2017年5月4日木曜日

『乱読のセレンディピティ』

「知の巨人」外山滋比古氏の著作。
外山滋比古氏といえば『思考の整理学』が有名で、いまだに東大生・京大生にも読まれているらしい。

「読み方」に関する氏のエッセーのような本である。

いくつか気になったところをピックアップする。

<教養>

哲学者西田幾多郎が、若い学者からの 「論文の優れている人と、講演の優れている人と、どちらが本当に優れているのでしょうか」という意味の問いに答えて
「それは、うまい講演のできる人」と答えたというエピソードが伝わっているが、文字信仰の人たちだけでなく、広く一般の人をも驚かせた。

読書がいけないのではない、読書、大いに結構だが、生きる力に結びつかなくてはいけない。新しい文化を創り出す志を失った教養では、不毛である。


教養は必要だが、それ自体だけでは意味がない。教養を得たその先こそが重要なのだ、と今更ながらに思う。


<アルファー読みとベーター読み>

読み方には二種類ある。
一つは内容について、読む側があらかじめ知識を持っている時の読み方である。これをアルファー読みと呼ぶことにする。
もう一つは、内容、意味がわからない文章の読み方で、これをベーター読みと呼ぶことにする。全ての読みはこの二つのどちらかになる。
アルファー読みは基本的な読み方ではあるが、これだけではモノが読めるようになったとは言えない。どうしてもベーター読みができるようにならないといけない。その読みを教えることが至難で、これまで、どこの国でも成功しているところはないと言って良い。
日本の学校は早々と、ベーター読みを諦めた。その代わりに、アルファー読みでもベーター読みでもわかる、物語、文学作品を読ませた。物語や文学作品は、あるファー読みからベーター読みへ移る橋掛かりのような役を果たしていて便利なのである。
それで、学校の読み方教育は、著しく文学的になって、日本人の知性を歪めることになった。
国語の教育は、文学作品が、アルファーからベーターへの移行に有効であるということも知らず、作り話ばかり教えてきたのである。
文学的読み方では、新聞の社説すら読めない。高度の読み、ベーター読みを学校で学ぶことはできないが、学校自体、そのことをよく考えない。

ずっと昔の人はこの点で賢かった。
アルファー読みから入ったのでは、いつまでたってもベーター読みができない、ということを察知していたのかどうかはわからないが、アルファー読みから始めるのを避けて、はじめからベーター読みをさせた。
5,6歳の幼い子に、
巧言令色鮮なし仁
などという漢文を読ませたのである。
泳ぎのできない子供をいきなり海へ放り出すようなもので、乱暴極まりないと今の人は思うだろうが、かつてのベーター読みのできる人の比率は現代をはるかに上回っていたと思われる。
ヨーロッパではラテン語によって、ベーター読みを教えた。東西、軌を一にするところが面白い。


氏によるとベーター読みを訓練するのは新聞を読むことなのだそうだ。
今巷に流行っている”速読”が可能なのもあくまで「アルファー読み」の範疇でだ。ベーター読みについては、最初は眺める程度で飛ばしたとしても、それこそ精読も合わせて3回程度は読み込まないといけないはずだ。(と速読のできない自分は考えている)


<乱読とセレンディピティ>

一般に乱読は速読である。それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。
ゆっくり読んだのでは取り逃がすものを、風にように早く読むものが、案外、得るところが大きいということもあろう。乱読の効用である。
本の数が少なく、貴重で手に入りにくかった時代に、精読が称揚されるのは自然で妥当である。しかし、今は違う。本は溢れるように多いのに、読む時間が少ない。そういう状況においてこそ、乱読の価値を見出さなくてはならない。
本が読まれなくなった、本離れが進んでいると言われる近年、乱読の良さに気づくこと自体が、セレンディピティであると言っても良い。 積極的な乱読は、従来の読書では稀にしか見られなかったセレンディピティがかなり多く起こるのではないか。


情報過多時代になり、「アイデアを持っている者がアドバンテージを持つ時代は過ぎ去り、(どのアイデアがいいかを取捨選択して)実行した者がアドバンテージを持つ時代に入っている」というのが持論だが、”読書”という知識を得るための行為についても情報過多時代に入って意義が変わってきたのだと気付かされた。
ただ、乱読だけでは結局、”核”となるものができないので、そこには”精読”であり”熟慮”のようなものが必要となってくると思う。逆説的だが、”核”となるものを持った専門家に向けては「乱読のススメ」は機能するが、氏の言うベーター読みができないかもしれないレベルの読者に対しても「乱読」を勧めるのでいいのかどうかが疑問だ。
ただ、氏のこう言う著作を読む「読者」層を考えれば、適切なアドバイスということなのかもしれない。
ちなみに、氏はこの本の中でも『読者の存在』という内容を1章あげて、
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細かいところはとにかく、読者が作品にとって、決定的に重要性を持つとする思考はいずれ承認されなくてはならないと考える。日本だけの問題ではなく、広く世界の文学についてもそう考えられる時代がいずれやってくる。そう信じている。
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と述べている。
マーケティングにおける”ターゲット”論と似ている。誰に向けているのかの設定がなければ、その内容は全く評価すらできない。
そう考えるとあらゆる文学、文章、発信物は読まれるであろう対象(いわゆる”読者”)が想定されて書かれているはずだという意見は全くもってその通りと思う。


<エディターシップ>

ある朝、トイレで用を足していて、突如、編集は料理に似た加工であるというアイディアがひらめいた。
料理に使う素材は料理人が作るのではない。材料を調理して食べ物にするのである。執筆者の書いた原稿をうまく組み合わせて面白い誌面にする編集と通じるところがある、そう考えた。
それをきっかけにして、エディターシップの概念を作り上げた。第二次創造論である。
第一次創造は、素材を作る。しかし、それだけでは読者の欲する読み物にならないことが多い。そこで、第二創造の出番がある。適当な加工を加えると、第一次創造になかった価値が生まれる。


その昔、仕事の中で上司が「今年のテーマは”編集”だ!」と言っていたことがある。
先進的な取り組みをする人で、当時やっていたマンションの商品企画の仕事からすると、最初は何を言っているのか半分「?」という感じであった。
今考えると、当時コモディティ化が進みつつあったマンションという商品について、新たな素材・新規格を生み出して付加価値を見出すフェーズ(第一次創造)から、”編集”により顧客のニーズに応えるフェーズ(第二次創造)に変えていくんだ、ということを言っていたのかもしれないと思う。
(その時には半分も理解できず。。先駆者は常に後追いで理解されるということで。)


<第五人称>

舞台上の世界を第一人称から第三人称のコンテクストと考えれば、客席はその局外の第四人称であることになる。
演劇を第一人称、第二人称、第三人称だけで説明することはできない。観客のない芝居は芝居でないとすれば、舞台の外に第四人称を考える必要がある。
さらに、その外に、時間の加わる第五人称も存在すると考える。
古典を作り上げるのは、作者自らではなく第五人称である。第五人称は第四人称と違って同時的存在ではない。この第五人称を認めないと、古典の生まれる事情を理解することができない。

その昔、エスノグラフィではないが、ワークショップを見ている関係者を客観的に見るという手法があって、非常に面白いと思ったことがあった。
演劇についても、舞台上の第三者(でも演じている人で、演劇の世界としては変化に巻き込まれる人)と本当の第三者(観客)は異なるという整理。
さらに時間軸があるという発想には恐れ入った。
「次元が6次元まではあることが分かっている」という話を聞いて、
「4次元は”時間軸”ということでなんとなく理解できるけど、なんで(7次元とかではなく)6次元なんだろう?」ということを思ったことを思い出した。


読みやすい割には、考えさせられることが多い本であった。

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