橘玲氏、投稿第5弾。
マイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』を読んでも今ひとつ整理の出来なかった4つの政治哲学が、「チンパンジーの正義」という生物学的な流れから整理される。正直今まで分からなかったことが分かるという知的興奮を感じざるを得なかった。
この部分だけでもこの本を読む価値あり、という位の素晴らしさだ。
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<チンパンジーの正義>
①社会的な動物であるチンパンジーは階級(ヒエラルキー)をつくり、群れはアルファオス(第一位のオス)によって統率されている。ところが群れの中の最も弱いサルに果物などのエサを与えると、上位のサルがよってきて掌を上に差し出す。これは相手からエサを分けてもらうための物乞いのポーズだ。
②真ん中をガラス窓で仕切った部屋に二頭のチンパンジーを入れ、両者にキュウリを与えると喜んで食べる。ところがそのうちの一頭のエサをバナナに替えると、これまで美味しそうにキュウリを食べていたもう一頭は、いきなり手にしていたキュウリを投げつけて怒りだす。
③初対面の二頭のチンパンジーを四角いテーブルに座らせ、どちらも手が届くところにリンゴを置くと互いに奪い合う。ところが同じことを何度も繰り返すうちに、どちらか一方がリンゴに手を出さなくなる。身体の大きさなど様々な特徴から二頭の間で自然に序列が生まれ、一度階層が決まると、下位のチンパンジーは上位者にエサを譲るようになる。
①はチンパンジーに「所有権(自由)」の観念があることを示している。階級の上下に関わらず、エサは最初に手にしたものの「所有物」で、例え最上位のチンパンジーであっても、最下位のチンパンジーからエサを分けてもらうためには相手の好意にすがるしかない。 チンパンジーがお互いの「所有権」を尊重するのは、それが「なわばり感覚」に基づいているからだ。チンパンジーに限らず全ての社会的な動物は、群れ(社会)から排除されてしまうと子孫を残すことができない(それ以前に生き延びることができない)。所有権(なわばり)の尊重は群れの調和を維持するための絶対的な約束事として、あらかじめ遺伝子のプログラムに書き込まれているのだ。
②はチンパンジーに「公平(平等)」の観念があることを示している。 このことも、人々が何故人種差別に対して生命を賭してまで抗議するのかを教えてくれる。「平等」もまた、遺伝子に組み込まれたプログラムなのだ。
③は、それにもかかわらずチンパンジーの間に自然に「階級」が生まれることを示している。オスの場合にとりわけ顕著だが、上下関係が明確に決まることで群れの秩序が形成される(メスの階級はオスほどはっきりしないが、それでも「アルファメス」と呼ばれる最上位のメスが群れを統率する)。
このようにして序列化された群れがチンパンジーの「共同体」だ。
フランス革命は近代の理想を「自由」「平等」「友愛(フラタニティ)」の三色旗に表した。友愛というのは、生命を賭けて戦うもの同士の絆のことだから、これは「共同体」のことだ。
動物行動学の知見は、近代を形づくる三つの原理(自由、平等、共同体)を人間と同様にチンパンジーも持っていることを発見したのだ。
「伝統的な正義」と「近代的な正義」は異なる。
伝統的な正義とは、時代劇の勧善懲悪のことだ。この善悪二元論の物語が人類社会に普遍的なのは、それが進化論的に基礎づけられているからだ。そして困ったことに、この感情は極めて強力なのだ、論理以前の無意識(前意識)の段階で人々の行動を決定してしまう。
伝統的な正義のもうひとつの特徴は、状況依存的(相対的)だということだ。人類史の大半において正義は常に複数あり、その中で”俺たち”がもっとも有利になるものが状況に応じて”真の正義”とされてきた。
伝統的な正義は”俺たち”の正義だから、本質的にローカルなものだ。 他者が他者とであるグローバル社会で誰もが伝統的な正義を主張すれば、殺し合いになるしかない。近代というグローバル世界の成立には、新しい正義の概念が必要だった。
近代的な正義の特徴は「原理主義」にある。正義は状況に依存せず、いついかなる場合でも相手が誰であっても、不変でなければならない。こうした正義の普遍性は、利害の異なる多種多様な人々が自発的に従うルールを定める上で不可欠のものだった。
原理主義的な正義は、契約(法)の絶対性を要求する。一度相手と契約すれば、王様が替わったり政権が転覆したからと言って、内容が変更されたり約束が反故になったりすることはない。
政治哲学の四つの正義 マイケル・サンデルは『これからの「正義」の話をしよう』の中で、「正義」には四つの異なる立場があると述べている。それが、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズム(共同体主義)、功利主義だ。
リベラリズムとリバタリアニズムは「自由Liberty」を原理とする思想で、人は生まれながらに等しく「人権」を持ち、自らの意思で「自由」な人生を生きるべきだとする。
だが両者は、「平等」の考え方で激しく対立する。
リバタリアニズムは「自由原理主義」で、人種や性別、民族や宗教によって人を差別してはならないが、競争の機会が平等ならば結果が不平等になっても「正義」には反しないと考える。リバタリアンが断固として拒否するのは、富の再分配を理由に、国家が権力を使って市民の私的所有権を侵すことだ。これは政治的には「小さな政府」を支持する立場になる。
それに対してリベラリズムは、私的所有権を重要な価値と認めるものの、それと同時に、富者と貧者の極端な格差を正当化することはできず、不平等を是正するための国家が税を徴収し、生活保護などの社会保障として貧者に分配することを正義と考える。
現代にリベラリズムを蘇らせた政治哲学者のジョン・ロールズは、社会は「もっとも不遇な立場にある人の利益を最大にする」ように設計されるべきだと主張した。これは「大きな政府」による市場への介入を容認する立場だ。
リバタリアンとリベラリストは不倶戴天の敵のように憎み合っているが、両者とも自立した自由な個人による市民社会を前提としている。
それに対してコミュニタリアニズムは、人は共同体の中でしか生きていけないのだから、正義の源泉は近代的な「個人(人権)」にあるのではなく、共同体の歴史と伝統の中にしかないと主張する。これは政治的には保守主義で、リベラリズムやリバタリアニズムの依拠する「近代」を否定しているようにも見える。
先に述べたように、リバタリアニズム、リベラリズム、コミュニタリアニズムの三つの「正義」は人間だけでなくチンパンジーも共有している。これらの正義は(チンパンジーと同様に)元々我々の遺伝子にプレインストールされていたもので、近代の啓蒙思想はこの漠然とした正義感覚を「自由」「平等」「共同体」の原理として抽出して、それに絶対的な価値を与えたのだ。
近代的な価値観が瞬く間に世界を席巻していったのは、科学的で合理的だったからではなく、人々の正義感覚にぴったりとフィットしたからだ。我々はイデオロギー以前に感情によって支配されており、正義感覚に合わないものを「正義」とは認めない。
サンデルが挙げる四つの「正義」のうち、功利主義だけはこの定義に当てはまらない。
功利主義は、18世紀の哲学者ジェレミー・ベンサムが唱えた「最大多数の最大幸福」のことで、理性によって社会全体の効用(幸福)を最大化することが道徳的に最も正しいとする。これは貨幣経済(資本主義)の発達によって初めて生まれた思想で、生物の進化とは何の関係もない。だから我々は、功利主義が正しいと理屈では納得しても、そこから正義感覚を得ることができない。これが洋の東西を問わず、功利主義が激しく嫌われる理由だ(最近ではこの立場は、「新自由主義(ネオリベ)」と呼ばれている)
日本では長らく、政治的には「保守」と「革新」が対立していると考えられてきた。保守派(右派)は「親米」「自由主義経済」「伝統」を旗印にし、革新(左派)は「反米」「社会主義経済」「進歩」を掲げた。だが冷戦の終焉によって、米ソ両超大国から派生する価値観の対立は無意味になった。
政治哲学を「自由」「平等」「共同体」「功利主義」で分類すると、ポスト冷戦の政治状況をクリアに説明することができる。
リベラリズムの中でも最も功利主義から遠い「リベラル左派」は、日本で言えば共産党や社民党のような立場で、大企業や富裕層への課税によって社会福祉を拡充し、平等な社会を目指す。
コミュニタリアニズムの中でも最も功利主義から遠い「コミュニタリアン右派」は伝統を重視し市場原理を嫌う超保守主義で、功利主義を「堕落」と断じ(@石原慎太郎)、武士道などの日本人の美徳を説く。
極右と極左は不倶戴天の敵のような関係だと思われているが、市場原理を否定することで両者の思想は通底している。
リバタリアニズムと功利主義は、市場に対する国家の過度な規制に反対し、自由な市場と効率的な資本主義が公正で豊かな社会をつくると主張する。原理的なリバタリアンに至っては、国家を廃絶するアナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)を理想として掲げる。
こうした「極論」に対して、政治的な主流派はリバタリアン右派(コミュニタリアン左派)と、リバタリアン左派(リベラル右派)の「中道」に位置している。
中道右派は、伝統を重視しつつも自由な経済活動を尊重する立場で、アメリカでは「小さな政府」を目指す共和党(穏健派)に該当する。中道左派は、社会保障の充実や経済格差の改善を求めつつも、個人の自由を最大限に認めようとするアメリカ民主党の立場で、政治的には「大きな政府」を容認する。
オールド保守、オールドリベラルに対し、1970年代から「新保守主義(ネオコンサバティブ/ネオコン)」や「新自由主義(ネオリベラル/ネオリベ)」と呼ばれる一大勢力が台頭した。これについては後述。
もちろんこれは便宜的な分類だから、現実の政治はもっと複雑だ。 リーマンショック後の金融機関の救済にあたっては、「金融市場を守るべきだ」という功利主義(ワシントンの官僚や経済学者)に対して、リバタリアンは「資本主義のルールに則って破綻させろ」と反発した。 リベラルとリバタリアンはほとんど意見が一致しないが、中絶問題では女性(母親)の権利を守るという立場から共闘し、キリスト教原理主義者(コミュニタリアン右派)と激しく対立する(ただしティーパーティ系のリバタリアンは中絶に反対している)
アメリカでは、政治家や政党は「正義」の原理に基づいて行動すべきだとされているから、各自の政治的主張が明快になる。
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いかがだろうか。
著者自身も「割り切り過ぎ」としているが、その位に割り切って整理をすることで分かりづらい各政治政党の立ち位置が非常に明確に見えてくる。
これをまとめるにあたり、サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』を読み返してみたのだが、サンデル教授はアリストテレスの「正義は美徳や善良な生活と深い関係にあるとする理論(美徳の奨励)」を推している。これは4つの正義のうちコミュニタリアニズムに該当するということだ(と思われる)。
コミュニタリアニズムは「正義や美徳」を定義する必要があるのだが、それについてグローバルな考え方がどうなっているのか。
論は進んでいく。
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グローバル空間では、グローバルスタンダードは権力として機能する。
グローバル空間では、ローカルルールはグローバルスタンダードに対抗できない。
ほとんどの日本人は誤解しているが、アメリカ企業の能力主義は、利益を最大化するための仕組みではない。それは「能力以外で労働者を差別してはならない」というグローバル空間のルールのことだ。
アメリカでは、人種や宗教、性別や年齢で社員を差別することが許されない。だからアメリカには定年がないし、履歴書には生年月日を書く欄も、写真を貼る場所もない。(写真を見れば性別や人種が一目瞭然だからだ)。もちろんだからといって全ての差別が無くなった訳ではないが(イスラム系と分かる名前は採用率が有意に低い)、ひとたび司法の場で差別と認定されると企業は巨額の賠償金を支払わなければならない。
だが、あらゆる差別を禁じたとしても、採用や昇進の際に企業は何らかの仕方で労働者を選別しなければならない。そのために唯一残ったのが「能力」による評価だ。
友愛(フラタニティ)は、もとは中世のイングランドで流行した民間の宗教団体(結社)のことだ。都市の成立と人口の流動化によって、キリスト教の中に、教区とは別に自然発生的に信者達の互助会が生まれた。彼らは貧しいメンバーを経済的に援助するほか、商売仲間が結びついてギルド(職業別組合)と一体化することもあった。 フランス革命では、このフラタニティは宗教性を失い、同じ目的をもつ者同士の「連帯」の意味に変わる。「友愛」とは、自由と平等のためにたたかう「仲間」のことなのだ。(また、フリーメイソンは特定の宗教に与しない理神論=自由思想の結社で、フランス革命のリーダー達の多くがそのメンバーだった。)
ここでいう「仲間」は、血縁や地縁でがんじがらめにされたムラ社会的な共同体のことではない。近代的な友愛とは、一人ひとり自立した個人が共通の目的のために集まり、ちからを合わせて理想の実現を目指すことだ。
サンデルのようなコミュニタリアンのいう「共同体」は伝統的な共同体なのか、近代的共同体なのか。
サンデルは、家族への愛情、仲間との連帯、共同体への忠誠を「善」とし、それを個人を超越する義務と見做す。人は皆「物語る存在」で、我々は抽象的で空疎な「近代的自我」などではなく、歴史や共同体という「大きな物語」の一部として、人生という物語を演じているのだと美しく語る。
コミュニタリアンの立場をこうした「近代的自我の否定」と見るならば、彼らが依拠しているのは伝統的共同体ということになる。 だがそうするとグローバル空間においては、「どのような伝統にも平等に価値があるのか」というやっかいな問題が避けられなくなる。
これにイエスとこたえるのが、文化多元主義(マルチカルチャリズム)の立場だ。彼らは現代に残る狩猟採集社会の伝統と、西欧諸国の文化は等価であるべきと主張した。ところが、(それなりに説得力のある)この思想は(少なくともアメリカにおいて)2001年9月11日を最後に絶滅してしまった。「イスラム原理主義のテロリストも文化として尊重するのか」という問いにこたえることが出来なかったからだ。
アメリカ人であるサンデルは、コミュニタリアンとして”古き良きアメリカ”の文化や伝統を尊重せよと語る。だとしたら、日本のコミュニタリアンは天皇制を、中国のコミュニタリアンは儒教を、イスラムのコミュニタリアンはコーランの教えをもとに正義を語ることになるのだろうか。
だが、こうした文化相対主義をサンデルは否定し、共同体の伝統には、尊重されるべきものと、否定すべきものがあると述べる。 9・11以後は、誰もが「伝統社会」の負の側面から目をそらすことができなくなった。
しかし、白人中心主義や偏狭なナショナリズムを正義の原理として認めない。人種差別が正義に反することもまた明らかだ。
サンデルのいう”よき伝統”とは、アメリカ建国の理念のことだ。トマス・ジェファーソンらの建国の父達は、ルソーやロックの啓蒙思想を根拠に独立宣言や合衆国憲法を起草し、”神から与えられた地”で自由で民主的な「理想社会」を築こうとした。だとすれば、アメリカの政治哲学でいう”コミュニティ”とは、リベラルデモクラシーに基礎をおく近代的共同体でしかあり得ない。
リベラルデモクラシーというときのリベラルはLibertyのことで、政治的なリベラルとは異なる。リバタリアンはLibertyの原理主義者だから、やはりリベラルデモクラシーを熱烈に支援している。 フランス革命にまで歴史を遡れば、リベラルとは商業的な自由を求めるブルジョアの価値観で、デモクラシーは貧困からの脱出(経済的な平等)を要求する民衆(その大半は小作農)の主張だった。その意味では、市場原理の貫徹を求める「リベラル」はリバタリアンのことで、経済格差の解消を目指す現在のリベラル派は「デモクラット」ということになる。
アメリカは移民によってつくられた人口国家で、前近代の歴史を持たず、建国の理念がそのまま伝統となっている。アメリカの保守派(伝統主義者)というのは近代主義者(モダニスト)のことで、彼らがヘレニズム(ギリシア思想)とヘブライズム(キリスト教)を自らの”伝統”とするのは、それが近代の源流だからだ。
サンデルは、アメリカ以外の国々の”伝統”も平等に尊重するが、それはあくまでもリベラルデモクラシーに抵触しない範囲でのことだ。
日本の天皇制がイギリスやオランダの王室と同じ立憲君主制であれば、天皇を敬う日本の伝統は共同体の大切な価値だ。しかし、それが戦前のような天皇を現人神とするものならば、その”伝統”はカルトとして全否定される。同様に儒教やヒンドゥー教、イスラム教の伝統も、リベラルデモクラシーの中でのみ存続が許される。中国の共産党独裁体制(毛沢東王朝)やイランの神権(イスラム原理主義)政治、ヒンドゥー社会のカースト制度など、前近代の”遺物”はすべからく廃棄されるべきなのだ。
この意味で、政治哲学としてのコミュニタリアニズムは「共同体の伝統を尊重する思想」ではない。それはリベラリズムやリバタリアニズムと同じ「近代思想」で、ただ社会を「個人」の集合としてみるか、「共同体」を中心に置くかの視点が異なるだけなのだ。
アメリカの政治哲学は、お互いに激しく対立しながらも、リベラルデモクラシーを共通の基盤としている。なぜならこれが、グローバル社会における唯一の正義の基準だからだ。
アメリカ人が傲慢に感じられる理由は、彼らが自分たちのスタンダードに宗教的な確信を持っているからだ。そのスタンダードとは、アメリカ建国の理念であるリベラルデモクラシーのことだ。
リベラルデモクラシーというのは、次の三つの前提からつくられる社会制度のことだ。
①全ての人は生まれながらにして平等に人権をもっている
②全ての人は法律に従う限り、自己責任を条件として、自由に生きる権利(自己決定権)を保障されている。
③国家権力が国民を管理するのではなく、市民(主権者)が憲法によって国家権力を統制する。
経済力や軍事力が衰える中で、アメリカ最大の”武器”はグローバル化だ。 そのことで多くの人がアメリカの「陰謀」や「戦略」を批判するが、アメリカがグローバル化を生み出しているわけではない。
「少しでも豊かになりたい」という一人ひとりの経済行為の集積が、グローバルな貨幣空間を自己増殖させていく。それと同時に「正義」や「公正」を求める人々の抵抗によって、リベラルデモクラシーが拡張していく。アメリカに「世界戦略」があるとすれば、それはグローバル化という不可逆的な運動を最大限利用することだ。
グローバル化というのは、人々の欲望や正義感情によって、グローバル資本主義とリベラルデモクラシーが世界を覆っていく永久運動のことだ。
個人にとっても国家にとっても、そこがグローバル空間であるならば、ローカルな正義をいくら主張しても勝ち目はない。自らの利益を守ろうとするのなら、リベラルデモクラシーの土俵で相手と対等に議論しなければならない。それが、グローバル空間化した世界の絶対のルールなのだ。
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文化多元主義(マルチカルチャリズム)はベースとしてOKなんだけれど、例外もあって、リベラルデモクラシーに反するものはダメなんだよ、という整理(言い方)もできそうだ。
となるとサンデル教授のいう「共同体」は必ずしも近代的共同体ではなく、伝統的共同体という整理もできたりするのではないか。
こういう形で政治哲学を整理してもらえると、自分がどの考え方に近いか、というのも整理できてくる。(ようやくかい!、という感もあるが)
リベラルデモクラシーという拡散不可逆の社会制度が世界を覆うのがグローバルスタンダードの正体か。
エントロピー増大の法則になぞらえて、「リベラルデモクラシー増大の法則」と呼んじゃうぞ。
さてさて続く。
マイケル・サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』を読んでも今ひとつ整理の出来なかった4つの政治哲学が、「チンパンジーの正義」という生物学的な流れから整理される。正直今まで分からなかったことが分かるという知的興奮を感じざるを得なかった。
この部分だけでもこの本を読む価値あり、という位の素晴らしさだ。
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<チンパンジーの正義>
①社会的な動物であるチンパンジーは階級(ヒエラルキー)をつくり、群れはアルファオス(第一位のオス)によって統率されている。ところが群れの中の最も弱いサルに果物などのエサを与えると、上位のサルがよってきて掌を上に差し出す。これは相手からエサを分けてもらうための物乞いのポーズだ。
②真ん中をガラス窓で仕切った部屋に二頭のチンパンジーを入れ、両者にキュウリを与えると喜んで食べる。ところがそのうちの一頭のエサをバナナに替えると、これまで美味しそうにキュウリを食べていたもう一頭は、いきなり手にしていたキュウリを投げつけて怒りだす。
③初対面の二頭のチンパンジーを四角いテーブルに座らせ、どちらも手が届くところにリンゴを置くと互いに奪い合う。ところが同じことを何度も繰り返すうちに、どちらか一方がリンゴに手を出さなくなる。身体の大きさなど様々な特徴から二頭の間で自然に序列が生まれ、一度階層が決まると、下位のチンパンジーは上位者にエサを譲るようになる。
①はチンパンジーに「所有権(自由)」の観念があることを示している。階級の上下に関わらず、エサは最初に手にしたものの「所有物」で、例え最上位のチンパンジーであっても、最下位のチンパンジーからエサを分けてもらうためには相手の好意にすがるしかない。 チンパンジーがお互いの「所有権」を尊重するのは、それが「なわばり感覚」に基づいているからだ。チンパンジーに限らず全ての社会的な動物は、群れ(社会)から排除されてしまうと子孫を残すことができない(それ以前に生き延びることができない)。所有権(なわばり)の尊重は群れの調和を維持するための絶対的な約束事として、あらかじめ遺伝子のプログラムに書き込まれているのだ。
②はチンパンジーに「公平(平等)」の観念があることを示している。 このことも、人々が何故人種差別に対して生命を賭してまで抗議するのかを教えてくれる。「平等」もまた、遺伝子に組み込まれたプログラムなのだ。
③は、それにもかかわらずチンパンジーの間に自然に「階級」が生まれることを示している。オスの場合にとりわけ顕著だが、上下関係が明確に決まることで群れの秩序が形成される(メスの階級はオスほどはっきりしないが、それでも「アルファメス」と呼ばれる最上位のメスが群れを統率する)。
このようにして序列化された群れがチンパンジーの「共同体」だ。
フランス革命は近代の理想を「自由」「平等」「友愛(フラタニティ)」の三色旗に表した。友愛というのは、生命を賭けて戦うもの同士の絆のことだから、これは「共同体」のことだ。
動物行動学の知見は、近代を形づくる三つの原理(自由、平等、共同体)を人間と同様にチンパンジーも持っていることを発見したのだ。
「伝統的な正義」と「近代的な正義」は異なる。
伝統的な正義とは、時代劇の勧善懲悪のことだ。この善悪二元論の物語が人類社会に普遍的なのは、それが進化論的に基礎づけられているからだ。そして困ったことに、この感情は極めて強力なのだ、論理以前の無意識(前意識)の段階で人々の行動を決定してしまう。
伝統的な正義のもうひとつの特徴は、状況依存的(相対的)だということだ。人類史の大半において正義は常に複数あり、その中で”俺たち”がもっとも有利になるものが状況に応じて”真の正義”とされてきた。
伝統的な正義は”俺たち”の正義だから、本質的にローカルなものだ。 他者が他者とであるグローバル社会で誰もが伝統的な正義を主張すれば、殺し合いになるしかない。近代というグローバル世界の成立には、新しい正義の概念が必要だった。
近代的な正義の特徴は「原理主義」にある。正義は状況に依存せず、いついかなる場合でも相手が誰であっても、不変でなければならない。こうした正義の普遍性は、利害の異なる多種多様な人々が自発的に従うルールを定める上で不可欠のものだった。
原理主義的な正義は、契約(法)の絶対性を要求する。一度相手と契約すれば、王様が替わったり政権が転覆したからと言って、内容が変更されたり約束が反故になったりすることはない。
政治哲学の四つの正義 マイケル・サンデルは『これからの「正義」の話をしよう』の中で、「正義」には四つの異なる立場があると述べている。それが、リベラリズム、リバタリアニズム、コミュニタリアニズム(共同体主義)、功利主義だ。
リベラリズムとリバタリアニズムは「自由Liberty」を原理とする思想で、人は生まれながらに等しく「人権」を持ち、自らの意思で「自由」な人生を生きるべきだとする。
だが両者は、「平等」の考え方で激しく対立する。
リバタリアニズムは「自由原理主義」で、人種や性別、民族や宗教によって人を差別してはならないが、競争の機会が平等ならば結果が不平等になっても「正義」には反しないと考える。リバタリアンが断固として拒否するのは、富の再分配を理由に、国家が権力を使って市民の私的所有権を侵すことだ。これは政治的には「小さな政府」を支持する立場になる。
それに対してリベラリズムは、私的所有権を重要な価値と認めるものの、それと同時に、富者と貧者の極端な格差を正当化することはできず、不平等を是正するための国家が税を徴収し、生活保護などの社会保障として貧者に分配することを正義と考える。
現代にリベラリズムを蘇らせた政治哲学者のジョン・ロールズは、社会は「もっとも不遇な立場にある人の利益を最大にする」ように設計されるべきだと主張した。これは「大きな政府」による市場への介入を容認する立場だ。
リバタリアンとリベラリストは不倶戴天の敵のように憎み合っているが、両者とも自立した自由な個人による市民社会を前提としている。
それに対してコミュニタリアニズムは、人は共同体の中でしか生きていけないのだから、正義の源泉は近代的な「個人(人権)」にあるのではなく、共同体の歴史と伝統の中にしかないと主張する。これは政治的には保守主義で、リベラリズムやリバタリアニズムの依拠する「近代」を否定しているようにも見える。
先に述べたように、リバタリアニズム、リベラリズム、コミュニタリアニズムの三つの「正義」は人間だけでなくチンパンジーも共有している。これらの正義は(チンパンジーと同様に)元々我々の遺伝子にプレインストールされていたもので、近代の啓蒙思想はこの漠然とした正義感覚を「自由」「平等」「共同体」の原理として抽出して、それに絶対的な価値を与えたのだ。
近代的な価値観が瞬く間に世界を席巻していったのは、科学的で合理的だったからではなく、人々の正義感覚にぴったりとフィットしたからだ。我々はイデオロギー以前に感情によって支配されており、正義感覚に合わないものを「正義」とは認めない。
サンデルが挙げる四つの「正義」のうち、功利主義だけはこの定義に当てはまらない。
功利主義は、18世紀の哲学者ジェレミー・ベンサムが唱えた「最大多数の最大幸福」のことで、理性によって社会全体の効用(幸福)を最大化することが道徳的に最も正しいとする。これは貨幣経済(資本主義)の発達によって初めて生まれた思想で、生物の進化とは何の関係もない。だから我々は、功利主義が正しいと理屈では納得しても、そこから正義感覚を得ることができない。これが洋の東西を問わず、功利主義が激しく嫌われる理由だ(最近ではこの立場は、「新自由主義(ネオリベ)」と呼ばれている)
日本では長らく、政治的には「保守」と「革新」が対立していると考えられてきた。保守派(右派)は「親米」「自由主義経済」「伝統」を旗印にし、革新(左派)は「反米」「社会主義経済」「進歩」を掲げた。だが冷戦の終焉によって、米ソ両超大国から派生する価値観の対立は無意味になった。
政治哲学を「自由」「平等」「共同体」「功利主義」で分類すると、ポスト冷戦の政治状況をクリアに説明することができる。
リベラリズムの中でも最も功利主義から遠い「リベラル左派」は、日本で言えば共産党や社民党のような立場で、大企業や富裕層への課税によって社会福祉を拡充し、平等な社会を目指す。
コミュニタリアニズムの中でも最も功利主義から遠い「コミュニタリアン右派」は伝統を重視し市場原理を嫌う超保守主義で、功利主義を「堕落」と断じ(@石原慎太郎)、武士道などの日本人の美徳を説く。
極右と極左は不倶戴天の敵のような関係だと思われているが、市場原理を否定することで両者の思想は通底している。
リバタリアニズムと功利主義は、市場に対する国家の過度な規制に反対し、自由な市場と効率的な資本主義が公正で豊かな社会をつくると主張する。原理的なリバタリアンに至っては、国家を廃絶するアナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)を理想として掲げる。
こうした「極論」に対して、政治的な主流派はリバタリアン右派(コミュニタリアン左派)と、リバタリアン左派(リベラル右派)の「中道」に位置している。
中道右派は、伝統を重視しつつも自由な経済活動を尊重する立場で、アメリカでは「小さな政府」を目指す共和党(穏健派)に該当する。中道左派は、社会保障の充実や経済格差の改善を求めつつも、個人の自由を最大限に認めようとするアメリカ民主党の立場で、政治的には「大きな政府」を容認する。
オールド保守、オールドリベラルに対し、1970年代から「新保守主義(ネオコンサバティブ/ネオコン)」や「新自由主義(ネオリベラル/ネオリベ)」と呼ばれる一大勢力が台頭した。これについては後述。
もちろんこれは便宜的な分類だから、現実の政治はもっと複雑だ。 リーマンショック後の金融機関の救済にあたっては、「金融市場を守るべきだ」という功利主義(ワシントンの官僚や経済学者)に対して、リバタリアンは「資本主義のルールに則って破綻させろ」と反発した。 リベラルとリバタリアンはほとんど意見が一致しないが、中絶問題では女性(母親)の権利を守るという立場から共闘し、キリスト教原理主義者(コミュニタリアン右派)と激しく対立する(ただしティーパーティ系のリバタリアンは中絶に反対している)
アメリカでは、政治家や政党は「正義」の原理に基づいて行動すべきだとされているから、各自の政治的主張が明快になる。
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いかがだろうか。
著者自身も「割り切り過ぎ」としているが、その位に割り切って整理をすることで分かりづらい各政治政党の立ち位置が非常に明確に見えてくる。
これをまとめるにあたり、サンデル教授の『これからの「正義」の話をしよう』を読み返してみたのだが、サンデル教授はアリストテレスの「正義は美徳や善良な生活と深い関係にあるとする理論(美徳の奨励)」を推している。これは4つの正義のうちコミュニタリアニズムに該当するということだ(と思われる)。
コミュニタリアニズムは「正義や美徳」を定義する必要があるのだが、それについてグローバルな考え方がどうなっているのか。
論は進んでいく。
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グローバル空間では、グローバルスタンダードは権力として機能する。
グローバル空間では、ローカルルールはグローバルスタンダードに対抗できない。
ほとんどの日本人は誤解しているが、アメリカ企業の能力主義は、利益を最大化するための仕組みではない。それは「能力以外で労働者を差別してはならない」というグローバル空間のルールのことだ。
アメリカでは、人種や宗教、性別や年齢で社員を差別することが許されない。だからアメリカには定年がないし、履歴書には生年月日を書く欄も、写真を貼る場所もない。(写真を見れば性別や人種が一目瞭然だからだ)。もちろんだからといって全ての差別が無くなった訳ではないが(イスラム系と分かる名前は採用率が有意に低い)、ひとたび司法の場で差別と認定されると企業は巨額の賠償金を支払わなければならない。
だが、あらゆる差別を禁じたとしても、採用や昇進の際に企業は何らかの仕方で労働者を選別しなければならない。そのために唯一残ったのが「能力」による評価だ。
友愛(フラタニティ)は、もとは中世のイングランドで流行した民間の宗教団体(結社)のことだ。都市の成立と人口の流動化によって、キリスト教の中に、教区とは別に自然発生的に信者達の互助会が生まれた。彼らは貧しいメンバーを経済的に援助するほか、商売仲間が結びついてギルド(職業別組合)と一体化することもあった。 フランス革命では、このフラタニティは宗教性を失い、同じ目的をもつ者同士の「連帯」の意味に変わる。「友愛」とは、自由と平等のためにたたかう「仲間」のことなのだ。(また、フリーメイソンは特定の宗教に与しない理神論=自由思想の結社で、フランス革命のリーダー達の多くがそのメンバーだった。)
ここでいう「仲間」は、血縁や地縁でがんじがらめにされたムラ社会的な共同体のことではない。近代的な友愛とは、一人ひとり自立した個人が共通の目的のために集まり、ちからを合わせて理想の実現を目指すことだ。
サンデルのようなコミュニタリアンのいう「共同体」は伝統的な共同体なのか、近代的共同体なのか。
サンデルは、家族への愛情、仲間との連帯、共同体への忠誠を「善」とし、それを個人を超越する義務と見做す。人は皆「物語る存在」で、我々は抽象的で空疎な「近代的自我」などではなく、歴史や共同体という「大きな物語」の一部として、人生という物語を演じているのだと美しく語る。
コミュニタリアンの立場をこうした「近代的自我の否定」と見るならば、彼らが依拠しているのは伝統的共同体ということになる。 だがそうするとグローバル空間においては、「どのような伝統にも平等に価値があるのか」というやっかいな問題が避けられなくなる。
これにイエスとこたえるのが、文化多元主義(マルチカルチャリズム)の立場だ。彼らは現代に残る狩猟採集社会の伝統と、西欧諸国の文化は等価であるべきと主張した。ところが、(それなりに説得力のある)この思想は(少なくともアメリカにおいて)2001年9月11日を最後に絶滅してしまった。「イスラム原理主義のテロリストも文化として尊重するのか」という問いにこたえることが出来なかったからだ。
アメリカ人であるサンデルは、コミュニタリアンとして”古き良きアメリカ”の文化や伝統を尊重せよと語る。だとしたら、日本のコミュニタリアンは天皇制を、中国のコミュニタリアンは儒教を、イスラムのコミュニタリアンはコーランの教えをもとに正義を語ることになるのだろうか。
だが、こうした文化相対主義をサンデルは否定し、共同体の伝統には、尊重されるべきものと、否定すべきものがあると述べる。 9・11以後は、誰もが「伝統社会」の負の側面から目をそらすことができなくなった。
しかし、白人中心主義や偏狭なナショナリズムを正義の原理として認めない。人種差別が正義に反することもまた明らかだ。
サンデルのいう”よき伝統”とは、アメリカ建国の理念のことだ。トマス・ジェファーソンらの建国の父達は、ルソーやロックの啓蒙思想を根拠に独立宣言や合衆国憲法を起草し、”神から与えられた地”で自由で民主的な「理想社会」を築こうとした。だとすれば、アメリカの政治哲学でいう”コミュニティ”とは、リベラルデモクラシーに基礎をおく近代的共同体でしかあり得ない。
リベラルデモクラシーというときのリベラルはLibertyのことで、政治的なリベラルとは異なる。リバタリアンはLibertyの原理主義者だから、やはりリベラルデモクラシーを熱烈に支援している。 フランス革命にまで歴史を遡れば、リベラルとは商業的な自由を求めるブルジョアの価値観で、デモクラシーは貧困からの脱出(経済的な平等)を要求する民衆(その大半は小作農)の主張だった。その意味では、市場原理の貫徹を求める「リベラル」はリバタリアンのことで、経済格差の解消を目指す現在のリベラル派は「デモクラット」ということになる。
アメリカは移民によってつくられた人口国家で、前近代の歴史を持たず、建国の理念がそのまま伝統となっている。アメリカの保守派(伝統主義者)というのは近代主義者(モダニスト)のことで、彼らがヘレニズム(ギリシア思想)とヘブライズム(キリスト教)を自らの”伝統”とするのは、それが近代の源流だからだ。
サンデルは、アメリカ以外の国々の”伝統”も平等に尊重するが、それはあくまでもリベラルデモクラシーに抵触しない範囲でのことだ。
日本の天皇制がイギリスやオランダの王室と同じ立憲君主制であれば、天皇を敬う日本の伝統は共同体の大切な価値だ。しかし、それが戦前のような天皇を現人神とするものならば、その”伝統”はカルトとして全否定される。同様に儒教やヒンドゥー教、イスラム教の伝統も、リベラルデモクラシーの中でのみ存続が許される。中国の共産党独裁体制(毛沢東王朝)やイランの神権(イスラム原理主義)政治、ヒンドゥー社会のカースト制度など、前近代の”遺物”はすべからく廃棄されるべきなのだ。
この意味で、政治哲学としてのコミュニタリアニズムは「共同体の伝統を尊重する思想」ではない。それはリベラリズムやリバタリアニズムと同じ「近代思想」で、ただ社会を「個人」の集合としてみるか、「共同体」を中心に置くかの視点が異なるだけなのだ。
アメリカの政治哲学は、お互いに激しく対立しながらも、リベラルデモクラシーを共通の基盤としている。なぜならこれが、グローバル社会における唯一の正義の基準だからだ。
アメリカ人が傲慢に感じられる理由は、彼らが自分たちのスタンダードに宗教的な確信を持っているからだ。そのスタンダードとは、アメリカ建国の理念であるリベラルデモクラシーのことだ。
リベラルデモクラシーというのは、次の三つの前提からつくられる社会制度のことだ。
①全ての人は生まれながらにして平等に人権をもっている
②全ての人は法律に従う限り、自己責任を条件として、自由に生きる権利(自己決定権)を保障されている。
③国家権力が国民を管理するのではなく、市民(主権者)が憲法によって国家権力を統制する。
経済力や軍事力が衰える中で、アメリカ最大の”武器”はグローバル化だ。 そのことで多くの人がアメリカの「陰謀」や「戦略」を批判するが、アメリカがグローバル化を生み出しているわけではない。
「少しでも豊かになりたい」という一人ひとりの経済行為の集積が、グローバルな貨幣空間を自己増殖させていく。それと同時に「正義」や「公正」を求める人々の抵抗によって、リベラルデモクラシーが拡張していく。アメリカに「世界戦略」があるとすれば、それはグローバル化という不可逆的な運動を最大限利用することだ。
グローバル化というのは、人々の欲望や正義感情によって、グローバル資本主義とリベラルデモクラシーが世界を覆っていく永久運動のことだ。
個人にとっても国家にとっても、そこがグローバル空間であるならば、ローカルな正義をいくら主張しても勝ち目はない。自らの利益を守ろうとするのなら、リベラルデモクラシーの土俵で相手と対等に議論しなければならない。それが、グローバル空間化した世界の絶対のルールなのだ。
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文化多元主義(マルチカルチャリズム)はベースとしてOKなんだけれど、例外もあって、リベラルデモクラシーに反するものはダメなんだよ、という整理(言い方)もできそうだ。
となるとサンデル教授のいう「共同体」は必ずしも近代的共同体ではなく、伝統的共同体という整理もできたりするのではないか。
こういう形で政治哲学を整理してもらえると、自分がどの考え方に近いか、というのも整理できてくる。(ようやくかい!、という感もあるが)
リベラルデモクラシーという拡散不可逆の社会制度が世界を覆うのがグローバルスタンダードの正体か。
エントロピー増大の法則になぞらえて、「リベラルデモクラシー増大の法則」と呼んじゃうぞ。
さてさて続く。
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