2009年4月25日土曜日

中学の授業参観

子供の中学の授業参観があったので見に行った。
道徳の時間で、まずアンケートに回答することで自分の行動パターンを知るという授業なのだが、
最終的には
①攻撃パターン(ライオン)
②遠回しな攻撃パターン(キツネ)
③受け身パターン(ヤギ)
④事実を追求するパターン(フクロウ)
という4つに分類されていた。
もうネーミングみただけで”どれであるべき”という意図が見えてしまう感じのネーミングだ。

社会人になっても、同様に自分の行動パターンを知るための研修があるが、その場合には『正解』というものはないという前提で話がされるので、どのパターンであっても強みと弱みが均等に存在することになる。
(そもそも人間の特性の場合、「強み」は別の面から見ると「弱み」だったりする)

自分の経験から照らし合わせると、高校時代までは正解が存在する前提での「勉強」であった。
大学にはいってようやく、必ずしも正解があるとは限らない「学び」の世界をかいま見ることになったように思う。
日本古来の「守・破・離」の考え方からしても、最初はまず基本を守るということで正解がある前提で「勉強」を行う体系、それから解がないことを学ぶ体系となっており、効率的なのだと思う。
企業における育成時にも、習熟度に応じて、更には「正解がある」前提の内容と「正解がない」前提の内容とで研修の仕方を明確に変えていく必要があるのかも知れないと気づかされた。

それにしても(当然なのだが)、土曜日が休みなので1週間に5日間28コマしかない。
道徳、総合、学級などといった特殊科目もあるので、いわゆる英数国理社の5教科で17コマ(数国のみ4コマずつ)しかない。
英語なんて週3コマなのだが、そんなコマ数で英語を学べる(教えられる)のだろうか。
ゆとり教育が路線変更となって学習内容は増えたが学習時間は増えずに、現場レベルでは悲鳴があがっているという話を聞いたことがあるが、ちょっと心配である。

エコビレッジ国際会議TOKYO


第3回エコビレッジ国際会議TOKYOが青山の国連大学にて行われて来たので見学しに行って来た。
このエコビレッジ、「笑顔がつながる暮らし方」ということをテーマにした色々な取り組みの情報を発信しようという趣旨で行われている。
何でもこういった取り組みは世界1万5000カ所で行われているそうだ。

柏の葉のコミュニティデザイン創造の取り組みを発表していたレクチャーを見学した。
スパイラルの松田朋春氏の『アートによるCivic Pride形成』に関するレクチャーもあったのだが、「”気づく”とは、すでにある何かが目覚めたり発現したりすることであって、新しい何かを付け足すことではない」という話を聞いて、以前聞いた「中立変異」の話とかぶってくる気がして自分にとって良き”気づき”になった。

2009年4月19日日曜日

もうすぐ3クール終了

あと数日で妻の薬の3クール目が終了する。
ここのところ、気がつくと普通に生活しているので、定時の薬を飲み忘れることもあった。
やはり軽度のむかつき感はあり、時々便秘になったりすると「食事に問題があるのか」などとナイーブになっているようだ。
5クールのうちの3クール目を終了するということは山を越えたということだ。
ただ、服薬中よりも、薬を止めてからの方が不安になるケースが多いとのことなので心したい。

囲碁の上達方法

アマチュアの囲碁高段者の人から、囲碁が効率的に上達する3つのやり方を聞きました。
①実力が伯仲しているメンバー(できれば自分より実力がちょっと上の人が望ましい)と打ち込むこと。
②プロなど、自分よりはるか高段者の人と打って、講評してもらうこと。
③過去の名対局を反芻する(並べてみる)こと。
だそうです。

②については、戦術的なことを教わるよりも自分自身の打ち方についての講評を受けるのが大切なようです。
ある意味、『メタ認知』のひとつのやり方と言えるかもしれません。
③については、「歴史を学ぶ」と言い換えてもいいかも知れません。
自分の打った碁について反省するよりも、『歴史』ともいえる名対局を学ぶということなのでしょうか。
『賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ』を地でいくということかもしれません。

業務においては日々切磋琢磨していますが、得てして①に終始しているような気がします。
②や③についても定期的に行うよう心がけたいものです。

2009年4月17日金曜日

四人展ー都市Ⅳー


仕事でご一緒させていただいている京都大学の竹山聖先生が展覧会を行うということで、似合わないとはしりつつもとある銀座のギャラリーへ行って来ました。
この「四人展ー都市Ⅳー」、竹山先生をはじめ、堀越千秋さん(画家)、小川英晴さん(詩人)、徳山善雄(写真家)という4人の方の作品が展示されていたのですが、竹山先生は建築が専門であるはずなのに写真の作品を出していたり、写真家ということになっている徳山さんの本が置かれていたりしたのが面白かったです。
こういうアーティストの方々は色んな分野で活躍することができるのだと思いました。
また、いらしている客層が普段自分が接する人たちとは違ったオーラを出していたのも新鮮でした。
(なんてったって銀座のギャラリー)
非常に貴重な体験でしたが、ちょっと慣れない汗をかいてしまいました。

2009年4月12日日曜日

仮面ライダー考その2


最近、子供が平成仮面ライダーの10代目『仮面ライダー ディケイド』にはまっている。
情報本買って来ては、色々質問してくるので五月蝿くてかなわない。
でも時々初代仮面ライダー1号やらV3やらの話をだしてくるのでついつい話にのってしまったりする。(なかなか巧みである)

まだ放映途中だがストーリーは、平成仮面ライダーシリーズの各々の世界を巡るストーリーで、コピーは「全てを壊し全てをつなげ」とのことである。
最近の仮面ライダーは興行的なものもあって、本編シリーズが続いているのに「劇場版」がつくられることになる。
この劇場版のストーリー、本編に出てこない外伝的エピソードであれば問題ないのであろうが、興行上は本編以上の盛り上げを見せる必要があったりする。
という訳で得てして本編ではまだ決着がついていないライバルと「劇場版」で決着をつけてしまったりすることが往々にしてある。

一昔前だと、そういったストーリーの矛盾は視聴者に受け入れられなかった。
宇宙戦艦ヤマトでも沖田艦長が生き返って来た日にゃあ、「これは俺の知っているヤマトじゃないっ」ってなことになっていた。
しかしながら、最近の子供にとっては「それはそれ。これはこれ。」ということでちゃんと整理がされているようである。

同じ仮面ライダーでも、色んな解釈(ストーリー)があるといことを今の子供達は幼い時分から学んでいるのであろうか。
今回の『仮面ライダー ディケイド』はそれを逆手にとって「仮面ライダー○○の世界」と称して別ストーリーの世界があることを当然の前提として話を進めている。
ちょっと前だったら「俺の中では、クウガはやっぱりオダギリジョーなんだよね」となりそうなところが、そんなのおかまい無しである。

このような子供達が育ってくると、登場人物は必ずしもストーリーと一体でなくなる。
登場人物⇒ストーリーというのがセットである時には、登場人物によりストーリーが類推できた。「誰が出ているのか」で「どのような物語なのか」がわかるようになっていた。
それが今では、同じヒーローが出ていても、必ずしもストーリーは同じではなく、別ストーリーである可能性があるのである。
(ゲームの選択内容によって結末が異なるRPGがでていることも影響していると思われる)
さらに言うと、色々なストーリーとなりうるキャラクターが多数登場する物語がヒットしている感さえある。
同じ登場人物による異なるストーリーがあってもそれは当然のように許されるのである。

さて、ここで住宅販売をテーマとして考え、「登場人物」→「立地・間取り・仕様」、「ストーリー」→「生活シーン」と置き換えてみる。
一昔前であれば、「立地・間取り・仕様」を説明すれば、それはあるパターンの「生活シーン」を想定してもらうことができた。(「立地・間取り・生活シーン」⇒「生活シーン」)
それが、今では「立地・間取り・仕様」を説明しただけでは、「生活シーン」と一体になっていないので、必ずしも「生活シーン」を想起させることにつながっていない。
同じ「立地・間取り・仕様」から複数の「生活シーン」を想像してしまうので、どの「生活シーン」の提案をうけているのか絞りきれないのだ。
「生活シーン」こそが売りとなるこれからの時代においては、「生活シーン」まで説明して初めて共感が得られるということになる。

さらに一歩進めて、「様々なストーリーを描きうる多数のキャラクターが登場する物語の方がヒットする」というヒット作品仮説が正しいとすると、昔のニュータウンのように画一的な「立地・間取り・仕様」で同じ価値観をもった住民で構成される街よりも、色々な生活シーンが描きうる「立地・間取り・仕様」を備えている多様化した価値観の住民で構成される街の方が人気が出てくるのかもしれない。

仮面ライダーを観るだけでも、世代間の価値観の相違、変化が見えてくる。
仮面ライダーあなどれじ、である。

それにしても、この『仮面ライダー ディケイド』、主役級の(というより主役だった)仮面ライダー達を脇役にしちゃうってんだからなんともすごい発想だけど、「脇役」がいないのは却ってストーリーとしては難しい気がする。
今後を見守りたい。(毎週一緒に見せられてます。。)

容疑者Xの献身


東野圭吾氏原作の映画をDVDで観ました。
色々なところに伏線が張られており、原作だけでなく脚本の素晴らしさを感じました。(脚本は福田靖氏)
また、堤真一が”らしくない”役を熱演していて、堤真一の新たなる魅力を見た気がしました。(演技でいったら主演の福山雅治をくってました!)
推理ものとしても中々のレベルではないでしょうか。