2010年1月24日日曜日

『日本辺境論』

日本は古来”中華”に対する辺境文化の民族であり、それこそが日本のナショナル・アイデンティティである。
しかし、それが実は拓かれた学びの構えにつながっている。。というタイトル通りの日本辺境論。

学びの構えに関するところでは、筆者の内田樹氏が「下流志向」でも書いていた学びのパラドクス「私はなぜ、何を、どのように学ぶのかを今ここでは言うことができない。そして、それを言うことができないという事実こそ、私が学ばなければならない当の理由なのである」ということ、師と弟子の関係論が再度述べられている。
さらに、張良と黄石公の逸話を引いて、「”何を”学ぶかということには二次的な重要性しかない。重要なのは”学び方”を学ぶことだからだ」としているのはメタラーニングの発想に近く共感を覚える。

養老孟司氏のマンガ論についても日本人の特性として紹介されていて面白い。
日本では表意文字(ideogram)である『漢字』と表音文字(phono-gram)である『かな』が併用される。
実はこれは世界的には非常に珍しく、併用されていた韓国やベトナムでは漢字は使用されなくなってしまっている。
最近の脳科学によると、漢字とかなは日本人の脳内の違う部位で処理されていることが分かってきている。
さて、”マンガ”においての話。
『漢字』を担当している脳内部位はマンガにおける「絵」の部分を処理し、『かな』を担当している部位はマンガの「ふきだし」を処理するという分業が果たされている。
”マンガ”を読むためには、「絵」を表意記号として処理し、「ふきだし」を表音記号として処理する並列処理ができなければならないわけだが、日本語話者にはそれが難なくできる。
並列処理の回路がすでに存在しているからである。
だから、日本人は自動的にマンガのヘビー・リーダーになれるという論。
自分がマンガ大好きということを別にしても、非常に納得感のある面白い理論である。

内田樹氏は謙遜してか「これは著者の独自の論ではなく、いろいろな人の過去の意見を再構成したもの。理論にも飛躍があるのは認識しているので批判は無しで。」とうるさい位に述べている。
外山滋比古氏の「”編集”とは立派なクリエイティブ作業である」という論を引くまでもなく、立派な内田流の著作となっている。

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