2017年11月19日日曜日

『間接材購買戦略』

ディーコープ社長、谷口健太郎氏の著作。ITを駆使した「リバースオークション」を業務としているディーコープ社への発注誘導だけではない知見も披露されていて参考になった。

<良い購買とは>

購買を「戦略購買」(直接材)と「非戦略購買」(間接材)に分類する。
というのが基本的な考え方のベースとなっている。

直接材の購買と違って、間接材支出についてはロングテール型の購買となるため、「買い手」側が十分な専門リソースを割きづらく、「売り手」との情報ギャップが生じやすい。そこにコスト削減の余力が潜んでいるという。

しかしながら、「いい購買=安い購買」ではない、と著者は言う。
購買で行うべきは、「コスト削減」ではなく、「コストの適正化」であり、購買にもメンテナンスが必要と言うのが著者の考え方。
一時期、労力をかけて一つ一つの購買条件を見直し、価格を下げさせることに成功しても、サプライヤー側が情報優位に立つと結局調達額が徐々にリバウンドする傾向となる。購買価格をメンテナンスするためには、情報格差を解消することでリバウンドを抑制し続ける必要がある。

著者の考える「良い購買」とは、「納得感のある購買」のこと。
納得感を醸成するプロセスとしては
①仕様書決定:仕様の流動性
②見積り依頼業社(サプライヤー)決定:業者(サプライヤー)の流動性
③見積り依頼:価格の流動性
④業者(サプライヤー)選定:適正価格
と言う流れを明確にし、各種流動性を確保すること。
見積り取得のプロセスの「見える化」が、社内だけでなく、落選したサプライヤーに対しても納得感のあるものとなる。


<購買のプロとは>

購買のプロとは、購入する「もの」や「サービス」の業界のことをよく知っているということに尽きる。
①業界における、良い業者と良くない業者を知っているということ(業者の情報)
②自分が要求している性能やサービスレベルを手に入れるには、どのような性能発注仕様とするかが作れるレベルに、その業界の「仕様の作り方」を知っているということ(仕様の情報)
③その業界でそれぞれの時期や変動要因によって、それぞれの価格情報を知っているということ(価格の情報)
④プロの大事な要素としては、上記の必要な情報をタイムリーに取得できる能力がある。つまり、すべての情報を旬な状態で把握するのはかなり難しいが、必要としてる旬な情報をこの人に聞けば得られる、という情報源を持っている。もしくは、情報源がないのであれば、その必要な情報を必要な時に手に入れるための調査する能力を有していること(調査の仕方の情報)

まとめると、購買のプロの定義とは
「間接材、直接材にかかわりなく、それぞれの業界の情報に詳しく、その情報についても常にアップデートされ、業界にいる業者(サプライヤー)と常にプロ同士で戦いができる人であり、その上で購買の正しいプロセスが実行できる人」


<インソース業務とアウトソース業務>

コア業務(戦略的業務)とノンコア業務(非戦略的業務)で分けて、コア業務をインソースで行い(一部専門性を要しない業務についてはアウトソースもあり)、ノンコア業務をアウトソースで行う。
専門性の有無によりインソース、アウトソースを分けるべきではない。

間接材購買業務におけるインソース・アウトソース
<インソースすべきもの>
・ガバナンス、統制をかけるための、間接材購買を行う組織や箱
・購買業務をアウトソースしているシステムを利用してプロセスを責任を持って実行する限られた人
<アウトソースすべきもの>
・購買の情報(業者、仕様、価格)を集め、常にアップデートする業務
・購買の情報を保管し検索するシステム
・プロセスを実行しプロセスを溜めておくシステム
・購買業務を効率よく行うシステム



最後はちょっとディーコープ社への誘導感がないでもないが(笑)、
「戦略購買」と「非戦略購買」と言う考え方。それに付随するインソース・アウトソースの考え方。
◯「見える化」には3つの効用、「共有」「透明性」「自己浄化・進化」があるということ
◯透明性ある仕組みは、納得感のためだけでなく、不正をやっていないことを証明するという「悪魔の証明」を行う必要が無いように、購買担当者を疑いから守るためにも重要であること。
◯「有効な相見積もり」を取るためには、金額にかかわらず、いつも付き合っているサプライヤーだけでなく、常に「あと1社」新しい業者(サプライヤー)に声をかけて見積りをとること。
◯契約書の管理ではなく、「契約書の内容のマネジメント」が重要なこと。
など非常に参考になる話も多くためになった。

2017年10月25日水曜日

『経済は地理から学べ!』

代ゼミの地理の先生、宮路秀作氏の著書。
立地、資源、貿易、人口、文化などの様々な切り口で、各国の特徴を捉えている。

色々面白い(そしておそらく試験にも使える)知識が満載。

◯人間の行動は、土地と資源の奪い合いで示される。
当たり前のことだが、土地と資源には限りがあるからである。有限だからこそ、重要と供給によって価値が決まる。

◯経済はヒト、モノ、カネ、サービスの「動き」と言っても過言ではない。
その「動き」の理解には距離の概念が役立つ。
「物理距離」以外には、「時間距離」「経済距離」「感覚距離」という3つの距離がある。

◯地球上には約14億立方kmもの水が存在し、そのうち97.5%は海水。残りは陸水が2.5%と、わずかな水蒸気。
その2.5%の陸水を分類すると、氷雪・氷河が68.7%、地下水が30.1%、地表水が2.2%。氷雪・氷河の大部分は南極とグリーンランド(デンマーク領)。
残る 2.2%の地表水は、河川水・湖沼水・土壌水に分類されるが、生活用水として利用するのは河川水が中心。
河川水は陸水のうち、0.006%。 半径64cmの地球儀で考えてみると、1滴の水を人間だけでなく陸上生物の全てが分かち合って生きている計算。
現在世界では約7億人の人たちが、水不足の生活を強いられている。
20世紀は「石油の世紀」だったが、21世紀は「水の世紀」。
「国土全体において水道水を安全に飲める国」は世界に15カ国しかない。
フィンランド、スウェーデン、アイスランド、ドイツ、オーストリア、スイス、クロアチア、スロベニア、アラブ首長国連邦、南アフリカ共和国、モザンビーク、オーストラリア、ニュージーランド、日本。

◯可容人口
ドイツの地理学者、A・ペンクは「ペンクの公式」と呼ばれる計算式を考案し、地球上に収容可能な人口を約160億人と算出した。
ある地域における収容可能な人口数は、就業機会と食料供給量で決まる。
食料供給量の減少により、他地域への人口移動が発生することを「人口圧」という。
東京に人々が集まってくるのは、ひとえに就業機会が多いから。

◯芋あるところに豚あり。じゃがいもと養豚は相性が良い。
ドイツ北部はかつての氷食地で寒冷な地域であるため、耐寒性の大麦やライ麦、えん麦の栽培が行われている。
ドイツ北部は寒冷のやせ地であるため、本来農業生産性が低い地域。特に冬は農作物があまり取れないこともあって、食材が不足しがちだった。
そのため保存食品の開発が進んだ。肉や魚を野菜と一緒に酢などのつけ汁に浸すマリネや、キャベツの漬物(ザワークラウト)、ソーセージなどが代表的な食品。
ビールは大麦から作られる。ドイツのビールといえば、「ホップ、麦芽、水、酵母だけを使用して作る」と法律で定められている。これをビール純粋令という(成立は16世紀)。ただでさえ小麦の生産が困難な地域なので、食用としての貴重な小麦を、ビールの原料に利用しないようにするのが目的だったと言われている。
ところが、ドイツには小麦を原料としたビールもある。ヴァイツェンである。ヴァイツェンという名前がそもそも「小麦」という意味を持っている。特にバイエルン地方を中心にドイツ南部で飲まれているビール。ドイツ南部はかつての氷食地ではなく、小麦が生産できるからである。
現在ではビール純粋令も改正され、基本原料に変化はないが、ヴァイツェンを合法的に作れるようになっている。

社会に出ると、地理とか歴史とかが実は実生活に関わってくるというのが分かって、勉強しておけば良かったと思うことも多い。
歳を取ってから学び直す人の気持ちは非常によく分かる。
でもせっかく学んだら、是非またそれを社会に還元したいものだ。

2017年9月9日土曜日

『リクルートのすごい構”創”力』

ボストンコンサルティングの杉田浩章氏の本。
まるでリクルートの社内にいた感じで書かれているのだが、経歴を見るとそのようなことはない。

まとめてしまうと

<3つのステージと9つのメソッド>

【ステージ1 ”0→1” 「世の中の不ををアイデアへ」】

メソッド① 不の発見
・あるべき社会の実現につながる、潜在的な「不」を探す
・「不」を生んでいる産業構造の暗黙のルールを突き止める
・「不」を解決するための、新たなお金の流れを見つけ出す

メソッド② テストマーケティング
・本当に人の心を動かす事業アイデアなのかを検証する
・顧客がお金を払ってでも解決したい課題なのかを検証する
・検証を段階的に設計し、規模を拡大しながら次へ進める

メソッド③ NEW RING(インキュベーション)
・ボトムアップによる新規事業の起案を賞賛する
・アイデアを事業へとブラッシュアップし、軌道に乗せる ・起案者の「志」を尊重し、実現への覚悟を問い続ける

【ステージ2 ”1→10前半” 「勝ち筋を見つける」】

メソッド④ マネタイズ設計
・誰が、なぜ、いくらで、どの予算で、買ってくれるのかを突き止める
・ユーザーの行動、顧客売り上げ、自社の活動を方程式でつなぎ込む
・市場を継続的に成長させることができる、お金の流れを作り出す

メソッド⑤ 価値KPI
・事業の価値を上げるカギとなる指標を、顧客の評価から探し出す
・価値KPIへの因果関係の高い、実際の行動を探り出す
・全員での高速なPDSによって、指標と行動の仮説を変更し続ける

メソッド⑥ ぐるぐる図
・現場から市場変化の兆しを経営へとつなぎ、縦の知恵を回す
・異なる役割の人材が並行して洞察を加え合い、横の知恵を回す
・現場に勝ち筋への兆しが見えなければ、潔く撤退の決断を下す

【ステージ3 ”1→10後半” 「爆発的な拡大再生産」】

メソッド⑦ 価値マネ
・KPIによって目標の優先順位を絞り込み、意識と行動を集中させる
・PDSを日常の活動に組み込み、「なぜ」をマネジメントする
・価値マネの結果を、現場の「型化」と、サービスの「改善」に活かす

メソッド⑧ 型化とナレッジ共有
・成功事例を生み出した行動を分析し、「型化」して組織へ横展開する
・「型」は活用例を共有することで理解を深め、一気に全体展開する
・「型」は均一化が目的ではなく、「型」を超えた次への挑戦につなぐ

メソッド⑨ 小さなS字を積み重ねる
・現場の情報からいち早く、成長の減速を捉え、次の一手へ進める
・改善をスピーディに試し続け、大きな変革の「てこ」を見つける
・できない理由を突き詰めることから、できるための資源を考える

ということらしいのだが、いくつか個人的にフックがかかった内容について記載する。

○「リボンモデル」

リクルートにとっての「事業」とは、リクルートを取り巻く様々なステークホルダーが抱える不満や不安を解消するためのもの。
リボンモデルは、その全体像を捉えて、時には業界構造を変えながら人々の不満や不安を解消し、継続的な成長を実現するためのフレームワーク。
個人や企業を「集め」、 何らかの働きかけをすることで両者の行動を変化させて「動かし」 中央のマッチングポイントで「結びつける」 ことでリクルートが収益を上げる、ということを社内共通認識を持つために何度も社内で研修され、実際に活用される。

○ダメなKPIの見抜き方

ダメなKPIを見抜くのは簡単。所属メンバーに対して「あなたの組織におけるKPIの目標数値を知っていますか?」と尋ねて、それにきちんと答えられるかどうかを見ること。
KPIに必要な3条件は以下のとおり。
①整合性:最終的な目標に向かって、きちんとロジックが通っていること。最終的な目標が売り上げなのか、利益なのかということだけでも、達成への道筋は異なってくる
②安定性:KPIとして定めた指標が、安定的・継続的に取れること。検証しづらいものをKPIにしてはいけない。
③単純性:指標が少なく(できれば一つ)、覚えやすいかどうか。

○BCGのタイムベース競争 4つの法則

①0.05-5の法則:実際の工程の中で価値を生んでいる時間は0.05-5%しかない。
②3分の3の法則:価値を生んでいない時間は、「前の工程の待ち時間」「手直しにかかる時間」「次の工程に進む決定までの待ち時間」に均等に配分される。
③4分の1と2と20の法則:サービスや製品を提供するのに要する時間は4分の1に低減できる。時間が4分の1に減ると、資本、労働の生産性が2倍になる。コスト削減は20%に及ぶ。
④3×2の法則:タイムベース競争により業界平均の3倍の成長率と2倍の利益率を実現できる。

○アジャイルな組織

アジャイルな組織を実現するには、次の2つを同時に実現しなければならない。
①Alignment(一致団結)・・目指す方向性や働き方が明確になっている
②Autonomy(自律)・・従業員が高い自由度を持つ
一見矛盾する2つをきちんとマネジメントすることができれば、組織の構成員自らが素早く動ける「自走するアジャイル組織」を作り上げることができる。
それこそが21世紀の経営層に求められていること。

○「お前はどうしたい?」

リクルート社内で非常によく耳にするのがこの質問。
この問いかけの背景には、「個の尊重」という文化がある。アジャイル組織を実現するための要素その②「Autonomy(自律)」が文化として定着している。
創業から57年を経て、グループ全体で3万8千人を大きく超える大企業となった今も、リクルートの社員は「誰かに与えられて」仕事をするという意識を持っていない。

リクルートは、外部にディスラプトされるくらいなら、自ら死神軍団(ディスラプター)を抱えてしまう、とういレベルまで覚悟して新規事業開発を行っている。
いわゆる『イノベーションのジレンマ』はリクルート社には当てはまらないということだ。


その他、会社あるあるで、症状1〜5というのが記載されていた。
【症状1】PDSサイクルの「P」に時間をかけすぎる 新規事業の成功には「数」と「スピード」が不可欠。
最終的に何がうまくいくかはやってみなければわからないので、できるだけ多くのタネをスピーディーに市場に出すことが必須だ。 多くの企業では、PDS(Plan:計画、Do:実行、See:検証)サイクルのうちの、Pに時間をかけすぎ、PDSのサイクルが遅くなる。
新規事業開発の重要なキーワードとしてよく挙がる「リーン(lean:引き締まった、無駄がない)」「アジャイル(agile:機敏な、敏捷な)」と真逆を行ってしまう。
【症状2】計画が変えられない 症状1に付随する弊害。新規事業開発において、計画を柔軟に軌道修正できないことは時に致命的。
【症状3】時間をかけて計画を立てる割に、ツメが甘い 多くの企業は、どのような条件をクリアしたら次の段階に進むか、明確に定義しないままで何となく走り出している。
このため、赤字の額がある程度大きくなったり、後発の競合他社に大きくシェアを奪われたりするほど傷が深くならないと、撤退の決断をすることができない。
【症状4】当事者も、経営陣も本気でない
経営にテストマーケティングをする、と言う姿勢がなく、上がったアイデアをブラッシュアップし、新規事業を創出できる人材を育てると言う発想がない。
【症状5】うまくいかなくなった時、撤退の決断ができない

やばい。我が社にも心当たりのある内容ばかりだ。
これだけのノウハウを公開しても、直ぐに真似できないのは、全てがリクルートという会社の社風、社員の意識とリンクしているからだ。
施策や制度は直ぐに変更できても、社員の意識は直ぐには変わらない。
時間をかけてじっくり対応する必要がある。

2017年7月30日日曜日

『牙を研げ』

佐藤優氏の著作。
サラリーマン向けの朝活講演会をまとめたもののような内容で、テーマは多岐にわたる。

<中間管理職の独断専行>

戦前・戦中は、旧陸軍の中堅将校養成のためのマニュアルに『作戦要務令』というものがあった。
『作戦要務令』は、「うまくやれ」という独断専行の発想に基づいている。
指揮官はきちんとした命令を明確適切に出さなくてはならない。しかし、命令を受けた人間が、状況の変化に対応して何かを行うときは、命令に拘束されることなく、独断で決めていい場合がある。独断専行して構わないということ。 要するに日本の『作戦要務令』の特徴は、「うまくやれ」ということにある。

実行するまでに情勢が変化するので予測できない。そのようなときはガイドラインだけを示しておく、あとはうまくやれということ。
他の項目では、命令を出しても組織の末端に行くまでに時間がかかった場合のことが挙げられているが、これも同じ。

この独断専行のやり方は、攻めにはとても強い論理だけれども、守りの態勢になった時においては責任所在が極めて不明確になってしまう。
「うまくやれ」といった組織文化が、近代以降これだけ高度に発達した資本主義において残っているというのは、面白い。このことは意外と日本にとって有利な点かもしれないが、問題は、コンプライアンスといった発想とはなじまないこと。

独断と服従は相反するものではない。上司の命令に従っている範囲での独断は、良い独断で、命令違反ではないということ。

独断専行をうまくやり抜く一つの方法は、組織の幹部の後ろ盾を持つこと。
独断専行をやる人というのは、突出して異常な人ではなく、人誑し型。必ず、上、外に有力者の味方を持っている。
独断専行というのは結局のところ、何かをバイパスするということ。方向性において企業なり国家なりが狙っていることと違う方向だったら、独断専行はできない。言い換えるとショートカットの力。

ヒエラルヒーを維持しながら、能力のあるものを実質的に登用するというのは、日本のメカニズム。だから、『作戦要務令』においても、独断専行を奨励する形になっている。それによって、事実上年次主義を乗り越えているわけ。


<宗教関連>

キリスト教は、イエス・キリストが作った宗教ではなくて、イエス・キリストと会ったこともないパウロという人が作った宗教。
プロテスタンティズム、なかんずくカルバン派は、人は生まれる前から、救われる人は選ばれていて、天国のノートに名前が載っていると考える。同時に、生まれる前から、滅びに至る人も天国のノートに記されている。しかし、そのことを我々は知ることができない。 現実の生活において様々な試練がある。しかし、自分は選ばれている人間だという確信を持っているから、どんな試練でも乗り切ることができ、最終的には「ああ、これで良かったんだ」という人生を歩むことができると考える。
ちなみにドナルド・トランプは長老派(カルバン派)。

キリスト教の罪は祓うことができない。理不尽なことを強いる、論理を超えた、自己責任を超えた責任を負わせるのがキリスト教。絶対に誰も守ることができない倫理を強要して、全員を罪人に陥れていくという傾向がある。
日本の神道はそういう理不尽なことはしない。基本的には、禊や祓いによって人間の汚れはきれいになるという考え方。

日本では、生まれた時にはお宮参り、七五三で神社に行って、結婚式はキリスト教でやって、お葬式は仏教という形で、宗教を変えていくことができる。
こういう様々な宗教を受けれ入れるのを宗教混合(シンクレチズム)という。
シンクレチズム的な土壌があると、外国の文物を受け入れるのは非常に楽。八百万の神様がいる時に、キリスト教の神がくれば800万1番目に入れればいい。ダーウィニズムがくれば800万2番目に入れればいい。そうやって、ありとあらゆるものを包摂することができた。
しかし、そうすることによって、何が絶対に正しいのか、あるいは私はこの信念によって動くという意識は希薄になって、長いものには巻かれろという感じになってくる。それが日本人の宗教観の特徴。

なぜユダヤ教やキリスト教の世界で、特にユダヤ教の世界で論理が発達するのか。
それは、預言者は神様に呼ばれてつねに議論をしないといけないから。
人間側と神様側の過去の対戦成績は、人間側が常に全勝。神様が1度でも勝っていたら我々はここにいないはず。様々な問題があっても、神様が最後に翻意して、やはり人間を生き残らせようかという決断をする。そういう物語の構成になっているから、論理というのは死活的に重要。神様は、黙って心を察してくれるということはない。必ず口に出して説明しないと、言うことを聞いてくれないと言うのが、ユダヤ教とキリスト教の神様。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教 いずれも一神教。しかし、罪に対する感覚はだいぶ違う。
イスラムの罪は、洗い流せばすぐに落ちる程度の汚れで、罪の感覚は非常に薄い。(自分の罪に対しても「アッラーを恨むな」)
ユダヤ教の主流派では、原罪の概念はないにしても、罪の概念はある。しかも、それが人間にかなり初期の段階から備わっていると言う認識はあるから、論理構成を見るならば、限りなく原罪に近い罪の概念がユダヤ教にはある。
罪の概念があると、自分は罪を持っているから、自分のやっていることは間違っているかもしれないと言う意識が常にある。
ユダヤ教、キリスト教的発想では、私は絶対に正しいと思うけれども、絶対に正しいと考えている自分が間違っている可能性があることになる。
それに対して、イスラム的な発想だと、私は絶対に正しい、お前は絶対に間違っているとなる。
だから、同じ「絶対に正しい」と考える人たちであっても、自分が間違っている可能性があると言うことが原理的に埋め込まれているかどうかが、イスラムと、ユダヤ教・キリスト教の大きな違いになる。

一神教というのは基本的には自分と神様との関係が重要なので、その意味では、自分以外には無関心、それゆえに寛容。
だから、キリスト教、一神教が非寛容で、多神教が寛容であるというのは、一神教の歴史からしても、論理からしても成り立たない。
一神教が非寛容になっていくのは、大航海時代以降、帝国主義の流れが出てきてから。特定の文明を拡大していこうという中において、キリスト教徒文明が同一視されたことによって起きてくる現象。だから、むしろ帝国主義の文脈の中で考えた方がいい。

ロシアは東ローマ帝国の末裔だが、ユダヤ、キリスト教の一神教の伝統を持っている。ギリシャ古典哲学の伝統を持っている。しかし、ローマ法が非常に希薄。ロシア人は法律の論理が嫌い。人間は神秘的な力によって、特に精霊の力によって救済されるとロシア正教は考える。

キリスト教の議論に三一論(父、子、精霊の三位一体論)というのがある。
それがフィリオクェと言われる非常に難しい神学的な議論に続いている。
「フィリオ」というのは「息子」、「クェ」というのは「アンド」で、「子からも」という議論。かいつまんでいうと、キリスト教というのは、精霊は父、子(キリスト)から発出するという議論。
父、子、精霊がどういう関係にあるということは過去1700年ぐらい議論して、暫定的な結論は出ているけれども、最終的な結論は出ていない。
正統派のキリスト教というのは、元々は、ニカイア・コンスタンティノポリス信条カルケドン信条というキリスト教の基本文書を共有していることが条件。
ニカイア・コンスタンティノポリス信条には「精霊は父より発出する」と書いてある。父より発出するとなれば、父からどこにでも行くことになる。そうすると精霊の力というのはダイレクトに人々(つまりキリスト教徒以外の人にも)に働くことになる。
それに対して、カトリック教会は、父だけでなく子からも精霊が発出するという立場。子といのはイエス・キリストのこと。 死んだイエス・キリスト(子)はどこに行っているのか。教会はキリストの花嫁と言われているように、キリストは教会にいる。だから教会に集まってくる人にしか精霊は適用されない。
我々は、”父”について直接知ることはできない。”子”を通じてしか父について知ることができない。キリスト教徒が「この一言の感謝と祈りを、尊き我らが主イエスキリストの御名を通して御前にお捧げします」というのは、ストレートに神様にお捧げすることができないから。
カトリックでは教会を経由する形で精霊は動く。教会に精霊は限定される。そうしたら、「教会のみ御救いをなし」で、組織重視になる。
正教会は、神が人になるということは、人が神になることだと考える。だから、正教会では、修道の力によって、禁欲生活を続けることによって神に近づくことが可能。
これを世俗化してみると、「我々は精霊を持っているから、我々の力で完全に理想的な社会や国家を作ることが可能になる。人が神になって行くことが可能だから。」
こういう形でロシア革命のような壮大な実験が行われた。


<地政学>
地政学というと、ハルフォード・マッキンダーが地政学の祖とされているが、彼の著作には「地政学」という言葉は出てこない。マッキンダーの著作に影響を受けたカール・ハウスホーファートいうナチス・ドイツの理論家が「マッキンダーの地政学は」となんども繰り返したので、マッキンダーが地政学というワードを使っているように皆が勘違いした。

ヘーゲルの「海と川は人々を近づけ、山は人々を遠ざける」という言葉がある。
これは文明がある程度発展しているという前提が必要になる。航海技術が進んでいなければ、海も人を隔てるものとなる。

日本では基本的に海の地政学が重んじられて来た。 アルフレッド・マハンの「海洋戦略論」の影響が強いからである。

「イスラム国」が支配している地域は全部砂漠と平地の地域で、山岳に入り込めていない。特に重要なのはシリアの北西部で、ここはアラウィー派、アサド大統領の拠点。
「イスラム国」が消滅したらここの人員は、主に中央アジアに向かうと言われている。 中央アジアのタジキスタンとキルギスは破綻国家になっているから。 更に、この二つの国と国境を接するウズベキスタン東部のフェルガナ盆地も、ウズベキスタンの中央政府の統治が及んでいない無法地帯となっている。 いずれも2000mを超えるような山岳地帯中にあるので、掃討は簡単ではない。

山に注目した地政学が見直されているというのは、それが現実において障害になっているから。こうした国際関係の変化があって、山などの地理条件に重きを置く地政学がますます注目されている。



その他にも色々なテーマが語られているが、やはり神学を学んでいる佐藤氏は宗教系の話が面白い。
マルクス系理論の話として
「労働力商品は需要が増えても増やせない。そうしたら何が起こるか。賃金の高騰。それである程度賃金が高騰すると、いくら投資しても利潤がなくなる。そこで起きるのは恐慌である。だから資本主義の恐慌が起きる原因も労働力商品にネックがあると言える。」
というような記述もあって、
マルクスの時代にはそうだったかもしれないが、人間に替わるAIやロボットの存在が言われ始めている現代では”?”と思ったりもする。
”古典”は非常に重要だが、それを運用するには時代ごとの背景が必要。
それは各々で判断するということなのか。

2017年7月23日日曜日

LEGO SERIOUS PLAY

立教大学 中西先生による つなぐLab Vol.0011で小笠原裕司先生によるLEGO SERIOUS PLAY を体験。

・手で考えて
・出きた作品に意味を与えて
・思考を整理するメソッド
ということで、MITのシーモア・パパート教授のコンストラクショニズムの考え方がベースになっているらしい。




○曖昧模糊とした質問(お題)に対し、考えてから作る(デザインする)のではなく、まず作る(作りながら考える)ことを指示される。これにより、全員参加が必須となる。さらに言うと手を前に出す必要があるので、全員、「前のめり」の会議になる。
○自分のプレゼン時に、レゴ作品を指差してプレゼンすることを指示される。これにより、プレゼンの敷居が下がる(説明相手の視線が自分に刺さらない)効果とともに、ヴィジュアル(3Dのレゴ作品)とともに説明ができる(「目で聴かせる」)ので、相手の記憶に残りやすい。
○プレゼン者に対しては「作品」に対して質問することを指示されるので、相手の人格と相手の意見を分けて捉えやすくなる。(とはいえ、「作品」はややもすると自分の分身となるので、相手の作品に勝手に触らないよう、との指示もあり)
○作品を中心に質問が進むので、言葉だけで対話するのに比べ、質問(テーマ)が取っ散らかることが少ない。
○特に価値観が大きく異なる、多様な文化を背景にもつメンバーが参加する場合に効果的である反面、レゴとはいえスキルにより表現に差が出る部分もあるので、多少の練習時間が必須。


<所感・気づき>
○たった52個のパーツだが、「高い塔を作る」と言う”目的性”を持ったお題ですら、人それぞれの作品となる面白さがあった。(そしてこの52個のパーツは色も形も相当考えられてこの組み合わせとなっているらしい)
○作って、語って、振り返る(気づきを得る)と言う一連の流れが、上田信行先生の講義を思い出した。
○「目」のブロックは得てして「他人」を意味することで使う人が多く、「目」と言うのは人間にとって「他者」の重要な象徴なのだと改めて思った。
○「気持ちの準備が整った方から発言をよろしくお願いします」と言う表現を使うと、参加者を焦らすことなく、発言を促すことができる。



人は「作話する動物」であるという認識でいるので、このメソッドで何を作るか(どんな形を作るか)には、実は全く意味がないのだと思っている。
自分の作ったものに対してどう意味・解釈を与え発信するのか、と言うことが重要なわけだが、最初の段階ではその意味づけも荒削りで場当たりなものとならざるを得ない。(なぜなら最初に形を作ってしまうわけだから)
それでも議論が活性化するのは、そもそもレゴが抽象性を持っているからなのだろう。
時間の都合で割愛されたのだが、自分の作品について、「コアな部分」だけを取り出す行為(おそらく本当に自分が言いたい部分を抽出する行為)を行うことで、より自らの考えについて深め、気づくことができるのではないかと感じた。

このLEGO SERIOUS PLAY 、ファシリテーターをやるにはLEGOから認定される必要があるらしいが、その認定研修は来年秋ごろまで予約がいっぱいなんだとか。
LEGOのビジネス上の凄みも感じた1日だった。

2017年5月4日木曜日

『乱読のセレンディピティ』

「知の巨人」外山滋比古氏の著作。
外山滋比古氏といえば『思考の整理学』が有名で、いまだに東大生・京大生にも読まれているらしい。

「読み方」に関する氏のエッセーのような本である。

いくつか気になったところをピックアップする。

<教養>

哲学者西田幾多郎が、若い学者からの 「論文の優れている人と、講演の優れている人と、どちらが本当に優れているのでしょうか」という意味の問いに答えて
「それは、うまい講演のできる人」と答えたというエピソードが伝わっているが、文字信仰の人たちだけでなく、広く一般の人をも驚かせた。

読書がいけないのではない、読書、大いに結構だが、生きる力に結びつかなくてはいけない。新しい文化を創り出す志を失った教養では、不毛である。


教養は必要だが、それ自体だけでは意味がない。教養を得たその先こそが重要なのだ、と今更ながらに思う。


<アルファー読みとベーター読み>

読み方には二種類ある。
一つは内容について、読む側があらかじめ知識を持っている時の読み方である。これをアルファー読みと呼ぶことにする。
もう一つは、内容、意味がわからない文章の読み方で、これをベーター読みと呼ぶことにする。全ての読みはこの二つのどちらかになる。
アルファー読みは基本的な読み方ではあるが、これだけではモノが読めるようになったとは言えない。どうしてもベーター読みができるようにならないといけない。その読みを教えることが至難で、これまで、どこの国でも成功しているところはないと言って良い。
日本の学校は早々と、ベーター読みを諦めた。その代わりに、アルファー読みでもベーター読みでもわかる、物語、文学作品を読ませた。物語や文学作品は、あるファー読みからベーター読みへ移る橋掛かりのような役を果たしていて便利なのである。
それで、学校の読み方教育は、著しく文学的になって、日本人の知性を歪めることになった。
国語の教育は、文学作品が、アルファーからベーターへの移行に有効であるということも知らず、作り話ばかり教えてきたのである。
文学的読み方では、新聞の社説すら読めない。高度の読み、ベーター読みを学校で学ぶことはできないが、学校自体、そのことをよく考えない。

ずっと昔の人はこの点で賢かった。
アルファー読みから入ったのでは、いつまでたってもベーター読みができない、ということを察知していたのかどうかはわからないが、アルファー読みから始めるのを避けて、はじめからベーター読みをさせた。
5,6歳の幼い子に、
巧言令色鮮なし仁
などという漢文を読ませたのである。
泳ぎのできない子供をいきなり海へ放り出すようなもので、乱暴極まりないと今の人は思うだろうが、かつてのベーター読みのできる人の比率は現代をはるかに上回っていたと思われる。
ヨーロッパではラテン語によって、ベーター読みを教えた。東西、軌を一にするところが面白い。


氏によるとベーター読みを訓練するのは新聞を読むことなのだそうだ。
今巷に流行っている”速読”が可能なのもあくまで「アルファー読み」の範疇でだ。ベーター読みについては、最初は眺める程度で飛ばしたとしても、それこそ精読も合わせて3回程度は読み込まないといけないはずだ。(と速読のできない自分は考えている)


<乱読とセレンディピティ>

一般に乱読は速読である。それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。
ゆっくり読んだのでは取り逃がすものを、風にように早く読むものが、案外、得るところが大きいということもあろう。乱読の効用である。
本の数が少なく、貴重で手に入りにくかった時代に、精読が称揚されるのは自然で妥当である。しかし、今は違う。本は溢れるように多いのに、読む時間が少ない。そういう状況においてこそ、乱読の価値を見出さなくてはならない。
本が読まれなくなった、本離れが進んでいると言われる近年、乱読の良さに気づくこと自体が、セレンディピティであると言っても良い。 積極的な乱読は、従来の読書では稀にしか見られなかったセレンディピティがかなり多く起こるのではないか。


情報過多時代になり、「アイデアを持っている者がアドバンテージを持つ時代は過ぎ去り、(どのアイデアがいいかを取捨選択して)実行した者がアドバンテージを持つ時代に入っている」というのが持論だが、”読書”という知識を得るための行為についても情報過多時代に入って意義が変わってきたのだと気付かされた。
ただ、乱読だけでは結局、”核”となるものができないので、そこには”精読”であり”熟慮”のようなものが必要となってくると思う。逆説的だが、”核”となるものを持った専門家に向けては「乱読のススメ」は機能するが、氏の言うベーター読みができないかもしれないレベルの読者に対しても「乱読」を勧めるのでいいのかどうかが疑問だ。
ただ、氏のこう言う著作を読む「読者」層を考えれば、適切なアドバイスということなのかもしれない。
ちなみに、氏はこの本の中でも『読者の存在』という内容を1章あげて、
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細かいところはとにかく、読者が作品にとって、決定的に重要性を持つとする思考はいずれ承認されなくてはならないと考える。日本だけの問題ではなく、広く世界の文学についてもそう考えられる時代がいずれやってくる。そう信じている。
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と述べている。
マーケティングにおける”ターゲット”論と似ている。誰に向けているのかの設定がなければ、その内容は全く評価すらできない。
そう考えるとあらゆる文学、文章、発信物は読まれるであろう対象(いわゆる”読者”)が想定されて書かれているはずだという意見は全くもってその通りと思う。


<エディターシップ>

ある朝、トイレで用を足していて、突如、編集は料理に似た加工であるというアイディアがひらめいた。
料理に使う素材は料理人が作るのではない。材料を調理して食べ物にするのである。執筆者の書いた原稿をうまく組み合わせて面白い誌面にする編集と通じるところがある、そう考えた。
それをきっかけにして、エディターシップの概念を作り上げた。第二次創造論である。
第一次創造は、素材を作る。しかし、それだけでは読者の欲する読み物にならないことが多い。そこで、第二創造の出番がある。適当な加工を加えると、第一次創造になかった価値が生まれる。


その昔、仕事の中で上司が「今年のテーマは”編集”だ!」と言っていたことがある。
先進的な取り組みをする人で、当時やっていたマンションの商品企画の仕事からすると、最初は何を言っているのか半分「?」という感じであった。
今考えると、当時コモディティ化が進みつつあったマンションという商品について、新たな素材・新規格を生み出して付加価値を見出すフェーズ(第一次創造)から、”編集”により顧客のニーズに応えるフェーズ(第二次創造)に変えていくんだ、ということを言っていたのかもしれないと思う。
(その時には半分も理解できず。。先駆者は常に後追いで理解されるということで。)


<第五人称>

舞台上の世界を第一人称から第三人称のコンテクストと考えれば、客席はその局外の第四人称であることになる。
演劇を第一人称、第二人称、第三人称だけで説明することはできない。観客のない芝居は芝居でないとすれば、舞台の外に第四人称を考える必要がある。
さらに、その外に、時間の加わる第五人称も存在すると考える。
古典を作り上げるのは、作者自らではなく第五人称である。第五人称は第四人称と違って同時的存在ではない。この第五人称を認めないと、古典の生まれる事情を理解することができない。

その昔、エスノグラフィではないが、ワークショップを見ている関係者を客観的に見るという手法があって、非常に面白いと思ったことがあった。
演劇についても、舞台上の第三者(でも演じている人で、演劇の世界としては変化に巻き込まれる人)と本当の第三者(観客)は異なるという整理。
さらに時間軸があるという発想には恐れ入った。
「次元が6次元まではあることが分かっている」という話を聞いて、
「4次元は”時間軸”ということでなんとなく理解できるけど、なんで(7次元とかではなく)6次元なんだろう?」ということを思ったことを思い出した。


読みやすい割には、考えさせられることが多い本であった。

2017年5月2日火曜日

『日本と世界を動かす悪の孫氏』

孫氏の教えが、現代国際社会や歴史上でどのように活かされてきたか、を述べたもの。

世界中で日本ほど孫氏が人口に膾炙された国はない。
実は中国より、日本の方が広く読まれているようである。

孫氏の重要性は戦いの具体的戦術の妙より、実はインテリジェンスにある。
日本では「詭道とは卑怯なり」とする独特の美意識が、孫氏を強く嫌う流れにもなった。徳川家康が最も愛読したのは孫氏ではなく、徳により政の安泰を追求した『貞観政要』であった。

孫氏の代表的な箴言の一つは、
「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如く」
だろう。戦国時代、武田信玄が「風林火山」として旗印に用いたが、正しくは続きがある。
「其の疾きこと風の如く、其の徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷の震うが如く」

情報用語にいう”エリント”(電子機器偵察、スパイ教育など)に対するのが、人間を使う”ヒューミント”。
戦国時代のヒューミントは専門の忍者部隊のほか、主として行商人や学者、修行僧、旅人などに変装してこれを行なった。特に重宝されたのは各地を自由に行き来し、指導層と付き合える俳人、茶人であった。
現代の国際情報合戦では、米国がエリント優先、旧ソ連KGBの伝統を継ぐロシアの情報機関や中国国家安全部などはヒューミント中心型だ。

本能寺の変の後、秀吉と家康が争った小牧・長久手の戦いが実は情報戦(諜報戦)だったという見立ては面白い。

ちょっと著者のイデオロギー的な思いが強い部分があるので、多少調整しながら読む必要があるのだが、マッキンダーの『ハートランド』論、マハンの『海上権力史論』から、リデルハートの敵に棘を刺しながら相手の弱体化を図る『間接的アプローチ』などの流れもあって面白く読めた。


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孫氏は詭道を重視しているため日本人が生来持つ精神的数構成や美徳を損なうため、『闘戦経』が孫氏を補った。日本的兵法であり、これを拳々服膺(けんけんふくよう)したのが楠木正成だった。
孫氏には「玉砕」「自刃」「散華」という項目は全くない。「至誠」も言及されていない。したがって、今の中国人は玉砕、特攻が理解できない。
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現在の日本人にも玉砕、特攻は理解できないのではないか、と思いつつ、やはり「詭道」は最後の手段であると思ってしまう自分はどっぷり日本人のようだ。

2017年4月22日土曜日

『キリンビール高知支店の奇跡』

元キリンビール副社長の田村潤氏が高知支店で支店をいかに変えていったか、を綴ったもの。

田村氏は、「高知での闘いは、市場で勝つための闘いと、営業マンを変えていくというインナーの闘いの両方だった。 インナーでの闘いの方がより難しかった」と述べている。

勝手解釈で、田村氏のとった方式の流れを確認する。

<ヒアリング>

高知支店に赴任して、一国一城の主として自分のやりたいようにできる!と思いつつ、何を指示していいか分からない。
とっかかりがない中でも、絶対しないことを2つ心に決めていた。
一つ目は、自分が考えて確信を持てることしか部下に指示しないこと。
二つ目は、総花的な営業はしないこと。
「とにかく慌てず、全力でやるしかない」
ということで徹底的なヒアリングに入る。

<戦略の絞りこみ>

ヒアリングの結果、まず、料飲店のマーケットに集中して営業をかけるという戦略に絞った。
料飲店のビールシェアは25%、家庭が75%。だが量販店や酒屋のルートを変えるのは容易なことではない。
営業マンの努力が成果につながりやすい(人間関係や情に訴えやすい)料飲店にターゲットを絞った)。
宴会に年間270回出て、外で飲む機会が多い高知人の生活から、ここに営業を絞る意義は25%に収まらないだろうという目論見もあった。

戦略を絞ることで、本社からの施策・指示の一部は流しておかせた。そういう指示をせざるを得なかった。

流しておくことができるのは辺境の強みである。変革は辺境から。

<結果のコミュニケーション>

高知県には約2000軒の料飲店がある。高知支店の営業マン9人でその全部をカバーするには、月間200軒訪問が必要。
”結果”について徹底して確認を取り、コミュニケーションをとる、と言えば聞こえはいいが、要は徹底したモーレツ営業だ。戦略を絞り込んだらあとは実行あるのみ。
不思議なことに、結果が出ずとも、我慢して4ヶ月目に入ると、皆身体が慣れてきたとの事。

<放っておいても売れる「仕組み」づくり>

とは言え、折しもアサヒスーパードライが世間を席巻している最中。
1995年から「結果のコミュニケーション」を始めたが、1996年9月、40年ぶりに高知県でキリンビールとアサヒビールの比率が逆転される。
1997年に入り、手応えは出てきて営業マンの活動量は飛躍的に伸びた。
それにつれて料飲店の新規獲得、量販店の店頭陳列も目標を達成した。
とはいえ、市場は雪崩を打ってアサヒに傾いていた。
営業マンは日々真面目に一生懸命やっているのに、数字がどんどん落ちている。それで病人が出始めた。
営業は頑張っている。なのに数字は落ちている。
そこで、放っておいてもキリンが売れるようにするにはどうしたらいいのか?
それだけを考えるようになった。

<エリアコミュニケーション>

当時、ビール業界でエリア広告というのは存在していなかった。
全ての広告は東京のマーケティング部が制作・発信していた。
そこで高知独自の広告を打って出ることを考えた。
予算をなんとか獲得し、実施したメディアは地元のラジオと新聞だった。
岡山工場で作る新鮮なビールという打ち出しで行った広告は失敗した。
背水の陣で、
「高知が、いちばん。」
というキャッチコピーで打って出た。高知の人は「いちばん」が大好き。この広告は当たった。
この広告が当たったのは、営業マンの愚直で徹底した活動が基礎にあったから。
よく回り、その結果、どこにでもキリンビールが置かれていて、高知の人々が「キリンをまた飲んでみるか」と思った時にそこに商品があったからこそ、数字に結びつくことが可能となった。


その後、ラガービールの復活もあったりして、高知支店は全国でも優良支店となり、田村氏は四国地区本部長、東海地区本部長、営業本部長と出世していく。
対象エリアは変わっても、エリアごとに手法は変わるものの、基本となる考え方は高知支店と変わらなかったとのこと。


戦略的には、「料飲店に絞る」というポジショニング戦略と、「営業マンのマインド改革」というケイパビリティ戦略の合わせ技という整理ができると思う。
焦った時に、「納得いかないことは指示しない」「総花的には動かない」ということを徹底すると、いうのは今の自分に照らし合わせて非常に参考になった。

2017年4月19日水曜日

『ゴールベース資産管理入門』

懇意にさせてもらっている某社長に勧められて読んだ本。
金融的な話が多かったが、投資家が陥りがちな心理的バイアスの話も多くて楽しみつつ参考になった。

<ゴールベースのアプローチとは>

「金融(ファイナンス)」という言葉の成り立ちに注目すると、個人の状況に合わせたゴールベースのアプローチは、この言葉の本来の意味とかなり共通していることがわかる。
「金融(finance)」という言葉は、ラテン語で主観的とか目標を意味する「finis」に由来している。
それゆえ金融とは、よく考えれば、個人のゴールを実現するためにお金を管理することなのだ。
そして、リスク管理とは、こうした目標が実現できなくなるかもしれないという可能性を最小化するために資産を守ることなのだ。人々が経験する本当のリスクとは、運用ポートフォリオのボラティリティのことではないのだ。そうではなく、自分の目標を達成できなくなる可能性なのだ。
このようにゴールに基づいてリスクを定義することには二つの意義がある。
一つは、主観的な、人間的な文脈の中で「リスクを具体化していること」。
もう一つは、リスクを評価する「時間軸を伸ばしていること」。


この本はブリンカー・キャピタルという投資コンサル会社の二人が書いたもので、端的にいうと、インデックス投資との比較をやめて、個々人のゴールを目標とした投資を長い目で見て行うことを勧めたものである。


<投資家の行動ギャップ>

「平均的な個人投資家」と「よく知られた資産クラスの市場インデックス」の間にある、非常に大きなパフォーマンスギャップがあることがダルバー社(ボストンを拠点とする独立系金融リサーチ会社)によって確認されている。
この投資家の合理的でない行動が引き起こすパフォーマンスの劣化を「行動ギャップ」とも呼び、このギャップが存在すること(パフォーマンス劣化が起こること)を「ダルバー効果」という。
例:1984年1月1日→2013年12月31日までのS&P500指数の年率リターンが11.11%なのに対し、株式ファンドの投資家の平均年率リターンは3.69%。


この投資家の行動ギャップが発生する、投資家の心理的原因として3つの要素がある。


<投資家の非合理行動の「3つの柱」>

①「単純さを求める気持ち」
人は簡単なものが好きで、簡単でなければ頭の中で簡単なものに置き換えてしまうほど(ヒューリスティック)。また、複数の見方のできるものを簡単に単一の立場から見る(フレーミング)、お金を心理的に分ける(メンタル・アカウント)なども起こる。
②「安全性を求める気持ち」
人は安全(に感じられるもの)が好き。特に集団に従った行動をして安全だと思いたいことで、群集行動(ハーディング)が起きることもある。
ハーディングは投資パフォーマンスを悪化させることが多く、「人の行く裏に道あり花の山」という有名な投資の格言の裏付けになっている。
③「確かなことを求める気持ち」
人は確かなことが好き。自分が一度決めたことを確かだと思いたいために、否定するものが見えなくなるという「確証バイアス」が生じる。また、有名な専門家を過剰に信頼する気持ち、長期よりも確かな短期の意思決定を好む。


この群集行動(ハーディング)が主なきっかけとなってLTCM破綻が起こっていたりしていたということで、投資家の心理的なバイアスは馬鹿にはできないという教訓。

<LTCMの破綻>

投資家の効率性に関する考え方に反するもう一つが「裁定取引に対する制約」、つまり非効率的な価格設定からいつも鞘を抜くトレーダーが、制約のためにそうした行動を取れないという議論。
この裁定取引に対する制約が持つ影響力の大きさを知らしめたのが、ロング・ターム・キャピタル・マネジメント(LTCM)。
LTCMは、複雑な数式モデルを使って、流動性の格差がもたらす国債の非効率的な価格設定から鞘を抜いていた。こうしたコンバージェンス・トレードと呼ばれる方法を通じて、LTCMは高い価格がついている債権を売却し、そう高くない債権を購入し、時間を経て価格が平均的な水準に戻ったところで利益を稼いでいた。
債権の価格差はとても小さいので、魅力的な利益を上げるためには高いレバレッジをかける必要があった。(LTCMの破綻時には、最大25倍という高いレバレッジがかかっていた) 1998年、長期的には価格の収束が保証されていた債権に、LTCMは投資をした。
しかし、アジア通貨危機やロシア国債のデフォルトによって、これらの債権は通常と違う値動きをした。この2つのイベントが起きた結果、投資家はLTCMとは違う取引行動に走った。その結果、長期的に見れば大きなリターンを得られたであろうにも関わらず、LTCMは追証を求められ、最終的には破滅的な損失でポジションを手仕舞うこととなった。
ここでもストレスのかかった投資家が引き起こす短期的なパニックによって、価格設定のズレから鞘を抜こうとする人々の企みが妨げられる過程を見ることができる。



勉強になった金融系の小ネタもいくつか。

<債権と株式>

歴史的に見て、株式の平均リターンは、デフォルト・リスクがほぼないと考えられる短期債のそれを大きく上回ってきた。
1889年〜1978年という90年以上の期間中、S&P500指数の毎年の平均利回りは実質ベースで7%だった。一方短期債の平均利回りは1%だった。
この2つの利回りの間にある十分に大きな差は流動性の制約や取引費用では説明ができない。 「エクイティ・プレミアム・パズル」と言われている。

「株式のリスク・プレミアム(エクイティ・リスク・プレミアム)」は運用期間の長さにもよりますが、通常は3〜7%の範囲にあるとされている。
ディムソン、マーシュ、スタウントン(2006)の計算によれば、このプレミアムは「幾何平均ベースでおよそ3〜3.5%」だった。 投資家というのは、よく分からないリスクを負担することに対して、かなりのプレミアムを要求していることがわかる。


<バリアンス・ドレイン>

バリアンス・ドレインとは、 一定の期間におけるリターンの平均値と、複利ベースのリターンの差。
その値は、リターンの分散の大きさによって変動する。分散が大きくなれば、複利リターンがリターン平均値を下回りやすくなる。 通常、複利リターンは、リターン平均値より分散の2分の1ほど小さくなる。

群集心理だけでなく、確証バイアスとか心理学でも出てくる内容があって、やはり投資家の行動は合理的ばかりではない、というのが事例もあってよくわかる。
その非合理性こそが人間の魅力であり、AIでは実現できないところだと思ってしまうのはいささか郷愁的過ぎるだろうか。

2017年4月16日日曜日

『トヨトミの野望』

「この小説に書かれている内容は98%本当だよ」
トヨタの某役員とも交流のある人から勧められて読んだ本。

衝撃的な不祥事のエピソードから始まり、「これが実話なのか?」と一気にのめり込んで読んでしまった。
小説形式をとっているので、本人に気兼ねすることなく臨場感を持って描かれている。
(某サイトでは、小説の登場人物と実際の人物の対比表まであったりするので、それを先に見ておくとネタバレはするが分かりやすい)


読んでみて思ったこと。
・今まで持っていたトヨタの各役員像が実態と異なっていたことにびっくり。いかにマスコミの作ったイメージに乗せられているか、痛感した。
・トップ企業の役員クラスになると、その凌ぎ合いは半端がない。まさに騙し合いだ。自らの体を壊しながらも、栄達に進み続ける執念を感じた。

ちょうど時期が時期だけに、思うところが多々あり、面白かった。



2017年4月15日土曜日

『HIGH OUTPUT MANAGEMENT』

インテル CEOだったアンドリュー・ S・グローブ氏が現役時代に書いた本。
既に20年以上経過したものの復刻版。
20年以上経過して、枝葉の内容については更に研究・進化が進んだものもあるが、根本の思想については今なお十分に参考となる内容。

<マネジャーのアウトプットとは>
マネジャーのアウトプット=自分の組織のアウトプット+自分の影響力が及ぶ隣接諸組織のアウトプット
というのがグローブ氏の定義。

ライン組織においては前段の「自分の組織のアウトプット」に軸足が置かれるし、スタッフ組織においては後段の「自分の影響力が及ぶ隣接諸組織のアウトプット」も重要になってくるという風に考えるとわかりやすい。

<マネジャーのやるべきこととは>
「人が仕事をしていない時、その理由は2つしかない。 単にそれができないのか、やろうとしないのかのいずれかである。 つまり、能力がないか、意欲がないかのいずれかである。」
この洞察はマネジャーの努力の方向を180度変える力がある。
つまりマネジャーのやるべきことは部下の教育とモチベーションの向上だ。他にマネジャーがなすべきことはない。

マネジャーは①部下の教育と②部下のモチベーションの向上。これ以外にやることはないと喝破。
現在増えいているプレイング・マネジャーからすると、「俺たちプレイもしなくちゃなんだよね」という風な気もするが、マネジャーとしては上記の2点こそが重点ポイントであるという整理は非常にわかりやすい。

<ワン・オン・ワン・ミーティング>
実はワン・オン・ワン・ミーティングはマネジャーと社員のコミュニケーションの基本であるだけでなく、マネジャーが入手しうる組織の知識のソースとしておそらく最良のものだ。
私の経験では、ワン・オン・ワンの話し合いを軽視するマネジャーは自分の所属する組織の情報が驚くほど貧弱だった。
ワン・オン・ワンミーティングは、最低1時間は続けるべきであろう。私の経験で言うと、時間がそれ以下の場合に、部下が持ち出してくる問題は、素早く取り扱える簡単なものに自ずと限定されがちである。
場所は、できれば部下の仕事場所か、その近くで持つべきだと思う。部下のオフィスに出向いていけば、監督者は色々なことを知ることができる。
ワン・オン・ワンの大切な点は、これが”部下の”ミーティングであり、その議題や調子も部下が決めるべき筋合いのものと考えることである。 上司はミーティング前にアウトラインを手に入れておき、双方がメモを取ることが大切である

グローブ氏はこのワン・オン・ワン・ミーティングを非常に重視していて、著書の中でも繰り返しその重要性を説いている。
このワン・オン・ワン・ミーティングの手法は個人的にも昔から取り入れていたので、グローブ氏の意見を取り入れたからではないが、この4月から新組織で再びワン・オン・ワン・ミーティングを開始することにした。

<指標について>
インディケーター(指標)は経営に必須の諸要因を測定するもの。
日々確認する事で、隠れた問題が現実に露呈する前に、何らかの是正のための手が打てるようになる。
インディケーターは、監視(モニター)しているものに人の目を向けさせる傾向がある。インディケーターは人に処置を命じる指標であるので、やりすぎにならぬように自戒しなければならない。
これには2つのインディケーターをペアで使うようにすると良い。在庫管理の例でいえば、在庫量と品不足の発生率の両方の監視が必要である。

相反するインディケーターをセットで追うことで、バランスをとることができるという教え。
変革を促す時にはあえて一つのインディケーターしか負わせないという応用編もありそうだ。

<先行指標について>
先行指標(リーディング・インディケーター)は、ブラックボックスの内部を覗く一つの方法で、将来はどんな風になりそうかを事前に示してくれる。
しかも、是正処置をとる時間的余裕を生んでくれるので、問題の発生を防ぐことが可能になる。
先行インディケーターを役立たせるには、”その妥当性を信じなければならない”。これは当然のことと思われるかもしれないが、実際は口で言うほどたやすくは確信が持てないものである。
あるインディケーターを選択する以上は、それが警戒信号を発した時には必ず行動を起こすと言うように、信用できるものでなければならない。

先行指標の重要性は、論をまたないところだが、ついつい「たまたま指標がそう出た」と解釈をして行動に出ないことがある。その点は厳に戒めなければならないという実務家ならではの指摘だ。

<ミーティングについて>
私の典型的な1日の中で、私が参加した活動は25にのぼる。
そのほとんどは情報の収集と提供であるが、意思決定とナッジングも含まれている。
また、私の時間の3分の2は何らかの形のミーティングに使われている。
ミーティングこそマネジャーとして活動する機会を提供しているのである。

ミーティングを時間の浪費だとする向きもあるが、ミドル・マネジャーの仕事である、情報やノウハウの提供、物事を処理する望ましい方法を自分の感じた通りに監督下にいる人々や影響下にあるグループに伝えることは、両方ともミーディングを通じてのみ遂行できる。
だから、ミーティングはマネジャーが仕事を遂行する”手段”そのものに他ならない。
(ピータードラッカーもかつて、マネジャーがその時間の25%以上をミーティングに使っているならば、それは組織不全の兆候であるとすら言っている)
我々はミーティングの存在の当否と戦うのではなく、むしろその時間をできるだけ能率よく使わなければならないのである。

マネジャーには二つの基本的な役割があるので、2種類のミーティングが基本的にある。
 一つは”プロセス中心”のミーティングと呼ばれ、そこでは知識の共有化と情報交換が行われる。
もう一つの目的は、具体的な問題の解決である。”使命中心(ミッション)”と呼ばれるこの種のミーティングでは、”意思決定”をすることが多く、特別な目的のために随時開かれる。

具体的な意思決定のため招集するミーティングは、出席者が6、7人以上になると、スムーズに動かなくなることを忘れてはならない。
8人が絶対に打ち切るべき上限である。意思決定は観るスポーツではない。見物人はやることの邪魔になる。

理想的に言えば、臨時の突発的な使命中心ミーティングは招集しないに越したことはない。万事がスムーズにいっていれば、定期のプロセス中心ミーティングですべて面倒を見られるはずである。
だが、現実には、万事がうまくいっていても、日常のミーティングは問題や出来事の80%を処理するだけで、残りの20%の処理は、やはり使命中心ミーティングに頼らざるを得ない。
ピーター・ドラッカーは、時間の25%以上を会議で過ごすようなら、それは組織不全の兆候だと言っている。
私なら、こう言いたい。組織不全の真の兆候は、人が25%以上の時間を、臨時に開かれる使命中心ミーティングで過ごす時に現れる、と。

ドラッカーさんからは「無駄」とされているミーティングこそマネジャーの目的達成のための重要な手段であり、それを効率的に行うことが必要である、ということで、何度もミーティングに関しては記載がある。
実務を行うものとしては、「ミーティングを減らせ」と言われると「代わりに何をやるの?」ということになるが、「その目的を考え、効率的に行え」ということであれば対応することができる。

<ハイブリッド組織>
組織は(概ね両方が混じっているのだが)2つの典型的な形態に分けられる。
完全な”使命中心”の形態と、”機能別”編成形態である。
完全に分権化された、使命中心型では、ここの事業単位が自らのやるべきこと、つまり使命のみを追求し、他の単位との絆はあまり強くない。
これと対照的なのが、完全に中央集権化された、全くの機能別編成の組織形態である。

アルフレッド・スローンは、数十年間のGM社での経験をこう語っている。
「経営管理の成否は、集権化と分権化の調和にかかっている」と。
つまり、即応性とテコ作用の最善の組み合わせを求めてバランスをとる行為が鍵だとも言える。

インテル社従業員の3分の2が、機能別単位の中で働いていることそのものが、その非常な重要性を物語っている。
会社をこうした昨日グループに組織化する利点は何か。
まず第一に、規模の経済が実現できることである。
もう一つの長所は、全社的な優先順位の変更に対応して、社の資源を移行し再分配ができる点である。
さらにその長所として、テクノロジー開発部門の研究技術者のような、ノウハウ・マネジャーの専門的知識や技術を会社の隅々にわたって使用でき、それらの知識と仕事に強いてこ作用を与えてくれる点がある。
インテル社の相当部分を機能別に組織化していることには短所もある。
最も重要なのは、様々な各事業単位からの要請に応えなければならない時に、過重な情報負担が機能グループにのしかかるという問題である。

会社の大部分を使命中心形態に組織化する長所はなんなのだろうか。それはただ一つしかない。つまりここの集団や単位が、絶えず自分の事業あるいは製品分野に対するニーズと接触を保ち、こうしたニーズの変化に対して迅速に対応できるという点”だけ”である。
他のすべての点においては、どう考えても機能別編成の組織化の方に軍配が上がる。

高度に使命中心型の組織は、明快にピシッと規定された所属関係と明確で曖昧さのない目標を絶えず持つことはできるかもしれない。
しかし、その結果生じる物事の分断状態は、非能率と、全体としての不十分な業績をもたらす。

【グローブの法則】
「共通の事業目的を持つすべての大組織は、最後にはハイブリッド組織形態に落ち着くことになる。」

グローブ氏は、ハイブリッド組織についても紙幅を割いている。
組織の縦串と横串をどう刺すのか。これは企業の永遠のテーマと言えるかもしれない。


<CEOは楽天家>
CEOは先行きが楽観的だという見通しのニュースに従って意思決定する。
一方で悪いニュースの場合は、それが実際に起きてからでないと意思決定に取り入れない。
その理由は、何であれ偉大なものを作るなら、その人は楽天家でなければならない。定義からして『オプティミスト』は普通の人間が不可能だと思うようなことをやろうと人間のことだ。
だからオプティミスト(=CEO)は先行きが悪くなるというニュースに従って行動はしないのだ。
しかし、結局CEOというのはオプティミストでなければ務まらない。それにトータルで考えれば、先行きが悪くなるというニュースに従って行動しない方がいいのだ。

これは自身が批判された内容について反論したものとも受け取れなくはないが、トップとは楽天的でなければ務まらないものであるらしい。

<『ピーターの法則』>
 組織論における経験則。管理職の地位に誰を昇進させるかは、昇進後の地位に必要な能力には寄らず、現在の地位に対する能力によって判断される。そのため、管理職は必ず無能となる地位まで昇進する。


冒頭述べたように、これは20年以上も前に書かれた本である。
高度な専門性を持つ社員を”ノウハウ・マネジャー”と位置付けていたり、制約理論の基礎となるボトルネックの考え方が”リミティング・ステップ”という表現で出てきたり。
他にも「スター従業員こそ伸ばすべき」だったり、「従業員が会社を辞めると言ってきた時には全てを投げ打って話を聞く必要がある」など、実務家ならではのアドバイスが多く非常に参考になった。


4月から新組織を立ち上げるための準備で、3月から4月にかけてバタバタしており、全くブログにアップできず。
結構本は読んでいるのだが。落ち着いてきたので、チョコチョコあげよう。

2017年2月6日月曜日

『ザ・ビジョン』

今、会社の業務でとある”ビジョン”を定めている。
正しく言うと、”ビジョン”定めに苦悶している。
この「ビジョン」とは厄介で、人によって、書物によって、微妙に定義やら言い回し、構成要素に関する理論、理屈が違っている。

そんな「ビジョン」について、物語形式で、分かりやすく書かれた本。一緒にビジョン制定で苦しんでいる同僚から勧められて読んだ。

この本の理論によると
説得力あるビジョンを生み出すための三つの基本要素は
・有意義な目的
・明確な価値観
・未来のイメージ

勝手な解釈でいうと
・有意義な目的→mission(Why)
・明確な価値観→value(How)
・未来のイメージ→いわゆるvision(What)

言葉だけだと間違える可能性があるので(そもそも訳が違っていたら理解を誤る)、その内容について書かれた部分を引用、確認する。

<目的とは何か>

①目的とは、組織の存在意義である。
②目的とは、単に事業の内容を述べたものではなく、「なぜ」という問いに答えるものである。
③目的とは、顧客の視点に立って、その組織の「真の使命」を明らかにしたものである。
④偉大な組織は深遠で崇高な「目的」、すなわち社員の意欲をかきたて、やる気を起こさせるような、「有意義な目的」を持っている。
⑤表面的な言葉遣いより、そこから人々に伝わる「意味」の方が重要である。

<価値観とは何か>

①価値観とは、目的を達成する過程で、どう行動していくべきかを示す、緩やかなガイドラインである。
②価値観とは、「自分は何を基準にして、どのように生きていくのか」という問いに答えるものである。
③価値観の内容を具体的に明らかにしない限り、どんな行動をとれば価値観を実践できるのかはわからない。
④常に行動をどもなうものでなければ、価値観は単なる願望にしかならない。
⑤メンバー一人一人の価値観と、組織の価値観とを一致させなければならない。

<未来のイメージとは何か>

①未来のイメージとは、最終結果のイメージ。曖昧ではなく、はっきりと思い描けるイメージである。
②無くしたいものではなく、作り出したいものに焦点を置く。
③最終結果に到達するまでのプロセスではなく、最終結果そのものに焦点をおく。

この本でいう「ビジョン」とは、通常でいうmission,value, visionをセットにしたものであると考えられる。

この本でいうと、
<ビジョンとは何か>
ビジョンとは、自分は何者で、何を目指し、何を基準にして進んでいくのかを理解することである。
とあるので、上記の考え方はそう間違っていないように思われる。
そう、この本のタイトルのように、この本でいう「ビジョン」は通常の3点mission,value,visionの3点を統合した、「ザ・ビジョン」なのだ。
時折、表現として「ビジョンを生きる」という表現が出てくるあたりからも、統合的な指針をさして「ビジョン」と言っていると考察される(同じ単語なので非常に分かりづらい)


とあるコンサルティング会社さんからは
ビジョンは、目的、意義、手法の3要素から構成される。
と言われていたが、同じ考え方とも言えるだろう。
でも作り始めてわかったけど、いわゆるビジョンの中にも3要素入るし、行動指針(いわゆるvalue)の中にも手法だけじゃなくて目的とか意義が入り込んでくる。
明確に分けられるものではないってことがよくわかった。

この本では、ビジョンの実現には他に「構造」「戦略」も必要とのこと。

企業においては、「基盤(インフラ)」と「戦略」と読み替えると分かりやすいかもしれないが、この本では、人生においても「ビジョン」が重要であると述べているので、個人の人生に当てはめようとすると「構造」というやや抽象的なワードとなってしまうのかもしれない。

同じ「ビジョン」という言葉でも、何を指しているのかが違うと会話が成り立たない。
「ビジョン」「ミッション」「バリュー」「ストラテジー」
これらは往々にして意味がごちゃまぜで使われたりするが、結局、それを制定することで何を達成したいのか、ということを突き詰めていくプロセスに非常に意義があるということが「ビジョン」を作ってみてよくわかった。

次にこの策定した「ビジョン」をどのように伝えていくか、が課題。

2017年1月15日日曜日

『オープンダイアローグとは何か』

精神科医の斎藤環さんが惚れ込んだフィンランドの治療方法の紹介本。
タイトルだけ見るとワークショップ系の内容かと思うが、実は統合失調症などの精神疾患患者に対する治療方法がメインの主題。
でも、その手法の背景にある様々な理論がすごく学びにつながる。社会構成主義からヴィゴツキーまで出て来るランナップ。
別に精神科医ではないが非常に参考になった。

<オープンダイアローグ実践のための12項目>

1 ミーティングには2人以上(3人がベスト?)のセラピストが参加する
2 家族とネットワークメンバーが参加する
3 開かれた質問をする
4 クライアントの発言に応える
5 今この瞬間を大切にする
6 複数の視点を引き出す
7 対話において関係性に注目する
8 問題発言や問題行動には淡々と対応しつつ、その意味には注意を払う
9 症状ではなく、クライアントの独自の言葉や物語を強調する
10 ミーティングにおいて専門家どうしの会話(リフレクティング)を用いる
11 透明性を保つ
12 不確実性への耐性


この治療法を導入した結果、西ラップランド地方において、統合失調症の入院治療期間は平均19日間短縮された。
薬物を含む通常の治療を受けた統合失調症患者群との比較において、この治療では、服薬を必要とした患者は全体の35%、2年間の予後調査で82%は症状の再発がないか、ごく軽微なものにとどまり(対照群では50%)、障害者手当を受給していたのは23%(対照群では57%)、再発率は24%(対照群では71%)に抑えられていた。
これは、関係者から見ると「魔法のような治療」でないとできない数字らしい。


<統合失調症について>

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統合失調症いう疾患は、その病理を簡単に説明するのは極めて難しいのだが、あえて一言で言えば「自分と他者の境界が曖昧になる病気」と考えられる。
自分の考えたことが”だだ漏れ”になったり、他人の考えがどんどん入り込んでくるような感覚を訴えることがよくある(思考伝播、思考吹入)。
某有名漫画の影響で、これを「サトラレ」と呼ぶ人もいる。心の声が外から聞こえてくれば「幻聴」という症状となる。
この状態は、普段は自分を守るためにある他者との間の壁が壊れてしまい、外からのノイズを含む様々な刺激が、心の中にどんどん入り込んでくるような状態にたとえることができる。神田橋條治先生は、この状態を”開いている”と表現した。
他者に向けて開かれた状態においては「有害な」他者の被害を受けやすくなる分、「有益な」他者の受け入れも容易になる。
その意味でオープンダイアローグとは、有益な他者の受け入れを容易にするための技術なのかもしれない。

「対話主義」。これはバフチンのアイディア、すなわち「言語とコミュニケーションが現実を構成する」という社会構成主義的な考え方に基づいている。
この視点から考えるなら、精神病は単なる脳機能の障害ではない。それは、共有し伝達することが可能な現実からの疎外、一過性ではあっても根源的でおそるべき疎外を指している。
そうなると、人はまるで”孤島”に島流しになったようなもの。この時人は、耐えがたい経験を語るための声や言葉と言った、一切の媒介を奪われてしまうのだ。

統合失調症の人は、はじめから幻覚や妄想を経験しているわけではない。発症したての初期において彼らを圧倒するのは、むしろ世界観の根本的な変化とでも言うべきもの。
「身体が全く鳴りを潜め、この奇妙な静けさを背景とする知覚過敏(外界のこの世ならぬ美しさ、深さ、色の強さ)、特に聴覚過敏、超限的記憶力増大感(読んだ本の内容が表紙を見ただけでほとんど全面的に想起できる確実感)と共に、抵抗を全く伴わず、しかも能動感を全く欠いた思路の無限延長、無限分岐、彷徨とを特徴とする一時期がある。」
このような、どこへ連れて行かれるかわからない体験は、それが幻覚や妄想という形式に落とし込まれることで、幾分受け止めやすくなる。
そう、正体のわからない恐怖よりは、正体を言葉で言いあらわせる恐怖の方がマシなのだ。
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バベルの塔を作って神々の世界に到達しようと試みた不遜な人間たちに対して、神々が行ったことは、コミュニケーションが取れないように言葉をバラバラにしたことだ。
それだけでバベルの塔はもろくも崩壊してしまった。
コミュニケーションの媒介(言葉)がなくなった時の孤独感たるや、いかがなものだろうか。
そう言った患者のための手法としてオープンダイアローグがある。
オープンダイアローグの背景には、「言葉」に対する強固な信頼がある。 それは言い換えるなら「言葉こそが現実を構成している」という社会構成主義的な信念でもある。
だからこそ、「言葉の回復」こそが「現実の治療」をもたらしうる。
理屈・理論だけでなく、実際に成果を出しているというのがすごいと思う。

そして、このケロプダス病院は「スタッフが辞めない職場」らしい。
対話の持つ正常化の力は、患者だけでなく職員にも作用しているのかもしれないと著者は考察している。

「対話」の重要性を再認識した次第。

定年を迎えて引退したらカウンセラーの手伝いをやるのも良い、などと思い妻に話してみたところ
「あなたには向いていない」
とバッサリ。
左様でございますか。

2017年1月9日月曜日

『韓非子』

『孫子の兵法』の著者でもある守屋淳氏の著作。

『韓非子』というタイトルではあるが、孔子の『論語』と韓非の『韓非子』との比較論という整理の方がわかりやすい。
『論語』と『韓非子』という対照的な思想を両極とした軸として考えることで、「そもそも成果の出せる組織とは」といった問いを考える上での原理原則や、思考の物差しを探るために格好の素材としている。

孔子

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成果のあがる理想的な組織、という問いに対して、孔子は「よき家庭」を雛形とした組織を描いてみせた。
「上下、同僚間を問わずお互いがお互いを信頼し、自分の得意とするところで力を発揮している。しかも、間違っていることは間違っていると指摘し合う関係を築いている。さらに、助け合い、育みあい、活かし合うような組織」
孔子にとっては、そもそも多くの家庭の寄り集まったものが国であったし、よき家庭の在りようをそのまま拡大したものが、理想的に統治された国でもあった。
家庭が政治体制の雛型であり、基盤である以上、孔子の中では「よき家庭を作ること」と「政治を行うこと」がそのまま直結していた。

戦後の日本の会社というのは、『論語』の価値観とかなり重なり合うような組織を作ってきた。これを「日本型経営システム」と呼んだりもする。
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韓非

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韓非は、韓という国の王族の一員であった。
自国が弱体化するのを食い止めようと、王にその原因を度々具申していたが、その内容は次のようなものであった。
①法制を明確にしようとしない
②権力で臣下をコントロールしようとしない
③富国強兵に努め、人材を求めて賢者を登用しようとしない
④うわべを取り繕って国を蝕む人物を、本当に功績ある者の上に置いてしまう
①と②は『論語』的な「徳治」に起因する問題だ。

韓非はもともと合目的的とは言えない「国」を、企業やプロスポーツチームのような合目的的な組織に変革しようと試みたのだ。
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孔子と韓非の組織観

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孔子の組織観は「性善説」という考え方を基にしているようにも見えるが、孔子は必ずしも人を「性善説」でみているわけではなかった。
人はよほどの天才と、よほどの愚か者以外は、教育によって良くも悪くもなる存在だ、と考えていた。
ちなみに、孔子のいう教育とは、知識の習得ばかりでなく、人柄や行動、態度、対人関係やリーダーシップを磨くことにも大きな比重が置かれている。
孔子の組織観とは
「良い組織を作りたければ、ひとまず人を信頼すべきだ」
ということ。
「信頼は信頼を生む」「人は成長できる」
これが孔子の組織感を支える二つの確信であった。
一方、よく「性悪説」と言われる韓非の人間観を一言で言えば、
「人は状況の申し子である」
ということ。

孔子が、人は教育によって良くも悪くもなる、としたのに対し、韓非は、人は置かれた状況によって良くも悪くもなる、と考えた。
二つをあえて一つにするとすれば「性弱説」
人の本性は弱さにある。 地位も名誉も欲しいが、面倒くさいことはしたくないし、辛い思いもしたくない。利益を見ればそちらになびきたくなる。状況が酷くなれば、あっさり悪の方へ落ちていくし、良い状況が続けば堕落していく。。

「しかしその弱さをはねのけ、憧れる力や、師匠からの感化力によって、人は志を持てるし、学ぶことによって成長することができる」 と、人の内面に寄り添う形で考えたのが孔子。
「状況次第で、多くの人は自分の弱さに抗えなくなる。ならば、逆にその性質を利用して、組織や国が回るシステムを作ってしまえ」 と、統治する側の上から目線で考えたのが韓非、ということになる。
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『法治』的組織と『徳治』的組織

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『韓非子』(『法治』)的な組織。
これを構築・維持したければ「目標を達成したなら、その分増える賞の源泉」が基本的に必要となる。
このためには「パイが拡大している環境」にいるのが、最も簡便な道だ。
しかし、それが難しくなり「賞」の源泉が頭打ちになってしまった場合、『論語』的、ないしはローマ的な精神的・抽象的な「賞」をあてがうことで、維持が可能になる場合がある。
ちなみに、金銭などの物理的な「賞」で人を釣るにしても、もしパイが半永久的に拡大し続けて、利の源泉が尽きなければ、それは原理的にいつまでも可能になるはずだ。
実は、こうした価値観が根強く残っているのがアメリカなのだ。
人種の坩堝と言われる多様な文化的背景を持つ人々をまとめるために、金銭という最も分かりやすい価値観が非常に重視されている点も『韓非子』と酷似する。

『論語』(『徳治』)的な組織。
こちらを構築・維持したければ、根底の制度設計は性悪説においておき、いざという時問題や禍根を取り除けるようにしなければならない。そしてその運用は性善説に基づいて行うことを基本とする。
ただし、そのためには「覚悟」を持った人間が有事の際に上に立ったり、「二重人格」的な人物が普段から(制度を運用する際に)問題の芽を摘み取ったりしておくことが必要になる。
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著者はどちらが優れているということではなく、どちらも重要であり、どちらに軸足を置くべきかはその環境によるとしている。
「覇王の道」(覇道=「法治」と王道=「徳治』は両立させる必要がある)
「寛猛、中を得る」(国を治める道とは、寛大さと厳しさ、その中庸をとることにある)



「会社も老化する」であったように組織が老化して来ると「前例踏襲」「減点主義」がはびこって来る。
そうすると、「責任を負わないこと」に対して、権勢(地位に付随する権力)が使われることとなる、という見方も言い得て妙であった。

その他にも、中国という国(王朝)の歴史を紐解いて、その基本理念となるものが、韓非の考案した「法治」であり、それは秦への導入から始まっている、というのも面白い。
丁度流行っている漫画「キングダム」の時代を詳述していることもあり、楽しく読めた。


2017年1月3日火曜日

『会社の老化は止められない。』

フェルミ推定の重要性を指摘した細谷功氏の著作。
会社と人間の老化に関するメタファーをもとに、組織も老化現象を起こすのが必然であるということを述べた本。
「会社あるある」が著書内の至る所で論理的に語られている。
「あるある」で済んでいるうちはいいのだが、経営者とするとこの「組織の老化」をどうしていったらいいのかを真剣に考える必要がある。
そんな答えが簡単に出るようなら苦労はしないのだが、それを導く一助になる本。


「老化」とは

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「老化」を「後戻りのできない『不可逆プロセス』の進行」と定義する。
それは「数が増える」「均質化する」「複雑化する」ことで劣化する現象で、具体的には以下のようなことが起こる。
・ルールや規則の増加 ・部門と階層の増殖
・外注化による空洞化
・過剰品質化
・手段の目的化
・顧客意識の希薄化と社内志向化
・「社内政治家」の増殖
・人材の均質化・凡庸化
・性悪説化(加点主義→減点主義)
・形式主義化(中身重視→形式重視)

これらは不可逆プロセスで、人間も組織も決してこのプロセスを後戻りして「若返る」ことはない。
人間ではあまりに当たり前のこの法則が、会社という組織体では当たり前ではなく、すべての会社は永遠の命を持っていて成長し続けるという前提で動いているように見えるのは何とも不思議である。
この幻想の原因は一言で言えば「資産の負債化に気づかない」ことである。

もちろんここでいう不可逆プロセスは悪いことばかりではない。「成長」というのも、まさに後戻りしない不可逆プロセスだからだ。
実は「成長」と「老化」という不可逆プロセスは紙一重で、端的に言えば、「完成されるまでの不可逆プロセス」が成長であり、「完成後の不可逆プロセス」が老化である。
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不可逆プロセスのメカニズム

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不可逆プロセスの「メカニズム」は、会社という組織に内在する様々な「非対称性」によって生じる。
「非対称性」を時間軸に適用したものが「不可逆性」、つまり後戻りができないということ。
さらに元をたどれば、その非対称性は人間が持つ心理的特性と自然界が持つ物理的特性からきている。
心理的特性とは、「見えないものより見えるものに重きを置く」「以前にやったことを繰り返そうとする」「何かを得ることへの期待より、失うことへの恐れの方が大きい」という誰もが避けることのできない性質である。
また、物理的特性とは、会社を一つの大きな集団として見た場合に複雑さや乱雑さが増し、均質化されてくることである。(一般に「エントロピー増大の法則」と言われる)
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エントロピー増大の法則

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物理における普遍的なルールである万有引力の法則や、量子力学、あるいは相対性理論といったものは、基本的には時間を逆戻しにしても成立する。
これに対して、時間に対する不可逆性を表現しているのが熱力学の第二法則、一般に「エントロピー増大の法則」と言われるものである。
エントロピーは、元は熱力学の世界を説明するために導入された物理量である。熱エネルギーから力学的エネルギーへの不可逆性(力学的エネルギーは100%熱エネルギーに変えられるが、逆は真ではなく、熱エネルギーを力学的エネルギーに変換する際には必ずロスが発生することを指す)を説明するためにも用いられる。
またごく乱暴に定性的な表現をすれば「乱雑さ」を表現する量であると言われている。
このエントロピーという物理量が、物質もエネルギーも出入りしない閉じた一つの系(孤立系)においては時間とともに減少することはなく、増加の一方をたどる、というのが「エントロピー増大の法則」である。
つまり、ある閉じた世界の乱雑性は、時間とともに必ず増大していくことを意味する。

熱力学でエントロピーというと、外部とエネルギーや物質の出入りがない状態(孤立系)での乱雑さの度合いを指しているが、組織の場合、「成果につながらないエネルギー」とも定義できる。
部門間の対立、誤った判断、不満を抱く従業員、器量の足りないリーダー、歯車が狂った組織、現実にそぐわない制度、時代遅れの戦略、不安に覆われた企業文化。。。これらは全て企業のエントロピーを増大させる。言い換えれば秩序を乱すのだ。

「エントロピー増大の法則」の一つの側面には「乱雑性が増大していく」ことがあげられる。
この「乱雑性が増える」とは、一人一人の従業員の方向性がバラバラになることを意味する。
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悪貨は良貨を駆逐する

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「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則と同様に、
「ルーティンワークはクリエイティブワークを駆逐する」
その理由①規則の増加は止められない、②柔らかいクリエイティブワークはかたいルーティンワークに追いやられる、③組織内の評価のされ方で、ルーティンワークをサボれば明確な減点だが、クリエイティブワークをやらなくても減点にはなりにくい
クリエイティブワークにおいては、作業リストを用意するのが難しく、いわば「頼まれもしない仕事をいかに能動的かつ個性的にやるか」が勝負。
クリエイティブワークは、「やるべきことをやっていない」を可視化するのが非常に難しい性質を持っている。
同様に「かたいものはやわらかいものを駆逐する」。
大企業病の例としてよくあげられる「減点主義」こそ、ルーティンワーク増加の原因であり、また結果でもあると言ってもいいだろう。
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ブランド

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ブランド力を高めることが「会社の老化」に貢献してしまっている。
それは社員の「依存心の増加」である。
「ブランドを築くために」働くのと、「出来上がったブランドの下で」働くとでは、ほぼ正反対の意識になる。
依存心の強い社員が増えれば経費を水膨れさせるばかりか、イノベーションを阻害するようになる。
「大学生の人気就職先ランキングの上になったらその会社はもう落ち目だ」と言われることがあるが、その原因の一つがブランドのジレンマにあると言っていい。
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ブランドが老化の促進になるとはびっくり。
よく会社は神輿に喩えられる。2割の社員が実質支えているというような話もまことしやかに語られる。ブランドをつくる(もしくは維持する)意識を持つ(神輿を担ぐ)社員と、ブランドに依存する(神輿にぶら下がる)社員との違いだとも言えるが、ブランドがその依存を強める方向に働くという観点はなかった。


外注化

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外注化の動きも(ゆっくりとではあるが確実に)会社の老化に貢献している
単なる「作業」、いわゆる「手足を動かす」だけの業務が真っ先に外注化の対象に選ばれる。要するに「口は出すが手足は動かさない」という方向にどんどん進んでいく。
これはまさに「人間の老化過程」と同じである。
それでも、それで浮いた時間を付加価値の高い仕事に振り向けられていれば救いはあるが、実際は「外注管理」という名の思考停止に陥ってしまう。
単なる手配師となり、コアの業務もいつの間にか外注先に移っているという悲劇も他人事ではない。
このようにすっかり「空洞化」してしまった会社や事業部に配属になった新卒社員などはさらに悲劇である。先述の「ブランドによる勘違い」とは別の意味での「勘違い」が起こる危険性がある。
自らのコアスキルが全くない状態で、発注先の関連会社に対しての「管理」が求められ、会社の看板だけで権威づけをした状態で、実際には何倍も仕事のことを知っている多数の外注先を管理しなければならなくなる。
このような状況でも外部サプライヤーからは、顧客としての一応の敬意を払われるから、「勘違い」モードに入る危険性があることは容易の予想される。
大企業で伝統的な事業を担当している「花形部門」に配属された若手が辿る道は、業界が違っても似たようなものだろう。
これは本人の自覚もさることながら、職場としても、育成計画やローテーションを考える上で十分に留意する必要がある。
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まさにこれは会社のあるあるネタである。
とはいえ、業務進捗に際してはついついやってしまうことでもある。
常にハンズオンの意識を持って業務を進めることが必要だということだと思っている。


ソリューションサービスビジネス

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「ソリューションビジネス」とは、真に顧客の視点に立って(「提供者側の論理」ではなく)顧客の課題を解決するというアプローチ。
「物売り」の延長に「ソリューション売り」があるというのは大きな誤解。
物売りとソリューションビジネスには、基本的なところでの価値観の相違があり、ソリューションビジネスが成長するにつれてどのビジネスでも一つの大きな壁に突き当たる。それは「自社製品をどこまで『売り付けるか』」ということである。
これは製造業のみならず、パッケージソフトウェアでも金融商品でも「自社商品」を持っている全ての会社が直面している生々しい課題と言える。
製造業において、「ソリューションビジネス」が利益を上げて独り立ちしていくことはできないということをリサーチデータから示したのが、ジェームズ・A・アレキサンダーとマーク・ホーデスで、著書”S-Business”の中で、そのギャップを示している。
製品販売中心から、サービスに「軸足を移せていない」限りは新しいビジネスモデルへの転換は起こせない。基本的にカニバリズム(共食い)という利益相反が起こるからである。
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「サービス産業化」というテーマは旬なテーマなので、どの会社においても検討されている内容であろう。
「自社製品を売りつける」という発想があるうちは、真のソリューションサービス化(サービスにて利益を出すこと)は難しいというのが結論だ。
では、どうすればいいのか。
著者は、「新しいコンセプトを持った船を用意する」ことでリセットをかける、ということを挙げているが、そう簡単にはいかない話だ。
これもいろいろな方法論(成功実績)が出てくると、それだけでコンサルテーマとなりそうなネタだ。

閉じた系「日本」

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「閉じた系」である日本は「成長」も奇跡的に早かった代わりに「老化」も急速に進んでいる
人材についても、これまでの日本の成功パターンを支えてきたのは大量かつ均質なレベルの高い「オペレーション型人材」であった。
「与えられた枠の中を最適化する」ことにかけて、日本は圧倒的な実力を持っていると言っても良い。
ところが「資産の負債化」が起こっている。
「枠内の最適化能力」という知的資産は「枠そのものを再定義する」というニーズに対しては、枠を破る発想ができないという点でむしろ負債に働くことが多いのだ。
人々に特徴がなくなって平均化し、尖った人が少なくなり、リーダーも「誰がやっても同じ」という雰囲気が蔓延し、複雑な規制にがんじがらめにされて、批判ばかりで有効な代案が少なく、何事にも「分かりやすさ」が求められる。
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日本は確かに海外の国に比べると「閉じた系」である。言語(日本語)の壁もそうだし、組織的にも良きにつけ悪しきにつけ「ムラ社会」がベースとなっている。
「成長」も早かったが、放っておくと「老化」も早いというのは非常に説得力がある。
成長は早く、老化を遅くするための手段を考える必要があるということだ。
やはり日本は「課題先進国」、と妙に納得。


思考停止

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「思考停止」とは何だろうか。
ここでは、「上位概念で考えられなくなること」と定義する。逆に言えば、「考える」という行為は「上位概念」を扱う思考であるということだ。
老化に拍車をかける要因の一つが「思考停止」である。
自分を客観的に見られなくなり、手段が目的化し、部分最適に陥り、表面事象だけに目を奪われる。思考停止すれば老化が進み、老化が進めばさらに思考停止するという悪循環に陥る。
逆に言えば、「考える」ことによって老化の速度を抑制することができる。社員の思考力を向上させ、考える組織にすることが、老化を遅らせながら世代交代をうまく行う上で必須である。
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加点主義と減点主義

・「多様な評価指標」+加点主義人材の多様化
・「多様な評価指標」+減点主義人材の凡庸化



この本の内容は色んな業界の人から「当社(うちの業界)のことですか?」と聞かれたそうだ。
まさにどの会社にもあるあるネタなのであろう。
会社の寿命は30年などとまことしやかに言われるが、会社(組織)も世代交代を行わないと、いずれ滅びるというのはその通りだろう。
頭を使って考え、対応することで老化現象を食い止めつつ、次の世代の主力となる事業を育てるためにはどうしたらいいのか。
大いなる実証実験。やってみたいものだ。

今年の抱負

昨年の抱負として挙げた文字は「拡」であった。
1年前にやっていた業務においては、”軸”はできたので、それを拡げるという趣旨であった。
ところが、4月の異動で新設部署で新業務を行うことになった。
異動先では新しい業務を、新しいメンバーとともに遂行するという非常にパワーを要する状況であった。
また、プライベートにおいても家族が色々と負荷のかかる状況であり、正直よくこなしていると思える環境、近年稀に見る修羅場であった。

今年になったからと言ってその状況は変わっていない。
どうせ公私共々困難な状況であるならば、原理原則に忠実に、迷わず、一歩一歩進んで行くという趣旨で
「貫」
というのを今年の抱負としたい。

貫けなかったら砕けるだけ。倒れるんなら前のめり(笑)
さて、どうなることやら
to be continued

2017年1月1日日曜日

『「いい質問」が人を動かす』

弁護士の谷原誠氏の著作。
「質問すること」の力を再認識させられる。

質問をされると、①思考し、②答えてしまう。
まるで強制されるように思考し、答えてしまう。
人を動かすには、命令してはいけない。質問をすることだ。
人をその気にさせるには質問をすること。
また、人を育てるには質問をすること。

「Why」の使い方

「Why」の使い方には注意が必要。
「なぜ?」と質問されると「なぜなら〜」と答えるように、答えに論理性を求めてしまい、相手が「苦痛」を感じる可能性がある。苦痛を感じてしまうと、相手の気分を害する場合がある。
「なぜ?」を使わないためには、「なぜ」を「何」や「どのように」に置き換えるとよい。
逆に、「なぜ」を繰り返していくと、論理的に考え、次第に問題の核心に迫っていくことができる。特にビジネスで部下に対して質問する場合や、自分で問題を突き詰めて考えるような場合に有効。

「仮にクエスチョン」

「仮に○○だったら、どうですか?」というように、仮定の話をして、相手のニーズを引き出そうとするテクニック。
仮定の話なので、自分の事情は一切話をする必要がない。自分側の事情は一切話さず、相手の情報だけを獲得できる魔法のテクニック。

人を育てる質問の注意ポイント

1 相手の意見を肯定する
2 相手の立場に立ち、どうすれば相手が望む結果が得られるかを考える
3 相手に答えを出させる

自己正当化に邪魔をされずに相手の行動を変えるにはコツがある。それは、相手の自尊心を傷つけないこと。
1 相手の過去の行動を正当化すること。
2 過去の行動の理由とは関係ない理由によって行動の変更を迫る質問をすること。
  (この時、一時的な変更ではなく、永続的な変更を求めることが重要)
3 相手が行動を変更したら、それを賞賛し、今後も継続するよう期待をかけること。

ソクラテスの議論

ソクラテスの議論は質問によって成り立っている。
ソクラテスは、相手に質問することにより、相手の言質を取り、その言質と矛盾するような結論に追い込んでいく質問を繰り出していく。
相手は質問に答えることにより、その答えと矛盾することを言えない立場に追い込まれてしまっているので、ソクラテスの質問術の術中にはまってしまう。
質問する方は、自分の立場を明らかにする必要がない。自分の立場を明らかにしなければ、その論理の矛盾を攻撃されることもなく、黙ってしまうこともない。ただ相手の論理の欠陥を見つけるべく質問をしていればよい。
つまり、質問をする者というのは、自分は安全な立場にいて、相手を攻撃する立場にある者のこと。だから、質問をし続けるソクラテスは議論に負けることがなかった。

そもそも流議論術

弁護士が得意とする論法に「そもそも流議論術」がある。
1 そもそも・・・(価値観)
2 ところで・・・(判断基準)
3 だとするならば・・・(結論)


質問の力が強力であるという認識があるが故に、自分に対しても、他人に対しても、クエスチョンはポジティブであるべきだというのが著者の主張。
あらゆるネガティブ・クエスチョンは、ポジティブ・クエスチョンに変換できるし、変換するべき。
なぜなら、質問には思考を強制するパワーがある。否定的な質問をすれば、相手は否定的に考え、肯定的な質問をすれば肯定的に考える。

人を育てる質問の流れなど、実生活でも活用できる内容が多い。
実践あるのみ。