2015年8月7日金曜日

山口紀行 その1

ボーイスカウトの世界大会、世界スカウトジャンボリー(4年に1回開催)が、今年は44年ぶりに日本で行われるということで、見学に。
ついでに山口を巡る旅にでかけることにした。

・ネットでじゃらんで申し込んだが、申し込み非常に楽チン。
 ちょっと改善して欲しい点があるとすると、各々のホテルの料金が分かりにくいこと。

羽田空港から山口宇部空港へ。
空港のレンタカーはトヨタレンタカーの一人勝ち。
プロモーションの差か。

















町をあげて世界スカウトジャンボリーを盛りたてている。



世界スカウトジャンボリー会場。山口きらら浜。
だだっ広い。。
 





「ネッチ」だけが統一ドレスコード。
ネッチしてなかったら
スカウトって分からないであろう人多数。
敷地内には地元のスーパーが出店。
売っているものは普通に日本に売っているもの。
女性の生理用品とかも売れているみたいだった。
ワッペンの交換はスカウトの楽しみ。
サイトでは公用語は英語。
スペルミスはネイティブにしっかりチェックされる。
サイトでは水分をとるため、自衛隊の給水車が活躍。
というわけで、自衛官もちゃっかり募集。

サイト内は非常に暑い(殺人的)。
ミスト+送風という切り札も焼け石に水状態。
という訳で、水浴びプールをやる国も。(いいのか?)
韓国のカブスカウトらしき集団が観光していたり、参加プログラムに周辺観光もあるらしい。
地域にとっては非常にありがたいイベントか。
でもなんで日本の中でも山口県のきらら浜だったんだろう?
色々考えてしまう。

山口紀行つづく。




2015年8月2日日曜日

『新戦争論』

池上彰氏と佐藤優氏の対談。
この二人、どちらも話しが「分かりやすい」。
しかしこの二人は趣向の違うわかりやすさである。
佐藤氏のは発言が直球なので「分かりやすい」。池上氏のは広範な知識から説明の仕方を練り上げている感じで「分かりやすい」。
そんな二人の対談。
『新戦争論』とあるが、国際情勢全般という感じで勉強になった。


<集団的自衛権について>

・実際には「集団的自衛権」なるものが発動されるケースなどない(「個別的自衛権」で十分)
・「戦闘状態の地域には自衛隊は行かない」というのが、今回の集団的自衛権に関する閣議決定の縛り。これは公明党が従来の枠組みを超えて、自衛隊が海外に出動できないようにねじを締めた、という見方もできる。
・「イスラム国」やアルカイダなどは主権国家というカテゴリーではない。サイバー空間における攻撃も考えられる。21世紀の戦争においては、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を区別して対応するのはそもそも無理。


国際情勢については、中国、朝鮮、アメリカなど様々なエリアについて書かれているが、二人とも中東についての知見がすごいので、自ずと中東問題については紙面を割くことになっている。

<イスラム教概説>

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イスラム教徒は大きく「スンニ派」と「シーア派」に分かれる。預言者ムハンマドが亡くなった後の後継者選びに端を発する対立。
ムハンマドの後継者は「カリフ」と呼ばれ、預言者の代理人。このカリフには、ムハンマドの血筋を引く者がなるべきだという信者と、ムハンマドの信頼が厚く、信者からも信頼されている人を据えるべき信者とで意見が分かれた。
当初の三代は、血筋重視よりも、ムハンマドの信頼があったほうの後継者が続いた。
四代目でようやくアリーという、ムハンマドの従兄弟であり、かつムハンマドの娘と結婚した男がカリフになった。その子供は、ムハンマドの血を引いていることになる。
アリーとアリーの血を引くものこそがカリフに相応しいと考える信者達は「アリーの党派」と呼ばれ、やがてただ「党派」と呼ばれるようになった。 党派のことを「シーア」と呼ぶため、シーア派と称される。
一方、血統にこだわらないでイスラムの習慣を守ればいいと考える信者達は、「慣習(スンナ)派」と呼ばれた。(日本や欧米では「スンニ派」)
全世界のイスラム教信者の85%がスンニ派が占め、シーア派は15%。スンニ派の大国がサウジアラビア、シーア派の代表的な国がイラン。
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<シリア情勢>

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もともとシリアでは、イスラム教シーア派系のアラウィ派のアサド一族が、国民の70%を占めるスンニ派の住民を抑圧する構造になっていた。 今のシリアのバッシャール・アル=アサド政権は、アラウィ派によって成り立っている。
アラウィ派がシーア派だとされたのは1974年くらいからなので、イスラム教の長い歴史の中ではつい最近のこと。
それもアラウィ派がレバノンのシーア派に認証を強いた結果。
アラウィ派というのは「アリー」、つまり第四代カリフだったアリーに従う者、という意味。いうなれば、「自分達アラウィ派はアリーに従う者なのだから、シーア派として認めて欲しい」という理屈。
しかし、イスラム本来の教義においては、人が死んだらこの世の終わりがくるまで地下で眠って待つ。そして終末のときに、死んだ人は、みんな土の中から蘇り、神の前で最後の審判を受けて天国へいく者と地獄へいく者とに分けられる。
ところが、アラウィ派は輪廻転生を認めていて、現世で悪いことをすると犬畜生に生まれ変わることもあるという、ヒンズー、仏教的な、いかにもアジア的な要素が入っている。
だからスンニ派からしてみれば、イスラム教として認め難い。
そもそもアラウィ派は輪廻転生説が中心。シリアの北西部に神殿があり、そこにキリスト教崇拝も加わっているが、何よりも特徴的なのは、基本的に同族結婚であること、あの地域の被差別民だということ。
シリアは、第一次大戦が終わった1918年、それまでの植民地支配から国際連盟のもとでフランスが委任統治をすることになった。
すると、フランスは現地の行政、警察、そして秘密警察までをアラウィ派に担わせた。
政治を全て被差別民にまかせることで、フランスへの依存から逃れられないだろうという計算があった。

シリア問題の第二のポイントは、シリアには野党勢力がないという点。
一連の「アラブの春」では、ほとんどの国で「ムスリム同胞団」という反政府勢力の名前が聞かれた。これはエジプト出自の組織。
そのムスリム同胞団がシリアにはいない。かつてはいたが、現在のバッシャール・アル=アサド大統領の父親のハーフィズ・アル=アサド前大統領が皆殺しにしてしまった。
シリアでは少数派であるアラウィ派のアサド政権が、多数派のスンニ派住民を抑圧してきたので、スンニ派住民が自由を求めて決起した。
アサド政権がこれを弾圧すると、政府軍の中にも自国民を殺すのは嫌だ、という離反者が出て「自由シリア軍」をつくって内戦状態になった。
そこにスンニ派国家サウジアラビアやカタールが大きく支援を入れて、反政府勢力が豊富な資金と軍事物資を持つようになった。
その自由シリア軍と政府軍がぶつかり合っているところに、レバノンからシーア派の過激組織ヒズボラ(神の党)がアサド政権の支援に入って、一気に政府側が盛り返す。
サウジアラビアとカタールも、シリアに自前の反体制派を抱えていたが、最終的にはそこにアルカイダ系の人間が入り込んだため、ますます収拾がつかなくなった。

そこにつけこんだのが、「イラク・シリアのイスラム国(ISIS)」、今の「イスラム国(IS)」。
はじめはイラクのスンニ派地域に「イラクのイスラム国」という名のごく少数の勢力として存在していて、支持拡大は果たせなかった。
ところが隣国のシリアで紛争が始まったので、しめたとばかりに「シャーム(シリア・イラク地域)のイスラム国」と名前を変えて潜り込んでいった。喩えていうなら、1970年前後の日本の革命運動勢力の一部がやったような一種の「加入戦術」。反政府勢力に入り込んで横取りしていく作戦。
彼らは、まるで親アサド派であるように、どんどん勢力を伸ばし、イラクに凱旋して戻ってきた。この過程で世界各地から「聖戦に参加したい」という若者達を集めて組織を大きくした。
そして、シーア派のマリキ政権によって不利な立場に追いやられていたスンニ派住民の支持を受けて、イラク北西部を制圧し、首都バグダッドに向けて進軍を開始した。一時はイラク政府軍が総崩れになるところまでいった。
もともとアルカイダ系だったが、あまりの特殊さと残虐さゆえにアルカイダからも破門されてしまった過激な組織。

シリアは2014年6月3日に大統領選挙を実施し、複数の大統領候補が初めて出たことを世界に誇示したが、本当に重要なことは、ダマスカスから北西部に至る地域においても人々がちゃんと投票にいった、つまり政府が実行支配していることが国際社会に対しても明らかになったこと。近い将来にアサド政権がつぶれることがないということがはっきりした。だから、シリアで活動していた「イスラム国」の連中も「アサド政権はまだもつ。いま戦っても勝てない」と、シリアよりも国家統治機能が弱いイラクに移動した。
それと彼らがイラクに移動したのは、油田の獲得。シリア最大のオマル油田を押さえたが、日量7万バレル程度の産出量。イラクの油田はクルド族が押さえているキルクーク油田だけでも1日数十万バレルは産出できる。
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<スンニ派について>

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スンニ派は4つの法学派から成り立っている。
まずハナフィ−法学派。これはトルコに多い。
次にシャーフィイー法学派。これはインドネシアと、ロシアの北コーカサスにいる。
それからマーリキ法学派。エジプト、チュニジア、リビアにかけての地域にいる。
上記三つは忘れてもいい。各社会の慣習や祖先崇拝と適宜折り合いをつけていて過激になりにくい。
過激な運動が出てくるのは、四番目のハンバリー法学派。これは原理主義そのもの。
コーランとハディース(ムハンマドの伝承集)しか法源として認めない。だからお墓に一切価値をおかないし、聖人を認めない。
アメリカが「オサマ・ビン・ラディンの墓が出来るとそこが聖地になる危険性がある」と言ったことがあるが、彼らの教義からしてあり得ない。

このハンバリー派の中のかなり急進的なグループがワッハーブ派。これは他称で、自分達ではワッハーブ派とは言わない。
サウド王家のサウジアラビアの国教がこれ。
そしてちょっと乱暴に整理すると、ワッハーブ派の中の最大の過激派で武装集団であるのがアルカイダや「イスラム国」。
その考え方は、アラーは御一人であり、それに対応して天上の法律も一つ、地上の法律も一つ。従って、一つの法律を一つの国家、カリフ国家が体現して、それを支配するのがカリフ皇帝であるという独裁制を狙っている。
サウジアラビアも建前はそう。ところが「今のサウジアラビアは何だ。酒を飲んだりしてけしからん」とオサマ・ビン・ラディン達は非難した。
それに対しては「コーランでは葡萄でつくった酒を飲んだらいかんとされているだけだ。ウィスキーは飲んだって構わない」とか言い訳している。

問題なのは、今、世界的にハンバリー法学派が増える傾向にあること。
キリスト教だと、
メソジスト派だったら関西学院大学や青山学院大学、
バプテスト派だったら西南学院大学、
カトリックだったら上智大学、南山大学、
長老派(カルヴァン派)だったら明治学院大学(アメリカだとプリンストン神学校)、
会衆派だったら同志社大学(アメリカだと)シカゴ神学校
と分かれていて、各派の間の交流はあまりない。
それに対して、イスラムのムスクには神学校が付属しているが、そこでは四学派を全部教えている。 だからハンバリー派に関する知識もみんな持っている。
イスラム世界が動揺すると、本来ハナフィー派やシャーフィイー派で、ハンバリー派が強くなかったところでも、急激に原理主義的なハンバリー派の影響が強まる傾向がある。彼らは複合アイデンティティを持っていて、どのアイデンティティがどの位相で出るかが短期で変わる。
アメリカは分かっていないので、イランのシーア派は「悪い原理主義」だが、サウジのスンニ派は「善い原理主義」だという二分法でアフガニスタンのビン・ラディン達を支援した。イギリス人とロシア人はこのあたりが分かっている。
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<イラン〜シーア派について>

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1979年のイラン・イスラム革命をおさらいすると、ホメイニは12代目のイマームがお隠れになった後(ガイバ状態)、再来するまでの間は、イスラムの教えを極めた人間、イスラム法学者の中の最も優れたアヤトラと呼ばれるイスラム法学者が代わって政治をすればいい、という理論を打ち出した。これを「ベラヤテ・ハキーフ(イスラム法学者による統治)」という。
それに基づいてイラン・イスラム革命が起きて、ホメイニが最高指導者になり、現在はハメネイが最高指導者を継いでいる。
イスラム法学者は頭にターバンを巻いている。白と黒があって、黒いターバンはムハンマドの血筋を引く人を意味している。位は高いのだが、ムハンマドもアリーもアラブ人なのでアラブ系ということになる。
イラン人はペルシャ系で伝統的にアラブとは仲が良くない。ハメネイ師のような黒いターバンを巻いている人はイスラム教シーア派としては尊敬すべきではあるものの、アラブ系であるために一般のイラン人からは敬遠される存在でもある。

シーア派の特徴として、嘘をついていい、ということがある。
シーア派はイスラムの中で非主流派。主流派のスンニ派はインチキなんだから、インチキに対しては「お前はシーア派か?」と問われたら 「とんでもない。私はスンニ派です」と答えてもいい。コーランの中にも、最後の最後には自分の身を守りイスラムを守るためなら嘘をついてもいい、というニュアンスの文言が出てくる。
とにかくこの世は暗黒だ。だから嘘をついてもいい、という話し。
嘘をついてもいいというのがルールに入ると、外交も政治もものすごく複雑になる。「合意は拘束する」というのがローマ法の原則として西側社会の原理になっている。
しかし、「約束はしたけれども、約束を守るとは約束していない」というのが含まれると、メタ理論が入ってきて、ものすごい複雑系になる。
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面白かったのが、イランの『一時婚』の話し。
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イランでは時間婚(一時婚)というのが発達している。結婚時間3時間、慰謝料3万円とか。ロンドンに行くとエスコートクラブがたくさんある。あれは「結婚」斡旋所。
イスラムでは売春は死刑、それも石打ちの刑。拳くらいの大きさの石をぶつけて時間をかけて殺す。
このエスコートクラブは「売春」ではなく、3時間の結婚で、別れるときは慰謝料300ポンドという整理。
アルカイダのアル=ザルカウィの演説はひたすらそれを批判している。「シーア派なんていうのはとんでもない。あんなのはイスラムじゃない。売春を合法化している」
サウジアラビアでは、結婚は「同時に4人まで」の枠さえ守ればいいので、王族には妻が延べ十数人という例がある。だからオサマ・ビン・ラディンだって兄弟が40人とかすごくたくさんいる。
ただ、そうしないと各部族のバランスが取れないため、別に自由恋愛で結婚している訳ではない。結婚が政治になっている。
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でも日本の戸籍制度みたいに「婚姻履歴」を残さなければならなくなったら、一時婚も結構大変そうだ。

シリアの話し一つとっても宗教および歴史から学んでいかないと、ほとんど理解が進まない。
中東は気合いを入れて学ばないと把握できないエリアなのだ。


<新戦争論>

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クラウゼヴィッツの『戦争論』。テーゼは「戦争は政治の延長である」。
ベルリンの壁崩壊から四半世紀が経ち、戦争と政治の境界線が再びファジーになってきている。「核兵器がつくられて以来、クラウゼヴィッツは無効になった」と言われていたが、人類には核を封印しながら適宜戦争をするという文化が新たに生まれている。

私(佐藤勝)が数年前から「新帝国主義」と言うようになった理由は、一つにはフランシス・フクヤマの『歴史の終わり』のような、自由民主主義が到達点に達し、歴史が終焉師、退屈な時代になったという考えは間違っているといこと。
グルジア情勢が悪化したときに「新冷戦」といわれたけれどもそれも間違いだということ。
冷戦の一番の特徴は、イデオロギー対立だった。ところが、グルジア情勢をめぐるグルジア、ロシア、アメリカの対立には、イデオロギーの対立はどこにもない。典型的な領土争いであって、旧来型の帝国主義の対立。
では、なぜ「新」なのか。
一つは、帝国主義の特徴は全面戦争をすることだったが、そうせずに局地戦にとどめている。おそらく制約要因は核兵器。帝国主義国が核兵器を持っているから。
もう一つは、植民地を獲得しようとしないこと。第二次世界大戦の経験で、植民地の経営にかかるコストが認識されたから。
植民地を持たず、全面戦争もしないけれども、帝国主義だから「新帝国主義」。

新帝国主義の特徴は、ホブソンとレーニンの帝国主義論の延長線上にあって、要するに資本の過剰がその背景にある。お金が儲かるような投資対象が国内にないから、金融を中心として外に投資して儲けようとする。
外交面においては、ニュートン的な力学モデル。すなわち力による均衡。新帝国主義国は、相手国の立場を考えずに自国の立場を最大限に主張する。相手国が怯み、国際社会が沈黙するなら、そのまま権益を強化していく。他方、相手国が必死に抵抗し、国際社会も「やり過ぎだ」という場合には譲歩する。それは譲歩をした方が結果として、事故の利益を極大化できるという判断によるもの。
これは非常に古典的な力学モデルで、ある意味では、新自由主義的、新古典派的な市場モデルと似ている。強いて言うと、動学的均衡モデルに似ている国際関係。

近年「近代の超克」の再評価があるようだが、「近代」は超克などできない。
「近代」というのは、自由、平等、友愛。
「自由」というのは、おそらく「資本」のこと。資本の自由な動き。そうすると、それがとんでもない格差を生み出すのは当然のこと。
「平等」というのは、力が背景にないと実現できない。その力とは、おそらく「国家」。国家機能によって平等を実現していく。これは独裁制にも帰結する。平等を追求するとそうなる。イスラム帝国というのは、おそらく「平等」の考え方から出てくる。しかし、全ての人を平等にするためには、圧倒的に強い人が必要になる。
「友愛」というのは、柄谷行人さんが「ネーション」と呼ぶものに近い。
「交換様式Aは、交換様式Cの浸透、つまり、資本主義経済の発展の下で、解体されていく。具体的にいうと、共同体が解体されてしまう。そして、それを想像的に取り戻すのがネーション。ネーションにおいて、人々は平等であり相互扶助的であると『想像』される。むろん、ネーションは、資本と国家を越えるものではなく、それらがもたらす矛盾を想像的に解決するものでしかない。こうして、資本=ネーション=国家という三位一体的なシステムが出来あがる」
『帝国の構造ー中心・周辺・亜周辺』 しかし、友愛は、実のところ、ネーションではなく「エスニシティ」、つまりエスニックな集団だろう。自分達は血筋が一緒、文化が一緒と信じていて、外からもそう認知されているグループ。経済合理性と違う原理で助け合う人たちのこと。

「自由」「平等」「友愛」という、この三つが、資本主義システムの中に埋め込まれている。三つのうち、いずれかが強くなると別のものが出てきてそれを抑える。
一番目の「自由」によって、新自由主義的な形で経済の力が大きくなり過ぎて格差が拡がる。すると、システムが壊れてしまうからというので、「国家」が出てきて制御しようとする。それから別の形においては、エスニシティが出てくる。
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佐藤氏の論の中で、「「自由」というのは、おそらく「資本」のこと」と述べていてこれが若干論理の飛躍があり説明を要する部分の要なきがするが、
橘玲氏が『(日本人)』で「チンパンジーの正義」として、
①所有の概念⇒自由
②平等の概念
③序列の概念⇒共同体(友愛)
だからフランス国旗に表されている近代を形作る3つの原理「自由・平等・友愛」はチンパンジーも持っていることが動物行動学により判明している、という論理から類推できるかもしれない。
(「チンパンジーの正義」における所有権とは「そのモノを自由にすることが出来る権利」という考え方。ちょっと飛躍するけど佐藤氏の理屈は、「資本」を持つことで「人・モノ・情報」を「自由」にすることが出来るということか)


他にも、チベットのダライ・ラマとパンチェン・ラマの話し、ソビエトの「半国家」「過渡期国家論」の話し、遠隔地ナショナリズムの話し、北朝鮮の基本方針の話し、領土問題の話し、アメリカのラティーノの話し等々、国際情勢に関する初めて聞く話しが満載。

池上氏、佐藤氏の情報収集の仕方等も書かれていて新書版なのに非常に参考になった。


2015年6月28日日曜日

『団塊世代が日本を救う』

地方移住の勧め。
特に団塊の世代向けということで、その理由が分かりやすく書かれている。
少子高齢化問題の基礎数値を頭に入れるためにも非常に分かりやすい本。

<高齢化>

国連では高齢化率(65歳以上の割合)が7%を超えると”高齢化社会”、14%を超えると”高齢社会”と呼ぶ。
さらに世界標準ではないが、20%もしくは21%を超えると”超高齢社会”と呼ぶ人もいる。

国立社会保障・人口問題研究所によると、日本は2012年時点で、高齢化率は24.1%。2024年には30%を超え、35年には三人に一人が65歳以上となる33.4%、そして61年には40%にも達すると予測されている。

日本は高齢化のスピードも急激。
日本は1970年に高齢化率が7%を超えて「高齢化社会」に突入したが、1994年には14%に達し「高齢社会」に突入した。
高齢化率が7%から14%に至るまでの年数を「倍加年数」と呼び、高齢化のスピードを表す指標として用いられる。その倍加年数が、日本ではわずか24年。
かつて高齢化先進国と言われた欧州各国でも、ドイツが40年、イギリスが46年、イタリアが61年、スウェーデンが85年、フランスが114年。
さらに日本は、「超高齢社会」すなわち高齢化率21%に達するまでの期間もわずか13年で、いまも驚くべきスピードで高齢化が進行中。

<少子化>

少子化の影響から、日本の総人口は2008年から人口減少期に突入した。
国立社会保障・人口問題研究所の推計では、日本の人口は2026年に1億2000万人を下回り、48年には1億人を割り込んで、60年には8674万人になると予測されている。
2010年から60年にかけて、毎年平均80万人(累計4000万人)が減少していく計算。

「団塊の世代」が生まれたのは1947年から1949年までの第一次ベビーブーム期だが、この期間の合計特殊出生率(一人の女性が生涯に生む子供の人数)は4.32人で年間約270万人の子供が生まれていた。
第二次ベビーブーム(1971年から74年のいわゆる「団塊の世代ジュニア」)期間にも年間約200万人の子供が生まれ、出生率は2.14人だった。
ところが、その後は出生率の低下とともに出生数の減少が続き、1975年に出生率が2.0人を下回り、出生数も年間200万人を割り込んだ。
現在の出生数は年間107万人前後、出生率1.3人前後で推移している。近年では出生率の大幅な低下は収まっているが、それでも回復の兆しは見られない。
「人口置換水準」(人口を維持するために必要な合計特殊出生率)である2.07人を回復しない限り、出生率は減少を続け、2060年頃には年間48万人の子供しか生まれなくなると推計されている。


<一極集中>

戦後の東京への人口集中の歴史を振り返ってみると、三つの山を形成している。
第一の山は、1961年をピークとする山で、高度経済成長期の人口流入。この時期、東京圏や大阪圏、名古屋圏は年間65.1万人という極めて大量の転入超過となり、それが現代まで続く三大都市圏を形成した。東京圏の人口伸び率は年2.8%。
第二の山は、80年から92年の13年間。この時期は87年をピークとする”バブル期”にあたる。この13年間の三大都市圏への転入超過は112万人。東京圏の人口伸び率は年0.8%。
ここでの特徴は、東京圏が134万人の転入超過だったのに対し、大阪圏、名古屋圏では人口がほぼ横ばい。つまり大都市圏への人口集中と言っても、この時期は”東京圏への一極集中”が起きたわけだ。
さらに東京圏の中での人口移動をみると、この時期には東京都区部から周辺三県への転出超過も起きた。つまり、首都圏ではこの時期に「郊外化」「ドーナツ化現象」が進行したわけだ。
第三の山は、2007年をピークとして現在も継続している人口の流れ。1998年からの11年間、三大都市圏への転入超過は106万人。特に東京圏では121万人の転入超過となり、ここでも第二の山と同様に東京圏への一極集中が継続している。東京圏の人口伸び率は0.6%。
この時期に特徴的なことは、「ドーナツ化現象」の流れが解消され、周辺三県から東京都への転出超過が発生していることだ。それまでとは逆に、東京圏の中でも東京都への一極集中が起こっているのだ。
規模は小さいながらも大阪圏や名古屋圏でも、大阪市や名古屋市への転入超過が起き、三大都市圏では都市居住傾向が発生していることが分かる。


<高齢者=社会的弱者?>

「高齢者」は社会的弱者ではない。
現役世代は、年金自体の将来に大きな不安を抱えながら年金保険量を支払わねばならず、雇用そのものも不安定。子育て世代はその経済的な負担にあえぎ、仕事と家事・育児の両立に苦労している人も大勢いる。若い非正規雇用の人々の中では、結婚や出産をあきらめざるを得ない人も増える一方で、貧困や格差が増々厳しさを増している。
そんな現役世代の状況に比べると、今の高齢者は恵まれている。
高齢者世帯(65歳以上の人のみで構成するか、またはこれに18歳未満の未婚の人が加わった世帯)の年間所得は2010年で307.2万円。
これは全世帯平均(538.0万円)の半分強だが、平均世帯人員が少ないので、世帯人員一人あたりでは197.4万円となり、全世帯平均(200.4万円)と大差はない。
「格差社会」化が進行し、若年層の非正規雇用率が高まった結果、年間所得が200万円以下の「ワーキングプア」の総数は、約1850万人にも達していると言われている。
高齢者は自分で好きに使える可処分所得が多い「豊かな世代」なのだ。


<なぜ「移住」?>

多くの人間が「少子高齢化」と聞いて地方の過疎地域をイメージするが、実は過疎地域は今後は首都圏ほど高齢者は増えない。
地方ではすでに人口減少によって若者層が減少し、高齢化が相当進行している。これに対して東京都をはじめとする大都市圏では、まさにこれから急速に高齢者が増加し、大都市圏は高齢者で溢れ返ることになる。

都市部高齢者には”介護難民”の危機が迫る。
厚生労働省「都市部の高齢化対策に関する検討会」という有識者検討会の報告書によると「大都市部においては、地価が高く、特に東京23区では施設整備が進みにくい面があり、設備整備率は低くなっている。このため、在宅介護の割合が高くなっているが、必ずしも在宅サービスの利用環境が整っているとは言えない」
「サービスを提供する人材の確保も大きな課題となっている。もともと全産業の中で高い傾向にある介護関係職の有効求人倍率については、都道府県ごとに大きな差があるが、愛知県、東京都は全国平均を大きく上回っており、総じて都市部での人材確保は難しくなっている」
施設やそこでのサービスに従事するスタッフ不足のために、「それなりのお金はあるのに、行き場がない」という事態に陥る危険がある。

「移住」は、急激な都市の高齢化、迫り来る介護難民化に対する”生活防衛”の手段というだけではない。
日本の社会保障制度の見直しについて、その負担の将来世代への先送りを少しでも少なくするため、「社会保障の受給者も含めた『現在の世代(高齢者など)』の負担増」を求める姿勢が明確にされている。
社会保障制度そのものの危機を回避するために、高齢者は”自助努力”と”生活防衛”の必要に迫られている。


<なぜ「団塊の世代」?>

「団塊の世代」の特徴
・持ち家比率が9割近くに達している。
・高学歴化、サラリーマン化、都市化といった戦後の変化を象徴し、大量消費社会を担ってきた。
・テレビの普及からインターネット社会までを駆け抜けてきた、戦後の時代や文化・社会現象、そしてレジャーや消費のスタイルを常にリードしてきた世代。
・「社会性」が強い。「今後参加したい社会活動」というアンケートでは、「趣味、スポーツ活動」に次いで、「一人暮らしなど見守りが必要な高齢者の支援をする活動」が第2位。

「団塊の世代」は人口が大都市圏に向けて大規模に移動した都市化の象徴。そのことを逆に言えば、大都市圏在住者の「団塊の世代」は地方出身者が多く、”ふるさと”を持っている可能性が高いということだ。ゆかりのある地方がある分、地方に移住しやすい人々だと言える。

高齢者のニュー・ジェネレーションである「団塊の世代」は、人生90年時代の人生モデルを作り上げるのに最も相応しい世代。
経済的余力があって社会貢献意識が高く、社会で培った能力を持ち、現役世代と比較しても遜色のない準現役世代。
その世代だからこそ、介護難民化の危機を抱えた大都市圏を飛び出して移住することで、老後の”生活防衛”を図りつつ社会貢献するということが可能なのだ。



ということで数字の引用も分かりやすく、長野県佐久市への移住した人の事例紹介もあり、「団塊の世代よ、地方へ移住しよう!」という呼びかけがなされている。

正直、少子高齢化に対する根本的な課題解決策になっているとは思えないが、東京一極集中含めた課題への対症療法としては他の方策よりも分かりやすく、実現性も高いものに思われる。

「団塊の世代」の方々、よろしくお願いします。

2015年6月27日土曜日

『仕事ができる人は店での「所作」も美しい』


最近、会食の機会も増えてきたため、常識としておさえておくべきポイントを学ぶために購入。日経トレンディ編集長などを歴任した北村森氏の著作。

「ルール」(作法)は自分のため。恥をかくか、かかないかという水準の話し。
「マナー」は人のため。店や宿の人、場合によっては偶然に空間をともにする見ず知らずの客も含めて、いかに気持ち良く過ごせるように心がけるかの話し。
この本は後者について書かれた本である。

マナーというのは
①店や宿を味方につけて
②連れていく相手を楽しませ
③その結果として自分を光らせる
ためのものである。
例を挙げると、
・店では「出されたものをすぐに食べる」
・宿では、「その客室に入った時と、なるべく近い状態で、ホテルや宿を発つ」
といった基本的なことである。

百戦錬磨の著者でも割烹や料亭を訪れる日は、今でも緊張するらしい。
・予約した時刻ぴたりで暖簾をくぐらないと、料理人のリズムを崩してしまう(はっきりとそうは言われない)
・指輪や腕時計をしたままで席に着くと、提供される器が変わる(はっきりとそうは言われない)
・店を後にする時も、道の角を曲がる時に、店の方を振り返って、一礼するのが大事。振り返りもせずに、のんきに角を曲がると、見送っている店の側はちょっとがっかりするらしい(はっきりとそうは言われない)
と言ったマナーもあるからだ。


中野允夫氏というカリスマホテルマンがいる。
曰くホテルの実力が露わになる時間があるらしい。
それは朝食終了時刻の15分前である。
朝食営業終了15分前の段階となると、ダイニングスタッフは昼の準備のことで頭がいっぱいになる。
朝食終了時刻の15分前というのは、ホテル側の都合と客の都合が、真正面からぶつかる時間帯ということになる。
そのシーンで、ホテルがどんな対応をとるか。ホテルの真価が問われる。

ビジネスでも、自社の都合と相手の都合がぶつかって、しかもそれぞれの言い分がともに真っ当なものであるとき、相手の側に半歩でも寄れるかが、仕事の成否を分けるのではないか。

この本は、基本お客様を連れていく前提で、主にお店とのやり取りについて書かれているが、お客様となった場合には
「ごちそうしてくれた相手に、『あぁ、またこの人間を誘って奢りたいな』と感じさせる時間にすることが大切」
ということが書かれている。
結局、仕事が出来る人というのは、相手との呼吸を合わせるのがうまい人でもあるということか。

それにしても、タイトルがちょっと恥ずかしい。「できる◯◯」的なのはキャッチーなタイトルなのかもしれないが、読んでるのが分かるとちょっと恥ずかしいタイトルである。むしろ、やめて欲しいなぁ。

『全員経営』

野中郁次郎先生、勝見明氏の共著。

街作りにおいてはクリストファー・アレグザンダーの『パタン・ランゲージ』という本が1970年代に書かれている。
複雑系である「街作り」というテーマにおいて、今で言うハイパーテキスト型にパターンの組み合わせにより分かりやすく素敵な街とはどういうことかを描写したものだ。
この『全員経営』は、全員経営を実現する「いい会社」をつくり出すための「パタン・ランゲージ」として書かれている。

・実践知の育成と埋め込み
・組織のフラクタル化や自己組織化
・知的機動力の強化
・マトリックス組織からハイバーテキスト型組織へ
・分析的戦略から物語的戦略へ
・サイエンスからアートへ
・知のエコシステムの形成
・コモンセンスの重視
・主体的経験の促進
・失敗の許容
・凡事の非凡化
といった「全員経営」のためのパターンがハイパーテキスト型に(?)書かれている。


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熱力学の第2法則、すなわちエントロピーの法則から言えることは、閉ざされたシステムではエントロピー(秩序のなさの度合いを表す尺度)が増大し、組織にあてはめると組織のポテンシャルが低下するということだ。
この組織ポテンシャルを向上するには、多様性を持続させる開放的なシステムが必要だ。 多様性のみが多様性に対応できる。複雑で多様な環境に対応するには、組織内部にも最少で有効な多様性が必要だ。
最少有効多様性を持つ組織は、誰もが最少のステップを通じて最速のスピードで最大限の知を共有できる。それは、目に見える表面積は最少でも、内部では知が最大限に活用されている球体のような組織である。それ自体がオープンなエコシステムでもあり、だから、環境の多様性に対応できる。
そこでは、個人と個人、個人と組織の間で暗黙知と形式知の相互変換が絶えず行われ、SECIモデルがスパイラルに循環する。
その暗黙知の源泉は、人間存在として、いかによりよく生きるかという主体的な「生き方」の信念や意図に根ざす。その意味で、SECIモデルは人間の生き方につながる知の方法論だと言える。
誰もが傍観者ではなく、主体的にコミットメントせざるを得ない場が生まれ、創造的で効率的な知の循環が起こり、成功確率も高まる。ここに創造性と効率性を備えた組織が生まれる。
つまり、共通善を目指す多様性のある組織こそが組織的知識創造を行い、社会的価値を提供できる。 だからこそ、全員経営のあり方が最も根源的で究極的な姿になるのだ。
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ではSECIモデルとは?

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<SECIモデル>

人間が生み出す知のあり方は、個人的で主観的な「暗黙知」と社会的で客観的な「形式知」の二つの側面に分けることができる。
暗黙知は、言葉や文章で表現することが難しい主観的な知で、個人が経験に基づいて暗黙のうちに持つもの。思いや信念、身体に染み込んだ熟練、ひらめき、もやもやなどは典型的な暗黙知。
形式知とは、言葉や文章で表現できる明示的で客観的な知のこと。
新たな知識創造の源泉は、暗黙知にある。知識とは、個人の主体的な信念や意図を真理に向かって社会的に正当化していくダイナミック・プロセスだからである。
日本は特に暗黙知を重視する精神風土があるが、欧米でもその傾向は高まっている。

知の循環運動が組織やチームで起きる場合、知識創造理論では次の4つのモードを辿ると考える。
(1)まず、個人は周りの世界との相互作用の中で暗黙知を組織的に共創する。これを「共同化」(Socialization)と呼ぶ。
(2)次に、暗黙知を形式知に変換する「表出化」(Externalization)。
(3)続いて、形式知を組織内外の他の形式知と組み合わせ、一つの体系としての新たな形式知をつくり出す「連結化」(Combination)
(4)こうして体系化された形式知は行動や実践を通して、新たな暗黙知としてメンバー全員に吸収され、体化されていく。つまり形式知からまた暗黙知へと変換される。「内面化」(Internalization)と呼ばれる。
この知識変換の4つのモードを、共同化、表出化、連結化、内面化の頭文字をとってSECIモデルという。

SECIモデル:組織的知識創造の一般原理
共同化(Socialization):身体・五感を駆使、直接経験を通じた暗黙知の獲得、共有、創出(共感)。暗黙知⇒暗黙知
表出化(Externalization):対話・思索・喩えによる概念・図像の創造(概念化)。暗黙知⇒形式知
連結化(Combination):形式知の組み合わせによる理論モデルの体系化(物語化)。形式知⇒形式知
内面化(Internalization):形式知を行動を通じて具現化、新たな暗黙知として理解・体得(実践)。形式知⇒暗黙知
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この形式知と暗黙知、組織知と個人知がスパイラルアップすることで全員経営に必要な「コモングッド」が共有されるということだ。

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衆知を集める全員経営で、社員一人ひとりが自律分散リーダー人材として発揮する実践知の神髄である即興的な判断力は、出発点として「何がよいことなのか」という共通善(コモングッド)の価値基準を持つことがベースになる。
 誰もが共通善の価値基準を共有することで、そこに「場」が形成される。
そうなると利益を追求する企業であっても、職業的な倫理観を共有する共同体的な性格を持つようになる。
全員経営や衆知経営を追求すれば、志を同じくするコミュニティ型経営に行き着く。
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面白いのはここでもアリストテレスの「コモングッド」の概念が出てくることだ。
マイケル・サンデル教授も『これからの「正義」の話しをしよう』の中で、結局自分はアリストテレスのいう「共通善」を決めることが必要だと思っているということを述べていたのが思い出される。
遠回りのようでいて、実は判断の根底には暗黙知たる「共通善」が必要ということか。

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<認知的徒弟制度>

2000年にノーベル経済学賞を受賞した米シカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授によると、人の知的能力は、知能検査で測れる「認知スキル(cognitive skills)」と個人的な気質や資質に関係した「非認知スキル(non cognitive skills)」があり、真面目さ、前向きさ、粘り強さ、忍耐力といった潜在的能力に結びつく非認知スキルが重要であるらしい。

また、ポジティブ心理学の創始者の一人、米ミシガン大学のクリストファー・ピーターソン教授は非認知スキルのうち、人生の満足度や達成度に特に深く関わるものとして以下の7項目を挙げた。
・やり抜く力(Grit)
・自制心(Self-controle)
・意欲(Zest)
・社会的知性(Social-Inteligence=人間関係のダイナミックスを悟り、異なる社会状況に素早く適応する能力)
・感謝の気持ち(Gratitude)
・楽観主義(Optimism)
・好奇心(Curiosity)

ヘックマンらの研究によれば、こうした非認知スキルは手本となる師の個別指導や助言を受け、その人格に感化されながら学び取るもので、「良い習慣」の方法によって伸ばすことが出来るとされる。
すなわち徒弟制度である。

認知スキルは形式知であり、外から教えることができる。一方、非認知スキルは暗黙知で、自ら主体的に体得するしかない。

では暗黙知を必要とする、第一線で機動戦を担う自律分散リーダー人材はどうすれば育成できるのか。
重要なのは質の高い経験である。
人材は実践を通じてしか育成できない。実践に勝る研修はない。自己の能力を最大限発揮せざるを得ない状況を与え、高質の経験知を積ませる。要は極限状態の修羅場を経験させるということだ。
もう一つは、新しい形の徒弟制度。
徒弟的な関係の中で、身体性を共有すると、主観が共有され、知が一人ひとりに継承されていく。
結果、全体と部分が相似形を形成するフラクタル組織が生まれ、しなやかな強さを持つようになる。

世界的経営コンサルタント、ラム・チャラン氏がGEやP&Gなどの優良企業で幹部候補がいかに育成されてきたかを調べたところ、全て「アプレンティスシップ(apprenticeship)モデル」だったと言う。
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人を育てるのに徒弟制度が有効であることは知っていたが、認知スキルと非認知スキルというものがあって、非認知スキルを伝承するため徒弟制度が非常に有効であるというのは、言われてみればちょっと目から鱗だった。

もうひとつポイントとしてなるほどと思ったのが「コモングッド」≒「コモンセンス」をベースとした経営ということだ。
「御社は社風が良くて素晴らしい」などとお世辞とも取れる話しをよく社外の方から頂くのだが、この目に見えない「社風」こそ組織の「コモンセンス」につながるものだ。

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<コモンセンスに基づく経営・マネジメント>

哲学者 中村雄二郎氏は、コモンセンスの概念を、アリストテレスに由来する、五感を統合した根源的能力としての「共通感覚」と位置づけた。
これは別の言い方をすれば、人々に埋め込まれた共通の暗黙知と言えるだろう。
普遍的な善と照らし合わせて一番よいバランスを見いだす。
このバランスは足して2で割る妥協ではなく、両立し難いものを両立させ、最善の着地点に落とす「中庸」と呼ぶべきもの。中庸は突き詰めれば、誰もがそれが最善だと感じる共通感覚としての常識に至る。

何が共通感覚かを問うとき、人間としての「生き方」が問われる。その意味で、コモンセンスの経営は「生き方の経営」「存在論の経営」でもある。
一方、アングロサクソン型の経営は利益が目的化し、存在論は問わない。だから、ルールによるコンプライアンスが必要になる。
日本は特に1990年代以降、アングロサクソン型の短期利益追求型へと傾斜し、本来持っていたバランス感覚を失った。
ルール作りもアメリカ以上に微細にわたり、オーバーコンプライアンスが組織の活力を削ぐようになってしまった。
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なるほど、他にも事例としていくつかの会社が登場する。
時々開いて読む組織デザインの「パタン・ランゲージ」として近くに置いておきたい本だ。

2015年5月17日日曜日

『挑戦する会社』

自称「日本のトップマーケター」神田昌典氏の著作。

・ダントツの結果を出したいなら、ダントツの結果を出す人の多い環境に身を置くべき。
・急にハンドルを切り替えられないのがコミュニティのデメリットの一つ。
・日本がお金を拾う国、テクニックで稼ぐ国になってしまったら、社会的な責任とか、徳とか、品格とか、誇りとか、そういうものが全部なくなってしまう。 だから今、考えるべきは、日本が豊かになれる産業。
・言葉はエネルギー。そして、お金もエネルギー。 だから、多くの人が話題にしているものへと、お金は動く。
・これからは、「年配者向けのイノベーション」が起こる。 とはいえ、まずは目の前で儲ける。出発点は「儲けるため」だけど、それをきっかけに生み出した企画が、社会性を備えた新規事業に発展する可能性がある。

<これから10年間、重要になる8つの潮流>

「GRACEFUL JAPAN」(優雅な国、日本)
G(=Graying Society)…高齢化社会、ポスト資本主義のモデル社会
R(=Reuse/Recycle/Reinvent)…循環型社会、物々交換、社会の再創造
A(=Asia/Art)…アジア経済圏、誰もがアーティスト
C(=Community/Care)…コミュニティの時代、ケア・ホスピタリティ尊重
E(=Education/Empathy)…教育の時代、思いやり、共感
F(=Free Agent/Finance)…フリーエージェントネットワーク型社会、新たな金融コンセプト
U(=Utilities/Ubiquitous)…エネルギー革命、ユビキタス社会
L(=Legend)…誰もが英雄になる時代
時代が経つにつれ、この8つの流れが合流する先に、すべての産業が医療・健康産業に、何らかの形でリンクしてくるだろうと私(神田氏)は思っている。

・結局、どこの会社だろうと、「ウチの会社は◯◯業です」と1つの業種を言うだけにとどまっていたら、いずれ先細りになる。逆に、元々いた業界からその定義を広げていくと、全く違った成長カーブを描くようになる。
・次世代ビジネスの決め手は、ビジョンの高さだ。
・未来を予想する最も簡単な方法は、未来を作ること。 未来を作るためにはどうすればいいか。それは、「場」を作ることだ。


「全脳チャレンジ」

「全脳チャレンジ」とは、参加者全員で、即興で、社会的課題に対するソリューションを見つける方法。
1.ある意図を持って人を集める時、そこに集まる人は顕在的な意図のみで集まるのではなく、既に潜在的な意図に無意識に共振して集まっている。(「出会いの深層背景」)
2.潜在的な意図とは、参加者の集合無意識下にある意図と言ってもいいが、人がつくり出している意図というよりは、その瞬間—時間と空間、場所に宿された意図であり、その意図と共振する人々が集うことになる。
3.そこに集まった人同士がダイアログを通じて、彼らの集合意識下の深いところで流れるイメージを、ストーリーにして浮かび上がらせる。 このレベルまで安全にダイブする(深く掘り下げる)ためには、「第三者をハッピーにする」という「利他性」が鍵となる。
4.利他のストーリーを描くと、今まで参加者がバラバラに感じ、バラバラに持っていたイメージが言語化される。その結果、人々の思考が凝縮される。 私の感覚では、「ボウリングのボールのような、重い、重い、思考のボール」がどんどん大きくなっていく。すると、今度は人々の思考が、時空間を歪み始め、未来に向かう大きなくぼみができ始める。
5.すると、参加者は、セミナーが終わり、それぞれの仕事に戻ったとしても、ストーリーは潜在意識下で進行しつつあるから、自分が決めた行動に従って結果を上げていく。

簡単に言ってみれば、みんなで楽しい未来に向かうストーリーを作れば、いつの間にか自分もその未来に参画しているというアプローチ。


だんだん宗教がかってきているのはともかくとして、今回の著作はニュースレターの焼き直しだったので、正直神田氏のいつもの「濃さ」が感じられず、ちょっと残念。
次回作に期待。

『リーダーは最後に食べなさい!』 

歴史を振り返っても、危機を脱した組織には、例外なく、先頭に立つリーダーがいた。
だが、こんにちの教育機関や研修プログラムの多くは、卓越したリーダーではなく、効率よく働くマネジャーの育成を重視している。

目先の利益が成功の指標と見做され、組織の長期的な成長や生存能力は、ただの建前にすぎなくなっている。
短期的にはうまくやっていたのに、ほどなく失敗してしまう組織がある真の理由。
そうした組織におけるリーダーシップは、組織のメンバーがもっとも大切な存在であるという環境をつくるのに失敗したのだ。
人々が価値観を共有し、尊重されている組織こそが、長期的に見れば成長する。


そういう概念的には理解できる内容を、我々の脳内物質と関係させて述べたサイモン・シネック氏の著作。
「脳」×「組織論」となれば読まない手はない。

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人類の体内システムは、食糧を見つけ、生き延び、種を繁殖させることを目的に進化を遂げてきた。
しかし、世界の多くの国々—特に先進国—では、食糧を見つけ危険を回避する行為に、日常生活で時間を割くことはない。我々はもはや穴居人のように狩猟採集生活を送ってはいない。現代社会では、出世し、幸福な生活を送り、充足感を得ることが成功の定義となっている。
ところが我々の行動と決断を左右する体内のシステムは、いまだに数万年前と同じように機能している。我々の原始的な頭脳はいまでも、脅威を察知し、安全に過ごせる機会をうかがっている。
ゆえに、こうした体内のシステムの働きを理解すれば、我々は目標を達成しやすくなる。と同時に、我々が所属しているグループもいっそう成功し、繁栄できるようになるはずだ。
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昨今の文明はすごい速さで進化・発達している。
その速さに我々ヒトの脳はついていけていない。
では、我々の脳はどういうシステムで機能しているのか、脳内物質と関連してみたのがこ以下の拠述。

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我々の体内でポジティブな感情を生じさせる作用を持つ脳内物質は主に4種類ある。
エンドルフィン、ドーパミン、セロトニン、オキシトシンだ。
「利己的(セルフィッシュ)な脳内物質」、エンドルフィンとドーパミンは、個人として行動を起こす時に力を貸す。
「無私の(セルフレス)脳内物質」、セロトニンとオキシトシンは、我々が協力して働き、信頼や忠誠心という感情を発達させるために存在する。

エンドルフィンは、たった一つの目的のために機能する。「肉体の痛みをまぎらわす」ためだ。我々の身体に備わっている鎮静剤と考えればいい。
我々がストレスや恐怖を感じると、それに反応して分泌され、気分がいいという快感で肉体的な痛みを緩和する。
「ランナーズハイ」など、激しい運動の最中や運動後に多くのスポーツ選手が多幸感を味わうのは、血流にエンドルフィンが放出されるからだ。 エンドルフィンは、人類に持久力というとてつもない能力を授けたのだ。

ドーパミンは、探しているものを見つけたときや、用事を済ませたときに、我々をいい気分にさせる脳内物質だ。
自分が前進したときや、何かを達成したときに味わう気分のよさは、主にドーパミンが要因となっている。
母なる自然は、目の前の任務に集中させようと、非常に賢い方策を編み出した。食べ物を口にするとドーパミンが放出されるのは、食べるという行為を我々が好む理由のひとつだ。その結果、我々は食糧を獲得する行為を繰り返す気になる。
しかし、ドーパミンは非常に中毒性が強い。コカイン、ニコチン、アルコールを摂取したり、ギャンブルに興じたりすると、ドーパミンが放出される。そして、その感覚に我々は夢中になる。
脳内のドーパミン報酬系をハイジャックするものとして近年SNSが登場している。

セロトニンは誇りを感じさせる。それは、人から好かれている、尊敬されていると認識した時に得られる感覚だ。
社会的動物である我々は、同じ部族の人間から称賛されたいと思うし、称賛を必要としている。それは実に重い意味を持っている。我々はみな同じグループの人間やグループ全体のために尽力することに意味があると思いたいからだ。

オキシトシンは、友情、愛情、深い信頼といった感情を生み出す。
オキシトシンがなければ、我々は寛容な行動をとることも、共感をもつこともなく、強い絆や友情を育むこともできないだろう。
オキシトシンは我々を社交的にする。また、オキシトシンは、相手を全面的に信頼してもいいのか、あるいは距離を置くべきなのかの指針となる。いわば社会的なコンパスといえるだろう。
即時の満足感をもたらすドーパミンと異なり、オキシトシンはもっと長く継続する満足感をもたらす。
相手を信頼するようになり、相手からも信頼されるようになると、血中をオキシトシンがいっそう流れるようになる。時には魔法にかかったように、自分と相手の強い絆を実感できることもある。
ドーパミンによって生じた熱狂、興奮、自発性などが消えたあとも、オキシトシンによって生じた、もっと安定した、もっとリラックスした、もっと長期にわたる人間関係が続くのだ。
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陽あれば陰あり。ネガティブ感情を生じさせる脳内物質、それがコルチゾール。

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コルチゾール
安定した生活が脅かされているように感じると分泌されるもの、それがコルチゾールだ。
だが、コルチゾールが我々を不安にさせるのは、ただ本来の務めを果たしているに過ぎない。コルチゾールは脅威を察知し、それに備えさせようとしている。闘うか、逃げ出すか、隠れるかを判断させるのだ。

コルチゾールは我々のシステムに長居はしない。脅威を察知すると分泌され、その脅威が過ぎたあとには消えてしまうようにできている。ストレスが我々の身体に及ぼす影響は深刻であるため、恐怖や不安を絶え間なく感じていると、常に悪影響が及ぶことになるからだ。
コルチゾールが絶えず流れている状態は、健康に深刻な被害を及ぼす。
他の利己的な脳内物質と同様、コルチゾールはヒトの生存に力を貸すが、本来は四六時中我々のシステムに存在するはずのものではない。
コルチゾールは、ブドウ糖の代謝に破壊的な被害を及ぼすし、血圧を上げ、炎症反応を起こし、認知能力を低下させるおそれもあるからだ。
コルチゾールが大量に放出されると、攻撃性が強くなり、性衝動が抑圧され、全般的にストレスで疲れきったように感じる。
コルチゾールは、状況に応じて闘争もしくは逃走できるよう、身体が瞬時に反応する準備を整える。これには多くのエネルギーを必要とするため、脅威を感じると、身体は不必要な機能〜消化や成長など〜のスイッチをオフにする。一旦ストレスが通り過ぎれば、こうしたシステムにまたスイッチが入る。
ところが残念なことに、免疫系は身体が不必要と見なす機能の一つであるため、コルチゾールが大量に放出されると免疫系はオフになる。
また、コルチゾールはオキシトシンの分泌を抑制する。
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そこで著者の提案は、組織に「安心感の砦」(サークル・オブ・セーフティ)を築きなさい、ということだ。
安心感の砦により、組織に守られている感覚をメンバーがもつことで、対外的な折衝に注力できるという考え方だ。

「安心感の砦」(サークル・オブ・セーフティ)

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会社の強さと耐久力は、社員がどの程度一丸となって協力しているかにかかっている。だからこそ、グループの一人一人が<サークル・オブ・セーフティ>を維持すべく、自分の役割を果たさなければならない。
そして、社員がそうできるよう確実を期すのが、リーダーの役割だ。<サークル・オブ・セーフティ>の内側にいる部下たちを見守るのが、リーダーの第一の役割である。

また、門番として<サークル・オブ・セーフティ>への入場を認める者と認めない者、つまり帰属する者としない者を判別するのもリーダーの役割だ。

そして、リーダーは<サークル・オブ・セーフティ>をどの範囲まで広げていくかを決める責任を負っている。
当然のことながら、組織が小さいほど、外部からの危険に敏感になる。<サークル・オブ・セーフティ>を管理し易いという利点もある。
組織が大きくなり、官僚制度を持ち込み、人々が保身を最優先にするようになると、組織は発展しなくなり、組織全体が外部の脅威や圧力に影響を受け易くなる。
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著者の言うリーダーの役割は、安心感の砦を作り、それを管理・運営することだと言う。

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どんな組織のどんなリーダーであれ、その目標は「バランスをとる」ことにある。
ドーパミンが主要な原動力になれば多くのことを達成できるかもしれないが、ドーパミンは永続するものを築こうとするときに力を貸さない。
一方、ヒッピーのコミューンに暮らしていれば、オキシトシンが大量に放出されるかもしれないが、明確な目標や野心をもたずに過ごしていると、達成感を味わう機会がなくなる。
目標は「バランスをとる」ことにある。
脳内物質が放出されるシステムのバランスがとれていれば、我々には超自然的な能力が生じるようだ。勇気を奮う、霊感や先見の明に恵まれる、創造力を発揮する。
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「バランスを取る」。これは言うは易し、行うは難しで、実行が一番難しいこと。
スキーのモーグル選手が巧みにコブ山を降りてくるのと同様、才能と鍛錬が必要だ。



この本の中でいい意味で引っかかった言葉が『長期的な強欲』。

「長期的な強欲」

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ゴールドマン・サックス シニア・パートナーのグスタフ・”ガス”・レヴィが同社の方針を説明する際によく使った言葉。
時に短期的なヒットを飛ばし、顧客の力になることで、顧客とのあいだに忠誠心のある信頼関係を少しずつ築いていき、そうした信頼関係の基盤から、長期的に見ればいずれ大きな見返りを得ることができるという意味だ。
1970年当時、ゴールドマン・サックスは「紳士の組織」であり、協力関係を大切にし、顧客と企業に最善の方策を実施する組織と考えられていた。
近年の評判を考えれば信じられないが、当時の社員は、顧客のためにつねに正しいことをしようという意欲にあふれているように見えたため、「億万長者のボーイスカウト」とも呼ばれていた。
どれだけ華やかな経歴や学歴があろうと、ゴールドマン・サックスには中々就職ができない時代があった。まず、社風にうまく適応できる人材であることが求められた。自分個人より会社の要求を優先することを求められた。
経営陣は、カネを儲ける力があるかどうかではなく信頼をおけるかどうかで志願者を見極めようとした。そして、最後に「長期的な強欲」という価値観の意味を良く理解しているかどうかを判断した。
このように、人材に高い基準が求められていたからこそ、ゴールドマン・サックスは不景気の時期でももちこたえることができた。
しかし、1990年代初頭にレイオフを実施。1999年に株式を公開したあとに文化崩壊が加速した。攻撃的で押しの強い新種のブローカー達が入社してきて、銀行はふたつの陣営、「旧ゴールドマン」と「新ゴールドマン」に分かれた。
一つの文化は忠誠心と「長期的な強欲」を基盤に築かれており、もう一つの文化は数字と短期的目標の上に築かれていた。
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利益を短期でみるか、長期でみるかによって、とるべき判断は変わってくる。
囲碁において厚みをとるか実利をとるかの違いのようなものだ。どちらも勝つためにやっていることだが、このバランスは難しい。
その際に、一見顧客志向過ぎて損をしているように見えても、実は長期的には「強欲」と言ってもいいほど利益を志向している、というのは非常に面白い。

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文化の基準が、品格、価値観、信条といったものから、業績や数字など、ドーパミンに駆り立てられた非人間的な測定値へと移行すると、我々の行動を刺激する脳内物質がバランスを崩し、信頼や協力への意欲が弱まる。
コップに入った牛乳に水を足すように、文化が水で薄められ、ついには牛乳の味がぼんやりと感じられるだけになり、栄養分も失われてしまう。
すなわち、歴史観、過去への責任、共有する伝統への責任といったものまで失われてしまうのだ。
そして、自分がどこに帰属しているかという問題をますます考えなくなる。
こうした弱い文化の中に身を置いていると、「自分にとって正しいこと」をしたがるようになり、「正しいこと」をする道からどんどん外れていく。
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グローバリゼーションが進んで行くと、得てしてグローバル基準である数字に重きが置かれるようになる。
(余談だが、個人的には世界共通言語の一番は英語ではなくて数字だと思っている)
グローバリゼーションが進めば進むほど、自分の帰属先、帰属する規範、価値観といったものを確立していく必要があるということだ。
そうしないと、そっくり丸ごとコルチゾール漬けの世界が出来上がるということだ。


『業績依存症』

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アルコール、ニコチン、食べ物から得られる快楽は、全てドーパミンに由来する。ドーパミンは、目標を達成した時や、探していたものを見つけた時に分泌される脳内物質だ。すなわち、ドーパミンは、生存や繁栄の役に立つ行動をとるよう、ヒトに発破をかけるのだ。
ドーパミンは、簡単に食糧を入手できない時代のためにつくられた。我々の身体は、食べたいときにいつでも食糧が手に入る世界で生きるようにはできていない。過食、ギャンブル、飲酒、喫煙はどれも、あきらかにドーパミン依存症だ。
同様のことが、まさに現代の企業文化で起きている。企業文化が奨励するプログラムが、新たなドーパミン依存症をつくり出しているのだ。「業績依存症」という病を。
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ベビーブーマーが「もっとたくさん」「もっと大きな」といった目標を達成することで、ドーパミンを得ていたのだとすれば、ジェネレーションY(1980年〜1995年頃に生まれた世代)は「もっと速く」「いますぐ」満足することで、ドーパミンを得ているといえる。
タバコが時代遅れとなったいま、彼らに断つことの出来ないのはソーシャルメディアだ。
ソーシャルメディアは、いわば21世紀のドラッグである。
アルコール依存症や薬物依存症と同様、この新たな病は、我々の最も若い世代を短気にさせており、最悪の場合、その前の世代より孤立させ、孤独感を味合わせている。成人後、アルコール依存症となる可能性の高いティーンエイジャーが精神的な苦悩や問題に対処しようとするとき、我々に辛いことがあると信頼する人間関係に頼るのではなくアルコールに依存するのと同様、彼らは辛いことがあるとソーシャルメディアや仮想世界の人間関係に頼ろうとする。
彼らは、短期間であればエネルギーを爆発させたり、努力したりするのは構わない。だが、一つのことに責任をもって関わり、気概をもって最後までやり抜くのは苦手だ。
集中して取り組み、自己を捧げるのではなく、多くのことに少しずつ自己を分散することに彼らは、すっかり慣れてしまっている。
その結果、「関心を持ってもらう」という大量の時間やエネルギーを割くことのないうわべだけの行為を本物の関わり合いと混同し、満足している。
いくら関心を高めても、結局生身の人間が、自分の時間を割き、エネルギーを注入するからこそ問題が解決するという点が見過ごされている。
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ここでもリアル回帰の必要性が述べられている気がする。
自分を振り返ってみても、ソーシャルメディア対応に使っている時間は馬鹿にはならない。
まだ文明の発展についていけていない我々の脳をどのように折り合いをつけていくのか。
テクノロジーは悪用も出来ることを考え、前に進むための技術をさらに発展させることが必要なのではないかと思う。


その他、面白かった点を羅列。
◯トップの経営陣は、絶え間ない緊張で疲弊しているように見えるが、実際は、彼らの下働いている事務員やマネジャーよりも長生きし、健康的な生活を送っている。
自分の仕事に関して、すなわち人生において、自分に権限があると感じられるかどうかが、ストレスや健康を左右する大きな鍵を握っている。
◯ボストンカレッジ大学院のソーシャルワーク学科の研究者によれば、「自分は幸福に暮らしている」という子供の安心感は、親の勤務時間の長さではなく、親が帰宅したときの機嫌の良さで変わってくる。
◯人間は、笑うことと怖れることを、同時にはできない。
◯ヒトは、視覚思考の動物である。他の感覚よりも、目で見たものを信頼する傾向にある。目標を立てたら、その目標を文字で記せと言われるのも同じ理由からだ。
企業が掲げる経営理念(ビジョン)もまた心の目で見えるものでなければならない。経営理念は目で確認する必要があるからこそ「ビジョン」と呼ばれているのだ。
◯カネは、具体的な資源や人間の努力を抽象化したものだ。それは、未来の商品やサービスに対する約束手形とも言える。
だが、人々が何らかの行動に費やす時間と努力とは異なり、カネはそうした行動の価値を表しているに過ぎない。
カネは抽象概念に過ぎないため、我々の原始的な脳にとって、真の意味で価値がない。
我々は生来、自分に時間とエネルギーを費やしてくれた人を特に高く評価する傾向がある。
カネには相対的な価値がある(大学生にとって100ドルは大金だが、億万長者にとっては端金だ)が、時間と努力には絶対的な価値がある。
我々がどんなに貧しかろうと、裕福であろうと、どこでいつ生まれようと、1日は24時間、1年は365日だ。