橘玲氏、投稿第7弾。
<<責任論と日本>>
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人間の脳には因果論的な思考がプレインストールされているので、我々は自分にとって何か不愉快な出来事が起きると、そこには必ず「原因」があるはずだと考える。だとしたら、この原因をもたらしたものは「責任」をとらなければならない。
古代の呪術世界では、王は民衆の支配者であるというよりも、神と交換する霊媒と見做されていた。その役割は豊作をもたらす神の恩寵を得ることで、日照りが続く人々を王は殺し、神の生け贄にしてしまった。旱魃や洪水、地震などの天変地異は、神を怒らせた王の「責任」とされたのだ。
こうした”呪術的責任”は、範囲の定めのない”無限責任”でもある。
丸山眞男は、この極めて過酷な
”無限責任”が、日本を”無責任社会”にしたのだと論じた。
日本では、一旦責任を負わされ、スケープゴートにされた時の損害があまりにも大きいので、誰もが責任を逃れようとする。その結果、権限と責任が分離し、外部からはどこに権力の中心があるのか分からなくなる。このようにして、天皇を”空虚な中心”とする、どこにも「責任」をとる人間のいない奇妙な無責任社会が生まれたのだ。
我々は「自分のしたことは自分で責任をとる」のが当然だと思っている。しかし、こうした
”自己責任”は、近代以前の社会には存在しなかった。
戦国時代の農村は旱魃や飢饉が頻発し、農業だけでは村の人口を養うことができず、蓄えの尽きる冬から春にかけては大量の餓死者が出た。このような極限状況の中で、戦国初期の村はむき出しの暴力の世界だった。
戦国時代の重要な合戦は、その多くが冬や春の農閑期に行われた。これは大名や領主が、放っておけば餓死してしまう農民を雑兵として連れていき、何とか生き延びられるようにしようとしたからだ。とはいえ、戦国大名は合戦に参加した百姓達に給金を払ったわけではない。彼らは武士や侍達のためにただ働きをするかわりに、戦場となった村での乱暴狼藉が許されていた。
戦国時代の戦争は一種の公共事業で、大名達は天下を統一するためではなく、村人たちに”職”を与えるために隣国に攻め込んだのだ。
戦場での収奪は徹底的で、備蓄してある食料や衣服など換金可能なものを奪い尽くすだけでなく、女や子供をさらって売り飛ばすのが常だった。戦国時代に最も価値の高い「商品」は奴隷で、合戦が終わると町には人買いの市が立ち、国内で買い手がいなければ、長崎や平戸からポルトガル船に乗せられてマカオ経由で東南アジアへと売られていった。
このように中世初期の村は、過酷な暴力の掟で運営されていた。
だが中期になると、そこに自生的な秩序が生まれてくる。それが
「連帯責任」だ。
その当時、村にとって一番の難題は、出奔や逃散と言って、借金を抱えた村人が耕作を放棄して村を出てしまうことだった。とりわけ豊臣秀吉が天下を統一し、伏見城や聚楽第などの巨大建造物が次々と造られるようになると、人足の需要が急増し、食い詰めた百姓達が京都に流入して、近郊の村は深刻な過疎化に悩まされることになる。
村の人数が減っても領主は年貢を減免するわけにはいかず、かといって村が貧しくなればますます逃散が増えるから、これは領主にとっても村人にとっても極めて深刻な問題だった。気に入らない村人を追い出して自分の土地を増やすのではなく、何とか村に残ってもらうことが死活的に重要になったのだ。
こうして、イエを単位とした土地の管理と、
「五人組」などの連帯責任制度が始まった。
中世のムラ社会では、土地は原則として分割も売却もできず、イエとともに長子がそのまま相続することになっていた。逃散などで放棄された場合でも、残った村人たちで分け合うのではなく、共有地として全員で耕作し、跡継ぎが成人するか、当人(正統な所有権者)が戻ってきたら返却されるのが慣しだった。
このように土地の所有権を確定したうえで、隣家同士が助け合い、監視し合いながら村の秩序を維持していく制度が自然と生まれた。これが「五人組」で、後に豊臣秀吉が京都の管理に利用し、それが江戸幕府に引き継がれて、戦前の悪名高き
”隣組”まで続いていく。
歴史の教科書では、五人組は権力者が農村管理のために押し付けた制度とされてきたが、近年の中世史研究では、もともろ村にあった制度を領主が追認したものだという見方に変わっている。
バングラデシュ出身の経済学者ムハマド・ユヌスは、”貧者の銀行”と呼ばれるグラミン銀行を創設し、マイクロクレジットによって貧困の改善に大きな成果を挙げたとしてノーベル平和賞を受賞した。
”市場原理”を活用したこの少額融資制度が登場したとき、もっとも戸惑ったのは、政府や既存の金融機関ではなく、発展途上国に経済援助を行っていた善意の人たちだった。
グラミン銀行は貧しい人たちから高利(年利10〜20%)を取るばかりでなく、借り手に「連帯責任」を負わせていたからだ。
マイクロクレジットの手法はこれまでの金融業界の常識にことごとく反するが、グラミン銀行の返済率は98%と極めて高く、ビジネスとして利益をあげながら貧困を改善していった。福祉や援助に携わる人たちは、グラミン銀行のデフォルト率が低いのは、借金を返さないと地域社会での借り手の面目がつぶれるからだと暗に批判した。
しかし、ユヌスはこうした見方に反論し、マイクロクレジットがなぜ機能するかを明快に説明する。
貧しい人たちに施しを与えるのは、相手の尊厳を奪い、収入を得ようとする意欲を失わせる最悪の方法だ。
グラミンの顧客達は、それまでは高利貸しから「週利」10%(あるいは「日利」10%)という途方もない利率でお金を借りるしかなかった。ところがグラミン銀行から”低利”の融資を受けられるようになったことで、働いて稼いだお金から返済できるようになった。
極貧の中で人間性を奪われていった女性達にとって、「借りたお金を返す」ことが生まれて初めて得る自尊心だったのだ。
グラミン銀行が連帯責任を条件にする理由は、彼女達が”自己責任”をとれるほど強くないからだ。
返済の滞る最大の原因は、夫がお金を取り上げてしまうことだ。バングラデシュの文化では妻のお金は夫のものとされていて、家族の中に誰一人味方はいない。
しかしこれは連帯責任を負う「五人組」にとっては大問題だ。一人が返済できなくなれば、残りの四人で引き受けるしかないのだから当然彼女達は夫に対して猛然と抗議するだろう。
”自己責任”ではできなかったことが、”連帯責任”では可能になるのだ。
マイクロクレジットの実験は、
連帯責任が相互監視だけでなく、助け合いの原理でもあることを教えてくれる。
バングラデシュの女性達が貧しかったのは、伝統的なムラ社会の中で、一人ひとりが孤立していたからだ。そこに「融資」をきっかけとして連帯責任のコミュニティが生まれ、自由経済と資本主義のインフラとなる社会の秩序が徐々に育ち始めたのだ。
中世の村社会やバングラデシュの
連帯責任に対し、近代社会はそれとは異なる「責任」によって社会の秩序をつくろうとした。それが、「法の絶対性」と「自己責任」だ。
近代以前の社会にも法や掟は存在したが、それらは統治者の個人的な権力を源泉とするもので、法の解釈や運用は恣意的だった。それに対して近代社会では、いったん正統な手続きで定められた方には国王すら従わなくてはならない。
キリスト教では、聖書に記された神の法(神との契約)は絶対とされている。この考え方を世俗社会にも適用し、権力者の上に法を置いたことで、法治社会が成立した。
法によって支配された社会では、どこまでが適法で、どこからが違法なのかが、社会の全ての成員にあらかじめ公開されていて、違法行為に対する責任も、逐一その上限が決められている。これによって人々は安心して生活し、商売することができる。
人治の社会は予測可能性が低く、支配者が変わると所有権を奪われたり、追放されたり、最悪の場合は縛り首にされてしまう。このような社会では他人を信用することが出来ず、モノやお金のやり取りは身内の中だけで行われ、共同体の外へと広がっていかない。
”法の支配”は、自由な市場に不可欠なインフラなのだ。
社会が豊かになるにつれて、「無限責任(=無責任)」から「連帯責任」、そして「自己責任」へと責任のとり方は”進歩”していく。
だが、
日本では契約の絶対性は全く理解されず、法は融通無碍な便宜的なもの(努力目標)のままだった。
一見するとウマい融通無碍な法解釈には一つ大きな問題があった。
法の絶対性がなければ、自己責任をとることができないのだ。
呪術的な無限責任の国では、自己責任は「ルールのないまま一方的に責任だけを押し付けられる」ことと同じだ。
自己責任をとれない社会には致命的な弱点がある。組織の中に統治(ガバナンス)構造をつくることができないのだ。
近代社会では、権限と責任は一対一で対応する。組織の末端には小さな権限と小さな責任しかなく、大きな権限を持つ組織の中枢は大きな責任を担うことになる。だが日本の組織では権限と責任は分離し、外部からはどこに権力の中心があるのか分からない。
ただし、これは日本社会に特有の病理というわけではなく、
一歩間違えば無限責任を追求される閉鎖的なムラ社会では当然の自己防衛策でもある。
誰もが責任をとりたくない社会では、全員の総意で、誰も責任をとらなくてもいい組織ができあがるのだ。
ところが、このような組織は、「責任」を免れることができない重大なトラブルが起こると機能を停止してしまう。
これは日本企業の構造的な問題で、取締役に意識改革を求めたり、社外取締役の人数を増やしたりしてもほとんど効果はない。
根本の原因は、日本社会が「株主主権」を頑強に拒絶していることにあるからだ。
「株主主権」というのは、会社のガバナンスを機能させるための一種の作り話だ。何故このようなウソが必要になるかというと、組織における権限と責任を決めるには、「会社の所有者は誰なのか」という基本設計がどうしても必要だからだ。
権力構造を組み立てるには権力の源泉がなくてはならず、民主政国家ではそれは「国民主権」という”虚構”になり、会社の統治では「株主主権」になる。
コーポレートガバナンスとは、「主権者」である株主を権力の中心において権力構造を明示する工夫のことなのだ。
ところが、日本ではこのことはほとんど理解されず、「株主資本主義」は日本的な美風に反するとずっと批判されてきた。会社は、社員や取引先や消費者など「みんなのもの」で、株主による私物化は許されないというのだ。
もちろん会社は市場の中の一プレイヤーだから、市場を構成する様々な人たちと利害関係を持っているのは当然だ。しかし、社員(被雇用者)や取引先や顧客を権力の源泉として会社のガバナンスをつくることはできない。「みんなのためにある会社」は、「誰も責任をとらない会社」以外のなにものでもない。
法治のない社会では自己責任をとることが出来ず、連帯責任は”封建制の宿痾”として全否定された。そうなれば残るのは呪術的な無限責任(バッシング)しかない。
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以前、会社で「”会社”は誰のモノか」という議論をした時に、「株主」だけでなく「経営・社員」「顧客」など色んな意見が出て、「どれも間違っていない」という整理がされていたが、欧米ではそんな議論は起きずに「株主に決まっている」となるということか。
日本特有の「空気を読んで対応するが美徳」とされる文化は、いざとなると無責任文化となるという話は、戦争責任論でもよく言われている話だ。
<日本の政治・社会制度>
明治日本は、伊藤博文や山県有朋など幕末の志士たちによってつくられたベンチャー国家で、統治は彼ら”創業者”によって行われていた。だが国家も会社も、創業者が退場すれば組織は形骸化していく。このようにしてガバナンスは名ばかりのものとなり、統治構造はいつのまにか形骸化していった。
戦後日本は占領軍から統治構造の組み直しを強制されたが、日本人は権限と責任が一対一で対応する近代的なガバナンスを理解することができず、形式だけを整えると、その内部に自分たちがよく知るムラ社会をつくっていった。
かつては、「日本はダメで欧米の民主主義は素晴らしい」というのが定説とされていたが、ユーロ危機における混乱や、ティーパーティや「ウォール街を占拠せよ」の政治運動をみれば、
”デモクラシーのユートピア”がどこにもないことは明らかだ。
「公共選択の理論」で政治経済学を創始したアメリカの経済学者
ジェームズ・ブキャナンが既に1960年代に指摘していた。
公共選択(=政治)において、主要なプレーヤーは三人いる。政治家、官僚、有権者だ。そしてブキャナンは、市場において誰もが得したい(損したくない)と考えるように、政治にプレイヤーも個人の利益を最大化しようとしてると仮定した。
ブキャナンの仮説によれば、政治家は何よりも次の選挙で当選することを目指す、官僚は自らの地位を高めることを第一に考え、有権者は投票によってどれだけ経済的な利益(補助金や公共事業)が得られるかで候補者を選択するはずとした。このような仮定からブキャナンは、
「民主制国家は債務の膨張を止めることができない」という論理的な帰結を導きだした。
政治家は当選のために有権者にお金をばらまこうとし、官僚は権限を拡張するために予算を求め、有権者は投票と引き換えに実利を要求するからだ。
現実に、日本国の借金は膨張を続け、ついに1000兆円という人類史上未曾有の額になってしまった。ブキャナンの「公共選択の理論」はこの事実を見事に説明する。
政治学者の
飯尾潤は、日本の権力関係の特徴を
「官僚内閣制」「省庁代表制」「政府・与党二元体制」の三つのキーワードにまとめた。
これらの三つの要素は互いに相補的な関係にあり、安定的な(なかなか変わらない)日本の「政治」をかたちづくっている。
議院内閣制とは、民主的な選挙で選ばれた議員(国民代表)が議会を構成し、その議会に権力を集中する仕組みだ。大統領制では大統領と議会に権力が分散するのに対し、議院内閣制では議会主権による権力の集中が行われる。
議院内閣制では、議会内で多数を占めた政権党(政党連合)が内閣総理大臣を選出し、総理大臣は各省庁の国務大臣を指名して政府を組織する。このような権力フロー(統治構造)からすれば、政府と政権党は一体なのだから、議会内での対立は政府=政権党と野党の間で起こるはずだ。
ところが実際には、日本の政治には本来の議院内閣制ではあり得ない奇妙なことが頻発する。
ひとつは、
各省庁の大臣に実質的な拒否権が与えられていたことだ。自民党時代の閣議は全員一致が原則で、大臣が反対するものは閣議決定に回さなかった。
大臣は担当する省庁の代理人(エージェント)として、省庁の利害を代表することを求められていた。
このため閣議決定には事前の根回しが不可欠で、前日に各省庁の事務次官が集まる事務次官会議が開かれ、そこで反対のなかった案件だけが翌日の閣議の議題とされることになった。
大臣が各省庁の代理人となり、その合議体として内閣が構成されるのが
「官僚内閣制」だ。
官僚内閣制の特徴は、政府における最終的意思の主体が不明確化し、必要な決定ができなくなり、政権が浮遊してしまうことだ。これが日本中枢の崩壊だが、それは日本的な統治構造の必然的な帰結でもあった。
議院内閣制では国会議員は国民代表だが、官僚内閣制では社会集団の様々な利害を官僚が代弁することになる。これが
「省庁代表制」で、日本は自立した省庁の連邦国家なのだから
「省庁連邦国家日本(United Ministries of Japan)」と呼ぶことも出来る。
ところが、70年代末になると、日本社会が成熟し政策は飽和して、様々な問題が露呈することとなった。官僚にとっては新しい政策を立案し権限を拡張することが最優先だから、複数の省庁で似たような法律が乱立し、際限なく増殖していった。行政が複雑になり権限が分散化するにつれて「拒否権」を持つものが増えて合意形成に時間とコストがかかるようになった。
最大の問題は、既得権に干渉するような政策の立案が全く不可能になったことだ。こうして官僚内閣制と省庁代表制は、90年代以降の日本の危機に全く対処ができなくなった。
日本の政治のもう一つの特徴は、政権党が自らを「与党」と名乗り、政府から距離をおく
「政府・与党二元体制」だ。
自民党時代は、党の政務調査会が実質的な立法活動を担い、族議員(派閥の有力議員)が政策決定を実質的に支配した。これが「派閥政治」だが、先に述べたように、官僚内閣制では政府に官僚を統制する力がないのだから、政治家がその権限を別の場所に求めるのは当然のことであった。
与党の合意のない法案は閣議決定を行わないという不文律が生まれると、官僚は自分たちの政策を実現するために政治家の支援を得なくてはならなくなった。
日本では、国会運営は党の専権事項とされ、政府(内閣)は関与できないため、与党議員の協力や野党議員の暗黙の了解がなければ法案は議会を通過できないのだ。
その結果、
「国対政治」で与野党が国会審議を紛糾させればさせるほど、官僚は対応に窮し、政治家の権限が拡張していくという奇妙な現象が起きることになる。
さらには、自民党の人事システムでは、大臣は能力や実績とは関係なく、一定以上の当選回数に達した議員に平等に割り振られる名誉職とされたため、
実際の権力は官僚以上に政策に精通した族議員に集中することになった。これが「政高官低」と呼ばれる現象で、90年以降、若手官僚が省庁を見捨てて政治家に転身する例が急増した。
政府・与党二元体制は、官僚内閣制と省庁代表制のもとで、「国民代表」としての政治家が行政に介入する非公式な仕組みだったが、その行動は選挙区や支援団体の利害に左右され、日本全体の利益に関心を持つことはなかった。
日本の官僚制は、大きく三つの権力の源泉を持っている。
ひとつは、
官僚だけが事実上の立法権を有していることだ。
日本では、内閣法制局の審査を通った法案しか国会に提出できない。これは、法体系を統一的で相互に矛盾のない規定によって構成するためだとされるが、複雑怪奇で膨大な法令データベースを参照できるのは現実には担当部局の官僚だけであり、立法府のはずの国会はほとんど立法機能を持っていない。
二つ目は、
法律の解釈を独占し、事実上の司法権を有していることだ。
地方自治体では、法令について不明な部分があると省庁の担当部局に問い合わせ、官僚が正しい解釈を伝えることが当たり前のように行われている。これも法令についてのデータベースを独占しているから可能になることで、官僚は立法権だけでなく司法権も行使できるのだ。
三つ目は、
予算の編成権を持っていることだ。
日本国の予算は各省庁の要望を財務省(主計局)が「総合調整」したものだから、官僚が自ら予算を編成しているのと同じだ。もちろん政治家は族議員などを通じて予算に関与することができるが、こうした非公式の影響力では官僚の権限は揺るがない。
日本の憲法の上では三権分立だが、実際は省庁が行政権ばかりか立法権と司法権を有し、予算の編成権まで持っている。さらには、各省庁は法によらない通達によって規制の網をかけ、許認可で規制に穴をあけることで業界に影響力を及ぼし、天下り先を確保している。
アメリカやイギリスでは、「後法は前法を破る」「特別法は一般法に優先する」といった概念のもとに法令の有効性を判断し、法令相互の矛盾を気にせず法律をつくり、最終的には裁判所による判例の蓄積で矛盾を解決している。これが議員立法が活発な理由で、小沢一郎は、内閣法制局を廃止することで官僚から立法権を奪取し、国会を名実共に立法府にしようとした。
また政治=行政改革では、司法の機能を強化するとともに、官僚の恣意的な法令解釈を排除し、利害関係者が司法の場で法令の解釈を争うことを目指した。さらには予算の総合調整機能を財務省から国家戦略局もしくは内閣予算局に移行するとともに、民主党の議員が個別に霞ヶ関に陳情することを禁止し、党の要求は幹事長に一元化することにした。
だが、この中で実現したのは霞ヶ関への個別陳情の禁止だけで、それ以外の官僚の権限に手を付けることはできなかった。
本来であれば、憲法によってその権威を保障された議員内閣に対し、単なる非公式な慣習でしかない官僚内閣が対抗できるはずもなかった。だが普天間基地移設問題や衆参のねじれ現象で求心力を失った上に、大震災と原発事故という未曾有の国難が襲うと、立法権・司法権・行政権を独占する官僚に、「権力の集中」を目指したはずの内閣は実務を丸投げするほかなくなった。
だが、これは、官僚内閣が民主党内閣との権力闘争に勝利したということではない。
「官僚支配」は各省庁が共同して日本を統治しているというイメージで語られることが多いが、これは事実ではない。官僚制の本質は、省庁同士、あるいは省庁内部の局や部、課の間の権限争いで、そこには共同の意思はなく、各自が自分たち(と関係者)の利益(なわばり)を最大化するための激しい競争を行っている。
合意形成の積み上げによって意思決定する組織は、経済が拡大する中での分配には長けているが、全体のパイが縮小するとたちまち足の引っ張り合いを起こしてしまう。
そもそも公務員の人事制度は、日本社会と独立に存在するわけではない。
終身雇用と年功序列を絶対の掟とする公務員人事は、日本的雇用制度の純化した姿だ。
公務員制度改革の理念では、官僚を企画(総合職)と実施(一般職)、および技官(専門職)に分け、政策の立案に携わる企画官僚は内閣に新設される人事局でプールし、省庁を横断して最適な人材を派遣していくことになっていた。これがもし実現すれば、省庁の縦割りは意味を失い、日本の官僚制は革命的な変化を起こすだろう。
だが、この理想世界には決定的に重要な前提条件がある。
新しい公務員制度では、企画官僚は政権党のシンクタンクの役目を果たすことになるが、つねに最適なポストがあるとは限らない。幹部の人数は限られているのだから、人材プールで待機中は民間企業で働くことになる。アメリカで行われている、
官と民の「リボルビングドア」だ。
ところが年功序列と終身雇用の日本的雇用制度では、たとえ現役官僚であったとしても、企業は中途採用をしたがらない。そこで省庁が、コネを使ってなんとか引き取ってもらうというのが「官民交流」の実態になっている。これはもちろん官と民の癒着の温床になるが、だからといって禁止してしまうと、官僚は再就職できなくなって省庁に滞留するほかなくなる。
民主党は、日本的な雇用慣行をそのままにして、官僚制だけをアメリカ型に改造しようとした。彼らに欠けているのは、アメリカの公務員人事制度は、あまりかの労働市場に最適化されているという視点だ。
アメリカでは労働市場の流動性が高く、異業種への転職も頻繁に行われ、中途入社は当たり前だ。だからこそ、能力と実績を買われた官僚が民間企業に転職したり、成功したビジネスマンが省庁幹部に政治任用されたりする。
経済学者
野口悠紀雄の「一九四〇年体制論」 で野口氏は、
日本社会は第二次世界大戦の敗北によって生まれ変わったのではなく、戦時下の国家総動員体制が戦後も継続し、自由経済のふりをしていたに過ぎないと、その「出生の秘密」を暴く。
1940年体制は、戦争遂行のための経済を国家の統制のもとに置くもので、岸信介など”革新官僚”によって実行された。その特徴は、自由競争を否定し、私的所有権を制限するとともに、電力・通信・運輸などの基幹システムを国有化し、軍需産業の生産力を最大化しようとすることで、そのため以下のような極めて特殊な制度が考案されたと野口は指摘する。
①日本型企業
戦前の日本企業は株主を中心に運営され、労働市場の流動性も高かった。それが国家総動員体制のもとで株主の権利が制限されると、企業は利益追求の組織ではなく、従業員の共同利益のための組織となり、一部の重化学工業でしか採用されていなかった終身雇用制と年功序列賃金体系が広く定着し、労使関係の調整のための産業報国会が戦後は企業別の労働組合へと再編された。
②間接金融
戦前の日本には発達した資本市場があり、企業は直接金融(株式や社債の発行)によって資金調達するのが普通だった。だが戦争によって資金供給が逼迫すると、重化学工業など軍需産業への資金配分が優先され、金融市場が機能を失うとともに間接金融(融資)で長期資金を供給するメインバンク制へと移行した。
こうしてメインバンクを中心とする企業系列、いわゆる財閥が形成され、配当の制限と株式の持ち合いが常態化した。
③官僚体制
明治期の「殖産興業」時代でも、民間企業に対する官庁の権限や指導力はそれほど強いわけではなかった。それが1930年代になると昭和恐慌を背景に経済統制が強化され、業界ごとにカルテルを結成させ、それを行政指導によって官僚が指揮する体制が確立した。
革新官僚は、「企業は利潤を追求するのではなく、国家目的のために生産性を上げるべきだ」として、国家総動員体制を推進した。
④財政制度
戦前は国税収入の三分の二が地租や営業税などの間接税で、地方財政も分権的だった。それが1940年の税制改正で所得税・法人税など直接税を中心とする税制度に変わり、戦費調達のため給与所得の源泉徴収制度が導入された。
さらには、困窮する農村を救済するために中央が地方に補助金、交付金を分配する社会民主主義的な改革が行われ、国と地方の関係が抜本的に変わった。戦時において大量の労働力を動員するために、国民年金や国民健康保険などの社会保障制度が導入されたのもこの時期だ。
⑤土地制度
戦前の自由放任主義的な住宅政策から、戦時下では一転して「国家総動員法」の規定に基づき、家賃・地代を統制し借地・借家人の権利を強く保護する政策へと舵が切られた。また農村部でも、小作貧農を救済するために、小作料の引き上げが禁止されるとともに、食糧管理法によって小作農の負担が大幅に減った。
これらの戦時下の「改革」によって、占領軍の農地改革を待たずして日本では地主階級が壊滅し、それが戦後の産業化を容易にし、所得格差の小さい大衆社会を実現させた。
こうした1940年体制の本質を野口は、
「生産者優先主義」と「競争否定(平等主義)」だと述べる。
戦後日本の高度成長は、輸出産業の育成を国家目標に据え、消費者の利益を無視し、「競争」ではなく「共生」を尊ぶ奇妙な資本主義のもとで達成されたのだ。
1980年代の日米構造協議では日本の資本主義の「異質性」が協調され、「日本は公正に競争していない(だから巨額の貿易黒字を計上するのだ)」とジャパンバッシングが正当化されたが、その時は既に韓国、台湾、香港、シンガポールの経済成長が「四匹の龍」として注目を集めていた。
これらの4カ国・地域は、イギリスの植民地だった香港を除けば全て権威的な政治体制下にあり、それは日本の戦時統制経済に極めて良く似ていた。
その一方で自由主義的な経済政策の成功例としては、経済学者ミルトン・フリードマンが主導した「チリの奇跡」位しかなく(それも失業率の増大や経済格差の拡大によって失敗とする評価もある)、市場原理主義的な改革を目指したアルゼンチンは財政破綻し、ロシアはオリガルヒと呼ばれる政商が権力と結託して経済を支配するようになった。
さらに決定的なのはアフガニスタンとイラクでの”実験”で、アメリカは大量のエコノミストやコンサルタントを送り込み、民主化と経済の自由化を同時に実現しようとしたが、惨憺たる結果を招いたのは周知の通りだ。
このようにして、現在では、
新興国のキャッチアップ期には自由経済よりも統制経済の方が有効だという事実を誰も否定できなくなった。
80年代後半からの中国の驚異的な経済成長は、共産党の一党独裁体制にも関わらず成功したのではなく、強大な権力による強い統制があったからこそ実現したのだ。
マイケル・ポーターは1980年代後半から日本の産業政策を調べ始めた。
そして
日本の経済は競争力の強い少数の輸出産業と、競争力の弱い大多数の国内産業に二極化しているのを発見する。
これは日本の産業政策が強い産業を育成するのではなく、弱い産業を市場から退出させないようにしているからで、その結果、国際競争から保護されたゾンビのような産業が澱のようにたまっていく。
日本経済は1970年代のオイルショックを何とか乗り切ったものの、賃金の上昇によって、アルミニウム、石油化学、造船、繊維、鉄鋼など多くの産業で国際競争力を失ってしまった。
いつまでも終わらないデフレとは、輸入規制とカルテルによって生じた内外価格差が解消していく過程でもあった。電力やガスなどの公益事業や一部の農産物のようにいまだに国際価格を大幅に上回るものもあるが、「失われた20年」を経て内外格差はほぼなくなり、日本はようやく”ふつうの国”になったのだ。
現在では「1940年体制」の統制経済的な仕組みのほとんどは機能していない。
だが野口由起夫が指摘するように、日本の経済にはなお、戦時下の国家総動員態勢の巨大な残骸が残っている。
いっさいの「改革」を拒絶する最大の守旧派は、企業経営者と労働組合だ。
高度成長期からつづく日本経済の大きな特徴は、外国資本の国内投資が極めて少ないことだ。
日本の企業は外国人という「他者」が入ってくることを極端に嫌い、株式の持ち合いによって”資本鎖国”し、経済団体はグローバル化を掲げながら合併や買収を容易にするあらゆる規制緩和に反対した。日本企業の取締役会は出世したサラリーマンで占められ、経営破綻でもしなければ外部から経営者を迎えいれることはない。
経営者が市場競争から守られているように、労働者もまた年功序列と終身雇用によって生涯の生活の安定が保障されている。だがこれは、もともと持続不可能な制度だった。
日本ではいったん正社員を雇うと解雇は実質的に禁じられており、企業規模が無限に拡大していかない限り人事のピラミッドはいずれ崩壊してしまう。そのため解雇の容易な非正規雇用が拡大し、サービス残業で過重労働を強いられる正社員と、いつクビになるかわからない不安定な非正規社員という二極化が大きな社会問題となった。
こうした社会問題を解決するには、いったん職を失っても短期間で同等の仕事を見つけられるような流動性の高い労働市場が必要だ。
そのための改革はものすごくシンプルで、なおかつグローバルな正義の基準にもかなっている。
①定年制を法で禁止する。
年齢による差別が禁じられたアメリカと同様に、日本も定年制を法で禁止し、意欲と能力があればいつまででも好きなだけ働けるようにすべきだ(イギリスでも2011年から定年制が廃止された)
②同一労働同一賃金を法制化する。
すでに多くの批判があるように、社員を「正規」と「非正規」に分けるのは現代の身分制以外のなにものでもない。
③解雇規制を緩和する。
定年制を法で禁止し、非正規社員を正社員と平等に扱えば、ほとんどの会社は人件費の負担増で経営が成り立たなくなってしまうだろう。
この問題を解決するにはまず、社内において年功序列制度を廃止し、降格や減給も含めた人材の再配置を容易にする必要がある。それでも使い切れない人材が社内に残る場合は法に定められた補償金を支払うことで解雇し、労働市場に戻すべきだ。
これによって日本でもようやく流動性の高い労働市場が成立し、いまの会社でやりがいのある仕事を見つけられず窓際でくすぶっている人にも”再チャレンジ”の機会が巡ってくるだろう。
だが、これは日本のイエ社会主義を根底から覆す改革で、短期的には大きな痛みを伴う。
膨大な「社内失業者」が一気に放出されれば、失業率は欧米並みの10%に迫るだろう。その一方で、企業の雇用慣行はそう簡単には変わらないので、彼らがすぐに職を見つけれらる保証はない。そうなると行き場を失った人たちは失業保険や生活保護で食いつなぐか、自殺するしかない。これは政治的にはとうてい許容できない悪夢だ。
今から考えれば、日本は経済が好調だった80年代か、傷がまだ浅かった90年代前半に労働市場の改革を終えておくべきだった。その機会を逸したために、袋小路に入って身動きがとれなくなってしまったのだ。
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このネット時代にデータベースを官僚が独占しているってのもビックリだが(本当?)、1940年体制から(さらに言うと実は戦前から)日本の根本は何も変わってない、ということか。
ある意味すごいな。
ここまで変わらなかったものを変えるほどの圧力がグローバルスタンダードにはある、ということか。
恐るべしグローバルスタンダード。
だとすると不可逆で蔓延するグローバルスタンダードの波に乗っちゃえっていうアメリカの基本戦略は正しいということになる。
では日本はどうすべきか、著者の論は続く。