2016年1月2日土曜日

『最後はなぜかうまくいくイタリア人』

イタリアのイメージというと、三国同盟であっという間に降伏してしまった国というイメージを田宮のミリタリーミニチュアシリーズを作りながら覚えた(?)記憶がある。
その後は身近にイタリア人を感じる環境になく、漠然としたイメージしかない。

タイトルを見て「最後って定義はいつのことなんだろう?」とか思いながら手に取った本。

著者の宮嶋勲氏はイタリアと日本を行ったり来たりの生活をしているらしいが、お互いの国の特徴を理解しつつ、空港でそれを切り替えるのだそうだ(そうでないとお互いの国でそのままではうまくいかないということだ)。


<イタリアで仕事をするということ>

第一に、予定表や打ち合わせ通りに物事が運ぶなどと考えるのはイタリアでは大きな間違いで、そんなのはあくまで努力目標のようなものでしかなく、不測の事態が起こることの方が普通である。(まさに「不測」の事態は「予想」できるという矛盾した状態だ)。慌てる必要は全くないということだ。人生は常に不測の事態の連続で、そんなことに一々腹を立てること自体がおかしいという哲学?である。
第二に、そのようなことがイタリアで常態化している限り、不測の事態に慌てるというのは愚の愚であり、どっしり構えて、解決策を見いだすことに全力を尽くす方がよほど大切であるということだ。そこでイライラしても何も生まないし、むしろ事態は悪化する。不測の事態を乗り越えたときによりよい仕事ができる準備をすることこそ重要なのだ。
そして第三に、どんな不測の事態が起こってもイタリア人は諦めずに、ほとんどの場合は最後に何とかする能力があるということである。子供の頃から不測の事態に慣れきっている分、それに対する対応能力が破格に高いのだ。全てが綿密に準備され、計画通りに物事が進むことが当たり前になっている日本とはずいぶん異なる仕事のやり方となる。


<イタリア人の特性>

◯イタリア人にとって、アポの時間はあくまで数値目標である。選挙の時に出てくるマニュフェストのようなもので、「この数字を目指して頑張ってみます」と言った感じだ。
15分から30分の遅れは、ちょうどハンドルの「遊び」のようなもので、杓子定規でない寛容な社会を、無意識のうちに生み出している気がする。
◯イタリアでは、公私の区別が曖昧だ。というより、公私混同が激しい。しかも、激しければ激しいほど、社会に活気が出て、皆が生き生きとしているような気がする。
分かりやすい例でいうと、銀行の窓口業務をしている人と、駄菓子屋の店先に座っているおばあちゃんを比べてみればいいだろう。
銀行の窓口にいる人は、業務を遂行していて、「賃金を払った資本のものになってしまった時間」に「私の時間」が入り込む隙はない。
駄菓子屋の店番をしているおばあちゃんも、確かに駄菓子やメンコを売るという業務を遂行しているが、同時にそこはおばあちゃんの本来の居場所であり、「私の時間」を十分に生きる場所でもある。
ここでは公私の区別はきわめて曖昧で、それぞれの時間を簡単に行き来することができる、ゆるやかで寛容な世界だ。
要は働き方の問題。完全に疎外された労働は苦役に陥りやすい。「公」と「私」が、「仕事の時間」と「私の時間」がうまく溶け合った労働は生き甲斐を生みやすい。イタリア経済を支える中小企業はこのような働き方の好例である。
◯イタリア人は先の計画をたてることが苦手である。特に24時間以上先の予定は立てたがらない。今を生きること、精一杯楽しむことに夢中になるスタイルなので、その事案が終わるまでは先のことを考える精神的余裕がないのかもしれない。
もちろん仕事だと予定なしというわけにはいかないので予定は立てるのだが、可能な限り曖昧さを保とうとする。どうも直前までフリーハンドでいたいらしい。
◯イタリア人の仕事能率が低い原因に、分業の概念の欠如が挙げられる。しかし、それは同時にイタリアの活力や想像力の高さの源でもあるので、話しはややこしい。
複数の作業や事案を平行して同時進行させると作業効率があがり、「段取りがいい」「要領がいい」と褒められる。しかし、イタリア人はこれが苦手である。ひとつずつ作業を進めていくことを好み、複数のことを一度に依頼すると混乱する人が多い。
◯先の段取りをするよりも今のことを考えるという典型的な例は駐車の仕方だろう。イタリアの場合はほぼ100%の人が前進駐車を行う。切り返してバックで駐車しておいた方が出る時に楽だ、という発想はないようだ。
◯イタリア人は、とにかくなんにでもダメもとで果敢にトライする。相手に失礼だとか、恥をかくかもしれないと言った心配はあまりしない。これは明らかに一種の才能だ。
◯イタリア人のすごいことろは、無謀な計画を立てるが、それがダメだったときの対応力と、驚異の粘り腰を持っていることろである。


<不思議の国の”イタリア”あるある行動>

①国民意識を持つのは、サッカー観戦のときだけ。
 イタリア国家は統一されて154年。国家への帰属意識は低い。
②列は絶対につくらない。
③レジを待つ最中に商品を食べ始める。
④夜でもサングラスをかける。
 なんとなく落ち着く、らしい。
⑤雨が降ると元気をなくす。
 イタリアには雨があまり降らない。地中海性気候なので雨は春先と秋に集中していて、夏は全くと言っていいほど降らない。 特に南部の人間は雨が降ると急に元気をなくす。「今日は雨が降って気分が乗らないから」という理由で中止になったことが何回かある。
⑥どんなに空いていても、ホテルの部屋は隣同士。
日本だと部屋をあけて設定し、お互いに騒音などで気を遣わなくていいようにするのだが、イタリアではむしろ隣同士の部屋をとることこそ気配りした結果であり、イタリア人はその方を喜ぶ。


その他、イタリアの歴史からくる国民性であるとか、実は十把一絡げにとらえている「イタリア人」にも当然地方性があって、州ごとに気質も違っている話しなど、社会人類学的な読み物としても楽しめた。


でも、「スーパープレーを続出するキーパー」と「何故か点のとれないキーパー」の話しと同じで、敵に回した時には「何故か点のとれないキーパー」の方が恐い。
やっぱりミリタリーミニチュアシリーズで学んだイメージはあたらずとも遠からずだったか?!
せっかく学んだので、身近にイタリアを感じる出会いがありますように。




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