2013年1月15日火曜日

『中国人の正体』

読んでみたら?と勧められて購入し読んでみた。
色んな事例が出てくるのだが、正直、どこまで本当(というより一般的な事例)?という気持ちでいっぱいになる本であった。

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アメリカの文化人類学者であるルース・ベネディクトは欧米と日本を比較した文化論『菊と刀』の中で、
「人間はどうして道徳倫理、マナーを守るのか」「動機はどこにあり、どうして守らなければならないのか」を説き、道徳倫理を一つの文化として捉えた。
欧米人であれば「罪」の意識のもとにそれらを守ってきた。彼らのベースにはキリスト教の教えがあり、悪いことは神に対する罪と考えた。人間は永遠に神の救いを求めなければならない。そのためキリスト教において、道徳倫理を守らないことは神への冒涜となる。
一方日本人は共同体を大切にする。共同体の中で強く感じるのは「恥」の意識だ。
「人様に迷惑をかけてはいけない」「変なことをしてはいけない」という意識によって、道徳倫理が守られてきた。守らなければ恥をかき、他人から変な目で見られる。「恥」の意識が日本人の道徳的行為の根本にある。
では、中国人はどうか。ベネディクトの枠組みを応用して考えるならば、自己の利益を重視する「利」の意識から守るということになる。

「利益最大化の原則」こそ中国人の行動原理。

もちろん中国人にも共同体意識はある。しかし、それは極めて限定されていて、せいぜい家族の中だけだ。中国人にとって、家族の外と家族の中は別世界で行動原理も全く異なる。
現在の中国人は「恥を認めない」というレベルではなく、「恥」という概念がないから、認めるもクソも無い。


中国にも昔は儒教と仏教があり、仏教の「因果応報」という概念が中国人に最低限の道徳倫理、ルールを守らせていた。
儒教の「礼節」という美徳も、中国が共産主義化する過程で崩壊していった。特に1960年から1970年代前半まで続いた文化大革命で「礼儀、礼節は悪いこと」「悪しき伝統」として批判された。

中国人オリジナルの宗教というと仏教ではなく道教。道教だけは民族宗教として未だに残存している。道教にも神様と呼ばれる存在はある。ただ、道教の神はすべて本質的に俗物的なものだ。賄賂を取り汚職もし、権力争いもする。中国では神の世界も人間と同じ欲のある世界なのだ。道教の具体的イメージは、中華街の関帝廟を思い浮かべてもらえばいい。

道教が求めるのは欲望の抑制ではなく、むしろ欲望の満足だ。
「福」:子孫の繁栄、家系の繁栄を意味する。
「禄」:政治的ポストに就くこと、高官になることを意味する。
「寿」:不老不死を意味する。
本来の宗教と違って、道教が追求するのは現世利益でしかない。その現世利益を求めるために「神様」に賄賂を贈るのである。


文化大革命では、実の親を集団の前で吊るし上げて糾弾するといったことも行われた。

プライドや良心、同情心などあらゆるものが打ち捨てられて、最後に残るものはお金しかなかったというわけである。
文化大革命は中国人にとって取り返しのつかない悲劇であった。



中国人は「メンツ」にこだわるとされている。
確かに事実だが、彼らの「メンツ」は日本人が考えているような「誇り」とイコールではない。中国人にとってのメンツとは利害と直接絡むものであり、不動産のような「財産」なのである。
中国人が「俺にはメンツがある」というとき、このメンツには利権、縄張り、ステータスという意味がある。そして、その「メンツ」を維持拡大するために中国人は行動する。

中国人は喧嘩をしても、すぐに戻ることができる。いつまでもお互いにシコりが残ることはない。この点は中国人の美点と言えるかもしれない。
日本人は、喧嘩をするといつまでも気持ちを引きずって「もう顔もみたくない」となることも多い。マナーや礼儀に違反した者は「無礼者」として排除される場合もある。
しかし、中国人がそのように感情的になることは無い。
中国人が相手の顔も見たくないと思うのは、「この人の顔を見てもお金にならない」と言うときだ。



日中間における歴史認識問題も、中国にとっては外交カードでしかない。中国人にとっては歴史の真実などということは実はどうでもいい。利益最大化のためには、歴史ですら恣意的に利用してしまう。
日本人にはそのことが分かっていないから、歴史認識問題を「解決」するために、日中合同で歴史研究チームをつくるという見当違いのことを進めようとしている。

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日中間における歴史的認識問題については、双方の研究者がお互いの立場から事実を確認するのが一般的な解決法ということを聞いたことがあったが、著者の言うことがあたっているとするとまったく意味が無いということになる。
著者は、長期投資を中国でするのはカントリーリスクが高すぎるとしている。
極力、中国人とはビジネスをしないということが望ましいが、グローバル化の進んだこの社会における隣人と全く付き合わないということは望むべくもない。その際には「毒を盛って毒を制す」覚悟が必要ということが著者の意見。

国家単位では、義理もへったくれもない食えない国という認識であったが、社会制度は悪いが個々人としては、信頼を得られればそれに応えてくれる人たちだと思っていた。自分も「昔の中国への幻想を見続けている一人」だったのか?
う〜ん、中国人を見る目が変わりそう。
でも先入観をもつことなく接していかねば。

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