありません。一方、『運命』と同時並行で流れる『因果応報の法則』はそうではありません。この法則を使えば、決まっているはずの『運命』すらも変えられるのです。このことを『立命』といいます」
稲盛哲学。
単なる哲学的な思考を問うだけでなく、実業家として京セラ・KDDI設立、JAL再建を成し遂げた実績があり、非常に説得力をもって迫ってくる。
女子高生とのやりとりがあるのも、具体的な話しが入って分かりやすくさせている。
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