2016年12月31日土曜日

『頭を下げない仕事術』

石川県羽咋市の職員さん時代に、ローマ法王に羽咋市で取れた米を食べてもらって「神子原米」ブランドとして売り出したり、NASAから月の石やルナ/マーズ・ローバー(月火星面探査車)を100年間借受けることに成功して「コスモアイル羽咋」を創設したりした、異色の市役所員、高野誠鮮氏の著作。
タイトルだけ見ると不遜な感じを受けるが、書かれている内容は全く逆。

利他の精神こそ重要という観点で、
「重要な交渉であればあるほど、相手をどうしても説得したい時ほど、人は頭をさげるが、それは失敗の道。 本当に相手のためを思う。利他の心で仕事をすれば、自ずと頭は下がらなくなる。」
というのが本書タイトルの趣旨。

そして、陽明学ではないが、「やってみること」の重要性を説いている。
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○「戦略」をたてる際には「やったことのない人」(予言者)の言葉に惑わされないこと。 「戦略」を考える際、そのアクションを実際にとったことのある人の「体験談」は大いに参考になるが、何もやったことがない人の話は「雑音」以外の何物でもない。
○「予言者」タイプの人には、本当にギリギリの選択が迫られるようなシビアな判断を下すことはできない。経験がないから、「戦略」というものが理解できず、目の前にあることをなんとなく「知っているつもり」で処理していくことしかできないからだ。
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そして、やってみること、自分ごととして判断することを国として実行できている国としてアメリカを挙げている。
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○アメリカは近代以降、常に世界の先頭を走ってきた国。緻密に張り巡らされた戦略があり、それを実行してきたからこそ世界のリーダーという実績に結びついてきた。その意味で「最も経験のある国」。
しかも、この国が素晴らしいのは、そんな過去の戦略を惜しげもなく公開していることだ。こんな「経験のある国」が書いたものは、仕事を成功に導くヒントが随所に潜んでいる「宝の山」以外の何物でもない。
○1953年に開催された「ロバートソン査問会」はCIAが、どうしたら大衆が動くのか、人がなびくのかという戦略を話し合った会合。そのレポートは、当時のアメリカ中の叡智がまとめた。国防総省のトップや、ノーベル賞をとった物理学者、天文学者など、皆口や論理だけではなく「自ら経験した人」たち。
そのレポートによると、人は目と耳に自然と流れ込んだ情報により、最も強力に扇動されるという。
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そして、このアメリカが生き残るために最も参考にすべき国・民族として挙げたのがなんと日本ということ。日本人はもっと自信を持っていい。
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○コミュニティの中にいると、内部の悪いことしか見えてこず、中々良いところには気づかないもの。日本人は特にその傾向が強い。
自分の子供は悪いところがよく見えて叱るが、他人の子供はいいところがよく見えたりする。それと一緒。
○1968年のNSA(国家安全保障局)の草案。地球外の行動な知的生命体(宇宙人)と公式に交流しなければならなくなった場合に、何を参考にすればいいのかというレポート。
地球人が高度な文明、科学力を持つ宇宙人と接触し、交流を重ねていくことを想定した場合、地球上で最も参考にすべきケーススタディとされた国と民族、それが日本であり、日本人とされている。
○日本は長い鎖国の後、自分たちよりも科学技術が優れた西洋文明と出会いながらもそれに呑まれることなく、独自性を保ち、やがては西洋列強と並ぶまでに成長した。
○その日本民族分析の一部を抜粋。
①他民族(宇宙人の想定)よりも劣っている自らの特質は全面的かつ率直に認める。
中略
③無理強いされてもやむを得ない状況にある相手側との交渉においては、相手側に有利な行動のみをとるなど、極力、自制する。
④相手側に対しては品行方正かつ有効的な態度をとる。
⑤相手側の技術的、文化的強さ及び弱さの全てを可能な限り(地球の)全民族が一致して熱心に学び取る。
○こうした民族性があるから日本人は、文化や科学の水準が高い民族と出会っても生き残ってきた。彼らはそう客観的に分析している。
○サバイバルのモデルは「日本民族」であるという考察を紹介。
「もしUFOの一部が彼らの乗り物であるとするならば、彼らの方が我々よりはるかに行動な文明を有していると考えられる。地球上の歴史を見ると、技術的に進んだ文明を送れた文明が遭遇した場合、技術的に進んだ文明の方が概して攻撃的であり、技術的に遅れた文明は、制服されるか絶滅するといった運命を辿ってきた。したがって、UFOが地球以外の知的生命体の産物であるとするならば人類にとって脅威である。遅れた文明が、進んだ文明に遭遇した際にとるべき生存のための方策は、いくつか考えられる。一番良い方法は、かつて日本民族が成功したように、自己の独自性が失われないうちに大至急進んだ文明の技術的文化的な強さの秘密をできるだけ早く学び取ることである。できれば選りすぐった人たちをその世界に送り込んで生活させ、進んだ文明の長所・短所を学び取る必要がある。できる限り素早く、可及的速やかに学び取ることだ。」
○「富国強兵」のため、日本の官僚たちは輸出産業の強化を目指した。 当時、欧州では紅茶が人気だった。紅茶の輸出元といえば、スリランカ、やインド、中国などが有名だが、実は日本でも官僚が主導して、四国の四万十や九州の島原などで紅茶を生産、輸出していた。
紅茶など、当時の日本では誰も飲んだことがなかった。しかし、欧州などに留学経験があった当時の高級官僚は、これが世界の「戦略農産品」だということを肌身で感じていたのだ。
まさしく彼らは「役人」として日本の役に立つことを真剣に考え、死に物狂いで西洋の戦略を取り入れていたのだ。
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仕事をしていくにあたって、やってはいけない心得について。
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○一言で言うと「金色夜叉」。これは貫一・お宮の小説で知られる言葉。
もともと、「金色」は金欲、そして「夜叉」とは権力欲を表している。
仕事をしていく上で、「金色夜叉」にとらわれれてしまうのは、間違いなく破滅の道。
○日蓮聖人『開目抄』に「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」とある。
徳の低い人から褒められるのは、自らの徳の低さを示す、ということ。
○「金色夜叉」、「褒められたい」という煩悩以外にもう一つ、破滅の道へと導くものがある。それは「セクショナリズム」(セクト主義)。
「セクショナリズム」というのは、結局は自分自身を殺すような愚かな行為。
「セクショナリズム」のことを考えるといつも「がん」が頭に浮かぶ。
「がん」がなぜできるか。がん細胞というのは周囲の細胞と比較してもセルフィッシュ(利己主義)、つまり「自分だけ生きたい」という力が強いため、周囲の細胞を殺し、やがて全身を蝕み、殺してしまう。
○このように愚かなことであるにも関わらず、世の中のほとんどの人は無意識にセクショナリズムに囚われてしまっているという厳しい現実がある。
それを象徴するものの代表格が「企業秘密」。
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BREXIT、トランプ大統領など今年の想定外は全て「ナショナリズム」の傾向を示している。ナショナリズムとはすなわち「自国最適」と言うことだ。ある意味セクショナリズムとも言える。
「自国だけが栄えれば良い」と言う発想が強くなりすぎると、その国は地球の中での「癌細胞」となってしまうのではないだろうか。


本当の自然由来のものは「腐らない」。「枯れる」のみ。
と言うのも新鮮だった。
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○青森県で完全無農薬のリンゴ栽培(奇跡のリンゴ)に成功した農業家の木村秋則(あきのり)さん。
「あのね、高野さん。自然栽培でつくったものは枯れるの。腐るのは、そこに余計なものが入っているからなの
○木村さんの農法で作ったリンゴは腐らない。枯れる。
人間の手を加えられず、自然のままに育ったものは、本来腐らない。
腐っている山菜はない。腐っている山野の木もない。自然の中にある植物というのはすべからく「枯れる」。
木村さんが実践している自然栽培で作られた野菜・果実の最大の特徴は「腐らない」ということ。
○なぜ、スーパーで売っているような野菜は腐るのか。これは化成肥料や未完熟な有機肥料という余計なものを使っているから。
○自然栽培と有機農法は天と地ほどの違いがある。そもそも、近年うたわれている有機農法は有機ですらない。
昔は有機肥料を作るのに4〜5年間の時間をかけていた。発酵したキノコの臭いや土臭い香りがしてくるまで完熟させ、ようやくはじめて肥料として使えたわけだ。
しかし今は効率化のため、ほとんどの場合においてこれを強引に時短させ、わずか1年で有機肥料をつくってしまう。
江戸時代には、有機肥料を作るのが火薬奉行だった。古来、成熟1年程度の有機肥料は、火薬の原料だった。火縄銃や大砲の火薬を作るため、糞尿、枯葉を用いて、 1年ほどで硝酸カリウムの濃度をピークにまでもっていって結晶化する。そしてこれに硫黄と炭とを混ぜて黒色火薬をつくっていた。
しかし、この「1年もの」は、火薬にこそ適しているものの、肥料として使うには大変危険なもの。火薬の元となる成分(硝酸塩)を人が食べると、胃酸と反応してニトロソ化合物が生成され、危険な発がん性物質になる。
○こういった中途半端な有機肥料を用いた野菜はよく虫に食われる。
「うちの大根は虫に食われているからうまいぞ」なんてこともよく聞く。
でも違う。本当は逆で、自然界にある野菜は虫に食べられない。
腐ったものにハエがたかるように、腐敗臭が虫を惹きつける。腐ったものは人は食べられない。それを虫は我々に教えてくれる。警告者のような役割を実は虫たちは担っている。
○この自然の摂理は、仕事においても全ての根幹をなす原理原則。
会社のためを考え、相手が喜ぶようなことを考えて仕事に取り組んできた人は、皆に惜しまれながら定年退職をする。これは、サラリーマンの「枯れる」姿。
我欲という「余計なもの」を心に入れず、「滅私奉公」で勤め上げてきた人間というのは枯れていく。
しかし、自らの金欲や出世欲のためだけに働いていた人間は、決して枯れない。
「余計なもの」で心が満たされているから、腐る。
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「枯れる」サラリーマン。。個人的にもテーマとなりそうな内容だ。

地域活性化に関する著者の意見。
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○我々は「身体」という優れたものから大いに学び、模倣すべき。
例えば、身体は必要な場所に必要な量の血液しか流さない。
経済において、貨幣は血液にたとえられる。必要な場所に、過不足のない正しい量が流されれば、細胞は健全に成長し活動する。そしてその血液(=貨幣)は適切に消費されたのちに静脈に戻っていく。
この理想的な循環システムを経済は模倣すべき。
○地域の活性化にも言える。
人体の部位をずっと動かさずに放置するとどんどん痩せていく。「身体」は「痩せるのは動かさないから」という真理を我々に教えてくれる。
地域において「動かさない」というのは、経済活動がないということ。人は来ないし、お金も落としてもらえない。商店街はシャッターの降りた店ばかり。
これはその地域が痩せ細っている状態。だったら手当てをしなければならないが、ここで勘違いをしてはいけない。
「頭」で考えると「痩せるのは栄養が足りないせいだ」という理屈から、痩せた地域にじゃぶじゃぶと、ひたすら税金という栄養を送り込みさえすればいいと勘違いしてしまう。
廃れていくのはお金がないからではない。
「動いていない」ことが問題なのだ。 地域を活性化するのに本当に必要なのは「動かす」こと。
組織や地域社会を闊達に動かす。
もし限界にまで達しているような集落ならば、まずは全体のリハビリ運動から。
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その昔学生時代に、手賀沼の「富栄養化」について調査した時、
「”栄養化”っていいことじゃないの?」
と思ったことを思い出す。
手賀沼の場合、富栄養化により、アオコなどの植物性プランクトンが増殖しすぎて、水中の酸素が欠乏し、魚の棲まない死の沼となるということ。(実際当時の手賀沼は日本で一番水質の悪い湖沼として名を馳せていた)
簡単にいうとバランスが取れている生態系にとっては、プラスに振れようが、マイナスに振れようが、どちらであっても大きくブレることはサステナブルではなくなるということ。
地方活性化においても、いきなり税金投入ではなく、まずは「動かす」ことを重点的にやるべきだというのが著者の考え方だ。
地方で実績を残してきた人の考え方だけに重みがある。


著者はいろんな実績を実際に残している訳だが、それを実現するためのコツを他にも披露している。
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○交渉では「お願い」ではなく、情報を伝え、「相手の事情」を尋ねる
仕事で誰かの協力を得たいときは、「お願い」ではなくて「質問」をする。この大切な考え方は、神奈川大学名誉教授の、宇宙物理学の世界的権威、桜井邦朋先生から教えられたもの。
情報は「遠方」から流す
日本人には近い存在のものを過小評価する傾向がある。情報というのは、雪山を転がる雪玉のように、長い距離を転がるほど大きくなり、勢いが増すもの。
今いる場所からできるだけ距離が離れた遠方に飛ばした方が勢いをもって戻ってくる。
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著者は日本の「戦略的農産物」に関する提案もしている。
宇宙、地球、国、地域、生物といったことを同じメタファーとして捉えられる人は色んなことを考えることができるようだ。

タイトルだけ見ると記載されている内容を曲解しそうな本だが、非常に良書。
読みやすいし、色んな人にオススメ。



2016年12月10日土曜日

『住友銀行秘史』

イトマン事件で独自で奔走し、大蔵省とマスコミに「内部告発状」を送った國重氏の曝露本。
國重氏の当時のメモを補完する形で時間軸に沿って書き進められているので、全体像が分からない推理小説のような面白みがある(読者は著者と同じ情報しかない中で読み進めることになる)。
そして恥ずかしながら、イトマン事件についてもよく知らなかった(推理小説における結末も知らなかった)ので、非常にドキドキと楽しめた。

現場と離れた大組織のトップの世界においては保身が横行し、やるべきことをやる人、言うべきことを言う人が動かないことで組織がおかしくなっていくと言う現実を垣間見た感じだ。

今、自分の業務でもそういった世界を垣間見ているので(レベル感は当書の内容と大違いだが)、國重氏の悩みや、憤りは非常に共感できた。

ただし、外部圧力(マスコミやら監督官庁)を使うために「告発状」を送付すると言うのは、一つ間違えると会社そのものをおかしくする可能性もある「不可逆な行動」であるので、いい意味でも悪い意味でも、たった一人の個人の考えでよく動けたものだと思った。

コトの大小はともかく、こういったことは星の数ほど繰り広げられているのであろう。
自分が仕事をするにあたって、誰か関係者が後に曝露本を書いても恥じることのないように生きていきたいものだ。

2016年11月6日日曜日

『超・箇条書き』

本屋でたまたま見つけた本だが、久しぶりに「使える本」を見つけた感じ。

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日本以外の多くの国においては、議論する中で、ある程度は意見が衝突した方が成果は生まれる。
しかし、日本では意見の衝突は他国に比べて少ししか許容されず、それを超えて意見をぶつけ合うと成果が失われる。日本では他国よりも、「意見と人格が同一視されがちだから」という理由だ。
議論において、意見の衝突や否定が続くと、日本では意見を否定された人は、自らを否定されたように感じ、相手を遠ざける。
立場が逆でも同じようなことが起こる。意見を否定した人は、その相手自体を遠ざけるようになる。
このため、日本では一般的に率直な意見は好まれないし、成果につながりにくい。
率直な意見が成果を生み出さない社会においては、箇条書きは場合によっては「伝わり過ぎる」面がある。だから、日本では箇条書きを使わないことが、ある程度は合理的だった。
だが時代は変わった。これからの社会は情報過多の社会だ。「情報量に対して人間の情報処理能力が足りていない」という時代の流れがある。
このような情報過多の時代だから、「短く、魅力的に伝える」こと、つまり情報を選別し、少なくすることの価値が増えている。
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世界的には「ビュレット ポイント(Bullet Point)」という「箇条書き」であるが、これをさらに一工夫して「理解しやすく、共感を得やすく、行動を誘発する」技術が『超・箇条書き』である。


『超・箇条書き』は、普通の箇条書きの「羅列化」の他に、3つの技術的要素が加わる。
<3つの技術的要素とそのポイント>
「構造化」:相手が全体像を一瞬で理解できるようにする→レベル感を整える
 ・自動詞と他動詞を使い分ける
 ・直列と並列を意識する
 ・ガバニングを効かせる
「物語化」:相手が関心をもって最後まで読みきれるようにする→フックをつくる
 ・イントロで引き込む
 ・MECEはあえて崩す
 ・固有名詞を使う
「メッセージ化」:相手の心に響かせ行動を起こさせるようにする→スタンスをとる
 ・隠れ重言を排除する
 ・否定を巧みに使う
 ・数字を入れる


言ってしまうと本書の内容はまとめてしまうとこれだけ。
この内容が各ポイントごとに分かりやすく事例を用いて書かれている。

個人的に非常に勉強になったのは相手の理解を助けるための「自動詞と他動詞の使い分け」の以下の部分。
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相手の理解を楽にするグルーピング 最初におさえておくべきポイントは、「状態・現象」(静止画)を伝える文と「行為」(動画)を伝える文を分けること。

ある瞬間の静止画、すなわち「そのときの状態」を伝えたければ、1つ一つの文に「自動詞」を使う。
ある瞬間の動画、すなわち「誰かが何かに影響を与える行為(あるいはその行為による因果関係)」を伝えたければ、1つ一つの文に「他動詞」を使う。
つまり、「自動詞を使った状態・現象を伝えるグループ」と「他動詞を使った行為を伝えるグループ」に分けるのだ。

同じ動作を伝えるにしても、自動詞を使い「状態」として伝えると、因果関係を曖昧にできるので、責任逃れができる。
日本語は、英語に比べて主語や目的語を消して、自動詞を使うことが多い。
例えば日本語では「驚いた」のように主語や目的語を入れずに「自動詞を使って状態を表現する」ことが多い。
一方英語では、「He surprised me」のように、主語や目的語を入れ、「他動詞を使って行為を表現する」ことが多い。
理論言語学を研究する畠山雄二氏(東京農工大学准教授)によると、この違いは文化的なものだという。責任を曖昧にする文化のために、日本語は「自動詞を使って表現する」ことが多い。

ベタ書きの長文なら問題にならないが、箇条書きの特徴は、情報処理の負荷を減らすために、情報量を削っていることにある。その中で自動詞と他動詞の使い方を誤ると、正しく意味が伝わらないことがある。

体言止めで書くと、状態なのか行為なのか、そしてそれぞれ過去なのか、現在なのか、未来なのかという6通りの意味の可能性が出てくる。体言止めというのは、多義的であり、曖昧なのだ。
本来動詞であったところを名詞にして体言止めするのは、全体像の理解を妨げる。
このため『超・箇条書き』では体言止めはご法度なのだ。
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う〜ん、なるほど意識したこともなかった自動詞と他動詞の使い分けにも奥が深い文化レベルの違いがあったのか。

あえてMECEを崩して表現し「物語化」するというのも、今の業務をやっていてちょっと疑問に思っていた点を見事に解説してもらった感じ。

常日頃から利用する「箇条書き」。
自分の箇条書きは日々活用している。人と比べてもよく使う方だ。
今日からは「超・箇条書き」に進化できるよう実践していきたい。

2016年10月29日土曜日

『グループ経営入門』

会社の仕事を推進するにあたり、勧められた本。
非常に分かりやすく、グローバル時代の本社業務の基本を知ることができる本。

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経営における難しいさは、「やりたいこと」(=事業)を行うにあたって、「先立つ物」(=財務)をどう工面し、「取り組む人」(=組織や人材)にどう頑張ってもらうか、というところにある。
しかし、日本において戦後連綿と続いてきたのは、企業に対して「安定化装置」を取り付けるような仕組みだった。
「先立つ物」の面倒は全て銀行に任せ、「取り組み人」は”終身雇用・年功序列・協調的組合”問いう日本型経営システムを採用することで、不安定な3つの存在のうち、2つまでを取り除いてしまった。

日本企業は、オペレーションについては得意である、とよく言われる。
しかし、オペレーションをいくら頑張っても、それだけではマネジメントをやっていることにはならない。
本書の趣旨は「オペレーションではなく、マネジメントをやろう」ということに尽きる。
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<グループ経営の成功に向けた5つの提案>

1 理念も数字も「ゴール」を決めて共有する
2 まずは「投資家」に徹し、事業を見極める力を磨く
3 「投資家」として必要な武器はきちんと揃える
4 「エラいだけの本社」にならず、連携を促す力を発揮する
5 グループを束ねていく時に、「きれいごと」ばかり言うのはやめる

<左脳的企業価値と右脳的企業価値>

「土台」(利潤追求の成功度を測る指標)=左脳的企業価値(定量的)
「大黒柱」(企業として追い求める目的)=右脳的企業価値(定性的)
は異なる。両方とも大切。

(左脳的な)企業価値
企業価値=負債及び株主資本にかかるコストを勘案した後の、その企業が生み出す将来キャッシュフローの現在価値の総和
企業価値が成功を示す指標であるならば、やるべきことは3つ。
1 「やりたいこと」をやって結果としての「キャッシュベースの利益」を増やす。
2 「やりたいこと」をやった結果としての「キャッシュベースの利益」が、それに必要な「先立つもの」を手当てした結果としての「投資家に対するコスト」よりも小さいような事業はそもそもやらない(逆の場合はやる)
3 「先立つもの」を手当てした結果としての「投資家に対するコスト」を減らす
(3については、①「情報開示」を充実させること、②信用リスクが顕在化しない範囲において、安いコストの負債を適度に取り混ぜること、により実現する。)

(右脳的な)企業価値
「企業がその存立基盤として大事に守っている価値」は、何かを決める際の判断指針になる。
このうち最も上位にある概念を英語ではMission(使命)という。
このミッションを、どういう態度で希求し続けていきたいか、といった考え方がバリュー(Value)。日本語に訳すと「価値観」。ミッションとバリューは、外部環境が大きく変わっても変わることのない「軸」となるもの。
次に出てくるのが「ビジョン」。ミッション、バリューを追求していくにあたって、長期的に何を行っていくべきか、将来どうなりたいか、という青写真のこと。
次が将来像を実現するために「戦略」(Strategy)。より具体的な方向や行動を詰めるとどうなるのかが問われる。アクションプランやマイルストーンも必要となる。忘れていけないのは数字。
次にくるのが「仕組み」(Management System)。戦略をやり遂げるために、どのような仕組みや仕掛けが必要なのかを考える。
最後に最も日常的な業務プロセス(Business Process)が規定される。

「神は細部に宿る」。経営陣が留意すべきは、「細部に至るまで、大きな『軸』と整合性を持って動くようなっているか」という点

「左脳的な企業価値」だけなら投資ファンドと同じ。
「右脳的な企業価値」だけなら慈善団体と同じ。
 誰かがこの2つの価値を繋げていかなければならない。脳の中だと「脳梁」の役割。企業においては、この「脳梁」の役割を果たすのが経営陣。
その最も重要な要素が、「営利を追求するにあたって、皆が共有できる成功指標を持つ」ということであり、「企業の存在意義としての目指すべき理念を共有する」ということ。つまりグループにおける共通言語を定める必要がある。これが第一歩。

第一歩を踏み出した後には、最も重要な要素が派生する様々な「共通言語」をさらに定める作業が必要になる。
左脳的な企業価値から派生する共通言語としては、経営管理手法の充実といったことが挙げられる。
右脳的な企業価値からは、ダイバーシティマネジメントの実践などが不可欠になってくる。
要は以心伝心では済まない相手に対して、なるべく共通言語を使って理解を深めるということ。そして、これらの仕組みや仕掛けを作っていくのは本社の仕事。

<本社が果たすべき機能 その1>

どんな企業にも3つの機能が存在する。
事業を推進する機能、事業を管理する機能、サービス提供機能(事業を支援する機能)

本社が果たすべき機能はこのうちの事業を管理する機能。その求められる機能は大きく3つ。
1 「見極める力」:本社の投資家的機能
 ①純粋な意味での投資家機能:各事業を見定め、経営資源を配分する
 ②投資家機能を発揮するためのインフラ整備機能:組織構造、経済構造の設計やマネジメントサイクルの運営など必要なインフラ整備を行う
2 「連ねる力」:本社の連携強化機能
 ③”戦略的”投資家としてのシナジー発揮推進機能:事業横断的な働き掛けを行う
 ④”戦略的”投資家としてのインキュベーション機能:新規事業や事業の入れ替え、撤退を支援する
3 「束ねる力」:本社のグループ代表機能
 ⑤外部に向けてグループを代表し経営資源を獲得する機能:経営資源を外部市場から効率的・効果的に調達する
 ⑥内部に向けてグループを一つにしていく統括機能:強固なアイデンティティをグループ内に示す

<投資家の機能>

投資家の機能
①事業化が行おうとしている事業が本当に確からしい事業なのか(運用方針)
②事業化はこれまできちんとした実績を上げているのか(運用実績)
③事業を行うにふさわしい体制を整えているのか(運用基盤)
を確認する。要は「情報開示」を求める。
そして事業家に対して規律付けを求める(企業統治)

これに対し、企業(資金運用者)は、
①戦略構築:活用と還元に関する将来仮説作り(運用方針)
②過去実績:仮説の正しさを証明する成果(運用実績)
③基盤整備:将来仮説を実行できるインフラ整備(運用基盤) を行う。

「先立つもの」、すなわち財務について考えることを安定化装置付き経営によって免除されてきた日本企業は、この「投資家」的機能にいまだ慣れていない。


<本社が果たすべき3つの機能 その2>
1 「見極める」力
まずは個別事業の見極め。
次に、②投資家機能を発揮するためのインフラ整備機能。投資方針を決定して、計画策定から実行、評価、フィードバックに至る一連のサイクルを回していくには、リアルタイムで様々な状況がわかるようにしておかなければならない。
インフラとして欠くことのできないのは、「アナリスト・ストラテジスト・エコノミスト」としての機能。
部門最適を追求する事業部門に対して、全体最適の観点からツッコミを入れるこうした機能は、グループ経営を進めていく上で不可欠なもの。

2 「連ねる」力
①と②は極めて一般的な投資家的機能だったが、③と④は「戦略的」という要素が付け加わる。単にファイナンシャルインベスターとして「安く買って、高く売って終わり」というのではなく、中長期の時間をかけて本質的な事業価値向上を追求するということ。
事業の組み合わせにより、単純な足し算以上のもになっていくようにすること。この価値は一般的にはシナジーと呼ばれている。
④についても、黙っていては新しい”起業家”は出てこない。新規事業を立ち上げる、その支援をする、あるいはM&Aを行う。新規事業創造機能ということで言えば、研究開発(R&D)機能も含まれる。

3 「束ねる」力
これは、グループ内に向けて投資家として発揮する機能とは異なるもう一つの顔。
グループ外に向けて、グループの代表者として振る舞う機能。「経営資源の調達」に際し、情報開示や企業統治について考えるのもこの機能。
また、外部にアピールできるような企業グループのあり方を確立して、利害関係者に理解を求めるには、グループ内部を一つにしていくことも大切。

これらはあくまでも本社部門の「機能」であって、「組織」ではない。
機能がしっかり定義できてさえいれば、経営企画部も財務部も人事部も一つ屋根の下でも全く構わない。
逆に、機能が定義できておらず、本社の仕事を理解していない人が本社で多く働いていると、その企業は間違いなく縦割りや官僚化が進み元気が無くなってくる。こうしたサイロのような組織の中で、受身的な規制対応だけに専念して仕事をした気になっている高圧的な本社パーソンなどが跋扈していたらもう最悪。

<新規事業について>

「何か新しいもの」「何か大きなもの」を探し続けるのは、まさに青い鳥を追い求めるのと同じ。まず成功しない。
得てして新規事業探索の責任者は、保守本流の事業を丸ごと代替できるような、有望で、規模も大きく、まったく新しい成長が約束された分野はないだろうか、と日々悩むことになる。
ちょっと考えればすぐにわかるのだが、そんな分野は「あるはずはない」。
まずは、青い鳥はいない、ということをしっかり認識すること。
寓話の結末を思い出すと、青い鳥が最後にいたのは自分の家。新規事業探索もこれと同じ。
本当は、自社が強みとするところを改めてじっくりと考え直し、本質的な強みから生まれる小さな事業の種を大事に育てていくことにしか解はない。

新規事業の重要度や、既存事業とのリンクの程度によっても変わってくるが、独り立ちできるようになるまでは、本社部門がきちんとバックアップできるような組織体制にしておくこと。
既存事業の傘下にぶら下げておくと、経営資源配分移管する意思決定権限を持つのが既存事業の責任者になってしまう。既存事業を代替するかもしれない事業となってくると、既存事業部門側が「継子いじめ」をすることもある。こうなると新規事業担当チームは孤立する。
一方、本社直属のチームにすればいいかというとそれも必ずしもうまくいくとは限らない。ただトップの実態ある庇護を受けていることが重要。

新規事業開発を考えていく際に最も重要な機能の一つは研究開発機能。
今の時代は、どちらかといえば本社部門の下に付けて、どこかの事業部門の占有になることを避け、次世代の成長に資するような経営資源配分を行いやすいようにしておくことの方が優先順位が高い。その方が、様々な事業部門が柔軟に活用しやすい。
企業における新しい事業は、企業側が持つ宝であるところの事業の種、すなわちシーズと、顧客が持つ事業の種、すなわちニーズとがうまくすり合ったところにチャンスが生じる。
研究開発部門と、事業部門との交流や、経営トップとの意見交換などを頻繁に行わせるような仕掛けが必要。
こうした「業際を刺激する仕組み」を作るのは本社の仕事。
研究開発部門と事業部オンとの交流を増やしても、研究開発部門が一体何をやっているのか、それがどう使えるのか、などがきちんと伝わらないことが多い。伝わらない原因はいろいろあるが、最もよくあるのは「言語が通じない」ということ。
研究開発ポートフォリオマネジメントをやることで、研究開発部門以外の人たちにとっても、自社の「タネ」の何が使えるか、に関して飛躍的に理解度が向上する。

「タネ」となる新技術と、それを使った製品やサービスとは分けて管理すべし。そうしないと、製品が技術以外の別の理由で終売となったりした時に、せっかくの「タネ」も一緒にお蔵入りになってしまう。

<子会社ガバナンス>

「任せるけど見ている」関係と仕組みづくり
1 「左脳的」企業価値向上のプラットフォーム作り=経営管理
2 「右脳的」企業価値向上のプラットフォーム作り=経営理念
3 「脳梁」の働きを活性化=ガバナンス

左脳型プラットフォーム構築について。これには親会社自身の経営管理の充実が不可欠それと同時にCFOポジションを押さえる。
日本では経理に毛が生えた程度にしか思われないポジションだが、多くの海外企業では経営管理の心臓部であり、ほとんどすべての情報はここに集まってくる。

子会社にガバナンスを効かせる3つのポイント
まずは、監査機能の充実。重要なのは、親会社から子会社を見るための監査。内部監査もそうだが、親会社の監査役には海外も含めた子会社をどんどん回ってもらう。
日本では従来よりあまり重視されていなかった機能だが、グローバルにグループ経営が進展するにつれ、この機能はそれがうまく回るかどうかの「キモ」となってくる。
2つ目は、取締役会など、ガバナンスを担う機能が本当に働いているかどうか、という点。親会社の役員が子会社の取締役を兼務している場合には、必ず出席を。
3つ目は、指名と報酬の仕組みの明確化。これには、相互の信頼とコミュニケーションの確立も必要。円滑な関係を築くためには、トップ同士が嫌という程濃いコミュニケーションを確立している必要がある。

<その他>
「利益は意見、キャッシュは事実」などという言葉もあるくらい、実は会社側の操作によって会計的な利益の額は変えられる。
オペレーションとマネージメント(経営)は異なる。
ピラミッドをある時点まで登ったら、逆にそこからピラミッドの全貌を見渡して、何が必要なのか、何が不要なのか、常にリスクを取りながら判断をしなければならない。そうした手腕は、専門分野を極めるのとは別の次元にある。
企業統治の「キモ」は指名と報酬。
指名委員会等設置会社においては、「監査」「指名」「報酬」の3つの委員会が立てられる。
「(悪いことをしたら)暴くぞ」「選ばないぞ」「お金やらないぞ」というプレッシャーをかけている。
人間心理を考えれば、経営者にとって嫌なのは特に後ろの2つ。「指名と報酬の意思決定の明確化」がなされているということは大切。


分かりやすく「陥りやすいパターン」についても記載されている。
先人の二の轍を踏まないように仕事を進めるためにバイブルとして身近に置いておきたい。

2016年10月10日月曜日

『SFA・CRM 情報を武器化するマネジメント7つの力』

業務直結系の本。
導入失敗の事例がわかりやすく書いてある(笑)

面白かったのが、顧客情報を囲い込む一匹狼型営業マンがなぜ悪いのかを、理屈でちゃんと説明しているところ。

<属人化していい領域・悪い領域>

営業には「属人化せざるを得ない領域」と「属人化させてはいけない領域」がある。
「属人化せざるをえない領域」とは、商談の場におけるコミュニケーション力やプレゼンテーション力などが該当する。
「属人化させてはいけない領域」とは、「商談の場において知りえた重要な情報」と「営業パーソンの考え方・作戦」が該当する。
後者を「うちは営業が属人化していて困っている」というのは単に「マネジメントの怠慢」。「お客様のことは担当の営業パーソンに聞かないとわからない」はマネジメントの怠慢以外なにものでもない。
(ちなみに前者は「属人化」が問題なのではなく、「人材育成プラン」に本質的な問題がある)
営業活動における「価値のある情報」とは、「手に入れたくても容易に入手できない情報」「いくらお金を積んでも譲ってもらえない情報」のこと。
ビジネスにおいて最も重要なことは「お客様を知る」こと。
前任の営業担当が取引先の情報を属人化した状態で、営業担当が交代した場合、最もストレスを感じるのは実は顧客。

<「数字出せばいいんでしょ症候群」>

現場のマネージャーが「短絡的な思考」を持ってしまうと「上から降りてくる戦略・方針なんて無視しても良い」という企業文化が根付いてしまう。
「数字を達成しさえすれば良い」「数字を出している営業パーソンには強いことが言えない」という風潮が出来上がってしまう。
このような企業文化が根強いものになると、やがて「今までのやり方から抜け出せない硬直的な企業」になってしまう。
企業を取り巻く経営環境は必ず変化する。経営環境が厳しくなって、いよいよ数字(結果)が出なくなった時にどうなるか。
「数字出せばいいんでしょ症候群」に陥っている企業は極端に業績悪化するリスクがある。
「今までのやり方から抜け出せない硬直的な企業」風土のため、挽回することも困難な状況に陥る。
お助け的で得てして許されている「隠し玉」案件も実はダメ。「隠し玉」は、貴重な情報の全てを奪ってしまう。
案件の「隠し玉」行為は、チャンスロスの懸念はもちろん、チームや会社そのものの成長を阻害するという大きな問題がある。


<SFA・CRMにおって情報を武器化する7つの力>

①営業の戦略・方針を現場に周知徹底できている
②営業の戦略・方針を実行できる情報が共有できている
③営業の戦略・方針を行動に移すことができる
④営業戦略の実行プロセスをモニタリングできる
⑤実行プロセスのマネジメントに必要なモニタリング指標が分かっている
⑥結果を分析するための数値情報が揃っている
⑦実行プロセスと結果の数字情報に基づいて「改善」を繰り返している

奇数番号は人間からのマネジメントに関する力で、偶数番号がシステムによるマネジメントの力。
「人間」と「システム」が両輪になるからこそ、マネジメントが機能する。
そして、「人間」と「システム」が両輪となって適切に前進するには「運用ルール」が必要。

<SFA・CRM導入成否を分ける「7つの要素」>

①導入目的
・目的が明確になっていること。
・その目的を本気で達成しようとすること
②主導権・推進体制
③活用プランニング
④詳細設計
⑤ツール選定(柔軟なツール)
⑥設定・開発(システム管理者)
・設定面・開発面の全体を把握するシステム管理者を位置付ける。
・自分たちで対応する範囲とシステム開発会社に依頼する範囲を明確に線引きする。
・スケジュールを含める全体コントロールは自社側で行う。
⑦教育・トレーニング
・「入れられる」ようにする・・入力すべき情報がわかっている
・「見られる」ようにする・・判断をしなくてはならない時にどの情報を見ればいいか見極めがついている
・「見せられる」ようにする・・情報に基づいて何が推測できるかを伝えることができる。
・「使える」ようにする・・蓄積された情報を必要に応じて活用できる。

<その他>

○目的と手段を混同しないこと。
SFA・CRMの導入の目的は、「企業の成長、売上・利益の最大化」のために「戦略実行のPDCAサイクルを最適化すること」
これはマネジメント変革プログラムである。

○「理解すること」と「行動に移すこと」は違う。

○顧客ターゲッティングで重要なことは「絞り込む」条件。
蓄積する情報の「狙いが明確になっている」ことが重要。「狙い」を明確にして管理する情報そのものを絞り込むこと。

○SFA・ CRMの活用は習慣化するところから始まる。
「使わせる」ことを目的にするのではなく、「なぜ使うのかを理解してもらうこと」を目的とする。

○SFA・ CRMの導入は、営業パーソンが「喜ぶところ」からスタートするのではなく、「覚悟するところ」からスタートするべき

○システムは柔軟性に富んでいるものほど望ましい。


せっかくの知見なので、最大限活用させていただきます。

『人工知能は人間を超えるか』

仕事上付き合いのあった建築家のY先生がFBにて勧めていて、今の仕事でも概念的に「AI(人工知能)とはなんぞや?」
を学ぶ必要があり手にとった本。
「人工知能」の来し方行く末のイメージが持てる本。
個人的には進化論とも絡んできて非常に面白かった。

<人工知能の来し方行く末>

人工知能にはこれまで2回のブームがあった。
1956年から1960年代が第1次ブーム。
1980年代が第2次ブーム。
1次の時も2次の時も、「人工知能はもうすぐできる」その言葉にみんな踊った。
しかし、思ったほど技術は進展しなかった。思い描いていた未来は実現しなかった。期待が大きかった分だけ失望も大きかった。
今や第3次ブーム。
うまくいけば、人工知能は急速に進展する。なぜなら「ディープラーニング」、あるいは「特徴表現学習」という領域が開拓されたからだ。これは人工知能の「大きな飛躍の可能性」を示すものだ。
一方、冷静に見た時に、人工知能にできることは現状ではまだ限られている。基本的には、決められれた処理を決められたように行うことしかできず、「学習」と呼ばれる技術も、決められた範囲で適切な値を見つけ出すだけだ。例外に弱く、汎用性や柔軟性がない。

人類にとっての人工知能の脅威は、シンギュラリティ(技術的特異点)という概念でよく語られる。人工知能が十分に賢くなって、自分自身よりも賢い人工知能を作れるようになった瞬間、無限に知能の高い存在が出現するというものである。実業家のレイ・カーツワイル氏は、その技術的特異点が2045年に到来すると主張している。
こうした人工知能がもたらすかもしれない脅威に、宇宙物理学で有名なスティーブン・ホーキング氏は「完全な人工知能を開発できたら、それは人類の終焉を意味するかもしれない」と警鐘を鳴らしている。
電気自動車で有名なテスラモーターズのCEOイーロン・マスク氏は「人工知能にはかなり慎重に取り組む必要がある。結果的に悪魔を呼び出していることになるからだ」と述べる。

高名な科学者ですら、一見すると非合理的な理論を持ち出して人間の特殊性を説明しようとするくらいだから、やはり、人間(だけ)が特別な存在であるというのは、誰もがそう願いたいことなのだろう。
人間を特別視したい気持ちも分かるが、脳の機能や、その計算のアルゴリズムとの対応を一つ一つ冷静に考えていけば、「人間の知能は、原理的には全てコンピュータで実現できるはずだ」というのが、科学的には妥当である。
そして、人工知能はもともと、その実現を目指している分野なのである。

<人工知能の定義>

人工知能の定義は専門家の中でも定まっていない。
ちなみに、私の定義では、「人工的につくれらた人間のような知能」であり、人間のように知的であるというのは、「気づくことのできる」コンピュータ、つまり、データの中から特徴量を生成し現象をモデル化することのできるコンピュータという意味である。

<人工知能のレベル>

世の中で人工知能と呼ばれているものを整理すると、次のようなレベル1からレベル4の4段階に分けることができる。
<レベル1>
単純な制御プログラムを「人工知能」と称している マーケティング的に「人工知能」「AI」と名乗っているものであり、ごく単純な制御プログラムを搭載しているだけの家電製品に「人工知能搭載」などとうたっているケースが該当する。
<レベル2>
古典的な人工知能 振る舞いのパターンが極めて多彩なものである。将棋のプログラムや掃除ロボット、あるいは質問に答える人工知能などが対応する。
いわゆる古典的人工知能であり、入力と出力を関係付ける方法が洗練されており、入力と出力の組み合わせの数が極端に多いものである。
その理由は、推論・探索を行っていたり、知識ベースを入れていたりすることによる。
<レベル3>
機械学習を取り入れた人工知能 レベル3は、検索エンジンに内蔵されていたり、ビッグデータをもとに自動的に判断したりするような人工知能である。
入力と出力を関係付ける方法が、データをもとに学習されているもので、典型的には機械学習のアルゴリズムが利用される場合が多い。
機械学習というのは、サンプルとなるデータをもとに、ルールや知識を自ら学習するものである。
最近の人工知能というと、このレベル3を指すことが多い。
<レベル4>
ディープラーニングを取り入れた人工知能 さらにその上のレベルとして、機械学習をする際のデータを表すために使われる変数(特徴量と呼ばれる)自体を学習するものがある。

言われたことだけをこなすレベル1はアルバイト、たくさんのルールを理解し判断するレベル2は一般社員、決められたチェック項目に従って業務をよくしていくレベル3は課長クラス、チェック項目まで自分で発見するレベル4がマネージャークラスという言い方もできるだろうか。

<人工知能の課題>

○高度な専門知識が必要な限定された分野ではよくても、より広い範囲の知識を扱おうとすると、途端に知識を記述するのが難しくなった。 例えば、何となくお腹が痛いとか、「曖昧な症状」について診断を下すことは、コンピュータにとって難易度が高い。
「常識レベルの知識」が人工知能にとって思いがけず難敵なのである。
コンピュータが知識を獲得することの難しさを、人工知能の分野では「知識獲得のボトルネック」という。
「フレーム問題」は、人工知能における難問の1つとして知られている。
もともとは人工知能の大家の一人、ジョン・マッカーシー氏の議論から始まっている。
フレーム問題は、あるタスクを実行するのに「関係ある知識だけを取り出してそれを使う」という、人間ならごく当たり前にやっている作業がいかに難しいかを表している。
○フレーム問題とならんで、人工知能の難問の1つとされるものに、「シンボルグラウンディング問題」がある。
認知科学者のスティーブン・ハルナッド氏により議論されたもので、記号(文字列、言葉)をそれが意味するものと結び付けられるかどうかを問うものである。コンピュータは記号の意味を分かっていないので、記号をその意味するものと結びつけることができない。
ロボット研究者の中には、このシンボルグラウンディング問題を、知能を実現する上で非常に重要な問題だと考えている人もいる。
ウマというものを本当に理解するには、現実世界における身体がないといけない。身体がないと、シンボルそれが指すものを接地させる(グラウンドさせる)ことができないため、こういったアプローチは「身体性」に着目した研究と呼ばれる。
「外界と相互作用できる身体がないと概念は捉えきれない」というのが、身体性というアプローチの考え方である。


<機械学習>

第2次AIブームでは「知識」を沢山入れれば、それらしく振舞うことはできたが、基本的に入力した知識以上のことはできない。そして、入力する知識はより実用に耐えるもの、例外にも対応できるものを作ろうとするほど膨大になり、いつまでも書き終わらない。根本的には、記号とそれが指す意味内容が結びついておらず、コンピュータにとって「意味」を扱うことは極めて難しい。
こうした閉塞感の中、着々と力を伸ばしてきたのが「機械学習(Machine Learning)」という技術であり、その背景にあるのが、文字認識などのパターン認識の分野で長年蓄積されてきた基盤技術と、増加するデータの存在だった。
ウェブ上にあるウェブページの存在は強烈で、ウェブページのテキストを扱うことのできる自然言語処理と機械学習の研究が大きく発展した。 その結果、統計的自然言語処理(Statistical Natural Language Processing)」と呼ばれる領域が急速に進展した。これは、例えば、翻訳を考える時に、文法構造や意味構造を考えず、単に機械的に、訳される確率の高いものを当てはめていけばいいという考え方である。

機械学習とは、人工知能のプログラム自身が学習する仕組みである。 そもそも学習とは何か。どうなれば学習したと言えるのか。
学習の根幹を成すのは「分ける」という処理である。
人間にとっての「認識」や「判断」は、基本的に「イエス・ノー問題」として捉えることができる。この「イエス・ノー問題」の精度、正解率を上げることが学習することである。
機械学習は、コンピュータが大量のデータを処理しながらこの「分け方」を自動的に習得する。一旦「分け方」を習得すれば、それを使って未知のデータを「分ける」ことができる。
機械学習は、大きく「教師あり学習」「教師なし学習」に分けられる。
「教師あり学習」は、「入力」と「正しい出力(分け方)」がセットになった訓練データをあらかじめ用意して、ある入力が与えられた時に、正しい出力(分け方)ができるようコンピュータに学習させる。
通常は、人間か教師役として正しい分け方を与える。
ロイター通信のデータセットというのが有名で、2万個の新聞記事のデータに135個のカテゴリが付与されているものが文書分類の研究ではよく使われる。
一方、「教師なし学習」は、入力用のデータのみを与え、データに内在する構造をつかむために用いられる。
データの中にある一定のパターンやルールを抽出することが目的である。
全体のデータを、ある共通項を持つクラスタに分けたり(クラスタリング)、頻出パターンを見つけたりすることが代表的な処理である。(頻出パターンマインニング、あるいは相関ルール抽出と呼ばれる処理)

機械学習は、ニューラルネットワークを作る「学習フェーズ」と、出来上がったニューラルネットワークを使って正解を出す「予測フェーズ」の2つに分かれる。
学習フェーズは、大量のデータを入力し、答え合わせをして、間違うたびに適切な値に修正するという作業をひたすら繰り返すので、とても時間がかかる。
しかし、いったんできてしまえば、使う時は簡単で、出来上がった重み付けを使って、出力を計算する。この作業は一瞬で終わる。
人間も学習している時は時間がかかるが、学習した成果を使って判断する時は一瞬でできる。

機械学習にも弱点がある。 それがフィーチャーエンジニアリング(Feature engneering)である。つまり、特徴量(あるいは素性(そせい)という)の設計であり、ここでは「特徴量設計」と呼ぶ。
特徴量というのは、機械学習の入力に使う変数のことで、その値が対象の特徴を定量的に表す。この特徴量に何を選ぶかで、予測精度が大きく変化する。
人間は特徴量をつかむことに長けている。 何か同じ対象を見ていると、自然にそこに内在する特徴に気づき、より簡単に理解することができる。
ある道の先人が、驚くほどシンプルに物事を語るのを聞いたことがあるかもしれない。特徴をつかみさえすれば、複雑に見える事象も整理され、簡単に理解することができる。

<誤差逆伝播>

答え合わせをして間違えるたびに重み付けの調整を繰り返して、認識の精度を上げていく学習法の代表的なものを「誤差逆伝播(Back Propagation)」 という。
どう調整するのかというと、全体の誤差(間違う確率)が少なくなるように微分をとる。
微分をとるというのは、つまり、ある1つの重み付けを大きくすると誤差が減るのか、小さくすると誤差が減るのかを計算するということである。
そして、誤差が小さくなる方向に、ニューロン同士をつなぐ線の重み付けのそれぞれに微調整を加えていく。
別なたとえ話で説明すると、ある組織において上司が判断を下さないといけない場面を考える。
上司は部下からの情報を基に判断を下す。自分の判断が正しかった時は、その判断の根拠となった情報を上げてきた部下との関係を強め、判断が間違った時は、間違いの原因となった情報を上げてきた部下との関係を弱める。
これを何度も繰り返せば、組織として正しい判断を下す確率が上がっていくはずだ。

<ディープラーニング>

2012年、人工知能研究の世界に衝撃が走った。
世界的な画像認識のコンペティション「ILSVRC(Imagenet Large Scale Visual Recognition Challenge)」で初参加のカナダのトロント大学が開発したSuper Visonが圧倒的勝利を飾ったのだ。
何がトロント大学に勝利をもたらしたのか。その勝因は同大学教授ジェフリー・ヒントン氏が中心になって開発した新しい機械学習の方法「ディープラーニング(深層学習)」だった。
ディープラーニングは、データをもとに、コンピュータが自ら特徴量を作り出す。
人間が特徴量を設計するのではなく、コンピュータが自ら高次の特徴量を獲得し、それをもとに画像を分類できるようになる。

通常、ディープラーニングは「表現学習(representation learning)」の1つとされる。

ディープラーニングは多階層のニューラルネットワークである。
3層でうまくいったものを4層、5層とすればもっと良くなるはずである。
ところが、やってみるとそうならなかった。精度が上がらないのだ。
なぜかと言うと、深い層だと誤差逆伝播が、下の方まで届かないからだ。
上司の判断が良かったかどうかで、部下との関係を強めるか弱めるかして修正する、これを階層を順番に下ってやっていけば良いというのが誤差逆伝播だったが、組織の階層が深くなりすぎると、一番上の上司の判断が良かったか悪かったかということが、末端の従業員まで到達する頃には、ほとんど影響がゼロになってしまうのだ。

ディープラーニングは、その多層のニューラルネットワークを実現した。どうやって実現したのだろうか。
ディープラーニングが従来の機械学習とは異なる点が2点ある。
1つは、1層ずつ階層ごとに学習していく点。
もう1つは、自己符号化器(オートエンコーダー)という「情報圧縮器」を用いることだ。 自己符号化器では、少し変わった処理を行う。
ニューラルネットワークを作るには、正解を与えて学習させる学習フェーズが必要だった。
ところが、自己符号化器では「出力」と「入力」を同じにする。
「手書きの3」の画像を入力して、正解も同じ「手書きの3」の画像として答え合わせをするのだ。
ただひたすら同じ画像のエンコーディング(圧縮)とでコーディング(復元・再構築)を繰り返すうちに、いかに効率的に少ない情報量を経由して元に戻せるかを学習していく。
そして、答え合わせの成績が良い時に、隠れそうにできているものが、良い特徴表現なのだ。
自己符号化器でやっていることは、アンケート結果の分析でおなじみの「主成分分析」と同じである。
自己符号化器の場合は、さまざまな形でノイズを与え、それによって非常に頑健に主成分を取り出すことができる。 そのことが「ディープに」、つまり多階層にすることを可能にし、その結果、主成分分析では取り出せないような高次の特徴量を取り出すことができる。

コンピュータが概念(シニフィエ、意味されるもの)を自力で作り出せれば、その段階で「これは人間だ」「これは猫だ」という記号表現(シニフィアン、意味するもの)を当てはめてやるだけで、コンピュータはシニフィアンとシニフィエが組み合わさったものとして認識する。ここまでくれば次からは人間や猫の画像を見ただけで判断できることになる。
ところが、少し理解が難しいのは、得られた特徴量を使って、最後に分類する時、つまり、「その特徴量を有するのは猫だ」とか「犬だ」とかいう正解ラベルを与える時は、「教師あり学習」になることだ。
「教師あり学習的な方法による教師なし学習」で特徴量を作り、最後に何か分類させたい時は「教師あり学習」になるのである。
結局、教師あり学習をするのなら、ディープラーニングをやってもあまり意味がないと思うかもしれないが、この違いは極めて大きい。
コンピュータにとっては、「教師データ」を必要とする度合いが全く違うのだ。 世の中の「相関する事象」の相関をあらかじめ捉えておくことによって、現実的な問題の学習は早くなる。
なぜなら、相関があるということは、その背景に何らかの現実の構造が隠れているはずだからだ。

ディープラーニングは「データをもとに何を特徴表現すべきか」という、これまで一番難しかった部分を解決する光明が見えてきたという意味で、人工知能研究を飛躍的に発展させる可能性を秘めている。
ところが、その実、ディープラーニングでやっていることは、主成分分析を非線形にし、多段にしただけである。つまり、データの中から特徴量や概念を見つけ、その塊を使って、もっと大きな塊を見つけるだけである。

<概念の頑健性>

こうした特徴量や概念を取り出すということは、非常に長時間の「精錬」の過程を必要とする。何度も熱しては叩き上げ、強くするようなプロセスが必要である。それが、得られる特徴量が概念の頑健性(ロバスト性とも呼ぶ)につながる。
そのためにどういうことをやるかというと、一見すると逆説的だが、入力信号に「ノイズ」を加えるのだ。ノイズを加えても出てくる「概念」はちょっとやそっとではぐらつかない。
頑健性を高めるには、ノイズを加えて「ちょっと違った過去」を作り出すやり方のほか、ドロップアウトと言って、ニューラルネットワークのニューロンを一部停止させるという方法もある。隠れ層の50%のニューロンをランダムに欠落させるのだ。
ほかにもニューラルネットワークにとって「過酷な環境」がいろいろと研究されている。そこまで苛め抜かないと、データの背後に存在する「本質的な特徴量」を獲得できないのだ。
1個1個の抽象化の作業が非常に堅牢であることによって、2段目、3段目と積み上がった時
にも効果を発揮する。


<人工知能が獲得する概念>

人間が「知識」として教えるのではなく、コンピュータ自ら特徴量や概念を獲得するディープラーニングでは、コンピュータが作り出した「概念」が、実は人間が持っていた「概念」とは違うというケースが起こりうる。
そもそも、センサー(入力)のレベルで違っていたら、同じ「特徴量」になるはずがない。
人間には見えない赤外線や紫外線、小さすぎて見えない物体、動きが早すぎて見えない物体、人間には聞こえない高音や低音、犬にしか嗅ぎ分けられない匂い、そうした情報もコンピュータが取り込んだとしたら、そこから出てくるものは、人間の知らない世界だろう。
そうやってできた人工知能は、もしかしたら「人間の知能」とは別のものかもしれないが、間違いなく「知能」であるはずだ。

人間が獲得する概念の中には、単に復元エラーを最小化するだけではなく、何が「快」か「不快」かによって方向付けられているものも多い。
人間の場合、生物であるから基本的に、生存(あるいは種の保存)に有利な行動は「快」となるようにできている。
こうした本能に直結するような概念をコンピュータが獲得することは難しい。
「人間と同じ身体」「文法」「本能」などの問題を解決しないと、人工知能は人間が使っている概念を正しく理解できるようにはならないかもしれない。

<創造性>

よく創造性がコンピュータで実現できるかと聞かれるが、創造性というのは、2つの意味があり、区別しなければならない。
1つは個人の中で日常的に起こっている創造性で、もう1つは社会的な創造性である。
概念の獲得、あるいは特徴量の獲得は創造性そのものである。個人の内部で日常的に起こっているので、特に創造的であるとは思わないかもしれないが、あることに「気づく」のは創造的な行為である。
「アハ体験」と言う言い方をしてもいいかもしれない。 複数のものを説明する1つの要因(あるいは特徴量)を発見した時、物事がよりスッキリ見える。そうしたレベルの創造性は日常的に起こっている。
一方で、社会の誰も考えていない、実現していないような創造性は、いわば「社会の中に以前考えていた人がいるかどうか」という相対的なものである。

人間は試行錯誤によっても創造する。これは、環境とインタラクション(相互作用)することで、ある一連の行為によって環境が変化し新しい性質が引き出される、あるいは、それによって自分の中にある情報の新しい特徴量が生まれるということである。
「行動を通じた特徴量を獲得できるAI」の段階に達すれば、人工知能も試行錯誤ができるようになるだろう。 環境とのインタラクションが起きるようになれば、試行錯誤による創造性ということも自然に起こるはずだ。

<人工知能と社会性>

人間は社会的な動物である。一人では生きていけない。一人ひとりの脳では、物事の特徴表現が次々に学習されているが、人間社会は、こうした個体がまとまって社会を作っている。その意味を人工知能の観点から考えるとどうなるだろうか。

言語の果たす役割とも関係があるが、社会が概念性獲得の「頑健性」を担保している可能性がある。複数の人間に共通して現れる概念は、本質を捉えている可能性が高い。 つまり、「ノイズを加えても」でてくる概念と同じで、「生きている場所や環境が異なるのに共通に出てくる概念」は何らかの普遍性を持っている可能性が高い。
言語はこうした頑健性を高めることに役立っているのかもしれない。

そう考えると、人間の社会がやっていることは、現実世界の物事の特徴量や概念を捉える作業を、社会の中で生きる人たち全員が、お互いコミュニケーションをとることによって、共同して行っていると考えることもできる。
進化生物学者のリチャード・ドーキンス氏が唱えた、人から人へ受け継がれる文化的な情報である「ミーム」も近い考え方だが、現実世界を適切に表す特徴表現を受け継いでいると考える点は異なる。
そして、そうして得た世界に関する本質的な抽象化を巧みに利用することによって、主としての人類が生き残る確率を上げている。
つまり、人間という種全体がやっていることも、個体がやっている物事の抽象化も、統一的な視点で捉えることができるかもしれない。「世界から特徴量を発見し、それを生存に活かす」ということである。


<選択と淘汰>

認知心理学者のジェラルド・エーデルマン氏は、脳の中にも種の進化と同じ、選択と淘汰のメカニズムが働いていると主張した。
我々が生きるこの世界において、複雑な問題を解く方法は、実は、選択と淘汰、つまり遺伝的な進化のアルゴリズムしかないのかもしれない。
優れたものは繁栄し、そのバリエーションを残し、劣ったものは淘汰される。
人間の脳の中でも、予測という目的に役立つニューロンの一群は残り、そうでないものは消えていくというような構造があるのではないだろうか。

生物進化における脳の発展と、それに伴う抽象化能力の向上と、これからのビッグデータを活用した「知識転移」はほとんど同じ流れである。
当初、生物は単純な反応系として情報を入力し、処理し、行動として出力した。
ところが、その情報がリッチになり、たくさんのデータで世界を見られるようになった。特に「目の誕生」は強烈で、それゆえに、捕食者からいかに生き延びるか、身を隠すかといった生物の戦略が多様化し、5億4200万年前のカンブリア紀における性粒の多様性の爆発(カンブリア爆発)の契機となったという。
企業活動も同じで、ビッグデータによって、企業を取り巻く様々な環境を捉えられるようになった。まさに「目の誕生」だ。センサーが発達した結果、企業は様々な戦略が取れるようになる。
そして、次に来るのは「脳の進化」である。センサーの情報から他の生物が捉えられないような情報を捉え生存に活かす。変わりゆく環境においては抽象化能力が高ければ少ないサンプル数で適応することができ、生存確率が上がる。

産業構造という視点から見た経済の分析と、抽象化という視点から見た(人工)知能の分析が、ほぼ同じ答えになるというのは極めて興味深い。
その背景には、資本主義経済も、生物の生き残る環境のいずれにおいても「予測性(予測能力)が高いものが勝ち残りやすい」という本質的な競争条件があること、そのために選択と淘汰という原理が採用されていること(エーデルマン氏は脳の中でも予測性が高いかどうかによる選択と淘汰が働いているとした)、そして抽象化によって知識を転移させるということが、変化する環境に対応する極めて強力な武器であることという共通点があるからではないかと思う。


<産業への波及>

ディープラーニングからの技術進展予測は以下の順番。
①画像特徴の抽象化ができるAI(認識精度の向上)
 →広告・画像からの診断
②マルチモーダルな(複数の感覚のデータを組み合わせた)抽象化ができるAI(感情理解・行動予測・環境認識)
 →ペッパー、ビッグデータ、防犯・監視
③行動と結果の抽象化ができるAI(自律的な行動計画)
 →自動運転、農業の自動化、物流(ラストワンマイル)、ロボット
④行動を通じた特徴量を獲得できるAI(環境認識能力の向上、大幅向上)
 →社会への進出、家事・介護、コールセンター、他者理解、感情労働の代替
⑤言語理解・自動翻訳ができるAI(言語理解)
 →翻訳、海外向けEC
⑥知識獲得ができるAI(大規模知識理解)
 →教育、秘書、ホワイトカラー支援


<シンギュラリティは来るか>

今ディープラーニングで起こりつつあることは「世界の特徴量を見つけ特徴表現を学習する」ことであり、これ自体は予測能力を上げる上で極めて重要である。ところが、このことと、人工知能が自らの意思を持ったり、人工知能を設計しなおしたりすることとは天と地ほど距離が離れている。
その理由を簡単に言うと、「人間=知能+生命」であるからだ。
知能を作ることができたとしても、生命を作ることは非常に難しい。
いまだかつて人類が新たな生命を作ったことがあるだろうか。仮に生命をつくることができるとして、それが人類よりも優れた知能を持っている必然性がどこにあるのだろうか。あるいは逆に、人類よりも知能の高い人工知能に「生命」を与えることが可能だろうか。 自らを維持し、複製できるような生命ができて初めて、自らを保存したいという欲求、自らの複製を増やしたいという欲求が出てくる。それが「征服したい」というような意思につながる。
生命の話を抜きにして、人工知能が勝手に意思を持ち始めるかもと危惧するのは滑稽である。

<その他>

○ライトウェイト・オントロジーのひとつの究極の形とも言えるのが、IBMが開発した人工知能「ワトソン」である。
ワトソンは、2011年にアメリカのクイズ番組「ジョパディ!」に出演し、歴代のチャンピオンと対戦して勝利したことで一躍脚光を浴びた。
手法としては、従来からあるクエスチョン・アンサリング(質問応答)という研究分野の成果である。ウェイキペディアの記述をもとにライトウェイト・オントロジーを生成して、それを解答に使っている。
ワトソン自体は質問の意味を理解して答えているわけではなく、質問に含まれるキーワードと関連しそうな答えを高速に引っ張り出しているだけである。人間のクイズ王と違って、質問文を理解しているわけではない。

○企業などの組織構造も、「抽象化」という観点で見ると、特徴表現の階層構造と近いものがある。下の階層の人は現場を見ている。上に行くと抽象度が上がる。一番上は最も大局的な情報を見ている。これが上下に連携をとることで、組織としての的確な認識、およびそれに基づく判断をしているのだ。
脳内で行われる、あるいはディープラーニングが行っている抽象化は、符号化(エンコーディング)と復号化(デコーディング)として実現されている。そのことと通信、つまり異なる主体が情報をやり取りすることは本質的に極めて近い。そのため、組織内でやり取り(通信)をすることによって、組織自体が脳と同じような抽象化の機構を持つというのも不思議ではない。



シンギュラリティが来て、人工知能は人間にとって替わり、「神」のような存在となるか。
筆者は「生命」という観点からその未来を否定するが、「擬似生命」としてのプログラムを(マッドサイエンティストの誰かに)入力された途端、悪魔を呼び出すことは否定できないはずだ。
とはいえ、複雑なことは”正解”が一つではない。エヴァンゲリオンにおけるMAGIシステムのように幾つかの判断軸による合議のような形をとるのではないか。それでも三賢者ならぬ3人の神による運用という感じで、そこに人間の介在する余地はどこまであるのか。

人工知能なのに、判断基準そのものに「選択と淘汰」の概念が入ると、まるで生物の進化と非常に似通ってくるというのが、進化論者の自分には非常に面白かった。

また、組織も符号化と復号化を上下で繰り返すこと(ビジョンのもと実践を行うこと)で抽象化(より抽象的なミッションを共有すること)を実現できる、というのが導き出されるのが本当に面白いと思った。
やはり山の登り方は沢山あって、一つじゃないね。




2016年10月2日日曜日

『会社が生まれ変わる「全体最適」マネジメント』

今、全体最適をテーマとした仕事をしている。
メンバーから推薦されたので読んでみた。

ワークショップをやって自社が抱える問題点を自由に挙げてもらうと大体次の6つ二修練するそうだ。

<企業が抱える問題の主な項目6つ>
 ○目的系に関するもの
 ・【ビジョン・方針】ビジョンなどの方針・方向性に関するもの
 ・【戦略・戦術】戦略や戦術的なもの
○手段系に関するもの
 ・【業務フロー】業務の流れや仕組みの問題
 ・【組織体制】組織体制に関するもの
 ・【人事制度】評価の仕組みや人材育成など人に関すること
 ・【人間関係】コミュニケーションや人間関係に関するもの


「手段の目的化」という現場の認識が部分最適を繰り返す根本の原因であることが多い。
 企業が問題に対して解決策を講じるにあたっては、まず目的を明確に定めて、それを社員に十分に理解浸透させ、その上で策を講じる必要がある。
多くの企業ではこの順番を間違えている。


○現場が自律的に考え行動するということを基本方針として活動を展開すると、現場は自分たちの責任や権限の範囲外にある経営課題や他部門が絡む問題は避けて問題を選ぶきらいがある。


○人材育成のあり方として、まずは研修を受ける側の社員がその研修を使って何を成し遂げるのか、その明確な目的、目標を持たせる仕組みを整えることがまずは優先事項。
「人を育てる」から「人に目的を持たせる」という発想転換が必要。
 人は会社に貢献するために、そして自分自身の成長のために、自分は何を目的とし、そのために自分の役割や課題は何なのかを考え気づくと勝手に育っていく。
そのために、社員一人一人が「自らの目的」を見出せることができるような環境を会社側が整えれば良い。


○小さな成果であっても、お互いの協力に基づく成果や成功を体験することは、次へ繋がるための必要条件になる。小さくても成功体験が継続の源泉と成る。


全体最適化はビジョン・人・仕組みをつなぐということ。
この中で実は一番厄介なのが「人」。全体最適化はそこに一番手間をかけなければならない。
多くの企業が部分最適の問題に悩まされている中で、解決が進まない最大の理由が、この「人と人」との最適化が行われないことにある。
全体最適化を図る上では、相当に重要な技術となるのが、この人と人との最適化、つまりは皆がなるべく同じような判断ができるようにするための基準、背景情報、事実情報を共有化することにある。

○ビジョンというものは、一般的に「会社」という法人格が発信するものと考えることが多いが、実際に「伝わるビジョン」というものは、そのビジョンが肉声を伴って、言葉で発した人の顔が浮かんでこそ伝わるもの
ビジョンは生身の人間の発する表情や声、その他五感を通じて聞く側の心の中に届き、印象付けられ想いとして伝わるもの。

○全体最適化を図るために最も必要なものがビジョン。
ビジョンによって経営の意思を組織に浸透させ、組織全体を同じベクトルに向かわせ、仕組みを機能させていくことで全体最適化を図っていくわけだが、このビジョンをしっかりと設定し、最終的に業績成果につなげていくためには、「実行」のためのビジョンである必要がある。
社員一人一人が行動を起こすきっかけとして、経営が最初に示さなければいけないのが、この「実行のためのビジョン」。
実行を引き出すためには「伝わるビジョン」であることが必要。
「伝わるビジョン」にするためのポイントは、
・「実行のイメージができる」
・「分かりやすい」
・「8割の社員の納得感が得られる」の3つ。
(最後は厳密には6割から8割程度の社員に受け入れられるのであればOK)

○もし全員で何かを一緒に実現していこうという動機付けに変えていくのであれば、数値目標の先にある「何か心を動かされるもの」「ワクワクするようなもの」によって「皆で協力して達成させていきたい」と思わせるような大きな目標を設定する必要がある。

○ビジョンの共有浸透が終わると次のステップとしては、戦略策定になる。
・「明確なビジョンを判断軸として戦略を絞っていく」こと
・「実行に時間をかけるために戦略策定の期限を決める」ことが大切。
 (実行は長時間、策定は短時間で
・「意思決定者の判断の仕方を変える」必要がある。(∵短時間で策定を終えるため)

○人の血管の長さは10万kmにも及ぶ。そして、この10万キロの血管に向けて、心臓からは毎日8000リットル(ドラム缶40本相当)の血液を送り込んでいる。これを生まれてから死ぬまでの間、毎日一瞬たりとも止まることなく続けている。
とても偉大な人間の心臓だが、仮に人の体を企業に喩えるなら、経営者とはこの心臓部分にあたる。企業という大きな体を動かしていくために、経営者はとてつもない量の血液を絶えず送り込まなければならない。
ここで言う血液とは企業で言えば「経営の意志」にあたる。 スティーブ・ジョブズのようなカリスマ性やオーラがなければ、経営の意をくんだ人材を1人でも2人でも増やしていくしかない。
ビジョンの実現に向けて組織を動かし続けていくということを継続させていくためには、経営者一人が奔走するのではなく、全体最適化を通じて経営の意志をくんだ人材を増やしていくことが重要。

一般的に経営戦略や事業戦略というとどうも失敗が許されないイメージがある。
戦略というのはあくまで仮説。ものづくりや技術の世界で言えば単なる試作品。試作品を完成品に仕上げていくためには継続して開発をしていかなければならない。これからは、ものづくりや技術の世界と同じように「戦略」を継続して開発させていくという発想が必要。

ものづくり同様、戦略もプロトタイプを作って進め、ピボットして良い、という考え方が斬新であった。
・全体戦略とはビジョン・人・仕組みをつなぐこと。その中で一番で手ごわいのは実は「人」。
・戦略策定は短時間で。
・スモールウィンは継続の源泉。
心してこれからの半年を過ごしたい。

2016年9月18日日曜日

『サイロ・エフェクト』

過去、現代ほど効率化が求められ、専門化が進んでいた時代はなかったのではないだろうか。
その現代の”細分化された専門化集団”を「サイロ」と呼び、サイロの弊害、リスク、そしてそのサイロのリスクヘッジの仕方について述べた本である。

とは言え、著者の立場は「反サイロ」ではない。 むしろ現代社会にはサイロが必要であるという認識から出発している。

【サイロ】

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少なくともサイロがスペシャリストの集まった部署やチームや場所を意味するのなら、間違いなく必要なものだ。
理由は明白である。我々はひどく複雑な世界で生きており、この複雑さに対応するためには何らかの「体系化」が必要だ。しかも、データ量、組織の規模、技術の複雑性が増す中、その必要性は高まるばかりだ。

サイロの危険を完全に払拭することはできない。サイロを克服するのは終わりなき戦いである。
というのも、我々を取り巻く世界は常に変化し、二つの逆方向の力が働いているからだ。 複雑な世界にはスペシャリストや専門家集団が必要だが、それと同時に統合的な、柔軟な視点で世界をみる必要もある。
サイロを克服するには、この両極の間の細い道をうまく渡っていかなければならない。これは容易ならざる作業だ。
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サイロの事例として
NY市、シカゴ警察、UBS、SONY、クリーブランド・クリニックなど沢山の成功および失敗の事例が出てくる。
サイロのリスクをヘッジする手法として、著者が推薦しているのが人類学の手法だ。

【人類学者の視点】

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人類学者の視点は、サイロを理解するのにも役立つ。
突き詰めるとサイロは文化的現象であり、我々が世界を様々な区分に分類し、整理するためのシステムの産物である。

サイロのリスクをヘッジする。
この難しい課題に取り組む第一歩は、まずサイロの存在を認めること。
続いてその影響についてしっかり考えることだ。

サイロに関する文献は二つの視点から書かれるものが多い。
一つは「どうすればより良い組織の構造をつくれるか」という経営コンサルタント的視点
もう一つは、我々の心理に着目する心理学者的視点である。
しかし、サイロはそもそも文化現象である
サイロは社会集団や組織が世界をどのように区分するかについて固有のしきたりを持っているために生まれる。
我々が世界を区分する際のしきたりは、正式に定義あるいは明文化されていないことも多い。そうではなく、無意識のうちに自らを取り巻く環境から吸収する、複雑に入り組んだ規範、伝統、慣習などから生まれるのだ。
つまり、我々が世界を分類する際に使うパターンの多くは文化的に継承するものだ。それらは意識的思考と本能の境界上にある。
文化が我々にとって「普通」であるのと同じように、こうしたパターンも自然なものに思える。あまりに自然であるために、その存在に気づくことも、また自らの世界観を規定するような公式および非公式な区分法があるという事実を意識することさえ滅多にない。

一方こうした分類システムについてとことん考え抜くのが人類学者だ。
それは分類のプロセスが人間文化の根本を成すものであることを知っているからだ。
ある意味では分類法そのものが文化なのだ
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では色々な事例から演繹されたサイロのリスクヘッジの方法とは・・・?

【サイロに対応する教訓】

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サイロを専門家集団と定義すれば、その存在は必然である。
ただ分類システムが過度に硬直化し、サイロが危険なまでに強固に根を張ると、我々にはリスクだけでなく魅力的なチャンスも見えなくなってしまう。
サイロは様々な組織で問題を引き起こしてきた。Microsoft、ゼネラル・モーターズ、ホワイトハウス、イギリスの国民保険サービス、BBC、BPなど挙げていけばきりがない。
ではこの問題を防ぐために、できることはあるのか。私はあると考える。
しかし、サイロをコントロールするという戦いに終わりはない。常に進行中の作業だ。

一つ目の教訓は、Facebookがしたように、大規模な組織においては部門の境界を柔軟で流動的にしておくのが好ましいということだ。
ハッカー期間制度を通じて社員を異動させることには意義がある。
ハッカソンやオフサイトミーティングのような異なる部門の社員が出会い、絆を深められるような場所や制度を設けておくのも良い。
社員を同じスペースに誘導し、常に意外な出会いがあるように建物の物理的デザインを工夫するのも有効だ。クリーブランド・クリニックの通路やFacebookの広場は、そうした機能を非常によく果たしている。
いずれにせよ組織のメンバーが内向きになったり、守りの姿勢になるのを防ぐには、交わる機会を増やす必要がある。
二つ目の教訓は、組織は報酬制度やインセンティブについて熟慮すべきだということだ。
各自の所属するグループの業績だけに基づいて報酬が決まり、しかもグループ同士が社内で競争関係にあると、お金をかけてオフサイトを何回開こうが、オープンオフィスのレイアウトを採用しようが、グループ同士が協力する可能性は低い。
集団としてのモノの考え方を促したければ、クリーブランド・クリニックやブルーマウンテン・キャピタルが採用しているような協調重視の報酬制度をある程度採りいれなければならないだろう。
三つの目の教訓は、情報の流れも重要であるということだ。
UBSやSONYの例からは、各部門が情報を抱え込むととてつもないリスクが蓄積される可能性があるのがわかる。
これに対する一つの解は、全員がより多くのデータを共有するようにすることであり、現代のコンピューティング技術をもってすればそれは容易に実現できる。
重要なのは誰もが自分なりに情報を解釈し、そうして生まれる多様な解釈に組織が耳を傾けるようにすることだ。組織内で自分達にしか分からないような複雑な専門用語を多用し、代替案をハナから拒否するような専門家のチームが幅を利かせていると中々実現は難しい。
大企業に本当に必要なのはスペシャリストのサイロの間を行き来し、個々のサイロの内側にいる人々に他の場所では何が起きているかを伝える「文化の翻訳家」なのかもしれない。
とはいえ、組織のメンバー全員が文化の翻訳家である必要はない。10%位でいいだろう。ほとんどの人は得意分野の異なるスペシャリストであっていい。それでも大規模な組織には複数の専門領域に通じた翻訳家が必要だ。
経済学者、トレーダー、あるいは他の職種の専門用語など、異なる「言語」を尊重する姿勢も重要だ。
「これは認識論、すなわち何を知識と見做すべきかの問題だ。他の人が自分と異なる言語を話すからと言って、それを無視して良いことにはならない」
四つ目の教訓は、組織が世界を整理しているのに使っている分類法を定期的に見直すこと。
願わくは代替的な分類システムを試すことができれば、大きな見返りがあるということだ。
我々は大抵承継した分類システムを無批判に受け入れる。だがそうしたシステムが理想的なものであることはまずない。時代遅れになっていたり、特定の利益集団の役にしかたたないこともある。
パターンを変えるだけでイノベーションが生まれることもある。少なくとも人々の視野は拡がるはずだ。
五つ目の教訓は、サイロを打破するにはハイテクを活用するのも有効である、ということだ。
コンピュータの利点は、消去できない心理的バイアスを生まれつき持ち合わせていないことだ。プログラムを変更すればそれまでとは違った方法で情報を整理したり、新しい分類法をテストすることも出来る。
今日のコンピューティング・システムのデータ処理能力をもってすれば、人間の思考方法を変えるよりコンピュータのデータを組み直す方がずっと速く簡単だ(そしてデータは人間と違って命令に抗ったり、対応を遅らせたりはしない)
しかし、データの分類方法が自動的に変わることも、サイロがおのずから崩壊することもない。
何より重要なのは、これでもかというぐらいの人間の想像力なのだ
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この想像力を得るための手法として人類学者の手法が活きると著者は言う。

【人類学者の手法】

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ではサイバースペースや現実世界で既存の分類システムに疑問を持つのに不可欠な想像力はどうすれば手に入るのか。
一つの選択肢は、人類学の基本的考え方を拝借することだ。人類学とはモノの考え方あるいは世界の見方であり、いくつかの明確な特徴がある。
第一に、人類学者は人々の生活をボトムアップの視線で見ようとする。研究室を出て、現場で生活を経験することを通じてミクロレベルのパターンを理解し、マクロ的全体像をつかもうとする。
第二に、人類学者はオープンマインドで物事を見聞きし、社会集団やシステムの様々な構成要素がどのように相互に結びついているかを見ようとする。壁にとまっているハエのように、静かに周囲の様子を観察する。
第三に、研究対象の全体を見ようとし、その社会でタブーとされている、あるいは退屈だと思われているために人々が語らない部分に光をあてる。社会的沈黙に関心をもつのだ。
第四に、人々が自らの生活について語る事柄に熱心に耳を傾け、それと現実の行動を比較する。人類学者は建前と現実のギャップが大好きだ。
第五に、人類学者は異なる社会、文化、システムを比較することが多い。最大の理由は比較することで異なる社会集団の基礎となるパターンの違いが浮かび上がるからだ。
別の世界に身を投じてみると、「他者」について学べるだけでなく、自らの生き方を新しい目で見直すことができ、視界が開けてくる。こうしてインサイダー兼アウトサイダーになるのだ。
第六の、そして最も重要な特徴は、人類学は人間の正しい生き方は一つではない、という立場をとることだ。
人類学者は、我々が世界や頭の中を整理するために使っている分類システムが、およそ必然的なものではないことをよく分かっている。それは通常、生まれつき持っているものではなく、後天的に身につけるものだ。
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サイロのリスクをヘッジするためには、”インサイダー兼アウトサイダー”の視点が有効という。

【インサイダー兼アウトサイダー】

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現代の社会にサイロは不可欠だ。だがサイロの弊害に囚われるのを避ける方法はある。
人類学者に倣って「インサイダー兼アウトサイダー」の視点から自分達が世界をどう分類しているかを見直すのは、リスクに抗う方法の一つだ。
インサイダー兼アウトサイダーになると、柔軟さを失った境界の危険性を認識できるようになる。境界を自在に引き直したり、全く違う世界を思い描いたり、分類システムや組織の「縁(へり)」でイノベーションを生み出したりする想像力が湧いてくる。

もちろんこの目標を追求しようとすると、大きな問題に少なくとも一つは突き当たる。
予想もしない人やモノとの出会いを受け入れ、世界を旅し、インサイダー兼アウトサイダーの視点を獲得するには、時間と労力がかかるのだ。
サイロの中にとどまること、継承した境界を無批判に受け入れることの方が一見ずっと楽だ。
組織の経営者は無駄を省き、できるだけ効率を高めなければならないというプレッシャーに晒されている。
現代社会においては専門化と集中が好ましいとみられている。
そんな中で他部門の人々との交流、部門間の人事異動、社員をイノベーションの旅に送り出すといった時間のかかる、目先の利益につながらない活動を正当化するのは難しい。
だが忘れてはならない。我々の世界は効率化を追求し過ぎるとかえってうまく機能しなくなるのだ。
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この半年間の業務では自分がいかに”サイロ”の中にいて、知っているつもりで知らないことが多かったかを認識させられた。
それを打破するための手法を学ぶために、この本を読むに至った。
学んだことは実践せねば。

以下本書に記載されている名言を。


「何故我々は時として自分に何も見えていないことに気づかないのか」
心理学者ダニエル・カーネマン

「確立された秩序というものは、どこまでも恣意的なシステムでありながら、どこまでも自然にみえる」
ピエール・ブルデュー 〜フランス、近代人類学の創始者の一人

「IBMでの経験を通じて、文化が勝負の一要素などではないことに気づいた。文化こそが本丸だった」
ルイス・ガースナー

「専門家に聞けば何んでもわかる。正しい質問をすれば、だが」
クロード・レヴィ=ストロース

「未来を見ながら点と点を結びつけることはできない。つながりは過去を振り返ったとき初めてわかるものだ。だから点と点がいつかどこかで結びつくと、信じるしかない」
スティーブ・ジョブズ

「イノベーションはたいてい境界で生まれる。新しいタイプのチャンスや課題の存在を示唆するパターンが見つかるのもそこだ」
ジョン・シーリー・ブラウン 〜科学者・組織理論学者

2016年8月17日水曜日

『クール 脳はなぜ「かっこいい」を買ってしまうのか』

「多様化」というのはリスクヘッジであるという認識でいたが、何故多様化が起こるのか、消費(コンシューマリズム)という観点と絡めて考察されている本。


<反逆者のクール>

シンボルやシグナルは一目瞭然の場合もあれば、一見わからない場合もあるが、価値観、アイデンティティ、願望、そして恐怖までも伝える。それらが我々のライフスタイルを築く。
人間はクールな製品を見た時、社会的な作業(ある立場に自分が置かれたことを想像する、他の人と直接交流するなど)を行ったときと同じように、脳が活性化することがわかった。
つまり、クールな製品は我々の社会的アイデンティティに影響を与えるものであり、クールな製品の経済的価値(の一部)は、社会的アイデンティティへの影響を脳が計算することにより生まれているということだ。

遺伝的に人間にもっとも近いチンパンジーと我々は、2つの本能を共通して持っている。
ひとつは”地位(ステータス)を求める本能”、もう一つが、下位に置かれると反射的に憤りをおぼえる”反逆の本能”である。
現代の消費はこれら二つの本能の上に成り立っている。

現在の消費者文化についての議論の多くは道徳的で、その多くが非難である。
その結果、我々の世界を形成する基本的な力についての理解は全く進んでいない。
ではなぜコンシューマリズムは未だによく分かっていないのだろうか。 それは、歴史的に経済の中心的な問題は、消費ではなく生産だったからだ。歴史上、ほぼ全ての人類がほぼ常に直面してきた問題は、生産をどう拡大するかだった。

地位を求める本能は、対抗意識、嫉妬、”上位”への羨望を生み、対抗意識(見栄)による消費につながる。
1950年代に、アメリカにおける消費は大きく変化した。クールという概念が、反抗の規範、”上位”との従来の地位システムの拒絶のしるしとして出現し、経済、社会、政治など様々な面から新たな文化を形成する中心的な役割を担った。
何より、クールは「反逆本能」に訴えかけて、新しい種類の消費ー反抗的消費ーの原動力となったのだ。我々はそのような消費を「反逆者のクール」と呼んでいる。

クールとは消費に背を向けることだと思いがちだが、反逆者のクールはコンシューマリズムにすんなり融合し、人種やジェンダーによる差別、既存の体制を維持するための制度などの障壁を破壊して、地位への新しい道筋〜従来の地位とは違った価値観の、新しいライフスタイル〜をつくりだした。
反抗としてのクールな消費が出現するとライフスタイルは多様化し、地位への道筋が増加して、1950年代の古い階層社会はそれまでの地位の概念とともに押し流され、次第に多元的で多様な文化にとって代わられた。
地位はゼロサム競争を戦って勝ち取る固定的資源だという凝り固まった考えは実は間違いであり、クールな消費の多様で非階層的な力によって新しい地位ができたのだ。
1990年代には、反逆者のクールが起こした社会的変化が、新たな種類の反抗的消費へと移行した。我々はそれを「ドットコム・クール」と呼んでいる。


<脳科学とクール>

脳には約800億個のニューロンがあり、これはシナプスと呼ばれる部位を通して互いに情報を伝えている。
脳には約100兆個のシナプスがあり、そのお陰で現在最速のスーパーコンピューターよりも強力な働きが出来る。しかも消費エネルギーはパソコンの約4万分の1。
しかし脳のエネルギー需要はとてもささやかとは言えない。脳の重さは体重の約2%だが、安静時代謝の20%を使う。言い換えると少なくとも1日300カロリーが脳を働かせる力となり、そのほとんどがシナプス間の連携に使われる。

現在のように文明が発達する以前はこれだけのエネルギーを得るのは簡単ではなく、この問題への進化上の対応の一つとして、血流が酸素とブドウ糖を運び、それにより脳を動かすようになった。そのため、思考すると血流が増加するのだが、脳全体ではなく、ある特定の思考を引き起こす小さな部位だけだ。 fMRIは基本的にそうした血流のわずかな変化を検知する装置だ。
血流そのものは思考ではない。思考はシナプスで行われている。しかし神経科学者は人のシナプスの活動を直接的に測定することはできない。
2000年前後にfMRIが一般的なテクノロジーとして登場する前は、MPFC(内側前頭前皮質)のことなどほぼ何もわからなかった。当時、MPFCは「ブロードマン(脳地図)10野」と呼ばれていた。

初期のfMRIの実験により、MPFCは空想、計画、黙想に関わっていることが示唆された。それらすべてに共通するのは、自分についてじっくり考えるということだ。あれこれ思いを巡らせているときMPFCが活性化するが、人は自分の過去の経験を思い出している。これらはあなたの記憶であり、自意識を規定するのに役立つ。
神経学者はこのような記憶をエピソード記憶と呼ぶ。これは一般的な事実に関する記憶(意味記憶)とは異なる。

クールな製品を見た時、MPFCが活性化したという事実は、クールが自意識に深く関わっていることを示唆している。
MPFCの二つの機能〜自分自身と他人について考えること〜は、別々の能力に思えるかもしれないが、実は絡み合っていて、消費の社会的側面を理解する上で重要な意味を持つ。
我々の自己概念は、決して自分だけでできたものではない。架空のホモ・エコノミクスは他人の影響を受けることはないが、本当の人間は人生最初の20年間で他人と交流して自意識を育て、交流を通じて自己概念を築くのだ。

社会的感情は、「自分に対する他人からの評価」と認識しているものに対する反応だと考えられる。ここでその評価は主観的なもの。つまり、他人からこう評価されていると自分が感じているものである。
MPFCは、自分に対する評価の認識の刻一刻の変化をずっと追い続けていると考えられている。
フランシス・エッジワースは「ヘドニメーター(幸福度計)」を生理的な快楽を測定できる装置と考えたが、脳の価値シグナルは、生理的ではない快楽を測定するヘドニメーターのようなものとも考えられる。
我々は「ソシオメーター」という考え方を提唱したい。
基本的な感情がヘドニメーターの値を決める一方、社会的感情がソシオメーターの値を決める。ソシオメーターは、社会的評価をあなたがどう認識しているかを記録するものだ。自らの社会的承認に対する認識を測定するものだと考えればいい。この”測定値”を我々はプライド、恥、決まりの悪さ、罪悪感などの社会的感情として経験する。

ソシオメーターの評価は主観的なものだと念を押しておく。なぜこれが重要なのかというと、経済価値も同じように主観的なものだからだ。
そして我々は、ソシオメーターが基本的な経済価値、いわば社会通貨(ソーシャルカレンシー)を負っていると考えている。
ソシオメーターが具体的にどのようなものかに関してMPFCに興味深い性質がある。
発達に時間がかかり、思春期の終わりまで続くという点だ。思春期になると子供達はどんどん友人達からの評価を気にするようになる。これは社会的な交流が増え、自己像が拡大するとともにさらに顕著になる。
MPFC自体は報酬中枢ではなく、自己関連の測定に関わっているものであるが、プラスの報酬中枢(線条体)、マイナスの報酬中枢(島)と結びついている。
この結びつきがプラスやマイナスの社会感情を生じさせる脳のネットワークに不可欠である。
ちなみに、我々は肯定より否定の意見を強烈に感じるので、否定的な意見にふれた時MPFCがより活性化し、自分や他人の心理状態を探る作業が始まる可能性が高い。

MPFCとプラスの報酬中枢である線条体、そして社会的評価との結びつきは驚くほど強い。
他人に敬意を払われているという意識があなたのソシオメーターに与える影響は、基本的報酬がヘドニメーターに与えるインパクトに近い。

人の脳にとって社会的承認は「通貨」の一種で、金銭報酬と同じく、基本的報酬の構造と大きく重なる経済価値の一形態だ。 自尊心(セルフエスティーム)はあくまで自己評価と思われるかもしれないが、自尊心と他者からの評価には密接なつながりがある。
製品が自尊心を高める力をもつことは、経済上の大きな変革だ。他の経済価値と同じように、製品の社会的価値は主観的なもので、多くの場合暗黙のうちの複雑な評価によって決まる。


<競争的利他主義>

我々は競争のための競争はしない。我々は協力するための競争をするのだ。
そこで消費の理論をこれまで見逃されてきた進化の力〜社会的選択〜の上に組み立て、何故それが従来の見解をひっくり返すことになるのか考えてみよう。

社会的選択についての進化理論では、人生の成功は社会的パートナーの質に左右される。 パートナーとの協力関係がもたらす強みを求めて、我々は他人との交流の中で、自らの社会的パートナーとしての価値を示すシグナルを送っている。歩き方、話し方、服装、髪型、言動、あえて言わないでいること〜それら全てが無意識のうちに送られる他人へのシグナルなのだ。
同時に我々の脳は常に他人から送られたシグナルを、その人の社会的価値に換算している。

人生で成功するには良い評判を築き、他人から社会的パートナーとしての価値を認めてもらうことが大切だ。我々が利他的であることを社会的パートナーを選ぶときの基準として使っているなら、一旦このプロセスが始まれば、利他的になる競争がどんどん進むと考えられる。これは競争的利他主義と呼ばれる。
つまり社会的選択では、いい人が勝つことがあるのだ。

贈り物のやり取りや友人のネットワークを調べたところ、協力的な人は協力的な人同士で友人になっていることがわかった。この”同族集団化”で協力的な人は互いに得をする。
非協力的な人も、非協力的な人同士で集団となっていた(おそらく協力的な人のネットワークから排除されるからだ)

<地位とコンシューマリズム>
心理学者のキャメロン・アンダーソンらは、地位と敬意が別物であることを示した。
たとえ低い地位を選んでも、敬意を払われることの重要性について尋ねると、やはり高いレベルの敬意を払われることを望む。
この地位と敬意の違いが、様々なレベルの自己のモチベーションの根底にあり、消費は地位だけではなく、敬意への欲求にも関わっているものなのである。
集団としての自己の意識が突出して高い時、我々は集団の集団的自尊心を高めるために、個人としての自己(地位)を犠牲にすることも多い。

地位の高い消費者が新しいものを取り入れると、地位の低い人々がそれをまねる。新しいものが地位の低い人々の間に広まってしまうと、地位が高い人はそれを放棄する。そして次の「模倣ー放棄」のサイクルが始まる。
コンシューマリズムを批判する人は、だいたい「イースタリンの逆説」を引き合いに出し、こうした消費サイクルは誰も幸せにしないと主張する。個人が自らの利益だけを追求すると皆が損をする囚人のジレンマと同じで、地位のジレンマは個人が地位を追求して真似をすると誰もが損をするという考え方から出発しているのだ。

しかし、こうした批判は残念ながら不完全だ。それは地位本能の裏面を無視しているからである。
チンパンジーの場合と同様に、地位本能は競争心をかき立て、抵抗する力が生まれる。
我々はそれを”反逆本能”と呼んでいる。
反逆本能は心の奥深くに根ざした、下位に甘んじることへの嫌悪だ。チンパンジーの世界では反逆本能によって、霊長類学者の言う”革命連合”が、さらには命がけの反抗が起きる。
同じように、狩猟採集民族における権力を巡る小競り合いから現代の革命まで、他者が自分達を服従させようとするとき、反逆本能が我々の怒り、不満、敵意に火をつける。それは心理学者の表現を借りると、支配層のエリートにたいする相対的剥奪感によるものだ。

消費批判派は、いまだに消費は階層社会での地位を巡るゼロサム競争であるという考え方に固執している。
しかし、人の反逆本能におけるある決定的な変化が社会の階層も変えた。
チンパンジーの地位本能は、自分の順序を既存の地位内で入れ替えるだけだ。しかし、人間の反逆心は現状を拒絶し、別の地位システムをつくるのである。
我々がサブカルチャーやカウンターカルチャーを生み出せるのは、地位を求める本能や反逆本能のおかげであり、それらが一緒になって「反抗的でクールな消費」の原動力が生じるのだ。


<多様化とクール>

限られた資源を巡る競争に対する進化の答えは、多様化によって競争を緩和することだった。
進化は基本的に”選択によって間引く”プロセスだと思われることが多いが、自然界には並外れた数の種と多様性が存在する。
選択圧力に対抗することは、同じくらい並外れた創造、多様化、種分化、放散のプロセスなのだ。

人間以外の動物は新しい生態的ニッチを手に入れようとするが、人間は新しい社会的ニッチ〜地位への道筋を増やすための、新しい地位システム〜を作り出すことができる
現状維持を望む層からの非難は、反逆者達の自尊心を高め、彼らの集団内での尊敬を集めることになる。
これらの力が階層的な社会構造を少しずつ多元的な構造に変革させ、多様なライフスタイルがどんどん増えていった。
この変化によって地位の道筋が増えたために、直接的な競争が減り、地位のジレンマも緩和した。
地位のジレンマの緩和と地位への道筋の増加が、過去30年ほどで世界中の幸福度が上昇している理由の一つではないかと我々は考えている。

こうして消費者文化の形が変わるにつれ、反逆者のクール自体が第2段階に入り、今の”知識経済(ナレッジエコノミー)”の中で体現されている。
1950年代に規範への抵抗としてクールが生まれた頃から現在のドットコム・クールにいたる期間は、工業化社会から情報化社会への変化も含め、社会の再編成と細分化の時代だったのだ。

人間の経済活動とは、限られた資源をめぐるダーウィン的な競争である、というイメージはダーウィンの考えの半分しか反映していない。
その半分とは「自然選択の原則」だ。残りの半分「分岐の原則」の発見のきっかけとなったある実験を紹介しよう。
これはロンドン北部のウーバン・アビーの庭園で行われた。1820年代、アビーの庭師長だったジョージ・シンクレアは、同じ広さの2つの区画にイネ科の草を植えた。片方には2種類の草、もう片方には20種類の草だ。
もし1種類の草がよく育つために(日光や栄養を争って)他が犠牲になるとすれば、20種類の草を植えた方が競争が厳しく、収穫量が減ると考えられた。
しかし20種類の草を植えた区画の収穫量は2種類しか植えなかった区画の約2倍だった。
この結果が、ダーウィンがのちに「分岐の法則」と呼ぶものの基礎となった。
20種類を植えた区画の収穫量が豊かになったのは、それぞれの種が成長のために異なる資源を必要としていたからだった。たがいに違った方向へ分岐することで競争を緩和したのだ。
つまり、「自然選択」によって適応できないものが排除される一方で、種は「分岐」によって互いに競わない方向へと進み、それぞれ違うものになって多様化するのだ
ダーウィンはこれを、自然界における分業だと推測した。
同じ資源をめぐって争うのではなく、種が〜突然変異を通じて自然に〜多様化している。ダーウィンはガラパゴス諸島で発見したこの仮説をのちに「分岐適応放散」と呼んだ。

分配の公正についての第一人者であるアメリカ人哲学者ロバート・ノージックが、とっても刺激的な説を提唱している。
ノージックは嫉妬について論じ、
「社会にはびこる自尊心の格差を避けるのに有効な方法は、いくつもの次元で共通の尺度で重みづけを行うのではなく、多様な次元と重みづけの尺度を持つことだ」
と述べている。
これを実現したものこそが、多様化した消費者社会なのではないか。

消費者のライフスタイルの急増には大きな意味がある。
つまり、「地位のジレンマ」に対する答えが、「地位集団の多様化」だったのだ。
消費者ミクロ文化が増加しても、ゼロサム競争が増加するわけではない。むしろ地位への道筋が増え、直接の競争が無くなる。これは、生物的多様性を高める自然界の適応放散と同じようなものだ。


<コンシューマリズムとサステナブルな社会>

複雑な社会を築きそこで生きるために、我々は2つの重要な能力を持っている。
第一は、社会規範を内部に取り込み、それに従って行動すると(生理的に)脳に報酬が与えられるということ。
第二は、環境や経済的現実が変わるのに応じて、集団的に規範を変えられるということだ。

「尊敬されたい」というインセンティブは、社会的利益につながっている。

消費に対する誤解と偏見のために見逃されているのが、コンシューマリズムの柔軟さ、つまり、新しい社会的規範を、尊敬(道徳的な尊敬を含め)を得るための決定的な要素となるよう、変化ささえる能力だ。

よりサステナブルな消費規範と地位を結びつけることは、消費行動を変える強力な方法になる可能性がある。我々はまた、このような規範によって、消費と生産のつながりをより強くするべきだとも考えている。

消費行動を変えるためのもっと効果的な方法は、社会的利益をもたらす消費パターンを、地位と連動させることだ。そうすれば競争的利他主義が生まれる。
言い換えると、消費をもっと早く変えるには、ただ消費を減らすことを目指すのではなく、たとえば資源を枯渇させないサステナブルな生産技術に基づくような新しい消費行動に高い地位が与えられれば良いのだ。




”多様化”が、いざという時絶滅しないためのリスクヘッジの意味の他、”格差緩和”の意味合いがあるということが消費(コンシューマリズム)における「クールな消費」という概念と合わせてよく理解できた。
中世に比べて現代は物質的に豊かになり、格差が拡大している。
これは「平等」を求める本能からすると許されざるほど拡大しており、そのためエリート層も革命等社会不安要因のヘッジとして多様化を認めて推進しているという構図なのであろう。

2016年6月13日月曜日

『女子高生と学ぶ 稲盛哲学』

麗沢大学大学院の髙嚴先生が、女子高生との対話形式で(実際に対話して)稲盛について語っている本。
橘玲氏の本で正義論について学んだので、別の切り口から稲盛さんがどのように考えているのかを知りたくて読んだ。

稲盛氏の「人生・仕事の結果に関する方程式」
人生・仕事の結果=考え方×熱意×能力
「方程式の中で最も重要なものが『考え方』である」

稲盛哲学は、アリストテレスの哲学に近いものとして整理されていて、橘玲氏の言うところの「共同体主義」に近い考え方である。
結論から言うと身も蓋もない感じだが、他に「自由至上主義」と「社会自由主義」と「功利主義」を挙げている。

<自由至上主義>

自由至上主義とは「市場に任せておけば、各人の努力は報われる」とする哲学。
自由至上主義は、政府が余計なことをしなければ、一人ひとりはその努力に応じて評価されるので、結果として『正しい配分』が実現するとした(『配分的正義』)。
本来、自由至上主義の方程式は「社会のあるべき論」として提唱されたものであるが、ひとたび、仕事の結果が「熱意×能力」の積で決まるとなれば、優位にある者は「現在、劣位にある者は、皆能力や熱意が足りなかった」と主張し始めるかもしれない。
社会や人生には多くの偶然がある。不幸な人に対しそれは自業自得だ、と指摘しあう社会は住みにくい。

<社会自由主義>

社会自由主義とは、「市場に任せるだけでは、正義は実現しない」と主張。
相反する二つの哲学だが、どちらも「『良き考え方』など、他人に押し付けてはならない」「よいか悪いかは各自が自由に決めること」という前提から出発している。
社会自由主義は、各自の持っている才能や資質も、結局「偶然の産物」として捉える。
そもそも、才能や資質を偶然の産物として捉えるからこそ、才能・資質の結果として生まれる所得や富を格差原理に基づいて共有することを求めるのである。当然、市場は、格差原理に従った共有等促すことはできない。それは政府にしかできない調整である。
社会自由主義の発想は、行き過ぎれば日常生活に不満を持つ人々が暴走することを許してしまう。
また、権限をもった政府、政治家、官僚の権限が大きくなればなるほど、権限者を腐らせていく。より大きな政府を求める社会自由主義は、常に腐敗問題に悩まされるのだ。


功利主義については、他の二つの伝統的社会哲学とは一線を画すものとして整理されている。

<功利主義>

功利主義は、近代を特徴付ける有力な社会哲学となった。
幸福を大きくし、不幸を小さくすること、幸福の中身は各自が決めて良い、これが一人ひとりの生き方として、また社会のあり方として「倫理的に正しい」とした。
ジェレミ・ベンサムの「最大多数の最大幸福」という考え方。
功利主義は、「多数派の満足度が増すのであれば、少数派が不利益を被っても構わない」との冷たい論理を内有している。
加えて言うならば、全体の幸福(社会の厚生)を増やすことだけに重きを置き、「社会の中で、どのように幸福を配分するか」について何も語っていない。


<自由至上主義と社会自由主義(伝統的社会哲学)の共通点>

(理論的前提)
1.社会を構成する単位をバラバラの独立した個人としていること。
2.ある特定の『考え方』をよいものとして推奨するのを避けていること。
3.各自の努力を数年間など比較的短い期間の中で清算・調整されるものと捉えていること。

伝統的社会哲学は、社会を構成するものが、様々な人間関係を捨象してしまった後に残る「抽象的な個人」「バラバラな独立自由な個人」であると解する。
西洋由来の社会哲学では、扱うべき社会は、そのままでは説明のつかない対象であった。そこで、観察対象の社会を細かく分割(divide)していった。これをとことん進めていった結果、これ以上は分けられない(in-divide)単位に行き着いた。それが「個人」(in-dividual)という最小単位だったわけだ。
これに対し、稲盛哲学では、人をバラバラな個として扱うことはない。誰にも影響をうけなく、独立自由な個体に還元してしまえば、人が負うべき責任や担うべき役割までが見えなくなってしまうからである。どうしても社会を分けて整理したいというのであれば(あっても)、その最小単位は「個人」ではなく、「関係の中にある人」あるいは「人と人の関係」でなければならない。
英語で言えば「individual」ではなく、他の人との関係の中にある「person」(人)でなければならない。もともと「person」という言葉には、様々な「顔」の集合、多様な「役割」の集合という意味が込められているからである。

伝統的社会主義では、個々人に還元可能な所得や富が重要なものとして取り上げられる。 しかし、「人と人の関係」を想定した場合、個人のレベルに還元されるものに加え、関係のレベルに還元されるものも重要となってくる。 関係レベルに還元されるものの中には「共同で所有する共有地」といった財産も含まれようが、中心はやはり人々の間で培われるもの(「関係財」)となる。 具体的には、相互間の信頼、賞賛、尊敬、さらには、それを背景として社会全体あるいはコミュニティ全体に生まれる治安の良さ、生活の充実感、人々の絆などである。


<稲盛哲学における「自由」>

中世という時代は、人々の関係、特に支配と服従の関係が各自の自由を束縛する時代だった。 この時代と訣別するため、伝統的社会哲学は様々なしがらみに縛られない独立自由な個人を想定した。なので『よき考え方をもって行動せよ』と唱える哲学はすぐに中世思想への回帰あるいは意志の自由な発露を否定するものとして警戒された。

ドイツのイマヌエル・カントは、本当の自由とは欲望のままに生きることではない、とした。
本当の自由は、物理法則や欲望の鎖から、理性の力をもって自らを開放し、自身のやるべきことを自律的に決定し、行動することだとした。
稲盛氏がいう『自由』とは、まさにこのカント流の自由である。
稲盛氏の「自由」とは、物理的・生理的な法則に縛られないこと、身体に埋め込まれた欲求や本能に振り回されないこと、人間だけが持っている「理性」の力を発揮し、進むべき方向を自らの意思と責任で決めていくこと、である。これこそ本当の意味での自由であるとした。

自己利益に縛られ、本能のままに行動するようになれば、人は信頼関係作りを避けてしまう。信頼関係作りには必ずどこかの段階で自己犠牲が求められるからである。


<稲盛哲学とロールズの正義論の違い>

最大の違いは、正義の原理・原則を導きだそうとする人の『事前知識』の中にある。
原理・原則を導きだそうとするひとのことを『構想者』という。その「構想者」が事前に持っている知識が「事前知識」。
稲盛哲学における構想者は「生活の糧は多いほど良いかもしれないが、他人との関係も考慮し、その取得・活用を考えるのが合理的である」といった「事前知識」を持つ。
これが、「自分の所得や富は多ければ多いほどよい、自分の権限は大きければ大きいほどよい」とするロールズの事前知識と異なる。


<稲盛哲学における「正義の原理」>

稲盛哲学における「正義の原理」は、おおよそ次の二つにまとめられる。
大雑把ではあるが、「人と人の関係」「関係の中にある人」などを重視するものが正義を模索すれば、ここに行き着く。
(1)積極的行為に関する原理
(a)社会の上にいる人ほど、あるいは恩恵に浴している人ほど、社会に役立つ積極的行為に努めるべき
(b)結果の社会還元、取り分の自制等の積極的行為は、基本的に受益者側が権利として要求することではない
(2)消極的行為に関する原理
(a)社会の上にいる人ほど、あるいは利益を上げている企業ほど、違法・脱法などに走らぬよう、一層の注意を払うべき
(b)違法・脱法行為には、誰もが関与してはならない

現代社会の問題として、①所得の格差、②治安の悪化と地域社会の荒廃、③濫訴社会、という三つの問題に触れたが、関係重視の二つの原理が解決に資するとすれば、それは、少なくとも「配分的正義の問題」に関し、伝統的社会哲学を補うものとなり得るはずだ。


<偶然による撹乱>

偶然による撹乱で、『人生・仕事の結果に関する方程式』など成り立たない、と皆が考えるようになってしまう可能性がある。
逆の危険性もあり、皆が「人生・仕事の結果に関する方程式」を妄信的に支持すれば、その場合も社会は豊かさを失う可能性を持っている。(偶然の撹乱により、不運に見舞われた時、誰もが「それは、あなたの考え方が悪いから」「自業自得」というような社会ではない)
自由至上主義が劣位にある者に対し冷たい社会をつくる可能性があると指摘したが、稲盛哲学の方程式も、使うものが使い方を誤ると、同じ過ちを犯してしまう。

稲盛哲学の方程式は、あくまでも、自らにあてはめ、将来に向かって進もうとする人が、自身の生き方を考えるために用いるもの。それが稲盛哲学の狙いとするところであり、人間として正しい『方程式』の使い方。

稲盛氏は、偶然による撹乱と方程式に従った実践、この二つの関係を「運命」と「因果応報の法則」という言葉を使って説明している。
「『運命』というものは決まっています。我々が望んで動かせるものではありません。一方、『運命』と同時並行で流れる『因果応報の法則』はそうではありません。この法則を使えば、決まっているはずの『運命』すらも変えられるのです。このことを『立命』といいます」


稲盛哲学。
単なる哲学的な思考を問うだけでなく、実業家として京セラ・KDDI設立、JAL再建を成し遂げた実績があり、非常に説得力をもって迫ってくる。
女子高生とのやりとりがあるのも、具体的な話しが入って分かりやすくさせている。

2016年4月22日金曜日

人事異動

ここのところ、投稿のペースが鈍っている。
実は4月に異動となり、新天地にて働き始めたからだ。
新たにできた部署ということもあり、3月の初旬に出た辞令から今日まで結構走り詰め。

異動は全く予想していなかったので、ちょっとギアチェンジに時間がかかったし、身体が保つかも心配だったが、なんとかGW前まで突っ走って休みに突入することができそうだ。

GWは今度は家族サービスを兼ねながら旅行でもと計画している。

また年初の抱負が異なるイメージとなってしまったが(2年前もそうだった)、GW英気を養って、また走り続けよう。

『「読まなくてもいい本」の読書案内』

橘玲氏の著作。タイトルは過激というか、いい加減という感じだが、内容は極めて真面目で非常な名著である。
「パラダイムシフト前の小難しい本は、よほどの専門領域で勉強しているのでもない限り読む必要はない」という、時間の少ないサラリーマンにはありがたい趣旨の本。

20世紀半ばからの半世紀で起こった”知のビッグバン”の原動力になっているのが、複雑系、ゲーム理論、脳科学等の爆発的進歩だ。
この”知のパラダイム転換”がなんと進化論をベースとしているというのが面白い。
この本を読んだ人は皆、進化論信者になること請け合い(笑)

<進化論>

進化論とは
「遺伝的変異と自然選択で繁殖度(包括血縁度)を上げることによって、生物が環境に適応するよう多様化する過程」
のこと。

進化論を否定する「三つのジコチュー」がある(いる)。
①進化の長いタイムスケールを理解できない
②個体のタイムスケールの違いを錯覚している
③ヒトを進化の頂点だと考える。

何故、こういったジコチューが起こるのか。
①生命はおよそ40億年前に誕生した。ヒトの祖先がチンパンジー、ボノボ、オランウータン、ゴリラなどの類人猿から分岐したのが約600万年前、現生人類であるホモ・サピエンスがアフリカで誕生したのが約10万年前と考えられている。農耕の開始は一万年前。
人は1年と10年の違いを直観的に把握することはできるけれど、1万年が40億年の40万分の1であることを上手く理解できない。これは我々の時間感覚が自分の寿命を基本にしているからだ。ほとんどのひとが100年先のことに興味を持たないのは、どうせその頃には死んでいるからだ。これは過去についても同じで、100年以上前の出来事はすべて「昔話」だ。

地球の誕生(46億年前)を1月1日とすると、生命が誕生した(40億年前)のが4月8日、それから11月1日(8億年前)までは単細胞生物しかおらず、最初の魚類が出現したのが11月26日の午後。
恐竜の時代は12月9日から26日あたりまでで、最初のサルが出現したのが12月25日、人類の祖先が現れたのが12月31日の午後8時10分だ。エジプトやメソポタミアに最初の文明が誕生してからは、わずか30秒しか経っていない。
あるいは、子供達に両腕を広げさせ、右手の指の先を地球の始まりとし、左手の指先を現在とする。そうすると、右手首から始まってだいたい左手の手首までは色々なバクテリアが生息していた時代、恐竜はだいたい左手の掌あたりで登場し、ヒトは左手の爪先位になる。人類の文明は爪先をやすりでひとこすりして、爪から落ちた粉の分しかない。
わずか数千年の人類の文明史から進化を理解できないのは、30秒の出来事で一年を語ったり、爪の先の粉から両腕の長さを計れないのと同じことだ。ましてや自分の数十年の経験から、直観的に進化のタイムスケールが把握できるはずはない。だが世の中には自信過剰なひとがものすごくたくさんいて、彼らは科学的な事実と直感が対立した場合、無条件に自分の直感が正しいと信じるのだ。

②現代人は動物の中でも極端に長い寿命を持っていて、それを無意識の基準にしているけれど、ほとんどの生き物は生まれてすぐに死んでいく。すなわち、世代交代の間隔が短く進化のスピードが速い。
イヌの寿命は15歳前後で、ヒトがせっせと交配という”遺伝子組み換え”をやった結果、わずか数百年でセントバーナードからチワワまで多様に進化した。(オオカミの一種が家畜化されたのは1万5千年ほど前とされているが、品種改良が進んだのは18世紀以降だ)
ネズミのような小型の哺乳類でも生き物の中では大きい方で、ほとんどの昆虫は寿命が1年以内で、数ヶ月で世代交代していく。彼らの”進化時間”はヒトよりずっと速いから、我々にとっての40億年は虫達にとっては100兆年くらいに相当する。

③自然(生態系)はヒトを頂点とする一本の棒ではなく、峠がたくさんある、ゴツゴツとした岩山のようなものだ。
進化の基準を知性(意識の複雑さ)に置くなら、ヒトが最も優れているのは疑いない。だが子供の数や繁殖度で進化の効率を測るのなら(学問的にはこちらが主流)、最も成功した生き物はアリやハチなどの社会性昆虫になるだろう。
「進化論的に優れた生き物」を議論するよりも、すべての生き物がそれぞれの進化の頂点にいると考えた方がすっきりする。


<進化生物学>

1976年、”進化の伝道師”リチャード・ドーキンス 『利己的な遺伝子』 進化の主役を個体ではなく、遺伝子にしてしまった。すべての生き物は遺伝子を後世に引き継がせるための「ヴィークル(乗り物)」なのだ。 進化における個体から遺伝子はの視点の転換は、天動説から地動説へのコペルニクス的転換に匹敵する衝撃だった。

女王を中心に大きな集団(コロニー)をつくるハチやアリは、半倍数性という特殊な生殖をする。
半倍数性の昆虫は、メスが2組のDNAを持つ「二倍体」なのに対し、オスは未受精卵から育つためDNAが一組しかない。これが「半倍数隊」で、二倍体のメスと半倍数隊のオスが両性生殖するのが「半倍数性」だ。
まず妻は、夫とセックスしなくても息子を産むことができる。息子は半数体で、母親の二組の遺伝情報から一組を受け継ぐのだから、その血縁度は1/2。だが夫から見れば、自分とは何の関係も成しに妻が勝手に男の子を産むのだからその血縁度はゼロになる。半倍数性の家族では、父親と息子は常に他人なのだ。
妻が娘を産もうとすれば、二本のDNAが必要になるから夫とセックスしなくてはならない。こうして産まれた娘の血縁度は、母親から見れば、二組の遺伝情報から一組を受け継いでいるのだからやはり1/2。一方、夫からすれば、娘は自分の一組の遺伝情報をまるごと受け継いでいるのだから血縁度は1になる。
息子にとっての兄弟姉妹は血縁度が1/2。だが、娘からみた兄弟姉妹の血縁度は異なる。
娘にとって兄や弟は、父親の遺伝子を持たず、母親から1/2の遺伝子を受けついているのだから、血縁度は1/4。それに対して、(娘にとって)姉や妹は、父親の遺伝子全てと母親の遺伝子の1/2を共有しているのだから、その血縁度は3/4になるのだ。
このように半倍数性の生き物では、メスにとって自分の子供(息子や娘)の血縁度が1/2なのに対し、姉妹の血縁度は3/4になる。
生き物が血縁度を最大化するように進化するとしたら、メスは子供をつくるよりも姉妹をできるだけ増やそうとするに違いない。そしてそれこそまさに、アリやミツバチなど半倍数性の生き物がやっていることなのだ。
社会性昆虫のコロニーでは、一匹の女王がたくさんのメスとごく少数のオスを産む。メスは生殖も産卵もしないワーカーとなって、女王が卵を産むのをひたすら手助けする。オスは女王と結婚して、自分と遺伝子を共有する娘をできるだけ多く産ませようとする。そう考えれば、社会性昆虫の「女王」は利己的なメスのワーカーと利己的なオスによってつくられた産卵マシンなのだ。
こうして、進化論における”知のビッグバン”、社会生物学(進化生物学)が誕生した。

ジョン・メイナード=スミスは、生き物を「遺伝子のコピーの最大化」というゲームを行うプログラムと考えた。
この時にスミスが使ったのが、フォン・ノイマンが編み出したゲーム理論だ。
ゲーム理論は血も涙もない「合理的人間」を前提としていたが、現実的には人間は完全に合理的に行動する訳ではない。
ところが、メイナード=スミスは、昆虫には「血も涙もない」のだから、彼らこそがゲーム理論通り合理的に行動するはずだと考えた。
「合理的経済人」はいないかもしれないが、「合理的経済虫」はいたるところに存在する。なぜなら進化は、遺伝子の複製を最大化する「合理的な戦略」だけを選択していくのだから。
メイナード=スミスはこれを「進化的に安定な戦略(ESS/Evolutionarily Stable Strategy)」と名付けた。これは、生物学を根底から変えてしまうスゴい発見だった。

①生き物はできるだけ多くの子供をつくるのではなく、できるだけ血縁を増やすように進化していく。
②これは、より多くの複製を残す遺伝子が受け継がれていくということでもある。このように考えれば、全ての生き物は「利己的な遺伝子」の乗り物に過ぎない。
③生き物は、「遺伝子の複製の最大化」というプログラムを搭載した”機械”であり、他の生き物と対立や協調のゲームをしている。その行動はゲーム理論で数学的に記述できる。
④生き物の戦略は「遺伝子という効能」の最大化でもある。だとすれば、動物や植物の生態系は投資や市場取引として経済学的に説明できる。

<進化生物学その2>

進化生物学者ロバート・トリヴァースの「親の投資理論」
トリヴァースは、生き物はそれぞれ子供をつくる(遺伝子を複製する)のに異なるコストを払っていると考えた。
例えば魚や昆虫のメスは一度に大量の卵を産むから、大きな投資は必要ない。こうしたローコストの繁殖戦略では、卵の一部が孵化すればいいだけだから、一所懸命子育てしようとは思わないだろう。
一方、哺乳類のメスは、妊娠から出産までの期間が長いし、一度に産める子供の数も限られている。これはハイコストの繁殖戦略で、せっかく生まれた子供は大事に世話して大人にしなければならない。これが哺乳類が「子育て」をするようになった理由だ。

男と女でも進化論的にはとるべき戦略が異なる。
男と女では生殖機能が違う。男の場合は、精子の放出にほとんど労力(コスト)がかからないが、女性は、受精から出産までに9ヶ月もかかり、無事に子供が生まれたとしても更に長い授乳期間が必要になる。子供をつくるときの”投資金額”がオスとメスでかけ離れているとき、進化論は最適な生殖戦略が性によって異なるはずだと予想する。
ローコストの男がより多くの子孫を残そうとすれば、できるだけ多くの女性とセックスすればいい。すなわち、乱交が進化の最適戦略だ。それに対してハイコストの女性は、セックスの相手を慎重に選び、子育て期間も含めて男性と長期的な関係をつくるのが進化の最適戦略になる。セックスだけして捨てられたのでは、子供と一緒にのたれ死にしてしうのだ。
男性はセックスすればするほど子孫を残す可能性が大きくなるのだから、その欲望に限界はない。一方、女性は生涯に限られた数の子供しか産めないのだからセックスを「貴重品」としてできるだけ有効に使おうとする。

これまで人類は、文学や音楽、映画などで男と女の「愛の不毛」を繰り返し描いてきた。しかし進化心理学は、恋人同士が分かり合えない理由をたった一行で説明してしまう。すなわち、「異なる生殖戦略を持つ男女は、”利害関係”が一致しない」のだ。
ゲイは、バーなどのハッテン場でパートナーを探し、サウナでの乱交を好む。エイズが流行する前にサンフランシスコで行われた調査では、100人以上のセックスパートナーを経験したとこたえたゲイは全体の75%で、そのうち1000人以上との回答が4割近くあった。彼らは特定の相手との長期の関係を維持せず、子供を育てることにもほとんど関心を持たない。
それに対してレズビアンのカップルは、パートナーとの関係を大切にし、養子や人工授精で子供を得て家庭を営むことも多い。レズビアンの家庭は、両親がともに女性だということを除けば(異性愛者の)一般家庭と変わらず、子供達はごく普通に育っていく(母子家庭の子供よりも社会的に成功する比率が高い)。一方、高齢のゲイ同士のカップルというのはほとんどなく、養子をとることもないので、人生の最後は孤独に苛まれるのだと言う。
ゲイの乱交とレズビアンの一婦一婦制は、男性と女性の進化論的な戦略の違いが純化した結果なのだ。


<進化心理学>

ヒトのからだが進化によってつくられたのと同じように、我々のこころや感情も進化によって生まれた。
進化心理学は、ヒトは「進化適応環境(EEA/Environmental of Evolutionary Adaptedness )に最適化されていると考える。
石器時代のプログラムを起動させることで、「裏切り者」をたちまちのうちに探し出すことが出来る。

進化適応環境(EEA)である石器時代には、そもそも「負債」などという概念はなかった。原始人が知っていたのは、獲得する(利益を得る)か、奪われる(損をする)かの二者択一だ。その上原始時代には、富を蓄える手段がほとんどなかった。獲得するものの多くは生の食料で、たくさんあっても腐らせるだけでほとんど役にたたなかった。大事なのは大量に獲得することではなく、確実に獲得することなのだ。
それに対して、損をする=獲物を奪われることは直ちに死を意味した。絶対に損をしないことが生存の条件で、万が一損をしたら直ちに取り返さなければならない。そう考えれば「生きる望み」のある選択肢(損失確定ではなく、損失のない可能性がある選択肢)が選好されるのは当然だ。
「プロスペクト理論」は、ひとは得をするときと損をするときで「プロスペクト(見通し)」が大きく異なることを示した。このような「非合理性」が生じるのは、進化の過程のなかで、(確定)利益を好み(確定)損を嫌うプログラムが強化されてきたからだ。


<正義とは>

「正義とは何か」という原理的な問いを考えてみよう。
現代の脳科学はここでもたった一行で正義を定義する。
「正義は娯楽(エンタテインメント)である」 正義の特徴は、強い感情を伴うことだ。進化論的に言えば、特定の状況に置かれたヒトが泣いたり笑ったりするのは、脳にあらかじめ組み込まれたプログラムによるものだ。
お笑い番組で号泣したり、恋人が不治の病で死んでいく場面で腹を抱えて笑うようなひとは、相当な変わり者だから皆に相手にされず、うまく子孫を残すことができない。
哲学や倫理学の小難しい理屈で説明される道徳や正義は、すべて「正義感覚」という感情を基礎としているのだ。
ひとは、気持ちのいいのは正しいことで、不快なのは悪いことだと無意識のうちに判断している。セックスが快楽なのは子孫を残す行為だからで、腐ったものが不味いのは食べたら病気になるからだ。長い進化の歴史の中で、我々は「気持ちいい」ことだけしちれば大抵うまくいくよう「設計」されている。 復讐はもっとも純粋な正義の行使で、仇討ちの物語があらゆる社会で古来語り伝えられてきたように、それは人間の本質(ヒューマン・ユニヴァーサルズ)だ。 そればかりか、「目には目を」というハンムラビ法典の掟はチンパンジーの社会にする存在する。
ひとは何故これほど正義に夢中になるのか。その秘密は、現代の脳科学によって解き明かされた。脳の画像を撮影すると、復讐や報復を考えるときに活性化する部位は、快楽を感じる部位と極めて近いのだ。
復讐がなぜセックスと同じ快楽になるのか。その理由は簡単で、折角手に入れた獲物を仲間に奪われて反撃しないようなお人好しは、とうの昔に淘汰され消滅してしまったからだ。生き残ったのは「復讐せざるもの死すべし」という遺伝子なのだ。
こうして、ヒトやチンパンジーのような社会的生き物は、「正義」の行使(裏切り者を罰すること)を娯楽=快楽と感じるように進化してきた。
ハリウッド映画から時代劇まで、「悪が破壊した秩序を正義が回復する」という勧善懲悪の陳腐な物語がひたすら繰り返されるのも無理はない。


<マーケットデザイン>

社会をよりよいものに設計しようとすることを「マーケットデザイン」というが、そこで大事なのが「パレート効率」という考え方。「誰かの効用を犠牲にしなければ他の誰かの効用を高めることができない状態」と定義されるが、逆に言うと「誰の不利益にもならずにいまより幸福になれるなら、それはみんなにとってもいいことだ」ということになる。
パレート効率性と並んでマーケットデザインで重要になるのが、「個人合理性」で、”抜け駆け”ができないという基準だ。
分配がパレート効率的でも、個人合理性の基準を満たしていないと、せっかくの約束事が無駄になってしまうのだ。

マーケットデザインでは、パレート効率性と個人合理性の両方の基準をクリアした分配方法を「コア」という。
コア(パレート効率性+個人合理性)に加えて、「耐戦略性」という基準も大切だ。 耐戦略性というのは、虚偽の申告をするなどの戦略的操作が可能でない、正直であることがもっともいい結果を生むような分配方法になっていることだ。
マーケットデザインとは、「市場の機能が使えない時に、ゲームを上手にデザインすることで、市場と同じようなコアの分配を成立させる」技術のことなのだ。

実は、市場メカニズムを含むどのような分配方法でも、耐戦略性を満たしたコア(パレート効率性+個人合理性)を実現することはできないということが、これも数学的に証明されている。これが社会選択理論における「不可能性定理」で、全ての望みを満たす理想の世界はあり得ないということだ。
最適な分配を考える時には、パレート効率性、個人合理性、耐戦略性のどれかひとつをあきらめなくてはならない。
これは典型的なトレードオフで、市場取引は、コアではあっても戦略的操作に対しては脆弱性がある。しかしそれでも、自分の選好を偽ることで市場全体の配分を変えるのは非常に難しいから(株式市場において嘘の情報を流す風説の流布は、仮に成功しても犯罪になる)、市場の仕組みはやはりダントツによくできているのだ。

マーケットデザインを使えば、市場でうまく扱えないものでも、市場取引と同様の効率的な分配ができる。この仕組みはコンピュータのアルゴリズムと同じだから、条件さえきちんと整えれば、いつでもどこでも最適の結果が実現する。
アルゴリズムというのは、要するにルールのことだ。そうなるとマーケットデザインで法律をつくればいいではないか、と考える人も出てくる。
法律の中でも、民放や商法、会社法、税法などは市場のルールを決めるものだ。その目的は市場の機能を最大限活かすことだけど、法律家の常識(というか思い込み)と市場の現実がどんどん乖離して、色んなところでうまくいかなくなっている。
その責任の大半は有権者という名の既得権益層に振り回されて合理性を無視する政治にあるのだけど、これまでの法学が唯我独尊で、直感的(進化論的)な正義感覚だけで市場のルールをつくろうとしてきたことも否定できない。
だったら、市場のルールは株式取引などやったことのない法学者ではなく、経済学(ゲーム理論)を活用してつくった方がいいと考える人が多くなるのは当然で、経済学的に合理的な法律をつくろうという「法と経済学」がいまでは世界の主流になっている。


<進化論による説明>

「人はなぜ老いるのか?(思春期に生殖能力を最大化するため)」
「病気はなぜあるのか?(ウィルスと免疫との”軍拡競争”)」
「神はなぜいるのか?(脳のシミュレーション機能の自然への拡張)」

チンパンジーは相手のこころを映す鏡を持っているかもしれないが、シミュレーション能力は極めて限られている。
それに対してヒトは、未来をシミュレーションすることで、社会集団の中でより有利な地位を獲得し、生殖の機会を増やしていった。これは極めて強力な武器なので、自然選択(性淘汰)によっていずれは群れの全員がシミュレーション装置を持ち、相手の出方を読み合うようになるだろう。この複雑な相互作用(フィードバック)から自分や相手の「内面」が実体化したものを、僕たちは「こころ」と呼ぶようになったのだ。
ひとは物心ついた時から死ぬ瞬間まで、意識がある限り「if…then…」の思考をひたすら繰り返している。仏陀はこの終わりのないシミュレーションを「煩悩」と呼び、修行によって「if…then…」の回路を遮断し、とらわれのない心の静けさに至ることを目指した。悟りの境地は「涅槃(ニルヴァーナ)」で、それは「寂静(じゃくじょう)」とも言われるが、これは意識の機能を停止した状態が死の世界であることをよく示している。
すなわち、死ななければ悟りは得られないのだ。


途中以前の橘玲氏の著作で紹介した、進化論的に正しいとされる「正義」からくる3つの政治的主義(「自由主義、」「平等主義」「共同体主義」)の話し(および進化論的から派生していない功利主義)は割愛したが、非常に体系的に知的興奮を味わえる良書。

2016年2月20日土曜日

『限界マンション』

マンション。
その最後はどうなって終わっていくのか。
あまり考慮されずに拡大再生産されていくマンションの行方について予見した本。
結論からすると、解体費を誰が負担するのか、という点に行き着き、所有者が負担できないとなると最終的には公費(税金)にて賄われることになるのではないか、という見立て。
空家関連を始めとした様々な法制度の経緯や数値が分かりやすく述べられている。


<数値編>

◯総務省「住宅・土地統計調査」によれば、2013年の空家数は全国で820万戸(2008年対比+63万戸)、空家率は13.5%(2008年対比+0.4P)と、引き続き増加傾向にあることが明らかとなった。
空家のうち、特に問題になるのは、空家になったにも関わらず、買い手や借り手を募集していないもので、放置期間が長引くと劣化し、近隣に悪影響を与える問題の空家の予備軍となる(空家の内訳で「その他」にあたるもの)。その「その他」の空家の数は318万戸と5年前に比べ1.2倍となり、空家全体に占める割合も4割にまで高まった。

◯空家問題は今のところ一戸建てが中心であるが、近い将来、深刻になっていくと予想されるのが分譲マンションである。
分譲マンションのストックは全国で613万戸(2014年末)に達する。 マンションの居住人口は、1世帯当たりの平均人員2.46を(2010年国勢調査)を元に算出すると1510万人に達する。
613万戸のうち1981年6月以前に建設された旧耐震マンションは106万戸(全体の17%)、さらに1971年4月以前に建設された旧・旧耐震マンションは18万戸(全体の3%)。
ちなみに、旧耐震基準とは、1968年に発生した十勝沖地震の被害発生を踏まえ、1971年の改正により、鉄筋コンクリート造の帯筋の基準を強化したものである。
中地震(震度5程度)に耐え得る基準となっているが、大地震(震度6強〜7程度)へは対応していない。
新耐震基準とは、1978年の宮城県沖地震の被害発生を踏まえて1981年に策定されたもので、中地震に対して損傷しないことに加えて、大地震に対して倒壊しないことの確認を追加したもの。

◯マンションの完成年次別の空室率を見ると、全体の空室率は2.4%に過ぎないが、1974年以前に完成したマンションでは空室戸数の割合が10%以上の物件が増え、1969年以前になると空室戸数の割合が15%超の物件が増えていく。築40年を超えると、マンションの空室率が高まっていくことがわかる。

◯東京都区部では1.6〜2.8倍程度容積を割り増さなければ、採算に合わないとの筆者試算。実際に建替えできたのは、全国で211件、16,600戸(2015年4月時点)に過ぎない。(阪神淡路大震災関連を除く)

◯老朽化マンションでは既存不適格物件(建設当時の法令では適法だったが、その後の法改正によって違法となり、従前と同じ容積率で建替えることができなくなったなどの物件)が多く存在する。既存不適格物件は、1970年以前の建設で67%、1971〜1975年の建設で65%もあり(いずれも民間の物件、国土交通省調べ)、これらは建替えが極めて困難である。 このように建替えには限界があるため、他の方策も必要になる。
マンションの区分所有権を解消し、敷地を売却して終止符を打つ方法がそのひとつである。
この場合、区分所有権解消には全員一致が必要という条件がネックとなる。この問題は東日本大震災での被災マンションで、全壊判定されたマンションでも解体できない問題として浮上した。これを受け、法改正により被災マンションについては4/5の賛成で区分所有権解消が可能とされ(被災マンション法改正)、次いで、耐震不足のマンションについても同様の法改正がなされることとなった(マンション建替え円滑化法改正)
しかし、問題はこれで終わりではない。区分所有権を解消しようとしても、解体費用が捻出できない場合には、老朽化物件が放置される恐れがある。
戸建ての空家の場合、非常に危険な場合には、自治体が解体費用を補助するケースも増えてきた。だが、共同住宅であるマンションの場合、解体には億単位の費用がかかると考えられ、すぐに行政が費用を負担できるものではない。


<マンション法整備の歴史>

◯「マンション」という呼び方についてだが、鉄筋アパートにマンションという名称を使ったものは戦前にも見られたが、戦後では1959年に建設された「信濃町アジアマンション」が最初と言われている。「アパート」という言葉だと従来主流であった木造アパートのイメージでとらえられることもあったため、それに代わり消費者に優越感を与える新たな言葉が求められたからである。

◯1962年に「建物の区分所有等に関する法律」が制定された。法律制定当時のマンションの戸数は全国で1万戸前後あった。

◯大衆向けマンション市場にいち早く乗り出したのは秀和といわれる。秀和は1960年からマンション分譲に乗り出した。1966年には同社の大衆マンション第1号である「外苑レジデンス」を売り出した(分譲価格300万円台)。秀和はこの時、東部信用金庫と提携し、住宅ローンを使ってマンションを販売する手法を取り入れた。

◯マンション大衆化に伴い、マンションの取得について、公的支援を行う動きも出てきた。住宅金融公庫(現 住宅金融支援機構)は発足した当時から、個人については住宅を建設する場合に融資を行っていたが、1960年代後半からは分譲住宅の購入に対しても融資を行うようになった。

◯マンション供給増加により、様々な課題が浮上してきた。1960〜1970年代には、漏水、結露、排水など建物の欠陥(工事瑕疵の問題)を巡る問題がしばしば現れた。
こうした問題を受け、1977年には建設省から通達(「宅地建物にかかる取引条件の明確化、工事施工の適正化、建築物の設計および工事監理の適正化について」)が出され、デベロッパーは「アフターサービス基準」を整備した。
並行して、1970年代には、日常のマンション監理を委託している管理会社の業務に対する不満も表面化してきた(管理問題)。これは管理会社の業務が当時はまだ未成熟であった事によるが、1979年には業界で「高層住宅管理協会」が設立され、業務改善の取り組みがなされるようになった。

◯1980年代に入ると、マンションの修繕問題が本格化するようになった。外壁修繕工事などがしばしば行われるようになったが、これに伴い、修繕費積み立て基金が不足するなどの問題が生じるようになり、積立金の値上げや長期修繕計画の整備が検討されるようになった。

◯その後、1980年代後半から1990年代に入ると、初期マンションが築30年を迎えるようになり、建替え問題が現実問題となり始めた。

◯このように、マンションを巡る問題は、初期の「工事瑕疵の問題」から「管理問題」、さらに「修繕・建替え問題」と、時を経るにつれクローズアップされる問題が大きく変わってきた。

◯一方区分所有法は、1962年に制定された後、1983年と2002年に改正がなされた。
1983年改正の最大のポイントは、4/5以上の賛成があれば建替えが決議できることである。それまでは、マンションを建て替えるには全員の賛成が必要とされていた。
ただし、建替えを決議できるのは、「老朽、損傷、一部滅失その他の事由」によって「建物が価額その他の事情に照らし、建物がその効用を維持し、または回復するのに過分の費用を要するに至った時」に限られるとされた。
しかしその後建替えられたマンションは、全員の賛成によるもので、この基底が実際に適用されることは長らくなかった。
初めて適用されたのは、1995年の阪神淡路大震災に伴う、マンションの建て替えの際であった。この時、建替え決議が成されたケースで、「建物がその効用を維持し、または回復するのに過分の費用を要するに至った」のか否かを巡って、建替え非賛成派が裁判に持ち込んだケースも複数あったが、結局は非賛成派が敗訴するに至った。

◯2002年の区分所有法の改正では、この立て替えに関する規定で、「過分の費用を要するに至ったとき」という曖昧な要件が削除され、単に多数決で建替え決議を行うことができるようになった。1983年改正で導入された建替え規定が阪神淡路大震災で初めて試され、その問題点が明らかになったことを受けたものであった。
2000年に「マンション管理の適正化の推進に関する法律」の制定、2002年に「マンション建替えの円滑化等に関する法律」の制定が行われ、マンション関連法が整備された。 マンション管理適正化法では、区分所有法で設けられていなかったマンション管理の具体的なあり方が規定され、マンション管理の専門知識を有する「マンション管理士」の資格が新たに創設された。

◯一方マンション建替え円滑化法では、従来、建替え決議が成立しても、その後の事業を円滑に進めるルールが存在しなかったため、マンション建替え組合法人の設立、権利変換手法による関係権利の円滑な移行などについて新たに規定した。また、円滑化法では、有害・危険なマンションに対しては、市町村長が建替え勧告をできることとされた。


<海外の事例>

◯日本のマンション法制では、老朽化した場合に、多数決で建替え決議の選択ができるようになっているが、実はこれは、他の欧米先進国のマンション法制と比べると特異である。
アメリカの法制では、一切の事由を問わずに80%の議決による区分所有の解消は認められているものの、建替えは予定されていない。
ドイツやフランスの法制でも、老朽化による建替えは予定されておらず、区分所有の解消については、客観的な要件(一定規模を超えた滅失・損傷の場合)をもって行うことが認められている。
いずれも建替えは全く想定していないという点では共通している。
日本の場合、初期に建てられたマンションの寿命が長くなく、築後30〜40年程度で、現実問題として建替えをしなければそこに住み続けることが難しいという問題が発生したことが関わっていると考えられる。加えて日本では、所有権に対するこだわりが強く、それを解消する規定を設けることには大きな抵抗感があったという点も関係していると考えられる。

◯韓国では2009年までの建替え戸数は23万戸に達し、ソウル市の新規供給マンションの約3割が建替えによるものだった。
これは1990年代に入ってソウルなどの首都圏でマンション建設用地が不足するようになり、デベロッパーと所有者の利害が一致をみた結果、低層マンションが高層マンションに建替えられることが増えていったことによる。
韓国でも、日本の区分所有法にあたる法律により、多数決(当初4/5、2007年から3/4に緩和)で建替えを行うことが出来るが、実際には、危険建物であるという判定を受けた上で、行政処分で建替えを行っているケースがほとんだという。韓国では、住宅不足でマンション供給を増やさなければならないという社会的な要請に応える形で、行政処分で建替えができるという立法がなされた。ただ、成長期から成熟期に移行した現在の韓国では、マンション供給は過多となり、建替えは進まなくなっている。

◯シンガポールでは、一括売却制度によるマンション再生が進んでいる。
この仕組みは、当該マンションの危険性、機能の陳腐化など必要なニーズに対応できていないという前提のもと、所有者の多数決により、区分所有権の解消と一括売却ができるというもの。2013年9月現在で、一括売却の成立件数は829件にも達する。
シンガポール国内では土地は希少であり、その価格は上昇基調にある。そのため、一括売却により所有者がキャピタルゲインを得られることが多いことが、この仕組みの活用が増えている背景にある。

◯フランスでは、区分所有住宅は620万戸ほど存在する。住宅ストックの1/4という高い割合を占めるが、これらの区分所有住宅のうち、全体の5〜15%程度(30万〜100万戸)が、荒廃した状態になっているという。

◯イギリスでは、日本で言うところのマンションはフラット、定期借地権はリースホールドと呼ばれる。イギリスのリースホールドの存続期間は、一般的には99年である。このリースホールドで問題となったのは、メンテナンスが十分行われず、存続期間の満了時には極端に荒廃が進んだ状態になるという点であった。
こうした問題が発生するのは、リースホールドフラットの中でも、管理責任を賃貸人であるデベロッパーが負っているタイプであった。管理責任をフラット保有者が参画するフラット管理会社が果たすタイプでは、こうした問題は発生しなかった。この問題は、後に賃貸人の管理上の義務につき重大な違反が発生した場合には、フラット保有者が、賃貸人の管理権を強制的に取得できることにするなどの方法によって解決が図られた。
なお、現在のイギリスでは、日本の区分所有権に相当するコモンホールドが創設され(2002年)、マンションの供給は、リースホールド以外に、コモンホールドで行うことも可能となっている。
コモンホールドフラットでは、コモンホールド管理組合(日本の管理組合に相当)が管理責任を負う。デベロッパーの手は完全に離れているため、デベロッパーの管理義務不履行などの問題はそもそも発生する余地はない。


<空家問題>

◯5年に一度行われている総務省「住宅・土地統計調査」によれば、2013年の全国の空家数は820万戸、空家率は13.5%と過去最高を記録した。
空家には「売却用」「賃貸用」「二次的住宅(別荘用)」「その他」の4つの類型がある。このうち特に問題になるのは「その他」の空家である。
空家全体に占める「その他」の空家の割合は、2008年の35%から2013年には39%にまで高まった。 「その他」の空家318万戸のうち、不朽・破損ありのものは105万戸(33%)に達する。また、「その他」の空家のうち木造戸建てが220万戸(69%)で、220万戸のうち不朽・破損ありが80万戸(36%)に達する。

◯問題空家となる予備軍が増加している背景には、①人口減少、②核家族化が進み、親世代の空家を子供が引き継がない、③売却・賃貸化が望ましいが、質や立地面で問題のある物件は市場性が乏しい、④売却・賃貸化できない場合、撤去されるべきだが、更地にすると土地に対する固定資産税が最大1/6に軽減されている特例(住宅用地特例)が解除されるため、そのまま放置しておいた方が有利、などがある。

◯こうした状況は海外から見ると特異である。たとえば、近年のイギリスの空家率は3〜4%、ドイツの空家率は0〜1%未満と、極めて低い水準で推移している。
ヨーロッパでは市街地とそれ以外の線引きが明確で、どこでも住宅を建てられる訳ではない。建てられる区域の中で、長持ちする住宅を建てて長く使い継いでおり、購入するのは普通、中古住宅である。
アメリカも同じ考え方であるが、空家率が近年8〜10%と比較的高い水準で推移しているのは、国土の広さが関係していると考えられる。
ヨーロッパやアメリカの住宅市場では、新築と中古を合わせた全住宅取引のうち、中古の割合が70〜90%を占めるのに対し、日本ではその比率は10%台半ばという極めて低い状態になっている。日本では空家が増加する現在でも年間80万戸ほどの住宅が新築されており、2013年度は消費税率引き上げ前の駆け込み需要で、99万戸もの住宅が新築された。

◯過疎地で空家の増加に悩む島根県江津市において、空家所有者に空家を貸し出すための条件を聞いたところ(総務省自治行政局・島根県江津市2007)、
①空家の修繕費用を入居者が負担
②賃貸期間を5〜10年に限定する場合
③仏壇や位牌の安置場所が確保された場合 を挙げる所有者が多かった。
①は自治体が改修費などの補助を行うことでクリアでき、②は定期借家を活用することでクリアできる。③は所有者自身によって解決してもらうしかないが、所有者にも金銭的補助を与えることによって、売却・賃貸化に向けて仏壇などを片付けるインセンティブをより高めるという方法も考えられる。


<まとめ>

◯これまでの日本のマンションの特殊事情から、建替え規定が設けられた経緯があり、今になってこれを無くすのは現実的ではない。区分所有権の解消規定を新たに加えることが適当と考えられる。
こうした方向に向かうとすれば、マンションの終末期に関し、多数決による建替え決議が設けられた1983年の区分所有法改正、特別決議の要件が問われなくなった2002年の区分所有法改正に続き、区分所有権に制限が加えられることになる。
今後は、区分所有権は制約を受ける弱い財産権であるという認識を持つことがより一層必要になる。

◯最終的に問題になるのは、その解体費を誰が出すのかということである。
長期修繕計画の中で解体費用積み立てを義務づけることが一案であるが、区分所有者にとっては負担が増すため、その実効性を担保できるかは分からない。
義務づけたとしても実効性が確保されないことを勘案すれば、代替案としては、固定資産税を使うことも考え得る。


よくまとまってて、知らないことも結構ありました。

2016年2月11日木曜日

『23区格差』

会社の先輩から「面白い」と手渡された本。
「常識」とは逆に、定住率が高い区こそ「負け組」に、定住率が低い区こそ「勝ち組」になっている、ということを様々なデータと事例にて述べている。
全体を貫く趣旨もさることながら、個別の23区トリビアが非常に面白い。

<「定住率」という過ち>

国連の定義では、高齢化率が21%を超えると「超高齢社会」と呼ぶ。
2010年の我が国の高齢化率は23.0%。東京23区は20.2%。国全体では既に超高齢社会に突入し、東京23区も一歩足を踏み入れた状態にある。 先進国が高齢化していくのは、ある意味でやむを得ない面もある。『国連統計』によると、2010年のイタリア、ドイツの高齢化率はともに20.4%。日本ほどではないにしても、やはり高齢化が深刻であることに変わりはない。
日本の高齢化問題は、比率の高さ以上にそのスピードの速さに特徴がある。1990年から2010年までの20年間で、高齢化率が12.1%から23.0%へと約11ポイントも上昇。同じだけ高齢化率が上がるのに、イタリアは50年、ドイツでは60年以上を要している。
ところが、都心3区、千代田区・中央区・港区は近年高齢化率が低下している。

人口が増えることは、まちが若返ることを意味する。そうなれば高齢化率が改善されるか、改善されないにしてもその進行が抑制される。逆に人口が減ると高齢化が進む。これが常識的なメカニズム。
人口が増えると言っても、自然増では高齢化率に影響を及ぼさない。社会増(転入ー転出)による新陳代謝による人口増が高齢化率に影響を及ぼすのだ。

まちの新陳代謝を生み出すことが、高齢化対応の特効薬になる。
もちろん、全国レベルでみると高齢者は一方的に増えていくのだから、どこかで高齢化の進展が抑制されると、別のどこかでそのしわ寄せを受け、格差が拡大することになる。

「定住できるまち」とは、不動産広告のキャッチコピーとして定番だ。それ以上に、市区町村の施策においても、定住こそが絶対的な到達点とされる。こうして、我々の意識も「定住信仰」に縛られてきた。
なるほど、定住は右肩上がりの時代には意味を持っていた。安心して長く住める。住む価値がある、そんなまちこそが高い価値を持ち得た。しかし、社会全体がシュリンクを始めると、定住の負の側面が一気に顕在化してくることがある。「団地問題」はその象徴だ。

「常識」と逆に、定住率が高い区こそ「負け組」に、定住率が低い区こそ「勝ち組」になっている。定住率の向上を錦の御旗のように掲げる研究者や政治家や行政マンは、この結果にどうコメントするだろうか。
仮に人口が増えていなくても、転出入が多く、新陳代謝が活発であれば、まちの活気が維持される。当然のことながら、こうした新陳代謝を受け入れるためには、その受け皿となる住宅がなければならない。
中古住宅の転売市場が未成熟な我が国で、まちの新陳代謝、つまり人々の住み替え移動の受け皿となっているのは賃貸住宅、より正確にいうと賃貸マンションに代表される民間の賃貸住宅である。
2005〜2010年の5年間で、東京23区の人口は45万人も増えた。子供の独立など世帯の分離があるため、世帯の増加数は、人口を上回る52万世帯。このうち、持家の増加が吸収したのは3分の1の17万1千世帯にとどまり、およそ3分の2にあたる33万4千世帯は民間賃貸住宅の増加が吸収している。

まとめると、まちの活性化のためには新陳代謝が必要で、そのためには中古住宅の転売市場が未成熟な日本では、賃貸住宅という「リソース」が定住向けの持家よりも必要である、ということ。


<23区トリビア>

◯実は、東京23区の中で、渋谷のように区の名前、駅の名前、中心となるまちの名前の3つが一致している区はさほど多くなく、他には新宿区と中野区しかない。(練馬区は東武練馬駅もありちょっと違う)
区の名前と同じ駅名なら、品川、目黒、板橋がある。しかし実際には、品川駅は港区に、目黒駅は品川区に、板橋駅は板橋区、北区、豊島区の3区の境界に位置する。
ちなみに、新橋は港区、八重洲は中央区、有楽町・神田・秋葉原は千代田区にある。
◯2011年3月を境として、外国人達の東京脱出が起こった。 この影響を最も強く受けたのは、区民の10人に一人が外国人という新宿区。1997年以降一貫して増加を続けていた人口が2011年には減少へと転じている。
ただし、この動きは風評被害の側面も強かったためか、概ね2年で収束した。 新宿区の人口増加率を2008〜2010年(震災前)、2010年〜2012年(震災直後)、2012年から2014年(現在)の3区分で比較すると、2.5%→0.1%→2.3%と完全に戻っている。
◯刑法犯認知件数と、飲食店数の相関係数は0.26。酒場・バー・クラブなどの飲酒系飲食店数との相関係数は0.30。コンビニエンスストアとの相関係数は0.82。
「コンビニが多いまちは犯罪が多い」という相関がある。
◯2010年の『国勢調査』でも、「標準世帯」とされる夫婦と子供の世帯(27.9%)よりも、一人暮らし(32.3%)の方が多くなった。
一人暮らしのうち、学生の年代に相当する21歳以下の割合はわずかに6%しかない。20代以下にまで広げても22%にとどまり、30代が16%、40代が12%、50〜64歳が20%、65歳以上が30%。今や一人暮らしは、あらゆる世代に共通した存在である。
ここには、家族を単位に行動するという人間の生物学的な特徴が、現代の日本では通用しなくなったという事実が示されている。
その中でも、時代の先端を突き進むのが東京。 2010年の東京23区の一人暮らし世帯の割合は49.1%にのぼり、夫婦と子供の世帯(21.5%)の2倍を超える。
◯昼間の人口が一番多いのは港区。港区の昼間人口がトップに立つのは2005年。
現在港区に集まる企業活動の中で、特に集中度が高いのが情報通信業。
民間放送業においては、在京民放キー5局のすべてが港区に本社をおき、23区で働く民放社員の77%が港区に集まっている。ただし、これも21世紀にはいってからの話しで、フジテレビが新宿区の河田町からお台場に移転するのは1997年、日本テレビが千代田区麹町から汐留に移転するのは2003年。
(後はテレビ朝日が六本木、TBSが赤坂、テレビ東京が虎ノ門)
◯女性を100としたときの男性の割合を性比という。我が国の平均は94.8、東京23区は97.3と女性の方が多い。これは女性の方が長生きだから。
5歳未満の幼児の性比は、全国、東京23区とも104.8で男性の方が多い。生まれて来る子供に男性の方が多いのは、生物学的に男の方が死亡率が高いことを見越した、神の摂理によるものだ。
区別に見ると、性比が低く、男性に比べて女性が多い区は、目黒区、港区、渋谷区、文京区、世田谷区の順。これは「住みたい区ランキング」結果と似ている。
女性が好むのは「三高」の区。正しくは、千代田区と中央区を除いた「三高のブランド住宅区」となる。(目黒、港、文京)
一方、男性が好むのは、江戸川区を除くと都心への通勤が便利な区が並ぶ。(台東、千代田、豊島、江戸川、中野)
「三高ブランド住宅区」に住みたいと望む気持ちは男女に共通している。
女性にはこれを実現させる実行力があり、男性は、希望はあくまで希望に留め、実利を優先する。男と女の間に横たわる本質的な違いが性比の差を生んでいるとするなら、何とも奥が深い結果。

これだけ「東京」にお世話になっていながら、意外と知らない内容も多く楽しく読めた。

2016年1月30日土曜日

『フツーの会社員だった僕が、青山学院大学を箱根駅伝優勝に導いた47の言葉』

青山学院大学陸上部監督として、箱根駅伝連覇を果たした原晋監督の著作。
実は今年の箱根駅伝で1区から完全勝利で連覇を果たす前に書かれた本というのがまた面白い。

元々原監督、世羅高校→中京大学→中国電力と進むのだが、一番成果を残したのが世羅高校の高校3年生の時の全国高校駅伝大会準優勝。後は大きな成績を残すこともなく、中国電力陸上部を辞めて、普通の会社人として勤める。
その後、母校ではない青山学院大学陸上部監督の話しが来てということなのだが、日本一のチームをつくったチームビルディングの手法は社会人時代の経験も相当活きていると思われ、非常に共感できるものとなっている。

青学の監督も3年契約で、「3年目にはどうしても結果が欲しくて」チームカラーに合わない生徒をスカウトしてしまった苦い経験もありながらの10年目の大成果は本当にスゴい経験だと思う。

個々のタイムが問われる陸上において、「10年前の組織力では、もし、2015年の優勝メンバーが揃っていても、箱根駅伝優勝は難しかっただろう」と語る原監督のチームビルディングは、スーパーエースの出現を待望するのではなく、時間をかけてチーム力を底上げして優勝を狙うものであった。


◯良質の土壌をつくるには時間がかかる
素材が良くても、その潜在能力を引き出し伸ばす環境がなければ育たない。 耕していない土壌に、いくらいい種を撒いても芽は出てこない。土壌を耕すには時間がかかる。


◯強い組織をつくるには、「コーチング」の前に「ティーチング」
組織の進化には4つのステージがある。ティーチングの段階が、強い組織の土台をつくる最初のステージ。部員に知識や技術を細かく教えていく段階(命令型)。
次がステージ2。スタッフを養成してすこしずつ権限を与える(指示型)。
さらに選手の自主性を重んじるステージ3に進む(投げかけ型)。
そして最終的なステージ4に入った段階で、コーチングという指導法が大きな効果を発揮するようになる。(サポーター型)

ステージ1 命令型
監督の命令で全員が動くチーム。規則や方向性を徹底させ、チームや組織の土台をつくるには適しているが、部員が監督の指示通りにしか動かないので、自ら考えないようになってしまう。
ステージ2 指示型
監督が学年長(代表者)に指示を出し、学年長が部員に伝えて動くチーム。権限を与えられた学年長は自覚が生まれ成長するが、他の部員はまだ自ら積極的に考えようとはしない。
ステージ3 投げかけ型
監督が方向性だけを学年長(代表者)に伝え、学年長と部員が一緒に考えながら動くチーム。ステージ1、2を飛ばしていきなりステージ3から組織作りをしてしまうと、部員が自主性と自由をはき違えたチームになるため注意が必用。
ステージ4 サポーター型
チームづくりの最終段階は、監督が外部指導者を巻き込みながら、部員に対してサポーター役になる。部員の自主性とチームの自立を求めていくことになる。

ステージ3以上のチームは陸上界ではほとんどない。チーム1,2でも監督があらゆる必要分野に精通していればそれも可能だが、はっきり言えることは「そのチームは監督の器以上のチームにはならない」ということ。

チームビルディングについて、そのチームのフェーズによってやるべきことが異なるということを意識しながらマネジメントしている指導者がどこまでいるだろうか。
同じことは企業にも言える。


◯リーダー
組織を強くしていくときに不可欠なのがリーダーの存在。キャプテンは部員が「この人と一緒に戦いたい」と思える人。
キャプテンに求めるのは「チームの空気を変えられるかどうか」。陸上競技でもタイムの速い選手が必ずキャプテンになるとは限らない。最後は、やはり人間性。
キャプテンに必要な資質は、「できる理屈」を考えられるかどうか。物事を前向きにとらえて、それを周りの人に伝える言葉を持っているか、ということに尽きる。


◯エース
チームを強くするには、エースという存在が必要。
では、エースを育てるにはどうすればいいか。
私はエースをつくるには、「平等感」が不可欠だと考えている。選手が同じスタートラインから切瑳琢磨できる環境を整えるということ。
指導者がもっともやってはいけないのは、選手同士が切磋琢磨する前に、その時点で高い能力を持つ一人を「お前がエースだ。お前を中心にチームをつくっていく」と決めてしまうこと。
組織の中では常に平等感を前面に出すべき。誰にでもチャンスがある環境こそが、チーム全体、組織全体を底上げするパワーになる。


◯スカウト(リクルーティング)
勝てる組織をつくるには、優秀な人材の採用が不可欠。
私が人材を見極める際のポイントにしている一つが「強さ」。強さとは、どんな環境にも対応できる能力。
タイムも重要だが、それ以上に着目しているのが「着順」。多少タイムは悪くても、出場した大会で常に優勝、あるいは上位に入っている選手の方が魅力的に映る。そういう選手の方が、勝負どころで勝負できる選手であり、競り合った展開でも最後まで粘り勝ちできる選手だからだ。この強さは、勝負においては大きな資質。ビジネスの世界でより求めらる資質かもしれない。

将来活躍が期待できる素材は、その段階から他の選手とは異なる雰囲気を持っている。
オーラを放つ選手はとにかく歩く姿勢がいいし、胸を張り堂々としている。
オーラを放つ子は、自分の言葉を持っている。目の前にある課題を的確に分析して、自分には何が出来るかをシンプルに言葉にする。誰にでもできることではない。
私がよく高校生にする質問の一つが「自分を自慢してもらえますか?」というもの。ただしこの質問は会社の採用面接では何度もシュミレーションしているので役に立たない。むしろ使い古されたマニュアル通りの言葉ではなく、自分の頭で考えた自分の言葉で話しているかどうか、そこにオリジナリティが感じれられるものがあれば期待できる人材。
今は、人の指示を待たずに動ける、考えられる人材が伸びる時代。
伸びる子は真面目でチャラいこともできる。

どんなに超一流の素質をもっていても、チームカラーに合わなけばとらない覚悟が必要。 その人材を環境に適合させるには時間がかかる。せっかくの優秀な人材が環境に合わないだけで能力を発揮できないのは不幸である。


Googleもそうだが「組織の文化にそぐわない人間は、どんなに優秀であっても採用しない」というのは採用するサイドの視点でよく言われること。
原監督はそれを「そういう採用は、採用される側から見ても不幸である」という観点で見ている。


◯柿の木作戦
目標は半歩先を設定する。名付けて「柿の木作戦」。
柿の実を取るときは、いきなり一番上の柿を取ろうとはしない。まず少し手を伸ばせば届く実からとるはず。そして、取った実がうまいと分かれば、さらにその上の実に手を伸ばす。手が届かなければ工夫するであろう。気がつけば、一番上の実を取るためにどうしようかとあれこれ考えることになる。頂点を目指すなら、まずは半歩先の目標からということ。
簡単には届かないけれど、つま先立ちになって必死に手を伸ばせば届きそうな半歩先の目標にこそ、人を動かすエネルギーが秘められている。
人の心に響かせるには、理屈と情熱がリアリティをもってバランスよく存在することが大切。
この「柿の木作戦」はメンタルも強くしてくれる。 最近は、メンタルを強くすることが、パフォーマンスを高める大切な要素と言われている。メンタル強化には自信を積み重ねることが近道。
「自分はできた」と思う機会が増えれば増えるほど、緊張することは少なくなる。


◯監督の仕事
組織が成熟してくると、日々の変化を感じ取るのが監督の主な仕事になる。
チームに緊張感が足りないと感じたときだけ、部員との距離を詰める。それでも緊張感が足りないなら、さらに近づいていってつぶやく。それで十分。
管理者は、管理するのではなく「感じる」のが仕事。感じることは、管理職の危機管理能力。異変を早めに察知して、事故やトラブルを未然に防ぐ。
そのためには「本気で観察する」こと。

相談することは、「考える」癖をつけるいい訓練。相談できる空気をつくるのは指導者の務め。
できるだけ答えを出さずに、彼らが考えるのを待つこと。

チーム全体の力を底上げしていくには、試合に出れない人たちのモチベーションをいかに維持するかが重要で、指導者として意識して気を配らなければならないところ。
私がそうした部員に対して意識してきたことは、面と向かって直接話しをすること。そして、彼らに自覚を持たせること。
自覚とは、試合に出ることを諦めずに練習に前向きになる姿勢を保つこと。
今のポジションを理解させ、どうするべきか道筋をつけてあげることも、指導者の大きな役割。


◯監督就任3年目の失敗
「3年契約で監督に就任した私は、3年目はどうしても結果が欲しいと焦っていました。そこで、記録優先で選手をスカウトすることに決めたのです。入部が決まったのは持ちタイムで全国ランキングでも上位の即戦力といえる選手たちでした。これで最初の目標である箱根駅伝出場を達成できると思ったのです。
しかし、その目論見はもろくも崩れました。
お願いして来てもらった選手達は寮則、門限を守らず、まともに練習もしなかったのです。
しかし、ずば抜けた資質を持っていたことで、他の部員は腫れ物に触るように遠巻きに見ているしかありません。
彼らには「来てやったんだ」という思いが強かったのだろうと思います。
逆に、監督の方が「とってやった」と思ったら選手が萎縮します。どちらの場合もうまくいきません。
採用する側もされる側もメリットがなければなりません。win-winの関係には伸びしろがあります。 お互いにメリットがある関係でなければ、組織も人も伸びません。」

3年目に原監督を解任していたら、今年の青学の箱根駅伝連覇はおろか優勝することもなかっただろう。
結果のでない「土壌をつくる期間」に信じて耐えるということはボード側にも必要だということだ。


◯グループ
ランダムなグループが、上下の関係なく刺激を与える ランダムなグループというのが目標管理ミーティングの肝。それぞれの置かれた立場や状態が違う部員が集まることで、まず目標を客観的に見直すことができる。 仕上げた目標管理シートを寮の廊下に貼り出す。自分の目標を表示することで、達成へのモチベーションを高める。

多様性のいい面をちゃんと理解しているあたり、自分でも言っているが陸上界では相当異色な監督だろう。でも自分のやり方を貫いて10年の歳月を経て最強チームを作り上げたという実績はスゴい。

更に監督業が遠巻きでよくなって、講演をされるようであれば一度聞いてみたい人だ。

2016年1月24日日曜日

『WORK RULES!』

グーグルの組織のあり方の考え方について述べられた本。
流行の本ということでちょっと敬遠していたが、手に取ってしまった。
結論から言うと非常に、啓蒙的で参考になった。

<マネジャーの役割>

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グローバルな幹部要員は自由度の高い企業で働きたがるから、有能な人材はその手の企業に流れ込む。適切な環境を構築できるリーダーは、地上で最も有能な人材を惹き付ける磁石となるだろう。
だが、そうした職場をつくるのは難しい。経営の中枢における権力の力学が自由とは逆方向に働くからだ。
グーグルのアプローチはこの難局を打開する。我々は、権力と権威をマネジャーから社員へと譲り渡すよう意識している。
新たに雇われたマネジャーはこれを嫌がる。昔さながらのアメとムチを使えないとしたら、マネジャーはどうすればいいのだろうか? 残された道は一つしかない。グーグルのエリック・シュミット会長の言葉を借りれば「マネジャーはチームに奉仕する」のだ。
ご多分に漏れず、わが社にも例外や失敗はある。とはいえ、グーグルのリーダーシップの原則的なスタイルは、賞罰を与えることではなく、障害を取り除いてチームを鼓舞することにマネジャーが集中するというものだ。
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<「文化が戦略を食う」>

社風(文化)は戦略に勝る、という趣旨。
グーグルの文化を定義する3つの要素、ミッション、透明性、発言権

グーグルの文化にとってミッションは一つ目の礎石である。
「世界中の情報を整理し、世界中の人々がアクセスできて使えるようにする」
この種のミッションが個人の仕事に意味を与えるのは、それが事業目的ではなく道徳だからだ。
歴史上極めて大きな力を振るった運動は、そこで求められたものが独立であれ平等な権利であれ、道徳的な動機を持っていた。こうした考え方を拡張し過ぎたくはないが、革命を起こすのは利益や市場シェアではなく理念だと言っていいだろう。
重要なのは、我々がこのミッションを決して達成することができないことだ。これが、絶えずイノベーションを起こし、新たな分野に進出するモチベーションとなる。
「マーケットリーダーになろう」というミッションは、一旦達成されれば、さらにインスピレーションを生むことはほとんどない。

グーグルの文化の2つ目の礎石は透明性。
透明性の思いがけない利点の一つは、データを共有するだけで成績が向上することだ。
記録は、コミュニケーションの手段としてだけでなく学習ツールとしても利用される。
オープンを原則とすれば、社員はこう実感できる。自分達は信頼に値するし、優れた判断力を持っていると信じてもらっているのだと。何が、いかに、なぜ起こっているかについてさらに情報を与えれば、彼らは仕事をより効率的にこなせるし、トップダウン型のマネジャーには予想もできない仕方で会社に貢献してくれる。

グーグルの文化にとって発言権は3つ目の礎石だ。発言権とは、会社の経営方針について、社員に対して実際に発言の機会を与えることを意味している。

こうしてみると、何とも驚いたことに「文化が戦略を食う」というフレーズはまったく正しかった。
グーグルでは中国のケースがそうであったように、一貫して経済性ではなくわが社の価値観を支える文化に基づいて結論が下されていた。
ミッション、透明性、発言権というわが社の 文化的礎石が、我々を何度となく次のような課題に向き合わせた。
意見が別れる難題に取り組むこと、そうした難題について議論すること、そうした難題を明確な戦略に分解すること。つまり、わが社の文化がわが社の戦略を形成していたのであって、逆ではなかったのだ。

人の心をつかむミッションを見つけること、透明性を保つこと、社員に発言権を与えることの論拠は、いくぶんプラグマティックなものだ。世界中で増えている、有能で、機動力があり、やる気にあふれるプロフェッショナルや起業家の集団は、こうした環境を求めている。
これからの数十年間、地球上で最も才能があり、最も勤勉な人々を引き寄せるのは、社員が有意義な仕事に携わり、所属する組織の運命を左右できる職場だろう。もちろん、道徳的な論拠もある。
その根底にはきわめて単純なこんな格言がある。「自分がしてもらいたいと思うことを、他人にしてあげなさい」


<Googleの採用>

グーグルは採用に時間・お金をかけて(何でも普通の企業の2倍はコストをかけるらしい)、人数が必要だからと妥協して採用することはないという。

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並外れた人材を選び出すには、採用についての考え方を2つの面で大きく変えなければならない。 一つ目の変化は、採用にもっと時間をかけることだ。
二つ目の大きな変化は、「自分より優秀な人物だけを雇え」というものだ。
傑出した人々を見つけるのにかかる時間は長いが、こうした時間はつねに待つだけの価値があった。

自分より優れている人を待つことにもっと時間をかける気になったら、次は採用に関する権限をマネジャーに手放してもらう必用がある。前もって言っておかねばならないが、グーグルが新たに雇うマネジャーはこれを嫌う!マネジャーは自分のチームを選抜したがるものだ。
ところが、意欲に満ちたマネジャーでさえ、人材発掘の作業が長引くと採用基準を緩めてしまう。さらに悪いことに、個々のマネジャーはえこひいきをする可能性がある。つまり、友人を雇いたがったり、取締役や大口顧客に好意を示すためにインターンを採用したりするのだ。 半年くらいすぎると、新任マネジャーは、自分が雇おうとしている人材の質は過去のどの社で経験したものよりも高いし、自分は同じ厳格なプロセスをくぐり抜けてきた並外れた人々に囲まれているのだと気付き、その価値を認める。

頭の良さを基準に盲目的に人を雇い、やりたいことは何でもできる際限のない自由を与えれば、突如として壊滅的な失敗を招くことになる。最高の人材を雇いたいと願うのは当然だが、「最高」とは知性や専門技術といった唯一の属性によって定義されるものではないのである。
ある環境でスターだからといって、新たな環境でもスターになれるとは限らない。だから、自社の環境で人を確実に成功に導くことが極めて重要になる。その方法は、幅広い属性を探すことであり、なかでも最も重要なのは謙虚さと誠実さである。
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それにしても、Googleの採用に対するリソース(お金と時間)のかけ方は半端がない。
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2013年4月、グーグルは過去2年間で1万人以上の社員を増やしてきた。
毎年のように約5000人ずつ社員を増やしてきた。そこまで絞る前に、まずは毎年100万人から300万人の求職者からの応募を受け付ける。つまり、ふるいにかける人々の約0.25%しか雇わないということだ。ちなみにハーバード大学は志願者の6.1%に入学許可を出した。(34,303人の志願者のうち、2,076人が入学を認められた)
ご想像の通り、採用マシーンは実にノロノロとしか動かなかった。グーグルに採用されるまでには6ヶ月以上かかることもあったし、求職者は採用通知を手にするまでに15〜25回もの面接に耐えねばならないこともあった。
一人のグーグラーが、たった一つの仕事に応募してきた数百人、数千人という人々のうち10人余りを面接した。面接を行い、最終的な採用者に関するフィードバックを書くのに10時間〜20時間を費やした。合格した受験者がそれぞれ受ける15〜25回の面接にこの時間をかけると、150時間から500時間の労働時間があらゆる採用プロセスに投じられる計算になる。しかも、新人採用担当者、採用委員会、そして創業者が費やす時間は考慮されていない時点での話しだ。
一人を雇うのに250時間かかるとすれば、年に1000人を雇うのに25万時間を費やす必用があるということになる。言い換えれば、1000人を雇うためには125人の社員がフルタイムで働く必用があるということだ。
だが、今にして思えば、当時はこれが理にかなったトレードオフだった。採用マシーンが過度に慎重に運用されていたのは、誤検出を避けることに主眼がおかれていたのだ。優秀な人材を2人雇い損ねたとしても、うんざりするような人物を一人避けることができるなら、わが社にとってはその方が良かった。

トッド・カーライルは、受験者ひとりにつき25回もの面接を行うことが本当に役立つかどうかを調べた。
カーライルは、受験者を採用すべきかどうかは、4回の面接によって86%の信頼性で予測できることを発見した。その後の面接では1回につき1%しか予測精度は向上しなかった。
そこで我々は「4回の法則」を実行に移し、受験者が実際に受けられる面接の回数を制限した。(ただし、一定の場合には例外を認めている)
この変更だけで、わが社が採用に費やす平均時間は従来の90〜180日から47日に減り、社員の労働時間は数十万時間も短縮した。

グーグルの社員数が約2万人に達するまでは、ほとんどの社員が週に4〜10時間を採用に費やし、最高幹部は丸一日を費やすことも多かった。
採用に年間8万〜20万時間が使われていたことになる。(しかもここには人材募集チームが費やす時間は含まれていない)
こうしたことは急成長のために必用だったが、人材の質に妥協しないためにも欠かせなかった。正直なところ、当時の我々にできる最善のやり方がそれだった。
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<業績評価と人材育成>

[グーグルガイスト]
ほとんどの社員調査は帰属意識に焦点を合わせている。帰属意識は人事関係者のお気に入りだが、実際には多くを語らない漠然とした概念である。
グーグルガイストは、その代わりに我々が手にしている最も重要な結果変数に焦点を合わせる。すなわち、イノベーション(既存の製品を絶え間なく改善することと、明確なビジョンのもとに思い切った賭けに出ることをともに重視し奨励する環境を維持する)、実行(品質の高い製品を迅速に発売する)、定着率(辞めないで欲しい人材を辞めさせない)だ。

業績評価の本質は評価の適切な調整(キャリブレーション)にある。他社の社員と比べグーグラーが会社の評価システムに対して2倍も好意的なのはキャリブレーションのおかげである。
では、キャリブレーションとは何だろうか?マネジャーがつけた評価案が最終評価になる前に、マネジャーのグループが集まって部下の評価案をともに検討することだ。我々はこの手続きをキャリブレーションと呼んでいる。
キャリブレーションによって評価の手続きがひとつ増えることになる。しかし、公正さを確保するには極めて大切な手続きだ。一人のマネジャーの評価は同様のチームを率いる複数のマネジャーの評価と比較され、マネジャー達は集団で社員を審査する。

昔ながらの業績管理システムは大きな誤りを犯している。完全に切り離すべき2つのこと、つまり業績評価と人材育成を結びつけてしまうのだ。
業績評価が必用なのは、昇給やボーナス向けの資金のような有限の資源を配分するため。人材育成が同じく必用なのは、社員を成長させ、向上させるため。
社員に成長して欲しいと願うなら、これら2つの議論を同時にしてはならない。人材育成については、マネジャーとチームメンバーの間で不断に議論を交わすようにすべきであり、年度末のサプライズにしてはいけない。

我々が発展させなければならなかった基本的な考え方は、ほぼあらゆる企業に応用できる一つの言語を形成している。
第1に、目標を正しく設定する。それを公にする。目標は野心的なものにする。
第2に、同僚のフィードバックを集める。人々はレッテルを貼られることが好きではないが、仕事の質を高めてくれる有益な情報なら大歓迎だ。
どの企業も何らかの評価システムを持ち、それを使って報酬を配分しているが、同じように規律のある人材育成のメカニズムを持つ企業はほとんどない。
第3に、評価のために、何らかのキャリブレーション・プロセスを導入する。我々が好むのは、マネジャーが一堂に会し、一つのグループとして社員について検討する会議だ。時間はかかるが、評価と意思決定のための信頼出来る公正なプロセスを実現できる。
同じ席につき、意見を交わし、価値あるものを確認することには、企業文化に好影響を与えるという副次効果もある。直接顔を合わせての会合は、社員数が1万人までの企業にとって最も有効だ。
第4に、報酬についての話し合いと人材育成についての話し合いを分ける。この2つを結びつけると学習が台無しになってしまう。企業の規模に関わらず、これは事実である。


<プロジェクト・オキシジェン>

プロジェクト・オキシジェンは当初、マネジャーは重要ではないと証明しようとしたが、最終的には良いマネジャーが必須という結論になった。
「優れたマネジャーは、呼吸と同じで必用不可欠な存在。マネジャーを向上させるのは、新鮮な空気を吸うのと同じ」なのだ。

最高のマネジャーのチームと最低のマネジャーのチームが移り変わったら、マネジャーによって差がついた。定着率、業績管理への信頼度、キャリア開発度を測る質問に関するスコアが変動した。

プロジェクト・オキシジェンの8つの属性
1.良いコーチであること。
2.チームに権限を委譲し、マイクロマネジメントをしないこと。
3.チームのメンバーの成功や満足度に関心や気遣いを示すこと。
4.生産性/成果志向であること。
5.コミュニケーションは円滑に。話しを聞き、情報は共有すること。
6.チームのメンバーのキャリア開発を支援すること。
7.チームに対して明確な抗争/戦略を持つこと。
8.チームに助言できるだけの重要な技術スキルを持っていること。

意外にも、優れたマネジャーに必用な8つの属性のうち、技術的な専門知識の重要度は一番低いことが分かった。誤解のないように言っておくが、技術的な専門知識はもちろん必須である。プログラムを書けないエンジニアリング部門のマネジャーは(ノップ(NOOP)扱いされて)グーグルでチームを率いることはできない。だが、最高のマネジャーとその他のマネジャーの違いを生む行動のうち、技術的な貢献はチームにとって最も影響が小さかった。


マネジャーが実は必須なのだ、というのは今マネジャー職にある自分にとってモチベーションの高まる結論である。


<報酬について>

我々は約10年をかけて、適切な環境要因と内発的な動機づけ(会社のミッション、透明性の確保、組織運営に対する社員の強い発言権、物事を追求して失敗して学習する自由、協力体制をつくりやすい物理的空間)を整え、外発的な動機づけとしての報酬体系を洗練させた。そして次の4つの原則が生まれた。
①報酬は不公平に
②報酬ではなく成果を称える
③愛を伝え合う環境づくり
④思慮深い失敗に報いる

公平な報酬とは、報酬がその人の貢献と釣り合っているということだ。
報奨の内容も金銭的なものより経験を重視するようになった。

グーグルでは現在も、例外的に優秀な人には、例外的な額の現金や株式で報いる。ボーナスと株式報酬の金額は、以前よりベキ分布に近くなった。
ただし、我々はこの10年をかけて、報奨の内容と同じくらい、報奨の決め方が重要であることを学んできた。
現金だけでなく、経験の報奨を積み重ねていくことの大切さも重視している。
経験の報奨によって成果を公に称え、ボーナスや株式報奨の金額に大きな差を付けることによって個別に称える。その結果、社員も以前より満足している。



他にも諸々知見があって非常に参考になるのだが、
Googleのスゴさは長期的な視点にたった施策を実行し、それを測定することで説得力を持たせるという点だ。(だからこの本に載っている成功事例の他に失敗したトライアルもたくさんあるはずだ)
こう言ってしまうと、なんだそんなことか、という感じだが、測定するための結論が出るまでは”仮説”でしかない長期施策を「実行してみる」というのがGoogleの文化のスゴいところということだ。
そんな実行してみた長期施策の成功事例を教えてもらっているので、自分の会社でも色々採用できるポイントがありそうだ。


大分端折ったが、最後に、まとめて書かれているWORK RULESについては記載しておこう。

<WORK RULES>

自由度の高い環境を手に入れたい人のため、チームや職場を変える10のステップ
①仕事に意味をもたせる
②人を信用する
③自分より優秀な人だけを採用する
④発展的な対話とパフォーマンスのマネジメントを混同しない(人材育成と業績評価は分ける)
⑤「2本のテール」に注目する(上位10%と下位10%の違いを調べる)
⑥カネを使うべきときは惜しみなく使う
⑦報酬は不公平に払う
⑧ナッジ 〜きっかけづくり
⑨高まる期待をマネジメントする
⑩楽しもう!(そして①に戻って繰り返し)


ちなみに以下はちょっと刺さったフレーズ。
◯最高のグーグラーは、理にかなう場合には、自分の判断でルールを破る。
◯グーグルの昔から変わらない基本方針の一つ
 「政治活動をするな。データを使え」
◯必死に働け、ただし見せびらかすな。それがシリコンバレーの精神だ。