2014年12月29日月曜日

『里山資本主義』

地方再生を目指している人が仕切りと話題にすることもあり、遅まきながら読むことにした。

「ちまちま節約するな。どんどんエネルギーや資源を使え。それを遥かに上回る収益をあげればいいのだ。規模を大きくするほど利益は増えていく。それが『豊か』ということなのだ」
今の経済は、このような暮らしぶりを奨励している。

既に、アメリカから派生したマネー資本主義が色々な部分で破綻を来たし始めていることは、リーマンショックから始まる世界金融危機により認識され始めている。
世界はマネー資本主義の次なるパラダイムを模索しているが、マネー資本主義の代替となるものは未だに現れていない。

「里山資本主義」とは、お金の循環がすべてを決するという前提で構築された「マネー資本主義」の経済システムの横に、こっそりと、お金に依存しないサブシステムを再構築しておこうという考え方だ。
お金が乏しくなっても水と食糧と燃料が手に入り続ける仕組み、いわば安心安全のネットワークを、あらかじめ用意しておこうという実践だ。

著者は「里山資本主義」の手本として、国内では岡山県の真庭市、海外ではオーストリアを挙げる。

オーストリアの事例を見ていこう。

<オーストリアの事例>

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◯マネーの嵐が吹きすさぶヨーロッパのど真ん中に、その影響を最小限に食い止めている国がある。それがオーストリアだ。失業率はEU加盟国中最低の4.2%。一人当たりの名目GDP(国内総生産)は4万9688ドルで世界11位(日本は17位)。対内直接投資額は、2011年に前年比3.2倍の101億6300万ユーロ。対外直接投資額も3.8倍の219億500万ユーロと、対内・対外ともリーマンショック直前の水準まで回復した。
◯なぜ、人口1000万人に満たない小さな国、オーストリアの経済がこれほどまでに安定しているのか。その秘密こそ、里山資本主義なのだ。国土はちょうど北海道と同じくらいの大きさで、森林面積でいうと、日本の約15%に過ぎない。
◯4年に一度、世界最大規模の林業機械の展示会「オーストロフォーマ(austrofoma)」が開催される。森林マイスター制度を有し、現在、オーストリアのエネルギー生産量の約28.5%は再生可能エネルギーによってまかなわれている。
EUは、2030年までにバイオエネルギーの割合を34%にする目標を掲げており、オーストリアもこれを目標としている。
「現在、森林は我が国(オーストリア)において二番目の外貨の稼ぎ手になりました。木材関連産業だけで、年間30億〜40億ユーロの貿易黒字が計上されています。森林が1年間に生長する量の70%しか利用していないにもかかわらず、です。 今後は、森林生長量の100%ギリギリまで利用できないかと考えています。」
◯オーストリアは、世界でも珍しい「脱原発」を憲法に明記している国家である。
◯世界中から年間3万人もの視察が殺到する町、ギュッシング市。ギュッシングでは、エネルギー自給率72%を達成した。人口4000人。
◯CLT(クロス・ラミネイティッド・ティンバー)。木材を垂直水平に張り合わせた集成材。コンクリート並の強度を誇る。オーストリアの法律では現在9階建てまでCLTで建てることが認められている。
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オーストリアの林業は、資本となる”山林”を殖す段階にあるが、今後は山林を殖すことなく毎年殖える分だけを利用するという「利子で食べていく」という発想を持っているというのが新鮮だった。
なるほど、持てる資産を食いつぶす限り、それが石化燃料であろうが、木材であろうがいずれなくなってしまう。石化燃料と木材が異なるのは、木材は適切なメンテナンスを行えば資産が減ることはない。


<デフレと少子高齢化について>

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◯日本で「デフレ」と言われているものの正体は、不動産、車、家電、安価な食品など、主たる顧客層が減り行く現役世代であるような商品の過剰供給を、機械化され自動化されたシステムによる低価格大量生産に慣れきった企業が止められないことによって生じた、「ミクロ経済学上の値崩れ」である。
従ってこれは、日本経済そのものの衰退ではなく、過剰供給をやめない一部企業(多数企業?)と、不幸にもそこに依存する下請け企業群や勤労者の苦境に過ぎない。
そしてその解決は、それら企業が合理的に採算を追求し、需給バランスがまだ崩れていない、コストを価格転嫁できる分野を開拓してシフトして行くことでしか図れない。
同じく人口の成熟した先進工業国である北欧やドイツの大企業、イタリアの中小企業群などは、まさにそのような道を進んでいる。

◯実際問題、日本の1400兆円とも1500兆円とも言われている個人金融資産の多くを有する高齢者の懐に、お金(=潜在的市場)は存在する。
大前研一氏のブログによれば、彼らは死亡時に一人平均3500万円を残すというのだが、これが正しければ年間100万人が死亡する日本では、年間35兆円が使われないまま次世代に引き継がれているという計算になる。日本の小売り販売額(=モノの販売額。飲食や宿泊などのサービス業の売上は含まない)が年間130兆円程度だから、その35兆円のうち、1/3でも死ぬ前に何かを買うのに回してもらえれば、この数字は1割増となってバブル時も大きく上回り、大変な経済成長が実現することになってしまう。
あらゆる手段を使って高齢富裕層から女性や若者にお金を回すこと(正道は女性や若者の就労を促進し、給与水準を上げてお金を稼いでもらうこと)こそが、現実的に考えた「デフレ脱却」の手段なのである。

◯日本全体の合計特殊出生率(女性一人が生涯に産む子供の数)は、ここ数年少し回復してきたがそれでも1.4を割り込んでおり、日本最低の東京都では1.1という水準だ。この結果足元では、年間1.6%減少のペースで14歳以下人口が減っている。このままいけば、今後60年程度で日本から子供がいなくなってしまう状態だ。
現に過去35年の間に日本で毎年生まれる子供は4割も減ってしまったという事実がある。
子供だけではなく生産年齢人口(15歳〜64歳人口)も、1995年から2010年の15年間にもう7%も減っている。これが更に今後50年間でほぼ半減となることも、もう誰にも止められない状況だ。
移民の本格導入は、この問題を全く解決しない。移民も、移住先の国民と同化すればするほど出生率も移住先の国民と同レベルにまで、急速に低下するからである。日本より出生率の低いシンガポールでは、居住者の3割が外国人という状況だが、日本同様の子供の減少が続いている。

◯よく誤解されているのだが、若い女性が働くと子供が減るのではなく、むしろ若い女性が働いていない地域(首都圏、京阪神圏、北海道の人口の半分が集まる札幌圏など)ほど出生率が低く、夫婦とも正社員が当たり前の地方の県の方が子供が生まれていることは、統計上も明らかである。
もう少し定性的に言えば、通勤時間と労働時間が長く、保育所は足りず、病気の時などのバックアップもなく、子供を産むと仕事を続けにくくなる地域ほど、少子化が進んでいる。保育所が完備し、子育てに親世代や社会の支援が厚く、子育ての中の収入も確保しやすい地域ほど、子供が生まれているのだ。
少子化というのは結局、日本人と日本企業(特に大都市圏住民と大都市圏の企業)がマネー資本主義の未来に対して抱いている漠然とした不安・不信が、形となって表に出てしまったものなのではないかと筆者は考えている。未来を信じられないことが原因で子孫を残すことをためらうという、一種の「自傷行為」なのではないかと。

◯少子化は日本だけで起きているのではない。マネー資本主義が貫徹されているという意味では日本以上である韓国も台湾もシンガポールも、前述の通り日本より出生率が低い。
同じく凄まじいマネーの暴風が吹き荒れている中国でも、沿海部の出生率はもう東京よりも低くなっている可能性がある。上海の出生率は0.7という話を聞いたことがあるが、これは3世代で人口が1/8に縮小してしまうという驚異的な水準だ。
ロシアや東欧でも、突如マネー資本主義の暴風にさらされたソ連邦崩壊以降、著しい出生率の低下が報告されている。
であるとすればこそ解決は、マネー資本主義とは違う次元のところに存在する。里山資本主義の普及と活用にあるはずだ。
里山資本主義は、大都市圏住民が水と食糧と燃料の確保に関して抱かざるを得ない原初的な不安を和らげる。それだけでなく里山資本主義は、人間らしい暮らしを営める場を、子供を持つ年代の夫婦に提供する。
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「デフレ」に対する「ミクロ経済学上の値崩れ」でしかないという喝破は、『デフレの正体』を著述した著者ならでは、と言った感じだが、少子高齢化の根本原因(Root Cause)が「マネー資本主義の未来に対して抱いている漠然とした不安・不信」であるという観点が面白い。
その根本原因に対する方策が「里山資本主義」しかないのか。それはこれから我々が試行錯誤して見つけていかねばならないテーマなのかもしれない。


浜矩子 同志社大学教授が面白い喩えを言っているらしい。
 「グローバル時代は強いものしか生き残らない時代だという考え方自体が、誤解だと思うのです。多くの相手をつぶしたヤツが一番偉い、みたいな感覚でグローバル時代を見る人たちの頭の中は時代錯誤と言えます。我々は、グローバルジャングルに住んでいます。ジャングルは、別に強いものしかいない世界ではありません。百獣の王のライオンさんから小動物達、草木、果てはバクテリアまでいる。強いものは強いものなりに、弱いものは弱いものなりに、多様な個性と機能を持ち寄って、生態系を支えている。これがグローバル時代だと思います。」
この喩えにはちょっと批判がある。
ジャングルと人間のグローバル時代で異なるのが、ジャングルでは必要以上の殺生はしないが、人間のお金に対する欲望は無尽蔵であり、取れる人間が必要以上にマネーを貪るという現実である。
インテリジェンスの第一人者、佐藤優氏が
「情報提供相手に与える便益として大きく女、飯(酒)、金があるが、金だけはやめておけ。他の二つは無尽蔵には求めることができず限度があるが、金は無尽蔵に求め始め限度というものがない」
と書いていたことがあり、さもありなんと思った次第だ。
百獣の王が、必要以上に弱いものから搾取する(殺し始める)ジャングルでは食物連鎖は成り立たず、いずれ百獣の王も含めて滅びてしまうことになるであろう。
実際に起こったリーマンショックは正にそういう事態ではないか。
グローバル化とは、海の向こうのジャングルで起こっていることが、気がつくと自分のジャングルにも大きな影響を及ぼすようになっているということだ。
人間のグローバル時代は今そうなっている。だから不安・不信が募って世界的に少子化となっているということではないか。

言われてみて、なるほどと目から鱗だったのは
◯エネルギーを外から買うとグローバル化の影響は免れない。熱を制するものはエネルギーを、そして経済を制する。
ということ。
橘玲氏が『(日本人)』で、
「グローバル化が大きな海で世界がつながることだとすると、世界に台風が起こった瞬間に(そしてその台風は自分がどう生活していようと全く関係のないところで発生する)海では強風と嵐が吹き荒れ、それをしのげるのは島として存在するのが”共同体”(現状では”国家”がその単位)である」という趣旨のことを述べている。
分かりやすく世界の台風から逃れるには、エネルギー的に外界と一定の距離をおいていないと(自立していないと)ダメだということだ。


「人類は「懐かしい未来」に向かっている」
「懐かしい未来」とはスウェーデンの女性環境活動家、ヘレナ・ノーバーグ・ホッジ氏の言葉。
人類が猿から進化して以来、文明がすごい勢いで発達したのはここ2百年程度である。
正直、人間の脳の進化は現代の文明の進歩についていっていない。
これからはITの力を借りて、「懐かしい(と脳が感じる超ハイテク)未来」を作り上げていくことになるのだろう。

2014年12月21日日曜日

インフルエンザ

12月6日にインフルエンザワクチンを摂取したのに、17日の夜に発症・高熱が出て、2日位丸々寝込んだ。
相当気をつけていたつもりだったが、やはりどうしてもここ一番やらなければならないことの対応があって、ドリンク剤等も導入したが遂に捕まった感じだ。

インフルエンザなので会社も当然出勤停止(休み)となって、方々に高熱で朦朧とした中連絡を取って善後策をとり、メンバーのお陰もありことなきを得ているが、経営者やアーティストなど、余人をもって変え難い仕事をしている人は健康管理ってどうしているのだろうか。
今回のインフルエンザのお陰で心待ちにしていたイベントも一つ飛んでしまった。

今回リレンザを処方されたが、見るとこの薬、予防にも使えるらしい。
もっと予防に手間ひまとお金をかける必要があるのか、などと思った年の瀬であった。

『恋愛論』

『すべてはモテるためである』というお気に入りの本の著者二村ヒトシさん(アダルトビデオ監督)が「今読む恋愛書は、橋本治氏の『恋愛論』だ」と言っているのをとある人のFBで見つけて、興味を持って読んでみた。

<恋愛とは>

◯恋愛っていうのは、いわゆる”愛”っていうのとは違う。もっとエゴイスティックで駆け引き―つまり戦いみたいなもんなんですね。
恋愛っていうのは、自分で勝ち取るもんだし、その勝ち取るプロセスの中で自ずから意味が生まれ発見があり、そしてそのことによって自分が変わっていき、そして更にすごいことがあるんだとしたら、そのことによって相手である他人も変わっていくことがあるっていう、そういうことですね。
そういうところで恋愛っていうものは非常に個人的なものであるっていうことがなんか知らないけれど、最近はすっごく忘れられているっている、そんな気がします。
☞「恋愛」っていうのは自分も変わるし、そのプロセスにおいて相手も変えてしまう、相対性原理が働くモノだという指摘。

◯もう一つ、恋愛っていうのはなんかボウバクとしてて分かりにくい部分ていうのがあるんだと思うんですけども、恋愛っていうものは多分、僕にいわせれば、それは光のようなものであろうと。
それが何を照らし出す光かっていうことはとりあえずおいといて、それが光であるんなら光を光りたらしめるように、そこには当然”闇”というものがある。
恋愛というものは輝きの中に入ることによってその中で、それを必要とする自分を包む”闇”というものを発見するものなんだっていうことを押さえておかないとどうしようもない、無意味なものになってしまうっていうことなんですね。
もうちょっと突っ込んだことを言ってしまえば、人が恋愛をする、恋に落ちるっていうものは、そこで初めて、自分をとり囲む”暗黒”というものがある、そういうものがズーッと自分を取り巻いてきたんだっていうことを知ることなんですね。
この世には、結婚というものはあって、そのことはとっても確固として存在していて、それのお余り、そこに行く途中のお目こぼしとして”それを恋愛として享受する自由”とか”楽しい交際”っていうものがあるっていうことですよね。つまり、この世には恋愛というものが存在する余地、恋愛というものを受け入れる余地っていうものはないんですね。このことをしっかりと頭に叩きこんどいた方がいいと思いますね。
☞恋愛が”光の中に入る行為”だとすると、その行為により、今まで自分の周りに(実は)存在した”闇”を認識する行為であるということ。


<恋愛に必要なもの。それは”陶酔能力”>

◯恋愛に必要なものっていうのは、実は”陶酔能力”なんですね。
◯恋愛が往々にして一方的で、相手に関する勘違いで成立してるっていうのもここなんですけど、自分のしているガードで苦しくなっちゃった人間ていうのは、”ガードをしなくてすむ相手”っていうのを、うっかりと発見しちゃうのねー発明って言った方がいいのかもしれないけれど。
◯この世の中にははっきり言って、ドラマの分かる人とドラマの分からない人との二種類しかいない。そして、困ったことに、普通はドラマが分からない人のことを真面目な人っていうのね。
◯感動するっていうのはとっても不安なことだからなのね。感動っていうのはいってみれば、人間が平気で無防備状態をさらけ出しちゃうことだからね。
◯結局そういう人っていうのは、感動というよく考えたら何だか分けのわからないものを、自分一人で持ちこたえておくことがつらいのね。つらいから手放しちゃう。何遍感動しても、全然そのことで成長しない人っているでしょう? もうお分かりかもしれませんが、実はこういう人たちのことを、私なんかは「陶酔能力が無い」っていうんですね。
◯陶酔能力っていうのはやっぱり、それを一人で持ちこたえられるかどうかっていうところがすごく大きいと思うのね。前に「恋愛するっていうことは、実は感性的な成熟ってものが必要なんだ」ってことは言ったけど、感性が成熟したればこそ、感動とか陶酔とかっていう、言ってみれば社会的には自分をあやうくしちゃうものを自分の内部で持ちこたえることができるんだよね。
☞恋愛には、”陶酔能力”≒”感性的な成熟”≒”社会的には自分をあやうくしちゃうものを自分の内部でもちこたえることのできる力”が必要。


<関係が煮詰まった時に>

恋愛っていうのはしみじみしてて気持ちがいいっていう快感と、それと同時にドはずれて激しく燃え上がりたいっていう矛盾した両面をもっていて、人間ていうのはゼータクだから、その両方を満足させられないといやなのね。前に結婚の話で見合い結婚と恋愛結婚の二種類あるって話はしたけれども、恋愛っていうものの中には、実にこの二種類が入り交じっているのね。
◯人間がゼータクなものでっていうよりも、人間ていうものはやっぱりそういうものだって思った方がいいんだろうと思うんだけど、関係って、煮詰まったら終わりなんだよね。いくら見合いして誠実に自分たちの関係ってものを作り上げてきたとして、それが暗礁に乗り上げちゃうこともある。まぁ、現代っていうのはそういうことがアカラサマになってきちゃった時代だからこういうことだって重要になるんだとは思うんだけど、人間ていうものはサ、一遍関係っていうものが煮詰まってきちゃったら、「一体この関係っていうものは自分にとってどういう意味があるもんであろうか?」って考えちゃうものなのね。考えて、それで分からなくなったら、今までそういう関係を自分と続けてきたパートナーという人に訊いてみるのね。 勿論そんなこといきなりしたって、訊かれた相手には何のことだか分からないから「?」っていう答えしか返ってこない。〜これで関係というものは往々にして御破算になるものなんですね。
「私は何か意味があると思ってこの関係を続けてきたけれども、しかしその関係を続けてきたこの相手という人はそんなこと何にも考えてなかったんだ。道理で自分のやってることが空回りすると思った」とかね。
人間が恋をするんだとしたら、実はこんな時ですね。恋の仕方が分からない「多分みんな楽しいことをやっているんだろうなぁ…、いいなぁ、自分もやってみたいなァ…」だけでやってきた人でもこういう時はホントに恋をする。
前に「恋をするのには感性的な成熟が必要だ」って言ったけど、その感性的な成熟が正にここに訪れちゃうのね。
◯なんだか訳の分からないことを言っているみたいだけど、関係が煮詰まるっていうのは別に倦怠期の夫婦のことだけじゃないのね。恋をするって言ったらこれが一番大きな”思春期”っていうのが、実に正に、それまでの関係が煮詰まっちゃった時なのね。この煮詰まっちゃう時期が”思春期”って呼ばれる時期で、今まで”子供”として伸び伸びと生きてられた小さな世界が、急に自分が膨れ上がっちゃったもんだから窮屈になっちゃう。一切の関係がヒシヒシと煮詰まって来て、それで周囲との衝突ってことになるのね。
この、煮詰まった結果に暗礁に乗り上げちゃう関係の最大のものを親子関係っていうんだけどサ。子供はもう大きくなっちゃって、今まで”子供”として扱われて来た、その扱いにもう満足できないのね。自分自身、自分がもうその関係からはみ出しちゃってるってことを知るのね。もうひとりぼっちだから寂しくってしょうがない。―それで自分と関係をもってくれそうな他人というのを一生懸命になって探すのね。これが恋心ですね。感性的な成熟だの陶酔能力だの、今まで訳の分からないことばかり言って来たけれどもサ、要はサ、人間が成長して”今まで”っていう枠をはみ出しちゃうような、自分自身の深みっていうものを持っちゃうことだよね。
◯普通、学校で教える”成長”ってことにはサ、陶酔能力なんていうような一種いかがわしいものは入ってないから勘違いするんだけどサ、自分の内部が深まっちゃったら、そのことだってつかまえておきたいしサ、そのことを他人との間でも確認しておきたいっていうだけなのね。でもサ、こういう種類の成長っていうのはサ、全く内部的なもんでしょ?外からは決して見えないし、下手すりゃ当人だって訳が分からないから、うっかりないことになっちゃうっていうような、ね?だから突然、結婚して20年もたったオバサンが「私ってなんだろう?」「何だかとっても虚しい」っていうことになっちゃうのね。
思春期なんていう年頃を通り越して二十年以上も経ってから、この人達には感性的な成熟とか、陶酔能力が備わって来て、遂に今までの関係じゃ収まりきれないっていうとこにいっちゃったのね。その人間がそのように存在しているっていう事実の前には、”常識”なんていうものは簡単に吹っ飛んじゃうけどサ、今や、五十を過ぎると思春期がやってくるなんていう、とんでもないことが起こりつつあるのね。
☞関係が煮詰まっちゃった時こそ、「感動できる感性的な成熟」や「陶酔能力」が身に付くとき。タックマンモデルのチームビルディングにおける「葛藤期」と同じだ。葛藤期間はつらいけど経験していないと後で響いてくる。


<男と女>

◯なんだかんだ言っても、結局男は恋愛ってことになると女を(☞社会的ではなく)個人的なところに追っ払っちゃう。それが今の女の人の最大の不満だと思うよ。
男って、女の問題は女の問題のまんまにしておいて「それと自分とは違う」っていう前提ができてからじゃないと、これはもうゼーッタイに分かろうとはしない。
男はね、他人の問題なら分かろうとするの。でもね、その他人の問題をね、自分の問題として分かるっていう、そいういう分かり方ができないの。
男っていうのはサ、やっぱり威張ってたんだ。男であるっていうことは特別であるっていう、その中でふんぞり返ってたのよ。”男”っていう存在は勿論特別なんだよ。何に比べて特別なのかって言えば、それは勿論”女”に比べてってことだけどね。その為に男は女ってものを存在させ続けてきたんだからね。
女がいる限り、男って言うのは特別の位置に立てるんだ。だから、今じゃちょっと気のきいた男ならみんな、女のことを分かってやろうかと思ってる。思ってるけど、でもそれは「自分が特別の立場にいるから分かってやれるんだ」っていう錯覚の上に乗っかってる。
◯「分かれる」なんていう錯覚にのっかって耳を傾けてしばらくした途端、まともな人間ならとんでもないことが分かる。それが何かっていうと「こりゃいけね、こいつもおんなじ人間だ」っていうこと。 今の男は、別に相手が女だからっていう理由だけで、もう女を見下したりはしないのね。その点は確かに進歩したと思う。でも進歩したのはそこだけで、そうなった以上当然こうなるっていうもう一つの部分をそのまんまにしているのね。女を見下せなくなった以上、もう男ってのは”特別な存在”じゃないんだよ。”下”がないんだから、自分だってもう”上”にはいられない〜ね?、そんなこと当たり前でしょ?でもそれが分からないのね。分からないからとんでもないことをする。他人を見下さないまんま、と同時に、自分が特別な存在でもあろうとする。
だから、他人事としてならいくらでも他人の問題は分かる。でも今やそんなことは分かった内には入らないってことは常識になっちゃったわけだけだけどね。他人の問題を分かるっていうことは、その他人の問題の中に自分の問題を発見することだっていうのが、今や常識になった訳でしょ。僕なんかなんでもそうやってでしか分かれないからサ、「あぁ、よかったなァ」って思ってるけどサ、でもね、そんなのって普通、男はやんないんだよね。 男のやることって”分かってあげる”なんだよね。分かる能力がある、分かるだけの慈悲深さがある〜そういう前提があって初めて”分かってあげる”っていう方面に身を乗り出して来るのが”男”っていう訳でしょ?ここには、分かれる力はないけども、でも一生懸命分かってあげようとする、人間の努力っていうのはない訳ね。
◯力のある人間は分かれる、力の無い人間は分かっちゃいけない〜分かろうとすると「うるさい、お前なんかに分かるもんか!」って言われてはじき飛ばされるていうのが、実は今までの男の世界の世界観なのね。だから、特別の立場にある人だけしか、”分かる”ってことをしちゃいけない〜「女子供は黙ってろ!」っていうのがこれだよね。だから、この”特別”っていう立場をなくしたらなんにも分かれない。自分の分かれる範囲だけを撫で回して、それで分かったっていうことにする。そんなもん分かった内になんか全然入んないんだけどサ。
◯男っていうのはそういう得体のしれない、”他人のモノサシ”っていうのに合わせることにキューキューとしててサ、疲れちゃってるのね。言い古された言い方をすればサ、男は男であることによって自分の内部をガラン洞にしちゃってんのね。だからその分それで女を求めるのね。男が社会的で女が個人的であるっていうのはこんなとこだね。もっとも、この”男が社会的で女が個人的”っていう考え方も、元は男のガラン洞さを前提にして出来上がっている考え方だからサ、こういう言われ方しただけで女の人がコチーンとくることぐらいは知っているんだ。
女っていうのがなんで男を求めるのかって言えば、それは必ず社会的な力がほしいからでしょ?男な女に個人的なものを求めるけどサ、女って違うよね。女は男に社会的なものを求めるよね。どんなに女が一人で頑張っても最終的に不安であるっていうのは、結局のところ、男に「私ってこれでいいよのよね、そうでしょ?」ってことの答えを言ってもらいたいからだもんね。社会的っていうのは経済力っていうことじゃない、「最終的にはOKである」っていう保証があるっていうことだもんね。男は女に「あなたは大丈夫よ」って保証をされると、「そうか」と思って力が湧いてくる。湧いてくるけれども、しかしそれで一向に彼自身はどうともなんない〜相変わらず無気力無能力のまんまということはザラにある話だけど、これは男が女に何をどういう方面で保証されたがっているのかってことを考えればすぐ分かるのね。男は常に、内面の保証を求めている。それが内面だから、いくら「大丈夫よ」っていう保証をしても、男というのは外部的な力というのを発揮できない。
緊張感というものを超えて自由にしていられる〜ただし決定的なところで社会参加という名の基本的人権は奪われている、っていうのが昔の女のあり方だったの。
「女のクセに!」っていう悪口が生きていたのは、そういう背景があってのこと。
「女には緊張感が獲得出来る筈が無い!」っていう蔑視と、「女に緊張感獲得されちゃったら俺たちどうすんだよ?俺たちの社会が壊れちゃう」っていう、男の甘えと不安感が、「女のクセに!」っていう締め出しを作ってたのね。
◯それがやだからって、真面目な女の人は緊張感を獲得するのね。緊張感を獲得して社会に入ってくと同時にサ、自分が持ってた〜本来なら女という自分が持ってて当然の”緊張感を超越していられる自由”っていうものを女は失ってくんだよ。そんで、それと同時に、緊張するものと緊張しないものとで出来上がっていた世の中っていうのを、そうすることでぶっ壊して行ったんだよ。だから、女の人って、あと一歩ってところで、足を踏み出さないのね。もう後戻りの出来ない自分と、それから、あと一歩足を踏み出したら完全に自分のいる社会をぶっ壊しちゃうっていう、そういう恐怖との間でニッチもサッチも行かなくなっちゃってるのね。
俺、ここ何年かの間、世の中ってものが停滞してた理由っていうのは、女の人が臆病だったからだって、そう思ってるよ。まだ自信が無いからって、それで足踏みしてたのかもしれないけど。どうしてその緊張感を突破しないんだろうと、思うの。ちゃんと世の中には、「緊張感を超えることが全ての物事の根本でしょう」ってアッケラカンと信じてる男っていうのがいるっていうのにサ。
☞男は社会的で女は個人的。それでいてお互いに無いものを求め合う。
「男ってサ…」の内容はあえてコメントできない位バッサリ斬り捨てられてます。内のカミさんが読んだら大きく頷きそうな無いようです。ハイ。


<恋愛の成立条件>

◯恋をする、恋が成立するっていうことで非常に重要な条件ていうのがあってサ、それは何かっていうと、お互いに矛盾してる二つのことなのね。
一つは”その二人が似ている”ってこと。もう一つは”その二人が正反対だ”っていうこと。 違うから惹かれる、同じだから分かる〜言ってみれば簡単なことだけど、これはホントに重要。重要で、そして結構忘れられてることね。恋愛が破局に至るっていうのは、もう必ず、このどちらか一方の条件が成り立たなくなっている時なんだから。
「違う」と思えば「一緒にやって行きたい」って思うし、「同じ」って思えば「一緒にやってける」ってことになるのね。人間っていうのは、こういう複雑なことを瞬時にやってのけられるように出来てるものなんですよ。
この“同じ”と”違う”が等量にあるっていうことはスッゴク重要だね。
◯同士結合夫婦っていうのは、二人一緒であることによって外界との一線を確保するっていうことになってるからサ、夫婦であることが自らの砦なのね。 だから俺、「なんて排他的で冷たいんだ」ってことをうっかり見ちゃうんだけど、夫婦であることがそもそも”連合赤軍”なんだよね。
こういう夫婦ってサ、”そもそも自分達は現実と相容れないものである”ってとこで結びついている夫婦だからね、決して”二人は似てる”ってとこから離れないの。離れたら”同士”じゃなくなっちゃうから、こりゃもう絶対離れないの。相手の持っている”違う”っていう部分の存在を許さないのね。
恋っていうのはサ”同じ”と”違う”が等量に存在することから始まるで言えばサ、こういう夫婦は永遠に恋愛を始めない夫婦なのね。
彼らは「自分達は恋愛という得体の知れないものがこわい」っていうところで夫婦始めちゃったからサ、その恋愛を成立させる”違う”が認められないの。
恋愛なんてものはサ、一遍お互いがバラバラに解体されるとこから始まっちゃうっていうこわいとこを持ってるもんだからサ、お互いの”違い”っていうのはすごく重要なの。「あの人と自分はこれだけ違ってて嬉しい!」というのが恋する喜びだったりはすんだけどサ、でもそういうことって絶対に分かんないのね。
恋愛ってものは、”成長”ってことと非常に大きな関わりを持っててね、「同じであるってことによって嬉しい”!」っていう、そのことを足掛かりにして”違う自分”を作っていくっていう、そういうことだってあるんだよね。
☞恋愛の成立条件、それは”違う”と”同じ”が等量にあること。バランスが崩れたとき、恋愛は終了する。そして、恋愛をすることは”成長”と非常に大きな関わりがある。



<恋愛の光と闇>

◯はっきり言って恋愛ってのは”口実”で出来上がってんのね。いかに自然でうまい口実を作れるかって、その一点で恋愛の成否は決定すると言っても過言ではないね。
もうお忘れかもしれませんけども、恋愛っていうのは、この世にはないものなんだもん。「ありたい」っていう願望だけはあっても、恋愛っていうのはそもそも現実には成立しがたい、非現実の領域にあるもんなんだもん。ないもんを存在させるのが恋愛なんだから、恋愛を成立させるものは、口実に結集されるような知恵ですよ。
激しい恋に落ちるっていうのは、それは、恋人同士が二人揃って、現実からスッパリと切り離されるっていうことなんだもの。 恋愛っていうのは、そうしたラジカルなものをうっかりと生み出しちゃうっていう、その一点で現実からは嫌われるんだから。
人間っていうのはね、恋に落ちたら、その瞬間に、周囲からは切り離されるものなのね。 恋に落ちたら、その瞬間、その人間の周りは暗黒に包まれる〜御当人達は光の中にいるもんだからそんなこと気がつきゃしないけれども、それは、分かる人間には分かる。「あ、そうなの。あなたがこことは別の世界の人間と、そんなにも激しい恋に落ちなければ行けない理由っていうのが、私たちのいるこの世界にはあるっていう訳?」っていう、そういう感情が、自分の親しい人間に恋に落ちられてしまった人間の”怒り”に近いような感情の正体なのね
◯つまり恋愛というのは周囲を遮断することによって、自動的に周囲を敵に回すっていう危険なものであるから、恋愛っていうものの存在は嫌われるの。 だから、それが結婚に結びつくようなものであるのが明らかである時は、「あぁ、何の危険も無い」って言って祝福されるの。
◯(外国映画とファッション雑誌のグラビアの中にしか無かった)非現実が非現実であることを教えられないまんま存在しちゃったんだからサ、こりゃもう悲劇だよ。やってる方は暇と手間かけて、非現実を演じぬかなきゃいけないんだもん。そんな力、若いヤツにはないんだけどね。
その先は言わないでおきますけれども、現実を無視した人間ていうのは、必ず現実に復讐されるの。それはもう、人間社会の鉄則みたいなもの。
☞祝福される恋愛と祝福されない恋愛について、非常に分かりやすい。そもそも恋愛とは祝されない(嫌われる)もので、結婚に結びつくことが明らかの場合にのみ祝福される。。

<天使と人間>

恋愛ってのは、結局、他人という鏡を通して自分をこっそり見ちゃうという、その一点で恐ろしいもんであります
◯男って、恋をすると天使になっちゃうんだよね。だからその分、セックスをする時にはケダモノになっちゃうのかもしれないけど。
女って、恋をすると人間になるでしょう。でも、男って恋をすると天使になっちゃうんだと思うの。だから、現実から切り離されて手も足も出なくなっちゃって、恋をすると男って、ジタバタするんだと思うの。
天使ってやっぱり、人間じゃないから「好き」って言葉、持ってないんだよね。なんか、存在そのものがそういうものになっているらしい。
天使って、やっぱり人間になりたくないみたい。だから平気で、人間を連れてっちゃう。どこに連れてかれるのかっていうと、すっこいロマンチックな表現をとれば、 ”夢の波打ち際”ね。そこに行くと「好き」って言葉がゴロゴロ転がってるの。なるほど、現実にはない筈だって、僕は思うの。 天使が人間になりたがってんの。そんで、天使って、人間になるのを、スッゴクこわがってんの。
天使は人間との付き合い方なんて知らないもん。男が人間と付き合うんだったら、自分が天使であるその部分、切って捨てなきゃいけないんだもん。「男を捕まえたはいいけど、なんか、知らない間に、金が銅に変わっちゃってるような気がする」っていうのは、これだよ。天使の部分殺しちゃったら、そうなるんだよ。そんで、天使の部分を許したら、男はフラフラっと、どっかに行っちゃうんだよ。
大体、女は天使との付き合い方なんて知らないし、そんなこと知ってんのは、まぁ、俺ぐらいのもんなんだろうけど、もう、それはしょうがないんだよ。 人間であることを切り離されちゃった天使は人間に憧れるし、不自由である人間は、人間であることを超えている天使に憧れるの。男と女の基本的関係はこれなの。だから、うまく行かないの。お互いがお互いのこと知らないんだから。
☞女は男を天使のままにしておくべきか否か。なんてことを考えながら女は男と付き合っている訳ではないので、やっぱりうまく行かないということか。お互いがお互いのことを知らないのだから。
恋愛が著者の言う通り戦いだとしたら、敵を知り、己を知れば、百戦して危うからずといった孫子の教えが身にしみる。。

というような恋愛論が橋本治氏の初恋(相手は男の子)やその後の恋愛を通じて語られる。上記を読むと恋愛理論っぽいが、そういう部分だけをピックアップしたからで、全体的にはむしろ物語風(そして講演がベースなので講演風)に展開される。
橋本氏は今で言うLGBTの走りで、男も超越しちゃっている分、どこか自らも含めて客観的に周囲が見えている感じだ。
有吉佐和子女史との話などの短編も入っている。


最後に。
今回、口語調で書かれた文書がこんなにもまとめにくいものかと思い知らされた。
どこに肝心な部分が潜んでいるのか分かったもんじゃない。
講演を聴きながらだと、その中からポイントとなる部分をメモするのは普通やるのだけれど、普通読み物(文書)になっているものって、それが既にある程度まとまっているものだったりする。
今回は実際の橋本治氏の講演をベースとしているので、口語調で書かれているから、何やら仕事でテープ起こししているんじゃないかと錯覚するくらいの手間がかかった。
たかが「恋愛論」(全く仕事とは関係なし!)にここまで時間をかけるのか?ってのが頭の中を行ったり来たりしながら、最後は意地でやっていた感じ。
でもお陰で橋本治の奥の深さが感じられたかも。

2014年11月30日日曜日

『CEOからDEOへ』

Facebookで紹介されていた本。面白そうでAmazonでポチッと購入した。

DEOとは、デザイン・エグゼクティブ・オフィサーの略。
「工業化時代」から「情報化時代」、そして気がつくと「コンセプトの時代」となった今、求められているリーダー像はCEOではなくDEOだというのが著者ら(二人いる)の主張。

<「DEO」の6つの特徴>
・変化を起こす
・リスクを冒す
・システム思考をする
・直感力が高い
・社会的知性が高い
・さっさとやる(GSD:Get shit down)

ということで、この特徴に基づいて色々と知見が述べられる。

以下は面白かったことのピックアップ。
<MVPとSFD>
DEOは「MVP」や「SFD」を推奨する。
MVP:Minimum Viable Product。テストするのに必要最低限の機能を備えた製品。
SFD:Shitty First Draft。ひどい第一草稿

<役割を明確にする>
コラボレーションを成功させるには、メンバーの役割を明確にし、はっきりしたコミュニケーションを行う必要がある。
グループ内での役割を明確にするために、メンバーを「オーナー」「インフルエンサー」「パーティシパント」の3つに分けるという手法がよく使われている。
オーナーはグループ全体の成功に責任を負い、最終的な意思決定を行う。
インフルエンサーは専門知識、批評、評価、意見をもたらす。
パーティシパントは実際のデザインや開発プロジェクトに才能を提供する。
役割と責任を明確にすることで、コラボレーションにありがちな「船頭多くして船山に登る」という弊害を防ぐことができる。

<インテレーション>
短期間のうちに不完全ながらも機能する最初のプロトタイプをつくり、その結果をもとに短期間で問題点を改善して次のプロトタイプをつくるというサイクルを繰り返し、最終的に市場に出せる完成品に仕上げるやり方を「インテレーション(反復型開発)」と呼んでいる。
DEOは、そうしたインテレーション型の開発が、ニーズの変化などに柔軟に対応できるアジリティ(機敏さ、敏捷性)とスピードを生み、その2つこそが市場が求め、見返りを与えるものだと考えている。
また、小さな改善を繰り返すインテレーションを会社のあらゆる面に取り入れることで、社員のスキルアップや、先を見据える姿勢、軌道修正を当たり前のものと捉える考え方を促すことになると考えている。
イノベーションに向けたインテレーション型の手法には、実行とプロセスの両面で、ここでは挙げきれないほど多くのメリットがある。
定期的に軌道修正することで、社員からのフィードバックを促し、優れたアイデアを引き出すことができる。意見の相違や誤解にすぐに気づき、対処することもできる。
1つの仕事のサイクルを短くすることで、各チームに仕事をバランスよく割り振りやすくなる。コストも見積もりやすい。システムも改善しやすくなる。
すばやく、頻繁に、新しい知識を習得することも出来る。そして皮肉なことに、リスクを減らすこともできるようだ。


また、色んな人の名言が記述されていたので、ビっときたものをピックアップ。

「変化は、人生にとって必要なだけではない。変化こそが人生なのだ」・・アルビン・トフラー

「私たちが証明するときには「論理」を使うが、私たちが発見するには「直感」を必要とする」・・仏数学者 アンリ・ポワンカレ

「一人で見る夢はただの夢だけど、一緒に見る夢は現実になるよ」・・ジョン・レノン

「私がIBMで学んだのは、「企業文化が全てだ」ということだ」・・ルイス・ガースナー

「私たちは行動を繰り返したことで、今の私たちになっている。だから優秀さとは、単発的な行動ではなく、習慣のことである」・・アリストテレス

「私が問題を解決するのに1時間与えられたとしたら、最初の55分は問題がどういうものかを把握するのに費やし、残りの5分で解決策を考えます」・・アルベルト・アインシュタイン

そして最後が
Done is better than perfect.(完璧であるよりも、終わらせる方がいい)
誰が言ったか、事業家として現実のプロジェクトを抱えていると、身につまされる格言。


「デザインとは集団的な変化を促すこと」と定義する著者らの言う”DEO”がこれからの会社のトップリーダーとなっていくのだろうか。
そうなっていって欲しいと思いつつ、期待。

ミライ×マンション×ミーティング

先日、日本橋三井ホールで開かれた、ミライ×マンション×ミーティングに参加してきた。
3部に分かれたうちのセッション2では、ena AMICE 蛯原英里さん、チームラボ 猪子寿之さん、issu+design 筧裕介さんの3人のセッションだった。
テーマは『マンションの新しい捉え方』

冒頭、猪子寿之さんが
「これだけネットワーク社会(場所に依存しないコミュニティ) が進んでいる中で、コミュニティは場所に依存するというのは幻想。それはたまたま何万年前から変わらなかったから。15年前よりもコミュニティは十分あるよ。一体何を議論してるのかな。」
「昔は”場所”→コミュニティ→文化ということで文化が生まれていたけど、 でももう”場所”から文化は生まれてない。問題なのはマンションの方だよね。ネットワーク社会の前のコミュニケーションの仕方をしているのでは?」
「コミュニティが先にあって”場所”はむしろ後から生まれいる。 ニコ動みてよ。」
「昔と違ってコミュニティが経済活動になったりしている。場所をベースとしたコミュニティが大切なんて、昔の人が寂しいだけでは?先にコミュニティにアプローチすべし。」
と発言したのを受けて、筧さんも
「場所コミュニティであるマンションのコミュニティってどうして必要なのか、分からなくなりました」
と発言して一時このセッションはどこに行ってしまうのか?という感じ。

蛯原さんは、母親の立場として
「コミュニティに加わるためには踏み出す一歩が必要。どうすればその一歩が踏み出せるのか? やはり相手を知ると声かけやすいですよね。」
と発言。

そのうち、子育ての話から今度は猪子さんが再び
「昔は子供は集団の中で育ててきた。今は突然、個人で育てなくてはならなくなっている(孤育て)。昔は作った側(男)も生んだ側(女)ももっと子育てにいい加減だった。集団で育てるルール、環境にすべき。」
と発言。
その中で
「考える、学ぶというのは複雑な情報なのでネットワークでは解決しないんだよね〜」
とポロリ。

筧さんが
「ネットワーク弱者を救う方法とすると地縁型コミュニティは必要。土地性のコミュニティでまずは集まってくる。子育て世代に受け入れられるかは地域の死活問題。」
と発言してまとまってった感じ。


という訳でまとめ。
○コミュニティは増えているけど、まだ格差がある。そういった色んなことは流動化が課題。その流動化はITが促進する。
○ネットワーク社会では、コミュニティは場所に依存しない。これからは先にコミュニティにアプローチすべき。
○「場所型(地縁型)コミュニティ」の必要なケース
・ネットワークがつながらない災害時。
・ネットワーク弱者が多い場合。
・教育、学び系のネットワークでは担えない複雑な情報が必要な場合。

マンションコミュニティの重要性がようやく認識されてきた中で、既に「場所から始まるマンションコミュンティ(『地縁型コミュニティ』 )なんて古いよ」という猪子さんの発言には揺さぶられた。もう何歩も先を行っちゃってる感じ。
”ミライ”に向けてどういう解決方法があるのかはこれから考えていこう。


セッション3はリアルにテーブルごとにワークショップ。
テーマは『ミライのマンションについて』
各テーブルとも真剣にかつ楽しそうに議論が進んでいるのが印象的だった。







『(日本人)』その8

橘玲氏第8弾。

<<お金と評判>>
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お金は限界効用が逓減するが、評判は逓増する。
評判は効用が逓増する。だから、芸能人、文化人、経営者、政治家などの職業に関係なく、一度有名になればもっと有名になりたくなる。それと同時に、自分が有名人(セレブ)の地位から脱落して人々から忘れられることをものすごく恐れるようになる。
貨幣の効用が逓減するのに、評判の効用が逓増するのは、評判こそが社会的な動物である人間が求める”本当の価値”だからだ。
貨幣と評判のトレードオフでほとんどの人が評判を選択する 。
経済合理性だけで考えるならば、リスクに対してリターンの高い業種には新規参入が相次ぎ、超過利潤はなくなるはずだ。アメリカの一流大学でMBAを取得した人たちが風俗業を始めないのは、大儲けできたとしても、社会的な評判を考えたら割に合わないからだ。
その一方で、お金と評判が完全に一致していると、人々は限りなく”強欲”になる。その典型がギャンブラーと投資銀行家だ。
ゲームとしてのこの”純粋さ”が、極めて知的能力の高い人たちを中毒(貨幣依存症)にさせ、金融市場を暴走させる原因となった。

資本主義というのは、欲望と恐怖によって自己増殖するシステムだ
こうした経済行為の集積が、「グローバル資本主義」となって世界を動かしていく。
その自己増殖は、原理的には外的な制約に達するまで止まらない。「外的な制約」とは、化石燃料が枯渇したり、環境破壊によって地球が人間の生存にてきさなくなることで、要するに人類が滅亡する時だ。

ネットオークションが大きな成功を収めたのは、出品者にモラルを説教したためではなく、道徳的に振る舞うこと(”高い評価”をとってそれを継続することが、出品者のインセンティブになる仕組み)が得になるような制度を設計したことにある。
正しく設計されたアーキテクチャは、ユーザーを”道徳的に”振る舞わせることができるのだ。
ネットオークションが成功したのは、評価が(原則として)価値判断を含まないからだ。 そこで検証されるのは、①商品と説明が一致しているか、②入金確認後に迅速に商品が発送されたか、の二点だけで、出品者の主義主張や人格が問題にされる訳ではない。
これによって、出品者の側も低い評価を受け入れやすくなる。(基準が明確だから) 共同体の中では、我々は悪意や嫉妬、コンプレックスやルサンチマン、怒りや憎悪と言ったネガティブな感情の噴出を抑制する強い圧力を加えられている。ところが匿名性の高い空間では、その抑制(共同体の規制)が外れてあらゆるネガティブな感情が表に出てしまうのだ。

Twitterには、サイバーカスケード(炎上)を減らすいくつかの仕掛けが施されている。
そもそもTwitterは「つぶやき」だから、「意見」と見做されるブログよりも許容範囲が広い。反論しようにも140字以内で、その上発言はタイムラインの中を時々刻々と流れていくから執着のしようもない。(Twitter上の論争などは、”まとめサイト”で時系列によって整理・アーカイブされる)
それ以外にもTwitterには、ネガティブな反応を返してくるフォロワーを排除するブロック機能がある(投稿を表示させなくする)。
なかでもTwitterの一番の特徴は、フォロワーに良い評判を広げていくインセンティブがあることだろう。人は悪い評判よりも、よい評判を知らせたいと思うものだ。
古代社会では、負け戦の知らせを持ってきた使者の首がはねられたという。人はどんなことにも因果関係を見いだそうとするから、よいニュースは自分に対するプレゼントで、悪いニュースは呪いになる。

退出(やり直し)が自由なネットオークション型のアーキテクチャでは、自分が人よりどれだけ目立つかを競うのがデフォルトの戦略になる。失敗しても悪い評判はリセットできるのだから、そこでは誰もが実名でたくさんの評判を集めようとするだろう(これがポジティブゲームだ)
それに対して退出できないアーキテクチャでは、人と同じことをして出来るだけ目立たず、バッシングの標的になるのを避けるのが最適戦略だ。一旦付けられた悪い評判(スティグマ)を二度と剥がすことができないとしたら、匿名の無責任社会に身を隠すほかに安心して暮らす方法はない。(こちらはネガティブゲームだ)

Facebookが徹底して実名にこだわるのは、自らをWEB2.0におけるポジティブゲームのインフラと位置づけているからだ。
Facebookの戦略は、評判確認装置のデファクト・スタンダードになることだ。そのとき、Facebookは社会的な関係そのものを生み出す必要不可欠なインフラとなり、我々は就職や結婚ばかりでなく、合コンや友達づくりなど日常のささいな出来事までFacebookで検索し、相手の素性を確かめようとするだろう。
Facebookの目指すユートピアでは、貨幣よりも評判の獲得を目指すアーキテクチャによって、本人の意志に関わらず誰もが善人になる。
インターネットのテクノロジーによってあらゆる評判が可視化される電脳空間は知識社会の究極のかたちでもある。そこで人は、ファッションやブランドなどの外見ではなく、知識やセンスのみで選別される。

誰もが貨幣よりも評判を選好し、実名の個人情報がインターネット上で公開・検索され、すべての人が善人として生きていくほかない社会・・・そのときグローバル資本主義の自己増殖運動は停止し、近代のパラダイムは意味を失って、誰も見たことのないポストモダンが始まるのだろう。 これが、サイバーリバタリアンの描くユートピア(もしくはディストピア)だ。
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歳をとると勲章が欲しくなるというのは、評判を得た人が忘れられるのを恐れるためと考えると動機がわかりやすい。
「貨幣と評判のトレードオフでほとんどの人が評判を選択する」というのは強論で、「貨幣」と「評判」のどちらをとるかは、囲碁でいうと”地”をとるか”厚み”をとるか、ということであり、どちらをとるかは自己ブランドに基づいた人生の戦略による。
仮にほとんどの人が評判を選択するようならもっと犯罪は少ないはずだ。
とあるワークショップで「僕のFacebookは『幸せ芝居』です」(本当は『幸せ劇場』と言いたかった)と言ったら大受けしたことがあるのだが、実名のFacebookでは人は悩みや嫌な出来事を発信しない。それは見た人に対する「呪」になるからだ。


<<世界で最も世俗的な国民、日本人>>
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国際的な価値観調査によれば、日本人は世界で最も世俗的な国民だ。
日本人は世界の誰よりも、「他人に迎合するよりも、自分らしくありたい」「自分の人生の目標は自分で決めたい」と考えている。
御利益のない神を信じず、地縁も血縁も捨てて「一人一世帯」の無縁社会に生きている。
こうした特異な価値観を我々は当たり前のことと思っているが、実は日本人は歴史の最先端に立っているのかもしれない。

18世紀の産業革命によって経済(市場)は爆発的に拡大し、人々は身分制(階層社会)の桎梏から開放され、人類史上はじめて「自由」と「平等」を理想として掲げることが可能になった。近代は、王制(神権政治)に対する社会改革=革命運動として始まった。
ところが第二次世界大戦後、社会がより豊かになると、人々の関心は「社会」から「私」へと向かい始める。
これが「近代の折り返し点」で、1960年代のヒッピームーブメントやフラワーチルドレンが先駆けとなり、ニュージャーナリズムの旗手トム・ウルフが「ミーイズム」と名付けた70年代へとつながっていく。
この「折り返し点を過ぎた近代」を、ヨーロッパの社会学者達(アンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベック)は「後期近代」「再帰的近代」と呼ぶ。 前期近代においてはマルクス主義のような「社会を変える」思想が信じられたものの、後期近代になるとそうした”大きな物語(革命)”は流行らなくなり、「<私>を変える」という”小さな物語(自己啓発)”が広まっていく。
前期近代(大きな物語)から後期近代(小さな物語)への移行は、社会がゆたかになり多様化したことの必然的な帰結だった。 後期近代では、<私>はかけがえのない唯一絶対の価値(=オンリーワン)となるが、一人ひとりはみな平等で、特別な<私>(=ナンバーワン)はどこにもいない。
この<私>中心主義によって「革命」は内面へと向かい、「自分探し」が人生の目的となる。

「共同体から私へ」というこの変化によって、社会のかたちは大きく変わってしまった。 フランスの政治思想家アレクシス・ド・トクヴィルは、19世紀初頭のアメリカを訪れて、アメリカが平等社会であることに驚いた。
トクヴィルは、ヨーロッパのような身分制社会には不平等は存在しないという。貴族と平民は”別の”人間だと考えられており、貧民はそもそも自分が貴族と「人として平等だ」などとは思ってもみなかった。
不平等が問題になるのは、身分の違いのない平等な社会だけだ。自分と相手が平等な人間と認識してはじめて、互いの間にある不平等が痛みをもって意識されるようになる。
その意味で「近代」は隠されていた不平等を顕在化させ、それへの絶えざる異議申し立てによって既存の権威を解体していく運動のことだ。
かけがえなのない<私>を唯一絶対の価値とする後期近代では、この運動は宗教や階級、中間共同体を抜け殻にして、社会を「液状化」させていく。
アメリカ、ヨーロッパ、日本などの液状化した社会」では、地域や文化の違いに関係なく、社会的な問題を個人的な環境や異常心理に還元して解釈するようになる
「トラウマ」「アダルト・チルドレン」「多重人格」といった俗流心理学が流行するのはその恰好の例だ。

貧困に対する態度にも大きな違いが見られる。 前期近代では、失業は社会階層(階級)の問題とされ、プロレタリアートによる階級闘争へと結集していく。それに対して社会問題が個人化する後期近代では、貧困は家庭・教育・恋愛・職業体験など個人史の結果とされ、社会のメインストリームから脱落した人たちは階級や社会集団を構成せず、プレカリアート(ニート、フリーター)として孤立することになった。
伝統的な共同体(家族やムラ社会)が解体したのは、近代が福祉国家という理想を実現したからでもある。豊かな社会と充実した社会保障によって我々はムラ社会から開放されたが、それとともに共同体の安全保障をも放棄して、すべてのリスクを自分だけで背負うことになった。

「私らしく」を唯一の価値基準とする生き方は、「自分」を土台にして立っているようなものだ。自分を参照しながら自分の将来を決断するという無限ループ的な構造を「再帰的」という(「再帰」とはループのことだ)。
「再帰的近代」ではすべての人がこの無限ループ状態に陥っていくが、これは後期近代の主要な特徴(というか本質)でもある。
自分の中に「自分」を探す再帰的近代は、フィッシャーのだまし絵のように非常に不安定だ。
そこで、この不安定な自分をなんとかコントロールする必要が生まれる。これが自己啓発本でお馴染みの「自己コントロール(自己管理)」と呼ばれる心理技法だ。
現代社会では、正しく自己管理できない人間は落伍者とされる。これは最も早く再帰的近代に突入したアメリカ由来の思想だが、いまや日本でも大学生の就活で「自己分析」が必須とされているように、社会の隅々まで広まっている。
神経症や軽うつ症、ADHD(注意欠陥・多動性障害)が激増するのも再帰的近代の特徴だ。自己コントロール社会では、泣いたり喚いたりという感情を表に出す行為は全て「異常」と見做され、精神医学によって治療すべきものとされる。

後期近代は、豊かさによって人々を共同体の拘束から解き放ったが、それによって我々は自分で自分を基礎付ける”再帰性の罠”にはまってしまった。
そこでは、「自分らしく生きたい」という当たり前の願望が際限のない不安を生み出すのだ。

世界のほとんどの国では人々はごく自然に、なんらかの”超越者”の存在を前提に生活している。ところが日本社会には、何故かこの超越的なものが欠落している。
江戸時代までは、庶民や天皇のことなど何も知らず、幕府の将軍は世俗的な権力者で宗教的な権威をもたなかった。もちろん人々は神仏の加護を祈り、怨霊のたたりを恐れたが、これは超自然的なものを畏怖するアニミズムで、キリスト教やイスラム教の絶対神や、インド仏教の”真理としての法”という観念は日本では全く受け入れられなかった。
明治政府は天皇を現人神という超越者に仕立て上げたが、これは国民国家を形成する核がそれ以外になかったからだ。それが一種の”方便”だということは暗黙の了解事項で、戦前・戦中の国家社会主義的な雰囲気の中でも、天皇が実はただの人だということは誰もが知っていた(だから敗戦後に天皇が「人間宣言」をしても驚かなかった)。

超越者のいない日本は、「私の価値は最大限に実現されるべきだ」という社会でもある。 『ONE PIECE』や『NANA』など、日本のマンガやアニメは、「自由な主人公が、冒険や恋愛を通して自己実現していく」物語を核にしている。”クール・ジャパン”は、後期近代の普遍性を真っ先に到達したからこそ、世界中の若者達を虜にするのだ。
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著者は「世俗的」=現世利益中心主義という定義をしているようだが、これについては「国際的な価値観調査では」ということで多くを語らない。
でもこの前提で議論が進んでいくので、自分たちのことを言われている読者にとっては「本当か??」と疑念をもちながら読み続けなければならない。
でも、ちょっと強論の部分はあるものの「もしかしたらそうかも」と思わせるのが橘玲氏のうまいところである。
「福祉国家が実現したから伝統的な共同体は解決した」という下りも、日本人としては納得できないだろう。

戦後、天皇が現神人から普通の人(国家の象徴)になったのを受け入れたからといって”超越者”であった天皇を認めていなかったという論もスゴい話だが、確かに歴史の時間の中で考えると、天皇が神に近づいたのは明治以降の話だ。
だとすると日本人とは太古から面従腹背の民だったということか。
「本当?ウソでしょ?」と思いながらついつい「あるかも」と思わせるのが橘玲論の面白いところだ。


いよいよ大詰め。
著者の考えるユートピアとはいかなるものか。

<<ユートピア>>
退出不可能な閉鎖的なイエを「伽藍」、いつでも出て行くことの出来る開放的な空間を「バザール」と呼ぼう
イングルハートの価値マップでは、「自己表現度」の高い国は全て英語圏(アングロサクソン国)と北欧などヨーロッパのプロテスタント圏だ。これらの国は、自由と自己責任が一体となった”バザールの論理”で社会が営まれている。それに対して日本は責任がとれない社会(無責任社会)で、そのことが自由に生きることを阻んでいる。
日本が伽藍の世界になってしまうのは、日本人が一人で生きていく術を知らないからであり、日本の社会が一人で生きていける場所ではないからでもある。 圧倒的な<他者>がいなければ社会はグローバル空間にはならず、人々はローカルルールにしがみつこうとする。これが日本社会がなかなか変われない理由だ。
社会そのものは変われなくても、伽藍を抜け出してバザールへと向かうことは、個人としては十分可能だ。
日本社会には<他者>がいないから、なかなか変わることができない。だとしたら唯一の現実的な可能性は、一人でも多くの日本人がバザール世界の住人となり、彼らが<他者>となって、伽藍の世界を壊していくことだ。

アメリカの哲学者ロバート・ノージックは、『アナーキー・国家・ユートピア』で「夢」について語っている。それが「ユートピアのためのフレームワーク」だ。
近代というのは、地縁・血縁の伝統的な共同体を離れ、一人ひとりが「自立した個人」として生きることを余儀なくされた時代のことだ。しかしその一方で、人は社会的な動物であり、誰もがなんらかの共同体(コミュニティ)に属さなければ生きていくことができない(ひとは一人では生きていけない)。共同体は構成員を拘束し、自由を奪うが、その代わりに安全や帰属意識(アイデンティティ)といった大切なものを与えてもくれる。
だからノージックは、共同体を否定するのではなく、いかにしたら個人の自由と共同体の掟が共存出来るかを考えた。
ノージックが国家を否定したのは、それが共同体としては大き過ぎ、構成員(国民)を過剰に拘束するからだ。多様な価値観をもつ国民を国家というひとつの器に収めようとすれば、かなりの無理を強いなければならず、それに抵抗する人たちは排除されてしまう。
そこで、ノージックは、国家は共同体ではなく、単なるフレームワーク(枠組み)であるべきだと考えた。その枠組みは、基本的人権や私的所有権の保護などの基本ルール(憲法)と、外交や治安維持のような最低限の安全保障(暴力の独占)でつくられていて、それ以外の価値観に対しては中立だ。
人々はこの枠組みの中で、宗教的・政治的・文化的な共同体を自由につくることができるが、そこには一つ大事な原則がある。どのような共同体も、本人の意思で自由に退出できなければならないのだ。
この約束事さえ守られていれば、人々は最小国家(フレームワーク)の中で、様々なユートピアを試してみることが許されている。ノージックは、「ユートピアの自由市場」を構想したのだ。
共同体の価値を重視する保守的な人たちは、世俗性を追求すれば社会がバラバラになってしまうと警告する。だが価値観調査や社会調査で明らかなように、そもそも日本人は共同体(伽藍)に拘束されることを心の底から嫌っているのだ。(☞それは「伽藍」の世界で生きているからでは?「伽藍」の世界が本当に嫌なら「バザール」の世界に出ればよく、そういう生き方をしている人は既にバザールの世界で生きている。「バザール」の世界で生きていた場合には日本人の多くが同様に「世俗性」を追求するのかは疑問)
ひとが自由に個性を変えられないように、日本人は自らの”日本人性”を捨て去ることができない。だとすれば、我々にとっての可能性は、世界でも稀な極端な世俗性(現世利益中心主義)からなんらかの展望(あるいは夢)を描くこと以外にない。

それをイングルハートの価値マップ(縦軸:世俗・合理的価値⇔伝統的価値、横軸:生存価値⇔自己表現価値)で表すと「日本人」を論ずる人たちは、大きく二つの立場に分かれる。 一つは、世俗性を抑えてより伝統を重視すべきだという保守主義や伝統主義だ。政治哲学でコミュニタリアニズムと呼ばれるこうした主張は、より伝統的価値を増し、ヨーロッパのプロテスタント圏やカトリック圏の国々と同じような価値観を目指す(ただしオランダやデンマーク、スウェーデンといった北ヨーロッパのプロテスタント圏は、伝統的な社会というよりも、世界で最も自己表現価値の高い<私>中心主義社会だ)。
もう一つは、アメリカなどアングロサクソンの国々と同様にグローバルスタンダードで社会を運営していくべきだというもので、伝統的価値を増しつつ、自己表現価値も増す方向。この近代主義は政治哲学ではリベラリズムになるが、これらの英語圏の国民はヨーロッパ・プロテスタント圏の国民よりもずっと伝統的価値にこだわっている。
日本を「改革」するこのふたつの主張は、明治維新以来、日本人の理想が欧米すなわちヨーロッパとアメリカにあったことを踏襲している。日本人の「夢」は、明治から一世紀半たっても何一つ変わらないのだ。

ところでイングルハートは価値マップで「異なる文化圏は重なり合わない」という重要な発見をした。もちろんこれには様々な注釈が必要だろうが、それでも我々の価値観が経済的・歴史的・文化的な要因に強く規定されていることは疑問の余地がない。
そう考えれば、中国・韓国・台湾とともに儒教圏に属する日本人が、教育や啓蒙などの外的な力で短期間にヨーロッパ・プロテスタント圏や英語圏の価値観に変われるはずはない。こうした価値観は遺伝的なものではないにしても、親子関係や子供集団を通じて人格形成に強い影響を与え、無意識のうちに考え方や行動を決めているからだ。
だとすれば、我々日本人に残された希望は、今の世俗性を維持したまま自由な自己表現のできる社会をつくることにしかない。
そこは理念的には、いかなる超越者(絶対神)も信じない徹底的に世俗的な人々によって構成される、誰もが自由に自己表現・自己実現できる社会のはずだ。それこそが「後期近代」の完成形で、ロバート・ノージックの夢見た「ユートピアのためのフレームワーク」が実現可能な唯一の場所に違いない。
すべてのローカルな共同体(伽藍)を破壊することで国家をフレームワーク(枠組み)だけにして、そこに退出可能の自由な無数のグローバルな共同体を創造していく。後期近代(再帰的近代)の終着点となるその場所がユートピアへの入口だとするならば、そこに最初に到達することが、歴史が日本人に与えた使命なのだ。
これが、私の<夢>だ。
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別に日本に限らず、「社会」はそう簡単には変わらない。
だから個人で「伽藍」から「バザール」に飛び出していけ、というのは橘氏の前著『残酷な世界で生き残るたった一つの方法』で書かれていたことだが、今回は理想的なユートピアに日本を導いていくべきだという氏の思想が書かれている。
理屈では分かる気がしないでもないが、どうもピンと来ないというのが正直なところだ。

この本を読んで、色々なことに気がついたし非常に勉強になった。
著者の理想の世界についてはあまり共感できなかったが、何より自分の立ち位置(考え方)が確認できたのが大きかった。

このように思考を揺さぶる本は非常にありがたい。
これからも橘氏の本は読み続けていきたいと思う。

2014年11月25日火曜日

『(日本人)』その6

橘氏第6弾。
4つの政治哲学編から日本の政治。橋下市長のネオリベについて。

<<橋下氏のネオリベ>>
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橋下徹の「ハシズム」とは純化したネオリベである。
政治哲学は大きくリベラリズム(自由主義)、リバタニアニズム(自由原理主義)、コミュニタリアニズム(共同体主義)、功利主義の四つに分けられる。
実は”ネオ”という接頭辞には、これまでの歴史や思想を引き継いだ上で新しい価値を付加するのではなく、既存の政治哲学にNOをつきつける「アンチリベラル(反リベラル)」「アンチコンサバティブ(反保守)」の意味が込められている。
一体彼らは何を否定したのか。社会学者の橋本努は、それを端的に「福祉国家」だという。
第二次世界大戦以前は帝国主義(植民地主義)の時代で、国家の目的は他国を軍事的に制圧してできるだけ多くの領土(植民地)を手に入れることだった。
その後、大きな環境の変化の中で国家の姿も変容し、「福祉国家」が登場する。
その目的は「国民の幸福の最大化」だ。もっとも帝国主義時代も、領土の獲得によって国民の幸福は増大されていたのだから、福祉国家は近代国民国家の純化した姿ともいえる。 福祉国家は自衛(と国際貢献)以外に武力を行使せず、他国の主権を尊重し、領土内の国民を幸福にすることだけに専心する。「ゆりかごから墓場まで」と言われたイギリスの手厚い社会保障制度や、F・ルーズベルトのニューディール政策を端緒とするアメリカの大規模な公共投資などがその典型だ。

ケインズ経済学は当時の最先端理論で、景気の悪化で失業率が上昇すれば国家は公共事業などで余剰労働力を吸収するべきだと唱えた。アメリカやヨーロッパの自由主義諸国がこぞってケインズ理論を取り入れたのはそれ以外に有効な不況対策がなかったからだが、それとは別に強い政治的な理由もあった。
当時、ソ連をはじめとする社会主義諸国は「労働者の楽園」を謳っていた。この社会主義幻想は1956年のハンガリー動乱(ソ連軍によるハンガリー民主化運動の弾圧で数千人に市民が殺害された)で幻滅に変わるのだが、しかしそれでも共産主義や社会主義こそが理想社会を建設するという政治勢力は強力で、彼らに対抗するためにも、欧米諸国は資本主義と自由経済でも「福祉」が可能になることを示さなくてはならなかったのだ。

ところが1970年代になると、日本を除く先進諸国でインフレと不況が共存するスタグフレーションが発生するようになる。従来のケインズ経済学はこの新種の不況(政府支出を増やせばインフレが亢進する)に対処できず、その神通力を失っていった。
この時に登場したのが経済学者のミルトン・フリードマンで、中央集権型の福祉国家(大きな政府)を否定し、経済学はケインズ以前の古典的自由主義(アダム・スミスフリードリッヒ・ハイエク)に戻るべきだと主張した。このフリードマンがネオリベの元祖だ。
フリードマンの思想はベストセラーとなった『選択の自由』や、こちらも大ヒットした同名のTVシリーズで一般にも広く知られている。それを端的に言えば、「徹底した民営化によって肥大化した行政システムを効率化し、国家による規制を最小限にして市場の潜在能力(見えざる手)を最大化すること」だ。
フリードマンは、郵便事業の民営化や通信の自由化、関税の撤廃、平時の徴兵制廃止のほか、医師や弁護士などの免許制度の廃止、年金や健康保険など社会保障の廃止、ドラッグ合法化などの過激な政策を唱えたことでも知られている。(フリードマンはリバタリアン=自由原理主義者の理論的支柱でもある)
とはいえ、貧しいユダヤ移民の子として生まれたフリードマンが「弱者切り捨て」を主張したのではない。彼は「大きな政府」による福祉は非効率で持続不可能だと指摘しただけだ。国民から巨額の税金を徴収し、行政機関がそれを国民に分配するシステムは、いつしか国民から「搾取」するようになっていった。
このように見ていくと、フリードマンと「維新八策」には類似点が多い。 これはもちろんフリードマンの思想が普遍的であることを示しているのだが、それは同時に「福祉国家の行き詰まり」という現象が世界(とりわけ先進国)に共通の病理であるということだ。

フリードマンの活躍とほぼ時を同じくして、1970年代のアメリカにネオコン(新保守主義)と呼ばれる政治思想が登場する。 これは60年代の「堕落した左翼文化」(ドラッグ、セックス、ロックンロール)に幻滅したユダヤ人を中心とする旧左翼知識人の政治運動で、彼らは民主党から共和党に支持政党を鞍替えし、「アメリカの正義(リベラルデモクラシー)を世界に伝導するためには軍事力の行使も辞さない」という特異な思想を唱えるようになる。
ところで、橋本努も指摘するように、外交における好戦的で宗教的な情熱を別にすれば、ネオコンの主張は驚くほどネオリベに似ている。 ネオコンは伝統を守る保守主義の立場から、「大きな政府」による中央集権的な福祉を、家庭や地域共同体を破壊するものとして批判する。彼らは、福祉の担い手は家庭や地域共同体(教会)、地方政府であるべきだと主張した。
ネオコンは安全保障や外交においてネオリベとの間にかなりの温度差があるが、民営化による市場原理の活用や福祉制度の分権・分散化など、内政においては共通点の方がはるかに多い。ネオリベとネオコンは、「ポスト福祉国家(ネオ)」の政治哲学として、リベラルや保守本流など「福祉国家(オールド)」の政治哲学とは激しく対峙するのだ。

80年代になると、「福祉国家の試みは破綻した」というのが世界共通の認識になっていく。レーガン政権(アメリカ)、サッチャー政権(イギリス)、中曽根政権(日本)と、「民営化」や「行政改革」を掲げる政権が同時期に世界各地で誕生した。
日本では「福祉国家」というと十年一日のごとくスウェーデンなど北欧の国々が挙げられるが、それ以外の国はいつまでたっても福祉国家になれない。これがまさに問題の所在を示していて、福祉国家とは、人口の少ない(スウェーデンの人口は約1000万人)寒冷地で、住所が一カ所(首都)に固まって住んでおり、資源に恵まれているような国でしか成功しないモデルなのだ。
小泉政権以降、政治は空転するばかりで、誰一人として「日本を変える」有効な政策を打ち出すことができなかった。 ネオリベだけが、ポスト福祉国家の具体的なイメージを描きだすことができるのだ。

橋下市長が「競争」の信奉者であることはよく知られているが、そもそもネオリベとは政府の機能を民営化して市場競争に晒す経済思想なのだから、これはネオリベの定義みたいなものだ。
ハシズムに独特の色合いがあるとすれば、徹底した個人主義を挙げるべきだろう。このことは、橋下市長自らが「維新八策」の議論で強く主張したとされる「遺産没収(相続税100%)」を見るとよく分かる。 リバタリアンは徴税自体を国家による所有権の侵害ととらえるが、そこまで極端でなくても、「小さな政府」を目指すネオリベも税金はできるだけ低率の方がいいと考える。相続税は典型的な二重課税なので、先進国の中でもカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどが既に廃止している。
「財産を放蕩で使い果たせば課税せず、子孫に残そうとすると高率の税を課すのは、国家が家族を愛することに懲罰を加えているのと同じ」なのだ。
税法の大原則は、「一度課税した所得に再び課税することはできない」という二重課税の禁止だ。我々は働いて得た収入から所得税を支払い、預金や株式投資、不動産賃貸などの利益にも税金がかかる。相続税の課税対象になるのはこれらの税を納めたあとに手元に残った純資産だから、これに課税するのは二重課税以外のなにものでもない。

社会を個人の単純な集合体とする橋下市長の考え方は、「私的所有権」を至上の価値とするリバタリアンだけでなく、家族の価値を重視するコミュニタリアン(保守派)にもとうてい受け入れられないだろう。もちろん一般的なネオリベの政策からもかけ離れており、その意味で逆に橋下市長の思想が色濃く反映されている。
ネオリベというのは、フリードマンがそうであったように、本来は功利主義の経済思想でイデオロギー的には中立だ。靖国に参拝する保守政治家がネオリベであってもいいし、逆に反戦平和の活動家がネオリベ的な改革を唱えてもおかしくない。 だがこのことは、ネオリベそのものに政治的な求心力がないことも意味している。人が生得的にもっている正義感情は自由、平等、共同体で、功利主義には心情的に同調できないのだ。
功利主義では有権者を動かして投票所に向かわせることが出来ないとすれば、価値中立的なネオリベ政治家は、功利的な判断によって、もっとも大衆にアピールできる政治イデオロギーに近づくだろう。こうしてネオリベは「愛国」や「伝統」などの保守的な価値と結びつき、ネオコンとの区別がつかなくなる。

ネオリベとしてのハシズムの本質は、市場原理主義(競争の促進)、小さな政府(民営化と行政・公務員制度改革)、統治の徹底(法の支配)にある。これはどれも「福祉国家の破綻」という現実を見据え、40年以上にわたって世界最高の知性(その多くがアメリカの経済学)が議論した末に生まれた実践的な経済政策だ。橋下市長のツイートの背後には、膨大な知の集積があるのだ。
ネオリベの本当の凄みは、あらゆる建設的な批判を包摂してしまう点にある。 これはネオリベが価値自由な功利主義だからで、行き詰まった福祉国家を改革する提案が複数あれば、それらを比較検討したうえでもっとも費用対効果の高いものを採用すればいい。
「維新八策」が非現実的だと嘲笑する声もあるが、これはネオリベの懐の深さを見誤っている。ハシズムの欠点を指摘する批判は全て包摂され、より完成度の高い政策へと”進化”するのを助けることになる。

ネオリベを根底から批判することは不可能なのだろうか。 ネオリベはリベラルデモクラシーに根拠を持つグローバル思想なので、これを全否定すると「自由」や「デモクラシー」も一緒に捨てることになってしまう。
功利主義は市場経済を前提とするが、「反市場経済」では北朝鮮のような国になるだけだ。そうかと言って「市場原理主義」を改良する試みは全て包摂されてしまうのだから、「武士道」の伝統に引きこもるくらいしかネオリベを批判する方法はなさそうだ。
要するに理屈ではかなわないのだ。
だが、私見によれば、ネオリベを撃破できる政治哲学が一つだけある。それがリバタリアニズム(自由原理主義)だ。リバタリアンから見れば、ネオリベは不徹底な自由主義だ。なぜならそれは、国家を前提としてはじめて成立する思想だからだ。リバタリアンはネオリベの政策を全て受け入れた上で、さらにその先を示すことができる。「小さな政府」ではなく最小国家や無政府資本主義(アナルコ・キャピタリズム)。行政改革ではなく国家自体の民営化。日銀法改正ではなく紙幣発行の自由化・・・いずれも荒唐無稽な話ばかりだが、国家に拘束されたネオリベには語ることのできない「夢」ばかりだ。
リバタリアニズムはそれ自身がユートピア思想だから、価値中立的なネオリベのように、大衆の耳目を集めるために他の価値観(愛国や伝統)に媚びる必要はない。究極の自由主義としてネオリベの政策を全て包摂できるから、ネオリベを利用することはあっても利用されることもない。その意味で、ネオリベを超える可能性を持つ唯一の政治哲学なのだ。

インターネットの登場と情報通信技術の急速な進歩によって、人類の歴史にこれまでと全く違う可能性が開けてきた。
”サイバーリバタリアニズム(サイバー空間における自由原理主義)”を奉じるシリコンバレーでは誰もがそう考えている(日本ではリバタリアンといえばティーパーティーを思い浮かべるが、西海岸こそが現代のリバタリアンの拠点だ)
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功利主義的ネオリベであるハシズムを超えることができるのはリバタリアニズムだけ、というのが著者の考え。
そもそも原理主義というのは、社会が原理通り機能せず、そのため副作用の方が大きくなって破綻する。例えば20世紀最大の社会実験であった”社会主義”がうまくいかなかったのは、大きな政府による富の再配分が機能せず、贈収賄等による権力の腐敗という副作用が起こり うまくいかなかった。
原理主義というのは全てあてはまると思うが、そもそも人間という”不完全なもの”が運用している限り原理主義はうまくいかない。
それこそ、AIが世界をコントロールするようになるまでは、原理主義と呼ばれるものがきちんと機能することはないのではないか。
でもそれゆえユートピア哲学として政治哲学の中で生き続けるということか。