2015年4月29日水曜日

『お金はサルを進化させたか』

野口真人氏の経済行動学入門のような本。
知っているようで結構しらないことも多く、楽しみながら読むことができた。

サルから進化してきた我々人類の歴史はざっと20万年、これに比べるとお金の歴史は3000年足らずである。
歴史を紐解くと、不確実性が確率論という学問として取り上げられたのは中世、1600年代からだという。それ以前は、すべての出来事は神が決定したものであり、不確実性や偶然性を人が心配しなくてもよかったのだろう。
人と不確実性の関わりは不可避であり、人生を左右する大きな要素であるが、それを意識してからわずか400年しか経っていない。
人が「お金の使い方」に習熟しないのは、価値の尺度と貯蓄手段としてのお金にまだ慣れていないからだと考えたい。
一つには合理的に金銭的価値を測る術を知らない。もう一つには将来の不確実性への正しい対処方法がまだ確立していない。この二つが要因と言える。

「お金」というのも昨今のテクノロジーと同じく、人間の脳にとっては最近でてきたニューテクノロジーで、それ故理論と感覚がずれるということだ。

では、脳の感覚と理論がずれるケースをみていこう。

◯行動経済学者 リチャード・セイラー
「明日のリンゴ2個よりも今日のリンゴ1個を選ぶ人が、1年後のリンゴ1個よりも1年と1日後のリンゴ2個を選ぶ」
一般的に人は現在を過剰に重視する傾向があり、近い将来に発生するキャッシュフローの効用を大きく下げてしまう。
人は、将来の効用には低い割引率を適用する。

◯確率論は「神の視点」の学問と言える。神からみた一人一人は多くの標本の一つに過ぎない。 ところが、自分にとって自分を標本として客観的に見ることは至難の業になる。

◯モンティ・ホール・ジレンマ
あなたはテレビのクイズ番組に出て見事に優勝した。100万円の賞金は、あなたの前に並べられた三つの金庫A,B,Cのどれかに入っている。
その三つのうちどれかを選ぶかと聞かれ、あなたはAの金庫を選んだ。
司会者はあなたの顔をじっとみつめ、「まずBの金庫を開けてみましょう」とBを開錠した。 Bの中には何も入っておらず、あなたはひとまず安堵のため息をついた。
すると司会者があなたに質問した。「本当にAでよいですか?Cに換えることもできますが…」 司会者の提案にのるべきか、のらないべきか。 直感では、AとCどちらかの金庫に100万円入っているのだから、換えても換えなくても期待値は変わらないと判断しがち。
だが、実際にはCに換えた方が、Aのまま変更しないよりも、100万円を手に入れる確率は2倍になる。
Aの金庫に入っている確率は、Bを開ける前でも開けた後でも1/3。期待値は33万円。
一方、BかCどちらかに入っている確率は2/3。Bの金庫が空であることが判明した瞬間に、Cに入っている確率は2/3になり、Cを選んだときの期待値は66万円となる。

◯宝くじの錯覚
当たり確率1%のくじを100回引いたら 当たりの確率が50%のくじを2回引いたからといって、当たる確率が100%になるわけではない。
この場合、当たる確率は75%。2回引いて両方とも外れる確率は50%×50%の25%。これを100%から引いた75%が、2回引いて1回でも当たる確率になる。
当たる確率XのくじをX回引いて、1回でも当たる確率を計算式で表すと
1−(1−1/X)のX乗。
これでXを大きくしていくと確率は約63.2%に収束していく。
1000万分の1の宝くじを1000万回買ったとしても、1等が当たる確率は63.2%までしか高まらない。

◯「ほとんどゼロ」はゼロではないし、反対に「ほとんど確実」は確実ではない。
行動経済学の祖、ダニエル・カーネマンの提唱した理論の中に 「人は低い確率を過大評価し、高い確率を過小評価する」 という考え方がある。

◯カーネマンは、人間が感じる確率と数学的に求められる理論値とは別だと主張した。人間が感じる主観的確率と理論値との差は、その事象が起こった時の影響の大きさに関係するという。宝くじの1等賞金が10万円だったとしたら、人は冷静にその当選確率を判断できるが、3億円になると主観的確率が歪むのである。

◯カーネマンと彼の朋友トヴェルスキーは、理論的な確率から主観的確率を計算する式を、様々な実験を通じて作り上げた。 その式によると、理論的確率が35%以上になると、理論的確率より主観的確率の方が小さくなるという。これを確率加重変数と呼ぶ。

◯カーネマンは「感応度逓減の法則」を唱えた。
我々が感じる好ましさの変化量は、利得や損失が増加するにつれて逓減していくという。
人が利得を得たり損失を被ったりしたときに実際に感じる「満足度」を価値関数としてグラフで表すと、利得の場合も損失の場合も、左右両端に近づくにつれてグラフの傾きが小さくなっている。
何かの賭けをして1万円もらえる時と10万円もらえる時では、嬉しさは10倍違うかもしれないが、100万円もらえる時と110万円もらえる時ではそれほどの差はなくなる。
一方、同じ額であっても、利得が増加する満足度より、損失が増える「不満足度」の方が大きくなる。この現象は「損失回避」と呼ばれ、我々が損失に対して過剰に反応し、損失を回避したがる傾向にあることを示している。

◯人間の癖のひとつとして、「お金の量ではなく、お金の量の変化によって満足度は左右される」ということがある。
Aさんはピーク時に2000万円の資産を持っていたが、現在は1000万円に減ってしまった。一方のBさんは資産を500万円から1000万円にまで増やした。
AさんもBさんも1000万円の資産をもっているわけだが、1000万円を失ったAさんより、500万円を増やしたBさんの方が満足を感じているはずだ。
これはカーネマンが指摘した「参照点依存症」という「人の癖」である。
人間はお金についても変化に敏感である。その場合、どの状態から変化したかによって反応が異なってくる。反応の強弱の度合いは、変化を参照する地点ないし時点に依存するのである。


知らなかったのがファイナンスの世界における「リスク」という言葉の意味。
◯ファイナンス理論で用いられる「リスク」とは不確実性を指す。
不確実性とは「予想していた事象が起こる不確からしさ」を意味する。つまり「危険なことを好まざることが起こる可能性の高さ」というわけではない。
これを統計学で表現すると「標準偏差」ということになる。
◯リスク、ばらつき、ボラティリティ(予想変動率)の大きさとは、出発地点から到達地点までどれほど寄り道して動いたかを意味する。
出発地点から到達地点まで最短距離(つまり直線)で動いた株式のリスクはゼロである。
その株式の価格がどれほど動いたかどうかとリスクは関係がない。リスクは結果ではなく、それまでのプロセスを重視する。
◯モダンポートフォリオ理論
1990年にノーベル経済学賞を受賞した米国のハリー・マーコヴィッツ氏が1952年に発表した「ポートフォリオ選択論」から端を発する。
ばらつきを打ち消し合ってくれる投資を組み合わせることでリスクを低減できる。
将棋のプロ棋士二人と闘うゲームも「どちらかに勝てば必ずどちらかには負ける」というポートフォリオの状態を作ることで、「両方に勝つ」(ほとんどありえない)や「両方に負ける」(一番可能性が高い)というばらつきを回避できたのだ。

将棋のプロ棋士二人と闘うゲームは、シドニー・シェルダンの『ゲームの達人』にヒントを得たとの話だが、非常に面白い仕掛けなので、興味のある方は本を読まれたし。

◯ポートフォリオ以外のリスク回避手法としてはオプション取引がある。
オプション取引をすることによって、将来のキャッシュフローのばらつきを無くす(=リスク回避)ことができる。
オプション取引のリスクを回避するために株式を売買することを「デルタヘッジ」と呼ぶ。
◯ストック・オプションの価値は株価のばらつき(予想変動率)からくるので、その会社の株価上昇の見込みとは関係がない。

人間の感覚(脳の感じ方)と実際の理論値との違いという前段も面白いが、後段のファイナンスの世界における「リスク」(=不確実性、ばらつき)という考え方も非常に面白かった。


<面白小ネタ>
◯現存する最古の鋳造貨幣は紀元前7世紀にリディア王国で作られたエレクトロン貨と言われている。
◯日本における最大のギャンブルはパチンコで1995年には年間30兆円もの売上があったが、2011年には19兆円(▲37%)になった。
競馬は1997年に4兆円を売り上げたものの、2012年には2.3兆円(▲42%)まで落ち込んでいる。
ところが宝くじは2005年に1.1兆円の売上を記録してから2010年に0.91兆円まで落ち込んだものの落ち込み率は▲17%と、パチンコや競馬の半分程度に留まっている。
宝くじの払い戻し率は法律によって50%を超えてはならないとされている。
これに対し、公営ギャンブル(地方競馬、競艇、競輪、オートレース)の払い戻し率は74.8%になっており、宝くじより良心的である。
◯有史以来、人類が発掘した金の総量はざっと15万5000トンに過ぎない。これはオリンピックの公式プール約3杯分という。
◯ダイヤモンドの価格は、デ・ビアス社によってコントロールされている。
◯一都三県の築浅マンション(築10年以内)であれば次の簡単な計算式で、ほぼ適正な価値を出せる。
マンションの価値=毎月の家賃×200倍(割引率6%)
東京都、しかも港区や千代田区など都心部にある築浅マンション(築10年以内)であれば
マンションの価値=毎月の家賃×240倍(割引率5%)

実は最後のマンション価値のところが実際の業務では役に立つ部分かもしれない(笑)。

2015年4月26日日曜日

つなぐLab vol.007

 立教大学 異文化コミュニケーション研究科 特任准教授中西紹一先生による第7回「つなぐLab」。
今回のテーマは「アートでつながる瞬間」。

昨年度の六本木アートナイトで作品を出展した西尾美也氏のアート作品(アートプロジェクト)について、その製作参加者の意見も聞きながら洞察を深めるというものだった。

今回テーマとなった西尾氏のアート作品は、人間の家[スカート]、花柄/花、ボタン/雨と3つあるのだが、いずれも2800着の古着を集めて、総勢50名のボランティアスタッフによる約3ヶ月弱の製作期間を経た作品だ。
https://www.youtube.com/watch?v=oKAbZKcvzOU

西尾美也氏本人によるアートの意図の概要説明があった。
「服」というものは実は初見の先入観につながったりするので、深いところで実は分断する要素になっている。 その「服」という要素を使って「つながり」を表現したかったとのこと。

最初にボランティアの人たちから、アートプロジェクトに参加して何が変わったかを各々聞いた。
・今回参加の3/8の人が離職してしまった。(覚悟を持てて、仕事を辞めることができた)
・他のアート作品に対する見方が変わった。(アート作品そのものだけでなく、作品が作られた背景やプロセスなども気になるようになった)
・自分で購入する服が変わった。
・コミュニケーション能力がUPした(それまで、自分は「モノづくりの人」でコミュニケーションは正直苦手だった)

その後何組かに分かれて、参加していたボランティアの話を聞いたのだが、その気づきが面白い。
・途中からでも、すっと入れる雰囲気があった。
・ディレクターからのディレクションに「入りやすさ」の要素が埋め込まれていた。
(「自分がやっても良い」という安心感がある)
・しばらくすると作品作りではなく、人との対話、自分との対話になっていった。
・いつ来てもいいというゆるさもあるが、ボランティアをやめてしまった人はいない。
・ある瞬間から自分事化した(ダイブの瞬間)。
(でもこの「瞬間」は人によって異なる)
・実はこのチームの人間関係のつながりも西尾作品の一部と聞いてハッとした。

話を聞いていて、最初は入り易く、どこかで自分事化する瞬間がある(「ダイブする瞬間」という表現だったが)というのは正統的周辺参加のデザインと似ているのではないかと勝手に感じた。


たまたま法政大学社会学部 土橋先生と同じ組になれたので、このアートプロジェクトに対する土橋先生の見方を知ることができた。
曰く、
最もプライバシー性の高い私的所有物である「服」にハサミを入れ「解体」することで、私的所有を放棄しそれを公共空間に放り込む。
それがまた多くの人(ボランティア)の手によってアート作品となり、再び公共空間へ戻る。
プライベートで参加したボランティアが、「アトリエ」という場所に集うことでアトリエがパブリックな空間になっていくことと二重にシンクロしているアートプロジェクトである、とのこと。
社会学の先生の抽象化のスゴさにちょっとビックリした。

「まず切らないとつなげられない」ということを表現しているとの話もあった。

最後に、中西先生より、今回のテーマをアルフレッド・ジェルのアートネクサス論的に解説してもらったのだが、今ひとつ理解できずにモヤモヤ感が残る。
このモヤモヤ感こそがワークショップの醍醐味だったりもするのだが、このモヤモヤ感がスッキリ腑落ちするようまた精進せねば。

2015年4月12日日曜日

『アブダクション 仮説と発見の論理』

PSJ 中西紹一先生による『イノベーション道場』という講座が社内であり、そこで紹介された本。
米盛裕二氏の著作で、記号論理学の創設者チャールズ・S・パースによる「アブダクション(もしくはリトロダクション)」と呼ばれる推論手法について書かれたものである。

中西先生の講義はその「アブダクション」について、より実践的、実務的に説明されたものであった。

では本書で説明されている、ちょっと学問的な「アブダクション」の概略について書こう。

<そもそもアブダクションとは>
パースによるアブダクションの推論の形式を書くと

驚くべき事実Cが観察される、
しかももしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
よって、Hが真であると考えるべき理由がある。

驚くべき事実C:我々の疑念と探究を引き起こすある意外な事実または変則性のこと
H:「驚くべき事実C」を説明するために与えられた「説明仮説」

これを難しい記号で書くと
C,H⊃C/∴H
となるらしい。(正直訳が分からん)

具体事例で述べると、
「陸地のずっと内側で魚の化石のようなものが見つかった」(←驚くべき事実C)
しかし、もしこの「この一帯の陸地はかつては海であった」と考えれば当然の事柄であろう。
よって「この一帯の陸地はかつては海であった」と考えるべき理由がある。
と考える推論の仕方だ。

この手法で推論され、当時見つかってなかった海王星が実際に発見されている。


<推論3種>
パースによると推論は3種類に分類される。

推論(inference)— 分析的推論(analytic or explicative inference)—演繹(deduction)   
          — 拡張的推論(ampliative inference)— 帰納(induction)
                            — アブダクション(abduction)

分析的推論と拡張的推論の違い
(1)分析的推論は推論の内部における前提と結論の論理的な含意関係の分析にのみかかわるのであり、外的な経験的事実の世界には関わらない。なので分析的推論は経験的事実による反証にさらされることがなく、いわば経験から独立に成り立つ推論。一方拡張的推論は経験に基づく推論であり、経験的事実の成果に関する知識や情報を拡張するために用いられる推論。
(2)分析的推論では、前提から結論に至る過程において前提の内容を超える知識の拡張はない。一方、拡張的推論の結論は、前提以上のことを主張する、つまり前提の内容を超えて、前提に含まれていない新しい知識や情報を与える。
(3)分析的推論の場合は、前提の内容の中に結論が含意されているので、前提が真であれば結論も真でなくてはならないという必然性の関係が成立する。一方拡張的推論は、その本性上、蓋然的な推論である。つまり拡張的推論の場合は、前提が真であっても結論は偽であるということがあり得る。


では次に、拡張的推論が帰納とアブダクションに別れるその2つの違い。
パースによると、帰納は観察データに基づいて一般化を行う推論であり、これに対し、アブダクションは観察データを説明するための仮説を形成する推論。
「帰納と仮説の大きな違い(the great deference between induction and hypothesis)は、前者の場合は我々が事例の中に観察したものと類似の現象の存在を推論するのに対し、仮説は我々が直接観察したものとは違う種類のなにものか、そして我々にとってしばしば直接には観察不可能な何ものかを仮定する、という点にある。」

帰納的飛躍(inductive leap)…我々が事例の中に観察した着目現象はそれらの事例と同種の事象のクラス全体においても存在するという風に、既知の部分からその部分が属する未知のクラスへの飛躍であり、それはつまり同種の観察可能な事業のクラス内における一般化の飛躍。
仮説的飛躍(abductive leap)…我々が直接観察したものとは違う種類の何ものか、そして我々にとってしばしば直接には観察不可能な何ものかを仮定する、いわば創造的想像力による推測の飛躍。
従って、帰納とアブダクション(仮説)の推論の可謬性には明白な違いがある。アブダクションは帰納よりもいっそう過謬的な弱い種類の推論である。

説明されてもちょっと分かりづらい。
これはこれでおいておいて、使われ方の面から説明を受けた方が違いが分かりやすい。

パースによると、科学的探究の過程は三種類の推論(演繹、帰納、アブダクション)から成り立っており、これら三種類の推論は科学的探究の過程における三つの段階を形成している。
その第一段階はアブダクションであり、第二段階は演繹であり、第三段階が帰納。
アブダクションで仮説を考えだし、演繹で(その仮説から必然的かつ確率的に導かれる)諸帰結を追求し、帰納で仮説をテストする。
だから、帰納とアブダクションは探究の過程においてそれらが占める位置も、それらが果たす機能も違う。
アブダクションは探究の最初の段階(発見の文脈)において仮説を形成する推論であり、 帰納は探究の最後の段階(正当化の文脈)において仮説がどれだけ経験的事実と一致するかを確かめ、仮説を確証ないし反証する操作である。
アブダクションは理論を求める。帰納は事実を追求する。
アブダクションが取り扱う事実は、説明を要する事実。だからアブダクションが行う観察「アブダクティブな観察(abductive observation)」は仮説や理論を発案する、いわば着想のための観察。
これに対し、「帰納は事実を追求する」。
帰納の役割はアブダクションによって提案された仮説や理論を実験的にテストするのに必要な実証的諸事実を追求し、それらの事実を出来るだけ多く集めることである。つまり帰納が行う観察「帰納的観察(inductive observation)」は仮説や理論の確証ないし反証を行うための実験的実証的観察なのである。

要するに、仮説を立てるために使われる推論の手法がアブダクションで、それを実証するために使われる推論が帰納。どっちも演繹とことなって論理に跳躍(leap)があるんだけど、その確からしさは異なる(アブダクションは帰納より可謬的)ということだ。

著者によると、帰納主義者のフランシス・ベーコンや、ジョン・スチュアート・ミルらは、仮説がある前提での帰納がベースとなっており、仮説がどのように導かれたかについての考察はない。
二人とも仮説の提案が必要であり、帰納的探究は仮説によって導かれるという仮説の概念認識が欠如していた。


確かに、会社でも常に「仮説と検証を」「PDCAを回せ」と言われ続けているが、仮説やPLANをたてる方法論というものについては特になく、「現場百回」とか「観察して洞察せよ」とか概念的なものだけで、後は「ひらめき」のようなものに期待するということしかなかった。
「イノベーション」という、「改善」とは異なり、不連続を期待されるものをどのようにして発想して仮説をたてるのかということについての方法論は論じられてなかったし、まさにひらめきに期待する以外の方法論をもっていなかった。
それを今回中西先生の「イノベーション道場」ではパースのアブダクションをベースとした方法論を教示いただいた次第である。

科学的探究の過程になぞらえて、企業における業務推進の過程を考えてみると
アブダクション(マーケット・ターゲットの仮説の策定)→演繹(実践し、その実績をベースとしたルール化・必勝法の確立)→帰納(必勝法に基づいた実践、横展開)
という感じになろうか。
そう考えると、帰納<演繹<アブダクションという順に難易度が高く高次な業務ということになるのではないか。
よく社内で「ルール通りに仕事をするだけ(帰納)ならアルバイトで足りる。ルールを変えるの(演繹)が社員の仕事」と言われる。
さらに上をいくスーパー社員を目指すには「仮説の策定(アブダクション)」というところまで要求されるということか。
その仮説の立て方を「ひらめき」のようなものに依存するのではなく、一定の手法として論法化しているところが中西先生の実践的でスゴいところだと感服した。

理屈は教わったので、後は実践あるのみ。


2015年2月15日日曜日

『2018年までのマンション戦略バイブル』

あまり不動産関連の本って買わないのだが、ついつい気になることが書いてあるので購入して読む。
色々知らないビックリなことも書いてあって、恥ずかしながら非常に勉強になった。


基本的には日本の不動産を巡る7つのメガトレンドを示した上で、
「不動産投資は自宅で」「買うなら湾岸タワー」というのが著者の主張。

<7つのメガトレンド>

①デフレからインフレへ
これから数年は不動産でどう資産を形成するかを考える時期だと言える。
②人口増加から減少へ
今後、郊外では住宅に買い手がつかない状況となるだろう。
③相続対策需要の増加
東京都心部では、今から30年は続く「相続税対策特需」がある。
④資金の出し手の国際化
円安も進行し、外国人投資家の目からみれば、東京の不動産はまさにお買い得。
⑤不動産評価方法の変化
取引事例比較法から収益還元法へ。
⑥新築購入リスクの増加
これから数年間、新築で売り出されるマンションは、中古物件になったとき大きく値下がりする可能性が高い。
⑦自宅購入者の情報力向上
売る側と買う側の情報格差が縮小。

まぁ、正直このあたりは知ってるよ〜(もしくは言ってることは分かるよ〜)、という感じだが、相続対策需要の増加などは数字で説明されるとなるほどという感じ。

<相続対策需要の増加>

◯日本国民の個人金融資産を保有年代別に分けると、60歳以上は1000兆円以上を保有している。この1000兆円が保有者の死亡に伴う相続により、1世代およそ30年間をかけて次世代に移転されることになる。それだけで毎年33兆円。不動産を合わせると年間50兆円にも達する。 この巨大マネーの流れが相続対策用不動産の需要を生む。
◯国立社会保障・人口問題研究所「日本の将来推計人口」における推計では、現在およそ130万人の年間死亡者数は今後年を追って増加し、2040年頃に168万人〜165万人でピークを迎える。その後は漸減するものの、2060年になっても150万人を超えている。
2014年現在を上回る相続需要がこの先、30年以上続くのだ。

某高額物件仲介会社さんのチラシだと「相続税圧縮率」という指標が案件ごとに記載されていてビビったが、それも上記のような世の中の流れを捉えての話ということだ。

<不動産アービトラージ>

アービトラージとは「サヤ抜き」という意味。
【不動産アービトラージその1】
賃貸に出ている物件を入居者がいる状態で売却することを「オーナーチェンジ」と呼ぶ。 オーナーチェンジの場合、買い手は投資家となるため、利回りだけが注目され、価格は完全な収益還元法で決まる。
しかし賃貸物件ではあっても、ファミリーユースの場合、入居者が引っ越すのを待ってから空き家の状態で売れば、自宅用として購入する買い手が出てくる。多くの場合その方が高値がつく。
この投資用の収益物件と実需用のファミリーユース物件の価格差はアービトラージの代表例と言える。
投資用と実需用のアービトラージを利用して、オーナーチェンジ物件を買って空きになるまで待ち、入居者が出て行ったら売る、という売買を繰り返して利益を上げ成長したのが、ジャスダックに上場しているスター・マイカ株式会社である。同社はこの独自の視点による運用で時価総額120億円まで成長したが、その後ビジネスモデルを真似されて伸び悩んでいる。

【不動産アービトラージその2】
「タワーマンションの高層階の北向き物件は、中古になった時に値上がりする傾向が強い」
 2006年〜2010年の東京23区の中古マンション販売事例6万8683戸を調べ、方角別に中古騰落率を調査したところ、結果は北向きが11.0%値上がりしているのに対し、南向きは1.9%値下がりしていた。南北の騰落率差は12.9%に達しており、北向き物件を購入した方が1割以上お得だったのである。
新築時には、実物を見る前に購入を検討する。北向き物件は「日照ゼロ」ということで敬遠されることになり、デベロッパーは売りやすくするために「南北格差」を10〜20%設定する。
一方、中古物件の購入は実物を内覧した上で判断される。その際、北向き物件は開口部の間口が違う。
スタイルアクトのデータベースをもとに、75㎥の間取りの場合の主開口部の長さを方角別に算出すると、南向き物件の7.1m(7m×11m)に対し、東と西は7.9m、北向き物件は9.1m(9m×8m)と突出していた。これはデベロッパーが単価を高く設定できる南向き住戸を少しでも増やそうとした結果である。

うーん、北向き住戸の値付けについては認識していたけど、正直間口の広さにまで考えが及んでなかった。やられた感あり。


その他に、恥ずかしながらとても勉強になったこと。
◯賃料の下落率はざっくり10年で10%程度。
首都圏の家賃は過去20年間ほとんど横ばいで推移している。
本来統計上、家賃は消費者物価に連動することが判明しており、給与水準との間にも連動性が見られる。近年の日本で家賃が変わらなかったのは、過去20年間、消費者物価も給与水準も変わらなかったためと考えられる。

◯東京に人が集まるのは、そこに職があるから。大学生は3年で就職活動を行うので、大学3年時点で企業がどれだけの数、社員を募集するかで、卒業後に東京に流入してくる新卒の数が決まってくる。このため、大卒に対する有効求人倍率は、その2年後の流入人口の多寡に直結している。
(大卒の有効求人倍率が、2年後の単身者向け賃貸市場の需給の指標となる)

◯不動産価格と明確に連動している金融的な指標がある。市場のお金の量を示す、マネーストック(名目貨幣残高)である。
日銀短観(全国企業短期経済観測調査)の中の「貸出態度指数」というデータは、スタイルアクトで作成している「新築マンション価格インデックス」とほぼ連動している。
要は金融が緩和され、市場のマネーの量が増えると、不動産価格は上がるということだ。

◯「マンションは、エリア・価格帯に関わらず、坪当たり年に4万円値下がりする」
この法則は、過去20年のマンションデータ1万8千棟のデータを集計してマンションの値下がりの傾向を分析たものとのこと。
不動産会社の中でも中古案件の下落率ってよく分からない世界だったので、一つの指標(法則)を示されて目から鱗。


「湾岸タワーを自宅として転売を続けるべし」という結論に対しては異論がなくもないが、全体的に一般個人にも分かりやすいように書かれていて面白い。
実際にどうするかはやはり個人の価値観の違いということか。


不動産アービトラージの項で、著者が述べている内容に対してはちょいと耳が痛い。
「タワーマンション高層階の北向き物件についてのアービトラージは今後もしばらく続くだろう。なぜなら値付けを行うデベロッパーの担当者は、このことに気がついていない可能性が高いからだ。これが業界の実態である。不動産業界はいまだに「経験と勘と度胸」の世界なのだ。」

「士別れて三日なれば刮目して相待つべし」と言えるよう頑張ろう。

2015年2月1日日曜日

『村上式 シンプル仕事術』

グーグル日本法人の社長を務めた村上憲郎氏の本。
実は相当前(4年位前?)に購入して面白いのでまとめようと思ってとっておいた本。
村上氏の『村上式シンプル英語勉強法』も読んで感化され、英語の勉強に踏ん張った時期は既に5年近く前だ。

この本は実は仕事術のことはあまり書いていない(最初の2割位)。
むしろ、グローバル社会で西欧の人間とコミュニケーションを取るにあたり理解しておくべきキリスト教から仏教のこと、哲学のことが書かれている。
これが良くまとまっていて面白い。


<キリスト教について>

アメリカ人は自分の年俸や年収を堂々と包み隠さずに話す。
彼らの価値観では「背が高い」「学歴が高い」「年収が高い(多い)」ということは第一義的な価値ではないからだ。
彼らの価値の基準は「神様と直面した時にどうなるのか、どうするのか」にある。
キリスト教は形而上学だ。形而上学とは、我々の経験では確かめようのない言説のこと。確かめようがないから「信じるしかない」。
形而上学としてのキリスト教の本質を、手っ取り早く理解するには、旧約聖書と新約聖書を手元に置くこと。

まとめると、キリスト教における神とは、「唯一の時間的・空間的に無限の意識存在であり創造主」である。
「神による創造」について概要を述べる。
キリスト教の空間概念や宇宙観の底辺には、まず無限界がある。
「天」は「天国」ともいわれ、無限界の中に神が創った有限の時空間で、選ばれた存在だけが住むことの出来る神の国のこと。
「宇宙」は「世」ともいわれ、「天」の中に神が創った「天」とは違う、もうひとつの有限の時空間のこと。
「地」は「地球」のことで「世」の中に存在する、としている。

無限の過去(永遠の昔)から、すでに神だけの無限界があった。
↓
1.神が、天(神の国=天国)を創った。
↓
2.天(神の国=天国)が聖霊(神の霊)で満たされた。
↓
3.天(神の国=天国)に、神の名が置かれた。
↓
4.神が天使を創って、神の名を礼拝させた。
↓
5.天使の一部が、悪魔に変容した
↓
6.悪魔の仕業を打ち壊すため、無限界に神の子『イエス』が出現した。
↓
7.イエスが天(神の国=天国)に入って世(宇宙)を創造し、そこに悪魔を落とし込んだ。
↓
8.6日間で人間を含む創造がなされ、7日目が安息日となった。
↓
9.アダムとイブが創られ、「いのちの息」を吹き込まれた。
↓
10.アダムとイブは、エデンの園で、「いのちの息」によって、神との協和の中に生きていた。ところが悪魔(蛇)の誘惑によって、神から禁じられていた「善悪の木の実」を食べたことで自分で善悪の判断を始め、「いのちの息」が部分的に損なわれ、神との協和が崩れてしまった。それにより、アダムとイブは(神の国=天国)の雛形であったエデンの園から追放された。
↓
11.神の子イエスは処女マリアの無原罪のお宿り(処女懐妊)を経て、ヒトの形となって地(地球)に現れ、言葉で「善悪の木の実」で損なわれている「いのちの補充」を施した。
さらにイエスは、十字架上の死によって、自分を信ずる者に無限の「いのち」を分け与えて「いのちの補充」(=救い)を行い、天(神の国=天国)に住まわせようとしているという福音が伝えられる。
<<この段階が時間的には「今現在」>>

ちなみに、神の名は唱えることができないとされており、ヘブライ文字の子音4文字で「YHWH」と表記された。しかしユダヤ教徒が、どうしても神の名を読む必要に迫られたときは「わが主」という意味の「adnay(アドナイ)」と読んだ。 それをキリスト教徒が間違えて、「adnay」の母音だけを「YHWH」と組み合わせ「YaHoWaH(エホバ)」と読んだと言われている。

『創世記』で注意すべきは、人間が2回にわたって創られているということ。「アダムとイブ」は最初の人間ではなく、実は2回目に創られた人間。
聖書考古学的に言うと『創世記』では、第2章4節を境に、その前までは「司祭文書」と呼ばれ、それ以降は「ヤハウェ文書」と呼ばれている。
1回目に創られた人間と、2回目に創られたアダムとイブには違いがある。それは、アダムとイブには「いのちの息」(=理性)が吹き込まれているという点。その「いのちの息」によってアダムとイブは神との協和の中に生きることができたのだ。
後にノアの洪水が起こり、アダムとイブの子孫であるノアの家族だけが生き延びることになる。つまり『創世記』第1章で最初に創られたほうの人間の子孫は、全く生き延びることが出来ず、今生きている人間はすべて、アダムとイブの子孫ということになる。
神によってアダムとイブには「いのちの息」(=理性)が吹き込まれ、後に「善悪の木の実」によって部分的に損なわれることになる。

さて、「神による創造」の続き。これからは未来編。
↓
12.この先の将来、あるとき地(地球)にイエスが再臨し、天使に命じて悪魔を封じ込め、1000年にわたって地(地球)を支配する(千年王国)。
その後に悪魔を開放して、世(宇宙)を焼き尽くす。そして、これまでのアダムとイブの子孫がすべて新しい体を持って復活し、天に受け入れられる者と地獄行きの者とに分ける「最後の審判」を受ける。
↓
13.イエスはすべての仕事を終え、無限界に帰る。

というわけで、キリスト教徒にとって、「3高」のような「この世」のことは些細なことで、彼らの最大の関心事は、「最後の審判で救われる側に選んでもらえるかどうか」なのだ。


グローバリズムにのってマネー資本主義を主張するウォール街に代表されるような西欧人にとって、本当に現世の収入など些細なことで、「最後の審判」でどちらに回るかが最大の関心事なのかどうかははななだ疑問だが、そういうことが一般の敬虔なキリスト教徒の思想の根源にあるということは押さえておくべきだろう。


<仏教について>

仏教とはブッダが悟ったこと、またその教えで、それは「原始仏教」のこと。
原始仏教は、極論すれば哲学としってもいいもので、キリスト教のような形而上学的な思考法は慎重に避けられている。
葬式などで遭遇する日本の仏教は、いわゆる「大乗仏教」で、これはブッダの説いた教えではない。「仏教=ブッダの教え」とするならば、大乗仏教は仏教ではない。
大乗仏教の経典にある教えは、原始仏教の哲学に迫るような内容ではなく、他の宗教が大衆の信仰を獲得し始めることに対抗して「信じれば救われる」という形而上学的要素を大幅に取り入れて大衆化された、ある意味での「新興仏教」といえる。

ブッダの教え
教え①四苦八苦—「人生は苦である」
1.生まれる、つまり、苦である人生をもう一度始めなければならないという苦しみと、もっと端的には、産道を通る苦しみ(生)
2.老いる苦しみ(老)
3.病気になる苦しみ(病)
4.死ぬ苦しみ(死)

次に怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとくく)、愛別離苦(あいべつりく)、五蘊盛苦(ごうんじょうく)
1.嫌な人に会う苦しみ(怨憎会苦)
2.求めるものが得られない苦しみ(求不得苦)
3.好きな人と別れる苦しみ(愛別離苦)
4.五蘊(身体と、知覚・識別・想起・判断といった心の働き)は苦(五蘊盛苦)

お釈迦様曰く、
「楽しいこと」は長続きしません。「楽しいこと」を得ようとしたり、持続させようとすることは苦ですよ。
「楽しいこと」を得ようとして得られない、持続できずに失うことは苦ですよ。
だから「楽しいこと」も結局は苦ですよ。
って、お釈迦様って相当な悲観論じゃだったのね。

教え②四諦(四聖諦)ー「人生が苦なのは執着があるから」
1.苦諦(くたい)ー「生きることは苦である」と思い知る
2.集諦(じったい)ー「生きることが苦なのは、執着があるから」と思い知る
生きることが苦であるのには原因がある。それは、根本的には生存し続けたいという『執着』である、と。
3.滅諦(めったい)ー「この執着がなくなれば苦はなくなる」と思い知る
4.道諦(どうたい)ー「この執着をなくす八正道(八聖道)という道がある」と思い知る

教え③八聖道(はっしょうどう)ー「どうすれば執着を克服できるか」
お釈迦様は、そのためには、次の8つのこと(八正道)を行えば良い、とした。
1.正しいものの見方をする。
2.正しい思考をする。
3.正しい言葉使いをする。
4.正しい行いをする。
5.正しい生活をする。
6.正しい努力をする。
7.正しい教えをしっかり記憶にとどめる。
8.正しい思考の瞑想をする。

教え④五蘊非我(ごうんひが)ー正しい思考=五蘊非我を瞑想する」
五蘊(身体と、知覚・識別・想起・判断といった心の働き)は「我」ではない。体や心の働きが「我」のもののように思えるのは錯覚に過ぎないことを瞑想せよ、とした。
よく瞑想というと無念無想の境地とされるが、ここでいう「瞑想」はそうではない。
中国生まれの禅宗における坐禅と呼ばれる瞑想は「徹底思考」ではなく「無念無想を目指す」瞑想。
原始仏教でも、この無念無想を目指す瞑想を否定しているわけではなく、心を落ち着ける方法として推奨もしている。しかし「この瞑想では悟れない」と明確に述べている。
この無相無念を目指す瞑想の最高の境地は、「非想非非想処(ひそうひひそうしょ)」と言われている。分かりやすく言うと「思考も感情も停止した境地」。
お釈迦様は出家してすぐにこの境地に達してしまうが、この境地から戻ると元の木阿弥で、悟る(生存したいという執着を克服する)ことができない。
「この瞑想では悟れない」と気づいたお釈迦様は、最終的には徹底思考の瞑想によって、ようやく悟る。
これは現代風に言うと「徹底的に考え抜いてメタ認知せよ」ということか。

五蘊非我は実は五蘊無我ではないか、という説があり、仏教哲学における最大の問題として今も研究がなされている。
「五蘊非我」は、五蘊は「我」ではないが、「我」というものは存在するという考え方。対して「五蘊無我」は、五蘊は「我」ではないとするだけではなく、「我」自体存在しないという考え方。
村上氏は「五蘊無我」と考えているとのこと。
攻殻機動隊でもあるように、「一体何が自分なのか」という問いにつながる哲学的な話だ。

というわけで、「信じる者は救われる」とするキリスト教に対して「信じる必要はない。考えて納得すればよい。納得できなければ、さらに考えればよい」というのが原始仏教の姿勢。これがキリスト教と異なるというのが村上氏の分析だ。


<西洋哲学について>

「西洋哲学」とは古代ギリシャのプラトンに始まる哲学。プラトン以降の西洋哲学は、実はすべてプラトン哲学の脚注に過ぎないという見方で構わない。
西洋哲学=プラトンの哲学の解釈。
プラトンの哲学とは、つまるところ『イデア論』。
イデア論とは、簡単に言うと、「一方にイデアという完璧なものがあり、もう一方に不完全なものがある」という二項対立の発想のモデル。

例えば「紙に書いた三角形は、どんなに正確に書いても厳密な三角形ではない。それが三角形として認識されるのは、どこかに三角形というイデアがあるから」という考え方がイデア論であり、プラトニズム(プラトン主義)。
完璧な三角形というコンセプトが存在するのは、イデア界という完璧な世界であり、我々はその対岸にある現実界に生きている。これがイデア論=二項対立の発想であり、プラトニズムと呼ばれる考え方。
プラトンはこれを「形相(けいそう)と質量」とも言った。

プラトン以後、
・アリストテレスの「可能態と現実態」(可能態がイデアで現実態が不完全なもの)
・キリスト教神学(スコラ哲学)の「天と地」
・デカルトの「思いと我」
・カントの「物自体と現象」(あるいは「物自体と純粋理性」)
・ヘーゲルの「絶対精神と現実」
というように変遷するが、その根本はプラトニズム、つまり二項対立と同じ考え方にある。
その後、ニーチェやハイデガー、そして彼らの影響下にある最近のポストモダン派が、「プラトンに始まる二項対立的発想は間違いで、西洋文明の行き詰まりの原因だ」として、その発想の克服を目指しているが、いずれも二項対立そのものを否定しているではない。
そういう意味で、「西洋哲学とは、完全なものと不完全なものとの二項対立という考え方を本質に持つプラトン哲学の変奏曲」という解釈で何ら問題はない。



村上氏は、理系になるなら「量子力学」をやれ、経済学やるならマンキューを学べ、ということでこれらについても紙幅を割いている。

村上氏は原理論者である。
様々なテーマに原理原則を見つけて(定めて)、それを実践することで成果を出すタイプの経営者のようだ。
本のタイトルともなっている仕事術についても「仕事における7つの原理原則」というのを書いている。

原理その1 会社の仕組みを知る
原理その2 財務・簿記の基本知識を身につける
原理その3 疑問はその日に解決する
原理その4 仕事の目的は顧客満足にある
原理その5 仕事のプライオリティ(優先度)をつける
原理その6 アイデアは頭で考えない
原理その7 デール・カーネギーに学ぶ

この原理原則、ちゃんとMECEになっているのかとか色々考えたりしてしまうが、思い込みであれ何であれ、自分の仕事のやり方の原理原則はこれだ!と言い切れるというのはスゴいことだ。
振り返って、自分の仕事のやり方の原理原則を挙げられるかどうか。
そろそろ自分の原理原則を整理してもいいのかもしれない。

2015年1月10日土曜日

『読む餃子』

会社に「餃子部」なるものがあって(もちろん会社非公認)、時々会合が開かれる。
何故か得てして場末にある餃子の名店にお邪魔して餃子を食するというものだが、そういえば”餃子”というものについて実はあまり蘊蓄がないということに気づき、立ち読みしたら面白かったので購入した本。
パラダイス山元さんという会員制餃子の店「蔓餃苑」の苑主、入浴剤ソムリエ、マン盆栽家元などを歴任(?)する方が餃子に対する愛を書いたエッセー集。

というわけで以下餃子蘊蓄ピックアップ。

◯餃子は「食べて」「交わる」と「子供」ができると書く。

◯市販の皮68種類の「エア餃子」対決で頂点を極めたのは、モランボンの「もち粉入り餃子の皮」(20枚入り)。

◯餃子のルーツを調べていくと、もともとはニンニクは入っていなかったらしい。
餃子チェーン店のお偉いさんに会った際、聞いてみたところ 「ニンニクが入ってないと餃子って何個食べても満足感が得られないものなんですよ。一皿六個、いやW餃子の十二個ぐらいで、満腹中枢のシグナルが灯る量のニンニクをうちは仕込んでいます」
なるほど、街のサラリーマンがランチタイム時に、予算内で慌ただしく書き込む餃子定食には秘密が隠されていたのです。
ニンニクは、一皿か二皿でほどほどの満足感を得るために仕込まれたものだったとは。
中国から引き揚げた日本人が、その当時豚肉ではなく羊肉で餃子を作り始めたので、特有の臭みを消すことを目的に入れ始めたという説もありますし、 労働者にスタミナをつける目的で、うちがニンニク入り餃子の元祖だと主張している店もあります。

◯東京ディズニーシーの「ギョウザドッグ」
「お醤油とカラシ下さい」と言うと、袋入りの醤油とカラシを手渡してくれる。言わないともらえない。

◯IHクッキングヒーターでは、美味しい餃子は焼けません。
美味しい餃子を焼くために必要な絶対的な火力の不足、温度調節の難しさ、そして焼きムラに関しての問題は、現状何ら克服できていません。
パリで餃子を焼いたときはIHヒーターでしたが、やはり220Vの電圧のために火力は抜群。それでも、すぐに火力が落ちないというのが難点ではありました。
美味しい餃子を焼くには、ガスコンロが一番。

◯中国では焼き餃子を「日式餃子」という。
日式餃子は、日式たこ焼き、日式焼きそば、日式カレーライスとともに、日本スタイルの食文化として、今後更に多くの中国人を魅了していくことでしょう。

パラダイス山元氏は元々富士重工業のカーデザイナーだったのだが、”餃子”の他、盆栽、入浴剤、マンボ(音楽)など色々なニッチ専門家ともなっているスゴい人だ。
「自腹店舗開拓チャレンジで、それが口に合わなかった場合、自分の勘が鈍っていたんだと素直に認めます。」
「舌を憎んで、店を憎まず」
とか、
「何事も生涯学習」
とか、人柄としても何か惹かれるものがある。

というわけで今年も餃子道に励もう。


2015年1月4日日曜日

『なぜ、一流の人は「疲れ」を翌日に持ち越さないのか』

年末にインフルエンザに罹患した。
インフルエンザワクチンをうち、外出時には予防のマスクをしたのに結局罹患した立場として、「どうすればインフルエンザにかからなかったのか」という観点で手に取った本。

疲れのV字回復を実現するために「計画的に疲れよ」というのが著者、裴英洙氏の主張。

◯人間の疲労は主に次の3つのタイプに分類できる。
1 肉体的な疲労…簡単に言うと筋肉を動かすためのエネルギーが不足している状態。
2 精神的疲労…人間関係や悩み事などのストレスを原因とする心の疲れ。
3 神経的疲労…長時間のデスクワークや細かい作業などで、眼の神経や脳が緊張した状態が続くことによって起こる頭の疲れ。
疲れはこびりつく前に、すっきりと落としておくことが大切。

◯疲れの原因を見極める。
「生体の3大アラーム」 は「発熱」「痛み」「疲労」。
「痛み」や「発熱」の危険信号は、比較的対処がラク。しかし、「疲れ」は「痛み」や「発熱」ほど重要に捉えられていない。日常生活での疲労はジワジワとやってくる。ゆっくり進行するせいで、見逃しがち。気づいた時にはかなり貯蓄されていると思った方がいい。
「疲れを翌日に持ち越さない体」になるためには、このアラームを敏感に感じ取ることが第一歩。
「どれくらいまでやれば疲れるか、どれくらいが自分の「疲れの限界」なのかをすでに知っているビジネスパーソンはそれ以上のリミットを決して超えない。
 F1のレーサーは、車に異常が生じそうな危険水域を超える前にピットインする。超えてしまうことで、その後のマシンのパフォーマンスが大きく落ちることを知っているから。
ビジネスパーソンも同じ。リミットを超える前に、リミットが近づいてきたことを察知し、戦略的に休息し、あっさりと回復することで、素早く戦闘態勢に戻れるのである。
その際間違いやすい点は「疲労」と「疲労感」は違うということ。
「疲労」はカラダや精神に負荷を与えられたときにみられるパフォーマンスの低下。「疲労感」は個々人が感じる心理的なもので、心の持ちように左右される。「疲労感」は”意欲”や”達成感”に大きく影響されてしまうということ。
体は正直。
「疲労感は減らせても、疲労は減らせない」と肝に命じておくことが大切。


う〜ん、なるほど。
今回のインフルエンザ罹患も、ちょっとここ一番休みたい時に休めずに結局ダウンしてしまった気がしないでもない。
著者は、自分で
「徹夜を覚悟した瞬間から、翌日のお昼過ぎまで予定を変更し、午前中はすべて単純作業に切り替える。この日は徹夜仕事になるな、と感じたら、すぐにその翌日は丸一日犠牲にするくらいに割り切る。」
というような疲労コントロールを行っているようだが、正直そこまでできれば苦労はしない。
自分で振り返ってみると、得てして徹夜仕事になるときは別にピンポイントで忙しい訳ではなくて、翌日も忙しい。徹夜したからって翌日にそんな業務の割り振りなんか出来ない状況の方が多い。
でも、それで休みをいれなきゃ後でもっと大変なことになる、というのはその通りで、これには自分のおかれた状況を”カラダ”も含めて客観的に見ることが求められる。


その際に、必要となって来るのが著者の提言する「カラダ手帳」だ。
書くのは自分の体調について感じたことのみ。いつも使っている手帳と合わせて毎日記載することで、継続的に自分のカラダを”見える化”する。
「なぜか体調がよくない」「なぜか集中力がない」というようなことも記載し、それを自分のスケジュールと合わせ読み解くことで、自分の疲労の傾向を読み解くというものだ。
これをやって、日々の疲れを”見える化”することで、自分のカラダを客観的に観察し、F1レーサーばりの”自分のカラダのピットイン必要時期”を見極めるというもの。

著者の裴英洙氏は医者でありながら、コンサルティングファームを経営し、本まで書いているというワラジ履きまくりの人だが、疲れをコントロールすることで効率的に業務をこなしているらしい。
まずは、やってみるという基本原則から行くと、今年は「カラダ手帳」をつけることとしたい。
既に、自分の健康状態で特筆する事由が発生した時(熱が出たとか、お腹を壊した時とか)は記録を付けているのだが、それを日々のスケジュールと合わせて記載し、”点”を”線”として読み解くことが肝心ということか。
◯日坊主にならないように頑張ろう。