2012年1月16日月曜日

『東京の地霊(ゲニウス・ロキ)』

東大の鈴木博之教授が、様々な土地・建築の歴史を紹介していくもの。
会社の後輩からのお勧め(その大本は某建築家の大先生らしいのだが)で読んでみた。


東京生活が長くなっているので、出てきた土地は大体想像がつくこともあり、非常に面白かった。
いくつかピックアップしたい。

まずは上野の東叡山寛永寺。
江戸城からみて丑寅(東北)の方角(つまり鬼門)であり、寛永寺は江戸城と江戸の街の鬼門を鎮護するべく創建された寺院として天海僧正の構想により建立された。(この反対側の未申の方角が芝の増上寺)
面白いのが京都の延暦寺を模して造られたということ。

「江戸における延暦寺」として、東の比叡山という意味を込めて東叡山と名付けられた。
そして不忍池は琵琶湖に比せられた。そして中の島は竹生島のうつしである。
さらに比叡山の麓に坂本という町があるので、上野の山の麓(鴬谷の方向)にも坂本という町をつくってしまった。(この町名は戦後まであった)


次は縁も深い三井本館。
元禄7年の初代建物から数えて、今の三井本館はなんと15代目の建物にあたる。(意外と多いのは火事による類焼により代替わりが進んだため)
一世代前の旧三井本館は大正12年の関東大震災によって「類焼」し、あえなくその21年の寿命を閉じる。

時の三井首脳、三井八郎衛門高棟(たかみね)と団琢磨は旧三井本館の改築を決断する。
が、久能木商店の三代目久能木宇兵衛の土地を買収する前提で臨んだのが結果としてうまくいかず。。
代替わりの節目や久能木商店の隆盛を読み誤った三井は隣地買収をすることができずに、昭和4年に久能木商店の土地を使わない形で三井本館は竣工する。
三井を寄せ付けなかった久能木商店だが、第二次世界大戦末期にいたって、強制疎開にあい、ついに取り壊されることとなった。木造商店のままで建ち続けていたことが、ここで裏目に出た形になる。
久能木商店は須田町の方に移り、やがて戦後の混乱が収まった昭和28年、ようやく三井不動産はかつての久能木商店のあった土地、93坪2合9勺を取得。昭和33年に本館増築部を竣工させた。

建物にも「歴史あり」である。
 

東京大学の成り立ちも知らなかった。
時代が明治に入っていくなかで、蕃書調所は洋書調所、開成所、開成学校と変化しながら大学南校というものになっていく。
一方、1858年に江戸お玉が池に開かれた種痘所というのが、その後西洋医学所、医学所、医学学校と変化しながら大学東校になっていく。
大学東校は神田和泉町(現三井記念病院の場所)、南校は一橋門外(現如水会館の場所)にもうけられた。この大学南校と東校が合体して生まれるのが東京大学であり、その合体場所が本郷だった。

当時、官の建築はゆったりとした敷地に建てられることが多く、その中で堂々としている必要があったので中央に塔をつけて、左右対称形に建物をまとめあげることが多かった。
一方、商業建築は角地に建てられることが多く、角地の角の部分に塔を上げるのが一番存在を示しやすい。

かくして、官の建築は中央に塔を上げ、民の建築は角地の角の部分に塔を上げるという、ふたつの建築表現の流れが形成される云々。

いずれにせよ、いろんな土地の歴史を知ることは非常に楽しいことである。

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