2009年3月30日月曜日

シンゴスターリビング

つくばにある、今流行の「古民家カフェ」、『シンゴスターリビング』に行って来ました。
地図もネットでおさえて行ったつもりですが、あまりの商業っぽさの無さに、一度は目の前を行き過ぎてしまいました。
改装した古民家の1階が家具・小物販売、2階の天井裏がカフェになっています。
2階の天井裏は明らかに天井が低くて頭をぶつけそうなのですが、そこにいると何故か非常に落ち着きます。
ところどころ手を入れて、外から明かりを取り入れているのですが、そのやり方が絶妙でうならせます。(トイレなんか、もううなっちゃいます)

出てくる飲み物やケーキ類も、どれも絶品。
家の近くだったら通っちゃうくらい、数ある「古民家カフェ」の中でも相当レベルの高いカフェでした。













2009年3月29日日曜日

筑波宇宙センター

筑波宇宙センターに行って来ました。
その昔は航空宇宙3機関(宇宙開発事業団、宇宙科学研究所、航空宇宙技術研究所)あったのを統合してできた「宇宙航空研究開発機構」が施設見学を実施しています。

今までの日本のロケットの歴史であるとか、その実物の展示が行われています。
昔の有人宇宙船ソユーズも展示されていましたが「こんな狭い中に独りで閉じ込められたら精神的におかしくなるのでは?」と感じる程のスペースしかありませんでした。
他には「人工衛星の断熱材はマジックテープでとめられている」とか「宇宙服は重量120kgもある」とかの小ネタも教えてもらえます。










「宇宙にも労働組合があるのか!?」って感じの『宇宙労』ですが、3組織が合併したので色々と大変みたいです。











「宇宙日本食レトルトカレー」とあってめちゃくちゃ怪しいですが、ハウス食品がつくってました。
「無重力対応としてスパイシーに」なっていて、カルシウムとウコンが通常よりたくさん入っているそうです。
なんと普通の大きさ200gで525円税込みと激高ですが、味はちょっと濃いめの通常の辛口カレーでした。
隣の乾燥プリンは最悪。宇宙空間でこんなの食べたら一発でホームシックにかかりそうです。

『ダイアローグ 対話する組織』




先日、標記著者の中原淳先生、長岡健先生とご挨拶する機会があったこともあり読んでみた。
中原先生は認知教育学を企業の組織に展開するとどういうことになるのか、ということも研究されているらしい。

企業において「知の共有化」ということが叫ばれて久しいが、何故うまくいかないのかを、主観主義、客観主義と社会構成主義の考え方の違いという根源的なところから述べている。
客観的な情報・知識を共有していたとしても、その「意味付け」を共有できなければ、協調的な行動をとることができない。すなわち、協同的な活動を進めるには、当事者全員が情報・知識を共有するだけでなく、それぞれの意味付けについて、相互に理解する必要があるということである。

また、「対話」とは
①共有可能なゆるやかなテーマのもとで、
②聞き手と話し手で担われる
③創造的なコミュニケーション行為
であるとし、組織における対話(ダイアローグ)においては、自由なムードのなかで(≠「議論」)の真剣な話し合い(≠「雑談」)である必要があり、Serious Fun(真面目に物事を楽しむ)というスタンスが参加者になくてはならないとしている。

目的を一にしない共同体であったり、分かり合うことの出来ない宗旨を異にするメンバー間での話合いにおいても、この対話の手法を用いると、(自分のスタンスについて変わることはないが)お互いの立場やその背景を理解できるようになり、敵ではなく隣人として受け入れられるようになったという。

この本の面白いところは、「対話」至上主義ではなく、対話における課題、問題点も指摘している点である。
ただし事例として、ベトナム戦争時の省察的実践者(Reflective Practitioners)としての 大統領チームであったり、DEC社の燃え尽き症候群が挙っているが、いずれも行き過ぎた「対話」の手法というよりは別の要因によるものと思えてならない。

「学び」の定義として、
『コミュニケーションを通じて人々の考え方、振る舞い方、あり方、ひいては個人と個人の関係や、組織そのもののあり方を、主体的に「変容させていくプロセス」こそ、「学び」である。学習とは「伝達」ではなく、「変容」である。』
としているが、得てして「学び」⇒「教育』⇒「学習」⇒「勉強」といった方向の連想がなされるために、この種の話は理解されるのに説明が必要となっているように思う。
例えば、同志社女子大学上田教授のいう『Playful Learning』のような何か別の言葉で、ここでいう「学び」を表すことが出来ないものかと思う。

2009年3月26日木曜日

『凍』


親しくさせてもらっている某代理店の社長から勧められた沢木耕太郎のノンフィクション、登山家の山野井泰史・妙子夫妻のギャチュンカン登頂挑戦の物語である。
正直、クライマーの世界に興味がない自分には面白くないのではないかと思ったが、何のことは無い、一気に読み切ってしまった。
(さすがK社長のお勧め本!!)

クライミングのスタイルに「極地法」と「アルパイン・スタイル」と呼ばれるものがあり、各々相手のスタイルについては疑念をもっているだとか、ルートを開拓して登った者にはルートの命名権があたえられるといったクライミング界の専門知識もちりばめられながら物語はすすんでいく。
登頂、下降、そして奇跡の生還までのストーリーは思わず手に汗にぎりながら読んでしまった。
それにしても、指を凍傷で失ったり、骨折したりするリスク、更には命をかけてまで、何故山に登ろうとするのか。しかも夫婦で。
自分には理解できない世界である。
登りながら「あぁ、これは指を何本か失うな」といった風に、死と隣り合わせの状況で自分の状況を客観的に見るというのは、小説で読んだ”忍びの世界”に通じるものであったが、現実の世界においては知り得なかったものである。

零下の世界でブランコの上でビバークなんて、考えただけでもぞっとする。
のめり込んで感情移入して読んだ分、暖かい布団に入って眠れる自分の幸せを感じた。
ありがたや。

2009年3月22日日曜日

第2クール終了

妻の薬の第2クールが終了。
第1クールと異なり、第2クールは大きな副作用、事件もなく終了。
薬の無い期間はやはり「色々やらなきゃもったいない」という気分になるらしく、逆に何やら焦っているようでもある。
会社では異動の時期ということもあり、こちらも時々妻の身体のことを忘れてしまいがちなので、それに関しては留意していかねばならない。

2009年3月20日金曜日

『戦略の本質 戦史に学ぶ逆転のリーダーシップ』


野中郁次郎先生ほか、防衛大学の先生方が書かれた本です。

「坂の上の雲」以来、ちょっと戦史づいた感もあり、手に取ってみました。

「戦略論」が歴史的にどのように展開されてきたか、というまとめを以下の6つの実戦例を通して記述したものです。

クラウゼヴィッツの『戦争論』を皮切りにどのような「戦略理論」があって発展、展開してきているのかの概略をつかむことができます。

1.毛沢東の反「包囲討伐」戦 
2.バトル・オブ・ブリテン
3.スターリングラード攻防戦
4.朝鮮戦争
5.第4次中東戦争
6.ベトナム戦争


<戦略のメカニズム>
①戦略の構造は全体として重層的である。手段ー目的という連鎖の中で、手段は目的によってコントロールされ、逆に目的は手段によって制約される。
②主体間の相互作用の逆説的因果連鎖は、各レベルで(水平的に)展開するのみならず、各レベルの間で垂直的にも展開する。端的にいえば、ある戦略レベルでの過度の成功は、結果的に、他のレベルあるいは全体としての失敗を導くことがある。(成功のし過ぎは失敗を招くというパラドクス)
という抽象的、概念的な話も6つの具体事例を伴うので分かり易くなっています。

リーダーシップとしては『賢慮型リーダーシップ』というものが述べられていて
「賢慮型リーダーは、ダイナミック・コンテクストの直視から、どの側面が検討に値するのか、どの側面は無視してよいのかを察知する、状況認識能力(situation recognition)をもつ。これは問題は何かを把握する問題設定能力であり、いわゆる達人の能力と通底する。問題解決の大半は、実は問題設定によるものなのである。
賢慮型リーダーは、個人の全人格に身体化している高質の暗黙知を認識(cognitive:ものの見方)と実践(technical:ものの作り方)の「徒弟制度」を通じて、組織の全レベルのリーダーに伝承し、自立分散型リーダーシップ(distributed leadership)を発揮させ、組織のソフトパワーを最高度に発揮させる。」
とあります。
戦史から導き出されたリーダーシップに関しても認知的徒弟制度(cognitive apprenticeship)が出てくるあたり、突き詰めて行くとどのルートを辿っても同じ場所にたどり着くような気がしてちょっとビックリしました。

2009年3月19日木曜日

卒業式

会社を休んで小学校の子供の卒業式に妻と出席した。
6年間通った学校だということもあるが、非常に素晴らしい卒業式だった。
生徒も親も先生も感動して涙している人が多かった。
自分の時の卒業式と比べて、合唱による歌が多かったのが感動を増している要因のようだ。
合奏部を率いて何度も賞を受賞している妹尾世里子先生という音楽の先生が教えているので、生徒の歌のレベルは非常に高かった。
歌のパワー恐るべしである。
幼稚園から一緒だった悪ガキ連どもも、立派な顔つきになっていて何とも頼もしい感じであった。
出会いと別れの春である。

2009年3月15日日曜日

3ヶ月検診

先週の水曜日に妻の3ヶ月検診があった。
血液検査と腹部エコー検査があって、どちらも異常なしとのこと。
薬の副作用も目立ったものが無く、今の所順調である。
手のカサツキが一時目だって副作用ではないかという話をDr.からももらっていたが、ちゃんとクリームを塗って水仕事の時には手袋をするようになったところ、治ってしまった。

本人の弁では、時々若干のムカムカ感がある、便が一度にでなくなっているので一度でスッキリしない、という2点を除けば病気になる前よりも良いかもしれないとのこと。
薬を飲みながらの状態にしては上々と言えるだろう。
朝の生野菜ジュース、βグルカン、イムノエース、釈迦の霊泉などなど。。
どれが効いているのかわからないし、これからどうなるのかもわからないが、とりあえず今この状況を感謝したい。

2009年3月10日火曜日

『日本経済を襲う二つの波』



バランスシート不況」という概念により、現在起こっている恐慌から脱却するには財政出動しかない、と説いたリチャード・クーの本。
前FRB議長グリーンスパンの誤算がどこにあったか、という類推などもあり、一定の説得力がある。

バブルが崩壊すると、企業はキャッシュフローを使ってバランスシートの修復に取りかかる。
一斉に通常の利益最大化モードからバランスシート修復モード(=債務最小化モード)に入る。当然、設備投資をする企業が激減するので経済はドンドン縮小する。
どの国の経済も、家計部門が貯金して、そのお金を企業部門が借りて使う。
企業が設備投資を止めて借金返済に移ると、家計部門の貯蓄は借りてがいなくなり、銀行部門で滞留する(死に金になる)こととなる。
そうなると経済は「バランスシート不況」という極めて特殊な不況に陥る。

2000年のITバブル時にグリーンスパンは二つの方策をとった。
①急激に金利を下げた。(6.5%→1%)
②ブッシュ大統領の減税に賛成した。(クリントン時代GDP2.4%の黒字→3.6%の赤字)
ITバブルが崩壊し、9・11テロでダメージを受けながらもアメリカのGDPはほとんど落ちなかった。
「住宅バブルに数年間の期限限定でアメリカ経済を支えてもらう。その間に景気は回復し、金利を上げることにより住宅バブルも解消していく」というグリーンスパンのマスタープランは当初非常にうまくいっていた。
しかし、結果ITバブルの崩壊→深刻なバランスシート不況の到来という最悪シナリオを回避できたものの、金利引き下げは『住宅バブル』という怪獣を生むこととなった。
何故か。
「1回バランスシートの修復に追われた企業経営者は2度と資金を借りたがらなくなるという『借金拒絶症』に陥る」
これがグリーンスパンの誤算であった。
短期金利は中央銀行がコントロールできる。
しかし、長期金利はそうはいかない。長期金利はマーケットが決めるものだからである。
お金を借りる人がいなければ長期金利は上がらない。
結局、短期金利が長期金利を上回る「逆イールド」が発生するに至った。

<ウォール街の誤算>
①短期金利はどんどん上がって行き、投資家からは短期金利以上のリターンを上げるようプレッシャーがかかる。
②通常の住宅ローンの借り手は一巡しており、彼らからの資金需要は飽和状態になっていた。
③「借金拒絶症」の企業は借りてくれない。
2004年頃のウォール街のファンドマネージャーは窮地に陥った。
そこで「サブプライムのマーケットがある」という悪魔の囁きに飛びついてしまった。
サブプライムローンという高金利をとることのできる未開拓の大きなマーケットに、「デフォルトリスクは住宅価格の急上昇により相殺される」と言い聞かせながら彼らは飛びついてしまったのである。
(住宅価格の上昇分を個人の資産(エクイティ)であると見なすことにより、サブプライムローンからプライムローンに借り換えることが可能になる。当初の2年間は優遇金利を適用することで、問題なく住宅を取得できるはずであった。住宅価格が上がり続ければ。)
2年間で1兆$の資金がこのサブプライムローンのマーケットに注ぎ込まれた。。

謎解き物語風に語られる一連の流れの解釈は非常に面白い。
続いて述べられる「財政出動は引退世代のお金の使い道によっては、必ずしも『孫のローンでの消費』にはあたらない」という詭弁とも思える論も妙な納得感を伴ってしまう。
「アジア諸国は「15%通貨切り上げ」を一斉かつ自主的に実施してはどうか」という提言や、「日本のマンションは15年経つと土地の価値しかなくなっており、これが年間20兆円にも及ぶ富をドブに捨てることとなっている」との厳しい指摘もされている。
一部から猛烈な批判を受けているクー氏であるが、素人には非常に分かり易い主張内容である。


2009年3月6日金曜日

『百ます計算の真実』

陰山英男先生の百ます計算振り返りと教育論と言った感じの本です。
陰山先生は反体制に見えて、「実は日本の学習指導要領は優れていて、これが日本の教育を支えている」と主張してみたりでニュートラルな感じで好感がもてます。

国や自治体が教育にどれだけお金をかけているかを示すGDPに占める教育への公財政支出割合。
世界全体平均で5.0%だそうです。アイスランド7.2%。フィンランド5.9%。日本は3.4%。
日本はもっと教育にお金をかけてもいいのかもしれません。

陰山先生によると、
「学力というのは三層構造でつくられていて、底辺には健全な生活習慣があり、その上に基礎基本の学習と読み書き計算のトレーニングがあり、さらにその上に多様な学習がある。下ができていないのに上に行くのはあり得ない。百ます計算は基礎基本の学習。基礎基本ができないのに応用ができないのと同様、健全な生活習慣ができていないのは百ます計算以前の問題である。」
とのこと。
「百ます計算は子供を切れさせる」という批判に対して「まずは健全な生活習慣を」と反論しています。

ちょっと面白かったのは、九九に見る日本の教育文化の話。
実は九九は春秋時代の中国で生まれたのですが、九の段から教えていたそうです(だから九九という)。
中国では九九は一部の特権階級だけが習う特殊な技術でした。だから覚え方を難しくすることで庶民が習えないようにし、自分たちの特権を守っていたとのこと。
日本では明治時代に全国民の教育をすすめる必要があったため、簡単にとっつき易いように一の段から教えたそうです。

陰山先生の教育的人生訓「人間性の教育」も書かれています。
3つの約束として
1.怠けない
2.人(自分も)の心と体を傷つけない
3.嘘をつかない
を守らせれば子供は間違った方向にいかないとのことです。

百ます計算についての振り返りとしては、百ます計算が子供に与えたのは『自信』、とのこと。
だから全く同じ問題を何度もやらせることにも意義があるのだそうです。

○父親が怖い存在となることで、子供は「我慢する」ことを学ぶ。
○子供をディスプレイから遠ざけよう。
○携帯電話は対人関係能力を落とし、結果的に世界を狭くしてしまう。
○大人の学力も低下している。
などなど、理屈じゃないけどこう思うという感覚が自分と似ています。
大阪府の教育委員会でも頑張って欲しいものです。

2009年3月1日日曜日

サイエンスカフェ in ららぽーと柏の葉

ららぽーと柏の葉で行われたサイエンスカフェに行ってきました。
東京大学宇宙線研究所の人が南部さんのノーベル物理学受賞内容をできるだけ簡単に噛み砕いて話をするというのを、お茶菓子付きのカフェ形式で行うというものでした。
合わせて”放射線”という目に見えないものを見えるようにする『霧箱』工作教室もあってどちらも満員御礼のすごい人でした。(霧箱工作については急遽整理券が作って配布されてました)







霧箱の完成型


「東京大学」&「ノーベル賞」という知的ブランドからか、どちらもすごい人だったのですが、霧箱工作については親&子供という組み合わせがメイン、サイエンスカフェについてはおじさん、おばさんがピン、もしくは賢そうな子供と一緒という属性の人が多かった気がします。
大分色々なワークショップに参加・実施するようになってきた目から見ると、どちらの催しも段取りが悪く、改善できそうな点がたくさんありました。
しかしながら、サイエンスカフェについては非常に先進的な試みで、どう進んでいって、どんな感じで終わるのか興味津々で見させてもらいました。
色々な気づきがありましたが一つ挙げるとすると、大学の先生と一般市民のカフェ形式での交流においては、説明する側だけでなく聴く側にもリテラシーが必要であるという風に感じました。
「聴く時の心得」みたいなものを整理すると、もっと効果的で素敵な交流になるように思います。
柏の葉における大学と一般市民の交流する未来をちょっと予感できた気がします。








大盛況のサイエンスカフェ


質問タイムでは子供も臆さずに素朴な疑問シリーズをしたりして、見ていて楽しめました。
説明されていた東京大学宇宙船研究所 特任助教の伊藤英男先生も素朴な疑問(宇宙は最初どの位小さかったの?宇宙には果てがあるの?)とかいう質問の方が説明の仕方に苦慮してました。











中央でドライアイスをかき氷機にかけているのが伊藤英男先生


残念だったのが、ノーベル物理学賞の内容、ちっともわかりやすくなくて正直チンプンカンプンでした。