2015年6月27日土曜日

『仕事ができる人は店での「所作」も美しい』


最近、会食の機会も増えてきたため、常識としておさえておくべきポイントを学ぶために購入。日経トレンディ編集長などを歴任した北村森氏の著作。

「ルール」(作法)は自分のため。恥をかくか、かかないかという水準の話し。
「マナー」は人のため。店や宿の人、場合によっては偶然に空間をともにする見ず知らずの客も含めて、いかに気持ち良く過ごせるように心がけるかの話し。
この本は後者について書かれた本である。

マナーというのは
①店や宿を味方につけて
②連れていく相手を楽しませ
③その結果として自分を光らせる
ためのものである。
例を挙げると、
・店では「出されたものをすぐに食べる」
・宿では、「その客室に入った時と、なるべく近い状態で、ホテルや宿を発つ」
といった基本的なことである。

百戦錬磨の著者でも割烹や料亭を訪れる日は、今でも緊張するらしい。
・予約した時刻ぴたりで暖簾をくぐらないと、料理人のリズムを崩してしまう(はっきりとそうは言われない)
・指輪や腕時計をしたままで席に着くと、提供される器が変わる(はっきりとそうは言われない)
・店を後にする時も、道の角を曲がる時に、店の方を振り返って、一礼するのが大事。振り返りもせずに、のんきに角を曲がると、見送っている店の側はちょっとがっかりするらしい(はっきりとそうは言われない)
と言ったマナーもあるからだ。


中野允夫氏というカリスマホテルマンがいる。
曰くホテルの実力が露わになる時間があるらしい。
それは朝食終了時刻の15分前である。
朝食営業終了15分前の段階となると、ダイニングスタッフは昼の準備のことで頭がいっぱいになる。
朝食終了時刻の15分前というのは、ホテル側の都合と客の都合が、真正面からぶつかる時間帯ということになる。
そのシーンで、ホテルがどんな対応をとるか。ホテルの真価が問われる。

ビジネスでも、自社の都合と相手の都合がぶつかって、しかもそれぞれの言い分がともに真っ当なものであるとき、相手の側に半歩でも寄れるかが、仕事の成否を分けるのではないか。

この本は、基本お客様を連れていく前提で、主にお店とのやり取りについて書かれているが、お客様となった場合には
「ごちそうしてくれた相手に、『あぁ、またこの人間を誘って奢りたいな』と感じさせる時間にすることが大切」
ということが書かれている。
結局、仕事が出来る人というのは、相手との呼吸を合わせるのがうまい人でもあるということか。

それにしても、タイトルがちょっと恥ずかしい。「できる◯◯」的なのはキャッチーなタイトルなのかもしれないが、読んでるのが分かるとちょっと恥ずかしいタイトルである。むしろ、やめて欲しいなぁ。

『全員経営』

野中郁次郎先生、勝見明氏の共著。

街作りにおいてはクリストファー・アレグザンダーの『パタン・ランゲージ』という本が1970年代に書かれている。
複雑系である「街作り」というテーマにおいて、今で言うハイパーテキスト型にパターンの組み合わせにより分かりやすく素敵な街とはどういうことかを描写したものだ。
この『全員経営』は、全員経営を実現する「いい会社」をつくり出すための「パタン・ランゲージ」として書かれている。

・実践知の育成と埋め込み
・組織のフラクタル化や自己組織化
・知的機動力の強化
・マトリックス組織からハイバーテキスト型組織へ
・分析的戦略から物語的戦略へ
・サイエンスからアートへ
・知のエコシステムの形成
・コモンセンスの重視
・主体的経験の促進
・失敗の許容
・凡事の非凡化
といった「全員経営」のためのパターンがハイパーテキスト型に(?)書かれている。


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熱力学の第2法則、すなわちエントロピーの法則から言えることは、閉ざされたシステムではエントロピー(秩序のなさの度合いを表す尺度)が増大し、組織にあてはめると組織のポテンシャルが低下するということだ。
この組織ポテンシャルを向上するには、多様性を持続させる開放的なシステムが必要だ。 多様性のみが多様性に対応できる。複雑で多様な環境に対応するには、組織内部にも最少で有効な多様性が必要だ。
最少有効多様性を持つ組織は、誰もが最少のステップを通じて最速のスピードで最大限の知を共有できる。それは、目に見える表面積は最少でも、内部では知が最大限に活用されている球体のような組織である。それ自体がオープンなエコシステムでもあり、だから、環境の多様性に対応できる。
そこでは、個人と個人、個人と組織の間で暗黙知と形式知の相互変換が絶えず行われ、SECIモデルがスパイラルに循環する。
その暗黙知の源泉は、人間存在として、いかによりよく生きるかという主体的な「生き方」の信念や意図に根ざす。その意味で、SECIモデルは人間の生き方につながる知の方法論だと言える。
誰もが傍観者ではなく、主体的にコミットメントせざるを得ない場が生まれ、創造的で効率的な知の循環が起こり、成功確率も高まる。ここに創造性と効率性を備えた組織が生まれる。
つまり、共通善を目指す多様性のある組織こそが組織的知識創造を行い、社会的価値を提供できる。 だからこそ、全員経営のあり方が最も根源的で究極的な姿になるのだ。
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ではSECIモデルとは?

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<SECIモデル>

人間が生み出す知のあり方は、個人的で主観的な「暗黙知」と社会的で客観的な「形式知」の二つの側面に分けることができる。
暗黙知は、言葉や文章で表現することが難しい主観的な知で、個人が経験に基づいて暗黙のうちに持つもの。思いや信念、身体に染み込んだ熟練、ひらめき、もやもやなどは典型的な暗黙知。
形式知とは、言葉や文章で表現できる明示的で客観的な知のこと。
新たな知識創造の源泉は、暗黙知にある。知識とは、個人の主体的な信念や意図を真理に向かって社会的に正当化していくダイナミック・プロセスだからである。
日本は特に暗黙知を重視する精神風土があるが、欧米でもその傾向は高まっている。

知の循環運動が組織やチームで起きる場合、知識創造理論では次の4つのモードを辿ると考える。
(1)まず、個人は周りの世界との相互作用の中で暗黙知を組織的に共創する。これを「共同化」(Socialization)と呼ぶ。
(2)次に、暗黙知を形式知に変換する「表出化」(Externalization)。
(3)続いて、形式知を組織内外の他の形式知と組み合わせ、一つの体系としての新たな形式知をつくり出す「連結化」(Combination)
(4)こうして体系化された形式知は行動や実践を通して、新たな暗黙知としてメンバー全員に吸収され、体化されていく。つまり形式知からまた暗黙知へと変換される。「内面化」(Internalization)と呼ばれる。
この知識変換の4つのモードを、共同化、表出化、連結化、内面化の頭文字をとってSECIモデルという。

SECIモデル:組織的知識創造の一般原理
共同化(Socialization):身体・五感を駆使、直接経験を通じた暗黙知の獲得、共有、創出(共感)。暗黙知⇒暗黙知
表出化(Externalization):対話・思索・喩えによる概念・図像の創造(概念化)。暗黙知⇒形式知
連結化(Combination):形式知の組み合わせによる理論モデルの体系化(物語化)。形式知⇒形式知
内面化(Internalization):形式知を行動を通じて具現化、新たな暗黙知として理解・体得(実践)。形式知⇒暗黙知
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この形式知と暗黙知、組織知と個人知がスパイラルアップすることで全員経営に必要な「コモングッド」が共有されるということだ。

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衆知を集める全員経営で、社員一人ひとりが自律分散リーダー人材として発揮する実践知の神髄である即興的な判断力は、出発点として「何がよいことなのか」という共通善(コモングッド)の価値基準を持つことがベースになる。
 誰もが共通善の価値基準を共有することで、そこに「場」が形成される。
そうなると利益を追求する企業であっても、職業的な倫理観を共有する共同体的な性格を持つようになる。
全員経営や衆知経営を追求すれば、志を同じくするコミュニティ型経営に行き着く。
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面白いのはここでもアリストテレスの「コモングッド」の概念が出てくることだ。
マイケル・サンデル教授も『これからの「正義」の話しをしよう』の中で、結局自分はアリストテレスのいう「共通善」を決めることが必要だと思っているということを述べていたのが思い出される。
遠回りのようでいて、実は判断の根底には暗黙知たる「共通善」が必要ということか。

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<認知的徒弟制度>

2000年にノーベル経済学賞を受賞した米シカゴ大学のジェームズ・ヘックマン教授によると、人の知的能力は、知能検査で測れる「認知スキル(cognitive skills)」と個人的な気質や資質に関係した「非認知スキル(non cognitive skills)」があり、真面目さ、前向きさ、粘り強さ、忍耐力といった潜在的能力に結びつく非認知スキルが重要であるらしい。

また、ポジティブ心理学の創始者の一人、米ミシガン大学のクリストファー・ピーターソン教授は非認知スキルのうち、人生の満足度や達成度に特に深く関わるものとして以下の7項目を挙げた。
・やり抜く力(Grit)
・自制心(Self-controle)
・意欲(Zest)
・社会的知性(Social-Inteligence=人間関係のダイナミックスを悟り、異なる社会状況に素早く適応する能力)
・感謝の気持ち(Gratitude)
・楽観主義(Optimism)
・好奇心(Curiosity)

ヘックマンらの研究によれば、こうした非認知スキルは手本となる師の個別指導や助言を受け、その人格に感化されながら学び取るもので、「良い習慣」の方法によって伸ばすことが出来るとされる。
すなわち徒弟制度である。

認知スキルは形式知であり、外から教えることができる。一方、非認知スキルは暗黙知で、自ら主体的に体得するしかない。

では暗黙知を必要とする、第一線で機動戦を担う自律分散リーダー人材はどうすれば育成できるのか。
重要なのは質の高い経験である。
人材は実践を通じてしか育成できない。実践に勝る研修はない。自己の能力を最大限発揮せざるを得ない状況を与え、高質の経験知を積ませる。要は極限状態の修羅場を経験させるということだ。
もう一つは、新しい形の徒弟制度。
徒弟的な関係の中で、身体性を共有すると、主観が共有され、知が一人ひとりに継承されていく。
結果、全体と部分が相似形を形成するフラクタル組織が生まれ、しなやかな強さを持つようになる。

世界的経営コンサルタント、ラム・チャラン氏がGEやP&Gなどの優良企業で幹部候補がいかに育成されてきたかを調べたところ、全て「アプレンティスシップ(apprenticeship)モデル」だったと言う。
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人を育てるのに徒弟制度が有効であることは知っていたが、認知スキルと非認知スキルというものがあって、非認知スキルを伝承するため徒弟制度が非常に有効であるというのは、言われてみればちょっと目から鱗だった。

もうひとつポイントとしてなるほどと思ったのが「コモングッド」≒「コモンセンス」をベースとした経営ということだ。
「御社は社風が良くて素晴らしい」などとお世辞とも取れる話しをよく社外の方から頂くのだが、この目に見えない「社風」こそ組織の「コモンセンス」につながるものだ。

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<コモンセンスに基づく経営・マネジメント>

哲学者 中村雄二郎氏は、コモンセンスの概念を、アリストテレスに由来する、五感を統合した根源的能力としての「共通感覚」と位置づけた。
これは別の言い方をすれば、人々に埋め込まれた共通の暗黙知と言えるだろう。
普遍的な善と照らし合わせて一番よいバランスを見いだす。
このバランスは足して2で割る妥協ではなく、両立し難いものを両立させ、最善の着地点に落とす「中庸」と呼ぶべきもの。中庸は突き詰めれば、誰もがそれが最善だと感じる共通感覚としての常識に至る。

何が共通感覚かを問うとき、人間としての「生き方」が問われる。その意味で、コモンセンスの経営は「生き方の経営」「存在論の経営」でもある。
一方、アングロサクソン型の経営は利益が目的化し、存在論は問わない。だから、ルールによるコンプライアンスが必要になる。
日本は特に1990年代以降、アングロサクソン型の短期利益追求型へと傾斜し、本来持っていたバランス感覚を失った。
ルール作りもアメリカ以上に微細にわたり、オーバーコンプライアンスが組織の活力を削ぐようになってしまった。
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なるほど、他にも事例としていくつかの会社が登場する。
時々開いて読む組織デザインの「パタン・ランゲージ」として近くに置いておきたい本だ。

2015年5月17日日曜日

『挑戦する会社』

自称「日本のトップマーケター」神田昌典氏の著作。

・ダントツの結果を出したいなら、ダントツの結果を出す人の多い環境に身を置くべき。
・急にハンドルを切り替えられないのがコミュニティのデメリットの一つ。
・日本がお金を拾う国、テクニックで稼ぐ国になってしまったら、社会的な責任とか、徳とか、品格とか、誇りとか、そういうものが全部なくなってしまう。 だから今、考えるべきは、日本が豊かになれる産業。
・言葉はエネルギー。そして、お金もエネルギー。 だから、多くの人が話題にしているものへと、お金は動く。
・これからは、「年配者向けのイノベーション」が起こる。 とはいえ、まずは目の前で儲ける。出発点は「儲けるため」だけど、それをきっかけに生み出した企画が、社会性を備えた新規事業に発展する可能性がある。

<これから10年間、重要になる8つの潮流>

「GRACEFUL JAPAN」(優雅な国、日本)
G(=Graying Society)…高齢化社会、ポスト資本主義のモデル社会
R(=Reuse/Recycle/Reinvent)…循環型社会、物々交換、社会の再創造
A(=Asia/Art)…アジア経済圏、誰もがアーティスト
C(=Community/Care)…コミュニティの時代、ケア・ホスピタリティ尊重
E(=Education/Empathy)…教育の時代、思いやり、共感
F(=Free Agent/Finance)…フリーエージェントネットワーク型社会、新たな金融コンセプト
U(=Utilities/Ubiquitous)…エネルギー革命、ユビキタス社会
L(=Legend)…誰もが英雄になる時代
時代が経つにつれ、この8つの流れが合流する先に、すべての産業が医療・健康産業に、何らかの形でリンクしてくるだろうと私(神田氏)は思っている。

・結局、どこの会社だろうと、「ウチの会社は◯◯業です」と1つの業種を言うだけにとどまっていたら、いずれ先細りになる。逆に、元々いた業界からその定義を広げていくと、全く違った成長カーブを描くようになる。
・次世代ビジネスの決め手は、ビジョンの高さだ。
・未来を予想する最も簡単な方法は、未来を作ること。 未来を作るためにはどうすればいいか。それは、「場」を作ることだ。


「全脳チャレンジ」

「全脳チャレンジ」とは、参加者全員で、即興で、社会的課題に対するソリューションを見つける方法。
1.ある意図を持って人を集める時、そこに集まる人は顕在的な意図のみで集まるのではなく、既に潜在的な意図に無意識に共振して集まっている。(「出会いの深層背景」)
2.潜在的な意図とは、参加者の集合無意識下にある意図と言ってもいいが、人がつくり出している意図というよりは、その瞬間—時間と空間、場所に宿された意図であり、その意図と共振する人々が集うことになる。
3.そこに集まった人同士がダイアログを通じて、彼らの集合意識下の深いところで流れるイメージを、ストーリーにして浮かび上がらせる。 このレベルまで安全にダイブする(深く掘り下げる)ためには、「第三者をハッピーにする」という「利他性」が鍵となる。
4.利他のストーリーを描くと、今まで参加者がバラバラに感じ、バラバラに持っていたイメージが言語化される。その結果、人々の思考が凝縮される。 私の感覚では、「ボウリングのボールのような、重い、重い、思考のボール」がどんどん大きくなっていく。すると、今度は人々の思考が、時空間を歪み始め、未来に向かう大きなくぼみができ始める。
5.すると、参加者は、セミナーが終わり、それぞれの仕事に戻ったとしても、ストーリーは潜在意識下で進行しつつあるから、自分が決めた行動に従って結果を上げていく。

簡単に言ってみれば、みんなで楽しい未来に向かうストーリーを作れば、いつの間にか自分もその未来に参画しているというアプローチ。


だんだん宗教がかってきているのはともかくとして、今回の著作はニュースレターの焼き直しだったので、正直神田氏のいつもの「濃さ」が感じられず、ちょっと残念。
次回作に期待。

『リーダーは最後に食べなさい!』 

歴史を振り返っても、危機を脱した組織には、例外なく、先頭に立つリーダーがいた。
だが、こんにちの教育機関や研修プログラムの多くは、卓越したリーダーではなく、効率よく働くマネジャーの育成を重視している。

目先の利益が成功の指標と見做され、組織の長期的な成長や生存能力は、ただの建前にすぎなくなっている。
短期的にはうまくやっていたのに、ほどなく失敗してしまう組織がある真の理由。
そうした組織におけるリーダーシップは、組織のメンバーがもっとも大切な存在であるという環境をつくるのに失敗したのだ。
人々が価値観を共有し、尊重されている組織こそが、長期的に見れば成長する。


そういう概念的には理解できる内容を、我々の脳内物質と関係させて述べたサイモン・シネック氏の著作。
「脳」×「組織論」となれば読まない手はない。

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人類の体内システムは、食糧を見つけ、生き延び、種を繁殖させることを目的に進化を遂げてきた。
しかし、世界の多くの国々—特に先進国—では、食糧を見つけ危険を回避する行為に、日常生活で時間を割くことはない。我々はもはや穴居人のように狩猟採集生活を送ってはいない。現代社会では、出世し、幸福な生活を送り、充足感を得ることが成功の定義となっている。
ところが我々の行動と決断を左右する体内のシステムは、いまだに数万年前と同じように機能している。我々の原始的な頭脳はいまでも、脅威を察知し、安全に過ごせる機会をうかがっている。
ゆえに、こうした体内のシステムの働きを理解すれば、我々は目標を達成しやすくなる。と同時に、我々が所属しているグループもいっそう成功し、繁栄できるようになるはずだ。
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昨今の文明はすごい速さで進化・発達している。
その速さに我々ヒトの脳はついていけていない。
では、我々の脳はどういうシステムで機能しているのか、脳内物質と関連してみたのがこ以下の拠述。

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我々の体内でポジティブな感情を生じさせる作用を持つ脳内物質は主に4種類ある。
エンドルフィン、ドーパミン、セロトニン、オキシトシンだ。
「利己的(セルフィッシュ)な脳内物質」、エンドルフィンとドーパミンは、個人として行動を起こす時に力を貸す。
「無私の(セルフレス)脳内物質」、セロトニンとオキシトシンは、我々が協力して働き、信頼や忠誠心という感情を発達させるために存在する。

エンドルフィンは、たった一つの目的のために機能する。「肉体の痛みをまぎらわす」ためだ。我々の身体に備わっている鎮静剤と考えればいい。
我々がストレスや恐怖を感じると、それに反応して分泌され、気分がいいという快感で肉体的な痛みを緩和する。
「ランナーズハイ」など、激しい運動の最中や運動後に多くのスポーツ選手が多幸感を味わうのは、血流にエンドルフィンが放出されるからだ。 エンドルフィンは、人類に持久力というとてつもない能力を授けたのだ。

ドーパミンは、探しているものを見つけたときや、用事を済ませたときに、我々をいい気分にさせる脳内物質だ。
自分が前進したときや、何かを達成したときに味わう気分のよさは、主にドーパミンが要因となっている。
母なる自然は、目の前の任務に集中させようと、非常に賢い方策を編み出した。食べ物を口にするとドーパミンが放出されるのは、食べるという行為を我々が好む理由のひとつだ。その結果、我々は食糧を獲得する行為を繰り返す気になる。
しかし、ドーパミンは非常に中毒性が強い。コカイン、ニコチン、アルコールを摂取したり、ギャンブルに興じたりすると、ドーパミンが放出される。そして、その感覚に我々は夢中になる。
脳内のドーパミン報酬系をハイジャックするものとして近年SNSが登場している。

セロトニンは誇りを感じさせる。それは、人から好かれている、尊敬されていると認識した時に得られる感覚だ。
社会的動物である我々は、同じ部族の人間から称賛されたいと思うし、称賛を必要としている。それは実に重い意味を持っている。我々はみな同じグループの人間やグループ全体のために尽力することに意味があると思いたいからだ。

オキシトシンは、友情、愛情、深い信頼といった感情を生み出す。
オキシトシンがなければ、我々は寛容な行動をとることも、共感をもつこともなく、強い絆や友情を育むこともできないだろう。
オキシトシンは我々を社交的にする。また、オキシトシンは、相手を全面的に信頼してもいいのか、あるいは距離を置くべきなのかの指針となる。いわば社会的なコンパスといえるだろう。
即時の満足感をもたらすドーパミンと異なり、オキシトシンはもっと長く継続する満足感をもたらす。
相手を信頼するようになり、相手からも信頼されるようになると、血中をオキシトシンがいっそう流れるようになる。時には魔法にかかったように、自分と相手の強い絆を実感できることもある。
ドーパミンによって生じた熱狂、興奮、自発性などが消えたあとも、オキシトシンによって生じた、もっと安定した、もっとリラックスした、もっと長期にわたる人間関係が続くのだ。
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陽あれば陰あり。ネガティブ感情を生じさせる脳内物質、それがコルチゾール。

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コルチゾール
安定した生活が脅かされているように感じると分泌されるもの、それがコルチゾールだ。
だが、コルチゾールが我々を不安にさせるのは、ただ本来の務めを果たしているに過ぎない。コルチゾールは脅威を察知し、それに備えさせようとしている。闘うか、逃げ出すか、隠れるかを判断させるのだ。

コルチゾールは我々のシステムに長居はしない。脅威を察知すると分泌され、その脅威が過ぎたあとには消えてしまうようにできている。ストレスが我々の身体に及ぼす影響は深刻であるため、恐怖や不安を絶え間なく感じていると、常に悪影響が及ぶことになるからだ。
コルチゾールが絶えず流れている状態は、健康に深刻な被害を及ぼす。
他の利己的な脳内物質と同様、コルチゾールはヒトの生存に力を貸すが、本来は四六時中我々のシステムに存在するはずのものではない。
コルチゾールは、ブドウ糖の代謝に破壊的な被害を及ぼすし、血圧を上げ、炎症反応を起こし、認知能力を低下させるおそれもあるからだ。
コルチゾールが大量に放出されると、攻撃性が強くなり、性衝動が抑圧され、全般的にストレスで疲れきったように感じる。
コルチゾールは、状況に応じて闘争もしくは逃走できるよう、身体が瞬時に反応する準備を整える。これには多くのエネルギーを必要とするため、脅威を感じると、身体は不必要な機能〜消化や成長など〜のスイッチをオフにする。一旦ストレスが通り過ぎれば、こうしたシステムにまたスイッチが入る。
ところが残念なことに、免疫系は身体が不必要と見なす機能の一つであるため、コルチゾールが大量に放出されると免疫系はオフになる。
また、コルチゾールはオキシトシンの分泌を抑制する。
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そこで著者の提案は、組織に「安心感の砦」(サークル・オブ・セーフティ)を築きなさい、ということだ。
安心感の砦により、組織に守られている感覚をメンバーがもつことで、対外的な折衝に注力できるという考え方だ。

「安心感の砦」(サークル・オブ・セーフティ)

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会社の強さと耐久力は、社員がどの程度一丸となって協力しているかにかかっている。だからこそ、グループの一人一人が<サークル・オブ・セーフティ>を維持すべく、自分の役割を果たさなければならない。
そして、社員がそうできるよう確実を期すのが、リーダーの役割だ。<サークル・オブ・セーフティ>の内側にいる部下たちを見守るのが、リーダーの第一の役割である。

また、門番として<サークル・オブ・セーフティ>への入場を認める者と認めない者、つまり帰属する者としない者を判別するのもリーダーの役割だ。

そして、リーダーは<サークル・オブ・セーフティ>をどの範囲まで広げていくかを決める責任を負っている。
当然のことながら、組織が小さいほど、外部からの危険に敏感になる。<サークル・オブ・セーフティ>を管理し易いという利点もある。
組織が大きくなり、官僚制度を持ち込み、人々が保身を最優先にするようになると、組織は発展しなくなり、組織全体が外部の脅威や圧力に影響を受け易くなる。
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著者の言うリーダーの役割は、安心感の砦を作り、それを管理・運営することだと言う。

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どんな組織のどんなリーダーであれ、その目標は「バランスをとる」ことにある。
ドーパミンが主要な原動力になれば多くのことを達成できるかもしれないが、ドーパミンは永続するものを築こうとするときに力を貸さない。
一方、ヒッピーのコミューンに暮らしていれば、オキシトシンが大量に放出されるかもしれないが、明確な目標や野心をもたずに過ごしていると、達成感を味わう機会がなくなる。
目標は「バランスをとる」ことにある。
脳内物質が放出されるシステムのバランスがとれていれば、我々には超自然的な能力が生じるようだ。勇気を奮う、霊感や先見の明に恵まれる、創造力を発揮する。
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「バランスを取る」。これは言うは易し、行うは難しで、実行が一番難しいこと。
スキーのモーグル選手が巧みにコブ山を降りてくるのと同様、才能と鍛錬が必要だ。



この本の中でいい意味で引っかかった言葉が『長期的な強欲』。

「長期的な強欲」

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ゴールドマン・サックス シニア・パートナーのグスタフ・”ガス”・レヴィが同社の方針を説明する際によく使った言葉。
時に短期的なヒットを飛ばし、顧客の力になることで、顧客とのあいだに忠誠心のある信頼関係を少しずつ築いていき、そうした信頼関係の基盤から、長期的に見ればいずれ大きな見返りを得ることができるという意味だ。
1970年当時、ゴールドマン・サックスは「紳士の組織」であり、協力関係を大切にし、顧客と企業に最善の方策を実施する組織と考えられていた。
近年の評判を考えれば信じられないが、当時の社員は、顧客のためにつねに正しいことをしようという意欲にあふれているように見えたため、「億万長者のボーイスカウト」とも呼ばれていた。
どれだけ華やかな経歴や学歴があろうと、ゴールドマン・サックスには中々就職ができない時代があった。まず、社風にうまく適応できる人材であることが求められた。自分個人より会社の要求を優先することを求められた。
経営陣は、カネを儲ける力があるかどうかではなく信頼をおけるかどうかで志願者を見極めようとした。そして、最後に「長期的な強欲」という価値観の意味を良く理解しているかどうかを判断した。
このように、人材に高い基準が求められていたからこそ、ゴールドマン・サックスは不景気の時期でももちこたえることができた。
しかし、1990年代初頭にレイオフを実施。1999年に株式を公開したあとに文化崩壊が加速した。攻撃的で押しの強い新種のブローカー達が入社してきて、銀行はふたつの陣営、「旧ゴールドマン」と「新ゴールドマン」に分かれた。
一つの文化は忠誠心と「長期的な強欲」を基盤に築かれており、もう一つの文化は数字と短期的目標の上に築かれていた。
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利益を短期でみるか、長期でみるかによって、とるべき判断は変わってくる。
囲碁において厚みをとるか実利をとるかの違いのようなものだ。どちらも勝つためにやっていることだが、このバランスは難しい。
その際に、一見顧客志向過ぎて損をしているように見えても、実は長期的には「強欲」と言ってもいいほど利益を志向している、というのは非常に面白い。

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文化の基準が、品格、価値観、信条といったものから、業績や数字など、ドーパミンに駆り立てられた非人間的な測定値へと移行すると、我々の行動を刺激する脳内物質がバランスを崩し、信頼や協力への意欲が弱まる。
コップに入った牛乳に水を足すように、文化が水で薄められ、ついには牛乳の味がぼんやりと感じられるだけになり、栄養分も失われてしまう。
すなわち、歴史観、過去への責任、共有する伝統への責任といったものまで失われてしまうのだ。
そして、自分がどこに帰属しているかという問題をますます考えなくなる。
こうした弱い文化の中に身を置いていると、「自分にとって正しいこと」をしたがるようになり、「正しいこと」をする道からどんどん外れていく。
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グローバリゼーションが進んで行くと、得てしてグローバル基準である数字に重きが置かれるようになる。
(余談だが、個人的には世界共通言語の一番は英語ではなくて数字だと思っている)
グローバリゼーションが進めば進むほど、自分の帰属先、帰属する規範、価値観といったものを確立していく必要があるということだ。
そうしないと、そっくり丸ごとコルチゾール漬けの世界が出来上がるということだ。


『業績依存症』

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アルコール、ニコチン、食べ物から得られる快楽は、全てドーパミンに由来する。ドーパミンは、目標を達成した時や、探していたものを見つけた時に分泌される脳内物質だ。すなわち、ドーパミンは、生存や繁栄の役に立つ行動をとるよう、ヒトに発破をかけるのだ。
ドーパミンは、簡単に食糧を入手できない時代のためにつくられた。我々の身体は、食べたいときにいつでも食糧が手に入る世界で生きるようにはできていない。過食、ギャンブル、飲酒、喫煙はどれも、あきらかにドーパミン依存症だ。
同様のことが、まさに現代の企業文化で起きている。企業文化が奨励するプログラムが、新たなドーパミン依存症をつくり出しているのだ。「業績依存症」という病を。
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ベビーブーマーが「もっとたくさん」「もっと大きな」といった目標を達成することで、ドーパミンを得ていたのだとすれば、ジェネレーションY(1980年〜1995年頃に生まれた世代)は「もっと速く」「いますぐ」満足することで、ドーパミンを得ているといえる。
タバコが時代遅れとなったいま、彼らに断つことの出来ないのはソーシャルメディアだ。
ソーシャルメディアは、いわば21世紀のドラッグである。
アルコール依存症や薬物依存症と同様、この新たな病は、我々の最も若い世代を短気にさせており、最悪の場合、その前の世代より孤立させ、孤独感を味合わせている。成人後、アルコール依存症となる可能性の高いティーンエイジャーが精神的な苦悩や問題に対処しようとするとき、我々に辛いことがあると信頼する人間関係に頼るのではなくアルコールに依存するのと同様、彼らは辛いことがあるとソーシャルメディアや仮想世界の人間関係に頼ろうとする。
彼らは、短期間であればエネルギーを爆発させたり、努力したりするのは構わない。だが、一つのことに責任をもって関わり、気概をもって最後までやり抜くのは苦手だ。
集中して取り組み、自己を捧げるのではなく、多くのことに少しずつ自己を分散することに彼らは、すっかり慣れてしまっている。
その結果、「関心を持ってもらう」という大量の時間やエネルギーを割くことのないうわべだけの行為を本物の関わり合いと混同し、満足している。
いくら関心を高めても、結局生身の人間が、自分の時間を割き、エネルギーを注入するからこそ問題が解決するという点が見過ごされている。
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ここでもリアル回帰の必要性が述べられている気がする。
自分を振り返ってみても、ソーシャルメディア対応に使っている時間は馬鹿にはならない。
まだ文明の発展についていけていない我々の脳をどのように折り合いをつけていくのか。
テクノロジーは悪用も出来ることを考え、前に進むための技術をさらに発展させることが必要なのではないかと思う。


その他、面白かった点を羅列。
◯トップの経営陣は、絶え間ない緊張で疲弊しているように見えるが、実際は、彼らの下働いている事務員やマネジャーよりも長生きし、健康的な生活を送っている。
自分の仕事に関して、すなわち人生において、自分に権限があると感じられるかどうかが、ストレスや健康を左右する大きな鍵を握っている。
◯ボストンカレッジ大学院のソーシャルワーク学科の研究者によれば、「自分は幸福に暮らしている」という子供の安心感は、親の勤務時間の長さではなく、親が帰宅したときの機嫌の良さで変わってくる。
◯人間は、笑うことと怖れることを、同時にはできない。
◯ヒトは、視覚思考の動物である。他の感覚よりも、目で見たものを信頼する傾向にある。目標を立てたら、その目標を文字で記せと言われるのも同じ理由からだ。
企業が掲げる経営理念(ビジョン)もまた心の目で見えるものでなければならない。経営理念は目で確認する必要があるからこそ「ビジョン」と呼ばれているのだ。
◯カネは、具体的な資源や人間の努力を抽象化したものだ。それは、未来の商品やサービスに対する約束手形とも言える。
だが、人々が何らかの行動に費やす時間と努力とは異なり、カネはそうした行動の価値を表しているに過ぎない。
カネは抽象概念に過ぎないため、我々の原始的な脳にとって、真の意味で価値がない。
我々は生来、自分に時間とエネルギーを費やしてくれた人を特に高く評価する傾向がある。
カネには相対的な価値がある(大学生にとって100ドルは大金だが、億万長者にとっては端金だ)が、時間と努力には絶対的な価値がある。
我々がどんなに貧しかろうと、裕福であろうと、どこでいつ生まれようと、1日は24時間、1年は365日だ。



2015年4月29日水曜日

『お金はサルを進化させたか』

野口真人氏の経済行動学入門のような本。
知っているようで結構しらないことも多く、楽しみながら読むことができた。

サルから進化してきた我々人類の歴史はざっと20万年、これに比べるとお金の歴史は3000年足らずである。
歴史を紐解くと、不確実性が確率論という学問として取り上げられたのは中世、1600年代からだという。それ以前は、すべての出来事は神が決定したものであり、不確実性や偶然性を人が心配しなくてもよかったのだろう。
人と不確実性の関わりは不可避であり、人生を左右する大きな要素であるが、それを意識してからわずか400年しか経っていない。
人が「お金の使い方」に習熟しないのは、価値の尺度と貯蓄手段としてのお金にまだ慣れていないからだと考えたい。
一つには合理的に金銭的価値を測る術を知らない。もう一つには将来の不確実性への正しい対処方法がまだ確立していない。この二つが要因と言える。

「お金」というのも昨今のテクノロジーと同じく、人間の脳にとっては最近でてきたニューテクノロジーで、それ故理論と感覚がずれるということだ。

では、脳の感覚と理論がずれるケースをみていこう。

◯行動経済学者 リチャード・セイラー
「明日のリンゴ2個よりも今日のリンゴ1個を選ぶ人が、1年後のリンゴ1個よりも1年と1日後のリンゴ2個を選ぶ」
一般的に人は現在を過剰に重視する傾向があり、近い将来に発生するキャッシュフローの効用を大きく下げてしまう。
人は、将来の効用には低い割引率を適用する。

◯確率論は「神の視点」の学問と言える。神からみた一人一人は多くの標本の一つに過ぎない。 ところが、自分にとって自分を標本として客観的に見ることは至難の業になる。

◯モンティ・ホール・ジレンマ
あなたはテレビのクイズ番組に出て見事に優勝した。100万円の賞金は、あなたの前に並べられた三つの金庫A,B,Cのどれかに入っている。
その三つのうちどれかを選ぶかと聞かれ、あなたはAの金庫を選んだ。
司会者はあなたの顔をじっとみつめ、「まずBの金庫を開けてみましょう」とBを開錠した。 Bの中には何も入っておらず、あなたはひとまず安堵のため息をついた。
すると司会者があなたに質問した。「本当にAでよいですか?Cに換えることもできますが…」 司会者の提案にのるべきか、のらないべきか。 直感では、AとCどちらかの金庫に100万円入っているのだから、換えても換えなくても期待値は変わらないと判断しがち。
だが、実際にはCに換えた方が、Aのまま変更しないよりも、100万円を手に入れる確率は2倍になる。
Aの金庫に入っている確率は、Bを開ける前でも開けた後でも1/3。期待値は33万円。
一方、BかCどちらかに入っている確率は2/3。Bの金庫が空であることが判明した瞬間に、Cに入っている確率は2/3になり、Cを選んだときの期待値は66万円となる。

◯宝くじの錯覚
当たり確率1%のくじを100回引いたら 当たりの確率が50%のくじを2回引いたからといって、当たる確率が100%になるわけではない。
この場合、当たる確率は75%。2回引いて両方とも外れる確率は50%×50%の25%。これを100%から引いた75%が、2回引いて1回でも当たる確率になる。
当たる確率XのくじをX回引いて、1回でも当たる確率を計算式で表すと
1−(1−1/X)のX乗。
これでXを大きくしていくと確率は約63.2%に収束していく。
1000万分の1の宝くじを1000万回買ったとしても、1等が当たる確率は63.2%までしか高まらない。

◯「ほとんどゼロ」はゼロではないし、反対に「ほとんど確実」は確実ではない。
行動経済学の祖、ダニエル・カーネマンの提唱した理論の中に 「人は低い確率を過大評価し、高い確率を過小評価する」 という考え方がある。

◯カーネマンは、人間が感じる確率と数学的に求められる理論値とは別だと主張した。人間が感じる主観的確率と理論値との差は、その事象が起こった時の影響の大きさに関係するという。宝くじの1等賞金が10万円だったとしたら、人は冷静にその当選確率を判断できるが、3億円になると主観的確率が歪むのである。

◯カーネマンと彼の朋友トヴェルスキーは、理論的な確率から主観的確率を計算する式を、様々な実験を通じて作り上げた。 その式によると、理論的確率が35%以上になると、理論的確率より主観的確率の方が小さくなるという。これを確率加重変数と呼ぶ。

◯カーネマンは「感応度逓減の法則」を唱えた。
我々が感じる好ましさの変化量は、利得や損失が増加するにつれて逓減していくという。
人が利得を得たり損失を被ったりしたときに実際に感じる「満足度」を価値関数としてグラフで表すと、利得の場合も損失の場合も、左右両端に近づくにつれてグラフの傾きが小さくなっている。
何かの賭けをして1万円もらえる時と10万円もらえる時では、嬉しさは10倍違うかもしれないが、100万円もらえる時と110万円もらえる時ではそれほどの差はなくなる。
一方、同じ額であっても、利得が増加する満足度より、損失が増える「不満足度」の方が大きくなる。この現象は「損失回避」と呼ばれ、我々が損失に対して過剰に反応し、損失を回避したがる傾向にあることを示している。

◯人間の癖のひとつとして、「お金の量ではなく、お金の量の変化によって満足度は左右される」ということがある。
Aさんはピーク時に2000万円の資産を持っていたが、現在は1000万円に減ってしまった。一方のBさんは資産を500万円から1000万円にまで増やした。
AさんもBさんも1000万円の資産をもっているわけだが、1000万円を失ったAさんより、500万円を増やしたBさんの方が満足を感じているはずだ。
これはカーネマンが指摘した「参照点依存症」という「人の癖」である。
人間はお金についても変化に敏感である。その場合、どの状態から変化したかによって反応が異なってくる。反応の強弱の度合いは、変化を参照する地点ないし時点に依存するのである。


知らなかったのがファイナンスの世界における「リスク」という言葉の意味。
◯ファイナンス理論で用いられる「リスク」とは不確実性を指す。
不確実性とは「予想していた事象が起こる不確からしさ」を意味する。つまり「危険なことを好まざることが起こる可能性の高さ」というわけではない。
これを統計学で表現すると「標準偏差」ということになる。
◯リスク、ばらつき、ボラティリティ(予想変動率)の大きさとは、出発地点から到達地点までどれほど寄り道して動いたかを意味する。
出発地点から到達地点まで最短距離(つまり直線)で動いた株式のリスクはゼロである。
その株式の価格がどれほど動いたかどうかとリスクは関係がない。リスクは結果ではなく、それまでのプロセスを重視する。
◯モダンポートフォリオ理論
1990年にノーベル経済学賞を受賞した米国のハリー・マーコヴィッツ氏が1952年に発表した「ポートフォリオ選択論」から端を発する。
ばらつきを打ち消し合ってくれる投資を組み合わせることでリスクを低減できる。
将棋のプロ棋士二人と闘うゲームも「どちらかに勝てば必ずどちらかには負ける」というポートフォリオの状態を作ることで、「両方に勝つ」(ほとんどありえない)や「両方に負ける」(一番可能性が高い)というばらつきを回避できたのだ。

将棋のプロ棋士二人と闘うゲームは、シドニー・シェルダンの『ゲームの達人』にヒントを得たとの話だが、非常に面白い仕掛けなので、興味のある方は本を読まれたし。

◯ポートフォリオ以外のリスク回避手法としてはオプション取引がある。
オプション取引をすることによって、将来のキャッシュフローのばらつきを無くす(=リスク回避)ことができる。
オプション取引のリスクを回避するために株式を売買することを「デルタヘッジ」と呼ぶ。
◯ストック・オプションの価値は株価のばらつき(予想変動率)からくるので、その会社の株価上昇の見込みとは関係がない。

人間の感覚(脳の感じ方)と実際の理論値との違いという前段も面白いが、後段のファイナンスの世界における「リスク」(=不確実性、ばらつき)という考え方も非常に面白かった。


<面白小ネタ>
◯現存する最古の鋳造貨幣は紀元前7世紀にリディア王国で作られたエレクトロン貨と言われている。
◯日本における最大のギャンブルはパチンコで1995年には年間30兆円もの売上があったが、2011年には19兆円(▲37%)になった。
競馬は1997年に4兆円を売り上げたものの、2012年には2.3兆円(▲42%)まで落ち込んでいる。
ところが宝くじは2005年に1.1兆円の売上を記録してから2010年に0.91兆円まで落ち込んだものの落ち込み率は▲17%と、パチンコや競馬の半分程度に留まっている。
宝くじの払い戻し率は法律によって50%を超えてはならないとされている。
これに対し、公営ギャンブル(地方競馬、競艇、競輪、オートレース)の払い戻し率は74.8%になっており、宝くじより良心的である。
◯有史以来、人類が発掘した金の総量はざっと15万5000トンに過ぎない。これはオリンピックの公式プール約3杯分という。
◯ダイヤモンドの価格は、デ・ビアス社によってコントロールされている。
◯一都三県の築浅マンション(築10年以内)であれば次の簡単な計算式で、ほぼ適正な価値を出せる。
マンションの価値=毎月の家賃×200倍(割引率6%)
東京都、しかも港区や千代田区など都心部にある築浅マンション(築10年以内)であれば
マンションの価値=毎月の家賃×240倍(割引率5%)

実は最後のマンション価値のところが実際の業務では役に立つ部分かもしれない(笑)。

2015年4月26日日曜日

つなぐLab vol.007

 立教大学 異文化コミュニケーション研究科 特任准教授中西紹一先生による第7回「つなぐLab」。
今回のテーマは「アートでつながる瞬間」。

昨年度の六本木アートナイトで作品を出展した西尾美也氏のアート作品(アートプロジェクト)について、その製作参加者の意見も聞きながら洞察を深めるというものだった。

今回テーマとなった西尾氏のアート作品は、人間の家[スカート]、花柄/花、ボタン/雨と3つあるのだが、いずれも2800着の古着を集めて、総勢50名のボランティアスタッフによる約3ヶ月弱の製作期間を経た作品だ。
https://www.youtube.com/watch?v=oKAbZKcvzOU

西尾美也氏本人によるアートの意図の概要説明があった。
「服」というものは実は初見の先入観につながったりするので、深いところで実は分断する要素になっている。 その「服」という要素を使って「つながり」を表現したかったとのこと。

最初にボランティアの人たちから、アートプロジェクトに参加して何が変わったかを各々聞いた。
・今回参加の3/8の人が離職してしまった。(覚悟を持てて、仕事を辞めることができた)
・他のアート作品に対する見方が変わった。(アート作品そのものだけでなく、作品が作られた背景やプロセスなども気になるようになった)
・自分で購入する服が変わった。
・コミュニケーション能力がUPした(それまで、自分は「モノづくりの人」でコミュニケーションは正直苦手だった)

その後何組かに分かれて、参加していたボランティアの話を聞いたのだが、その気づきが面白い。
・途中からでも、すっと入れる雰囲気があった。
・ディレクターからのディレクションに「入りやすさ」の要素が埋め込まれていた。
(「自分がやっても良い」という安心感がある)
・しばらくすると作品作りではなく、人との対話、自分との対話になっていった。
・いつ来てもいいというゆるさもあるが、ボランティアをやめてしまった人はいない。
・ある瞬間から自分事化した(ダイブの瞬間)。
(でもこの「瞬間」は人によって異なる)
・実はこのチームの人間関係のつながりも西尾作品の一部と聞いてハッとした。

話を聞いていて、最初は入り易く、どこかで自分事化する瞬間がある(「ダイブする瞬間」という表現だったが)というのは正統的周辺参加のデザインと似ているのではないかと勝手に感じた。


たまたま法政大学社会学部 土橋先生と同じ組になれたので、このアートプロジェクトに対する土橋先生の見方を知ることができた。
曰く、
最もプライバシー性の高い私的所有物である「服」にハサミを入れ「解体」することで、私的所有を放棄しそれを公共空間に放り込む。
それがまた多くの人(ボランティア)の手によってアート作品となり、再び公共空間へ戻る。
プライベートで参加したボランティアが、「アトリエ」という場所に集うことでアトリエがパブリックな空間になっていくことと二重にシンクロしているアートプロジェクトである、とのこと。
社会学の先生の抽象化のスゴさにちょっとビックリした。

「まず切らないとつなげられない」ということを表現しているとの話もあった。

最後に、中西先生より、今回のテーマをアルフレッド・ジェルのアートネクサス論的に解説してもらったのだが、今ひとつ理解できずにモヤモヤ感が残る。
このモヤモヤ感こそがワークショップの醍醐味だったりもするのだが、このモヤモヤ感がスッキリ腑落ちするようまた精進せねば。

2015年4月12日日曜日

『アブダクション 仮説と発見の論理』

PSJ 中西紹一先生による『イノベーション道場』という講座が社内であり、そこで紹介された本。
米盛裕二氏の著作で、記号論理学の創設者チャールズ・S・パースによる「アブダクション(もしくはリトロダクション)」と呼ばれる推論手法について書かれたものである。

中西先生の講義はその「アブダクション」について、より実践的、実務的に説明されたものであった。

では本書で説明されている、ちょっと学問的な「アブダクション」の概略について書こう。

<そもそもアブダクションとは>
パースによるアブダクションの推論の形式を書くと

驚くべき事実Cが観察される、
しかももしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
よって、Hが真であると考えるべき理由がある。

驚くべき事実C:我々の疑念と探究を引き起こすある意外な事実または変則性のこと
H:「驚くべき事実C」を説明するために与えられた「説明仮説」

これを難しい記号で書くと
C,H⊃C/∴H
となるらしい。(正直訳が分からん)

具体事例で述べると、
「陸地のずっと内側で魚の化石のようなものが見つかった」(←驚くべき事実C)
しかし、もしこの「この一帯の陸地はかつては海であった」と考えれば当然の事柄であろう。
よって「この一帯の陸地はかつては海であった」と考えるべき理由がある。
と考える推論の仕方だ。

この手法で推論され、当時見つかってなかった海王星が実際に発見されている。


<推論3種>
パースによると推論は3種類に分類される。

推論(inference)— 分析的推論(analytic or explicative inference)—演繹(deduction)   
          — 拡張的推論(ampliative inference)— 帰納(induction)
                            — アブダクション(abduction)

分析的推論と拡張的推論の違い
(1)分析的推論は推論の内部における前提と結論の論理的な含意関係の分析にのみかかわるのであり、外的な経験的事実の世界には関わらない。なので分析的推論は経験的事実による反証にさらされることがなく、いわば経験から独立に成り立つ推論。一方拡張的推論は経験に基づく推論であり、経験的事実の成果に関する知識や情報を拡張するために用いられる推論。
(2)分析的推論では、前提から結論に至る過程において前提の内容を超える知識の拡張はない。一方、拡張的推論の結論は、前提以上のことを主張する、つまり前提の内容を超えて、前提に含まれていない新しい知識や情報を与える。
(3)分析的推論の場合は、前提の内容の中に結論が含意されているので、前提が真であれば結論も真でなくてはならないという必然性の関係が成立する。一方拡張的推論は、その本性上、蓋然的な推論である。つまり拡張的推論の場合は、前提が真であっても結論は偽であるということがあり得る。


では次に、拡張的推論が帰納とアブダクションに別れるその2つの違い。
パースによると、帰納は観察データに基づいて一般化を行う推論であり、これに対し、アブダクションは観察データを説明するための仮説を形成する推論。
「帰納と仮説の大きな違い(the great deference between induction and hypothesis)は、前者の場合は我々が事例の中に観察したものと類似の現象の存在を推論するのに対し、仮説は我々が直接観察したものとは違う種類のなにものか、そして我々にとってしばしば直接には観察不可能な何ものかを仮定する、という点にある。」

帰納的飛躍(inductive leap)…我々が事例の中に観察した着目現象はそれらの事例と同種の事象のクラス全体においても存在するという風に、既知の部分からその部分が属する未知のクラスへの飛躍であり、それはつまり同種の観察可能な事業のクラス内における一般化の飛躍。
仮説的飛躍(abductive leap)…我々が直接観察したものとは違う種類の何ものか、そして我々にとってしばしば直接には観察不可能な何ものかを仮定する、いわば創造的想像力による推測の飛躍。
従って、帰納とアブダクション(仮説)の推論の可謬性には明白な違いがある。アブダクションは帰納よりもいっそう過謬的な弱い種類の推論である。

説明されてもちょっと分かりづらい。
これはこれでおいておいて、使われ方の面から説明を受けた方が違いが分かりやすい。

パースによると、科学的探究の過程は三種類の推論(演繹、帰納、アブダクション)から成り立っており、これら三種類の推論は科学的探究の過程における三つの段階を形成している。
その第一段階はアブダクションであり、第二段階は演繹であり、第三段階が帰納。
アブダクションで仮説を考えだし、演繹で(その仮説から必然的かつ確率的に導かれる)諸帰結を追求し、帰納で仮説をテストする。
だから、帰納とアブダクションは探究の過程においてそれらが占める位置も、それらが果たす機能も違う。
アブダクションは探究の最初の段階(発見の文脈)において仮説を形成する推論であり、 帰納は探究の最後の段階(正当化の文脈)において仮説がどれだけ経験的事実と一致するかを確かめ、仮説を確証ないし反証する操作である。
アブダクションは理論を求める。帰納は事実を追求する。
アブダクションが取り扱う事実は、説明を要する事実。だからアブダクションが行う観察「アブダクティブな観察(abductive observation)」は仮説や理論を発案する、いわば着想のための観察。
これに対し、「帰納は事実を追求する」。
帰納の役割はアブダクションによって提案された仮説や理論を実験的にテストするのに必要な実証的諸事実を追求し、それらの事実を出来るだけ多く集めることである。つまり帰納が行う観察「帰納的観察(inductive observation)」は仮説や理論の確証ないし反証を行うための実験的実証的観察なのである。

要するに、仮説を立てるために使われる推論の手法がアブダクションで、それを実証するために使われる推論が帰納。どっちも演繹とことなって論理に跳躍(leap)があるんだけど、その確からしさは異なる(アブダクションは帰納より可謬的)ということだ。

著者によると、帰納主義者のフランシス・ベーコンや、ジョン・スチュアート・ミルらは、仮説がある前提での帰納がベースとなっており、仮説がどのように導かれたかについての考察はない。
二人とも仮説の提案が必要であり、帰納的探究は仮説によって導かれるという仮説の概念認識が欠如していた。


確かに、会社でも常に「仮説と検証を」「PDCAを回せ」と言われ続けているが、仮説やPLANをたてる方法論というものについては特になく、「現場百回」とか「観察して洞察せよ」とか概念的なものだけで、後は「ひらめき」のようなものに期待するということしかなかった。
「イノベーション」という、「改善」とは異なり、不連続を期待されるものをどのようにして発想して仮説をたてるのかということについての方法論は論じられてなかったし、まさにひらめきに期待する以外の方法論をもっていなかった。
それを今回中西先生の「イノベーション道場」ではパースのアブダクションをベースとした方法論を教示いただいた次第である。

科学的探究の過程になぞらえて、企業における業務推進の過程を考えてみると
アブダクション(マーケット・ターゲットの仮説の策定)→演繹(実践し、その実績をベースとしたルール化・必勝法の確立)→帰納(必勝法に基づいた実践、横展開)
という感じになろうか。
そう考えると、帰納<演繹<アブダクションという順に難易度が高く高次な業務ということになるのではないか。
よく社内で「ルール通りに仕事をするだけ(帰納)ならアルバイトで足りる。ルールを変えるの(演繹)が社員の仕事」と言われる。
さらに上をいくスーパー社員を目指すには「仮説の策定(アブダクション)」というところまで要求されるということか。
その仮説の立て方を「ひらめき」のようなものに依存するのではなく、一定の手法として論法化しているところが中西先生の実践的でスゴいところだと感服した。

理屈は教わったので、後は実践あるのみ。