2009年3月29日日曜日

『ダイアローグ 対話する組織』




先日、標記著者の中原淳先生、長岡健先生とご挨拶する機会があったこともあり読んでみた。
中原先生は認知教育学を企業の組織に展開するとどういうことになるのか、ということも研究されているらしい。

企業において「知の共有化」ということが叫ばれて久しいが、何故うまくいかないのかを、主観主義、客観主義と社会構成主義の考え方の違いという根源的なところから述べている。
客観的な情報・知識を共有していたとしても、その「意味付け」を共有できなければ、協調的な行動をとることができない。すなわち、協同的な活動を進めるには、当事者全員が情報・知識を共有するだけでなく、それぞれの意味付けについて、相互に理解する必要があるということである。

また、「対話」とは
①共有可能なゆるやかなテーマのもとで、
②聞き手と話し手で担われる
③創造的なコミュニケーション行為
であるとし、組織における対話(ダイアローグ)においては、自由なムードのなかで(≠「議論」)の真剣な話し合い(≠「雑談」)である必要があり、Serious Fun(真面目に物事を楽しむ)というスタンスが参加者になくてはならないとしている。

目的を一にしない共同体であったり、分かり合うことの出来ない宗旨を異にするメンバー間での話合いにおいても、この対話の手法を用いると、(自分のスタンスについて変わることはないが)お互いの立場やその背景を理解できるようになり、敵ではなく隣人として受け入れられるようになったという。

この本の面白いところは、「対話」至上主義ではなく、対話における課題、問題点も指摘している点である。
ただし事例として、ベトナム戦争時の省察的実践者(Reflective Practitioners)としての 大統領チームであったり、DEC社の燃え尽き症候群が挙っているが、いずれも行き過ぎた「対話」の手法というよりは別の要因によるものと思えてならない。

「学び」の定義として、
『コミュニケーションを通じて人々の考え方、振る舞い方、あり方、ひいては個人と個人の関係や、組織そのもののあり方を、主体的に「変容させていくプロセス」こそ、「学び」である。学習とは「伝達」ではなく、「変容」である。』
としているが、得てして「学び」⇒「教育』⇒「学習」⇒「勉強」といった方向の連想がなされるために、この種の話は理解されるのに説明が必要となっているように思う。
例えば、同志社女子大学上田教授のいう『Playful Learning』のような何か別の言葉で、ここでいう「学び」を表すことが出来ないものかと思う。

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