2009年4月12日日曜日
仮面ライダー考その2
最近、子供が平成仮面ライダーの10代目『仮面ライダー ディケイド』にはまっている。
情報本買って来ては、色々質問してくるので五月蝿くてかなわない。
でも時々初代仮面ライダー1号やらV3やらの話をだしてくるのでついつい話にのってしまったりする。(なかなか巧みである)
まだ放映途中だがストーリーは、平成仮面ライダーシリーズの各々の世界を巡るストーリーで、コピーは「全てを壊し全てをつなげ」とのことである。
最近の仮面ライダーは興行的なものもあって、本編シリーズが続いているのに「劇場版」がつくられることになる。
この劇場版のストーリー、本編に出てこない外伝的エピソードであれば問題ないのであろうが、興行上は本編以上の盛り上げを見せる必要があったりする。
という訳で得てして本編ではまだ決着がついていないライバルと「劇場版」で決着をつけてしまったりすることが往々にしてある。
一昔前だと、そういったストーリーの矛盾は視聴者に受け入れられなかった。
宇宙戦艦ヤマトでも沖田艦長が生き返って来た日にゃあ、「これは俺の知っているヤマトじゃないっ」ってなことになっていた。
しかしながら、最近の子供にとっては「それはそれ。これはこれ。」ということでちゃんと整理がされているようである。
同じ仮面ライダーでも、色んな解釈(ストーリー)があるといことを今の子供達は幼い時分から学んでいるのであろうか。
今回の『仮面ライダー ディケイド』はそれを逆手にとって「仮面ライダー○○の世界」と称して別ストーリーの世界があることを当然の前提として話を進めている。
ちょっと前だったら「俺の中では、クウガはやっぱりオダギリジョーなんだよね」となりそうなところが、そんなのおかまい無しである。
このような子供達が育ってくると、登場人物は必ずしもストーリーと一体でなくなる。
登場人物⇒ストーリーというのがセットである時には、登場人物によりストーリーが類推できた。「誰が出ているのか」で「どのような物語なのか」がわかるようになっていた。
それが今では、同じヒーローが出ていても、必ずしもストーリーは同じではなく、別ストーリーである可能性があるのである。
(ゲームの選択内容によって結末が異なるRPGがでていることも影響していると思われる)
さらに言うと、色々なストーリーとなりうるキャラクターが多数登場する物語がヒットしている感さえある。
同じ登場人物による異なるストーリーがあってもそれは当然のように許されるのである。
さて、ここで住宅販売をテーマとして考え、「登場人物」→「立地・間取り・仕様」、「ストーリー」→「生活シーン」と置き換えてみる。
一昔前であれば、「立地・間取り・仕様」を説明すれば、それはあるパターンの「生活シーン」を想定してもらうことができた。(「立地・間取り・生活シーン」⇒「生活シーン」)
それが、今では「立地・間取り・仕様」を説明しただけでは、「生活シーン」と一体になっていないので、必ずしも「生活シーン」を想起させることにつながっていない。
同じ「立地・間取り・仕様」から複数の「生活シーン」を想像してしまうので、どの「生活シーン」の提案をうけているのか絞りきれないのだ。
「生活シーン」こそが売りとなるこれからの時代においては、「生活シーン」まで説明して初めて共感が得られるということになる。
さらに一歩進めて、「様々なストーリーを描きうる多数のキャラクターが登場する物語の方がヒットする」というヒット作品仮説が正しいとすると、昔のニュータウンのように画一的な「立地・間取り・仕様」で同じ価値観をもった住民で構成される街よりも、色々な生活シーンが描きうる「立地・間取り・仕様」を備えている多様化した価値観の住民で構成される街の方が人気が出てくるのかもしれない。
仮面ライダーを観るだけでも、世代間の価値観の相違、変化が見えてくる。
仮面ライダーあなどれじ、である。
それにしても、この『仮面ライダー ディケイド』、主役級の(というより主役だった)仮面ライダー達を脇役にしちゃうってんだからなんともすごい発想だけど、「脇役」がいないのは却ってストーリーとしては難しい気がする。
今後を見守りたい。(毎週一緒に見せられてます。。)
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