2018年1月2日火曜日

今年の抱負

昨年の抱負は「貫」としていたが、果たして貫き続けることができたか。
昨年卜をしてもらったところ、「水雷屯(すいらいちゅ ん)」という卦が続けて出て、これは「生みの苦しみに耐え忍ぶ時」という、現状としては正直あまりよくない卦のようだ。
「早春に厚く積もった雪(水)の下から若芽(雷)が必死に出ようとしているが、雪の重圧にさえぎられて立ち往生している姿」
ということで、まさに昨年の状況を表していた感じだ。
貫くことを目指すも、厚い岩盤に抑え込まれてもがき続けた1年であったように思う。

今年も貫くことを諦めた訳ではないので、「生みの苦しみに耐え忍ぶ時」であればそれを甘んじて受け入れ耐え忍ぼうということで、今年の抱負は

「忍」

としたい。

これにあやかって忍者の研究でも始めようかな。



2017年11月19日日曜日

『間接材購買戦略』

ディーコープ社長、谷口健太郎氏の著作。ITを駆使した「リバースオークション」を業務としているディーコープ社への発注誘導だけではない知見も披露されていて参考になった。

<良い購買とは>

購買を「戦略購買」(直接材)と「非戦略購買」(間接材)に分類する。
というのが基本的な考え方のベースとなっている。

直接材の購買と違って、間接材支出についてはロングテール型の購買となるため、「買い手」側が十分な専門リソースを割きづらく、「売り手」との情報ギャップが生じやすい。そこにコスト削減の余力が潜んでいるという。

しかしながら、「いい購買=安い購買」ではない、と著者は言う。
購買で行うべきは、「コスト削減」ではなく、「コストの適正化」であり、購買にもメンテナンスが必要と言うのが著者の考え方。
一時期、労力をかけて一つ一つの購買条件を見直し、価格を下げさせることに成功しても、サプライヤー側が情報優位に立つと結局調達額が徐々にリバウンドする傾向となる。購買価格をメンテナンスするためには、情報格差を解消することでリバウンドを抑制し続ける必要がある。

著者の考える「良い購買」とは、「納得感のある購買」のこと。
納得感を醸成するプロセスとしては
①仕様書決定:仕様の流動性
②見積り依頼業社(サプライヤー)決定:業者(サプライヤー)の流動性
③見積り依頼:価格の流動性
④業者(サプライヤー)選定:適正価格
と言う流れを明確にし、各種流動性を確保すること。
見積り取得のプロセスの「見える化」が、社内だけでなく、落選したサプライヤーに対しても納得感のあるものとなる。


<購買のプロとは>

購買のプロとは、購入する「もの」や「サービス」の業界のことをよく知っているということに尽きる。
①業界における、良い業者と良くない業者を知っているということ(業者の情報)
②自分が要求している性能やサービスレベルを手に入れるには、どのような性能発注仕様とするかが作れるレベルに、その業界の「仕様の作り方」を知っているということ(仕様の情報)
③その業界でそれぞれの時期や変動要因によって、それぞれの価格情報を知っているということ(価格の情報)
④プロの大事な要素としては、上記の必要な情報をタイムリーに取得できる能力がある。つまり、すべての情報を旬な状態で把握するのはかなり難しいが、必要としてる旬な情報をこの人に聞けば得られる、という情報源を持っている。もしくは、情報源がないのであれば、その必要な情報を必要な時に手に入れるための調査する能力を有していること(調査の仕方の情報)

まとめると、購買のプロの定義とは
「間接材、直接材にかかわりなく、それぞれの業界の情報に詳しく、その情報についても常にアップデートされ、業界にいる業者(サプライヤー)と常にプロ同士で戦いができる人であり、その上で購買の正しいプロセスが実行できる人」


<インソース業務とアウトソース業務>

コア業務(戦略的業務)とノンコア業務(非戦略的業務)で分けて、コア業務をインソースで行い(一部専門性を要しない業務についてはアウトソースもあり)、ノンコア業務をアウトソースで行う。
専門性の有無によりインソース、アウトソースを分けるべきではない。

間接材購買業務におけるインソース・アウトソース
<インソースすべきもの>
・ガバナンス、統制をかけるための、間接材購買を行う組織や箱
・購買業務をアウトソースしているシステムを利用してプロセスを責任を持って実行する限られた人
<アウトソースすべきもの>
・購買の情報(業者、仕様、価格)を集め、常にアップデートする業務
・購買の情報を保管し検索するシステム
・プロセスを実行しプロセスを溜めておくシステム
・購買業務を効率よく行うシステム



最後はちょっとディーコープ社への誘導感がないでもないが(笑)、
「戦略購買」と「非戦略購買」と言う考え方。それに付随するインソース・アウトソースの考え方。
◯「見える化」には3つの効用、「共有」「透明性」「自己浄化・進化」があるということ
◯透明性ある仕組みは、納得感のためだけでなく、不正をやっていないことを証明するという「悪魔の証明」を行う必要が無いように、購買担当者を疑いから守るためにも重要であること。
◯「有効な相見積もり」を取るためには、金額にかかわらず、いつも付き合っているサプライヤーだけでなく、常に「あと1社」新しい業者(サプライヤー)に声をかけて見積りをとること。
◯契約書の管理ではなく、「契約書の内容のマネジメント」が重要なこと。
など非常に参考になる話も多くためになった。

2017年10月25日水曜日

『経済は地理から学べ!』

代ゼミの地理の先生、宮路秀作氏の著書。
立地、資源、貿易、人口、文化などの様々な切り口で、各国の特徴を捉えている。

色々面白い(そしておそらく試験にも使える)知識が満載。

◯人間の行動は、土地と資源の奪い合いで示される。
当たり前のことだが、土地と資源には限りがあるからである。有限だからこそ、重要と供給によって価値が決まる。

◯経済はヒト、モノ、カネ、サービスの「動き」と言っても過言ではない。
その「動き」の理解には距離の概念が役立つ。
「物理距離」以外には、「時間距離」「経済距離」「感覚距離」という3つの距離がある。

◯地球上には約14億立方kmもの水が存在し、そのうち97.5%は海水。残りは陸水が2.5%と、わずかな水蒸気。
その2.5%の陸水を分類すると、氷雪・氷河が68.7%、地下水が30.1%、地表水が2.2%。氷雪・氷河の大部分は南極とグリーンランド(デンマーク領)。
残る 2.2%の地表水は、河川水・湖沼水・土壌水に分類されるが、生活用水として利用するのは河川水が中心。
河川水は陸水のうち、0.006%。 半径64cmの地球儀で考えてみると、1滴の水を人間だけでなく陸上生物の全てが分かち合って生きている計算。
現在世界では約7億人の人たちが、水不足の生活を強いられている。
20世紀は「石油の世紀」だったが、21世紀は「水の世紀」。
「国土全体において水道水を安全に飲める国」は世界に15カ国しかない。
フィンランド、スウェーデン、アイスランド、ドイツ、オーストリア、スイス、クロアチア、スロベニア、アラブ首長国連邦、南アフリカ共和国、モザンビーク、オーストラリア、ニュージーランド、日本。

◯可容人口
ドイツの地理学者、A・ペンクは「ペンクの公式」と呼ばれる計算式を考案し、地球上に収容可能な人口を約160億人と算出した。
ある地域における収容可能な人口数は、就業機会と食料供給量で決まる。
食料供給量の減少により、他地域への人口移動が発生することを「人口圧」という。
東京に人々が集まってくるのは、ひとえに就業機会が多いから。

◯芋あるところに豚あり。じゃがいもと養豚は相性が良い。
ドイツ北部はかつての氷食地で寒冷な地域であるため、耐寒性の大麦やライ麦、えん麦の栽培が行われている。
ドイツ北部は寒冷のやせ地であるため、本来農業生産性が低い地域。特に冬は農作物があまり取れないこともあって、食材が不足しがちだった。
そのため保存食品の開発が進んだ。肉や魚を野菜と一緒に酢などのつけ汁に浸すマリネや、キャベツの漬物(ザワークラウト)、ソーセージなどが代表的な食品。
ビールは大麦から作られる。ドイツのビールといえば、「ホップ、麦芽、水、酵母だけを使用して作る」と法律で定められている。これをビール純粋令という(成立は16世紀)。ただでさえ小麦の生産が困難な地域なので、食用としての貴重な小麦を、ビールの原料に利用しないようにするのが目的だったと言われている。
ところが、ドイツには小麦を原料としたビールもある。ヴァイツェンである。ヴァイツェンという名前がそもそも「小麦」という意味を持っている。特にバイエルン地方を中心にドイツ南部で飲まれているビール。ドイツ南部はかつての氷食地ではなく、小麦が生産できるからである。
現在ではビール純粋令も改正され、基本原料に変化はないが、ヴァイツェンを合法的に作れるようになっている。

社会に出ると、地理とか歴史とかが実は実生活に関わってくるというのが分かって、勉強しておけば良かったと思うことも多い。
歳を取ってから学び直す人の気持ちは非常によく分かる。
でもせっかく学んだら、是非またそれを社会に還元したいものだ。

2017年9月9日土曜日

『リクルートのすごい構”創”力』

ボストンコンサルティングの杉田浩章氏の本。
まるでリクルートの社内にいた感じで書かれているのだが、経歴を見るとそのようなことはない。

まとめてしまうと

<3つのステージと9つのメソッド>

【ステージ1 ”0→1” 「世の中の不ををアイデアへ」】

メソッド① 不の発見
・あるべき社会の実現につながる、潜在的な「不」を探す
・「不」を生んでいる産業構造の暗黙のルールを突き止める
・「不」を解決するための、新たなお金の流れを見つけ出す

メソッド② テストマーケティング
・本当に人の心を動かす事業アイデアなのかを検証する
・顧客がお金を払ってでも解決したい課題なのかを検証する
・検証を段階的に設計し、規模を拡大しながら次へ進める

メソッド③ NEW RING(インキュベーション)
・ボトムアップによる新規事業の起案を賞賛する
・アイデアを事業へとブラッシュアップし、軌道に乗せる ・起案者の「志」を尊重し、実現への覚悟を問い続ける

【ステージ2 ”1→10前半” 「勝ち筋を見つける」】

メソッド④ マネタイズ設計
・誰が、なぜ、いくらで、どの予算で、買ってくれるのかを突き止める
・ユーザーの行動、顧客売り上げ、自社の活動を方程式でつなぎ込む
・市場を継続的に成長させることができる、お金の流れを作り出す

メソッド⑤ 価値KPI
・事業の価値を上げるカギとなる指標を、顧客の評価から探し出す
・価値KPIへの因果関係の高い、実際の行動を探り出す
・全員での高速なPDSによって、指標と行動の仮説を変更し続ける

メソッド⑥ ぐるぐる図
・現場から市場変化の兆しを経営へとつなぎ、縦の知恵を回す
・異なる役割の人材が並行して洞察を加え合い、横の知恵を回す
・現場に勝ち筋への兆しが見えなければ、潔く撤退の決断を下す

【ステージ3 ”1→10後半” 「爆発的な拡大再生産」】

メソッド⑦ 価値マネ
・KPIによって目標の優先順位を絞り込み、意識と行動を集中させる
・PDSを日常の活動に組み込み、「なぜ」をマネジメントする
・価値マネの結果を、現場の「型化」と、サービスの「改善」に活かす

メソッド⑧ 型化とナレッジ共有
・成功事例を生み出した行動を分析し、「型化」して組織へ横展開する
・「型」は活用例を共有することで理解を深め、一気に全体展開する
・「型」は均一化が目的ではなく、「型」を超えた次への挑戦につなぐ

メソッド⑨ 小さなS字を積み重ねる
・現場の情報からいち早く、成長の減速を捉え、次の一手へ進める
・改善をスピーディに試し続け、大きな変革の「てこ」を見つける
・できない理由を突き詰めることから、できるための資源を考える

ということらしいのだが、いくつか個人的にフックがかかった内容について記載する。

○「リボンモデル」

リクルートにとっての「事業」とは、リクルートを取り巻く様々なステークホルダーが抱える不満や不安を解消するためのもの。
リボンモデルは、その全体像を捉えて、時には業界構造を変えながら人々の不満や不安を解消し、継続的な成長を実現するためのフレームワーク。
個人や企業を「集め」、 何らかの働きかけをすることで両者の行動を変化させて「動かし」 中央のマッチングポイントで「結びつける」 ことでリクルートが収益を上げる、ということを社内共通認識を持つために何度も社内で研修され、実際に活用される。

○ダメなKPIの見抜き方

ダメなKPIを見抜くのは簡単。所属メンバーに対して「あなたの組織におけるKPIの目標数値を知っていますか?」と尋ねて、それにきちんと答えられるかどうかを見ること。
KPIに必要な3条件は以下のとおり。
①整合性:最終的な目標に向かって、きちんとロジックが通っていること。最終的な目標が売り上げなのか、利益なのかということだけでも、達成への道筋は異なってくる
②安定性:KPIとして定めた指標が、安定的・継続的に取れること。検証しづらいものをKPIにしてはいけない。
③単純性:指標が少なく(できれば一つ)、覚えやすいかどうか。

○BCGのタイムベース競争 4つの法則

①0.05-5の法則:実際の工程の中で価値を生んでいる時間は0.05-5%しかない。
②3分の3の法則:価値を生んでいない時間は、「前の工程の待ち時間」「手直しにかかる時間」「次の工程に進む決定までの待ち時間」に均等に配分される。
③4分の1と2と20の法則:サービスや製品を提供するのに要する時間は4分の1に低減できる。時間が4分の1に減ると、資本、労働の生産性が2倍になる。コスト削減は20%に及ぶ。
④3×2の法則:タイムベース競争により業界平均の3倍の成長率と2倍の利益率を実現できる。

○アジャイルな組織

アジャイルな組織を実現するには、次の2つを同時に実現しなければならない。
①Alignment(一致団結)・・目指す方向性や働き方が明確になっている
②Autonomy(自律)・・従業員が高い自由度を持つ
一見矛盾する2つをきちんとマネジメントすることができれば、組織の構成員自らが素早く動ける「自走するアジャイル組織」を作り上げることができる。
それこそが21世紀の経営層に求められていること。

○「お前はどうしたい?」

リクルート社内で非常によく耳にするのがこの質問。
この問いかけの背景には、「個の尊重」という文化がある。アジャイル組織を実現するための要素その②「Autonomy(自律)」が文化として定着している。
創業から57年を経て、グループ全体で3万8千人を大きく超える大企業となった今も、リクルートの社員は「誰かに与えられて」仕事をするという意識を持っていない。

リクルートは、外部にディスラプトされるくらいなら、自ら死神軍団(ディスラプター)を抱えてしまう、とういレベルまで覚悟して新規事業開発を行っている。
いわゆる『イノベーションのジレンマ』はリクルート社には当てはまらないということだ。


その他、会社あるあるで、症状1〜5というのが記載されていた。
【症状1】PDSサイクルの「P」に時間をかけすぎる 新規事業の成功には「数」と「スピード」が不可欠。
最終的に何がうまくいくかはやってみなければわからないので、できるだけ多くのタネをスピーディーに市場に出すことが必須だ。 多くの企業では、PDS(Plan:計画、Do:実行、See:検証)サイクルのうちの、Pに時間をかけすぎ、PDSのサイクルが遅くなる。
新規事業開発の重要なキーワードとしてよく挙がる「リーン(lean:引き締まった、無駄がない)」「アジャイル(agile:機敏な、敏捷な)」と真逆を行ってしまう。
【症状2】計画が変えられない 症状1に付随する弊害。新規事業開発において、計画を柔軟に軌道修正できないことは時に致命的。
【症状3】時間をかけて計画を立てる割に、ツメが甘い 多くの企業は、どのような条件をクリアしたら次の段階に進むか、明確に定義しないままで何となく走り出している。
このため、赤字の額がある程度大きくなったり、後発の競合他社に大きくシェアを奪われたりするほど傷が深くならないと、撤退の決断をすることができない。
【症状4】当事者も、経営陣も本気でない
経営にテストマーケティングをする、と言う姿勢がなく、上がったアイデアをブラッシュアップし、新規事業を創出できる人材を育てると言う発想がない。
【症状5】うまくいかなくなった時、撤退の決断ができない

やばい。我が社にも心当たりのある内容ばかりだ。
これだけのノウハウを公開しても、直ぐに真似できないのは、全てがリクルートという会社の社風、社員の意識とリンクしているからだ。
施策や制度は直ぐに変更できても、社員の意識は直ぐには変わらない。
時間をかけてじっくり対応する必要がある。

2017年7月30日日曜日

『牙を研げ』

佐藤優氏の著作。
サラリーマン向けの朝活講演会をまとめたもののような内容で、テーマは多岐にわたる。

<中間管理職の独断専行>

戦前・戦中は、旧陸軍の中堅将校養成のためのマニュアルに『作戦要務令』というものがあった。
『作戦要務令』は、「うまくやれ」という独断専行の発想に基づいている。
指揮官はきちんとした命令を明確適切に出さなくてはならない。しかし、命令を受けた人間が、状況の変化に対応して何かを行うときは、命令に拘束されることなく、独断で決めていい場合がある。独断専行して構わないということ。 要するに日本の『作戦要務令』の特徴は、「うまくやれ」ということにある。

実行するまでに情勢が変化するので予測できない。そのようなときはガイドラインだけを示しておく、あとはうまくやれということ。
他の項目では、命令を出しても組織の末端に行くまでに時間がかかった場合のことが挙げられているが、これも同じ。

この独断専行のやり方は、攻めにはとても強い論理だけれども、守りの態勢になった時においては責任所在が極めて不明確になってしまう。
「うまくやれ」といった組織文化が、近代以降これだけ高度に発達した資本主義において残っているというのは、面白い。このことは意外と日本にとって有利な点かもしれないが、問題は、コンプライアンスといった発想とはなじまないこと。

独断と服従は相反するものではない。上司の命令に従っている範囲での独断は、良い独断で、命令違反ではないということ。

独断専行をうまくやり抜く一つの方法は、組織の幹部の後ろ盾を持つこと。
独断専行をやる人というのは、突出して異常な人ではなく、人誑し型。必ず、上、外に有力者の味方を持っている。
独断専行というのは結局のところ、何かをバイパスするということ。方向性において企業なり国家なりが狙っていることと違う方向だったら、独断専行はできない。言い換えるとショートカットの力。

ヒエラルヒーを維持しながら、能力のあるものを実質的に登用するというのは、日本のメカニズム。だから、『作戦要務令』においても、独断専行を奨励する形になっている。それによって、事実上年次主義を乗り越えているわけ。


<宗教関連>

キリスト教は、イエス・キリストが作った宗教ではなくて、イエス・キリストと会ったこともないパウロという人が作った宗教。
プロテスタンティズム、なかんずくカルバン派は、人は生まれる前から、救われる人は選ばれていて、天国のノートに名前が載っていると考える。同時に、生まれる前から、滅びに至る人も天国のノートに記されている。しかし、そのことを我々は知ることができない。 現実の生活において様々な試練がある。しかし、自分は選ばれている人間だという確信を持っているから、どんな試練でも乗り切ることができ、最終的には「ああ、これで良かったんだ」という人生を歩むことができると考える。
ちなみにドナルド・トランプは長老派(カルバン派)。

キリスト教の罪は祓うことができない。理不尽なことを強いる、論理を超えた、自己責任を超えた責任を負わせるのがキリスト教。絶対に誰も守ることができない倫理を強要して、全員を罪人に陥れていくという傾向がある。
日本の神道はそういう理不尽なことはしない。基本的には、禊や祓いによって人間の汚れはきれいになるという考え方。

日本では、生まれた時にはお宮参り、七五三で神社に行って、結婚式はキリスト教でやって、お葬式は仏教という形で、宗教を変えていくことができる。
こういう様々な宗教を受けれ入れるのを宗教混合(シンクレチズム)という。
シンクレチズム的な土壌があると、外国の文物を受け入れるのは非常に楽。八百万の神様がいる時に、キリスト教の神がくれば800万1番目に入れればいい。ダーウィニズムがくれば800万2番目に入れればいい。そうやって、ありとあらゆるものを包摂することができた。
しかし、そうすることによって、何が絶対に正しいのか、あるいは私はこの信念によって動くという意識は希薄になって、長いものには巻かれろという感じになってくる。それが日本人の宗教観の特徴。

なぜユダヤ教やキリスト教の世界で、特にユダヤ教の世界で論理が発達するのか。
それは、預言者は神様に呼ばれてつねに議論をしないといけないから。
人間側と神様側の過去の対戦成績は、人間側が常に全勝。神様が1度でも勝っていたら我々はここにいないはず。様々な問題があっても、神様が最後に翻意して、やはり人間を生き残らせようかという決断をする。そういう物語の構成になっているから、論理というのは死活的に重要。神様は、黙って心を察してくれるということはない。必ず口に出して説明しないと、言うことを聞いてくれないと言うのが、ユダヤ教とキリスト教の神様。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教 いずれも一神教。しかし、罪に対する感覚はだいぶ違う。
イスラムの罪は、洗い流せばすぐに落ちる程度の汚れで、罪の感覚は非常に薄い。(自分の罪に対しても「アッラーを恨むな」)
ユダヤ教の主流派では、原罪の概念はないにしても、罪の概念はある。しかも、それが人間にかなり初期の段階から備わっていると言う認識はあるから、論理構成を見るならば、限りなく原罪に近い罪の概念がユダヤ教にはある。
罪の概念があると、自分は罪を持っているから、自分のやっていることは間違っているかもしれないと言う意識が常にある。
ユダヤ教、キリスト教的発想では、私は絶対に正しいと思うけれども、絶対に正しいと考えている自分が間違っている可能性があることになる。
それに対して、イスラム的な発想だと、私は絶対に正しい、お前は絶対に間違っているとなる。
だから、同じ「絶対に正しい」と考える人たちであっても、自分が間違っている可能性があると言うことが原理的に埋め込まれているかどうかが、イスラムと、ユダヤ教・キリスト教の大きな違いになる。

一神教というのは基本的には自分と神様との関係が重要なので、その意味では、自分以外には無関心、それゆえに寛容。
だから、キリスト教、一神教が非寛容で、多神教が寛容であるというのは、一神教の歴史からしても、論理からしても成り立たない。
一神教が非寛容になっていくのは、大航海時代以降、帝国主義の流れが出てきてから。特定の文明を拡大していこうという中において、キリスト教徒文明が同一視されたことによって起きてくる現象。だから、むしろ帝国主義の文脈の中で考えた方がいい。

ロシアは東ローマ帝国の末裔だが、ユダヤ、キリスト教の一神教の伝統を持っている。ギリシャ古典哲学の伝統を持っている。しかし、ローマ法が非常に希薄。ロシア人は法律の論理が嫌い。人間は神秘的な力によって、特に精霊の力によって救済されるとロシア正教は考える。

キリスト教の議論に三一論(父、子、精霊の三位一体論)というのがある。
それがフィリオクェと言われる非常に難しい神学的な議論に続いている。
「フィリオ」というのは「息子」、「クェ」というのは「アンド」で、「子からも」という議論。かいつまんでいうと、キリスト教というのは、精霊は父、子(キリスト)から発出するという議論。
父、子、精霊がどういう関係にあるということは過去1700年ぐらい議論して、暫定的な結論は出ているけれども、最終的な結論は出ていない。
正統派のキリスト教というのは、元々は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条カルケドン信条というキリスト教の基本文書を共有していることが条件。
ニカイア・コンスタンティノポリス信条には「精霊は父より発出する」と書いてある。父より発出するとなれば、父からどこにでも行くことになる。そうすると精霊の力というのはダイレクトに人々(つまりキリスト教徒以外の人にも)に働くことになる。
それに対して、カトリック教会は、父だけでなく子からも精霊が発出するという立場。子といのはイエス・キリストのこと。 死んだイエス・キリスト(子)はどこに行っているのか。教会はキリストの花嫁と言われているように、キリストは教会にいる。だから教会に集まってくる人にしか精霊は適用されない。
我々は、”父”について直接知ることはできない。”子”を通じてしか父について知ることができない。キリスト教徒が「この一言の感謝と祈りを、尊き我らが主イエスキリストの御名を通して御前にお捧げします」というのは、ストレートに神様にお捧げすることができないから。
カトリックでは教会を経由する形で精霊は動く。教会に精霊は限定される。そうしたら、「教会のみ御救いをなし」で、組織重視になる。
正教会は、神が人になるということは、人が神になることだと考える。だから、正教会では、修道の力によって、禁欲生活を続けることによって神に近づくことが可能。
これを世俗化してみると、「我々は精霊を持っているから、我々の力で完全に理想的な社会や国家を作ることが可能になる。人が神になって行くことが可能だから。」
こういう形でロシア革命のような壮大な実験が行われた。


<地政学>
地政学というと、ハルフォード・マッキンダーが地政学の祖とされているが、彼の著作には「地政学」という言葉は出てこない。マッキンダーの著作に影響を受けたカール・ハウスホーファートいうナチス・ドイツの理論家が「マッキンダーの地政学は」となんども繰り返したので、マッキンダーが地政学というワードを使っているように皆が勘違いした。

ヘーゲルの「海と川は人々を近づけ、山は人々を遠ざける」という言葉がある。
これは文明がある程度発展しているという前提が必要になる。航海技術が進んでいなければ、海も人を隔てるものとなる。

日本では基本的に海の地政学が重んじられて来た。 アルフレッド・マハンの「海洋戦略論」の影響が強いからである。

「イスラム国」が支配している地域は全部砂漠と平地の地域で、山岳に入り込めていない。特に重要なのはシリアの北西部で、ここはアラウィー派、アサド大統領の拠点。
「イスラム国」が消滅したらここの人員は、主に中央アジアに向かうと言われている。 中央アジアのタジキスタンとキルギスは破綻国家になっているから。 更に、この二つの国と国境を接するウズベキスタン東部のフェルガナ盆地も、ウズベキスタンの中央政府の統治が及んでいない無法地帯となっている。 いずれも2000mを超えるような山岳地帯中にあるので、掃討は簡単ではない。

山に注目した地政学が見直されているというのは、それが現実において障害になっているから。こうした国際関係の変化があって、山などの地理条件に重きを置く地政学がますます注目されている。



その他にも色々なテーマが語られているが、やはり神学を学んでいる佐藤氏は宗教系の話が面白い。
マルクス系理論の話として
「労働力商品は需要が増えても増やせない。そうしたら何が起こるか。賃金の高騰。それである程度賃金が高騰すると、いくら投資しても利潤がなくなる。そこで起きるのは恐慌である。だから資本主義の恐慌が起きる原因も労働力商品にネックがあると言える。」
というような記述もあって、
マルクスの時代にはそうだったかもしれないが、人間に替わるAIやロボットの存在が言われ始めている現代では”?”と思ったりもする。
”古典”は非常に重要だが、それを運用するには時代ごとの背景が必要。
それは各々で判断するということなのか。

2017年7月23日日曜日

LEGO SERIOUS PLAY

立教大学 中西先生による つなぐLab Vol.0011で小笠原裕司先生によるLEGO SERIOUS PLAY を体験。

・手で考えて
・出きた作品に意味を与えて
・思考を整理するメソッド
ということで、MITのシーモア・パパート教授のコンストラクショニズムの考え方がベースになっているらしい。




○曖昧模糊とした質問(お題)に対し、考えてから作る(デザインする)のではなく、まず作る(作りながら考える)ことを指示される。これにより、全員参加が必須となる。さらに言うと手を前に出す必要があるので、全員、「前のめり」の会議になる。
○自分のプレゼン時に、レゴ作品を指差してプレゼンすることを指示される。これにより、プレゼンの敷居が下がる(説明相手の視線が自分に刺さらない)効果とともに、ヴィジュアル(3Dのレゴ作品)とともに説明ができる(「目で聴かせる」)ので、相手の記憶に残りやすい。
○プレゼン者に対しては「作品」に対して質問することを指示されるので、相手の人格と相手の意見を分けて捉えやすくなる。(とはいえ、「作品」はややもすると自分の分身となるので、相手の作品に勝手に触らないよう、との指示もあり)
○作品を中心に質問が進むので、言葉だけで対話するのに比べ、質問(テーマ)が取っ散らかることが少ない。
○特に価値観が大きく異なる、多様な文化を背景にもつメンバーが参加する場合に効果的である反面、レゴとはいえスキルにより表現に差が出る部分もあるので、多少の練習時間が必須。


<所感・気づき>
○たった52個のパーツだが、「高い塔を作る」と言う”目的性”を持ったお題ですら、人それぞれの作品となる面白さがあった。(そしてこの52個のパーツは色も形も相当考えられてこの組み合わせとなっているらしい)
○作って、語って、振り返る(気づきを得る)と言う一連の流れが、上田信行先生の講義を思い出した。
○「目」のブロックは得てして「他人」を意味することで使う人が多く、「目」と言うのは人間にとって「他者」の重要な象徴なのだと改めて思った。
○「気持ちの準備が整った方から発言をよろしくお願いします」と言う表現を使うと、参加者を焦らすことなく、発言を促すことができる。



人は「作話する動物」であるという認識でいるので、このメソッドで何を作るか(どんな形を作るか)には、実は全く意味がないのだと思っている。
自分の作ったものに対してどう意味・解釈を与え発信するのか、と言うことが重要なわけだが、最初の段階ではその意味づけも荒削りで場当たりなものとならざるを得ない。(なぜなら最初に形を作ってしまうわけだから)
それでも議論が活性化するのは、そもそもレゴが抽象性を持っているからなのだろう。
時間の都合で割愛されたのだが、自分の作品について、「コアな部分」だけを取り出す行為(おそらく本当に自分が言いたい部分を抽出する行為)を行うことで、より自らの考えについて深め、気づくことができるのではないかと感じた。

このLEGO SERIOUS PLAY 、ファシリテーターをやるにはLEGOから認定される必要があるらしいが、その認定研修は来年秋ごろまで予約がいっぱいなんだとか。
LEGOのビジネス上の凄みも感じた1日だった。

2017年5月4日木曜日

『乱読のセレンディピティ』

「知の巨人」外山滋比古氏の著作。
外山滋比古氏といえば『思考の整理学』が有名で、いまだに東大生・京大生にも読まれているらしい。

「読み方」に関する氏のエッセーのような本である。

いくつか気になったところをピックアップする。

<教養>

哲学者西田幾多郎が、若い学者からの 「論文の優れている人と、講演の優れている人と、どちらが本当に優れているのでしょうか」という意味の問いに答えて
「それは、うまい講演のできる人」と答えたというエピソードが伝わっているが、文字信仰の人たちだけでなく、広く一般の人をも驚かせた。

読書がいけないのではない、読書、大いに結構だが、生きる力に結びつかなくてはいけない。新しい文化を創り出す志を失った教養では、不毛である。


教養は必要だが、それ自体だけでは意味がない。教養を得たその先こそが重要なのだ、と今更ながらに思う。


<アルファー読みとベーター読み>

読み方には二種類ある。
一つは内容について、読む側があらかじめ知識を持っている時の読み方である。これをアルファー読みと呼ぶことにする。
もう一つは、内容、意味がわからない文章の読み方で、これをベーター読みと呼ぶことにする。全ての読みはこの二つのどちらかになる。
アルファー読みは基本的な読み方ではあるが、これだけではモノが読めるようになったとは言えない。どうしてもベーター読みができるようにならないといけない。その読みを教えることが至難で、これまで、どこの国でも成功しているところはないと言って良い。
日本の学校は早々と、ベーター読みを諦めた。その代わりに、アルファー読みでもベーター読みでもわかる、物語、文学作品を読ませた。物語や文学作品は、あるファー読みからベーター読みへ移る橋掛かりのような役を果たしていて便利なのである。
それで、学校の読み方教育は、著しく文学的になって、日本人の知性を歪めることになった。
国語の教育は、文学作品が、アルファーからベーターへの移行に有効であるということも知らず、作り話ばかり教えてきたのである。
文学的読み方では、新聞の社説すら読めない。高度の読み、ベーター読みを学校で学ぶことはできないが、学校自体、そのことをよく考えない。

ずっと昔の人はこの点で賢かった。
アルファー読みから入ったのでは、いつまでたってもベーター読みができない、ということを察知していたのかどうかはわからないが、アルファー読みから始めるのを避けて、はじめからベーター読みをさせた。
5,6歳の幼い子に、
巧言令色鮮なし仁
などという漢文を読ませたのである。
泳ぎのできない子供をいきなり海へ放り出すようなもので、乱暴極まりないと今の人は思うだろうが、かつてのベーター読みのできる人の比率は現代をはるかに上回っていたと思われる。
ヨーロッパではラテン語によって、ベーター読みを教えた。東西、軌を一にするところが面白い。


氏によるとベーター読みを訓練するのは新聞を読むことなのだそうだ。
今巷に流行っている”速読”が可能なのもあくまで「アルファー読み」の範疇でだ。ベーター読みについては、最初は眺める程度で飛ばしたとしても、それこそ精読も合わせて3回程度は読み込まないといけないはずだ。(と速読のできない自分は考えている)


<乱読とセレンディピティ>

一般に乱読は速読である。それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。
ゆっくり読んだのでは取り逃がすものを、風にように早く読むものが、案外、得るところが大きいということもあろう。乱読の効用である。
本の数が少なく、貴重で手に入りにくかった時代に、精読が称揚されるのは自然で妥当である。しかし、今は違う。本は溢れるように多いのに、読む時間が少ない。そういう状況においてこそ、乱読の価値を見出さなくてはならない。
本が読まれなくなった、本離れが進んでいると言われる近年、乱読の良さに気づくこと自体が、セレンディピティであると言っても良い。 積極的な乱読は、従来の読書では稀にしか見られなかったセレンディピティがかなり多く起こるのではないか。


情報過多時代になり、「アイデアを持っている者がアドバンテージを持つ時代は過ぎ去り、(どのアイデアがいいかを取捨選択して)実行した者がアドバンテージを持つ時代に入っている」というのが持論だが、”読書”という知識を得るための行為についても情報過多時代に入って意義が変わってきたのだと気付かされた。
ただ、乱読だけでは結局、”核”となるものができないので、そこには”精読”であり”熟慮”のようなものが必要となってくると思う。逆説的だが、”核”となるものを持った専門家に向けては「乱読のススメ」は機能するが、氏の言うベーター読みができないかもしれないレベルの読者に対しても「乱読」を勧めるのでいいのかどうかが疑問だ。
ただ、氏のこう言う著作を読む「読者」層を考えれば、適切なアドバイスということなのかもしれない。
ちなみに、氏はこの本の中でも『読者の存在』という内容を1章あげて、
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細かいところはとにかく、読者が作品にとって、決定的に重要性を持つとする思考はいずれ承認されなくてはならないと考える。日本だけの問題ではなく、広く世界の文学についてもそう考えられる時代がいずれやってくる。そう信じている。
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と述べている。
マーケティングにおける”ターゲット”論と似ている。誰に向けているのかの設定がなければ、その内容は全く評価すらできない。
そう考えるとあらゆる文学、文章、発信物は読まれるであろう対象(いわゆる”読者”)が想定されて書かれているはずだという意見は全くもってその通りと思う。


<エディターシップ>

ある朝、トイレで用を足していて、突如、編集は料理に似た加工であるというアイディアがひらめいた。
料理に使う素材は料理人が作るのではない。材料を調理して食べ物にするのである。執筆者の書いた原稿をうまく組み合わせて面白い誌面にする編集と通じるところがある、そう考えた。
それをきっかけにして、エディターシップの概念を作り上げた。第二次創造論である。
第一次創造は、素材を作る。しかし、それだけでは読者の欲する読み物にならないことが多い。そこで、第二創造の出番がある。適当な加工を加えると、第一次創造になかった価値が生まれる。


その昔、仕事の中で上司が「今年のテーマは”編集”だ!」と言っていたことがある。
先進的な取り組みをする人で、当時やっていたマンションの商品企画の仕事からすると、最初は何を言っているのか半分「?」という感じであった。
今考えると、当時コモディティ化が進みつつあったマンションという商品について、新たな素材・新規格を生み出して付加価値を見出すフェーズ(第一次創造)から、”編集”により顧客のニーズに応えるフェーズ(第二次創造)に変えていくんだ、ということを言っていたのかもしれないと思う。
(その時には半分も理解できず。。先駆者は常に後追いで理解されるということで。)


<第五人称>

舞台上の世界を第一人称から第三人称のコンテクストと考えれば、客席はその局外の第四人称であることになる。
演劇を第一人称、第二人称、第三人称だけで説明することはできない。観客のない芝居は芝居でないとすれば、舞台の外に第四人称を考える必要がある。
さらに、その外に、時間の加わる第五人称も存在すると考える。
古典を作り上げるのは、作者自らではなく第五人称である。第五人称は第四人称と違って同時的存在ではない。この第五人称を認めないと、古典の生まれる事情を理解することができない。

その昔、エスノグラフィではないが、ワークショップを見ている関係者を客観的に見るという手法があって、非常に面白いと思ったことがあった。
演劇についても、舞台上の第三者(でも演じている人で、演劇の世界としては変化に巻き込まれる人)と本当の第三者(観客)は異なるという整理。
さらに時間軸があるという発想には恐れ入った。
「次元が6次元まではあることが分かっている」という話を聞いて、
「4次元は”時間軸”ということでなんとなく理解できるけど、なんで(7次元とかではなく)6次元なんだろう?」ということを思ったことを思い出した。


読みやすい割には、考えさせられることが多い本であった。