2015年11月3日火曜日

『真田三代』

ここのところ、歴史物を読んでいなかった。
書店でふと手にして購入した本。
著者の平山優氏の史実に基づいた解説は、時に詳細すぎるきらいもなくはないが、歴史考証とはこのように考えながら進めるのか、というのが垣間みれて面白かった。


信濃国真田を発祥の地とする真田氏は、戦国時代を生き抜き、近世を通じて信濃国松代藩主として繁栄した大名となったことはよく知られている。
その礎を築いたのは、真田幸綱(幸隆)、昌幸の二代である。
そして彼らの実績を引き継ぎ、昌幸の子信幸(信之)と信繁(幸村)兄弟も豊臣時代を大いに活躍する。
関ヶ原の合戦が勃発した時、兄弟は袂を分かち、兄信幸は祖父と父が興した真田家をいっそう繁栄させ、江戸幕府のもとで大名家として存続する道を歩み、弟信繁は戦国の遺風を引き継ぎ華々しく散華する道を選ぶことになる。

この本は、本領真田を敵の攻撃で失い、失意の亡命生活を余儀なくされ、すべてを失いゼロから再出発した男・真田幸綱、武田信玄に寵愛され秀吉・家康を刮目させた小信玄・真田昌幸、負けることを承知で豊臣氏最期に寄り添った悲劇の武将・真田信繁の3人を主役として述べたものになっており、歴史上「勝者」となった真田信幸のその後については述べられていない。

◯真田一族とは

そもそも真田一族が武田信玄に取り立てられて大名となっていたことを知らなかった。
真田昌幸というと、煮ても焼いても喰えない「表裏比興之者(ひょうりひきょうのもの)」というイメージだったが、実は武田家に対しては真摯に忠誠を誓っていた感じがある。

◯真田幸村

真田十勇士等で有名な真田幸村だが、実は「幸村」という名前は史料では見られないらしい。

◯境目の人々

境目の人々は、領主であろうと百姓であろうと、武田氏に忠節を尽くしながらも、敵勢力圏に存在する大名や国衆らと接触することが社会的に容認されていた。
境目では両属が容認されることについては、例えば境目の郷村が、敵味方の両方に年貢を半分ずつ納めることで、双方からの乱取りなどを回避し、中立的な立場を保持することが可能な「半手」「半納」が戦国社会の慣行であったことが想起できよう。
その上で、どちらに奉公の比重を置くかは、境目の領主の判断に委ねられていた。
勢力地図や境界があやふやなのは、こういうグレーゾーンを許容するシステムがあったから。

◯真田昌幸

真田昌幸は信玄のもとへ人質として送られたが、信玄の奥近習衆(信玄の側に仕え身辺の世話などの雑務をする者)に抜擢された。
やがて、他国衆出身の武将としては異例の出世を遂げることになる。昌幸の飛躍の基礎には、武田信玄の人の才能を見抜く鋭い眼力と、その寵愛があったことは間違いがない。
信玄は昌幸を武田家の将来を託すべき柱石の一人と考え、育て上げようと考えていたとされている。
ローマ帝国においても、征服した国の有力者の子供を人質として預かりつつ、自分の子供の良き友として一緒に教育し教導した上でまた領地に帰すということがあったようである。
出自に関わらず、優秀な子供を教育し将来の柱石とする発想はサステナブルな組織には必要不可欠な考え方である。

◯武田氏滅亡

武田氏滅亡って長篠の合戦(1575年)で大敗してというイメージがあるが、実際に武田勝頼が死亡するのはそれから7年も後で本能寺の変の3ヶ月前。実は浅間山の噴火も武田氏滅亡に一役買っているというのが面白い。
1582年、浅間山が噴火。当時、甲斐・信濃などの東国では、異変が起こると浅間山が噴火すると信じられており、今回の噴火は信長に勝頼を守護する神々が全て払われてしまった結果であって、一天一円が信長に随うようになる前兆だと噂された。
甲斐・信濃の異変と、東国の政変を告げる浅間山の噴火は、まさに武田勝頼没落と信長の勝利を告げる天変地異として受け止められた。
ただでさえ低下していた勝頼の求心力は、織田・徳川連合軍の侵攻とともに浅間山の噴火で雲散霧消してしまった。
実は浅間山の噴火は飛ぶ鳥を落とす勢いの織田信長の行く末を予兆したものだったのかもしれない。

◯犬伏の別れ

真田というと関ヶ原の前に、昌幸、信幸、信繁の3名で合議し、信幸は徳川方、昌幸・信繁は豊臣方とに別れ、いずれが勝っても真田のいずれかの血脈が残るようにした、という話しが有名。
実際にはそんな損得ずくの話しでもなく、微妙な機微はあったようだ。
犬伏で別れた後、両者は互いが追ってとなって襲いかかってくることを恐れ、昌幸・信繁父子は上田への道を急ぎ、信幸は全軍に警戒を厳重にさせたというから、早くも敵味方として相手を見ていたことになる。
上田への道を急いでいた昌幸父子は、上野国沼田に辿り着き、沼田譲に立ち寄り入ろうとした。これは秘かに沼田城を乗っ取り、徳川方や信幸を動揺させる狙いだったという。
ところが留守を守っていた信幸夫人(家康重臣本多忠勝の息女)は厳しくこれをはねのけ、もし無理に城に入ろうとするなら舅といえど容赦せぬと武装して対峙する構えを見せた。さすがの昌幸もこれには閉口し、何らの意趣なくただ孫の顔を見たいのみだと伝えると、信幸夫人は子供らを連れて城外に出て昌幸に孫の顔を見せ、沼田を去らせたという。
しかし、上田城攻防戦において早速信幸と敵味方となった昌幸・信繁父子は、堅城戸石城をあっさり放棄してまでも信幸との直接の戦闘を回避している。


◯昌幸臨終

1611年、九度山での幽閉生活のまま死去した真田昌幸は、臨終にあたって信繁にこう告げたという。
大阪方が勝利するには、まず大阪方の軍勢を率いて尾張を奇襲する。これで東海道・中山道の出口を押さえ徳川方の出方を待つ。そうすれば家康は驚いて関東・奥州の諸大名を動員して反撃して来よう。こうして時間を稼ぎ、時期を見計らって兵を近江に引き、瀬田橋を落とし、次いで京都の宇治橋を落として防備を固めて家康を威嚇し、その間に二条城を焼き払って大阪城に籠城する。
後は緊張を強いられる徳川軍に対して、夜討ち朝駆けを繰り返せば、士気が落ち、疲弊が蓄積され、諸大名の中でも動揺や不満が広がり、大阪方屁応じるものも出始めるだろう。
その結果、家康は大阪への攻撃を継続できなくなり、引き上げざるをえなくなる。こうして天下は再度豊臣に向いてくるであろうと。
しかし、昌幸は次の言葉を付け加えることを忘れなかった。ただし、自分があと三年生きて大阪へ入城できれば、の話しである。
家康を二度も打ち負かした実績をもつ自分でなければ、大阪方の総大将として全権を掌握できないことを昌幸は見通していた。
そして、その予見通りの展開となる。
大阪冬の陣、夏の陣において、大阪方は数としては決して負けることはない戦力をもちながら、統制のとれない指揮命令系統により敗北するのである。


真田昌幸という人に対して、喰えない、こずるいイタチのようなイメージを持っていたが、この本を読んで、実は武田信玄(そして武田氏)に対しては忠誠をもっていたのではないかという風に変わった。
小国故の立ち回りのため、あるときは上杉につき、あるときは北条につき、またあるときは徳川、そして豊臣と節操なく動くのであるが、これは戦国時代という混乱期において自らの領土は何人たりとも侵させないという意志の表れだったのではないか。
そのあたりは幕末の長岡藩において、倒幕側にも幕府側にもつかなかった河合継之助の考え方と似ている。
また戦わせればピカ一だったことが、戦国時代という動乱の時代において権力者から一目おかれ、度重なる造反にも関わらず、最後は許しを得ることができ生き残れた秘訣なのだろう。
ただし、平時であれば、これだけ無節操に離反を繰り返したらどこかで権力者の誰かにつぶされているであろう。
「狡兎死して走狗烹らる」である。


久しぶりに歴史系の本を読んでみて、やはり昔実在した人に思いを馳せるというのは非常に楽しく気付きの多い時間であることを再認識した。

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