2016年9月18日日曜日

『サイロ・エフェクト』

過去、現代ほど効率化が求められ、専門化が進んでいた時代はなかったのではないだろうか。
その現代の”細分化された専門化集団”を「サイロ」と呼び、サイロの弊害、リスク、そしてそのサイロのリスクヘッジの仕方について述べた本である。

とは言え、著者の立場は「反サイロ」ではない。 むしろ現代社会にはサイロが必要であるという認識から出発している。

【サイロ】

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少なくともサイロがスペシャリストの集まった部署やチームや場所を意味するのなら、間違いなく必要なものだ。
理由は明白である。我々はひどく複雑な世界で生きており、この複雑さに対応するためには何らかの「体系化」が必要だ。しかも、データ量、組織の規模、技術の複雑性が増す中、その必要性は高まるばかりだ。

サイロの危険を完全に払拭することはできない。サイロを克服するのは終わりなき戦いである。
というのも、我々を取り巻く世界は常に変化し、二つの逆方向の力が働いているからだ。 複雑な世界にはスペシャリストや専門家集団が必要だが、それと同時に統合的な、柔軟な視点で世界をみる必要もある。
サイロを克服するには、この両極の間の細い道をうまく渡っていかなければならない。これは容易ならざる作業だ。
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サイロの事例として
NY市、シカゴ警察、UBS、SONY、クリーブランド・クリニックなど沢山の成功および失敗の事例が出てくる。
サイロのリスクをヘッジする手法として、著者が推薦しているのが人類学の手法だ。

【人類学者の視点】

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人類学者の視点は、サイロを理解するのにも役立つ。
突き詰めるとサイロは文化的現象であり、我々が世界を様々な区分に分類し、整理するためのシステムの産物である。

サイロのリスクをヘッジする。
この難しい課題に取り組む第一歩は、まずサイロの存在を認めること。
続いてその影響についてしっかり考えることだ。

サイロに関する文献は二つの視点から書かれるものが多い。
一つは「どうすればより良い組織の構造をつくれるか」という経営コンサルタント的視点
もう一つは、我々の心理に着目する心理学者的視点である。
しかし、サイロはそもそも文化現象である
サイロは社会集団や組織が世界をどのように区分するかについて固有のしきたりを持っているために生まれる。
我々が世界を区分する際のしきたりは、正式に定義あるいは明文化されていないことも多い。そうではなく、無意識のうちに自らを取り巻く環境から吸収する、複雑に入り組んだ規範、伝統、慣習などから生まれるのだ。
つまり、我々が世界を分類する際に使うパターンの多くは文化的に継承するものだ。それらは意識的思考と本能の境界上にある。
文化が我々にとって「普通」であるのと同じように、こうしたパターンも自然なものに思える。あまりに自然であるために、その存在に気づくことも、また自らの世界観を規定するような公式および非公式な区分法があるという事実を意識することさえ滅多にない。

一方こうした分類システムについてとことん考え抜くのが人類学者だ。
それは分類のプロセスが人間文化の根本を成すものであることを知っているからだ。
ある意味では分類法そのものが文化なのだ
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では色々な事例から演繹されたサイロのリスクヘッジの方法とは・・・?

【サイロに対応する教訓】

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サイロを専門家集団と定義すれば、その存在は必然である。
ただ分類システムが過度に硬直化し、サイロが危険なまでに強固に根を張ると、我々にはリスクだけでなく魅力的なチャンスも見えなくなってしまう。
サイロは様々な組織で問題を引き起こしてきた。Microsoft、ゼネラル・モーターズ、ホワイトハウス、イギリスの国民保険サービス、BBC、BPなど挙げていけばきりがない。
ではこの問題を防ぐために、できることはあるのか。私はあると考える。
しかし、サイロをコントロールするという戦いに終わりはない。常に進行中の作業だ。

一つ目の教訓は、Facebookがしたように、大規模な組織においては部門の境界を柔軟で流動的にしておくのが好ましいということだ。
ハッカー期間制度を通じて社員を異動させることには意義がある。
ハッカソンやオフサイトミーティングのような異なる部門の社員が出会い、絆を深められるような場所や制度を設けておくのも良い。
社員を同じスペースに誘導し、常に意外な出会いがあるように建物の物理的デザインを工夫するのも有効だ。クリーブランド・クリニックの通路やFacebookの広場は、そうした機能を非常によく果たしている。
いずれにせよ組織のメンバーが内向きになったり、守りの姿勢になるのを防ぐには、交わる機会を増やす必要がある。
二つ目の教訓は、組織は報酬制度やインセンティブについて熟慮すべきだということだ。
各自の所属するグループの業績だけに基づいて報酬が決まり、しかもグループ同士が社内で競争関係にあると、お金をかけてオフサイトを何回開こうが、オープンオフィスのレイアウトを採用しようが、グループ同士が協力する可能性は低い。
集団としてのモノの考え方を促したければ、クリーブランド・クリニックやブルーマウンテン・キャピタルが採用しているような協調重視の報酬制度をある程度採りいれなければならないだろう。
三つの目の教訓は、情報の流れも重要であるということだ。
UBSやSONYの例からは、各部門が情報を抱え込むととてつもないリスクが蓄積される可能性があるのがわかる。
これに対する一つの解は、全員がより多くのデータを共有するようにすることであり、現代のコンピューティング技術をもってすればそれは容易に実現できる。
重要なのは誰もが自分なりに情報を解釈し、そうして生まれる多様な解釈に組織が耳を傾けるようにすることだ。組織内で自分達にしか分からないような複雑な専門用語を多用し、代替案をハナから拒否するような専門家のチームが幅を利かせていると中々実現は難しい。
大企業に本当に必要なのはスペシャリストのサイロの間を行き来し、個々のサイロの内側にいる人々に他の場所では何が起きているかを伝える「文化の翻訳家」なのかもしれない。
とはいえ、組織のメンバー全員が文化の翻訳家である必要はない。10%位でいいだろう。ほとんどの人は得意分野の異なるスペシャリストであっていい。それでも大規模な組織には複数の専門領域に通じた翻訳家が必要だ。
経済学者、トレーダー、あるいは他の職種の専門用語など、異なる「言語」を尊重する姿勢も重要だ。
「これは認識論、すなわち何を知識と見做すべきかの問題だ。他の人が自分と異なる言語を話すからと言って、それを無視して良いことにはならない」
四つ目の教訓は、組織が世界を整理しているのに使っている分類法を定期的に見直すこと。
願わくは代替的な分類システムを試すことができれば、大きな見返りがあるということだ。
我々は大抵承継した分類システムを無批判に受け入れる。だがそうしたシステムが理想的なものであることはまずない。時代遅れになっていたり、特定の利益集団の役にしかたたないこともある。
パターンを変えるだけでイノベーションが生まれることもある。少なくとも人々の視野は拡がるはずだ。
五つ目の教訓は、サイロを打破するにはハイテクを活用するのも有効である、ということだ。
コンピュータの利点は、消去できない心理的バイアスを生まれつき持ち合わせていないことだ。プログラムを変更すればそれまでとは違った方法で情報を整理したり、新しい分類法をテストすることも出来る。
今日のコンピューティング・システムのデータ処理能力をもってすれば、人間の思考方法を変えるよりコンピュータのデータを組み直す方がずっと速く簡単だ(そしてデータは人間と違って命令に抗ったり、対応を遅らせたりはしない)
しかし、データの分類方法が自動的に変わることも、サイロがおのずから崩壊することもない。
何より重要なのは、これでもかというぐらいの人間の想像力なのだ
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この想像力を得るための手法として人類学者の手法が活きると著者は言う。

【人類学者の手法】

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ではサイバースペースや現実世界で既存の分類システムに疑問を持つのに不可欠な想像力はどうすれば手に入るのか。
一つの選択肢は、人類学の基本的考え方を拝借することだ。人類学とはモノの考え方あるいは世界の見方であり、いくつかの明確な特徴がある。
第一に、人類学者は人々の生活をボトムアップの視線で見ようとする。研究室を出て、現場で生活を経験することを通じてミクロレベルのパターンを理解し、マクロ的全体像をつかもうとする。
第二に、人類学者はオープンマインドで物事を見聞きし、社会集団やシステムの様々な構成要素がどのように相互に結びついているかを見ようとする。壁にとまっているハエのように、静かに周囲の様子を観察する。
第三に、研究対象の全体を見ようとし、その社会でタブーとされている、あるいは退屈だと思われているために人々が語らない部分に光をあてる。社会的沈黙に関心をもつのだ。
第四に、人々が自らの生活について語る事柄に熱心に耳を傾け、それと現実の行動を比較する。人類学者は建前と現実のギャップが大好きだ。
第五に、人類学者は異なる社会、文化、システムを比較することが多い。最大の理由は比較することで異なる社会集団の基礎となるパターンの違いが浮かび上がるからだ。
別の世界に身を投じてみると、「他者」について学べるだけでなく、自らの生き方を新しい目で見直すことができ、視界が開けてくる。こうしてインサイダー兼アウトサイダーになるのだ。
第六の、そして最も重要な特徴は、人類学は人間の正しい生き方は一つではない、という立場をとることだ。
人類学者は、我々が世界や頭の中を整理するために使っている分類システムが、およそ必然的なものではないことをよく分かっている。それは通常、生まれつき持っているものではなく、後天的に身につけるものだ。
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サイロのリスクをヘッジするためには、”インサイダー兼アウトサイダー”の視点が有効という。

【インサイダー兼アウトサイダー】

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現代の社会にサイロは不可欠だ。だがサイロの弊害に囚われるのを避ける方法はある。
人類学者に倣って「インサイダー兼アウトサイダー」の視点から自分達が世界をどう分類しているかを見直すのは、リスクに抗う方法の一つだ。
インサイダー兼アウトサイダーになると、柔軟さを失った境界の危険性を認識できるようになる。境界を自在に引き直したり、全く違う世界を思い描いたり、分類システムや組織の「縁(へり)」でイノベーションを生み出したりする想像力が湧いてくる。

もちろんこの目標を追求しようとすると、大きな問題に少なくとも一つは突き当たる。
予想もしない人やモノとの出会いを受け入れ、世界を旅し、インサイダー兼アウトサイダーの視点を獲得するには、時間と労力がかかるのだ。
サイロの中にとどまること、継承した境界を無批判に受け入れることの方が一見ずっと楽だ。
組織の経営者は無駄を省き、できるだけ効率を高めなければならないというプレッシャーに晒されている。
現代社会においては専門化と集中が好ましいとみられている。
そんな中で他部門の人々との交流、部門間の人事異動、社員をイノベーションの旅に送り出すといった時間のかかる、目先の利益につながらない活動を正当化するのは難しい。
だが忘れてはならない。我々の世界は効率化を追求し過ぎるとかえってうまく機能しなくなるのだ。
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この半年間の業務では自分がいかに”サイロ”の中にいて、知っているつもりで知らないことが多かったかを認識させられた。
それを打破するための手法を学ぶために、この本を読むに至った。
学んだことは実践せねば。

以下本書に記載されている名言を。


「何故我々は時として自分に何も見えていないことに気づかないのか」
心理学者ダニエル・カーネマン

「確立された秩序というものは、どこまでも恣意的なシステムでありながら、どこまでも自然にみえる」
ピエール・ブルデュー 〜フランス、近代人類学の創始者の一人

「IBMでの経験を通じて、文化が勝負の一要素などではないことに気づいた。文化こそが本丸だった」
ルイス・ガースナー

「専門家に聞けば何んでもわかる。正しい質問をすれば、だが」
クロード・レヴィ=ストロース

「未来を見ながら点と点を結びつけることはできない。つながりは過去を振り返ったとき初めてわかるものだ。だから点と点がいつかどこかで結びつくと、信じるしかない」
スティーブ・ジョブズ

「イノベーションはたいてい境界で生まれる。新しいタイプのチャンスや課題の存在を示唆するパターンが見つかるのもそこだ」
ジョン・シーリー・ブラウン 〜科学者・組織理論学者

2016年8月17日水曜日

『クール 脳はなぜ「かっこいい」を買ってしまうのか』

「多様化」というのはリスクヘッジであるという認識でいたが、何故多様化が起こるのか、消費(コンシューマリズム)という観点と絡めて考察されている本。


<反逆者のクール>

シンボルやシグナルは一目瞭然の場合もあれば、一見わからない場合もあるが、価値観、アイデンティティ、願望、そして恐怖までも伝える。それらが我々のライフスタイルを築く。
人間はクールな製品を見た時、社会的な作業(ある立場に自分が置かれたことを想像する、他の人と直接交流するなど)を行ったときと同じように、脳が活性化することがわかった。
つまり、クールな製品は我々の社会的アイデンティティに影響を与えるものであり、クールな製品の経済的価値(の一部)は、社会的アイデンティティへの影響を脳が計算することにより生まれているということだ。

遺伝的に人間にもっとも近いチンパンジーと我々は、2つの本能を共通して持っている。
ひとつは”地位(ステータス)を求める本能”、もう一つが、下位に置かれると反射的に憤りをおぼえる”反逆の本能”である。
現代の消費はこれら二つの本能の上に成り立っている。

現在の消費者文化についての議論の多くは道徳的で、その多くが非難である。
その結果、我々の世界を形成する基本的な力についての理解は全く進んでいない。
ではなぜコンシューマリズムは未だによく分かっていないのだろうか。 それは、歴史的に経済の中心的な問題は、消費ではなく生産だったからだ。歴史上、ほぼ全ての人類がほぼ常に直面してきた問題は、生産をどう拡大するかだった。

地位を求める本能は、対抗意識、嫉妬、”上位”への羨望を生み、対抗意識(見栄)による消費につながる。
1950年代に、アメリカにおける消費は大きく変化した。クールという概念が、反抗の規範、”上位”との従来の地位システムの拒絶のしるしとして出現し、経済、社会、政治など様々な面から新たな文化を形成する中心的な役割を担った。
何より、クールは「反逆本能」に訴えかけて、新しい種類の消費ー反抗的消費ーの原動力となったのだ。我々はそのような消費を「反逆者のクール」と呼んでいる。

クールとは消費に背を向けることだと思いがちだが、反逆者のクールはコンシューマリズムにすんなり融合し、人種やジェンダーによる差別、既存の体制を維持するための制度などの障壁を破壊して、地位への新しい道筋〜従来の地位とは違った価値観の、新しいライフスタイル〜をつくりだした。
反抗としてのクールな消費が出現するとライフスタイルは多様化し、地位への道筋が増加して、1950年代の古い階層社会はそれまでの地位の概念とともに押し流され、次第に多元的で多様な文化にとって代わられた。
地位はゼロサム競争を戦って勝ち取る固定的資源だという凝り固まった考えは実は間違いであり、クールな消費の多様で非階層的な力によって新しい地位ができたのだ。
1990年代には、反逆者のクールが起こした社会的変化が、新たな種類の反抗的消費へと移行した。我々はそれを「ドットコム・クール」と呼んでいる。


<脳科学とクール>

脳には約800億個のニューロンがあり、これはシナプスと呼ばれる部位を通して互いに情報を伝えている。
脳には約100兆個のシナプスがあり、そのお陰で現在最速のスーパーコンピューターよりも強力な働きが出来る。しかも消費エネルギーはパソコンの約4万分の1。
しかし脳のエネルギー需要はとてもささやかとは言えない。脳の重さは体重の約2%だが、安静時代謝の20%を使う。言い換えると少なくとも1日300カロリーが脳を働かせる力となり、そのほとんどがシナプス間の連携に使われる。

現在のように文明が発達する以前はこれだけのエネルギーを得るのは簡単ではなく、この問題への進化上の対応の一つとして、血流が酸素とブドウ糖を運び、それにより脳を動かすようになった。そのため、思考すると血流が増加するのだが、脳全体ではなく、ある特定の思考を引き起こす小さな部位だけだ。 fMRIは基本的にそうした血流のわずかな変化を検知する装置だ。
血流そのものは思考ではない。思考はシナプスで行われている。しかし神経科学者は人のシナプスの活動を直接的に測定することはできない。
2000年前後にfMRIが一般的なテクノロジーとして登場する前は、MPFC(内側前頭前皮質)のことなどほぼ何もわからなかった。当時、MPFCは「ブロードマン(脳地図)10野」と呼ばれていた。

初期のfMRIの実験により、MPFCは空想、計画、黙想に関わっていることが示唆された。それらすべてに共通するのは、自分についてじっくり考えるということだ。あれこれ思いを巡らせているときMPFCが活性化するが、人は自分の過去の経験を思い出している。これらはあなたの記憶であり、自意識を規定するのに役立つ。
神経学者はこのような記憶をエピソード記憶と呼ぶ。これは一般的な事実に関する記憶(意味記憶)とは異なる。

クールな製品を見た時、MPFCが活性化したという事実は、クールが自意識に深く関わっていることを示唆している。
MPFCの二つの機能〜自分自身と他人について考えること〜は、別々の能力に思えるかもしれないが、実は絡み合っていて、消費の社会的側面を理解する上で重要な意味を持つ。
我々の自己概念は、決して自分だけでできたものではない。架空のホモ・エコノミクスは他人の影響を受けることはないが、本当の人間は人生最初の20年間で他人と交流して自意識を育て、交流を通じて自己概念を築くのだ。

社会的感情は、「自分に対する他人からの評価」と認識しているものに対する反応だと考えられる。ここでその評価は主観的なもの。つまり、他人からこう評価されていると自分が感じているものである。
MPFCは、自分に対する評価の認識の刻一刻の変化をずっと追い続けていると考えられている。
フランシス・エッジワースは「ヘドニメーター(幸福度計)」を生理的な快楽を測定できる装置と考えたが、脳の価値シグナルは、生理的ではない快楽を測定するヘドニメーターのようなものとも考えられる。
我々は「ソシオメーター」という考え方を提唱したい。
基本的な感情がヘドニメーターの値を決める一方、社会的感情がソシオメーターの値を決める。ソシオメーターは、社会的評価をあなたがどう認識しているかを記録するものだ。自らの社会的承認に対する認識を測定するものだと考えればいい。この”測定値”を我々はプライド、恥、決まりの悪さ、罪悪感などの社会的感情として経験する。

ソシオメーターの評価は主観的なものだと念を押しておく。なぜこれが重要なのかというと、経済価値も同じように主観的なものだからだ。
そして我々は、ソシオメーターが基本的な経済価値、いわば社会通貨(ソーシャルカレンシー)を負っていると考えている。
ソシオメーターが具体的にどのようなものかに関してMPFCに興味深い性質がある。
発達に時間がかかり、思春期の終わりまで続くという点だ。思春期になると子供達はどんどん友人達からの評価を気にするようになる。これは社会的な交流が増え、自己像が拡大するとともにさらに顕著になる。
MPFC自体は報酬中枢ではなく、自己関連の測定に関わっているものであるが、プラスの報酬中枢(線条体)、マイナスの報酬中枢(島)と結びついている。
この結びつきがプラスやマイナスの社会感情を生じさせる脳のネットワークに不可欠である。
ちなみに、我々は肯定より否定の意見を強烈に感じるので、否定的な意見にふれた時MPFCがより活性化し、自分や他人の心理状態を探る作業が始まる可能性が高い。

MPFCとプラスの報酬中枢である線条体、そして社会的評価との結びつきは驚くほど強い。
他人に敬意を払われているという意識があなたのソシオメーターに与える影響は、基本的報酬がヘドニメーターに与えるインパクトに近い。

人の脳にとって社会的承認は「通貨」の一種で、金銭報酬と同じく、基本的報酬の構造と大きく重なる経済価値の一形態だ。 自尊心(セルフエスティーム)はあくまで自己評価と思われるかもしれないが、自尊心と他者からの評価には密接なつながりがある。
製品が自尊心を高める力をもつことは、経済上の大きな変革だ。他の経済価値と同じように、製品の社会的価値は主観的なもので、多くの場合暗黙のうちの複雑な評価によって決まる。


<競争的利他主義>

我々は競争のための競争はしない。我々は協力するための競争をするのだ。
そこで消費の理論をこれまで見逃されてきた進化の力〜社会的選択〜の上に組み立て、何故それが従来の見解をひっくり返すことになるのか考えてみよう。

社会的選択についての進化理論では、人生の成功は社会的パートナーの質に左右される。 パートナーとの協力関係がもたらす強みを求めて、我々は他人との交流の中で、自らの社会的パートナーとしての価値を示すシグナルを送っている。歩き方、話し方、服装、髪型、言動、あえて言わないでいること〜それら全てが無意識のうちに送られる他人へのシグナルなのだ。
同時に我々の脳は常に他人から送られたシグナルを、その人の社会的価値に換算している。

人生で成功するには良い評判を築き、他人から社会的パートナーとしての価値を認めてもらうことが大切だ。我々が利他的であることを社会的パートナーを選ぶときの基準として使っているなら、一旦このプロセスが始まれば、利他的になる競争がどんどん進むと考えられる。これは競争的利他主義と呼ばれる。
つまり社会的選択では、いい人が勝つことがあるのだ。

贈り物のやり取りや友人のネットワークを調べたところ、協力的な人は協力的な人同士で友人になっていることがわかった。この”同族集団化”で協力的な人は互いに得をする。
非協力的な人も、非協力的な人同士で集団となっていた(おそらく協力的な人のネットワークから排除されるからだ)

<地位とコンシューマリズム>
心理学者のキャメロン・アンダーソンらは、地位と敬意が別物であることを示した。
たとえ低い地位を選んでも、敬意を払われることの重要性について尋ねると、やはり高いレベルの敬意を払われることを望む。
この地位と敬意の違いが、様々なレベルの自己のモチベーションの根底にあり、消費は地位だけではなく、敬意への欲求にも関わっているものなのである。
集団としての自己の意識が突出して高い時、我々は集団の集団的自尊心を高めるために、個人としての自己(地位)を犠牲にすることも多い。

地位の高い消費者が新しいものを取り入れると、地位の低い人々がそれをまねる。新しいものが地位の低い人々の間に広まってしまうと、地位が高い人はそれを放棄する。そして次の「模倣ー放棄」のサイクルが始まる。
コンシューマリズムを批判する人は、だいたい「イースタリンの逆説」を引き合いに出し、こうした消費サイクルは誰も幸せにしないと主張する。個人が自らの利益だけを追求すると皆が損をする囚人のジレンマと同じで、地位のジレンマは個人が地位を追求して真似をすると誰もが損をするという考え方から出発しているのだ。

しかし、こうした批判は残念ながら不完全だ。それは地位本能の裏面を無視しているからである。
チンパンジーの場合と同様に、地位本能は競争心をかき立て、抵抗する力が生まれる。
我々はそれを”反逆本能”と呼んでいる。
反逆本能は心の奥深くに根ざした、下位に甘んじることへの嫌悪だ。チンパンジーの世界では反逆本能によって、霊長類学者の言う”革命連合”が、さらには命がけの反抗が起きる。
同じように、狩猟採集民族における権力を巡る小競り合いから現代の革命まで、他者が自分達を服従させようとするとき、反逆本能が我々の怒り、不満、敵意に火をつける。それは心理学者の表現を借りると、支配層のエリートにたいする相対的剥奪感によるものだ。

消費批判派は、いまだに消費は階層社会での地位を巡るゼロサム競争であるという考え方に固執している。
しかし、人の反逆本能におけるある決定的な変化が社会の階層も変えた。
チンパンジーの地位本能は、自分の順序を既存の地位内で入れ替えるだけだ。しかし、人間の反逆心は現状を拒絶し、別の地位システムをつくるのである。
我々がサブカルチャーやカウンターカルチャーを生み出せるのは、地位を求める本能や反逆本能のおかげであり、それらが一緒になって「反抗的でクールな消費」の原動力が生じるのだ。


<多様化とクール>

限られた資源を巡る競争に対する進化の答えは、多様化によって競争を緩和することだった。
進化は基本的に”選択によって間引く”プロセスだと思われることが多いが、自然界には並外れた数の種と多様性が存在する。
選択圧力に対抗することは、同じくらい並外れた創造、多様化、種分化、放散のプロセスなのだ。

人間以外の動物は新しい生態的ニッチを手に入れようとするが、人間は新しい社会的ニッチ〜地位への道筋を増やすための、新しい地位システム〜を作り出すことができる
現状維持を望む層からの非難は、反逆者達の自尊心を高め、彼らの集団内での尊敬を集めることになる。
これらの力が階層的な社会構造を少しずつ多元的な構造に変革させ、多様なライフスタイルがどんどん増えていった。
この変化によって地位の道筋が増えたために、直接的な競争が減り、地位のジレンマも緩和した。
地位のジレンマの緩和と地位への道筋の増加が、過去30年ほどで世界中の幸福度が上昇している理由の一つではないかと我々は考えている。

こうして消費者文化の形が変わるにつれ、反逆者のクール自体が第2段階に入り、今の”知識経済(ナレッジエコノミー)”の中で体現されている。
1950年代に規範への抵抗としてクールが生まれた頃から現在のドットコム・クールにいたる期間は、工業化社会から情報化社会への変化も含め、社会の再編成と細分化の時代だったのだ。

人間の経済活動とは、限られた資源をめぐるダーウィン的な競争である、というイメージはダーウィンの考えの半分しか反映していない。
その半分とは「自然選択の原則」だ。残りの半分「分岐の原則」の発見のきっかけとなったある実験を紹介しよう。
これはロンドン北部のウーバン・アビーの庭園で行われた。1820年代、アビーの庭師長だったジョージ・シンクレアは、同じ広さの2つの区画にイネ科の草を植えた。片方には2種類の草、もう片方には20種類の草だ。
もし1種類の草がよく育つために(日光や栄養を争って)他が犠牲になるとすれば、20種類の草を植えた方が競争が厳しく、収穫量が減ると考えられた。
しかし20種類の草を植えた区画の収穫量は2種類しか植えなかった区画の約2倍だった。
この結果が、ダーウィンがのちに「分岐の法則」と呼ぶものの基礎となった。
20種類を植えた区画の収穫量が豊かになったのは、それぞれの種が成長のために異なる資源を必要としていたからだった。たがいに違った方向へ分岐することで競争を緩和したのだ。
つまり、「自然選択」によって適応できないものが排除される一方で、種は「分岐」によって互いに競わない方向へと進み、それぞれ違うものになって多様化するのだ
ダーウィンはこれを、自然界における分業だと推測した。
同じ資源をめぐって争うのではなく、種が〜突然変異を通じて自然に〜多様化している。ダーウィンはガラパゴス諸島で発見したこの仮説をのちに「分岐適応放散」と呼んだ。

分配の公正についての第一人者であるアメリカ人哲学者ロバート・ノージックが、とっても刺激的な説を提唱している。
ノージックは嫉妬について論じ、
「社会にはびこる自尊心の格差を避けるのに有効な方法は、いくつもの次元で共通の尺度で重みづけを行うのではなく、多様な次元と重みづけの尺度を持つことだ」
と述べている。
これを実現したものこそが、多様化した消費者社会なのではないか。

消費者のライフスタイルの急増には大きな意味がある。
つまり、「地位のジレンマ」に対する答えが、「地位集団の多様化」だったのだ。
消費者ミクロ文化が増加しても、ゼロサム競争が増加するわけではない。むしろ地位への道筋が増え、直接の競争が無くなる。これは、生物的多様性を高める自然界の適応放散と同じようなものだ。


<コンシューマリズムとサステナブルな社会>

複雑な社会を築きそこで生きるために、我々は2つの重要な能力を持っている。
第一は、社会規範を内部に取り込み、それに従って行動すると(生理的に)脳に報酬が与えられるということ。
第二は、環境や経済的現実が変わるのに応じて、集団的に規範を変えられるということだ。

「尊敬されたい」というインセンティブは、社会的利益につながっている。

消費に対する誤解と偏見のために見逃されているのが、コンシューマリズムの柔軟さ、つまり、新しい社会的規範を、尊敬(道徳的な尊敬を含め)を得るための決定的な要素となるよう、変化ささえる能力だ。

よりサステナブルな消費規範と地位を結びつけることは、消費行動を変える強力な方法になる可能性がある。我々はまた、このような規範によって、消費と生産のつながりをより強くするべきだとも考えている。

消費行動を変えるためのもっと効果的な方法は、社会的利益をもたらす消費パターンを、地位と連動させることだ。そうすれば競争的利他主義が生まれる。
言い換えると、消費をもっと早く変えるには、ただ消費を減らすことを目指すのではなく、たとえば資源を枯渇させないサステナブルな生産技術に基づくような新しい消費行動に高い地位が与えられれば良いのだ。




”多様化”が、いざという時絶滅しないためのリスクヘッジの意味の他、”格差緩和”の意味合いがあるということが消費(コンシューマリズム)における「クールな消費」という概念と合わせてよく理解できた。
中世に比べて現代は物質的に豊かになり、格差が拡大している。
これは「平等」を求める本能からすると許されざるほど拡大しており、そのためエリート層も革命等社会不安要因のヘッジとして多様化を認めて推進しているという構図なのであろう。

2016年6月13日月曜日

『女子高生と学ぶ 稲盛哲学』

麗沢大学大学院の髙嚴先生が、女子高生との対話形式で(実際に対話して)稲盛について語っている本。
橘玲氏の本で正義論について学んだので、別の切り口から稲盛さんがどのように考えているのかを知りたくて読んだ。

稲盛氏の「人生・仕事の結果に関する方程式」
人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力
「方程式の中で最も重要なものが『考え方』である」

稲盛哲学は、アリストテレスの哲学に近いものとして整理されていて、橘玲氏の言うところの「共同体主義」に近い考え方である。
結論から言うと身も蓋もない感じだが、他に「自由至上主義」と「社会自由主義」と「功利主義」を挙げている。

<自由至上主義>

自由至上主義とは「市場に任せておけば、各人の努力は報われる」とする哲学。
自由至上主義は、政府が余計なことをしなければ、一人ひとりはその努力に応じて評価されるので、結果として『正しい配分』が実現するとした(『配分的正義』)。
本来、自由至上主義の方程式は「社会のあるべき論」として提唱されたものであるが、ひとたび、仕事の結果が「熱意×能力」の積で決まるとなれば、優位にある者は「現在、劣位にある者は、皆能力や熱意が足りなかった」と主張し始めるかもしれない。
社会や人生には多くの偶然がある。不幸な人に対しそれは自業自得だ、と指摘しあう社会は住みにくい。

<社会自由主義>

社会自由主義とは、「市場に任せるだけでは、正義は実現しない」と主張。
相反する二つの哲学だが、どちらも「『良き考え方』など、他人に押し付けてはならない」「よいか悪いかは各自が自由に決めること」という前提から出発している。
社会自由主義は、各自の持っている才能や資質も、結局「偶然の産物」として捉える。
そもそも、才能や資質を偶然の産物として捉えるからこそ、才能・資質の結果として生まれる所得や富を格差原理に基づいて共有することを求めるのである。当然、市場は、格差原理に従った共有等促すことはできない。それは政府にしかできない調整である。
社会自由主義の発想は、行き過ぎれば日常生活に不満を持つ人々が暴走することを許してしまう。
また、権限をもった政府、政治家、官僚の権限が大きくなればなるほど、権限者を腐らせていく。より大きな政府を求める社会自由主義は、常に腐敗問題に悩まされるのだ。


功利主義については、他の二つの伝統的社会哲学とは一線を画すものとして整理されている。

<功利主義>

功利主義は、近代を特徴付ける有力な社会哲学となった。
幸福を大きくし、不幸を小さくすること、幸福の中身は各自が決めて良い、これが一人ひとりの生き方として、また社会のあり方として「倫理的に正しい」とした。
ジェレミ・ベンサムの「最大多数の最大幸福」という考え方。
功利主義は、「多数派の満足度が増すのであれば、少数派が不利益を被っても構わない」との冷たい論理を内有している。
加えて言うならば、全体の幸福(社会の厚生)を増やすことだけに重きを置き、「社会の中で、どのように幸福を配分するか」について何も語っていない。


<自由至上主義と社会自由主義(伝統的社会哲学)の共通点>

(理論的前提)
1.社会を構成する単位をバラバラの独立した個人としていること。
2.ある特定の『考え方』をよいものとして推奨するのを避けていること。
3.各自の努力を数年間など比較的短い期間の中で清算・調整されるものと捉えていること。

伝統的社会哲学は、社会を構成するものが、様々な人間関係を捨象してしまった後に残る「抽象的な個人」「バラバラな独立自由な個人」であると解する。
西洋由来の社会哲学では、扱うべき社会は、そのままでは説明のつかない対象であった。そこで、観察対象の社会を細かく分割(divide)していった。これをとことん進めていった結果、これ以上は分けられない(in-divide)単位に行き着いた。それが「個人」(in-dividual)という最小単位だったわけだ。
これに対し、稲盛哲学では、人をバラバラな個として扱うことはない。誰にも影響をうけなく、独立自由な個体に還元してしまえば、人が負うべき責任や担うべき役割までが見えなくなってしまうからである。どうしても社会を分けて整理したいというのであれば(あっても)、その最小単位は「個人」ではなく、「関係の中にある人」あるいは「人と人の関係」でなければならない。
英語で言えば「individual」ではなく、他の人との関係の中にある「person」(人)でなければならない。もともと「person」という言葉には、様々な「顔」の集合、多様な「役割」の集合という意味が込められているからである。

伝統的社会主義では、個々人に還元可能な所得や富が重要なものとして取り上げられる。 しかし、「人と人の関係」を想定した場合、個人のレベルに還元されるものに加え、関係のレベルに還元されるものも重要となってくる。 関係レベルに還元されるものの中には「共同で所有する共有地」といった財産も含まれようが、中心はやはり人々の間で培われるもの(「関係財」)となる。 具体的には、相互間の信頼、賞賛、尊敬、さらには、それを背景として社会全体あるいはコミュニティ全体に生まれる治安の良さ、生活の充実感、人々の絆などである。


<稲盛哲学における「自由」>

中世という時代は、人々の関係、特に支配と服従の関係が各自の自由を束縛する時代だった。 この時代と訣別するため、伝統的社会哲学は様々なしがらみに縛られない独立自由な個人を想定した。なので『よき考え方をもって行動せよ』と唱える哲学はすぐに中世思想への回帰あるいは意志の自由な発露を否定するものとして警戒された。

ドイツのイマヌエル・カントは、本当の自由とは欲望のままに生きることではない、とした。
本当の自由は、物理法則や欲望の鎖から、理性の力をもって自らを開放し、自身のやるべきことを自律的に決定し、行動することだとした。
稲盛氏がいう『自由』とは、まさにこのカント流の自由である。
稲盛氏の「自由」とは、物理的・生理的な法則に縛られないこと、身体に埋め込まれた欲求や本能に振り回されないこと、人間だけが持っている「理性」の力を発揮し、進むべき方向を自らの意思と責任で決めていくこと、である。これこそ本当の意味での自由であるとした。

自己利益に縛られ、本能のままに行動するようになれば、人は信頼関係作りを避けてしまう。信頼関係作りには必ずどこかの段階で自己犠牲が求められるからである。


<稲盛哲学とロールズの正義論の違い>

最大の違いは、正義の原理・原則を導きだそうとする人の『事前知識』の中にある。
原理・原則を導きだそうとするひとのことを『構想者』という。その「構想者」が事前に持っている知識が「事前知識」。
稲盛哲学における構想者は「生活の糧は多いほど良いかもしれないが、他人との関係も考慮し、その取得・活用を考えるのが合理的である」といった「事前知識」を持つ。
これが、「自分の所得や富は多ければ多いほどよい、自分の権限は大きければ大きいほどよい」とするロールズの事前知識と異なる。


<稲盛哲学における「正義の原理」>

稲盛哲学における「正義の原理」は、おおよそ次の二つにまとめられる。
大雑把ではあるが、「人と人の関係」「関係の中にある人」などを重視するものが正義を模索すれば、ここに行き着く。
(1)積極的行為に関する原理
(a)社会の上にいる人ほど、あるいは恩恵に浴している人ほど、社会に役立つ積極的行為に努めるべき
(b)結果の社会還元、取り分の自制等の積極的行為は、基本的に受益者側が権利として要求することではない
(2)消極的行為に関する原理
(a)社会の上にいる人ほど、あるいは利益を上げている企業ほど、違法・脱法などに走らぬよう、一層の注意を払うべき
(b)違法・脱法行為には、誰もが関与してはならない

現代社会の問題として、①所得の格差、②治安の悪化と地域社会の荒廃、③濫訴社会、という三つの問題に触れたが、関係重視の二つの原理が解決に資するとすれば、それは、少なくとも「配分的正義の問題」に関し、伝統的社会哲学を補うものとなり得るはずだ。


<偶然による撹乱>

偶然による撹乱で、『人生・仕事の結果に関する方程式』など成り立たない、と皆が考えるようになってしまう可能性がある。
逆の危険性もあり、皆が「人生・仕事の結果に関する方程式」を妄信的に支持すれば、その場合も社会は豊かさを失う可能性を持っている。(偶然の撹乱により、不運に見舞われた時、誰もが「それは、あなたの考え方が悪いから」「自業自得」というような社会ではない)
自由至上主義が劣位にある者に対し冷たい社会をつくる可能性があると指摘したが、稲盛哲学の方程式も、使うものが使い方を誤ると、同じ過ちを犯してしまう。

稲盛哲学の方程式は、あくまでも、自らにあてはめ、将来に向かって進もうとする人が、自身の生き方を考えるために用いるもの。それが稲盛哲学の狙いとするところであり、人間として正しい『方程式』の使い方。

稲盛氏は、偶然による撹乱と方程式に従った実践、この二つの関係を「運命」と「因果応報の法則」という言葉を使って説明している。
「『運命』というものは決まっています。我々が望んで動かせるものではありません。一方、『運命』と同時並行で流れる『因果応報の法則』はそうではありません。この法則を使えば、決まっているはずの『運命』すらも変えられるのです。このことを『立命』といいます」


稲盛哲学。
単なる哲学的な思考を問うだけでなく、実業家として京セラ・KDDI設立、JAL再建を成し遂げた実績があり、非常に説得力をもって迫ってくる。
女子高生とのやりとりがあるのも、具体的な話しが入って分かりやすくさせている。

2016年4月22日金曜日

人事異動

ここのところ、投稿のペースが鈍っている。
実は4月に異動となり、新天地にて働き始めたからだ。
新たにできた部署ということもあり、3月の初旬に出た辞令から今日まで結構走り詰め。

異動は全く予想していなかったので、ちょっとギアチェンジに時間がかかったし、身体が保つかも心配だったが、なんとかGW前まで突っ走って休みに突入することができそうだ。

GWは今度は家族サービスを兼ねながら旅行でもと計画している。

また年初の抱負が異なるイメージとなってしまったが(2年前もそうだった)、GW英気を養って、また走り続けよう。

『「読まなくてもいい本」の読書案内』

橘玲氏の著作。タイトルは過激というか、いい加減という感じだが、内容は極めて真面目で非常な名著である。
「パラダイムシフト前の小難しい本は、よほどの専門領域で勉強しているのでもない限り読む必要はない」という、時間の少ないサラリーマンにはありがたい趣旨の本。

20世紀半ばからの半世紀で起こった”知のビッグバン”の原動力になっているのが、複雑系、ゲーム理論、脳科学等の爆発的進歩だ。
この”知のパラダイム転換”がなんと進化論をベースとしているというのが面白い。
この本を読んだ人は皆、進化論信者になること請け合い(笑)

<進化論>

進化論とは
「遺伝的変異と自然選択で繁殖度(包括血縁度)を上げることによって、生物が環境に適応するよう多様化する過程」
のこと。

進化論を否定する「三つのジコチュー」がある(いる)。
①進化の長いタイムスケールを理解できない
②個体のタイムスケールの違いを錯覚している
③ヒトを進化の頂点だと考える。

何故、こういったジコチューが起こるのか。
①生命はおよそ40億年前に誕生した。ヒトの祖先がチンパンジー、ボノボ、オランウータン、ゴリラなどの類人猿から分岐したのが約600万年前、現生人類であるホモ・サピエンスがアフリカで誕生したのが約10万年前と考えられている。農耕の開始は一万年前。
人は1年と10年の違いを直観的に把握することはできるけれど、1万年が40億年の40万分の1であることを上手く理解できない。これは我々の時間感覚が自分の寿命を基本にしているからだ。ほとんどのひとが100年先のことに興味を持たないのは、どうせその頃には死んでいるからだ。これは過去についても同じで、100年以上前の出来事はすべて「昔話」だ。

地球の誕生(46億年前)を1月1日とすると、生命が誕生した(40億年前)のが4月8日、それから11月1日(8億年前)までは単細胞生物しかおらず、最初の魚類が出現したのが11月26日の午後。
恐竜の時代は12月9日から26日あたりまでで、最初のサルが出現したのが12月25日、人類の祖先が現れたのが12月31日の午後8時10分だ。エジプトやメソポタミアに最初の文明が誕生してからは、わずか30秒しか経っていない。
あるいは、子供達に両腕を広げさせ、右手の指の先を地球の始まりとし、左手の指先を現在とする。そうすると、右手首から始まってだいたい左手の手首までは色々なバクテリアが生息していた時代、恐竜はだいたい左手の掌あたりで登場し、ヒトは左手の爪先位になる。人類の文明は爪先をやすりでひとこすりして、爪から落ちた粉の分しかない。
わずか数千年の人類の文明史から進化を理解できないのは、30秒の出来事で一年を語ったり、爪の先の粉から両腕の長さを計れないのと同じことだ。ましてや自分の数十年の経験から、直観的に進化のタイムスケールが把握できるはずはない。だが世の中には自信過剰なひとがものすごくたくさんいて、彼らは科学的な事実と直感が対立した場合、無条件に自分の直感が正しいと信じるのだ。

②現代人は動物の中でも極端に長い寿命を持っていて、それを無意識の基準にしているけれど、ほとんどの生き物は生まれてすぐに死んでいく。すなわち、世代交代の間隔が短く進化のスピードが速い。
イヌの寿命は15歳前後で、ヒトがせっせと交配という”遺伝子組み換え”をやった結果、わずか数百年でセントバーナードからチワワまで多様に進化した。(オオカミの一種が家畜化されたのは1万5千年ほど前とされているが、品種改良が進んだのは18世紀以降だ)
ネズミのような小型の哺乳類でも生き物の中では大きい方で、ほとんどの昆虫は寿命が1年以内で、数ヶ月で世代交代していく。彼らの”進化時間”はヒトよりずっと速いから、我々にとっての40億年は虫達にとっては100兆年くらいに相当する。

③自然(生態系)はヒトを頂点とする一本の棒ではなく、峠がたくさんある、ゴツゴツとした岩山のようなものだ。
進化の基準を知性(意識の複雑さ)に置くなら、ヒトが最も優れているのは疑いない。だが子供の数や繁殖度で進化の効率を測るのなら(学問的にはこちらが主流)、最も成功した生き物はアリやハチなどの社会性昆虫になるだろう。
「進化論的に優れた生き物」を議論するよりも、すべての生き物がそれぞれの進化の頂点にいると考えた方がすっきりする。


<進化生物学>

1976年、”進化の伝道師”リチャード・ドーキンス 『利己的な遺伝子』 進化の主役を個体ではなく、遺伝子にしてしまった。すべての生き物は遺伝子を後世に引き継がせるための「ヴィークル(乗り物)」なのだ。 進化における個体から遺伝子はの視点の転換は、天動説から地動説へのコペルニクス的転換に匹敵する衝撃だった。

女王を中心に大きな集団(コロニー)をつくるハチやアリは、半倍数性という特殊な生殖をする。
半倍数性の昆虫は、メスが2組のDNAを持つ「二倍体」なのに対し、オスは未受精卵から育つためDNAが一組しかない。これが「半倍数隊」で、二倍体のメスと半倍数隊のオスが両性生殖するのが「半倍数性」だ。
まず妻は、夫とセックスしなくても息子を産むことができる。息子は半数体で、母親の二組の遺伝情報から一組を受け継ぐのだから、その血縁度は1/2。だが夫から見れば、自分とは何の関係も成しに妻が勝手に男の子を産むのだからその血縁度はゼロになる。半倍数性の家族では、父親と息子は常に他人なのだ。
妻が娘を産もうとすれば、二本のDNAが必要になるから夫とセックスしなくてはならない。こうして産まれた娘の血縁度は、母親から見れば、二組の遺伝情報から一組を受け継いでいるのだからやはり1/2。一方、夫からすれば、娘は自分の一組の遺伝情報をまるごと受け継いでいるのだから血縁度は1になる。
息子にとっての兄弟姉妹は血縁度が1/2。だが、娘からみた兄弟姉妹の血縁度は異なる。
娘にとって兄や弟は、父親の遺伝子を持たず、母親から1/2の遺伝子を受けついているのだから、血縁度は1/4。それに対して、(娘にとって)姉や妹は、父親の遺伝子全てと母親の遺伝子の1/2を共有しているのだから、その血縁度は3/4になるのだ。
このように半倍数性の生き物では、メスにとって自分の子供(息子や娘)の血縁度が1/2なのに対し、姉妹の血縁度は3/4になる。
生き物が血縁度を最大化するように進化するとしたら、メスは子供をつくるよりも姉妹をできるだけ増やそうとするに違いない。そしてそれこそまさに、アリやミツバチなど半倍数性の生き物がやっていることなのだ。
社会性昆虫のコロニーでは、一匹の女王がたくさんのメスとごく少数のオスを産む。メスは生殖も産卵もしないワーカーとなって、女王が卵を産むのをひたすら手助けする。オスは女王と結婚して、自分と遺伝子を共有する娘をできるだけ多く産ませようとする。そう考えれば、社会性昆虫の「女王」は利己的なメスのワーカーと利己的なオスによってつくられた産卵マシンなのだ。
こうして、進化論における”知のビッグバン”、社会生物学(進化生物学)が誕生した。

ジョン・メイナード=スミスは、生き物を「遺伝子のコピーの最大化」というゲームを行うプログラムと考えた。
この時にスミスが使ったのが、フォン・ノイマンが編み出したゲーム理論だ。
ゲーム理論は血も涙もない「合理的人間」を前提としていたが、現実的には人間は完全に合理的に行動する訳ではない。
ところが、メイナード=スミスは、昆虫には「血も涙もない」のだから、彼らこそがゲーム理論通り合理的に行動するはずだと考えた。
「合理的経済人」はいないかもしれないが、「合理的経済虫」はいたるところに存在する。なぜなら進化は、遺伝子の複製を最大化する「合理的な戦略」だけを選択していくのだから。
メイナード=スミスはこれを「進化的に安定な戦略(ESS/Evolutionarily Stable Strategy)」と名付けた。これは、生物学を根底から変えてしまうスゴい発見だった。

①生き物はできるだけ多くの子供をつくるのではなく、できるだけ血縁を増やすように進化していく。
②これは、より多くの複製を残す遺伝子が受け継がれていくということでもある。このように考えれば、全ての生き物は「利己的な遺伝子」の乗り物に過ぎない。
③生き物は、「遺伝子の複製の最大化」というプログラムを搭載した”機械”であり、他の生き物と対立や協調のゲームをしている。その行動はゲーム理論で数学的に記述できる。
④生き物の戦略は「遺伝子という効能」の最大化でもある。だとすれば、動物や植物の生態系は投資や市場取引として経済学的に説明できる。

<進化生物学その2>

進化生物学者ロバート・トリヴァースの「親の投資理論」
トリヴァースは、生き物はそれぞれ子供をつくる(遺伝子を複製する)のに異なるコストを払っていると考えた。
例えば魚や昆虫のメスは一度に大量の卵を産むから、大きな投資は必要ない。こうしたローコストの繁殖戦略では、卵の一部が孵化すればいいだけだから、一所懸命子育てしようとは思わないだろう。
一方、哺乳類のメスは、妊娠から出産までの期間が長いし、一度に産める子供の数も限られている。これはハイコストの繁殖戦略で、せっかく生まれた子供は大事に世話して大人にしなければならない。これが哺乳類が「子育て」をするようになった理由だ。

男と女でも進化論的にはとるべき戦略が異なる。
男と女では生殖機能が違う。男の場合は、精子の放出にほとんど労力(コスト)がかからないが、女性は、受精から出産までに9ヶ月もかかり、無事に子供が生まれたとしても更に長い授乳期間が必要になる。子供をつくるときの”投資金額”がオスとメスでかけ離れているとき、進化論は最適な生殖戦略が性によって異なるはずだと予想する。
ローコストの男がより多くの子孫を残そうとすれば、できるだけ多くの女性とセックスすればいい。すなわち、乱交が進化の最適戦略だ。それに対してハイコストの女性は、セックスの相手を慎重に選び、子育て期間も含めて男性と長期的な関係をつくるのが進化の最適戦略になる。セックスだけして捨てられたのでは、子供と一緒にのたれ死にしてしうのだ。
男性はセックスすればするほど子孫を残す可能性が大きくなるのだから、その欲望に限界はない。一方、女性は生涯に限られた数の子供しか産めないのだからセックスを「貴重品」としてできるだけ有効に使おうとする。

これまで人類は、文学や音楽、映画などで男と女の「愛の不毛」を繰り返し描いてきた。しかし進化心理学は、恋人同士が分かり合えない理由をたった一行で説明してしまう。すなわち、「異なる生殖戦略を持つ男女は、”利害関係”が一致しない」のだ。
ゲイは、バーなどのハッテン場でパートナーを探し、サウナでの乱交を好む。エイズが流行する前にサンフランシスコで行われた調査では、100人以上のセックスパートナーを経験したとこたえたゲイは全体の75%で、そのうち1000人以上との回答が4割近くあった。彼らは特定の相手との長期の関係を維持せず、子供を育てることにもほとんど関心を持たない。
それに対してレズビアンのカップルは、パートナーとの関係を大切にし、養子や人工授精で子供を得て家庭を営むことも多い。レズビアンの家庭は、両親がともに女性だということを除けば(異性愛者の)一般家庭と変わらず、子供達はごく普通に育っていく(母子家庭の子供よりも社会的に成功する比率が高い)。一方、高齢のゲイ同士のカップルというのはほとんどなく、養子をとることもないので、人生の最後は孤独に苛まれるのだと言う。
ゲイの乱交とレズビアンの一婦一婦制は、男性と女性の進化論的な戦略の違いが純化した結果なのだ。


<進化心理学>

ヒトのからだが進化によってつくられたのと同じように、我々のこころや感情も進化によって生まれた。
進化心理学は、ヒトは「進化適応環境(EEA/Environmental of Evolutionary Adaptedness )に最適化されていると考える。
石器時代のプログラムを起動させることで、「裏切り者」をたちまちのうちに探し出すことが出来る。

進化適応環境(EEA)である石器時代には、そもそも「負債」などという概念はなかった。原始人が知っていたのは、獲得する(利益を得る)か、奪われる(損をする)かの二者択一だ。その上原始時代には、富を蓄える手段がほとんどなかった。獲得するものの多くは生の食料で、たくさんあっても腐らせるだけでほとんど役にたたなかった。大事なのは大量に獲得することではなく、確実に獲得することなのだ。
それに対して、損をする=獲物を奪われることは直ちに死を意味した。絶対に損をしないことが生存の条件で、万が一損をしたら直ちに取り返さなければならない。そう考えれば「生きる望み」のある選択肢(損失確定ではなく、損失のない可能性がある選択肢)が選好されるのは当然だ。
「プロスペクト理論」は、ひとは得をするときと損をするときで「プロスペクト(見通し)」が大きく異なることを示した。このような「非合理性」が生じるのは、進化の過程のなかで、(確定)利益を好み(確定)損を嫌うプログラムが強化されてきたからだ。


<正義とは>

「正義とは何か」という原理的な問いを考えてみよう。
現代の脳科学はここでもたった一行で正義を定義する。
「正義は娯楽(エンタテインメント)である」 正義の特徴は、強い感情を伴うことだ。進化論的に言えば、特定の状況に置かれたヒトが泣いたり笑ったりするのは、脳にあらかじめ組み込まれたプログラムによるものだ。
お笑い番組で号泣したり、恋人が不治の病で死んでいく場面で腹を抱えて笑うようなひとは、相当な変わり者だから皆に相手にされず、うまく子孫を残すことができない。
哲学や倫理学の小難しい理屈で説明される道徳や正義は、すべて「正義感覚」という感情を基礎としているのだ。
ひとは、気持ちのいいのは正しいことで、不快なのは悪いことだと無意識のうちに判断している。セックスが快楽なのは子孫を残す行為だからで、腐ったものが不味いのは食べたら病気になるからだ。長い進化の歴史の中で、我々は「気持ちいい」ことだけしちれば大抵うまくいくよう「設計」されている。 復讐はもっとも純粋な正義の行使で、仇討ちの物語があらゆる社会で古来語り伝えられてきたように、それは人間の本質(ヒューマン・ユニヴァーサルズ)だ。 そればかりか、「目には目を」というハンムラビ法典の掟はチンパンジーの社会にする存在する。
ひとは何故これほど正義に夢中になるのか。その秘密は、現代の脳科学によって解き明かされた。脳の画像を撮影すると、復讐や報復を考えるときに活性化する部位は、快楽を感じる部位と極めて近いのだ。
復讐がなぜセックスと同じ快楽になるのか。その理由は簡単で、折角手に入れた獲物を仲間に奪われて反撃しないようなお人好しは、とうの昔に淘汰され消滅してしまったからだ。生き残ったのは「復讐せざるもの死すべし」という遺伝子なのだ。
こうして、ヒトやチンパンジーのような社会的生き物は、「正義」の行使(裏切り者を罰すること)を娯楽=快楽と感じるように進化してきた。
ハリウッド映画から時代劇まで、「悪が破壊した秩序を正義が回復する」という勧善懲悪の陳腐な物語がひたすら繰り返されるのも無理はない。


<マーケットデザイン>

社会をよりよいものに設計しようとすることを「マーケットデザイン」というが、そこで大事なのが「パレート効率」という考え方。「誰かの効用を犠牲にしなければ他の誰かの効用を高めることができない状態」と定義されるが、逆に言うと「誰の不利益にもならずにいまより幸福になれるなら、それはみんなにとってもいいことだ」ということになる。
パレート効率性と並んでマーケットデザインで重要になるのが、「個人合理性」で、”抜け駆け”ができないという基準だ。
分配がパレート効率的でも、個人合理性の基準を満たしていないと、せっかくの約束事が無駄になってしまうのだ。

マーケットデザインでは、パレート効率性と個人合理性の両方の基準をクリアした分配方法を「コア」という。
コア(パレート効率性+個人合理性)に加えて、「耐戦略性」という基準も大切だ。 耐戦略性というのは、虚偽の申告をするなどの戦略的操作が可能でない、正直であることがもっともいい結果を生むような分配方法になっていることだ。
マーケットデザインとは、「市場の機能が使えない時に、ゲームを上手にデザインすることで、市場と同じようなコアの分配を成立させる」技術のことなのだ。

実は、市場メカニズムを含むどのような分配方法でも、耐戦略性を満たしたコア(パレート効率性+個人合理性)を実現することはできないということが、これも数学的に証明されている。これが社会選択理論における「不可能性定理」で、全ての望みを満たす理想の世界はあり得ないということだ。
最適な分配を考える時には、パレート効率性、個人合理性、耐戦略性のどれかひとつをあきらめなくてはならない。
これは典型的なトレードオフで、市場取引は、コアではあっても戦略的操作に対しては脆弱性がある。しかしそれでも、自分の選好を偽ることで市場全体の配分を変えるのは非常に難しいから(株式市場において嘘の情報を流す風説の流布は、仮に成功しても犯罪になる)、市場の仕組みはやはりダントツによくできているのだ。

マーケットデザインを使えば、市場でうまく扱えないものでも、市場取引と同様の効率的な分配ができる。この仕組みはコンピュータのアルゴリズムと同じだから、条件さえきちんと整えれば、いつでもどこでも最適の結果が実現する。
アルゴリズムというのは、要するにルールのことだ。そうなるとマーケットデザインで法律をつくればいいではないか、と考える人も出てくる。
法律の中でも、民放や商法、会社法、税法などは市場のルールを決めるものだ。その目的は市場の機能を最大限活かすことだけど、法律家の常識(というか思い込み)と市場の現実がどんどん乖離して、色んなところでうまくいかなくなっている。
その責任の大半は有権者という名の既得権益層に振り回されて合理性を無視する政治にあるのだけど、これまでの法学が唯我独尊で、直感的(進化論的)な正義感覚だけで市場のルールをつくろうとしてきたことも否定できない。
だったら、市場のルールは株式取引などやったことのない法学者ではなく、経済学(ゲーム理論)を活用してつくった方がいいと考える人が多くなるのは当然で、経済学的に合理的な法律をつくろうという「法と経済学」がいまでは世界の主流になっている。


<進化論による説明>

「人はなぜ老いるのか?(思春期に生殖能力を最大化するため)」
「病気はなぜあるのか?(ウィルスと免疫との”軍拡競争”)」
「神はなぜいるのか?(脳のシミュレーション機能の自然への拡張)」

チンパンジーは相手のこころを映す鏡を持っているかもしれないが、シミュレーション能力は極めて限られている。
それに対してヒトは、未来をシミュレーションすることで、社会集団の中でより有利な地位を獲得し、生殖の機会を増やしていった。これは極めて強力な武器なので、自然選択(性淘汰)によっていずれは群れの全員がシミュレーション装置を持ち、相手の出方を読み合うようになるだろう。この複雑な相互作用(フィードバック)から自分や相手の「内面」が実体化したものを、僕たちは「こころ」と呼ぶようになったのだ。
ひとは物心ついた時から死ぬ瞬間まで、意識がある限り「if…then…」の思考をひたすら繰り返している。仏陀はこの終わりのないシミュレーションを「煩悩」と呼び、修行によって「if…then…」の回路を遮断し、とらわれのない心の静けさに至ることを目指した。悟りの境地は「涅槃(ニルヴァーナ)」で、それは「寂静(じゃくじょう)」とも言われるが、これは意識の機能を停止した状態が死の世界であることをよく示している。
すなわち、死ななければ悟りは得られないのだ。


途中以前の橘玲氏の著作で紹介した、進化論的に正しいとされる「正義」からくる3つの政治的主義(「自由主義、」「平等主義」「共同体主義」)の話し(および進化論的から派生していない功利主義)は割愛したが、非常に体系的に知的興奮を味わえる良書。

2016年2月20日土曜日

『限界マンション』

マンション。
その最後はどうなって終わっていくのか。
あまり考慮されずに拡大再生産されていくマンションの行方について予見した本。
結論からすると、解体費を誰が負担するのか、という点に行き着き、所有者が負担できないとなると最終的には公費(税金)にて賄われることになるのではないか、という見立て。
空家関連を始めとした様々な法制度の経緯や数値が分かりやすく述べられている。


<数値編>

◯総務省「住宅・土地統計調査」によれば、2013年の空家数は全国で820万戸(2008年対比+63万戸)、空家率は13.5%(2008年対比+0.4P)と、引き続き増加傾向にあることが明らかとなった。
空家のうち、特に問題になるのは、空家になったにも関わらず、買い手や借り手を募集していないもので、放置期間が長引くと劣化し、近隣に悪影響を与える問題の空家の予備軍となる(空家の内訳で「その他」にあたるもの)。その「その他」の空家の数は318万戸と5年前に比べ1.2倍となり、空家全体に占める割合も4割にまで高まった。

◯空家問題は今のところ一戸建てが中心であるが、近い将来、深刻になっていくと予想されるのが分譲マンションである。
分譲マンションのストックは全国で613万戸(2014年末)に達する。 マンションの居住人口は、1世帯当たりの平均人員2.46を(2010年国勢調査)を元に算出すると1510万人に達する。
613万戸のうち1981年6月以前に建設された旧耐震マンションは106万戸(全体の17%)、さらに1971年4月以前に建設された旧・旧耐震マンションは18万戸(全体の3%)。
ちなみに、旧耐震基準とは、1968年に発生した十勝沖地震の被害発生を踏まえ、1971年の改正により、鉄筋コンクリート造の帯筋の基準を強化したものである。
中地震(震度5程度)に耐え得る基準となっているが、大地震(震度6強〜7程度)へは対応していない。
新耐震基準とは、1978年の宮城県沖地震の被害発生を踏まえて1981年に策定されたもので、中地震に対して損傷しないことに加えて、大地震に対して倒壊しないことの確認を追加したもの。

◯マンションの完成年次別の空室率を見ると、全体の空室率は2.4%に過ぎないが、1974年以前に完成したマンションでは空室戸数の割合が10%以上の物件が増え、1969年以前になると空室戸数の割合が15%超の物件が増えていく。築40年を超えると、マンションの空室率が高まっていくことがわかる。

◯東京都区部では1.6〜2.8倍程度容積を割り増さなければ、採算に合わないとの筆者試算。実際に建替えできたのは、全国で211件、16,600戸(2015年4月時点)に過ぎない。(阪神淡路大震災関連を除く)

◯老朽化マンションでは既存不適格物件(建設当時の法令では適法だったが、その後の法改正によって違法となり、従前と同じ容積率で建替えることができなくなったなどの物件)が多く存在する。既存不適格物件は、1970年以前の建設で67%、1971〜1975年の建設で65%もあり(いずれも民間の物件、国土交通省調べ)、これらは建替えが極めて困難である。 このように建替えには限界があるため、他の方策も必要になる。
マンションの区分所有権を解消し、敷地を売却して終止符を打つ方法がそのひとつである。
この場合、区分所有権解消には全員一致が必要という条件がネックとなる。この問題は東日本大震災での被災マンションで、全壊判定されたマンションでも解体できない問題として浮上した。これを受け、法改正により被災マンションについては4/5の賛成で区分所有権解消が可能とされ(被災マンション法改正)、次いで、耐震不足のマンションについても同様の法改正がなされることとなった(マンション建替え円滑化法改正)
しかし、問題はこれで終わりではない。区分所有権を解消しようとしても、解体費用が捻出できない場合には、老朽化物件が放置される恐れがある。
戸建ての空家の場合、非常に危険な場合には、自治体が解体費用を補助するケースも増えてきた。だが、共同住宅であるマンションの場合、解体には億単位の費用がかかると考えられ、すぐに行政が費用を負担できるものではない。


<マンション法整備の歴史>

◯「マンション」という呼び方についてだが、鉄筋アパートにマンションという名称を使ったものは戦前にも見られたが、戦後では1959年に建設された「信濃町アジアマンション」が最初と言われている。「アパート」という言葉だと従来主流であった木造アパートのイメージでとらえられることもあったため、それに代わり消費者に優越感を与える新たな言葉が求められたからである。

◯1962年に「建物の区分所有等に関する法律」が制定された。法律制定当時のマンションの戸数は全国で1万戸前後あった。

◯大衆向けマンション市場にいち早く乗り出したのは秀和といわれる。秀和は1960年からマンション分譲に乗り出した。1966年には同社の大衆マンション第1号である「外苑レジデンス」を売り出した(分譲価格300万円台)。秀和はこの時、東部信用金庫と提携し、住宅ローンを使ってマンションを販売する手法を取り入れた。

◯マンション大衆化に伴い、マンションの取得について、公的支援を行う動きも出てきた。住宅金融公庫(現 住宅金融支援機構)は発足した当時から、個人については住宅を建設する場合に融資を行っていたが、1960年代後半からは分譲住宅の購入に対しても融資を行うようになった。

◯マンション供給増加により、様々な課題が浮上してきた。1960〜1970年代には、漏水、結露、排水など建物の欠陥(工事瑕疵の問題)を巡る問題がしばしば現れた。
こうした問題を受け、1977年には建設省から通達(「宅地建物にかかる取引条件の明確化、工事施工の適正化、建築物の設計および工事監理の適正化について」)が出され、デベロッパーは「アフターサービス基準」を整備した。
並行して、1970年代には、日常のマンション監理を委託している管理会社の業務に対する不満も表面化してきた(管理問題)。これは管理会社の業務が当時はまだ未成熟であった事によるが、1979年には業界で「高層住宅管理協会」が設立され、業務改善の取り組みがなされるようになった。

◯1980年代に入ると、マンションの修繕問題が本格化するようになった。外壁修繕工事などがしばしば行われるようになったが、これに伴い、修繕費積み立て基金が不足するなどの問題が生じるようになり、積立金の値上げや長期修繕計画の整備が検討されるようになった。

◯その後、1980年代後半から1990年代に入ると、初期マンションが築30年を迎えるようになり、建替え問題が現実問題となり始めた。

◯このように、マンションを巡る問題は、初期の「工事瑕疵の問題」から「管理問題」、さらに「修繕・建替え問題」と、時を経るにつれクローズアップされる問題が大きく変わってきた。

◯一方区分所有法は、1962年に制定された後、1983年と2002年に改正がなされた。
1983年改正の最大のポイントは、4/5以上の賛成があれば建替えが決議できることである。それまでは、マンションを建て替えるには全員の賛成が必要とされていた。
ただし、建替えを決議できるのは、「老朽、損傷、一部滅失その他の事由」によって「建物が価額その他の事情に照らし、建物がその効用を維持し、または回復するのに過分の費用を要するに至った時」に限られるとされた。
しかしその後建替えられたマンションは、全員の賛成によるもので、この基底が実際に適用されることは長らくなかった。
初めて適用されたのは、1995年の阪神淡路大震災に伴う、マンションの建て替えの際であった。この時、建替え決議が成されたケースで、「建物がその効用を維持し、または回復するのに過分の費用を要するに至った」のか否かを巡って、建替え非賛成派が裁判に持ち込んだケースも複数あったが、結局は非賛成派が敗訴するに至った。

◯2002年の区分所有法の改正では、この立て替えに関する規定で、「過分の費用を要するに至ったとき」という曖昧な要件が削除され、単に多数決で建替え決議を行うことができるようになった。1983年改正で導入された建替え規定が阪神淡路大震災で初めて試され、その問題点が明らかになったことを受けたものであった。
2000年に「マンション管理の適正化の推進に関する法律」の制定、2002年に「マンション建替えの円滑化等に関する法律」の制定が行われ、マンション関連法が整備された。 マンション管理適正化法では、区分所有法で設けられていなかったマンション管理の具体的なあり方が規定され、マンション管理の専門知識を有する「マンション管理士」の資格が新たに創設された。

◯一方マンション建替え円滑化法では、従来、建替え決議が成立しても、その後の事業を円滑に進めるルールが存在しなかったため、マンション建替え組合法人の設立、権利変換手法による関係権利の円滑な移行などについて新たに規定した。また、円滑化法では、有害・危険なマンションに対しては、市町村長が建替え勧告をできることとされた。


<海外の事例>

◯日本のマンション法制では、老朽化した場合に、多数決で建替え決議の選択ができるようになっているが、実はこれは、他の欧米先進国のマンション法制と比べると特異である。
アメリカの法制では、一切の事由を問わずに80%の議決による区分所有の解消は認められているものの、建替えは予定されていない。
ドイツやフランスの法制でも、老朽化による建替えは予定されておらず、区分所有の解消については、客観的な要件(一定規模を超えた滅失・損傷の場合)をもって行うことが認められている。
いずれも建替えは全く想定していないという点では共通している。
日本の場合、初期に建てられたマンションの寿命が長くなく、築後30〜40年程度で、現実問題として建替えをしなければそこに住み続けることが難しいという問題が発生したことが関わっていると考えられる。加えて日本では、所有権に対するこだわりが強く、それを解消する規定を設けることには大きな抵抗感があったという点も関係していると考えられる。

◯韓国では2009年までの建替え戸数は23万戸に達し、ソウル市の新規供給マンションの約3割が建替えによるものだった。
これは1990年代に入ってソウルなどの首都圏でマンション建設用地が不足するようになり、デベロッパーと所有者の利害が一致をみた結果、低層マンションが高層マンションに建替えられることが増えていったことによる。
韓国でも、日本の区分所有法にあたる法律により、多数決(当初4/5、2007年から3/4に緩和)で建替えを行うことが出来るが、実際には、危険建物であるという判定を受けた上で、行政処分で建替えを行っているケースがほとんだという。韓国では、住宅不足でマンション供給を増やさなければならないという社会的な要請に応える形で、行政処分で建替えができるという立法がなされた。ただ、成長期から成熟期に移行した現在の韓国では、マンション供給は過多となり、建替えは進まなくなっている。

◯シンガポールでは、一括売却制度によるマンション再生が進んでいる。
この仕組みは、当該マンションの危険性、機能の陳腐化など必要なニーズに対応できていないという前提のもと、所有者の多数決により、区分所有権の解消と一括売却ができるというもの。2013年9月現在で、一括売却の成立件数は829件にも達する。
シンガポール国内では土地は希少であり、その価格は上昇基調にある。そのため、一括売却により所有者がキャピタルゲインを得られることが多いことが、この仕組みの活用が増えている背景にある。

◯フランスでは、区分所有住宅は620万戸ほど存在する。住宅ストックの1/4という高い割合を占めるが、これらの区分所有住宅のうち、全体の5〜15%程度(30万〜100万戸)が、荒廃した状態になっているという。

◯イギリスでは、日本で言うところのマンションはフラット、定期借地権はリースホールドと呼ばれる。イギリスのリースホールドの存続期間は、一般的には99年である。このリースホールドで問題となったのは、メンテナンスが十分行われず、存続期間の満了時には極端に荒廃が進んだ状態になるという点であった。
こうした問題が発生するのは、リースホールドフラットの中でも、管理責任を賃貸人であるデベロッパーが負っているタイプであった。管理責任をフラット保有者が参画するフラット管理会社が果たすタイプでは、こうした問題は発生しなかった。この問題は、後に賃貸人の管理上の義務につき重大な違反が発生した場合には、フラット保有者が、賃貸人の管理権を強制的に取得できることにするなどの方法によって解決が図られた。
なお、現在のイギリスでは、日本の区分所有権に相当するコモンホールドが創設され(2002年)、マンションの供給は、リースホールド以外に、コモンホールドで行うことも可能となっている。
コモンホールドフラットでは、コモンホールド管理組合(日本の管理組合に相当)が管理責任を負う。デベロッパーの手は完全に離れているため、デベロッパーの管理義務不履行などの問題はそもそも発生する余地はない。


<空家問題>

◯5年に一度行われている総務省「住宅・土地統計調査」によれば、2013年の全国の空家数は820万戸、空家率は13.5%と過去最高を記録した。
空家には「売却用」「賃貸用」「二次的住宅(別荘用)」「その他」の4つの類型がある。このうち特に問題になるのは「その他」の空家である。
空家全体に占める「その他」の空家の割合は、2008年の35%から2013年には39%にまで高まった。 「その他」の空家318万戸のうち、不朽・破損ありのものは105万戸(33%)に達する。また、「その他」の空家のうち木造戸建てが220万戸(69%)で、220万戸のうち不朽・破損ありが80万戸(36%)に達する。

◯問題空家となる予備軍が増加している背景には、①人口減少、②核家族化が進み、親世代の空家を子供が引き継がない、③売却・賃貸化が望ましいが、質や立地面で問題のある物件は市場性が乏しい、④売却・賃貸化できない場合、撤去されるべきだが、更地にすると土地に対する固定資産税が最大1/6に軽減されている特例(住宅用地特例)が解除されるため、そのまま放置しておいた方が有利、などがある。

◯こうした状況は海外から見ると特異である。たとえば、近年のイギリスの空家率は3〜4%、ドイツの空家率は0〜1%未満と、極めて低い水準で推移している。
ヨーロッパでは市街地とそれ以外の線引きが明確で、どこでも住宅を建てられる訳ではない。建てられる区域の中で、長持ちする住宅を建てて長く使い継いでおり、購入するのは普通、中古住宅である。
アメリカも同じ考え方であるが、空家率が近年8〜10%と比較的高い水準で推移しているのは、国土の広さが関係していると考えられる。
ヨーロッパやアメリカの住宅市場では、新築と中古を合わせた全住宅取引のうち、中古の割合が70〜90%を占めるのに対し、日本ではその比率は10%台半ばという極めて低い状態になっている。日本では空家が増加する現在でも年間80万戸ほどの住宅が新築されており、2013年度は消費税率引き上げ前の駆け込み需要で、99万戸もの住宅が新築された。

◯過疎地で空家の増加に悩む島根県江津市において、空家所有者に空家を貸し出すための条件を聞いたところ(総務省自治行政局・島根県江津市2007)、
①空家の修繕費用を入居者が負担
②賃貸期間を5〜10年に限定する場合
③仏壇や位牌の安置場所が確保された場合 を挙げる所有者が多かった。
①は自治体が改修費などの補助を行うことでクリアでき、②は定期借家を活用することでクリアできる。③は所有者自身によって解決してもらうしかないが、所有者にも金銭的補助を与えることによって、売却・賃貸化に向けて仏壇などを片付けるインセンティブをより高めるという方法も考えられる。


<まとめ>

◯これまでの日本のマンションの特殊事情から、建替え規定が設けられた経緯があり、今になってこれを無くすのは現実的ではない。区分所有権の解消規定を新たに加えることが適当と考えられる。
こうした方向に向かうとすれば、マンションの終末期に関し、多数決による建替え決議が設けられた1983年の区分所有法改正、特別決議の要件が問われなくなった2002年の区分所有法改正に続き、区分所有権に制限が加えられることになる。
今後は、区分所有権は制約を受ける弱い財産権であるという認識を持つことがより一層必要になる。

◯最終的に問題になるのは、その解体費を誰が出すのかということである。
長期修繕計画の中で解体費用積み立てを義務づけることが一案であるが、区分所有者にとっては負担が増すため、その実効性を担保できるかは分からない。
義務づけたとしても実効性が確保されないことを勘案すれば、代替案としては、固定資産税を使うことも考え得る。


よくまとまってて、知らないことも結構ありました。

2016年2月11日木曜日

『23区格差』

会社の先輩から「面白い」と手渡された本。
「常識」とは逆に、定住率が高い区こそ「負け組」に、定住率が低い区こそ「勝ち組」になっている、ということを様々なデータと事例にて述べている。
全体を貫く趣旨もさることながら、個別の23区トリビアが非常に面白い。

<「定住率」という過ち>

国連の定義では、高齢化率が21%を超えると「超高齢社会」と呼ぶ。
2010年の我が国の高齢化率は23.0%。東京23区は20.2%。国全体では既に超高齢社会に突入し、東京23区も一歩足を踏み入れた状態にある。 先進国が高齢化していくのは、ある意味でやむを得ない面もある。『国連統計』によると、2010年のイタリア、ドイツの高齢化率はともに20.4%。日本ほどではないにしても、やはり高齢化が深刻であることに変わりはない。
日本の高齢化問題は、比率の高さ以上にそのスピードの速さに特徴がある。1990年から2010年までの20年間で、高齢化率が12.1%から23.0%へと約11ポイントも上昇。同じだけ高齢化率が上がるのに、イタリアは50年、ドイツでは60年以上を要している。
ところが、都心3区、千代田区・中央区・港区は近年高齢化率が低下している。

人口が増えることは、まちが若返ることを意味する。そうなれば高齢化率が改善されるか、改善されないにしてもその進行が抑制される。逆に人口が減ると高齢化が進む。これが常識的なメカニズム。
人口が増えると言っても、自然増では高齢化率に影響を及ぼさない。社会増(転入ー転出)による新陳代謝による人口増が高齢化率に影響を及ぼすのだ。

まちの新陳代謝を生み出すことが、高齢化対応の特効薬になる。
もちろん、全国レベルでみると高齢者は一方的に増えていくのだから、どこかで高齢化の進展が抑制されると、別のどこかでそのしわ寄せを受け、格差が拡大することになる。

「定住できるまち」とは、不動産広告のキャッチコピーとして定番だ。それ以上に、市区町村の施策においても、定住こそが絶対的な到達点とされる。こうして、我々の意識も「定住信仰」に縛られてきた。
なるほど、定住は右肩上がりの時代には意味を持っていた。安心して長く住める。住む価値がある、そんなまちこそが高い価値を持ち得た。しかし、社会全体がシュリンクを始めると、定住の負の側面が一気に顕在化してくることがある。「団地問題」はその象徴だ。

「常識」と逆に、定住率が高い区こそ「負け組」に、定住率が低い区こそ「勝ち組」になっている。定住率の向上を錦の御旗のように掲げる研究者や政治家や行政マンは、この結果にどうコメントするだろうか。
仮に人口が増えていなくても、転出入が多く、新陳代謝が活発であれば、まちの活気が維持される。当然のことながら、こうした新陳代謝を受け入れるためには、その受け皿となる住宅がなければならない。
中古住宅の転売市場が未成熟な我が国で、まちの新陳代謝、つまり人々の住み替え移動の受け皿となっているのは賃貸住宅、より正確にいうと賃貸マンションに代表される民間の賃貸住宅である。
2005〜2010年の5年間で、東京23区の人口は45万人も増えた。子供の独立など世帯の分離があるため、世帯の増加数は、人口を上回る52万世帯。このうち、持家の増加が吸収したのは3分の1の17万1千世帯にとどまり、およそ3分の2にあたる33万4千世帯は民間賃貸住宅の増加が吸収している。

まとめると、まちの活性化のためには新陳代謝が必要で、そのためには中古住宅の転売市場が未成熟な日本では、賃貸住宅という「リソース」が定住向けの持家よりも必要である、ということ。


<23区トリビア>

◯実は、東京23区の中で、渋谷のように区の名前、駅の名前、中心となるまちの名前の3つが一致している区はさほど多くなく、他には新宿区と中野区しかない。(練馬区は東武練馬駅もありちょっと違う)
区の名前と同じ駅名なら、品川、目黒、板橋がある。しかし実際には、品川駅は港区に、目黒駅は品川区に、板橋駅は板橋区、北区、豊島区の3区の境界に位置する。
ちなみに、新橋は港区、八重洲は中央区、有楽町・神田・秋葉原は千代田区にある。
◯2011年3月を境として、外国人達の東京脱出が起こった。 この影響を最も強く受けたのは、区民の10人に一人が外国人という新宿区。1997年以降一貫して増加を続けていた人口が2011年には減少へと転じている。
ただし、この動きは風評被害の側面も強かったためか、概ね2年で収束した。 新宿区の人口増加率を2008〜2010年(震災前)、2010年〜2012年(震災直後)、2012年から2014年(現在)の3区分で比較すると、2.5%→0.1%→2.3%と完全に戻っている。
◯刑法犯認知件数と、飲食店数の相関係数は0.26。酒場・バー・クラブなどの飲酒系飲食店数との相関係数は0.30。コンビニエンスストアとの相関係数は0.82。
「コンビニが多いまちは犯罪が多い」という相関がある。
◯2010年の『国勢調査』でも、「標準世帯」とされる夫婦と子供の世帯(27.9%)よりも、一人暮らし(32.3%)の方が多くなった。
一人暮らしのうち、学生の年代に相当する21歳以下の割合はわずかに6%しかない。20代以下にまで広げても22%にとどまり、30代が16%、40代が12%、50〜64歳が20%、65歳以上が30%。今や一人暮らしは、あらゆる世代に共通した存在である。
ここには、家族を単位に行動するという人間の生物学的な特徴が、現代の日本では通用しなくなったという事実が示されている。
その中でも、時代の先端を突き進むのが東京。 2010年の東京23区の一人暮らし世帯の割合は49.1%にのぼり、夫婦と子供の世帯(21.5%)の2倍を超える。
◯昼間の人口が一番多いのは港区。港区の昼間人口がトップに立つのは2005年。
現在港区に集まる企業活動の中で、特に集中度が高いのが情報通信業。
民間放送業においては、在京民放キー5局のすべてが港区に本社をおき、23区で働く民放社員の77%が港区に集まっている。ただし、これも21世紀にはいってからの話しで、フジテレビが新宿区の河田町からお台場に移転するのは1997年、日本テレビが千代田区麹町から汐留に移転するのは2003年。
(後はテレビ朝日が六本木、TBSが赤坂、テレビ東京が虎ノ門)
◯女性を100としたときの男性の割合を性比という。我が国の平均は94.8、東京23区は97.3と女性の方が多い。これは女性の方が長生きだから。
5歳未満の幼児の性比は、全国、東京23区とも104.8で男性の方が多い。生まれて来る子供に男性の方が多いのは、生物学的に男の方が死亡率が高いことを見越した、神の摂理によるものだ。
区別に見ると、性比が低く、男性に比べて女性が多い区は、目黒区、港区、渋谷区、文京区、世田谷区の順。これは「住みたい区ランキング」結果と似ている。
女性が好むのは「三高」の区。正しくは、千代田区と中央区を除いた「三高のブランド住宅区」となる。(目黒、港、文京)
一方、男性が好むのは、江戸川区を除くと都心への通勤が便利な区が並ぶ。(台東、千代田、豊島、江戸川、中野)
「三高ブランド住宅区」に住みたいと望む気持ちは男女に共通している。
女性にはこれを実現させる実行力があり、男性は、希望はあくまで希望に留め、実利を優先する。男と女の間に横たわる本質的な違いが性比の差を生んでいるとするなら、何とも奥が深い結果。

これだけ「東京」にお世話になっていながら、意外と知らない内容も多く楽しく読めた。