2008年10月31日金曜日

国立がんセンターへ

今日目が覚めると、妻が通常と全く同じ様に朝起きて朝食の支度をしている。
昨日の癌宣告が嘘のようで、夢であってもらえればなどと思う。
今日は柏の葉にあるがんセンターへ紹介状をもって診てもらいに行くことにした。
セカンドオピニオンの意味合いと手術の日程の確認である。
朝の諸々を終えて9時頃到着したのだが、完全予約制で予約がないと受診できないとのことで、11月5日に受診予約を入れて本日は終了。
完全予約制だからか、大病院にしてはロビーの人は少なく、他の病院で撮影されたレントゲンらしきものをもった人が散見された。

そのまま家に帰るのももったいないので、気晴らしの意味もあり、最近オープンした越谷のイオンレイクタウンに行くことにした。
久しぶりに二人きりで食事をしたり、買い物をしたりした。
「こんなの新婚時代以来ね」と微笑む妻に、ただ微笑むだけしかできない自分。
都内では買うのに2時間待ちとも噂されるクリスピードーナッツも買って子供達へのお土産とした。

子供達も学校から帰ってきて、普通の生活をしているなかで、ふと妻が
「この生活が長く続くと思っていたのに。。」と涙した。
昨日から気丈に振る舞っているが、やはり波があり、まだ現実として受け止めるには時間がかかる。
そういった妻に対して「きっと大丈夫だよ」と根拠のない励ましを繰り返す自分は全く無力である。

妻も私も、インターネットやら書物やらで直腸癌について知見を深め始める。
身内や親しい人たちへ徐々に癌の話を話し始める。

癌との闘いはこれからだ。
自分がしっかりしなければならないと強く思う。


2008年10月30日木曜日

妻の癌宣告

今日は妻の手術予定日で、午後から立ち会う予定だったのだが、午前中に病院から電話が入り、病院に向かった。
「術前の検査でポリープが発見されたので、本日の手術は中止、奥さんがショックをうけているようなのでできれば来てほしい」とのことであった。
医師から妻と一緒に説明を受けた。
医師は丁寧に言葉を選びながら、「直腸(S状結腸)にポリープがあり、病理検査結果はこれからであるが、明らかに悪性で、直腸癌の可能性が高い」ということを説明をした。
妻は元看護士なので、内視鏡の結果を見ただけで大体のことが想像できてショックをうけていたようだが、こちらは医師の説明をうけるまでどういうことなのか全く理解していなかった。
頭が真っ白になるなかで、一生懸命メモをとった。
「明日交通事故に遇うかも知れない」などと覚悟しているつもりだったが、いざ宣告されてみると、地に足がつかない状態になってしまう自分がいる。
自分ですらこうなのだから、本人の妻のショックやいかものであろうか。
せめて自分がしっかりせねばと思いつつ、色々な思いが頭を駆け巡る。
たまたま、妻と大学時代の共通の友人がその病院で看護婦をしていてバッタリ遇ったのであるが、宣告直後だったので楽しげな会話ができようはずもなく、通り一遍の会話に終始してしまった。
当初予定だった手術は行わないこととなったので、1週間の予定であった入院は本日にて終了。退院となった。
12月に再度入院し、摘出手術を行うことになった。
妻の予定より早い退院に子供達が喜んでいるのが不憫である。



『ソロスは警告する』 ジョージ・ソロス


ヘッジファンドの生々しい話かと思いきや、哲学の話が半分くらい占めています。

人間は市場の動きについて理解(認知)した上で、投資などの働きかけ(操作)を行う。だが、働きかけが行われた結果、その市場は変化し、さっきまでその人間が理解していた「市場」とは別のものになっている。そのため、人間は市場を”完全”に理解することができない、という「再帰性の法則」ーーーソロスの投資活動における中心的な法則らしいのですがーーーに至るまでの哲学論が書かれています。
投資家が哲学的なことを真剣に考えているという事実は面白いのですが、正直この法則が投資活動にどのように具体的に反映しているのかはよくわかりません。
(考え方自体もいわゆる社会構成主義的な考え方に似ている気がして、そんなに新しい考え方なのかと。。単に私の理解が足りないのかもしれません)

今回の一連のバブルを”超(スーパー)バブル”と位置づけ、この超バブルにも他のバブルと同じく、「信用膨張」という支配的なトレンドと「市場原理主義」という支配的な誤謬とが存在したとしています。
今後世界的に取られるであろう対応策としては、金融当局による規制の強化が挙げられています。

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ソ連におけるような政府の介入が例えいつも間違っていようとも、だからといって市場が完璧だということにはならない。
金融市場は均衡点に向かって収斂していくわけではなく、放っておけば興奮と絶望の両極端を行ったり来たりする方が普通なのだ。
だからこそ、金融市場には規制と介入がなされる。

手綱を解かれ、タガが外れたままの金融業界が経済を大混乱に陥れている。
従って、危機から脱出するには、まず金融機関に対する政府の監督と規制を再度強化しなければならないだろう。
とはいえ、金融市場を規制でがんじがらめにすれば、今度は経済活動が停滞してしまう。
市場は、経済の安定を維持できる範囲で最大限の自由を与えられなければならない。

金融界全体の存亡に関わる、金融機関の連鎖破綻のような自体は常に起こりうる。もし起こった場合には金融当局が事態を掌握しなければならない。
どれほど高くつき、面倒臭かろうとも、市場参加者は当局にきちんと情報を提出するべきである。
情報提出のコストは、金融市場が実際にメルトダウンを起こした時のコストに比べれば大したことはない。
また、信用創造に関与している金融機関は、自分たちが常に当局に守られている存在であるという事実を受け入れなければならない。そして守られている以上、その代価はきちんと支払わねばならない。
信用創造という経済活動は、どうしても規制を必要とするのである。
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こういう話を読むと、やっぱりJ-SOXは必要とされ続けてしまうのかなと思ったりします。

「私が今までで一番勉強させてもらった本だ!」という某氏の推薦文が載っていたのですが、推薦の仕方の難しさを感じさせる本でした。

2008年10月29日水曜日

妻の入院

本日、妻が入院した。
明日手術なので今日から会社の方はお休みをいただいている。
命に関わるような手術ではなく1週間程度で退院する予定なのだが、入院手続きをして病室に入り手術に関するビデオなんかを見させられる(事前レクチャー)と、なんとも不安な気持ちになってくる。
「成功率○割の手術」となった場合の家族の心境や如何に、というのが恐ろしい程想像できてしまった。
本当に家族は大切にせねば、とも思った瞬間であった。
どうか無事に終わりますように。

2008年10月26日日曜日

『すべての経済はバブルに通じる』 小幡績 


「ねずみ講」。これがお金の殖える理由であり、経済成長がプラスを維持するメカニズムであり、資本主義の本質である、という前書きから始まるバブル論です。

まず、「証券化の本質とは」が議論にあがります。

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証券化のプロセスは、単なる権利の移転にすぎず、経済的な実体としては、全体で何の変化を起こすものでもない。
証券化のメリットである
①リスクの小口化(投資金額の低額化)
②リスクを除去するプロセス(優良部分の抽出)
③リスクを純化するプロセス(統計的分散化メリットの追求)
といったことを組み合わせることで、資産に含まれるリスクを組み替えてリスクとリターンの”オーダーメイド化”をしたのが本質的な価値。

証券化の本質は「商品化」である。
標準化された投資商品は、その資産の特性の全てがリスクとリータンに反映されているので、複雑な個別の資産特性を考慮しなくても済むようになり、評価する手間暇が削減された。
商品化されることにより、投資家にとっての最大のリスクである流動性リスク(売りたい時に売れないリスク)が劇的に低減される。

ある資産を投資対象と考える投資家の裾野が広がっていて、有力な投資家が投資したり、価格に上昇傾向が生じているという事実に反応してこの資産に飛びついてくる投資家が幅広く存在している場合には、証券化というリスクのないビジネスモデルが完成する。
証券化とは素晴らしいマーケティング技術(一般商品のブランド化と一緒)であり、証券化ビジネスとはこの技術を使って、確実に構造的に儲かる仕組みを作り出すビジネスなのである。
それゆえ、証券化はストラクチャードファイナンスと呼ばれる。
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証券化することにより流動性リスクを低減し、「資本」を呼び込みやすくすることができるメリットがあるのですが、今回のサブプライムローンバブルにおいては、それを「リスクのない」(ネズミ講のような)ビジネスモデルにまで昇華(?)してしまったのが原因ということです。

冷静に考えるとありえないようなスキームを、どうして世界中の優秀な知性が集まっている金融業界がはまり込んでしまったのか。これについて著者は面白い見解を述べています。

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「資本と頭脳の分離」
資本(投資家)と頭脳(運用者)が分離すると、頭脳たるプロの運用者は、頭では分かっていても、顧客である投資家の将来行動に制約され、取るべきでないリスクをとってしまうという罠に陥る。
資産を預けた運用者(頭脳)の本当の能力を見分けられないために、投資家サイドでは結局パフォーマンスという結果でしかファンド運用者を判断できなくなっている。
投資家と運用者の間の情報ギャップと潜在的な総合不信という構造のもとで、運用者(ファンドマネジャー)同士が資本の受託をめぐって争うというメカニズムからきており、まさに、現代金融市場に特徴的な現象である。
「資本と頭脳の分離」が起きている現代の金融市場は、金融恐慌が簡単に起き得る構造となっているのだ。

プロの投資家はファンドに投資してもらうためにも、ライバルより高いリターンを上げる必要がある。
悪貨が良貨を駆逐するように、愚かで向こう見ずなファンドマネージャーが、賢明で慎重なファンドマネージャーを駆逐する。
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要は、ライバルよりも高効率で資金を運用できなければ資金(資本)を移動されてしまうという恐怖心から、分かっていてもリスクをとる。さらにいうと金融工学を駆使して「リスクのない金融商品」をつくっていった(「ねずみ講」のようなものとは知りながら。。)ということのようです。

バブルが何故おこるのかについては著者は「理由はない」と述べています。
しかし、今回のサブプライムローンバブルは通常のバブルとは違った意味合いをもっており、著者はそれを『キャンサーキャピタリズム』の発現による『リスクテイクバブル』であるとしています。

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何がバブルを膨張させるのか。それは「バブルであること」自体である。
バブルにおいては価格の上昇が需要を呼び、さらに価格の高騰をもたらすという循環が本質の全てであって、バブルに理由はいらない。(東京大学の岩井克人教授の「貨幣は貨幣であるから貨幣である」というのと同じで論理的には説明できない)

新しい投資家が、買い手として次から次へと現れる仕組み、すなわち流動性をシステマティックにつくり、リスクがリスクでなくなることが構造的かつ確実におこるようにするシステム、それがサブプライムローン債券の証券化スキームであった。

これはねずみ講のスキームと同じ構造であり、バブルの膨張・崩壊プロセスは、ねずみ講の生成、破綻のプロセスと同様の形態をとるのである。

本来はリスクを取ったものだけがリターンを得ることができるが、皆がリスクを取るようになればリスクがリスクでなくなり確実に利益を上げることができるようになる。このため、投資家たちはリスクに殺到し、リスクテイクを行うという行為が、得られるリターンに対して割高になってしまう。これが『リスクテイクバブル』である。
皆がリスクテイクに殺到している限り、それはリスクではなくなる。これがリスクがリスクでなくなるプロセスだ。
『リスクテイクバブル』は、通常のバブルを超えた21世紀型バブルである。

そしてこの『リスクテイクバブル』とは、『キャンサーキャピタリズム(癌化した資本主義)』の発現なのだ。

金融資本はあたかも意志を持つかのように自己増殖し、当初は経済を活性化するように見える。しかし、一旦増えすぎると、それはさらに増殖し、増殖した金融資本は投資機会を求めて世界中をさまよう。そして発見した投資機会を見つけてそれを食い尽くす。
自己増殖を止めない金融資本は投資機会を自ら作り出すことを求める。その成功により、金融資本はさらに増殖するが、実体経済に過度の負担がかかり金融資本に振り回されることになる。
ここに、本来は実体経済を支える存在であった金融資本が、自己増殖のために実体経済を利用するという主客逆転が起きる。
そして、これが最終的には実体経済を破壊し金融資本自身をも破滅させる結果をもたらす。
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本来、実体経済を支えるべき存在が、その自己増殖ゆえ実体経済を破壊し、自らをも破壊する様を「キャンサーキャピタリズム」と名付けたのはいいえて妙と思います。
金融資本が、「債券、株が危ない」となれば原油や金などの”現物”にとりつき、暴騰・暴落をさせる様は本当に癌が転移していくかのうような錯覚を覚えます。
また、癌細胞は健常な細胞と見分けがつきづらいので対処が困難な点も似ている気がします。
資本主義を「今のところ最善と思われているイデオロギー」と言っていた人がいました。
金融資本の動きが完全に実体経済を振り回している。ここのところの動きをみると、資本主義も次のステージへ昇華する必要があるような気がしてきます。

2008年10月21日火曜日

『21世紀の国富論』 原丈人


天才プロデューサーと言われている某氏から「最近読んだ中で一番のヒット本」ということで、お勧めがあった本です。

アメリカ流のコーポレートガバナンス(企業統治)が正であるとすると
「企業は株主のもの」⇒「株価をあげること」が企業の目的⇒ROE至上主義⇒
①ROEを高めるためには、資産売却、リストラ(縮小均衡による利益の創出)
②ROEの低い製造業には手を出さない
③短期的利益のみを追求し中長期的視野での投資がなくなる
ということで中長期的なモノづくりができなくなってしまう。
すなわち「企業は株主のもの」というのは間違いである、というところに論を発しています。

中長期的なモノづくりの観点からすると、自社工場を売却することで資産を軽減しこれによってROEをあげるようなことをするのはもってのほかであるとしています。モノづくりにあたって、R&D(研究開発)部門と生産部門を切り離せば、二つの間のフィードバックループは切り離されてメーカーとしての強みは失われてしまうからです。
中長期的な投資のためには企業の内部留保は必要不可欠で、”にわか株主”に配当で還元してしまうのは、モノづくりの力を弱めるとしています。

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「もの言う株主」の大半はヘッジファンド(もしくはのようなもの)で、企業が持つ資産に目をつけ、それを「有効活用」して企業を「活性化」すべしとうたっていますが、狙っているのは資産売却およびそれに伴う現金の配分、そしてそれにともなう株価アップです。「企業価値の最大化」という主張は隠れ蓑にすぎず、実際は短期の売り抜けが最大の目的です。

アメリカは多民族国家で多くの異なる文化的背景をもった人たちが一緒に働いているので、経営の判断を定性分析的なものから定量分析的なものへ変えていくために、様々な数字指標が採用されていきました。ROEもそのひとつです。
企業の目的自体が数字となってしまうと、経済全体がマネーゲームの様相を呈してきます。
「手段は目的たりえない」はずなのにそれが認識されないままに経営が行われているのです。
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最後は、
会社の存在価値は、まず事業を通じて社会に貢献することが第一、その結果として株主にも利益をもたらすというのが本来の姿。
手段と目的の取り違えが、現在の資本主義における最大の欠点。
仕事を通じて生き甲斐をつくり、その結果として個人も金銭的な富や社会的充実感を得る。その実現のために会社がある
」と結んでいます。


中長期的観点からすると根本的には新しい産業が必要、ということで著者は
PCU(パーベイシブ・ユビキタス・コミュニケーションズ)・・・人間が機械に合わせるのではなく、機械が人間に合わせるIT製品。コミュニケーションに基づいた次世代のアーキテクチャ。
というのを有望な産業として挙げています。
これがイメージしにくかったのがちょっと残念だったものの、アメリカ流のコーポレートガバナンスをベースとするのは中長期的にはモノづくりの力を弱めるという主張は、サブプライムに端を発した金融不況のまっただ中にいると非常に説得力のある内容です。

2008年10月18日土曜日

ポートラム





















富山のLRT『ポートラム』に乗ってきました。

このLRT、JR西日本が運行していたのを富山市(正確には第3セクター)が路面電車化して2006年に開業した、LRT(Light Rail Transit)の日本で初めての本格的導入事例です。
TX(つくばエクスプレス)と同じ年の開業で、どちらも前評判では「絶対失敗する」といわれながら、開業してみたら健闘しているというのも共通点です。
たかだか7㎞ちょっとの路面電車を見に全国から1000人以上の視察団が訪れるというのですから、そのPR効果たるや絶大です。

しかしながら「名物にうまいものなし」ではありませんが、正直乗ってみた感想は、こんなものかって感じです。やはりストラスブールなどの本家の方がパーク&ライドの基地もあったり、LRTの交通網がきっちりできていたりですごかったです。

車両については海外からの導入で、デザインは洗練されていますし、車内はLED間接照明が使われていたりで先端性を感じさせます。
「あら、久しぶりに緑のやつをみたわねぇ」と話ている親子がいたり(全部で7つの車両があるようです)、通りの2階から運行しているLRTの写真をとっている子供がいたりで、市民からは愛着をもたれているのも感じられました。
いずれにせよ「LRTといえば富山」ということで定着してきていることがすごいことだと思います。

2008年10月17日金曜日

琵琶湖


先日出張で、湖西線に初めて乗りました。
月並みではありますが、窓の外に広がる琵琶湖をみて「まるで海みたいだ」などと思ってしまいました。
「滋賀県の大半は琵琶湖」などと尤もらしい話もありますが、実際には滋賀県の面積は4,017㎢、琵琶湖は670㎢なので、琵琶湖の占める割合は滋賀県の1/6程度です。
日本第2位の霞ヶ浦の大きさが167㎢なので、如何にその大きさが突出しているかが分かると思います。
よく「琵琶湖の水系が汚染。。」みたいな話を聞くにつけ「大げさな話だ」などと思ってましたが、恐らく地元の人にとっては海洋汚染と同じ位の意味合いをもつであろうことが容易に理解できました。

2008年10月12日日曜日

四六のガマ



先日、つくばへ仕事で合宿に行って来た時のこと、”つくば”といえば「四六のガマ」ということで本物がお土産やの店先で飼われてました。
この四六(しろく)のガマとは、前足が4本指、後足が6本指のガマのことです。
普通のカエルだと基本的には前足後足ともに五本指のところ、四六のガマの場合、前足の第一指(親指)にあたるものは痕跡的な骨があるだけでパッと見は四本に見え、後足では、第一指のそばに番外指と呼ばれるこれも内部に骨のある瘤(こぶ)があるので、六本指に見えるのだそうです。

ガマの油を一つ買ってみましたところ、効能は「皮膚のカサツキ、肌荒れを防ぎ、キメを整える」とありました。
筑波山麓永井村の兵助の口上にある”ガマの油”みたいに「切ったところがハイこの通り」っていうような過大な表現は現代では通用しないってことでしょうか。
ちょっと寂しい気もしますね。


2008年10月11日土曜日

津軽三味線

先日、新浦安のバリレストランにいた時のこと。
たまたま津軽三味線をひかれる木村さんという方が生で演奏してくれるのを目の前でみる機会に恵まれました。
津軽三味線といえば吉田兄弟が有名ですが、間近で見るのは当然初めて。とても新鮮で感動しました。
三味線って思ってた以上に色々な音を出すことができて、静かな感じから激しいビートまで様々な楽曲に対応できる楽器であると思いました。
木村さん、お年を聞いたら21歳とのことで、これからまだまだ伸びる年齢ですが、もうほとんど名人芸の域。指の動きの早さなんかはもう圧巻。
津軽三味線自体も思っていた以上にシンプルで洗練されたデザインでした。(もっとコテコテの日本っぽい感じしかしらなかったので)

何の分野であれ名人芸を見るとワクワクしますね。

2008年10月8日水曜日

企業買収に成功するための5つの原則

P・F・ドラッカーによると事業上の目的による企業買収に成功するためには5つの原則があるらしいです。

①企業買収は、買収される側に大きく貢献できる場合のみ成功する。(買収される側が買収する側に何を貢献できるかではない。買収する側が貢献できる内容は、経営能力、技術力、販売力など様々)
②企業買収は、買収される側と共通の核がある場合にのみ成功する。(共通の核となりうるのは市場であり、技術、あるいは共通の文化である)
③企業買収は、買収する側が買収される側の製品、市場、顧客に敬意を払っている場合にのみ成功する。(やがて、事業上の意思決定が必要となる。そのとき、製品、市場、顧客への敬意がなければ決定は間違ったものとなる)
④企業買収は、買収される側に一年以内にトップマネジメントを送り込める場合にのみ成功する。(マネジメントを買えると思うことは間違いである。社長だった者が事業部長になって満足しきれる訳がない。)
⑤企業買収は、最初の1年間に、買収される側の者と買収する側の者を、多数、境界を越えて昇進させる場合にのみ成功する。(買収を、歓迎されるものに仕立てあげなければならない)

①の企業買収は買収する側が買収される側に大きく貢献できるのが前提というのはちょっと意外。大抵自社の足りない部分を補うために買収するような気がしていました。
②は当然のことですね。
③についても言われてみれば長い目で見た場合当然の帰結のような気がしますが、買収する企業の”顧客”に関しても資産の一部であると言う考え方なのでしょうか。聞けば納得感あります。
④、⑤については買収するなら本気でやり、人材については分け隔てなく扱う、と言うことだと思います。

いずれも言われれば納得感がありますが、原則として打ち出してくるのはさすがドラッカーと言った感じです。

サブプライム問題で”企業価値”が下がってお買い得になっている会社が多い中で「どこだったら我が社が買収して成功するだろうか」なんて夢想するのも悪くありません。

2008年10月5日日曜日

パーソントリップ調査


パーソントリップ調査の依頼書が我が家に届きました。
これって首都圏約3400万人の2%くらいを無差別抽出して依頼するらしいので、ざっくり50件に1件があたっちゃった感じです。
昭和47年に第1回目の調査を行って以来、昭和57年に第2回、平成6年に第3回、そして平成15年に第4回調査で今回が第5回と結構不定期に行われているみたいです。
記入内容は家族全員が1日どこからどこに移動したかを細かく記入する内容です。

指定の日付がたまたま仕事で合宿に行ってた日だったので、ちっとも普段の調査としては意味がないと思いつつ記入をしました。

結構最初面倒なので、返送しない人も多いのではないかと思うのですが、出さないと督促がくるのでしょうか。
試してみようかしら。

『Googleの入社試験』 竹内薫


非公認のGoogle入社試験問題集です。
「世界にピアノの調律師は何人いるでしょう」といったフェルミ推定的な問題からクイズ系、トンチ系、思想を問うもの、さらには本格的かつ世界最先端の数学問題まで色々混じってます。
正解がない問題も多いので、その人の思考の仕方を問うものことを目的として出題されているのでしょう。

個人的には回答を聞いて「あ、やられた。これなら答えられたな」という問題こそが素晴らしいと考えていますので、事例としてある「回答聞いても理解できないような数学問題」は記載の必要ない気もしましたが、多湖輝さんの名著「頭の体操」レベルを越えた問題もあるよ、という趣旨で載せているのでしょう。

簡単そうに見えて意外に難しいシンプルな問題として載っていたのを2つ程。
○時計の長針と短針は1日に何回重なりますか?
○同じ大きさのボールが8個あります。そのうちの7個は同じ重さで、1個は他よりすこしだけ重くなっています。1つの天秤を2回だけ使って重いボールを見つけてください。

2008年10月4日土曜日

携帯電話


先日会社の歓送迎会でした。
送別される方の何人かが紙のメモではなく、携帯電話の画面を見ながら最後の挨拶を話していました。
こんな光景は初めて見ました。
うちの会社ではこの半期に SNSが使われるようになったので、そのSNSに記載された内容を携帯電話でみながらコメントしていたようです。
既にペーパー型のディスプレイができつつあるという話も聞きます。
どんどん”メディア”と呼ばれるものが変化していくのを感じた瞬間でした。