橘玲氏著作、第2弾の投稿。
<<進化論的 男女論>>
富とは、貨幣だけではない。オスとメスに分化して以来、両性生殖の生物にとってもっとも重要な富は異性だった。。という前回の話の後段。
男尊女卑の発言と思うなかれ。あくまで学術的にいうと、という話だがウーマンリブの方はここで読むのをやめることをお勧めする。
>>>>>
男と女では、生殖機能の違いによって愛情のかたちが異なっている。
男の場合には、精子の放出にほとんどコストがかからないから、より多くの子孫を残そうと思えばできるだけ多くの女性とセックスすればいい。すなわち乱交が進化の最適戦略だ。
それに対して女性は、受精から出産までに10ヶ月以上もかかり、無事に子供が生まれたとしてもさらに1年程度の授乳が必要になる。これは極めて大きなコストなので、セックスの相手を慎重に選び、子育て期間も含めて長期的な関係をつくるのが進化の最適戦略になる。
男性は、セックスをすればするほど子孫を残す可能性が大きくなるのだから、その欲望に限界はない。一方、女性は生涯に限られた数の子供しか産めないのだから、セックスを「貴重品」としてできるだけ有効に使おうとする。ロマンティックラブ(純愛)とは、女性の「長期志向」が男性の乱交の欲望を抑制することなのだ。
これまで人類は、文学や音楽、映画などで男と女の「愛の不毛」を繰り返し描いてきた。しかし進化心理学は、あなたが恋人と分かり合えない理由をたった一行で説明してしまう。 すなわち「異なる生殖戦略をもつ男女は、”利害”が一致しない」のだ。
男と女の「愛」の違いは、大規模な社会実験によって繰り返し証明されている。それは、世の中に同性愛者がいるからだ。
同性愛者は愛情(欲望)の対象が異性愛者とは異なっていて、同性同士でパートナーをつくる。そこでは恋人同士の間に生殖戦略の違いが存在しないから、お互いの利害が一致した”純愛”が可能になるはずだ。
よく知られているように、男性同性愛者(ゲイ)と女性同性愛者(レズビアン)での愛情やセックスのあり方は大きく異なっている。
ゲイはバーなどのハッテン場でパートナーを探し、サウナでの乱交を好む。
エイズが流行する前にサンフランシスコで行われた調査では、100人以上のセックスパートナーと関係したとこたえたゲイは全体の75%で、そのうちの4割近くが1000人以上と経験していた。彼らは特定の相手と長期の関係を維持せず、子供を育てることにもほとんど関心を持たない。
それに対してレズビアンのカップルはパートナーとの関係を大切にし、養子や人工授精で子供を得て家庭を営むことも多い。レズビアンの家庭は、両親が共に女性だということを除けば(異性愛者)の一般家庭と変わらず、子供達は普通に育っていく(母子家庭の子供よりも社会的に成功する可能性が高い)
ゲイの乱交とレズビアンの一婦(夫ではない)一婦制は、男性と女性の進化論的な戦略の違いが純化した結果なのだ。
ヒトのからだは、必ずしも健康に生きるように設計されているわけではない。老いや死は、生物が進化の戦略として両性生殖を採用したときから避け難い運命になった。
両性生殖の生き物は、健康で長生きすることではなく、できるだけ多くの子孫を残すように進化していく。そのために選択されたのが、成長のある時期に生殖能力を最大化する、という戦略だ。
ヘモクロマトーシスという病気は鉄分の過剰な吸収を引き起こし、中年期に死をもたらすが、その代償として、若い時には月経時の鉄分の欠乏を防ぐことができる。
ペプシノゲンⅠと呼ばれる遺伝子を持つ人は胃のホルモンが過剰に生産され、消化性胃潰瘍で死ぬことがおおい。だが、この人たちは、胃酸の濃度が高いことで若いときは感染症への抵抗力が高かったかもしれない。
また免疫系は、感染症から我々を守るためにさまざまな化学物質を放出するが、最近ではこの化学物質が我々自身を傷つけ、ガンを引き起こすのではないかと考えられている。すなわち、老化という現象は、思春期により多くの子供をつくるためにそれ以降の時期を犠牲にする進化の仕組みだったのだ。
進化論的には、我々の行動文法(エートス)はできるだけ多くの子孫を残すように最適化されている。これを男性中心主義的に言うならば、旧石器時代の男達にとって人生で最も重要なことは、(生きるために必要な食糧の確保を除けば)女の獲得だった。
旧石器時代の人類は、30〜50人規模の親族でグループ(家族集団)をつくり、移動を繰り返していたと考えられている。だとすれば、この時代の男達は、「集団の中の女を妻としてはならない」という制約を課されていたに違いない。これはもちろん近親相姦の禁忌があるからだ。 旧石器時代人が近親相姦を避けたのは、フロイトのいうエディプスコンプレックス(すべての男性は母親との性交を望んでいるが、その欲望は文化的に抑圧されている)からではない。
動物行動学が明らかにしたところによれば、チンパンジーやボノボ、ゴリラやオランウータンなどの類人猿にも近親相姦の習性はなく、さらには両性生殖の生物はほとんどが近親相姦を避ける仕組みを持っている。これは、近親相姦が遺伝性の病気につながるため、かなり早い段階で自然淘汰の対象になったからだ。
フロイトの同時代人の人類学者エドワード・ウェスターマークは、幼いときに一緒に過ごした男女は、血縁かどうかに関わらず、思春期になっても性的魅力を感じないと考えた。 ウェスターマークのこの仮説は、イスラエルのキブツで行われた「社会実験」で証明された。キブツでは血縁関係のない男女が、親元を離れて託児所で一緒に育てられる。だがその後彼らの人生を追跡すると、幼い頃から親しかった男女が結婚に至るケースは極めて稀なのだ。
ヒトには、両親であれ兄弟姉妹(あるいはおじ・おばやいとこ)であれ、幼少時に親しく接した異性との性交を生理的に嫌悪するメカニズムが組み込まれている。近親相姦のタブーというのは、」この生理的嫌悪感をルール化したものだ。
このように近親相姦が禁じられてしまうと、男が子孫を残すためには別の部族から女を手に入れる他はない。その方法は原理的にふたつしかなく、ひとつは力ずくで奪い取ること、もう一つは自分の部族の女(姉妹や娘)と交換することだ。
このうち手っ取り早いのは前者だが、そこには大きな欠陥があって、このやり方では自分の部族の女が配偶者を獲得できなくなってしまう。このことから、人類の誕生とほぼ同時に女の「交換」が始まったと考えられている。(このことは女性の側からしても、自分が「交換品」となって他部族に行くことが進化論的に合理的だということだ)
フランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、アメリカ先住民をはじめとする世界各地の親族構造を渉猟し、「近親相姦の禁忌」と「女性の交換」の規則を持たない社会が存在しないことを発見した。
これが普遍的な親族構造になるのは、人間の本性からして、それ以外の社会をつくることができないからだ。 旧石器時代は貨幣が存在しないから、他部族との交易は物々交換の互酬によって行われた。こうした「交易品」の中で最も貴重なものは女だが、それ以外でも彼らは、食糧や貴金属など様々なものを贈与し合っていたはずだ。
ひととひとが殺し合うのは文明に汚染された人間だけで、原初の人類は平和に暮らしていたというのがルソーの「高貴な野蛮人」だが、これはいまではただの夢想だということが分かっている。
考古学者がデータを入手できる社会について調べたところ、南アフリカやニューギニアの先住民の男性は四割近くが戦争で死亡していた(「首狩り」で知られるエクアドルのビバロ族の男性は実に六割弱が戦争で死んでいた)。
それに対して二度の世界大戦を経験した20世紀のアメリカおよびヨーロッパでは、戦争で死んだ男性は全体の1%にも満たない。 ある人類学者は、狩猟採集社会の90%は戦争を経験し、64%は少なくとも2年に一度は戦争をしていると算出した。別の人類学者が37カ国の狩猟採集者の集団99を対象に行った調査では、その時点で戦争中だった集団が68、5年〜25年前に戦争を経験した集団が20で、残りも全てそれ以前に戦争をしていた。
なぜヒトのオスの集団は殺し合うのか。このことは(おそらく)集団の内部に交換可能な女が不足している場合は、他の集団から奪ってくる他はないという単純な事実から説明できる。それができなければ血統が途絶えてしまうのだから、狡猾な進化のプログラムがこの絶好の機会を見逃すはずはないのだ。
イギリスの動物行動学者ジェーン・グドールは、動物の世界に魅せられて二十代でアフリカに渡り、タンザニアで野生のチンパンジーの観察・研究を始めた。彼女はチンパンジーにも道具を使う能力がある(草の茎を使ってアリ塚から好物のアリを捕る)ことを発見するなど様々な成果を上げたが、世界に大きな衝撃をあたえたのはチンパンジーのカニバリズム(共食い)を報告したことだ。
チンパンジーの群れが他の群れを襲うと、彼らは若いメスを残し、オスばかりか幼い子供をも殺して食べてしまう。サルの肉は彼らにとって最高のごちそうで、メスや子供までが集まって「戦利品」である肉をむさぼり食う姿は人々を震撼させた。
チンパンジーがメスから赤ん坊を奪い取り、殺して食べてしまうのは、授乳中のメスには生理がないからだ。赤ん坊を殺すことで強制的に授乳を止めさせると、メスは再び妊娠可能になる。進化が子孫を残す行動文法を最適化させるとするならば、このカニバリズムは極めて合理的だ。
こうした生理はヒトも同じで、母乳を与えているあいだ、母親の生理は止まり、離乳食に切り替えると再会する。だとすれば、ホモ・サピエンスのオスにもチンパンジーと同じ「進化論的に合理的」なメカニズムが組み込まれていたとしても何の不思議もない。
フィジー人の食人行動は、チンパンジーの共食いとも極めて整合的だ。ヒトはカニバリズムを生得的に避けるようにはつくられておらず、一万年前ほど時代をさかのぼるならば、我々はみな食人種だった。
このグロテスクな仮説は、フィリピンやニューギニアなど太平洋戦争の激戦地で現実的なものとなった。極限状況に追い込まれると共食いを始めるのは「人間の本性」なのだ。
我々が遠い祖先から受け継いだプログラムは、世界を内側(俺たち)と外側(奴ら)に分け、仲間同士の結束を強め、奴らを殺して貴重な資源(女)を奪うためのものなのだ。
近親相姦の禁忌によって部族間で女を交換することと、「俺たち」と「奴ら」を分別して敵を殺して女を奪うことの他に、全ての人類社会に共通する本性として神(祖先)を祀ることがある。
進化心理学では、「神は何故いるのか」という深遠な問いを脳の配線で説明する。 「こころ」とはなんだろう。進化心理学では、こころを「シュミレーション装置」だと考える。社会的な動物にとって死活的に重要なのは、集団の中で自分の場所を確保することだ。 そのためには集団内の権力構造(誰がボスで誰が自分より格下なのか)や、相手の気分(怒っているのか、喜んでいるのか)や、行為に対する反応(エサを横取りしたらどうなるのか)を正確に知っている必要がある。
相手の行動を予想する最も有効な方法は、相手の立場になってみることだ。これは集団のなかで生き残るのに極めて有力な能力だから、「こころ」というシュミレーション装置を持つ個体はより多くの子孫を残し、世代が進むにつれてその性能は高速化・精緻化していったはずだ。
ところで、いったんこのシュミレーション装置が働き始めると、「相手の立場になってみる」対象は人間だけに限らなくなる。ヒトが好んで家畜を飼い始めたのは、ごく自然に家畜(犬や馬)を擬人化し、「友情」や「愛情」を感じたからだ。
こうした擬人化の対象は、原理的には制限がないから、たちまちのうちに、太陽や月、海や山などの「こころ」もシュミレーションするようになる。こうした自然の擬人化がアニミズム(精霊信仰)で、どんな社会にも見られるものだ。
こころというシュミレーション装置は、相手の中に何らかの”本質”を想定し、その本質を真似ることで駆動する。その結果、ひとはごく自然に「心身二元論」でものごとを考えるようになる。”私”というのは、物理的な身体とは別の本質、即ち魂のことなのだ。
我々はごく自然に、本質(魂)にはこの世界に物理的な影響を及ぼす力があると考える。 人類の祖先(ホモ・サピエンス)は死者を弔い、精霊に自然の望みを祈り、悪霊を恐れて生け贄を捧げたが、それは脳の基本プログラム(OS)から生じる必然的な行動だった。 アニミズムと祖先の霊が結びついたものが「祖先神」で、やがてはすべての血縁集団(部族)が「俺たち」と「奴ら」を分別するシンボルとして独自の神と神話を持つようになった。戦争とは「神の名」のもとに互いに殺し合うことなのだ。
近代の啓蒙主義を経た我々は、もはや古代や中世の「神霊世界」を実感することが出来ない。近代以前は人々は神や悪魔、魔物や怨霊を「信じていた」のではなく、超自然的な存在は人間や動物などとともに世界に実在していた。
共同幻想というのは、集団の全員が信じているものが実体化してしまう現象だ。 我々の社会でのその典型が貨幣で、それはただの紙切れにすぎないが、世界の全ての人がこの紙切れに価値があると信じているので、その価値が現実化している。
これと同様に、古代や中世では、神や悪魔は間違いなく現実のものだった。
進化論的にみれば、このような超越的存在がヒトの生存や繁殖可能性を高めた証拠はない。だとすれば「神」は脳の配線(こころのプログラム)から偶然生まれた”おまけ”にすぎず、それがやがて共同幻想となり、集団の絆を強めて人間を支配するようになったのだ。
狩猟採集の原始的な社会がヒトの生得的なプログラムに基づいて営まれていたとすると彼らのエートス(行動文法)がおおよそ見えてくる。
旧石器時代人は30〜50人規模の家族集団(氏族)で行動し、この氏族が連合して共通の祖先神をもつ100〜200人規模の部族が生まれた。この部族が、彼らにとっての「世界」の全てだ。
ちなみに、この50人や200人というのは、現在でも集団の基本単位になっている。学校の1クラスの人数、会社における部や課、AKB48などの上限が50人なのは、これが顔と名前が一致する(一人ひとりを「個人」として識別できる)限界だからだ。大企業が100人〜200人規模の事業部制を採用するのは、「俺たち」の一体感が保てる(集団にアイデンティファイできる)人数に上限があるからだろう。
部族の外は「敵」の世界で、”奴ら”は殺して女を奪う対象であると同時に、女を交換して同盟を結ぶ相手でもあった。食糧の確保を別にすれば、集団内での権力争いと、集団外での戦争と同盟の政治ゲームが男達の関心事の全てだった。
狩猟採集社会では、男性の権力は狩猟能力(共同体に分配した獲物の量)と戦闘能力(殺した敵の数)で決まった。これはいわば究極の能力主義で、より大きな獲物を狩り、より多くの敵を殺した者が「英雄」として共同体のリーダーとなった。
ただし、リーダーはあくまでも狩猟者の一人で、王侯貴族のような特権は認められていなかった。これは狩猟採集民が「文化的に遅れていた」からではなく、彼らの社会にそうした余剰人員を養うだけの生産能力がなかったからだ。
家族制度は一夫一婦制が基本だが、複数の女と子供達を養うだけの食糧を確保できるのなら一夫多妻制も認められた。ハーレムや大奥に見られるように、物理的な制約がなくなれば、ヒトの家族制度は容易に一夫多妻に移行する。一夫一婦制が広く観察されるのは、ほとんどの場合、生産性が低く複数の家族を維持するだけの余裕がなかったからだ。
男達が集団で狩りをし、女達は子供を育てながら果実や穀類を採集する生活は、男達の中に浮気の欲望(隙があれば他の男の妻を奪いたい)と、その反動としての妻への強い猜疑心(他の男とできているかもしれない)を生み出した。
”利己的な遺伝子”にとっては、自分が家を離れているあいだに妻が別の男と性交し、その子供を育てる羽目になることほど甚大な損害はないからだ。
女性にとっては、(父親が誰であれ)自分の腹から生まれたのが自分の子供であることは100%確実だ。一方男性にとっては、相手が処女である場合を除けば子供の父親が自分であることの確証はない。いまでも世界の各地に残る処女崇拝と女性に対する強い文化的な拘束(アラブ世界のヘジャブなど)は、こうした男女の非対称性から生じたと考えられている。
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女性は昔は交換の対象だった・・・女性パワー活用が必須と言われている現代日本では何言ってんだという話ですが、我々も覚えていない太古にはそういうことだったようです(あくまで学術的)。
いまだに男尊女卑の人がいるのは脳に組み込まれた太古の記憶と思えば腹もたたないのでしょうか。(そんなことはないか)
別テーマで続きます。
<<進化論的 男女論>>
富とは、貨幣だけではない。オスとメスに分化して以来、両性生殖の生物にとってもっとも重要な富は異性だった。。という前回の話の後段。
男尊女卑の発言と思うなかれ。あくまで学術的にいうと、という話だがウーマンリブの方はここで読むのをやめることをお勧めする。
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男と女では、生殖機能の違いによって愛情のかたちが異なっている。
男の場合には、精子の放出にほとんどコストがかからないから、より多くの子孫を残そうと思えばできるだけ多くの女性とセックスすればいい。すなわち乱交が進化の最適戦略だ。
それに対して女性は、受精から出産までに10ヶ月以上もかかり、無事に子供が生まれたとしてもさらに1年程度の授乳が必要になる。これは極めて大きなコストなので、セックスの相手を慎重に選び、子育て期間も含めて長期的な関係をつくるのが進化の最適戦略になる。
男性は、セックスをすればするほど子孫を残す可能性が大きくなるのだから、その欲望に限界はない。一方、女性は生涯に限られた数の子供しか産めないのだから、セックスを「貴重品」としてできるだけ有効に使おうとする。ロマンティックラブ(純愛)とは、女性の「長期志向」が男性の乱交の欲望を抑制することなのだ。
これまで人類は、文学や音楽、映画などで男と女の「愛の不毛」を繰り返し描いてきた。しかし進化心理学は、あなたが恋人と分かり合えない理由をたった一行で説明してしまう。 すなわち「異なる生殖戦略をもつ男女は、”利害”が一致しない」のだ。
男と女の「愛」の違いは、大規模な社会実験によって繰り返し証明されている。それは、世の中に同性愛者がいるからだ。
同性愛者は愛情(欲望)の対象が異性愛者とは異なっていて、同性同士でパートナーをつくる。そこでは恋人同士の間に生殖戦略の違いが存在しないから、お互いの利害が一致した”純愛”が可能になるはずだ。
よく知られているように、男性同性愛者(ゲイ)と女性同性愛者(レズビアン)での愛情やセックスのあり方は大きく異なっている。
ゲイはバーなどのハッテン場でパートナーを探し、サウナでの乱交を好む。
エイズが流行する前にサンフランシスコで行われた調査では、100人以上のセックスパートナーと関係したとこたえたゲイは全体の75%で、そのうちの4割近くが1000人以上と経験していた。彼らは特定の相手と長期の関係を維持せず、子供を育てることにもほとんど関心を持たない。
それに対してレズビアンのカップルはパートナーとの関係を大切にし、養子や人工授精で子供を得て家庭を営むことも多い。レズビアンの家庭は、両親が共に女性だということを除けば(異性愛者)の一般家庭と変わらず、子供達は普通に育っていく(母子家庭の子供よりも社会的に成功する可能性が高い)
ゲイの乱交とレズビアンの一婦(夫ではない)一婦制は、男性と女性の進化論的な戦略の違いが純化した結果なのだ。
ヒトのからだは、必ずしも健康に生きるように設計されているわけではない。老いや死は、生物が進化の戦略として両性生殖を採用したときから避け難い運命になった。
両性生殖の生き物は、健康で長生きすることではなく、できるだけ多くの子孫を残すように進化していく。そのために選択されたのが、成長のある時期に生殖能力を最大化する、という戦略だ。
ヘモクロマトーシスという病気は鉄分の過剰な吸収を引き起こし、中年期に死をもたらすが、その代償として、若い時には月経時の鉄分の欠乏を防ぐことができる。
ペプシノゲンⅠと呼ばれる遺伝子を持つ人は胃のホルモンが過剰に生産され、消化性胃潰瘍で死ぬことがおおい。だが、この人たちは、胃酸の濃度が高いことで若いときは感染症への抵抗力が高かったかもしれない。
また免疫系は、感染症から我々を守るためにさまざまな化学物質を放出するが、最近ではこの化学物質が我々自身を傷つけ、ガンを引き起こすのではないかと考えられている。すなわち、老化という現象は、思春期により多くの子供をつくるためにそれ以降の時期を犠牲にする進化の仕組みだったのだ。
進化論的には、我々の行動文法(エートス)はできるだけ多くの子孫を残すように最適化されている。これを男性中心主義的に言うならば、旧石器時代の男達にとって人生で最も重要なことは、(生きるために必要な食糧の確保を除けば)女の獲得だった。
旧石器時代の人類は、30〜50人規模の親族でグループ(家族集団)をつくり、移動を繰り返していたと考えられている。だとすれば、この時代の男達は、「集団の中の女を妻としてはならない」という制約を課されていたに違いない。これはもちろん近親相姦の禁忌があるからだ。 旧石器時代人が近親相姦を避けたのは、フロイトのいうエディプスコンプレックス(すべての男性は母親との性交を望んでいるが、その欲望は文化的に抑圧されている)からではない。
動物行動学が明らかにしたところによれば、チンパンジーやボノボ、ゴリラやオランウータンなどの類人猿にも近親相姦の習性はなく、さらには両性生殖の生物はほとんどが近親相姦を避ける仕組みを持っている。これは、近親相姦が遺伝性の病気につながるため、かなり早い段階で自然淘汰の対象になったからだ。
フロイトの同時代人の人類学者エドワード・ウェスターマークは、幼いときに一緒に過ごした男女は、血縁かどうかに関わらず、思春期になっても性的魅力を感じないと考えた。 ウェスターマークのこの仮説は、イスラエルのキブツで行われた「社会実験」で証明された。キブツでは血縁関係のない男女が、親元を離れて託児所で一緒に育てられる。だがその後彼らの人生を追跡すると、幼い頃から親しかった男女が結婚に至るケースは極めて稀なのだ。
ヒトには、両親であれ兄弟姉妹(あるいはおじ・おばやいとこ)であれ、幼少時に親しく接した異性との性交を生理的に嫌悪するメカニズムが組み込まれている。近親相姦のタブーというのは、」この生理的嫌悪感をルール化したものだ。
このように近親相姦が禁じられてしまうと、男が子孫を残すためには別の部族から女を手に入れる他はない。その方法は原理的にふたつしかなく、ひとつは力ずくで奪い取ること、もう一つは自分の部族の女(姉妹や娘)と交換することだ。
このうち手っ取り早いのは前者だが、そこには大きな欠陥があって、このやり方では自分の部族の女が配偶者を獲得できなくなってしまう。このことから、人類の誕生とほぼ同時に女の「交換」が始まったと考えられている。(このことは女性の側からしても、自分が「交換品」となって他部族に行くことが進化論的に合理的だということだ)
フランスの人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、アメリカ先住民をはじめとする世界各地の親族構造を渉猟し、「近親相姦の禁忌」と「女性の交換」の規則を持たない社会が存在しないことを発見した。
これが普遍的な親族構造になるのは、人間の本性からして、それ以外の社会をつくることができないからだ。 旧石器時代は貨幣が存在しないから、他部族との交易は物々交換の互酬によって行われた。こうした「交易品」の中で最も貴重なものは女だが、それ以外でも彼らは、食糧や貴金属など様々なものを贈与し合っていたはずだ。
ひととひとが殺し合うのは文明に汚染された人間だけで、原初の人類は平和に暮らしていたというのがルソーの「高貴な野蛮人」だが、これはいまではただの夢想だということが分かっている。
考古学者がデータを入手できる社会について調べたところ、南アフリカやニューギニアの先住民の男性は四割近くが戦争で死亡していた(「首狩り」で知られるエクアドルのビバロ族の男性は実に六割弱が戦争で死んでいた)。
それに対して二度の世界大戦を経験した20世紀のアメリカおよびヨーロッパでは、戦争で死んだ男性は全体の1%にも満たない。 ある人類学者は、狩猟採集社会の90%は戦争を経験し、64%は少なくとも2年に一度は戦争をしていると算出した。別の人類学者が37カ国の狩猟採集者の集団99を対象に行った調査では、その時点で戦争中だった集団が68、5年〜25年前に戦争を経験した集団が20で、残りも全てそれ以前に戦争をしていた。
なぜヒトのオスの集団は殺し合うのか。このことは(おそらく)集団の内部に交換可能な女が不足している場合は、他の集団から奪ってくる他はないという単純な事実から説明できる。それができなければ血統が途絶えてしまうのだから、狡猾な進化のプログラムがこの絶好の機会を見逃すはずはないのだ。
イギリスの動物行動学者ジェーン・グドールは、動物の世界に魅せられて二十代でアフリカに渡り、タンザニアで野生のチンパンジーの観察・研究を始めた。彼女はチンパンジーにも道具を使う能力がある(草の茎を使ってアリ塚から好物のアリを捕る)ことを発見するなど様々な成果を上げたが、世界に大きな衝撃をあたえたのはチンパンジーのカニバリズム(共食い)を報告したことだ。
チンパンジーの群れが他の群れを襲うと、彼らは若いメスを残し、オスばかりか幼い子供をも殺して食べてしまう。サルの肉は彼らにとって最高のごちそうで、メスや子供までが集まって「戦利品」である肉をむさぼり食う姿は人々を震撼させた。
チンパンジーがメスから赤ん坊を奪い取り、殺して食べてしまうのは、授乳中のメスには生理がないからだ。赤ん坊を殺すことで強制的に授乳を止めさせると、メスは再び妊娠可能になる。進化が子孫を残す行動文法を最適化させるとするならば、このカニバリズムは極めて合理的だ。
こうした生理はヒトも同じで、母乳を与えているあいだ、母親の生理は止まり、離乳食に切り替えると再会する。だとすれば、ホモ・サピエンスのオスにもチンパンジーと同じ「進化論的に合理的」なメカニズムが組み込まれていたとしても何の不思議もない。
フィジー人の食人行動は、チンパンジーの共食いとも極めて整合的だ。ヒトはカニバリズムを生得的に避けるようにはつくられておらず、一万年前ほど時代をさかのぼるならば、我々はみな食人種だった。
このグロテスクな仮説は、フィリピンやニューギニアなど太平洋戦争の激戦地で現実的なものとなった。極限状況に追い込まれると共食いを始めるのは「人間の本性」なのだ。
我々が遠い祖先から受け継いだプログラムは、世界を内側(俺たち)と外側(奴ら)に分け、仲間同士の結束を強め、奴らを殺して貴重な資源(女)を奪うためのものなのだ。
近親相姦の禁忌によって部族間で女を交換することと、「俺たち」と「奴ら」を分別して敵を殺して女を奪うことの他に、全ての人類社会に共通する本性として神(祖先)を祀ることがある。
進化心理学では、「神は何故いるのか」という深遠な問いを脳の配線で説明する。 「こころ」とはなんだろう。進化心理学では、こころを「シュミレーション装置」だと考える。社会的な動物にとって死活的に重要なのは、集団の中で自分の場所を確保することだ。 そのためには集団内の権力構造(誰がボスで誰が自分より格下なのか)や、相手の気分(怒っているのか、喜んでいるのか)や、行為に対する反応(エサを横取りしたらどうなるのか)を正確に知っている必要がある。
相手の行動を予想する最も有効な方法は、相手の立場になってみることだ。これは集団のなかで生き残るのに極めて有力な能力だから、「こころ」というシュミレーション装置を持つ個体はより多くの子孫を残し、世代が進むにつれてその性能は高速化・精緻化していったはずだ。
ところで、いったんこのシュミレーション装置が働き始めると、「相手の立場になってみる」対象は人間だけに限らなくなる。ヒトが好んで家畜を飼い始めたのは、ごく自然に家畜(犬や馬)を擬人化し、「友情」や「愛情」を感じたからだ。
こうした擬人化の対象は、原理的には制限がないから、たちまちのうちに、太陽や月、海や山などの「こころ」もシュミレーションするようになる。こうした自然の擬人化がアニミズム(精霊信仰)で、どんな社会にも見られるものだ。
こころというシュミレーション装置は、相手の中に何らかの”本質”を想定し、その本質を真似ることで駆動する。その結果、ひとはごく自然に「心身二元論」でものごとを考えるようになる。”私”というのは、物理的な身体とは別の本質、即ち魂のことなのだ。
我々はごく自然に、本質(魂)にはこの世界に物理的な影響を及ぼす力があると考える。 人類の祖先(ホモ・サピエンス)は死者を弔い、精霊に自然の望みを祈り、悪霊を恐れて生け贄を捧げたが、それは脳の基本プログラム(OS)から生じる必然的な行動だった。 アニミズムと祖先の霊が結びついたものが「祖先神」で、やがてはすべての血縁集団(部族)が「俺たち」と「奴ら」を分別するシンボルとして独自の神と神話を持つようになった。戦争とは「神の名」のもとに互いに殺し合うことなのだ。
近代の啓蒙主義を経た我々は、もはや古代や中世の「神霊世界」を実感することが出来ない。近代以前は人々は神や悪魔、魔物や怨霊を「信じていた」のではなく、超自然的な存在は人間や動物などとともに世界に実在していた。
共同幻想というのは、集団の全員が信じているものが実体化してしまう現象だ。 我々の社会でのその典型が貨幣で、それはただの紙切れにすぎないが、世界の全ての人がこの紙切れに価値があると信じているので、その価値が現実化している。
これと同様に、古代や中世では、神や悪魔は間違いなく現実のものだった。
進化論的にみれば、このような超越的存在がヒトの生存や繁殖可能性を高めた証拠はない。だとすれば「神」は脳の配線(こころのプログラム)から偶然生まれた”おまけ”にすぎず、それがやがて共同幻想となり、集団の絆を強めて人間を支配するようになったのだ。
狩猟採集の原始的な社会がヒトの生得的なプログラムに基づいて営まれていたとすると彼らのエートス(行動文法)がおおよそ見えてくる。
旧石器時代人は30〜50人規模の家族集団(氏族)で行動し、この氏族が連合して共通の祖先神をもつ100〜200人規模の部族が生まれた。この部族が、彼らにとっての「世界」の全てだ。
ちなみに、この50人や200人というのは、現在でも集団の基本単位になっている。学校の1クラスの人数、会社における部や課、AKB48などの上限が50人なのは、これが顔と名前が一致する(一人ひとりを「個人」として識別できる)限界だからだ。大企業が100人〜200人規模の事業部制を採用するのは、「俺たち」の一体感が保てる(集団にアイデンティファイできる)人数に上限があるからだろう。
部族の外は「敵」の世界で、”奴ら”は殺して女を奪う対象であると同時に、女を交換して同盟を結ぶ相手でもあった。食糧の確保を別にすれば、集団内での権力争いと、集団外での戦争と同盟の政治ゲームが男達の関心事の全てだった。
狩猟採集社会では、男性の権力は狩猟能力(共同体に分配した獲物の量)と戦闘能力(殺した敵の数)で決まった。これはいわば究極の能力主義で、より大きな獲物を狩り、より多くの敵を殺した者が「英雄」として共同体のリーダーとなった。
ただし、リーダーはあくまでも狩猟者の一人で、王侯貴族のような特権は認められていなかった。これは狩猟採集民が「文化的に遅れていた」からではなく、彼らの社会にそうした余剰人員を養うだけの生産能力がなかったからだ。
家族制度は一夫一婦制が基本だが、複数の女と子供達を養うだけの食糧を確保できるのなら一夫多妻制も認められた。ハーレムや大奥に見られるように、物理的な制約がなくなれば、ヒトの家族制度は容易に一夫多妻に移行する。一夫一婦制が広く観察されるのは、ほとんどの場合、生産性が低く複数の家族を維持するだけの余裕がなかったからだ。
男達が集団で狩りをし、女達は子供を育てながら果実や穀類を採集する生活は、男達の中に浮気の欲望(隙があれば他の男の妻を奪いたい)と、その反動としての妻への強い猜疑心(他の男とできているかもしれない)を生み出した。
”利己的な遺伝子”にとっては、自分が家を離れているあいだに妻が別の男と性交し、その子供を育てる羽目になることほど甚大な損害はないからだ。
女性にとっては、(父親が誰であれ)自分の腹から生まれたのが自分の子供であることは100%確実だ。一方男性にとっては、相手が処女である場合を除けば子供の父親が自分であることの確証はない。いまでも世界の各地に残る処女崇拝と女性に対する強い文化的な拘束(アラブ世界のヘジャブなど)は、こうした男女の非対称性から生じたと考えられている。
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女性は昔は交換の対象だった・・・女性パワー活用が必須と言われている現代日本では何言ってんだという話ですが、我々も覚えていない太古にはそういうことだったようです(あくまで学術的)。
いまだに男尊女卑の人がいるのは脳に組み込まれた太古の記憶と思えば腹もたたないのでしょうか。(そんなことはないか)
別テーマで続きます。
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