橘玲氏、第4弾投稿。
<<分業・比較優位と国家・グローバリズム>>
<分業・比較優位と自由貿易>
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貿易というのは、国と国との交易のことだ。交易とはモノとモノ(ないしは貨幣)を交換することで、交換とはすなわち分業のことだ。
アダム・スミスの大発見は、「ゆたかさの秘密は分業にある」ということを発見したことだ。
分業には負の側面もある。分業が進んで経済が高度化すればするほど人々は不安になり、社会が不安定化するのは避けられない。自分が一人では何も出来なくなることが豊かさの条件であればこれは当然で、安定と成長は両立しないのだ。
分業の高度化の度合いを「生産性」という。伝統的な社会は分業が進まず、高度に分業化された社会は生産性が高く、人的資本に大きなレバレッジをかけることで豊かさを実現した。このことから分かるように、世界から貧困をなくすには、社会の生産性を高める(もっと分業する)以外に有効な方法はない。
分業の本質を解明したのは経済学者のデヴィッド・リカードで、彼はそれを「比較優位の交換」と定義した。
一番(絶対優位)にならなくても、比較優位を交換することで、市場経済の中で誰もが立派に生きていけることを証明したのだ。
このようにして、経済学は人類にひとつの理想を提示する。それは商品やサービスだけでなく、全ての人がどこにでも自由に移住し、生活できるような社会だ。
”グローバル”な市場が完成してはじめて、分業の威力は最高度に発揮され、我々の人的資本は極限まで拡張されて、人類社会はゆたかさの頂点を極めるだろう。
グローバリズムとは、ユートピア思想だ。
自由貿易がユートピアの道ならば、それを否定する鎖国論は全て間違っている。論理的にはそうなるはずだが、いまの「自由貿易」は、ユートピア思想としての自由貿易とは似て非なるもの。そうなった理由は、近代世界が主権国家の集まりとしてできあがったことにある。
チンギス・ハーンが世界を征服した後に資本主義と自由経済が勃興すれば、人類は世界政府から近代史を始めることができたかもしれない。だが現実には、”主権”という神の権利を持つ国家が排他的に国土と国民を管理するという約束事で近代は成立した。そして私たちは、いまだにこの枠組み(パラダイム)から自由になることができない。
本来の自由貿易は、単一の世界政府が樹立され、国家が地方自治体となってお金やモノだけでなく、国境を越えて人も自由に移動できる世界ではじめて可能となる。この「効率的な市場」では、アジアや中南米、東欧やアフリカの貧しい人たちは仕事を求めて豊かな国々へ移動するから、絶対的な貧困や飢餓が特定の地域に集中することはない。
何故このようなグローバル市場が成立しないかというと、(日本を含む)豊かな国が門戸を閉じて移民を厳しく制限しているからだ。先進国が貧しい国の人たちを受け入れない理由は、治安維持とか国内労働市場の安定とか色々な名目が挙げられているが、最も恐れているのは福祉社会が破壊されてしまうことだ。
一定所得水準以下の国民に手厚い生活保護を支給している国があるとすれば、無制限の移民や市民権取得を認められるはずがない。そんなことをすれば、たちまち世界中の貧困層が殺到して財政は破綻してしまうだろう。当然、既得権を持つ国民はネオナチのような極右政党を結成して移民排斥を政府に要求するようになる。これが、福祉に冷淡なアメリカに極右政党がなく、「福祉国家」の見本となったヨーロッパ各国が極右の台頭に悩まされる理由だ。福祉国家とは、差別国家の別の名前なのだ。
貧しい国に独裁国家が多いのは、豊かな国々の政府や国民が、貧しい人たちが国境を越えて流入して来ないよう、人の流れを強引に堰き止める強圧的な権力を必要としているからだ。こうした国々への経済援助の大半は賄賂として権力者の懐に納まるが、これを刑務所の看守への報酬と考えれば、先進国の資金はもともと「囚人」に分配されるはずなどなかった。
人の移動を厳しく制限した中での国際貿易は、第三世界(かつては「後進国」と呼ばれた)の収奪として現れた。「自由貿易は先進国に一方的に有利な差別的システム」との批判はその意味では正しかった。
自由貿易がうまく機能しないのは、それが国家という枠組みをはめられた、”歪んだグローバリズム”だからだ。しかしこのことは、似非自由貿易をやめて保護主義に戻ればいいという話しにはつながらない。
人類の歴史はこれまで、国家のない「完全な自由市場」を実現したことはない。産業革命以来、資本主義と市場経済がとほうもない豊かさをもたらしたのは、片翼だけの自由貿易でも十分に機能したからだ。(そもそもリカードの比較優位の理論は国家を前提としていた)
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「比較優位の交換」は国単位だけではなく、人単位でも当然当てはまる。
これが社会的生物である人間が、一見劣ったかのように見える多様な人材を包括しながら進化していく論理的根拠なのかもしれない。
また「安定と成長は両立しない」という喝破もスゴい。
人々が一人で何もできなくなるということは、怖くて冒険をしなくなるということ。そして冒険をしなくなるということは、イノベーションが生まれにくくなっているということだ。
「一人で何も出来なくなる」ということは「誰かこの人となら出来そうだ」という予感がとても重要になるということだ。
上田信行教授の言っていた「憧れの最近接領域」(「この人となら一緒にやっていけそうだ」という予感が重要)の考え方はやはり世界を進化させるイノベーションにとって非常に重要だったということだ。
<グローバルスタンダードの台頭→近代国家の成立>
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グローバル空間には、言語や宗教や肌の色が異なる(もちろん利害も異なる)人間達が従わなければならない最低限のルールが生まれた。これが”グローバルスタンダード”だ。
グローバル空間になぜスタンダード(基準)が必要かと言うと、それなしにはお互いが殺し合うしかないからだ。
地中海東岸(メソポタミア)というグローバル空間で、人類の歴史を変える二つの”イノベーション”が起った。
一つは古代ギリシアの論理(ロゴス)、もう一つが紀元前後にパレスチナで誕生したキリスト教だ。
アテナイ(アテネ)の民主制では、政治家が公衆の面前で議論をたたかわせ、投票による多数決で政治的な決断が下された。この弁論(論理)と多数決による決定は、古代ギリシア以外ではいかなる古代文明も生み出さなかった極めて特殊な「政治」のやり方だ。
先にも述べたように、農耕社会を支配する原理は「全員一致」で、土地に縛り付けられた退出不可能な社会では、これ以外の政治的決定の方法はあり得ない。
古代ギリシアの民主制とは、加入も退出も自由なオープンな社会が、共同体の構成員に自らの意思で国家と神への忠誠を誓わせ、「富国強兵」を目指す政治=軍事制度だった。これは地中海という特殊な地域のみに生まれた社会の仕組みで、退出可能性のない農耕社会でデモクラシーや弁論術が育たなかったのは当然なのだ。
「バビロン捕囚」などユダヤ民族の歴史は確かに苦難に満ちているが、それは古代オリエント世界ではありふれたものだったはずだ。ユダヤ人以外にも数多くの少数民族がこの地に暮らしていて、彼らの運命も同じように悲劇的なものだった。それが伝わっていないのは、ほとんどの民族が大国に制服されて皆殺しにされるか、多数派の民族に同化して消滅してしまったからだ。
そうした中で唯一ユダヤ民族だけが、自らの神を守り、その歴史を文字に刻んだ。それは彼らが”絶対神”を発明したからだ。
古代の神は祖先の霊魂がアミニズムと一体化したもので、それぞれの民族ごとに固有の神と神話をもっていた(神と神話を共有する集団が民族だった)。異なる神を奉じる民族は相争い、神々は決して交わることはなかった。
だがこのような”神々の闘争”では、ユダヤ人のようなマイノリティー(少数民族)の神は、エジプトやバビロニア、ペルシアなど大国の神に対抗することができない。そこでユダヤ人が考えたのが(ユダヤ民族の前に現れたのが)、全てのローカルな神を超越する絶対神だ。
絶対神がユダヤ民族を選んだ以上、”選民”である彼らが他の民族や宗教に「同化」するはずがない。これが流浪の少数民族であるユダヤ人が自らの神と文化を守った理由だ。
ところで、ユダヤ教の神は、絶対神でありながらユダヤ民族だけの神でもある。それはユダヤ民族のみが神と契約を交わしたからなのだが、これでは実態としてはローカルな神のままだ。
この矛盾を解決し、神の権威に合わせて教義を書き換えたのがイエス・キリストだった。このイノベーションによって、「(民族を超えた)万人のための神」というグローバル宗教が初めて誕生した。
キリスト教は、数々の弾圧に耐えてやがてローマ帝国の国教となる。これは、ローマが多民族国家であったことを考えれば、歴史の必然であった。
今日に至るまで、真の意味でのグローバル宗教は、キリスト教と、ムハンマドが新たに預言を得て聖書を再解釈したイスラム教の二つしかない。仏教は「法治」によって、儒教は「人治」によって身分や民族の壁を越えようとしたが、そこでは「神」が世界を支配しているわけではない(いずれもローカルな神と一体化して各地で”宗教化”した)
地中海という特別な場所(グローバル空間)が、紀元前後の数世紀の間に二つのイノベーションを生み出して、人類の歴史に初めて「論理」と「絶対神」という”グローバルスタンダード”をもたらした。
それから凡そ1600年後、絶対王政末期のヨーロッパで、ギリシア文明(ヘレニズム)とキリスト教(ヘブライズム)を母体に、さらに巨大なイノベーションが起った。これが近代の成立だ。
近代を思想的な側面から見れば、それは絶対神の場所に理性(論理)を置いたものだと言える(理神論)。だが理神論は、神の否定(無神論)というわけではない。
近代物理学の祖アイザック・ニュートンが敬虔なキリスト教徒で、錬金術を熱心に研究していたことはよく知られている。彼にとって古典力学の諸法則は、キリストの教えに矛盾するものではなく、神の偉大さを示すものであった。
”神の法則”は、当然、人間社会にも貫徹しているはずだと考えられた。こうして”発見”されたのが、フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの「平等」と、イギリスの哲学者ジョン・ロックの「私的所有権」すなわち「自由」だ。
私的所有権がなぜ「自由」につながるのか。近代以前は、所有権は曖昧な概念で、立場の弱い人間は家畜などの資産を取り上げられたり、土地からの立ち退きを強要されても文句は言えなかった。しかしロックのいう近代的な私的所有権は”神の掟”なので、国王ですら人民の一片の土地をも私物化することは許されない。これによって初めて、自分の所有物を好きに使ったり、他人に貸したり、処分したりできる「自由」が確立したのだ。
神からの絶対の権力(主権)を付与された絶対君主に対抗するために、貴族やブルジョアが古代ギリシアの古い政治制度から持ち出したのが議会によるデモクラシーだ。
イギリスではまず、国王と貴族院(上院)が課税を巡って対立した。植民地との交易でジェントリーと呼ばれるブルジョア階級が台頭すると、政治権力は貴族達の上院からブルジョア達の下院に移り、ついには王権は単なる儀礼とされて立憲君主制へと移行した。
フランス革命はさらに過激で、国王をギロチンにかけたうえで、自由と平等を体現する市民が主権者となり、社会契約によって(自らの総意で)政治的な共同体をつくる「国民国家」を生み出した。
「自由」と「平等」を神の掟とする国民国家はそれ自体が一つの宗教であり、その熱烈なエヴァンジェリスト(福音を伝えるもの)が将軍ナポレオンだった。彼は血気盛んなフランスの壮年男子を徴兵し、国民軍(常備軍)を編成すると、「自由・平等・友愛」の三色旗を掲げ、”神”の福音を広めるために絶対王政の国々を攻め滅ぼしていった。
傭兵を主体とする中世のままの国王軍は、ナポレオンの近代的な軍隊の前になす術もなく敗れ去り、ヨーロッパの国々は雪崩をうって国民国家へと変わっていく。国民国家こそが最強の軍事国家であり、それ以外に自分たちの”くに”を守る方途がなかったからだ。
このようにして、アメリカ独立戦争とフランス革命からわずか数十年で、ヨーロッパの主要国は国民国家に再編成された。それと同時に”合理性”の追求が近代的な官僚機構を生み出し、資本の集積と分業が進んで生産性が大幅に上昇し、科学技術の進歩と産業革命へとつながっていく。技術が富を生み、その富が新たな技術を求める循環が起きたことで、ヨーロッパ人はついに動燃機関という”巨大テクノロジー”を手にすることになった。これによって「西洋」の優位は圧倒的となり、彼らは地球の残りの地域を分割占領するために植民地化を進めていく。
大航海時代のグローバリゼーションが資本主義を生み、ヨーロッパの一角に富が集積して近代というイノベーションの引き金を引いた。西欧列強の帝国主義は更なるグローバリゼーションを起こし、近代の思想や文化、政治制度が大波のように世界の隅々にまで広がっていく。 ”グローバルスタンダード”は近代の枠組み(パラダイム)のことで、それは西欧のローカルなルールではない。イギリスやフランスのような植民地国家は自由と平等の名の下に世界を植民地化し、植民地の人々は自由と平等の名の下に独立を求めた。世界の人々が自らの意思で近代の理念を受け入れたのは、それが民族や宗教、文化を超越する普遍的な価値を実体化したものだったからだ。
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グローバルスタンダードとは「近代のパラダイム」であり、西欧思想やアメリカの押しつけなどではない、ということだ。
近代前期に興った国民国家(=政治空間)が、グローバルスタンダードに(=貨幣空間)によって浸食されるというのは、物理法則でいうところのエントロピー増大の法則に似ている。
さしずめ「グローバルスタンダード増大の法則」とでも言ったところか。
では増大するグローバルスタンダードの正体とは何か。
さてさて、まだ続く。
<<分業・比較優位と国家・グローバリズム>>
<分業・比較優位と自由貿易>
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貿易というのは、国と国との交易のことだ。交易とはモノとモノ(ないしは貨幣)を交換することで、交換とはすなわち分業のことだ。
アダム・スミスの大発見は、「ゆたかさの秘密は分業にある」ということを発見したことだ。
分業には負の側面もある。分業が進んで経済が高度化すればするほど人々は不安になり、社会が不安定化するのは避けられない。自分が一人では何も出来なくなることが豊かさの条件であればこれは当然で、安定と成長は両立しないのだ。
分業の高度化の度合いを「生産性」という。伝統的な社会は分業が進まず、高度に分業化された社会は生産性が高く、人的資本に大きなレバレッジをかけることで豊かさを実現した。このことから分かるように、世界から貧困をなくすには、社会の生産性を高める(もっと分業する)以外に有効な方法はない。
分業の本質を解明したのは経済学者のデヴィッド・リカードで、彼はそれを「比較優位の交換」と定義した。
一番(絶対優位)にならなくても、比較優位を交換することで、市場経済の中で誰もが立派に生きていけることを証明したのだ。
このようにして、経済学は人類にひとつの理想を提示する。それは商品やサービスだけでなく、全ての人がどこにでも自由に移住し、生活できるような社会だ。
”グローバル”な市場が完成してはじめて、分業の威力は最高度に発揮され、我々の人的資本は極限まで拡張されて、人類社会はゆたかさの頂点を極めるだろう。
グローバリズムとは、ユートピア思想だ。
自由貿易がユートピアの道ならば、それを否定する鎖国論は全て間違っている。論理的にはそうなるはずだが、いまの「自由貿易」は、ユートピア思想としての自由貿易とは似て非なるもの。そうなった理由は、近代世界が主権国家の集まりとしてできあがったことにある。
チンギス・ハーンが世界を征服した後に資本主義と自由経済が勃興すれば、人類は世界政府から近代史を始めることができたかもしれない。だが現実には、”主権”という神の権利を持つ国家が排他的に国土と国民を管理するという約束事で近代は成立した。そして私たちは、いまだにこの枠組み(パラダイム)から自由になることができない。
本来の自由貿易は、単一の世界政府が樹立され、国家が地方自治体となってお金やモノだけでなく、国境を越えて人も自由に移動できる世界ではじめて可能となる。この「効率的な市場」では、アジアや中南米、東欧やアフリカの貧しい人たちは仕事を求めて豊かな国々へ移動するから、絶対的な貧困や飢餓が特定の地域に集中することはない。
何故このようなグローバル市場が成立しないかというと、(日本を含む)豊かな国が門戸を閉じて移民を厳しく制限しているからだ。先進国が貧しい国の人たちを受け入れない理由は、治安維持とか国内労働市場の安定とか色々な名目が挙げられているが、最も恐れているのは福祉社会が破壊されてしまうことだ。
一定所得水準以下の国民に手厚い生活保護を支給している国があるとすれば、無制限の移民や市民権取得を認められるはずがない。そんなことをすれば、たちまち世界中の貧困層が殺到して財政は破綻してしまうだろう。当然、既得権を持つ国民はネオナチのような極右政党を結成して移民排斥を政府に要求するようになる。これが、福祉に冷淡なアメリカに極右政党がなく、「福祉国家」の見本となったヨーロッパ各国が極右の台頭に悩まされる理由だ。福祉国家とは、差別国家の別の名前なのだ。
貧しい国に独裁国家が多いのは、豊かな国々の政府や国民が、貧しい人たちが国境を越えて流入して来ないよう、人の流れを強引に堰き止める強圧的な権力を必要としているからだ。こうした国々への経済援助の大半は賄賂として権力者の懐に納まるが、これを刑務所の看守への報酬と考えれば、先進国の資金はもともと「囚人」に分配されるはずなどなかった。
人の移動を厳しく制限した中での国際貿易は、第三世界(かつては「後進国」と呼ばれた)の収奪として現れた。「自由貿易は先進国に一方的に有利な差別的システム」との批判はその意味では正しかった。
自由貿易がうまく機能しないのは、それが国家という枠組みをはめられた、”歪んだグローバリズム”だからだ。しかしこのことは、似非自由貿易をやめて保護主義に戻ればいいという話しにはつながらない。
人類の歴史はこれまで、国家のない「完全な自由市場」を実現したことはない。産業革命以来、資本主義と市場経済がとほうもない豊かさをもたらしたのは、片翼だけの自由貿易でも十分に機能したからだ。(そもそもリカードの比較優位の理論は国家を前提としていた)
>>>>>
「比較優位の交換」は国単位だけではなく、人単位でも当然当てはまる。
これが社会的生物である人間が、一見劣ったかのように見える多様な人材を包括しながら進化していく論理的根拠なのかもしれない。
また「安定と成長は両立しない」という喝破もスゴい。
人々が一人で何もできなくなるということは、怖くて冒険をしなくなるということ。そして冒険をしなくなるということは、イノベーションが生まれにくくなっているということだ。
「一人で何も出来なくなる」ということは「誰かこの人となら出来そうだ」という予感がとても重要になるということだ。
上田信行教授の言っていた「憧れの最近接領域」(「この人となら一緒にやっていけそうだ」という予感が重要)の考え方はやはり世界を進化させるイノベーションにとって非常に重要だったということだ。
<グローバルスタンダードの台頭→近代国家の成立>
>>>>>
グローバル空間には、言語や宗教や肌の色が異なる(もちろん利害も異なる)人間達が従わなければならない最低限のルールが生まれた。これが”グローバルスタンダード”だ。
グローバル空間になぜスタンダード(基準)が必要かと言うと、それなしにはお互いが殺し合うしかないからだ。
地中海東岸(メソポタミア)というグローバル空間で、人類の歴史を変える二つの”イノベーション”が起った。
一つは古代ギリシアの論理(ロゴス)、もう一つが紀元前後にパレスチナで誕生したキリスト教だ。
アテナイ(アテネ)の民主制では、政治家が公衆の面前で議論をたたかわせ、投票による多数決で政治的な決断が下された。この弁論(論理)と多数決による決定は、古代ギリシア以外ではいかなる古代文明も生み出さなかった極めて特殊な「政治」のやり方だ。
先にも述べたように、農耕社会を支配する原理は「全員一致」で、土地に縛り付けられた退出不可能な社会では、これ以外の政治的決定の方法はあり得ない。
古代ギリシアの民主制とは、加入も退出も自由なオープンな社会が、共同体の構成員に自らの意思で国家と神への忠誠を誓わせ、「富国強兵」を目指す政治=軍事制度だった。これは地中海という特殊な地域のみに生まれた社会の仕組みで、退出可能性のない農耕社会でデモクラシーや弁論術が育たなかったのは当然なのだ。
「バビロン捕囚」などユダヤ民族の歴史は確かに苦難に満ちているが、それは古代オリエント世界ではありふれたものだったはずだ。ユダヤ人以外にも数多くの少数民族がこの地に暮らしていて、彼らの運命も同じように悲劇的なものだった。それが伝わっていないのは、ほとんどの民族が大国に制服されて皆殺しにされるか、多数派の民族に同化して消滅してしまったからだ。
そうした中で唯一ユダヤ民族だけが、自らの神を守り、その歴史を文字に刻んだ。それは彼らが”絶対神”を発明したからだ。
古代の神は祖先の霊魂がアミニズムと一体化したもので、それぞれの民族ごとに固有の神と神話をもっていた(神と神話を共有する集団が民族だった)。異なる神を奉じる民族は相争い、神々は決して交わることはなかった。
だがこのような”神々の闘争”では、ユダヤ人のようなマイノリティー(少数民族)の神は、エジプトやバビロニア、ペルシアなど大国の神に対抗することができない。そこでユダヤ人が考えたのが(ユダヤ民族の前に現れたのが)、全てのローカルな神を超越する絶対神だ。
絶対神がユダヤ民族を選んだ以上、”選民”である彼らが他の民族や宗教に「同化」するはずがない。これが流浪の少数民族であるユダヤ人が自らの神と文化を守った理由だ。
ところで、ユダヤ教の神は、絶対神でありながらユダヤ民族だけの神でもある。それはユダヤ民族のみが神と契約を交わしたからなのだが、これでは実態としてはローカルな神のままだ。
この矛盾を解決し、神の権威に合わせて教義を書き換えたのがイエス・キリストだった。このイノベーションによって、「(民族を超えた)万人のための神」というグローバル宗教が初めて誕生した。
キリスト教は、数々の弾圧に耐えてやがてローマ帝国の国教となる。これは、ローマが多民族国家であったことを考えれば、歴史の必然であった。
今日に至るまで、真の意味でのグローバル宗教は、キリスト教と、ムハンマドが新たに預言を得て聖書を再解釈したイスラム教の二つしかない。仏教は「法治」によって、儒教は「人治」によって身分や民族の壁を越えようとしたが、そこでは「神」が世界を支配しているわけではない(いずれもローカルな神と一体化して各地で”宗教化”した)
地中海という特別な場所(グローバル空間)が、紀元前後の数世紀の間に二つのイノベーションを生み出して、人類の歴史に初めて「論理」と「絶対神」という”グローバルスタンダード”をもたらした。
それから凡そ1600年後、絶対王政末期のヨーロッパで、ギリシア文明(ヘレニズム)とキリスト教(ヘブライズム)を母体に、さらに巨大なイノベーションが起った。これが近代の成立だ。
近代を思想的な側面から見れば、それは絶対神の場所に理性(論理)を置いたものだと言える(理神論)。だが理神論は、神の否定(無神論)というわけではない。
近代物理学の祖アイザック・ニュートンが敬虔なキリスト教徒で、錬金術を熱心に研究していたことはよく知られている。彼にとって古典力学の諸法則は、キリストの教えに矛盾するものではなく、神の偉大さを示すものであった。
”神の法則”は、当然、人間社会にも貫徹しているはずだと考えられた。こうして”発見”されたのが、フランスの思想家ジャン=ジャック・ルソーの「平等」と、イギリスの哲学者ジョン・ロックの「私的所有権」すなわち「自由」だ。
私的所有権がなぜ「自由」につながるのか。近代以前は、所有権は曖昧な概念で、立場の弱い人間は家畜などの資産を取り上げられたり、土地からの立ち退きを強要されても文句は言えなかった。しかしロックのいう近代的な私的所有権は”神の掟”なので、国王ですら人民の一片の土地をも私物化することは許されない。これによって初めて、自分の所有物を好きに使ったり、他人に貸したり、処分したりできる「自由」が確立したのだ。
神からの絶対の権力(主権)を付与された絶対君主に対抗するために、貴族やブルジョアが古代ギリシアの古い政治制度から持ち出したのが議会によるデモクラシーだ。
イギリスではまず、国王と貴族院(上院)が課税を巡って対立した。植民地との交易でジェントリーと呼ばれるブルジョア階級が台頭すると、政治権力は貴族達の上院からブルジョア達の下院に移り、ついには王権は単なる儀礼とされて立憲君主制へと移行した。
フランス革命はさらに過激で、国王をギロチンにかけたうえで、自由と平等を体現する市民が主権者となり、社会契約によって(自らの総意で)政治的な共同体をつくる「国民国家」を生み出した。
「自由」と「平等」を神の掟とする国民国家はそれ自体が一つの宗教であり、その熱烈なエヴァンジェリスト(福音を伝えるもの)が将軍ナポレオンだった。彼は血気盛んなフランスの壮年男子を徴兵し、国民軍(常備軍)を編成すると、「自由・平等・友愛」の三色旗を掲げ、”神”の福音を広めるために絶対王政の国々を攻め滅ぼしていった。
傭兵を主体とする中世のままの国王軍は、ナポレオンの近代的な軍隊の前になす術もなく敗れ去り、ヨーロッパの国々は雪崩をうって国民国家へと変わっていく。国民国家こそが最強の軍事国家であり、それ以外に自分たちの”くに”を守る方途がなかったからだ。
このようにして、アメリカ独立戦争とフランス革命からわずか数十年で、ヨーロッパの主要国は国民国家に再編成された。それと同時に”合理性”の追求が近代的な官僚機構を生み出し、資本の集積と分業が進んで生産性が大幅に上昇し、科学技術の進歩と産業革命へとつながっていく。技術が富を生み、その富が新たな技術を求める循環が起きたことで、ヨーロッパ人はついに動燃機関という”巨大テクノロジー”を手にすることになった。これによって「西洋」の優位は圧倒的となり、彼らは地球の残りの地域を分割占領するために植民地化を進めていく。
大航海時代のグローバリゼーションが資本主義を生み、ヨーロッパの一角に富が集積して近代というイノベーションの引き金を引いた。西欧列強の帝国主義は更なるグローバリゼーションを起こし、近代の思想や文化、政治制度が大波のように世界の隅々にまで広がっていく。 ”グローバルスタンダード”は近代の枠組み(パラダイム)のことで、それは西欧のローカルなルールではない。イギリスやフランスのような植民地国家は自由と平等の名の下に世界を植民地化し、植民地の人々は自由と平等の名の下に独立を求めた。世界の人々が自らの意思で近代の理念を受け入れたのは、それが民族や宗教、文化を超越する普遍的な価値を実体化したものだったからだ。
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グローバルスタンダードとは「近代のパラダイム」であり、西欧思想やアメリカの押しつけなどではない、ということだ。
近代前期に興った国民国家(=政治空間)が、グローバルスタンダードに(=貨幣空間)によって浸食されるというのは、物理法則でいうところのエントロピー増大の法則に似ている。
さしずめ「グローバルスタンダード増大の法則」とでも言ったところか。
では増大するグローバルスタンダードの正体とは何か。
さてさて、まだ続く。
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