六本木ヒルズの森美術館で行われてる『メタボリズムの未来都市展』を見て来た。
「メタボリズム」とは、1960年代に黒川紀章や菊竹清訓ら日本の若手建築家・都市計画家グループが開始した建築運動で、新陳代謝(メタボリズム)からグループの名をとり、社会の変化や人口の成長に合わせて有機的に成長する都市や建築を提案したものだ。
今回の『メタボリズムの未来都市展』は今から50年も前に、今の大御所(亡くなった方も多数)達が描いた未来都市の姿を、現代のCG技術も駆使して再現したものである。
模型や写真、図面で展示されている内容は、既に建築されたものもあれば、構想だけで終わってしまっているもの、建築されたものの既にこの世にないものなど、色々なパターンがある。
大きな都市の大風呂敷を拡げた絵図を書きながらも、そのヴィジョンを一つの建築に落としこむという大御所建築家達のスコープの多様性が面白い。都市とは建築の集合体なのだ。都市のヴィジョンを描きながらその構成要素である建築を創り込んでいくのは実は並大抵ではない。「大御所」とは、木を見ながら森をも見れる達人なのだ。(だから大御所になれたということか)
これだけだと、50年間の進歩がないように思えるが、色々な試行錯誤の上50年前には分からなかったことが見えて来た部分が確かにある。
黒川紀章の農村都市計画構想や菊竹清訓の層構造モジュール構想においては、「普通の分譲地や団地のように容れ物をつくってから人を呼ぶのではなく、始めからある既存コミュニティを持ってくる」想定らしい。
生物学者福岡伸一氏の「動的平衡」ではないが、都市もある種の生命体であるので、生命に必要な元素を用意しただけでは生命が生まれないのと同様に都市の要素を単に並べたとしても都市にはならない。
生命が生命足りうるには適切な「時間」という概念が必要なのだ。
恐らく現代を生きる”将来の大御所”達には、既存コミュニティを別の”容れ物”に入れた場合、様々な拒絶反応によりうまく行かないことが理解されているので、「箱」を用意すればそのままコミュニティを移設できるという発想は生まれないであろう。
その点においては、インターネット普及におけるネット社会により、この50年間様々な社会実験とも言える現象が観察されてきたことは、未来都市を考えるにあたっても進歩があるはずだ。
とはいえ、50年前に考案された未来都市像は今を持って「未来」を感じさせるものが多くてビックリである。
50年前の大御所達の想像力がたくましいのか、はたまたそこまで現実が追いついていないのか。
(1952年に始まった鉄腕アトムの誕生日の設定が2003年4月7日だったのに現実はそのスピードで進んでいかなかったのに似ているか)
個人的には、『メタボリズムの未来都市展』にあるような都市は宇宙空間において普及するのではないかと踏んでいるのだか、それを確認するまで生きているやらどうやら。
非常に楽しみである。
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