2017年4月22日土曜日

『キリンビール高知支店の奇跡』

元キリンビール副社長の田村潤氏が高知支店で支店をいかに変えていったか、を綴ったもの。

田村氏は、「高知での闘いは、市場で勝つための闘いと、営業マンを変えていくというインナーの闘いの両方だった。 インナーでの闘いの方がより難しかった」と述べている。

勝手解釈で、田村氏のとった方式の流れを確認する。

<ヒアリング>

高知支店に赴任して、一国一城の主として自分のやりたいようにできる!と思いつつ、何を指示していいか分からない。
とっかかりがない中でも、絶対しないことを2つ心に決めていた。
一つ目は、自分が考えて確信を持てることしか部下に指示しないこと。
二つ目は、総花的な営業はしないこと。
「とにかく慌てず、全力でやるしかない」
ということで徹底的なヒアリングに入る。

<戦略の絞りこみ>

ヒアリングの結果、まず、料飲店のマーケットに集中して営業をかけるという戦略に絞った。
料飲店のビールシェアは25%、家庭が75%。だが量販店や酒屋のルートを変えるのは容易なことではない。
営業マンの努力が成果につながりやすい(人間関係や情に訴えやすい)料飲店にターゲットを絞った)。
宴会に年間270回出て、外で飲む機会が多い高知人の生活から、ここに営業を絞る意義は25%に収まらないだろうという目論見もあった。

戦略を絞ることで、本社からの施策・指示の一部は流しておかせた。そういう指示をせざるを得なかった。

流しておくことができるのは辺境の強みである。変革は辺境から。

<結果のコミュニケーション>

高知県には約2000軒の料飲店がある。高知支店の営業マン9人でその全部をカバーするには、月間200軒訪問が必要。
”結果”について徹底して確認を取り、コミュニケーションをとる、と言えば聞こえはいいが、要は徹底したモーレツ営業だ。戦略を絞り込んだらあとは実行あるのみ。
不思議なことに、結果が出ずとも、我慢して4ヶ月目に入ると、皆身体が慣れてきたとの事。

<放っておいても売れる「仕組み」づくり>

とは言え、折しもアサヒスーパードライが世間を席巻している最中。
1995年から「結果のコミュニケーション」を始めたが、1996年9月、40年ぶりに高知県でキリンビールとアサヒビールの比率が逆転される。
1997年に入り、手応えは出てきて営業マンの活動量は飛躍的に伸びた。
それにつれて料飲店の新規獲得、量販店の店頭陳列も目標を達成した。
とはいえ、市場は雪崩を打ってアサヒに傾いていた。
営業マンは日々真面目に一生懸命やっているのに、数字がどんどん落ちている。それで病人が出始めた。
営業は頑張っている。なのに数字は落ちている。
そこで、放っておいてもキリンが売れるようにするにはどうしたらいいのか?
それだけを考えるようになった。

<エリアコミュニケーション>

当時、ビール業界でエリア広告というのは存在していなかった。
全ての広告は東京のマーケティング部が制作・発信していた。
そこで高知独自の広告を打って出ることを考えた。
予算をなんとか獲得し、実施したメディアは地元のラジオと新聞だった。
岡山工場で作る新鮮なビールという打ち出しで行った広告は失敗した。
背水の陣で、
「高知が、いちばん。」
というキャッチコピーで打って出た。高知の人は「いちばん」が大好き。この広告は当たった。
この広告が当たったのは、営業マンの愚直で徹底した活動が基礎にあったから。
よく回り、その結果、どこにでもキリンビールが置かれていて、高知の人々が「キリンをまた飲んでみるか」と思った時にそこに商品があったからこそ、数字に結びつくことが可能となった。


その後、ラガービールの復活もあったりして、高知支店は全国でも優良支店となり、田村氏は四国地区本部長、東海地区本部長、営業本部長と出世していく。
対象エリアは変わっても、エリアごとに手法は変わるものの、基本となる考え方は高知支店と変わらなかったとのこと。


戦略的には、「料飲店に絞る」というポジショニング戦略と、「営業マンのマインド改革」というケイパビリティ戦略の合わせ技という整理ができると思う。
焦った時に、「納得いかないことは指示しない」「総花的には動かない」ということを徹底すると、いうのは今の自分に照らし合わせて非常に参考になった。

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