橘玲氏第8弾。
<<お金と評判>>
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お金は限界効用が逓減するが、評判は逓増する。
評判は効用が逓増する。だから、芸能人、文化人、経営者、政治家などの職業に関係なく、一度有名になればもっと有名になりたくなる。それと同時に、自分が有名人(セレブ)の地位から脱落して人々から忘れられることをものすごく恐れるようになる。
貨幣の効用が逓減するのに、評判の効用が逓増するのは、評判こそが社会的な動物である人間が求める”本当の価値”だからだ。
貨幣と評判のトレードオフでほとんどの人が評判を選択する 。
経済合理性だけで考えるならば、リスクに対してリターンの高い業種には新規参入が相次ぎ、超過利潤はなくなるはずだ。アメリカの一流大学でMBAを取得した人たちが風俗業を始めないのは、大儲けできたとしても、社会的な評判を考えたら割に合わないからだ。
その一方で、お金と評判が完全に一致していると、人々は限りなく”強欲”になる。その典型がギャンブラーと投資銀行家だ。
ゲームとしてのこの”純粋さ”が、極めて知的能力の高い人たちを中毒(貨幣依存症)にさせ、金融市場を暴走させる原因となった。
資本主義というのは、欲望と恐怖によって自己増殖するシステムだ。
こうした経済行為の集積が、「グローバル資本主義」となって世界を動かしていく。
その自己増殖は、原理的には外的な制約に達するまで止まらない。「外的な制約」とは、化石燃料が枯渇したり、環境破壊によって地球が人間の生存にてきさなくなることで、要するに人類が滅亡する時だ。
ネットオークションが大きな成功を収めたのは、出品者にモラルを説教したためではなく、道徳的に振る舞うこと(”高い評価”をとってそれを継続することが、出品者のインセンティブになる仕組み)が得になるような制度を設計したことにある。
正しく設計されたアーキテクチャは、ユーザーを”道徳的に”振る舞わせることができるのだ。
ネットオークションが成功したのは、評価が(原則として)価値判断を含まないからだ。 そこで検証されるのは、①商品と説明が一致しているか、②入金確認後に迅速に商品が発送されたか、の二点だけで、出品者の主義主張や人格が問題にされる訳ではない。
これによって、出品者の側も低い評価を受け入れやすくなる。(基準が明確だから) 共同体の中では、我々は悪意や嫉妬、コンプレックスやルサンチマン、怒りや憎悪と言ったネガティブな感情の噴出を抑制する強い圧力を加えられている。ところが匿名性の高い空間では、その抑制(共同体の規制)が外れてあらゆるネガティブな感情が表に出てしまうのだ。
Twitterには、サイバーカスケード(炎上)を減らすいくつかの仕掛けが施されている。
そもそもTwitterは「つぶやき」だから、「意見」と見做されるブログよりも許容範囲が広い。反論しようにも140字以内で、その上発言はタイムラインの中を時々刻々と流れていくから執着のしようもない。(Twitter上の論争などは、”まとめサイト”で時系列によって整理・アーカイブされる)
それ以外にもTwitterには、ネガティブな反応を返してくるフォロワーを排除するブロック機能がある(投稿を表示させなくする)。
なかでもTwitterの一番の特徴は、フォロワーに良い評判を広げていくインセンティブがあることだろう。人は悪い評判よりも、よい評判を知らせたいと思うものだ。
古代社会では、負け戦の知らせを持ってきた使者の首がはねられたという。人はどんなことにも因果関係を見いだそうとするから、よいニュースは自分に対するプレゼントで、悪いニュースは呪いになる。
退出(やり直し)が自由なネットオークション型のアーキテクチャでは、自分が人よりどれだけ目立つかを競うのがデフォルトの戦略になる。失敗しても悪い評判はリセットできるのだから、そこでは誰もが実名でたくさんの評判を集めようとするだろう(これがポジティブゲームだ)
それに対して退出できないアーキテクチャでは、人と同じことをして出来るだけ目立たず、バッシングの標的になるのを避けるのが最適戦略だ。一旦付けられた悪い評判(スティグマ)を二度と剥がすことができないとしたら、匿名の無責任社会に身を隠すほかに安心して暮らす方法はない。(こちらはネガティブゲームだ)
Facebookが徹底して実名にこだわるのは、自らをWEB2.0におけるポジティブゲームのインフラと位置づけているからだ。
Facebookの戦略は、評判確認装置のデファクト・スタンダードになることだ。そのとき、Facebookは社会的な関係そのものを生み出す必要不可欠なインフラとなり、我々は就職や結婚ばかりでなく、合コンや友達づくりなど日常のささいな出来事までFacebookで検索し、相手の素性を確かめようとするだろう。
Facebookの目指すユートピアでは、貨幣よりも評判の獲得を目指すアーキテクチャによって、本人の意志に関わらず誰もが善人になる。
インターネットのテクノロジーによってあらゆる評判が可視化される電脳空間は知識社会の究極のかたちでもある。そこで人は、ファッションやブランドなどの外見ではなく、知識やセンスのみで選別される。
誰もが貨幣よりも評判を選好し、実名の個人情報がインターネット上で公開・検索され、すべての人が善人として生きていくほかない社会・・・そのときグローバル資本主義の自己増殖運動は停止し、近代のパラダイムは意味を失って、誰も見たことのないポストモダンが始まるのだろう。 これが、サイバーリバタリアンの描くユートピア(もしくはディストピア)だ。
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歳をとると勲章が欲しくなるというのは、評判を得た人が忘れられるのを恐れるためと考えると動機がわかりやすい。
「貨幣と評判のトレードオフでほとんどの人が評判を選択する」というのは強論で、「貨幣」と「評判」のどちらをとるかは、囲碁でいうと”地”をとるか”厚み”をとるか、ということであり、どちらをとるかは自己ブランドに基づいた人生の戦略による。
仮にほとんどの人が評判を選択するようならもっと犯罪は少ないはずだ。
とあるワークショップで「僕のFacebookは『幸せ芝居』です」(本当は『幸せ劇場』と言いたかった)と言ったら大受けしたことがあるのだが、実名のFacebookでは人は悩みや嫌な出来事を発信しない。それは見た人に対する「呪」になるからだ。
<<世界で最も世俗的な国民、日本人>>
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国際的な価値観調査によれば、日本人は世界で最も世俗的な国民だ。
日本人は世界の誰よりも、「他人に迎合するよりも、自分らしくありたい」「自分の人生の目標は自分で決めたい」と考えている。
御利益のない神を信じず、地縁も血縁も捨てて「一人一世帯」の無縁社会に生きている。
こうした特異な価値観を我々は当たり前のことと思っているが、実は日本人は歴史の最先端に立っているのかもしれない。
18世紀の産業革命によって経済(市場)は爆発的に拡大し、人々は身分制(階層社会)の桎梏から開放され、人類史上はじめて「自由」と「平等」を理想として掲げることが可能になった。近代は、王制(神権政治)に対する社会改革=革命運動として始まった。
ところが第二次世界大戦後、社会がより豊かになると、人々の関心は「社会」から「私」へと向かい始める。
これが「近代の折り返し点」で、1960年代のヒッピームーブメントやフラワーチルドレンが先駆けとなり、ニュージャーナリズムの旗手トム・ウルフが「ミーイズム」と名付けた70年代へとつながっていく。
この「折り返し点を過ぎた近代」を、ヨーロッパの社会学者達(アンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベック)は「後期近代」「再帰的近代」と呼ぶ。 前期近代においてはマルクス主義のような「社会を変える」思想が信じられたものの、後期近代になるとそうした”大きな物語(革命)”は流行らなくなり、「<私>を変える」という”小さな物語(自己啓発)”が広まっていく。
前期近代(大きな物語)から後期近代(小さな物語)への移行は、社会がゆたかになり多様化したことの必然的な帰結だった。 後期近代では、<私>はかけがえのない唯一絶対の価値(=オンリーワン)となるが、一人ひとりはみな平等で、特別な<私>(=ナンバーワン)はどこにもいない。
この<私>中心主義によって「革命」は内面へと向かい、「自分探し」が人生の目的となる。
「共同体から私へ」というこの変化によって、社会のかたちは大きく変わってしまった。 フランスの政治思想家アレクシス・ド・トクヴィルは、19世紀初頭のアメリカを訪れて、アメリカが平等社会であることに驚いた。
トクヴィルは、ヨーロッパのような身分制社会には不平等は存在しないという。貴族と平民は”別の”人間だと考えられており、貧民はそもそも自分が貴族と「人として平等だ」などとは思ってもみなかった。
不平等が問題になるのは、身分の違いのない平等な社会だけだ。自分と相手が平等な人間と認識してはじめて、互いの間にある不平等が痛みをもって意識されるようになる。
その意味で「近代」は隠されていた不平等を顕在化させ、それへの絶えざる異議申し立てによって既存の権威を解体していく運動のことだ。
かけがえなのない<私>を唯一絶対の価値とする後期近代では、この運動は宗教や階級、中間共同体を抜け殻にして、社会を「液状化」させていく。
アメリカ、ヨーロッパ、日本などの「液状化した社会」では、地域や文化の違いに関係なく、社会的な問題を個人的な環境や異常心理に還元して解釈するようになる。
「トラウマ」「アダルト・チルドレン」「多重人格」といった俗流心理学が流行するのはその恰好の例だ。
貧困に対する態度にも大きな違いが見られる。 前期近代では、失業は社会階層(階級)の問題とされ、プロレタリアートによる階級闘争へと結集していく。それに対して社会問題が個人化する後期近代では、貧困は家庭・教育・恋愛・職業体験など個人史の結果とされ、社会のメインストリームから脱落した人たちは階級や社会集団を構成せず、プレカリアート(ニート、フリーター)として孤立することになった。
伝統的な共同体(家族やムラ社会)が解体したのは、近代が福祉国家という理想を実現したからでもある。豊かな社会と充実した社会保障によって我々はムラ社会から開放されたが、それとともに共同体の安全保障をも放棄して、すべてのリスクを自分だけで背負うことになった。
「私らしく」を唯一の価値基準とする生き方は、「自分」を土台にして立っているようなものだ。自分を参照しながら自分の将来を決断するという無限ループ的な構造を「再帰的」という(「再帰」とはループのことだ)。
「再帰的近代」ではすべての人がこの無限ループ状態に陥っていくが、これは後期近代の主要な特徴(というか本質)でもある。
自分の中に「自分」を探す再帰的近代は、フィッシャーのだまし絵のように非常に不安定だ。
そこで、この不安定な自分をなんとかコントロールする必要が生まれる。これが自己啓発本でお馴染みの「自己コントロール(自己管理)」と呼ばれる心理技法だ。
現代社会では、正しく自己管理できない人間は落伍者とされる。これは最も早く再帰的近代に突入したアメリカ由来の思想だが、いまや日本でも大学生の就活で「自己分析」が必須とされているように、社会の隅々まで広まっている。
神経症や軽うつ症、ADHD(注意欠陥・多動性障害)が激増するのも再帰的近代の特徴だ。自己コントロール社会では、泣いたり喚いたりという感情を表に出す行為は全て「異常」と見做され、精神医学によって治療すべきものとされる。
後期近代は、豊かさによって人々を共同体の拘束から解き放ったが、それによって我々は自分で自分を基礎付ける”再帰性の罠”にはまってしまった。
そこでは、「自分らしく生きたい」という当たり前の願望が際限のない不安を生み出すのだ。
世界のほとんどの国では人々はごく自然に、なんらかの”超越者”の存在を前提に生活している。ところが日本社会には、何故かこの超越的なものが欠落している。
江戸時代までは、庶民や天皇のことなど何も知らず、幕府の将軍は世俗的な権力者で宗教的な権威をもたなかった。もちろん人々は神仏の加護を祈り、怨霊のたたりを恐れたが、これは超自然的なものを畏怖するアニミズムで、キリスト教やイスラム教の絶対神や、インド仏教の”真理としての法”という観念は日本では全く受け入れられなかった。
明治政府は天皇を現人神という超越者に仕立て上げたが、これは国民国家を形成する核がそれ以外になかったからだ。それが一種の”方便”だということは暗黙の了解事項で、戦前・戦中の国家社会主義的な雰囲気の中でも、天皇が実はただの人だということは誰もが知っていた(だから敗戦後に天皇が「人間宣言」をしても驚かなかった)。
超越者のいない日本は、「私の価値は最大限に実現されるべきだ」という社会でもある。 『ONE PIECE』や『NANA』など、日本のマンガやアニメは、「自由な主人公が、冒険や恋愛を通して自己実現していく」物語を核にしている。”クール・ジャパン”は、後期近代の普遍性を真っ先に到達したからこそ、世界中の若者達を虜にするのだ。
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著者は「世俗的」=現世利益中心主義という定義をしているようだが、これについては「国際的な価値観調査では」ということで多くを語らない。
でもこの前提で議論が進んでいくので、自分たちのことを言われている読者にとっては「本当か??」と疑念をもちながら読み続けなければならない。
でも、ちょっと強論の部分はあるものの「もしかしたらそうかも」と思わせるのが橘玲氏のうまいところである。
「福祉国家が実現したから伝統的な共同体は解決した」という下りも、日本人としては納得できないだろう。
戦後、天皇が現神人から普通の人(国家の象徴)になったのを受け入れたからといって”超越者”であった天皇を認めていなかったという論もスゴい話だが、確かに歴史の時間の中で考えると、天皇が神に近づいたのは明治以降の話だ。
だとすると日本人とは太古から面従腹背の民だったということか。
「本当?ウソでしょ?」と思いながらついつい「あるかも」と思わせるのが橘玲論の面白いところだ。
いよいよ大詰め。
著者の考えるユートピアとはいかなるものか。
<<ユートピア>>
退出不可能な閉鎖的なイエを「伽藍」、いつでも出て行くことの出来る開放的な空間を「バザール」と呼ぼう。
イングルハートの価値マップでは、「自己表現度」の高い国は全て英語圏(アングロサクソン国)と北欧などヨーロッパのプロテスタント圏だ。これらの国は、自由と自己責任が一体となった”バザールの論理”で社会が営まれている。それに対して日本は責任がとれない社会(無責任社会)で、そのことが自由に生きることを阻んでいる。
日本が伽藍の世界になってしまうのは、日本人が一人で生きていく術を知らないからであり、日本の社会が一人で生きていける場所ではないからでもある。 圧倒的な<他者>がいなければ社会はグローバル空間にはならず、人々はローカルルールにしがみつこうとする。これが日本社会がなかなか変われない理由だ。
社会そのものは変われなくても、伽藍を抜け出してバザールへと向かうことは、個人としては十分可能だ。
日本社会には<他者>がいないから、なかなか変わることができない。だとしたら唯一の現実的な可能性は、一人でも多くの日本人がバザール世界の住人となり、彼らが<他者>となって、伽藍の世界を壊していくことだ。
アメリカの哲学者ロバート・ノージックは、『アナーキー・国家・ユートピア』で「夢」について語っている。それが「ユートピアのためのフレームワーク」だ。
近代というのは、地縁・血縁の伝統的な共同体を離れ、一人ひとりが「自立した個人」として生きることを余儀なくされた時代のことだ。しかしその一方で、人は社会的な動物であり、誰もがなんらかの共同体(コミュニティ)に属さなければ生きていくことができない(ひとは一人では生きていけない)。共同体は構成員を拘束し、自由を奪うが、その代わりに安全や帰属意識(アイデンティティ)といった大切なものを与えてもくれる。
だからノージックは、共同体を否定するのではなく、いかにしたら個人の自由と共同体の掟が共存出来るかを考えた。
ノージックが国家を否定したのは、それが共同体としては大き過ぎ、構成員(国民)を過剰に拘束するからだ。多様な価値観をもつ国民を国家というひとつの器に収めようとすれば、かなりの無理を強いなければならず、それに抵抗する人たちは排除されてしまう。
そこで、ノージックは、国家は共同体ではなく、単なるフレームワーク(枠組み)であるべきだと考えた。その枠組みは、基本的人権や私的所有権の保護などの基本ルール(憲法)と、外交や治安維持のような最低限の安全保障(暴力の独占)でつくられていて、それ以外の価値観に対しては中立だ。
人々はこの枠組みの中で、宗教的・政治的・文化的な共同体を自由につくることができるが、そこには一つ大事な原則がある。どのような共同体も、本人の意思で自由に退出できなければならないのだ。
この約束事さえ守られていれば、人々は最小国家(フレームワーク)の中で、様々なユートピアを試してみることが許されている。ノージックは、「ユートピアの自由市場」を構想したのだ。
共同体の価値を重視する保守的な人たちは、世俗性を追求すれば社会がバラバラになってしまうと警告する。だが価値観調査や社会調査で明らかなように、そもそも日本人は共同体(伽藍)に拘束されることを心の底から嫌っているのだ。(☞それは「伽藍」の世界で生きているからでは?「伽藍」の世界が本当に嫌なら「バザール」の世界に出ればよく、そういう生き方をしている人は既にバザールの世界で生きている。「バザール」の世界で生きていた場合には日本人の多くが同様に「世俗性」を追求するのかは疑問)
ひとが自由に個性を変えられないように、日本人は自らの”日本人性”を捨て去ることができない。だとすれば、我々にとっての可能性は、世界でも稀な極端な世俗性(現世利益中心主義)からなんらかの展望(あるいは夢)を描くこと以外にない。
それをイングルハートの価値マップ(縦軸:世俗・合理的価値⇔伝統的価値、横軸:生存価値⇔自己表現価値)で表すと「日本人」を論ずる人たちは、大きく二つの立場に分かれる。 一つは、世俗性を抑えてより伝統を重視すべきだという保守主義や伝統主義だ。政治哲学でコミュニタリアニズムと呼ばれるこうした主張は、より伝統的価値を増し、ヨーロッパのプロテスタント圏やカトリック圏の国々と同じような価値観を目指す(ただしオランダやデンマーク、スウェーデンといった北ヨーロッパのプロテスタント圏は、伝統的な社会というよりも、世界で最も自己表現価値の高い<私>中心主義社会だ)。
もう一つは、アメリカなどアングロサクソンの国々と同様にグローバルスタンダードで社会を運営していくべきだというもので、伝統的価値を増しつつ、自己表現価値も増す方向。この近代主義は政治哲学ではリベラリズムになるが、これらの英語圏の国民はヨーロッパ・プロテスタント圏の国民よりもずっと伝統的価値にこだわっている。
日本を「改革」するこのふたつの主張は、明治維新以来、日本人の理想が欧米すなわちヨーロッパとアメリカにあったことを踏襲している。日本人の「夢」は、明治から一世紀半たっても何一つ変わらないのだ。
ところでイングルハートは価値マップで「異なる文化圏は重なり合わない」という重要な発見をした。もちろんこれには様々な注釈が必要だろうが、それでも我々の価値観が経済的・歴史的・文化的な要因に強く規定されていることは疑問の余地がない。
そう考えれば、中国・韓国・台湾とともに儒教圏に属する日本人が、教育や啓蒙などの外的な力で短期間にヨーロッパ・プロテスタント圏や英語圏の価値観に変われるはずはない。こうした価値観は遺伝的なものではないにしても、親子関係や子供集団を通じて人格形成に強い影響を与え、無意識のうちに考え方や行動を決めているからだ。
だとすれば、我々日本人に残された希望は、今の世俗性を維持したまま自由な自己表現のできる社会をつくることにしかない。
そこは理念的には、いかなる超越者(絶対神)も信じない徹底的に世俗的な人々によって構成される、誰もが自由に自己表現・自己実現できる社会のはずだ。それこそが「後期近代」の完成形で、ロバート・ノージックの夢見た「ユートピアのためのフレームワーク」が実現可能な唯一の場所に違いない。
すべてのローカルな共同体(伽藍)を破壊することで国家をフレームワーク(枠組み)だけにして、そこに退出可能の自由な無数のグローバルな共同体を創造していく。後期近代(再帰的近代)の終着点となるその場所がユートピアへの入口だとするならば、そこに最初に到達することが、歴史が日本人に与えた使命なのだ。
これが、私の<夢>だ。
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別に日本に限らず、「社会」はそう簡単には変わらない。
だから個人で「伽藍」から「バザール」に飛び出していけ、というのは橘氏の前著『残酷な世界で生き残るたった一つの方法』で書かれていたことだが、今回は理想的なユートピアに日本を導いていくべきだという氏の思想が書かれている。
理屈では分かる気がしないでもないが、どうもピンと来ないというのが正直なところだ。
この本を読んで、色々なことに気がついたし非常に勉強になった。
著者の理想の世界についてはあまり共感できなかったが、何より自分の立ち位置(考え方)が確認できたのが大きかった。
このように思考を揺さぶる本は非常にありがたい。
これからも橘氏の本は読み続けていきたいと思う。
<<お金と評判>>
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お金は限界効用が逓減するが、評判は逓増する。
評判は効用が逓増する。だから、芸能人、文化人、経営者、政治家などの職業に関係なく、一度有名になればもっと有名になりたくなる。それと同時に、自分が有名人(セレブ)の地位から脱落して人々から忘れられることをものすごく恐れるようになる。
貨幣の効用が逓減するのに、評判の効用が逓増するのは、評判こそが社会的な動物である人間が求める”本当の価値”だからだ。
貨幣と評判のトレードオフでほとんどの人が評判を選択する 。
経済合理性だけで考えるならば、リスクに対してリターンの高い業種には新規参入が相次ぎ、超過利潤はなくなるはずだ。アメリカの一流大学でMBAを取得した人たちが風俗業を始めないのは、大儲けできたとしても、社会的な評判を考えたら割に合わないからだ。
その一方で、お金と評判が完全に一致していると、人々は限りなく”強欲”になる。その典型がギャンブラーと投資銀行家だ。
ゲームとしてのこの”純粋さ”が、極めて知的能力の高い人たちを中毒(貨幣依存症)にさせ、金融市場を暴走させる原因となった。
資本主義というのは、欲望と恐怖によって自己増殖するシステムだ。
こうした経済行為の集積が、「グローバル資本主義」となって世界を動かしていく。
その自己増殖は、原理的には外的な制約に達するまで止まらない。「外的な制約」とは、化石燃料が枯渇したり、環境破壊によって地球が人間の生存にてきさなくなることで、要するに人類が滅亡する時だ。
ネットオークションが大きな成功を収めたのは、出品者にモラルを説教したためではなく、道徳的に振る舞うこと(”高い評価”をとってそれを継続することが、出品者のインセンティブになる仕組み)が得になるような制度を設計したことにある。
正しく設計されたアーキテクチャは、ユーザーを”道徳的に”振る舞わせることができるのだ。
ネットオークションが成功したのは、評価が(原則として)価値判断を含まないからだ。 そこで検証されるのは、①商品と説明が一致しているか、②入金確認後に迅速に商品が発送されたか、の二点だけで、出品者の主義主張や人格が問題にされる訳ではない。
これによって、出品者の側も低い評価を受け入れやすくなる。(基準が明確だから) 共同体の中では、我々は悪意や嫉妬、コンプレックスやルサンチマン、怒りや憎悪と言ったネガティブな感情の噴出を抑制する強い圧力を加えられている。ところが匿名性の高い空間では、その抑制(共同体の規制)が外れてあらゆるネガティブな感情が表に出てしまうのだ。
Twitterには、サイバーカスケード(炎上)を減らすいくつかの仕掛けが施されている。
そもそもTwitterは「つぶやき」だから、「意見」と見做されるブログよりも許容範囲が広い。反論しようにも140字以内で、その上発言はタイムラインの中を時々刻々と流れていくから執着のしようもない。(Twitter上の論争などは、”まとめサイト”で時系列によって整理・アーカイブされる)
それ以外にもTwitterには、ネガティブな反応を返してくるフォロワーを排除するブロック機能がある(投稿を表示させなくする)。
なかでもTwitterの一番の特徴は、フォロワーに良い評判を広げていくインセンティブがあることだろう。人は悪い評判よりも、よい評判を知らせたいと思うものだ。
古代社会では、負け戦の知らせを持ってきた使者の首がはねられたという。人はどんなことにも因果関係を見いだそうとするから、よいニュースは自分に対するプレゼントで、悪いニュースは呪いになる。
退出(やり直し)が自由なネットオークション型のアーキテクチャでは、自分が人よりどれだけ目立つかを競うのがデフォルトの戦略になる。失敗しても悪い評判はリセットできるのだから、そこでは誰もが実名でたくさんの評判を集めようとするだろう(これがポジティブゲームだ)
それに対して退出できないアーキテクチャでは、人と同じことをして出来るだけ目立たず、バッシングの標的になるのを避けるのが最適戦略だ。一旦付けられた悪い評判(スティグマ)を二度と剥がすことができないとしたら、匿名の無責任社会に身を隠すほかに安心して暮らす方法はない。(こちらはネガティブゲームだ)
Facebookが徹底して実名にこだわるのは、自らをWEB2.0におけるポジティブゲームのインフラと位置づけているからだ。
Facebookの戦略は、評判確認装置のデファクト・スタンダードになることだ。そのとき、Facebookは社会的な関係そのものを生み出す必要不可欠なインフラとなり、我々は就職や結婚ばかりでなく、合コンや友達づくりなど日常のささいな出来事までFacebookで検索し、相手の素性を確かめようとするだろう。
Facebookの目指すユートピアでは、貨幣よりも評判の獲得を目指すアーキテクチャによって、本人の意志に関わらず誰もが善人になる。
インターネットのテクノロジーによってあらゆる評判が可視化される電脳空間は知識社会の究極のかたちでもある。そこで人は、ファッションやブランドなどの外見ではなく、知識やセンスのみで選別される。
誰もが貨幣よりも評判を選好し、実名の個人情報がインターネット上で公開・検索され、すべての人が善人として生きていくほかない社会・・・そのときグローバル資本主義の自己増殖運動は停止し、近代のパラダイムは意味を失って、誰も見たことのないポストモダンが始まるのだろう。 これが、サイバーリバタリアンの描くユートピア(もしくはディストピア)だ。
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歳をとると勲章が欲しくなるというのは、評判を得た人が忘れられるのを恐れるためと考えると動機がわかりやすい。
「貨幣と評判のトレードオフでほとんどの人が評判を選択する」というのは強論で、「貨幣」と「評判」のどちらをとるかは、囲碁でいうと”地”をとるか”厚み”をとるか、ということであり、どちらをとるかは自己ブランドに基づいた人生の戦略による。
仮にほとんどの人が評判を選択するようならもっと犯罪は少ないはずだ。
とあるワークショップで「僕のFacebookは『幸せ芝居』です」(本当は『幸せ劇場』と言いたかった)と言ったら大受けしたことがあるのだが、実名のFacebookでは人は悩みや嫌な出来事を発信しない。それは見た人に対する「呪」になるからだ。
<<世界で最も世俗的な国民、日本人>>
>>>>>
国際的な価値観調査によれば、日本人は世界で最も世俗的な国民だ。
日本人は世界の誰よりも、「他人に迎合するよりも、自分らしくありたい」「自分の人生の目標は自分で決めたい」と考えている。
御利益のない神を信じず、地縁も血縁も捨てて「一人一世帯」の無縁社会に生きている。
こうした特異な価値観を我々は当たり前のことと思っているが、実は日本人は歴史の最先端に立っているのかもしれない。
18世紀の産業革命によって経済(市場)は爆発的に拡大し、人々は身分制(階層社会)の桎梏から開放され、人類史上はじめて「自由」と「平等」を理想として掲げることが可能になった。近代は、王制(神権政治)に対する社会改革=革命運動として始まった。
ところが第二次世界大戦後、社会がより豊かになると、人々の関心は「社会」から「私」へと向かい始める。
これが「近代の折り返し点」で、1960年代のヒッピームーブメントやフラワーチルドレンが先駆けとなり、ニュージャーナリズムの旗手トム・ウルフが「ミーイズム」と名付けた70年代へとつながっていく。
この「折り返し点を過ぎた近代」を、ヨーロッパの社会学者達(アンソニー・ギデンズやウルリッヒ・ベック)は「後期近代」「再帰的近代」と呼ぶ。 前期近代においてはマルクス主義のような「社会を変える」思想が信じられたものの、後期近代になるとそうした”大きな物語(革命)”は流行らなくなり、「<私>を変える」という”小さな物語(自己啓発)”が広まっていく。
前期近代(大きな物語)から後期近代(小さな物語)への移行は、社会がゆたかになり多様化したことの必然的な帰結だった。 後期近代では、<私>はかけがえのない唯一絶対の価値(=オンリーワン)となるが、一人ひとりはみな平等で、特別な<私>(=ナンバーワン)はどこにもいない。
この<私>中心主義によって「革命」は内面へと向かい、「自分探し」が人生の目的となる。
「共同体から私へ」というこの変化によって、社会のかたちは大きく変わってしまった。 フランスの政治思想家アレクシス・ド・トクヴィルは、19世紀初頭のアメリカを訪れて、アメリカが平等社会であることに驚いた。
トクヴィルは、ヨーロッパのような身分制社会には不平等は存在しないという。貴族と平民は”別の”人間だと考えられており、貧民はそもそも自分が貴族と「人として平等だ」などとは思ってもみなかった。
不平等が問題になるのは、身分の違いのない平等な社会だけだ。自分と相手が平等な人間と認識してはじめて、互いの間にある不平等が痛みをもって意識されるようになる。
その意味で「近代」は隠されていた不平等を顕在化させ、それへの絶えざる異議申し立てによって既存の権威を解体していく運動のことだ。
かけがえなのない<私>を唯一絶対の価値とする後期近代では、この運動は宗教や階級、中間共同体を抜け殻にして、社会を「液状化」させていく。
アメリカ、ヨーロッパ、日本などの「液状化した社会」では、地域や文化の違いに関係なく、社会的な問題を個人的な環境や異常心理に還元して解釈するようになる。
「トラウマ」「アダルト・チルドレン」「多重人格」といった俗流心理学が流行するのはその恰好の例だ。
貧困に対する態度にも大きな違いが見られる。 前期近代では、失業は社会階層(階級)の問題とされ、プロレタリアートによる階級闘争へと結集していく。それに対して社会問題が個人化する後期近代では、貧困は家庭・教育・恋愛・職業体験など個人史の結果とされ、社会のメインストリームから脱落した人たちは階級や社会集団を構成せず、プレカリアート(ニート、フリーター)として孤立することになった。
伝統的な共同体(家族やムラ社会)が解体したのは、近代が福祉国家という理想を実現したからでもある。豊かな社会と充実した社会保障によって我々はムラ社会から開放されたが、それとともに共同体の安全保障をも放棄して、すべてのリスクを自分だけで背負うことになった。
「私らしく」を唯一の価値基準とする生き方は、「自分」を土台にして立っているようなものだ。自分を参照しながら自分の将来を決断するという無限ループ的な構造を「再帰的」という(「再帰」とはループのことだ)。
「再帰的近代」ではすべての人がこの無限ループ状態に陥っていくが、これは後期近代の主要な特徴(というか本質)でもある。
自分の中に「自分」を探す再帰的近代は、フィッシャーのだまし絵のように非常に不安定だ。
そこで、この不安定な自分をなんとかコントロールする必要が生まれる。これが自己啓発本でお馴染みの「自己コントロール(自己管理)」と呼ばれる心理技法だ。
現代社会では、正しく自己管理できない人間は落伍者とされる。これは最も早く再帰的近代に突入したアメリカ由来の思想だが、いまや日本でも大学生の就活で「自己分析」が必須とされているように、社会の隅々まで広まっている。
神経症や軽うつ症、ADHD(注意欠陥・多動性障害)が激増するのも再帰的近代の特徴だ。自己コントロール社会では、泣いたり喚いたりという感情を表に出す行為は全て「異常」と見做され、精神医学によって治療すべきものとされる。
後期近代は、豊かさによって人々を共同体の拘束から解き放ったが、それによって我々は自分で自分を基礎付ける”再帰性の罠”にはまってしまった。
そこでは、「自分らしく生きたい」という当たり前の願望が際限のない不安を生み出すのだ。
世界のほとんどの国では人々はごく自然に、なんらかの”超越者”の存在を前提に生活している。ところが日本社会には、何故かこの超越的なものが欠落している。
江戸時代までは、庶民や天皇のことなど何も知らず、幕府の将軍は世俗的な権力者で宗教的な権威をもたなかった。もちろん人々は神仏の加護を祈り、怨霊のたたりを恐れたが、これは超自然的なものを畏怖するアニミズムで、キリスト教やイスラム教の絶対神や、インド仏教の”真理としての法”という観念は日本では全く受け入れられなかった。
明治政府は天皇を現人神という超越者に仕立て上げたが、これは国民国家を形成する核がそれ以外になかったからだ。それが一種の”方便”だということは暗黙の了解事項で、戦前・戦中の国家社会主義的な雰囲気の中でも、天皇が実はただの人だということは誰もが知っていた(だから敗戦後に天皇が「人間宣言」をしても驚かなかった)。
超越者のいない日本は、「私の価値は最大限に実現されるべきだ」という社会でもある。 『ONE PIECE』や『NANA』など、日本のマンガやアニメは、「自由な主人公が、冒険や恋愛を通して自己実現していく」物語を核にしている。”クール・ジャパン”は、後期近代の普遍性を真っ先に到達したからこそ、世界中の若者達を虜にするのだ。
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著者は「世俗的」=現世利益中心主義という定義をしているようだが、これについては「国際的な価値観調査では」ということで多くを語らない。
でもこの前提で議論が進んでいくので、自分たちのことを言われている読者にとっては「本当か??」と疑念をもちながら読み続けなければならない。
でも、ちょっと強論の部分はあるものの「もしかしたらそうかも」と思わせるのが橘玲氏のうまいところである。
「福祉国家が実現したから伝統的な共同体は解決した」という下りも、日本人としては納得できないだろう。
戦後、天皇が現神人から普通の人(国家の象徴)になったのを受け入れたからといって”超越者”であった天皇を認めていなかったという論もスゴい話だが、確かに歴史の時間の中で考えると、天皇が神に近づいたのは明治以降の話だ。
だとすると日本人とは太古から面従腹背の民だったということか。
「本当?ウソでしょ?」と思いながらついつい「あるかも」と思わせるのが橘玲論の面白いところだ。
いよいよ大詰め。
著者の考えるユートピアとはいかなるものか。
<<ユートピア>>
退出不可能な閉鎖的なイエを「伽藍」、いつでも出て行くことの出来る開放的な空間を「バザール」と呼ぼう。
イングルハートの価値マップでは、「自己表現度」の高い国は全て英語圏(アングロサクソン国)と北欧などヨーロッパのプロテスタント圏だ。これらの国は、自由と自己責任が一体となった”バザールの論理”で社会が営まれている。それに対して日本は責任がとれない社会(無責任社会)で、そのことが自由に生きることを阻んでいる。
日本が伽藍の世界になってしまうのは、日本人が一人で生きていく術を知らないからであり、日本の社会が一人で生きていける場所ではないからでもある。 圧倒的な<他者>がいなければ社会はグローバル空間にはならず、人々はローカルルールにしがみつこうとする。これが日本社会がなかなか変われない理由だ。
社会そのものは変われなくても、伽藍を抜け出してバザールへと向かうことは、個人としては十分可能だ。
日本社会には<他者>がいないから、なかなか変わることができない。だとしたら唯一の現実的な可能性は、一人でも多くの日本人がバザール世界の住人となり、彼らが<他者>となって、伽藍の世界を壊していくことだ。
アメリカの哲学者ロバート・ノージックは、『アナーキー・国家・ユートピア』で「夢」について語っている。それが「ユートピアのためのフレームワーク」だ。
近代というのは、地縁・血縁の伝統的な共同体を離れ、一人ひとりが「自立した個人」として生きることを余儀なくされた時代のことだ。しかしその一方で、人は社会的な動物であり、誰もがなんらかの共同体(コミュニティ)に属さなければ生きていくことができない(ひとは一人では生きていけない)。共同体は構成員を拘束し、自由を奪うが、その代わりに安全や帰属意識(アイデンティティ)といった大切なものを与えてもくれる。
だからノージックは、共同体を否定するのではなく、いかにしたら個人の自由と共同体の掟が共存出来るかを考えた。
ノージックが国家を否定したのは、それが共同体としては大き過ぎ、構成員(国民)を過剰に拘束するからだ。多様な価値観をもつ国民を国家というひとつの器に収めようとすれば、かなりの無理を強いなければならず、それに抵抗する人たちは排除されてしまう。
そこで、ノージックは、国家は共同体ではなく、単なるフレームワーク(枠組み)であるべきだと考えた。その枠組みは、基本的人権や私的所有権の保護などの基本ルール(憲法)と、外交や治安維持のような最低限の安全保障(暴力の独占)でつくられていて、それ以外の価値観に対しては中立だ。
人々はこの枠組みの中で、宗教的・政治的・文化的な共同体を自由につくることができるが、そこには一つ大事な原則がある。どのような共同体も、本人の意思で自由に退出できなければならないのだ。
この約束事さえ守られていれば、人々は最小国家(フレームワーク)の中で、様々なユートピアを試してみることが許されている。ノージックは、「ユートピアの自由市場」を構想したのだ。
共同体の価値を重視する保守的な人たちは、世俗性を追求すれば社会がバラバラになってしまうと警告する。だが価値観調査や社会調査で明らかなように、そもそも日本人は共同体(伽藍)に拘束されることを心の底から嫌っているのだ。(☞それは「伽藍」の世界で生きているからでは?「伽藍」の世界が本当に嫌なら「バザール」の世界に出ればよく、そういう生き方をしている人は既にバザールの世界で生きている。「バザール」の世界で生きていた場合には日本人の多くが同様に「世俗性」を追求するのかは疑問)
ひとが自由に個性を変えられないように、日本人は自らの”日本人性”を捨て去ることができない。だとすれば、我々にとっての可能性は、世界でも稀な極端な世俗性(現世利益中心主義)からなんらかの展望(あるいは夢)を描くこと以外にない。
それをイングルハートの価値マップ(縦軸:世俗・合理的価値⇔伝統的価値、横軸:生存価値⇔自己表現価値)で表すと「日本人」を論ずる人たちは、大きく二つの立場に分かれる。 一つは、世俗性を抑えてより伝統を重視すべきだという保守主義や伝統主義だ。政治哲学でコミュニタリアニズムと呼ばれるこうした主張は、より伝統的価値を増し、ヨーロッパのプロテスタント圏やカトリック圏の国々と同じような価値観を目指す(ただしオランダやデンマーク、スウェーデンといった北ヨーロッパのプロテスタント圏は、伝統的な社会というよりも、世界で最も自己表現価値の高い<私>中心主義社会だ)。
もう一つは、アメリカなどアングロサクソンの国々と同様にグローバルスタンダードで社会を運営していくべきだというもので、伝統的価値を増しつつ、自己表現価値も増す方向。この近代主義は政治哲学ではリベラリズムになるが、これらの英語圏の国民はヨーロッパ・プロテスタント圏の国民よりもずっと伝統的価値にこだわっている。
日本を「改革」するこのふたつの主張は、明治維新以来、日本人の理想が欧米すなわちヨーロッパとアメリカにあったことを踏襲している。日本人の「夢」は、明治から一世紀半たっても何一つ変わらないのだ。
ところでイングルハートは価値マップで「異なる文化圏は重なり合わない」という重要な発見をした。もちろんこれには様々な注釈が必要だろうが、それでも我々の価値観が経済的・歴史的・文化的な要因に強く規定されていることは疑問の余地がない。
そう考えれば、中国・韓国・台湾とともに儒教圏に属する日本人が、教育や啓蒙などの外的な力で短期間にヨーロッパ・プロテスタント圏や英語圏の価値観に変われるはずはない。こうした価値観は遺伝的なものではないにしても、親子関係や子供集団を通じて人格形成に強い影響を与え、無意識のうちに考え方や行動を決めているからだ。
だとすれば、我々日本人に残された希望は、今の世俗性を維持したまま自由な自己表現のできる社会をつくることにしかない。
そこは理念的には、いかなる超越者(絶対神)も信じない徹底的に世俗的な人々によって構成される、誰もが自由に自己表現・自己実現できる社会のはずだ。それこそが「後期近代」の完成形で、ロバート・ノージックの夢見た「ユートピアのためのフレームワーク」が実現可能な唯一の場所に違いない。
すべてのローカルな共同体(伽藍)を破壊することで国家をフレームワーク(枠組み)だけにして、そこに退出可能の自由な無数のグローバルな共同体を創造していく。後期近代(再帰的近代)の終着点となるその場所がユートピアへの入口だとするならば、そこに最初に到達することが、歴史が日本人に与えた使命なのだ。
これが、私の<夢>だ。
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別に日本に限らず、「社会」はそう簡単には変わらない。
だから個人で「伽藍」から「バザール」に飛び出していけ、というのは橘氏の前著『残酷な世界で生き残るたった一つの方法』で書かれていたことだが、今回は理想的なユートピアに日本を導いていくべきだという氏の思想が書かれている。
理屈では分かる気がしないでもないが、どうもピンと来ないというのが正直なところだ。
この本を読んで、色々なことに気がついたし非常に勉強になった。
著者の理想の世界についてはあまり共感できなかったが、何より自分の立ち位置(考え方)が確認できたのが大きかった。
このように思考を揺さぶる本は非常にありがたい。
これからも橘氏の本は読み続けていきたいと思う。
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