2016年8月17日水曜日

『クール 脳はなぜ「かっこいい」を買ってしまうのか』

「多様化」というのはリスクヘッジであるという認識でいたが、何故多様化が起こるのか、消費(コンシューマリズム)という観点と絡めて考察されている本。


<反逆者のクール>

シンボルやシグナルは一目瞭然の場合もあれば、一見わからない場合もあるが、価値観、アイデンティティ、願望、そして恐怖までも伝える。それらが我々のライフスタイルを築く。
人間はクールな製品を見た時、社会的な作業(ある立場に自分が置かれたことを想像する、他の人と直接交流するなど)を行ったときと同じように、脳が活性化することがわかった。
つまり、クールな製品は我々の社会的アイデンティティに影響を与えるものであり、クールな製品の経済的価値(の一部)は、社会的アイデンティティへの影響を脳が計算することにより生まれているということだ。

遺伝的に人間にもっとも近いチンパンジーと我々は、2つの本能を共通して持っている。
ひとつは”地位(ステータス)を求める本能”、もう一つが、下位に置かれると反射的に憤りをおぼえる”反逆の本能”である。
現代の消費はこれら二つの本能の上に成り立っている。

現在の消費者文化についての議論の多くは道徳的で、その多くが非難である。
その結果、我々の世界を形成する基本的な力についての理解は全く進んでいない。
ではなぜコンシューマリズムは未だによく分かっていないのだろうか。 それは、歴史的に経済の中心的な問題は、消費ではなく生産だったからだ。歴史上、ほぼ全ての人類がほぼ常に直面してきた問題は、生産をどう拡大するかだった。

地位を求める本能は、対抗意識、嫉妬、”上位”への羨望を生み、対抗意識(見栄)による消費につながる。
1950年代に、アメリカにおける消費は大きく変化した。クールという概念が、反抗の規範、”上位”との従来の地位システムの拒絶のしるしとして出現し、経済、社会、政治など様々な面から新たな文化を形成する中心的な役割を担った。
何より、クールは「反逆本能」に訴えかけて、新しい種類の消費ー反抗的消費ーの原動力となったのだ。我々はそのような消費を「反逆者のクール」と呼んでいる。

クールとは消費に背を向けることだと思いがちだが、反逆者のクールはコンシューマリズムにすんなり融合し、人種やジェンダーによる差別、既存の体制を維持するための制度などの障壁を破壊して、地位への新しい道筋〜従来の地位とは違った価値観の、新しいライフスタイル〜をつくりだした。
反抗としてのクールな消費が出現するとライフスタイルは多様化し、地位への道筋が増加して、1950年代の古い階層社会はそれまでの地位の概念とともに押し流され、次第に多元的で多様な文化にとって代わられた。
地位はゼロサム競争を戦って勝ち取る固定的資源だという凝り固まった考えは実は間違いであり、クールな消費の多様で非階層的な力によって新しい地位ができたのだ。
1990年代には、反逆者のクールが起こした社会的変化が、新たな種類の反抗的消費へと移行した。我々はそれを「ドットコム・クール」と呼んでいる。


<脳科学とクール>

脳には約800億個のニューロンがあり、これはシナプスと呼ばれる部位を通して互いに情報を伝えている。
脳には約100兆個のシナプスがあり、そのお陰で現在最速のスーパーコンピューターよりも強力な働きが出来る。しかも消費エネルギーはパソコンの約4万分の1。
しかし脳のエネルギー需要はとてもささやかとは言えない。脳の重さは体重の約2%だが、安静時代謝の20%を使う。言い換えると少なくとも1日300カロリーが脳を働かせる力となり、そのほとんどがシナプス間の連携に使われる。

現在のように文明が発達する以前はこれだけのエネルギーを得るのは簡単ではなく、この問題への進化上の対応の一つとして、血流が酸素とブドウ糖を運び、それにより脳を動かすようになった。そのため、思考すると血流が増加するのだが、脳全体ではなく、ある特定の思考を引き起こす小さな部位だけだ。 fMRIは基本的にそうした血流のわずかな変化を検知する装置だ。
血流そのものは思考ではない。思考はシナプスで行われている。しかし神経科学者は人のシナプスの活動を直接的に測定することはできない。
2000年前後にfMRIが一般的なテクノロジーとして登場する前は、MPFC(内側前頭前皮質)のことなどほぼ何もわからなかった。当時、MPFCは「ブロードマン(脳地図)10野」と呼ばれていた。

初期のfMRIの実験により、MPFCは空想、計画、黙想に関わっていることが示唆された。それらすべてに共通するのは、自分についてじっくり考えるということだ。あれこれ思いを巡らせているときMPFCが活性化するが、人は自分の過去の経験を思い出している。これらはあなたの記憶であり、自意識を規定するのに役立つ。
神経学者はこのような記憶をエピソード記憶と呼ぶ。これは一般的な事実に関する記憶(意味記憶)とは異なる。

クールな製品を見た時、MPFCが活性化したという事実は、クールが自意識に深く関わっていることを示唆している。
MPFCの二つの機能〜自分自身と他人について考えること〜は、別々の能力に思えるかもしれないが、実は絡み合っていて、消費の社会的側面を理解する上で重要な意味を持つ。
我々の自己概念は、決して自分だけでできたものではない。架空のホモ・エコノミクスは他人の影響を受けることはないが、本当の人間は人生最初の20年間で他人と交流して自意識を育て、交流を通じて自己概念を築くのだ。

社会的感情は、「自分に対する他人からの評価」と認識しているものに対する反応だと考えられる。ここでその評価は主観的なもの。つまり、他人からこう評価されていると自分が感じているものである。
MPFCは、自分に対する評価の認識の刻一刻の変化をずっと追い続けていると考えられている。
フランシス・エッジワースは「ヘドニメーター(幸福度計)」を生理的な快楽を測定できる装置と考えたが、脳の価値シグナルは、生理的ではない快楽を測定するヘドニメーターのようなものとも考えられる。
我々は「ソシオメーター」という考え方を提唱したい。
基本的な感情がヘドニメーターの値を決める一方、社会的感情がソシオメーターの値を決める。ソシオメーターは、社会的評価をあなたがどう認識しているかを記録するものだ。自らの社会的承認に対する認識を測定するものだと考えればいい。この”測定値”を我々はプライド、恥、決まりの悪さ、罪悪感などの社会的感情として経験する。

ソシオメーターの評価は主観的なものだと念を押しておく。なぜこれが重要なのかというと、経済価値も同じように主観的なものだからだ。
そして我々は、ソシオメーターが基本的な経済価値、いわば社会通貨(ソーシャルカレンシー)を負っていると考えている。
ソシオメーターが具体的にどのようなものかに関してMPFCに興味深い性質がある。
発達に時間がかかり、思春期の終わりまで続くという点だ。思春期になると子供達はどんどん友人達からの評価を気にするようになる。これは社会的な交流が増え、自己像が拡大するとともにさらに顕著になる。
MPFC自体は報酬中枢ではなく、自己関連の測定に関わっているものであるが、プラスの報酬中枢(線条体)、マイナスの報酬中枢(島)と結びついている。
この結びつきがプラスやマイナスの社会感情を生じさせる脳のネットワークに不可欠である。
ちなみに、我々は肯定より否定の意見を強烈に感じるので、否定的な意見にふれた時MPFCがより活性化し、自分や他人の心理状態を探る作業が始まる可能性が高い。

MPFCとプラスの報酬中枢である線条体、そして社会的評価との結びつきは驚くほど強い。
他人に敬意を払われているという意識があなたのソシオメーターに与える影響は、基本的報酬がヘドニメーターに与えるインパクトに近い。

人の脳にとって社会的承認は「通貨」の一種で、金銭報酬と同じく、基本的報酬の構造と大きく重なる経済価値の一形態だ。 自尊心(セルフエスティーム)はあくまで自己評価と思われるかもしれないが、自尊心と他者からの評価には密接なつながりがある。
製品が自尊心を高める力をもつことは、経済上の大きな変革だ。他の経済価値と同じように、製品の社会的価値は主観的なもので、多くの場合暗黙のうちの複雑な評価によって決まる。


<競争的利他主義>

我々は競争のための競争はしない。我々は協力するための競争をするのだ。
そこで消費の理論をこれまで見逃されてきた進化の力〜社会的選択〜の上に組み立て、何故それが従来の見解をひっくり返すことになるのか考えてみよう。

社会的選択についての進化理論では、人生の成功は社会的パートナーの質に左右される。 パートナーとの協力関係がもたらす強みを求めて、我々は他人との交流の中で、自らの社会的パートナーとしての価値を示すシグナルを送っている。歩き方、話し方、服装、髪型、言動、あえて言わないでいること〜それら全てが無意識のうちに送られる他人へのシグナルなのだ。
同時に我々の脳は常に他人から送られたシグナルを、その人の社会的価値に換算している。

人生で成功するには良い評判を築き、他人から社会的パートナーとしての価値を認めてもらうことが大切だ。我々が利他的であることを社会的パートナーを選ぶときの基準として使っているなら、一旦このプロセスが始まれば、利他的になる競争がどんどん進むと考えられる。これは競争的利他主義と呼ばれる。
つまり社会的選択では、いい人が勝つことがあるのだ。

贈り物のやり取りや友人のネットワークを調べたところ、協力的な人は協力的な人同士で友人になっていることがわかった。この”同族集団化”で協力的な人は互いに得をする。
非協力的な人も、非協力的な人同士で集団となっていた(おそらく協力的な人のネットワークから排除されるからだ)

<地位とコンシューマリズム>
心理学者のキャメロン・アンダーソンらは、地位と敬意が別物であることを示した。
たとえ低い地位を選んでも、敬意を払われることの重要性について尋ねると、やはり高いレベルの敬意を払われることを望む。
この地位と敬意の違いが、様々なレベルの自己のモチベーションの根底にあり、消費は地位だけではなく、敬意への欲求にも関わっているものなのである。
集団としての自己の意識が突出して高い時、我々は集団の集団的自尊心を高めるために、個人としての自己(地位)を犠牲にすることも多い。

地位の高い消費者が新しいものを取り入れると、地位の低い人々がそれをまねる。新しいものが地位の低い人々の間に広まってしまうと、地位が高い人はそれを放棄する。そして次の「模倣ー放棄」のサイクルが始まる。
コンシューマリズムを批判する人は、だいたい「イースタリンの逆説」を引き合いに出し、こうした消費サイクルは誰も幸せにしないと主張する。個人が自らの利益だけを追求すると皆が損をする囚人のジレンマと同じで、地位のジレンマは個人が地位を追求して真似をすると誰もが損をするという考え方から出発しているのだ。

しかし、こうした批判は残念ながら不完全だ。それは地位本能の裏面を無視しているからである。
チンパンジーの場合と同様に、地位本能は競争心をかき立て、抵抗する力が生まれる。
我々はそれを”反逆本能”と呼んでいる。
反逆本能は心の奥深くに根ざした、下位に甘んじることへの嫌悪だ。チンパンジーの世界では反逆本能によって、霊長類学者の言う”革命連合”が、さらには命がけの反抗が起きる。
同じように、狩猟採集民族における権力を巡る小競り合いから現代の革命まで、他者が自分達を服従させようとするとき、反逆本能が我々の怒り、不満、敵意に火をつける。それは心理学者の表現を借りると、支配層のエリートにたいする相対的剥奪感によるものだ。

消費批判派は、いまだに消費は階層社会での地位を巡るゼロサム競争であるという考え方に固執している。
しかし、人の反逆本能におけるある決定的な変化が社会の階層も変えた。
チンパンジーの地位本能は、自分の順序を既存の地位内で入れ替えるだけだ。しかし、人間の反逆心は現状を拒絶し、別の地位システムをつくるのである。
我々がサブカルチャーやカウンターカルチャーを生み出せるのは、地位を求める本能や反逆本能のおかげであり、それらが一緒になって「反抗的でクールな消費」の原動力が生じるのだ。


<多様化とクール>

限られた資源を巡る競争に対する進化の答えは、多様化によって競争を緩和することだった。
進化は基本的に”選択によって間引く”プロセスだと思われることが多いが、自然界には並外れた数の種と多様性が存在する。
選択圧力に対抗することは、同じくらい並外れた創造、多様化、種分化、放散のプロセスなのだ。

人間以外の動物は新しい生態的ニッチを手に入れようとするが、人間は新しい社会的ニッチ〜地位への道筋を増やすための、新しい地位システム〜を作り出すことができる
現状維持を望む層からの非難は、反逆者達の自尊心を高め、彼らの集団内での尊敬を集めることになる。
これらの力が階層的な社会構造を少しずつ多元的な構造に変革させ、多様なライフスタイルがどんどん増えていった。
この変化によって地位の道筋が増えたために、直接的な競争が減り、地位のジレンマも緩和した。
地位のジレンマの緩和と地位への道筋の増加が、過去30年ほどで世界中の幸福度が上昇している理由の一つではないかと我々は考えている。

こうして消費者文化の形が変わるにつれ、反逆者のクール自体が第2段階に入り、今の”知識経済(ナレッジエコノミー)”の中で体現されている。
1950年代に規範への抵抗としてクールが生まれた頃から現在のドットコム・クールにいたる期間は、工業化社会から情報化社会への変化も含め、社会の再編成と細分化の時代だったのだ。

人間の経済活動とは、限られた資源をめぐるダーウィン的な競争である、というイメージはダーウィンの考えの半分しか反映していない。
その半分とは「自然選択の原則」だ。残りの半分「分岐の原則」の発見のきっかけとなったある実験を紹介しよう。
これはロンドン北部のウーバン・アビーの庭園で行われた。1820年代、アビーの庭師長だったジョージ・シンクレアは、同じ広さの2つの区画にイネ科の草を植えた。片方には2種類の草、もう片方には20種類の草だ。
もし1種類の草がよく育つために(日光や栄養を争って)他が犠牲になるとすれば、20種類の草を植えた方が競争が厳しく、収穫量が減ると考えられた。
しかし20種類の草を植えた区画の収穫量は2種類しか植えなかった区画の約2倍だった。
この結果が、ダーウィンがのちに「分岐の法則」と呼ぶものの基礎となった。
20種類を植えた区画の収穫量が豊かになったのは、それぞれの種が成長のために異なる資源を必要としていたからだった。たがいに違った方向へ分岐することで競争を緩和したのだ。
つまり、「自然選択」によって適応できないものが排除される一方で、種は「分岐」によって互いに競わない方向へと進み、それぞれ違うものになって多様化するのだ
ダーウィンはこれを、自然界における分業だと推測した。
同じ資源をめぐって争うのではなく、種が〜突然変異を通じて自然に〜多様化している。ダーウィンはガラパゴス諸島で発見したこの仮説をのちに「分岐適応放散」と呼んだ。

分配の公正についての第一人者であるアメリカ人哲学者ロバート・ノージックが、とっても刺激的な説を提唱している。
ノージックは嫉妬について論じ、
「社会にはびこる自尊心の格差を避けるのに有効な方法は、いくつもの次元で共通の尺度で重みづけを行うのではなく、多様な次元と重みづけの尺度を持つことだ」
と述べている。
これを実現したものこそが、多様化した消費者社会なのではないか。

消費者のライフスタイルの急増には大きな意味がある。
つまり、「地位のジレンマ」に対する答えが、「地位集団の多様化」だったのだ。
消費者ミクロ文化が増加しても、ゼロサム競争が増加するわけではない。むしろ地位への道筋が増え、直接の競争が無くなる。これは、生物的多様性を高める自然界の適応放散と同じようなものだ。


<コンシューマリズムとサステナブルな社会>

複雑な社会を築きそこで生きるために、我々は2つの重要な能力を持っている。
第一は、社会規範を内部に取り込み、それに従って行動すると(生理的に)脳に報酬が与えられるということ。
第二は、環境や経済的現実が変わるのに応じて、集団的に規範を変えられるということだ。

「尊敬されたい」というインセンティブは、社会的利益につながっている。

消費に対する誤解と偏見のために見逃されているのが、コンシューマリズムの柔軟さ、つまり、新しい社会的規範を、尊敬(道徳的な尊敬を含め)を得るための決定的な要素となるよう、変化ささえる能力だ。

よりサステナブルな消費規範と地位を結びつけることは、消費行動を変える強力な方法になる可能性がある。我々はまた、このような規範によって、消費と生産のつながりをより強くするべきだとも考えている。

消費行動を変えるためのもっと効果的な方法は、社会的利益をもたらす消費パターンを、地位と連動させることだ。そうすれば競争的利他主義が生まれる。
言い換えると、消費をもっと早く変えるには、ただ消費を減らすことを目指すのではなく、たとえば資源を枯渇させないサステナブルな生産技術に基づくような新しい消費行動に高い地位が与えられれば良いのだ。




”多様化”が、いざという時絶滅しないためのリスクヘッジの意味の他、”格差緩和”の意味合いがあるということが消費(コンシューマリズム)における「クールな消費」という概念と合わせてよく理解できた。
中世に比べて現代は物質的に豊かになり、格差が拡大している。
これは「平等」を求める本能からすると許されざるほど拡大しており、そのためエリート層も革命等社会不安要因のヘッジとして多様化を認めて推進しているという構図なのであろう。

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