小学生の子供の運動会に行ってきた。
朝3時から並んだというような話もある中、開会式ぎりぎりの時間にいそいそと出かける感じだから熱意は推してしるべしである。
こういう行事の時、得てして父親は記録係を仰せつかる。
我が家も他聞にもれず、自分が記録係である。
今年は運動会を見ていて、子供の出ない学年、すなわち記録係のお役御免で見学した方が感動することが多いのに気がついた。
記録係となると、ビデオカメラで記録するので、自然と子供の演技・活躍を液晶フィルターを通して眺めることになる。
更には、子供に焦点をあてて記録するため、自然と子供がアップとなり、全体を見ることが無くなる。
全体で見られるように構成されている「組体操」や「踊り」では、感動がうすくなるのも当然と思われるが、それだけではなく、フィルターを通して見るということは、外界からの刺激を低減して伝えるようにできているのではなかろうか。
最近読んだ山崎啓支氏の『「人」や「チーム」を上手に動かすNLPコミュニケーション術』によると
「人間は出来事そのものに影響を受けるのではなく、出来事にまつわるイメージに影響を受ける。
イメージの背景を変えてみたり、フレームをつけてみる。イメージの中の対象の「位置」「距離」「動画、静止画」「音」を変えてみる。
色々変えてみると、どこかの時点で大きく変化するポイントがある。
印象が大きく変わるポイントを発見したら、そのポイントを変えるだけで状態を変化させることができるようになる。
このように五感の質を変化させることをNLPでは「サブモダリティー・チェンジ」と呼ぶ。」
とある。
イメージを変える大きなポイントは人それぞれなのだろうが、『フィルターを通して見る』という行為はほとんどの人において、外界からの刺激(感動、痛みなどを発生させるもの)を低減させる効果があるのではないだろうか。
心の中に、こういった「フィルター」をいくつも作って強化してしまったものが多重人格(解離性同一性障害)なのではないか、などと考えてみた。
前述の山崎氏によると「どのような手法を用いると見た際のイメージに対する効果が高いのか」についての洞察について、非常に優れているのは映画監督だそうである。
確かに映画監督は、そもそも(感動の低減する)「フィルター」を通してみる”映画”というもので勝負していて、その中で本物以上の感動を与えられるような切磋琢磨を日々しているのだから、さもありなんと思う。
というわけで、運動会の楽しみ方として一番いいのは、素直にそのまま観戦することである。
しかしながら、記録係としての責務を放棄して、それを提案しても受け入れられようはずもない。
来年も「フィルター」を通す堰堤で、如何に感動できるか、映画監督に学ぶ方が現実的である。
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