2014年12月21日日曜日

『恋愛論』

『すべてはモテるためである』というお気に入りの本の著者二村ヒトシさん(アダルトビデオ監督)が「今読む恋愛書は、橋本治氏の『恋愛論』だ」と言っているのをとある人のFBで見つけて、興味を持って読んでみた。

<恋愛とは>

◯恋愛っていうのは、いわゆる”愛”っていうのとは違う。もっとエゴイスティックで駆け引き―つまり戦いみたいなもんなんですね。
恋愛っていうのは、自分で勝ち取るもんだし、その勝ち取るプロセスの中で自ずから意味が生まれ発見があり、そしてそのことによって自分が変わっていき、そして更にすごいことがあるんだとしたら、そのことによって相手である他人も変わっていくことがあるっていう、そういうことですね。
そういうところで恋愛っていうものは非常に個人的なものであるっていうことがなんか知らないけれど、最近はすっごく忘れられているっている、そんな気がします。
☞「恋愛」っていうのは自分も変わるし、そのプロセスにおいて相手も変えてしまう、相対性原理が働くモノだという指摘。

◯もう一つ、恋愛っていうのはなんかボウバクとしてて分かりにくい部分ていうのがあるんだと思うんですけども、恋愛っていうものは多分、僕にいわせれば、それは光のようなものであろうと。
それが何を照らし出す光かっていうことはとりあえずおいといて、それが光であるんなら光を光りたらしめるように、そこには当然”闇”というものがある。
恋愛というものは輝きの中に入ることによってその中で、それを必要とする自分を包む”闇”というものを発見するものなんだっていうことを押さえておかないとどうしようもない、無意味なものになってしまうっていうことなんですね。
もうちょっと突っ込んだことを言ってしまえば、人が恋愛をする、恋に落ちるっていうものは、そこで初めて、自分をとり囲む”暗黒”というものがある、そういうものがズーッと自分を取り巻いてきたんだっていうことを知ることなんですね。
この世には、結婚というものはあって、そのことはとっても確固として存在していて、それのお余り、そこに行く途中のお目こぼしとして”それを恋愛として享受する自由”とか”楽しい交際”っていうものがあるっていうことですよね。つまり、この世には恋愛というものが存在する余地、恋愛というものを受け入れる余地っていうものはないんですね。このことをしっかりと頭に叩きこんどいた方がいいと思いますね。
☞恋愛が”光の中に入る行為”だとすると、その行為により、今まで自分の周りに(実は)存在した”闇”を認識する行為であるということ。


<恋愛に必要なもの。それは”陶酔能力”>

◯恋愛に必要なものっていうのは、実は”陶酔能力”なんですね。
◯恋愛が往々にして一方的で、相手に関する勘違いで成立してるっていうのもここなんですけど、自分のしているガードで苦しくなっちゃった人間ていうのは、”ガードをしなくてすむ相手”っていうのを、うっかりと発見しちゃうのねー発明って言った方がいいのかもしれないけれど。
◯この世の中にははっきり言って、ドラマの分かる人とドラマの分からない人との二種類しかいない。そして、困ったことに、普通はドラマが分からない人のことを真面目な人っていうのね。
◯感動するっていうのはとっても不安なことだからなのね。感動っていうのはいってみれば、人間が平気で無防備状態をさらけ出しちゃうことだからね。
◯結局そういう人っていうのは、感動というよく考えたら何だか分けのわからないものを、自分一人で持ちこたえておくことがつらいのね。つらいから手放しちゃう。何遍感動しても、全然そのことで成長しない人っているでしょう? もうお分かりかもしれませんが、実はこういう人たちのことを、私なんかは「陶酔能力が無い」っていうんですね。
◯陶酔能力っていうのはやっぱり、それを一人で持ちこたえられるかどうかっていうところがすごく大きいと思うのね。前に「恋愛するっていうことは、実は感性的な成熟ってものが必要なんだ」ってことは言ったけど、感性が成熟したればこそ、感動とか陶酔とかっていう、言ってみれば社会的には自分をあやうくしちゃうものを自分の内部で持ちこたえることができるんだよね。
☞恋愛には、”陶酔能力”≒”感性的な成熟”≒”社会的には自分をあやうくしちゃうものを自分の内部でもちこたえることのできる力”が必要。


<関係が煮詰まった時に>

恋愛っていうのはしみじみしてて気持ちがいいっていう快感と、それと同時にドはずれて激しく燃え上がりたいっていう矛盾した両面をもっていて、人間ていうのはゼータクだから、その両方を満足させられないといやなのね。前に結婚の話で見合い結婚と恋愛結婚の二種類あるって話はしたけれども、恋愛っていうものの中には、実にこの二種類が入り交じっているのね。
◯人間がゼータクなものでっていうよりも、人間ていうものはやっぱりそういうものだって思った方がいいんだろうと思うんだけど、関係って、煮詰まったら終わりなんだよね。いくら見合いして誠実に自分たちの関係ってものを作り上げてきたとして、それが暗礁に乗り上げちゃうこともある。まぁ、現代っていうのはそういうことがアカラサマになってきちゃった時代だからこういうことだって重要になるんだとは思うんだけど、人間ていうものはサ、一遍関係っていうものが煮詰まってきちゃったら、「一体この関係っていうものは自分にとってどういう意味があるもんであろうか?」って考えちゃうものなのね。考えて、それで分からなくなったら、今までそういう関係を自分と続けてきたパートナーという人に訊いてみるのね。 勿論そんなこといきなりしたって、訊かれた相手には何のことだか分からないから「?」っていう答えしか返ってこない。〜これで関係というものは往々にして御破算になるものなんですね。
「私は何か意味があると思ってこの関係を続けてきたけれども、しかしその関係を続けてきたこの相手という人はそんなこと何にも考えてなかったんだ。道理で自分のやってることが空回りすると思った」とかね。
人間が恋をするんだとしたら、実はこんな時ですね。恋の仕方が分からない「多分みんな楽しいことをやっているんだろうなぁ…、いいなぁ、自分もやってみたいなァ…」だけでやってきた人でもこういう時はホントに恋をする。
前に「恋をするのには感性的な成熟が必要だ」って言ったけど、その感性的な成熟が正にここに訪れちゃうのね。
◯なんだか訳の分からないことを言っているみたいだけど、関係が煮詰まるっていうのは別に倦怠期の夫婦のことだけじゃないのね。恋をするって言ったらこれが一番大きな”思春期”っていうのが、実に正に、それまでの関係が煮詰まっちゃった時なのね。この煮詰まっちゃう時期が”思春期”って呼ばれる時期で、今まで”子供”として伸び伸びと生きてられた小さな世界が、急に自分が膨れ上がっちゃったもんだから窮屈になっちゃう。一切の関係がヒシヒシと煮詰まって来て、それで周囲との衝突ってことになるのね。
この、煮詰まった結果に暗礁に乗り上げちゃう関係の最大のものを親子関係っていうんだけどサ。子供はもう大きくなっちゃって、今まで”子供”として扱われて来た、その扱いにもう満足できないのね。自分自身、自分がもうその関係からはみ出しちゃってるってことを知るのね。もうひとりぼっちだから寂しくってしょうがない。―それで自分と関係をもってくれそうな他人というのを一生懸命になって探すのね。これが恋心ですね。感性的な成熟だの陶酔能力だの、今まで訳の分からないことばかり言って来たけれどもサ、要はサ、人間が成長して”今まで”っていう枠をはみ出しちゃうような、自分自身の深みっていうものを持っちゃうことだよね。
◯普通、学校で教える”成長”ってことにはサ、陶酔能力なんていうような一種いかがわしいものは入ってないから勘違いするんだけどサ、自分の内部が深まっちゃったら、そのことだってつかまえておきたいしサ、そのことを他人との間でも確認しておきたいっていうだけなのね。でもサ、こういう種類の成長っていうのはサ、全く内部的なもんでしょ?外からは決して見えないし、下手すりゃ当人だって訳が分からないから、うっかりないことになっちゃうっていうような、ね?だから突然、結婚して20年もたったオバサンが「私ってなんだろう?」「何だかとっても虚しい」っていうことになっちゃうのね。
思春期なんていう年頃を通り越して二十年以上も経ってから、この人達には感性的な成熟とか、陶酔能力が備わって来て、遂に今までの関係じゃ収まりきれないっていうとこにいっちゃったのね。その人間がそのように存在しているっていう事実の前には、”常識”なんていうものは簡単に吹っ飛んじゃうけどサ、今や、五十を過ぎると思春期がやってくるなんていう、とんでもないことが起こりつつあるのね。
☞関係が煮詰まっちゃった時こそ、「感動できる感性的な成熟」や「陶酔能力」が身に付くとき。タックマンモデルのチームビルディングにおける「葛藤期」と同じだ。葛藤期間はつらいけど経験していないと後で響いてくる。


<男と女>

◯なんだかんだ言っても、結局男は恋愛ってことになると女を(☞社会的ではなく)個人的なところに追っ払っちゃう。それが今の女の人の最大の不満だと思うよ。
男って、女の問題は女の問題のまんまにしておいて「それと自分とは違う」っていう前提ができてからじゃないと、これはもうゼーッタイに分かろうとはしない。
男はね、他人の問題なら分かろうとするの。でもね、その他人の問題をね、自分の問題として分かるっていう、そいういう分かり方ができないの。
男っていうのはサ、やっぱり威張ってたんだ。男であるっていうことは特別であるっていう、その中でふんぞり返ってたのよ。”男”っていう存在は勿論特別なんだよ。何に比べて特別なのかって言えば、それは勿論”女”に比べてってことだけどね。その為に男は女ってものを存在させ続けてきたんだからね。
女がいる限り、男って言うのは特別の位置に立てるんだ。だから、今じゃちょっと気のきいた男ならみんな、女のことを分かってやろうかと思ってる。思ってるけど、でもそれは「自分が特別の立場にいるから分かってやれるんだ」っていう錯覚の上に乗っかってる。
◯「分かれる」なんていう錯覚にのっかって耳を傾けてしばらくした途端、まともな人間ならとんでもないことが分かる。それが何かっていうと「こりゃいけね、こいつもおんなじ人間だ」っていうこと。 今の男は、別に相手が女だからっていう理由だけで、もう女を見下したりはしないのね。その点は確かに進歩したと思う。でも進歩したのはそこだけで、そうなった以上当然こうなるっていうもう一つの部分をそのまんまにしているのね。女を見下せなくなった以上、もう男ってのは”特別な存在”じゃないんだよ。”下”がないんだから、自分だってもう”上”にはいられない〜ね?、そんなこと当たり前でしょ?でもそれが分からないのね。分からないからとんでもないことをする。他人を見下さないまんま、と同時に、自分が特別な存在でもあろうとする。
だから、他人事としてならいくらでも他人の問題は分かる。でも今やそんなことは分かった内には入らないってことは常識になっちゃったわけだけだけどね。他人の問題を分かるっていうことは、その他人の問題の中に自分の問題を発見することだっていうのが、今や常識になった訳でしょ。僕なんかなんでもそうやってでしか分かれないからサ、「あぁ、よかったなァ」って思ってるけどサ、でもね、そんなのって普通、男はやんないんだよね。 男のやることって”分かってあげる”なんだよね。分かる能力がある、分かるだけの慈悲深さがある〜そういう前提があって初めて”分かってあげる”っていう方面に身を乗り出して来るのが”男”っていう訳でしょ?ここには、分かれる力はないけども、でも一生懸命分かってあげようとする、人間の努力っていうのはない訳ね。
◯力のある人間は分かれる、力の無い人間は分かっちゃいけない〜分かろうとすると「うるさい、お前なんかに分かるもんか!」って言われてはじき飛ばされるていうのが、実は今までの男の世界の世界観なのね。だから、特別の立場にある人だけしか、”分かる”ってことをしちゃいけない〜「女子供は黙ってろ!」っていうのがこれだよね。だから、この”特別”っていう立場をなくしたらなんにも分かれない。自分の分かれる範囲だけを撫で回して、それで分かったっていうことにする。そんなもん分かった内になんか全然入んないんだけどサ。
◯男っていうのはそういう得体のしれない、”他人のモノサシ”っていうのに合わせることにキューキューとしててサ、疲れちゃってるのね。言い古された言い方をすればサ、男は男であることによって自分の内部をガラン洞にしちゃってんのね。だからその分それで女を求めるのね。男が社会的で女が個人的であるっていうのはこんなとこだね。もっとも、この”男が社会的で女が個人的”っていう考え方も、元は男のガラン洞さを前提にして出来上がっている考え方だからサ、こういう言われ方しただけで女の人がコチーンとくることぐらいは知っているんだ。
女っていうのがなんで男を求めるのかって言えば、それは必ず社会的な力がほしいからでしょ?男な女に個人的なものを求めるけどサ、女って違うよね。女は男に社会的なものを求めるよね。どんなに女が一人で頑張っても最終的に不安であるっていうのは、結局のところ、男に「私ってこれでいいよのよね、そうでしょ?」ってことの答えを言ってもらいたいからだもんね。社会的っていうのは経済力っていうことじゃない、「最終的にはOKである」っていう保証があるっていうことだもんね。男は女に「あなたは大丈夫よ」って保証をされると、「そうか」と思って力が湧いてくる。湧いてくるけれども、しかしそれで一向に彼自身はどうともなんない〜相変わらず無気力無能力のまんまということはザラにある話だけど、これは男が女に何をどういう方面で保証されたがっているのかってことを考えればすぐ分かるのね。男は常に、内面の保証を求めている。それが内面だから、いくら「大丈夫よ」っていう保証をしても、男というのは外部的な力というのを発揮できない。
緊張感というものを超えて自由にしていられる〜ただし決定的なところで社会参加という名の基本的人権は奪われている、っていうのが昔の女のあり方だったの。
「女のクセに!」っていう悪口が生きていたのは、そういう背景があってのこと。
「女には緊張感が獲得出来る筈が無い!」っていう蔑視と、「女に緊張感獲得されちゃったら俺たちどうすんだよ?俺たちの社会が壊れちゃう」っていう、男の甘えと不安感が、「女のクセに!」っていう締め出しを作ってたのね。
◯それがやだからって、真面目な女の人は緊張感を獲得するのね。緊張感を獲得して社会に入ってくと同時にサ、自分が持ってた〜本来なら女という自分が持ってて当然の”緊張感を超越していられる自由”っていうものを女は失ってくんだよ。そんで、それと同時に、緊張するものと緊張しないものとで出来上がっていた世の中っていうのを、そうすることでぶっ壊して行ったんだよ。だから、女の人って、あと一歩ってところで、足を踏み出さないのね。もう後戻りの出来ない自分と、それから、あと一歩足を踏み出したら完全に自分のいる社会をぶっ壊しちゃうっていう、そういう恐怖との間でニッチもサッチも行かなくなっちゃってるのね。
俺、ここ何年かの間、世の中ってものが停滞してた理由っていうのは、女の人が臆病だったからだって、そう思ってるよ。まだ自信が無いからって、それで足踏みしてたのかもしれないけど。どうしてその緊張感を突破しないんだろうと、思うの。ちゃんと世の中には、「緊張感を超えることが全ての物事の根本でしょう」ってアッケラカンと信じてる男っていうのがいるっていうのにサ。
☞男は社会的で女は個人的。それでいてお互いに無いものを求め合う。
「男ってサ…」の内容はあえてコメントできない位バッサリ斬り捨てられてます。内のカミさんが読んだら大きく頷きそうな無いようです。ハイ。


<恋愛の成立条件>

◯恋をする、恋が成立するっていうことで非常に重要な条件ていうのがあってサ、それは何かっていうと、お互いに矛盾してる二つのことなのね。
一つは”その二人が似ている”ってこと。もう一つは”その二人が正反対だ”っていうこと。 違うから惹かれる、同じだから分かる〜言ってみれば簡単なことだけど、これはホントに重要。重要で、そして結構忘れられてることね。恋愛が破局に至るっていうのは、もう必ず、このどちらか一方の条件が成り立たなくなっている時なんだから。
「違う」と思えば「一緒にやって行きたい」って思うし、「同じ」って思えば「一緒にやってける」ってことになるのね。人間っていうのは、こういう複雑なことを瞬時にやってのけられるように出来てるものなんですよ。
この“同じ”と”違う”が等量にあるっていうことはスッゴク重要だね。
◯同士結合夫婦っていうのは、二人一緒であることによって外界との一線を確保するっていうことになってるからサ、夫婦であることが自らの砦なのね。 だから俺、「なんて排他的で冷たいんだ」ってことをうっかり見ちゃうんだけど、夫婦であることがそもそも”連合赤軍”なんだよね。
こういう夫婦ってサ、”そもそも自分達は現実と相容れないものである”ってとこで結びついている夫婦だからね、決して”二人は似てる”ってとこから離れないの。離れたら”同士”じゃなくなっちゃうから、こりゃもう絶対離れないの。相手の持っている”違う”っていう部分の存在を許さないのね。
恋っていうのはサ”同じ”と”違う”が等量に存在することから始まるで言えばサ、こういう夫婦は永遠に恋愛を始めない夫婦なのね。
彼らは「自分達は恋愛という得体の知れないものがこわい」っていうところで夫婦始めちゃったからサ、その恋愛を成立させる”違う”が認められないの。
恋愛なんてものはサ、一遍お互いがバラバラに解体されるとこから始まっちゃうっていうこわいとこを持ってるもんだからサ、お互いの”違い”っていうのはすごく重要なの。「あの人と自分はこれだけ違ってて嬉しい!」というのが恋する喜びだったりはすんだけどサ、でもそういうことって絶対に分かんないのね。
恋愛ってものは、”成長”ってことと非常に大きな関わりを持っててね、「同じであるってことによって嬉しい”!」っていう、そのことを足掛かりにして”違う自分”を作っていくっていう、そういうことだってあるんだよね。
☞恋愛の成立条件、それは”違う”と”同じ”が等量にあること。バランスが崩れたとき、恋愛は終了する。そして、恋愛をすることは”成長”と非常に大きな関わりがある。



<恋愛の光と闇>

◯はっきり言って恋愛ってのは”口実”で出来上がってんのね。いかに自然でうまい口実を作れるかって、その一点で恋愛の成否は決定すると言っても過言ではないね。
もうお忘れかもしれませんけども、恋愛っていうのは、この世にはないものなんだもん。「ありたい」っていう願望だけはあっても、恋愛っていうのはそもそも現実には成立しがたい、非現実の領域にあるもんなんだもん。ないもんを存在させるのが恋愛なんだから、恋愛を成立させるものは、口実に結集されるような知恵ですよ。
激しい恋に落ちるっていうのは、それは、恋人同士が二人揃って、現実からスッパリと切り離されるっていうことなんだもの。 恋愛っていうのは、そうしたラジカルなものをうっかりと生み出しちゃうっていう、その一点で現実からは嫌われるんだから。
人間っていうのはね、恋に落ちたら、その瞬間に、周囲からは切り離されるものなのね。 恋に落ちたら、その瞬間、その人間の周りは暗黒に包まれる〜御当人達は光の中にいるもんだからそんなこと気がつきゃしないけれども、それは、分かる人間には分かる。「あ、そうなの。あなたがこことは別の世界の人間と、そんなにも激しい恋に落ちなければ行けない理由っていうのが、私たちのいるこの世界にはあるっていう訳?」っていう、そういう感情が、自分の親しい人間に恋に落ちられてしまった人間の”怒り”に近いような感情の正体なのね
◯つまり恋愛というのは周囲を遮断することによって、自動的に周囲を敵に回すっていう危険なものであるから、恋愛っていうものの存在は嫌われるの。 だから、それが結婚に結びつくようなものであるのが明らかである時は、「あぁ、何の危険も無い」って言って祝福されるの。
◯(外国映画とファッション雑誌のグラビアの中にしか無かった)非現実が非現実であることを教えられないまんま存在しちゃったんだからサ、こりゃもう悲劇だよ。やってる方は暇と手間かけて、非現実を演じぬかなきゃいけないんだもん。そんな力、若いヤツにはないんだけどね。
その先は言わないでおきますけれども、現実を無視した人間ていうのは、必ず現実に復讐されるの。それはもう、人間社会の鉄則みたいなもの。
☞祝福される恋愛と祝福されない恋愛について、非常に分かりやすい。そもそも恋愛とは祝されない(嫌われる)もので、結婚に結びつくことが明らかの場合にのみ祝福される。。

<天使と人間>

恋愛ってのは、結局、他人という鏡を通して自分をこっそり見ちゃうという、その一点で恐ろしいもんであります
◯男って、恋をすると天使になっちゃうんだよね。だからその分、セックスをする時にはケダモノになっちゃうのかもしれないけど。
女って、恋をすると人間になるでしょう。でも、男って恋をすると天使になっちゃうんだと思うの。だから、現実から切り離されて手も足も出なくなっちゃって、恋をすると男って、ジタバタするんだと思うの。
天使ってやっぱり、人間じゃないから「好き」って言葉、持ってないんだよね。なんか、存在そのものがそういうものになっているらしい。
天使って、やっぱり人間になりたくないみたい。だから平気で、人間を連れてっちゃう。どこに連れてかれるのかっていうと、すっこいロマンチックな表現をとれば、 ”夢の波打ち際”ね。そこに行くと「好き」って言葉がゴロゴロ転がってるの。なるほど、現実にはない筈だって、僕は思うの。 天使が人間になりたがってんの。そんで、天使って、人間になるのを、スッゴクこわがってんの。
天使は人間との付き合い方なんて知らないもん。男が人間と付き合うんだったら、自分が天使であるその部分、切って捨てなきゃいけないんだもん。「男を捕まえたはいいけど、なんか、知らない間に、金が銅に変わっちゃってるような気がする」っていうのは、これだよ。天使の部分殺しちゃったら、そうなるんだよ。そんで、天使の部分を許したら、男はフラフラっと、どっかに行っちゃうんだよ。
大体、女は天使との付き合い方なんて知らないし、そんなこと知ってんのは、まぁ、俺ぐらいのもんなんだろうけど、もう、それはしょうがないんだよ。 人間であることを切り離されちゃった天使は人間に憧れるし、不自由である人間は、人間であることを超えている天使に憧れるの。男と女の基本的関係はこれなの。だから、うまく行かないの。お互いがお互いのこと知らないんだから。
☞女は男を天使のままにしておくべきか否か。なんてことを考えながら女は男と付き合っている訳ではないので、やっぱりうまく行かないということか。お互いがお互いのことを知らないのだから。
恋愛が著者の言う通り戦いだとしたら、敵を知り、己を知れば、百戦して危うからずといった孫子の教えが身にしみる。。

というような恋愛論が橋本治氏の初恋(相手は男の子)やその後の恋愛を通じて語られる。上記を読むと恋愛理論っぽいが、そういう部分だけをピックアップしたからで、全体的にはむしろ物語風(そして講演がベースなので講演風)に展開される。
橋本氏は今で言うLGBTの走りで、男も超越しちゃっている分、どこか自らも含めて客観的に周囲が見えている感じだ。
有吉佐和子女史との話などの短編も入っている。


最後に。
今回、口語調で書かれた文書がこんなにもまとめにくいものかと思い知らされた。
どこに肝心な部分が潜んでいるのか分かったもんじゃない。
講演を聴きながらだと、その中からポイントとなる部分をメモするのは普通やるのだけれど、普通読み物(文書)になっているものって、それが既にある程度まとまっているものだったりする。
今回は実際の橋本治氏の講演をベースとしているので、口語調で書かれているから、何やら仕事でテープ起こししているんじゃないかと錯覚するくらいの手間がかかった。
たかが「恋愛論」(全く仕事とは関係なし!)にここまで時間をかけるのか?ってのが頭の中を行ったり来たりしながら、最後は意地でやっていた感じ。
でもお陰で橋本治の奥の深さが感じられたかも。

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