2014年11月24日月曜日

『(日本人)』その1

橘玲氏の著作。これに取りかかって読み解くのにここ数ヶ月かかったと言ってもいいだろう。内容が濃過ぎて一つ一つ理解するのが楽しくもあり、取りまとめるのに非常に時間がかかってしまった。
というわけで通常とは違ってテーマ別にいくつかに分けてアップしたい。

<政治空間・貨幣空間>
ちょっと最初の定義となる部分で、面倒くさかったりもするのだが、後々色んな言い方で出てくる部分なので詳述する。
(本当は三つの空間に分かれていて愛情空間、友情空間、貨幣空間とされているのだが、愛情空間と友情空間を合わせて政治空間となっていてその対比の方が分かりやすいので、その流れで。)

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政治空間貨幣空間では全く異なる論理が働いている。
このことに最初に気づいたのはアメリカの社会学者ジェイン・ジェイコブズで、彼女はそれを「統治の倫理」「市場の倫理」と名付けた。
富を獲得するには二つの方法がある。ひとつは相手から奪うこと(権力ゲーム)。もう一つは、交易すること(お金儲けゲーム)。
(ここでいう富とは、貨幣だけではない。オスとメスに分化して以来、両性生殖の生物にとってもっとも重要な富は異性だった。この話は後に別スレッドで詳述予定)

権力ゲームでは、次のような「統治の倫理」が支配するとジェイコブズは言う。
目的のためには欺け、復讐せよ、排他的であれ。
さらに、政治空間の厳しい階層構造は次のような掟を要求するだろう。
規律を守れ、伝統を堅持せよ、位階を尊重せよ、忠実たれ。
こうした政治空間で権力ゲームに勝ち残る者には、独特の個性が要求される。
勇敢であれ、名誉を尊べ、運命を甘受せよ。
そう考えると新渡戸稲造の「武士道」は日本の特殊な価値観ではなく、「統治の倫理」の一典型なのだ。

貨幣空間では「市場の倫理」が支配している。
正直たれ、契約を尊重せよ、他人や外国人とも気安く協力せよ。
さらに、お金儲けに必須の倫理もある。
勤勉たれ、節倹たれ、効率を高めよ、新規・発明を取り入れよ。
そしてもっとも大事なのは次の倫理だ。
競争せよ。だが、殺すなかれ(暴力を締め出せ)

統治の倫理は、40億年前の生命誕生から続く進化の歴史の中で育まれてきた。
それに対して、メソポタミアや黄河流域に都市文明が興って交易が始まったのは紀元前3〜2千年頃だから、市場の倫理にはまだ5千年程度の歴史しかない。統治の倫理はヒトの遺伝子にあらかじめプログラム(プレインストール)された本能であるのに対し、市場の倫理は学習によって身につける文化だ。
だから「交易によって全ての市場参加者の富が増えていく」という古典派経済学の基本原理は、人間の本能と対立するために、洋の東西を問わずほとんど理解されることがない。
権力ゲームがゼロサムなのに対し、市場のゲームはプラスサムなのだ。

しかし、たとえ世界全体が幸福になったとしても、ひとは自分が(相対的に)貧しくなることに耐えられない。その意味でのグローバル化は、私たちの生活を破壊する侵略者なのだ。
政治空間はベタな人間関係の世界で、貨幣空間は人と人とがお金でつながるフラットな世界だった。だから貨幣空間が政治空間を浸食すると、家族が学校などの共同体が崩壊して、愛情や友情が失われてしまう。これが、私たちが「お金は汚い」と直感的に嫌う理由だ。
彼女とのデートで指輪を贈る代わりに現金を渡せば買春になってしまう。家事(シャドウワーク)に応じて時給でお金を払えば、妻ではなくお手伝いさんだ。このように、愛情空間にお金を持ち込むと人間関係は簡単に破綻する。

貨幣空間が拡張するのは、我々がそれを望むからだ。ほとんどのサービスが貨幣で購入できる社会では、親戚付き合いは不要になり、友達との関係もドライになっていく。要するにベタな人間関係は面倒くさいのだ。だがそれと同時に、我々はこのような”無縁社会”に根源的な不安を感じてもいる。ヒトは長い進化の歴史を通じて、ずっと集団(共同体)の中で生きてきた。群れからの追放は直ちに死を意味した。ヒトは一人で生きていけるようにはできていないのだ。 貨幣空間が世界を浸食していくと、最後には家族や恋人との最小(ミニマル)の愛情空間しか残らなくなる。その共同体さえ失ってしまえば、一人ひとりが茫漠たる貨幣空間に裸のまま晒されるだけだ。こうして人々は孤独になり、社会は不安定化する。

この巨大な潮流に対処するには、原理的にふたつの方法しかない。
一つは、貨幣空間の拡張という現実を受け入れ、それに適したルール(市場の倫理)で生きていく方法を学ぶことだ。
もう一つは、貨幣空間の侵略を食い止めて愛情や友情の共同体を取り戻すことだ。
もちろん、政治空間(共同体)貨幣空間(市場)はどちらも社会を成り立たせるための大切な仕組みだ。どちらかを選んでどちらかを捨てることが出来るわけではない。
市場と共同体は互いに依存し合って社会をつくっている。だが、この二つはあらかじめ協調するよう設計されているわけではなく、異なる論理を両立させるのはいつだって難しい。
両者が激しく対立する場面では、貨幣空間(市場の倫理)の浸食に対して政治空間の論理(統治の倫理)で対抗するしかない。 家族や仲間、故郷といった大切な価値を蝕んでいく不気味な使徒(エヴァンゲリオンからの比喩)に対して、我々は武士道という”最終兵器”でたたかうしかない。
このシンプルな構図を提示したことで、藤原正彦の『国家の品格』は日本人のこころを捉えたのだ。

アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト著『菊と刀』でベネディクトは日本人の心性を「菊」すなわち審美性と、「刀」すなわち好戦性(武士道)に見いだし、欧米の「罪の文化」に対する「恥の文化」こそが本質だと考えた。
こうした分析は、彼女に与えられた時間と研究素材が極めて限定されたものであることを考えれば、現在の水準から見ても十分にレベルの高いものだった。
だがベネディクトの仕事には決定的な制約があった。それは、彼女が日本人とアメリカ人の違うところを探さなければならなかったことだ。
このことに最初に気づいたのは日系アメリカ人の人類学者ハルミ・ベフ(別府春海)で、日本文化論は”大衆消費財”で、日本人とアメリカ人は実はそれほど違っていないと主張した。
我々に馴染み深い「世界の中で誰とも似ていない日本人」は、こうした”オリエンタリズムの相互参照”によって生まれたのだ。

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著者の言う「政治空間」と「貨幣空間」は、後では「国民国家」と「グローバルスタンダード」という対比に変わってくるが、我々が前期近代で慣れ親しんだ「国民国家」を「グローバルスタンダード」が浸食してきているという意味では、「政治空間」=「国民国家」、「貨幣空間」=「グローバルスタンダード」と考えていいだろう。

そして、著者は自著『残酷な世界で生き延びるたったひとつの方法』で比喩としてあげた「伽藍」と「バザール」も同じ対比で使っている。

だからちょっと強引にまとめちゃうと
「政治空間」=「統治の倫理」=(日本の)「国民国家」=「伽藍』
「貨幣空間」=「市場の倫理」=(世界の)「グローバルスタンダード」=「バザール」


さて、テーマを別にして続く。

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